田川炭鉱
表示
田川炭鉱 | |
---|---|
所在地 | |
所在地 | 西田川郡温海町(現:鶴岡市五十川字田川) |
都道府県 | 山形県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯38度39分39秒 東経139度37分46秒 / 北緯38.66076891972度 東経139.6293541948度座標: 北緯38度39分39秒 東経139度37分46秒 / 北緯38.66076891972度 東経139.6293541948度 |
生産 | |
産出物 | 石炭 |
歴史 | |
開山 | 1894年 |
閉山 | 1960年 |
所有者 | |
企業 | ラサ工業株式会社 ⇒田川炭鉱株式会社 |
取得時期 | 1937年(ラサ工業取得) |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
田川炭鉱(たがわたんこう)は、かつて山形県西田川郡温海町(現在の山形県鶴岡市五十川字田川)にあった炭鉱。ラサ工業が経営していた。
下記慰霊碑の前の「田川鉱山坑口跡入口」と案内のある小橋を渡り、林の中を100 mほど進んだところに、坑口跡(五十川坑)がある。周囲にも煉瓦造の遺構が若干ある。また、専用線で使用されたと思われるホッパーが山中に残っている。
歴史
[編集]- 1894年(明治27年) - 田川炭田として開鉱し、後に深山炭鉱となる。約1年程で閉鉱した。
- 1937年(昭和12年)12月 - ラサ工業が買収。
- ※最盛期には五十川駅の貨物輸送量が新潟管内第1位を記録した程であった。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 田川鉱業特設電話所設置[1]。
- 1939年(昭和14年)6月1日 - 田川鉱山郵便局開局[2]。
- 1944年(昭和19年) - 約6000人の工夫のうち567人が朝鮮人労働者。
- 1945年(昭和20年)
- 8月17日 - 終戦の混乱の中、無傷であった田川鉱業所は操業を再開。
- 12月16日 - 石炭不足対策のため、国鉄が職員挺身隊66名を派遣[3]。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 9月 - 月産2万2900トン(戦後最高)で、戦中からこの頃までで、県内石炭生産の62%を占めた。
- 10月30日 - 選炭工場失火により全焼。
- 12月 - コンプレッサー室が全焼。
- 1948年(昭和23年)11月23日 - 選炭所竣工式挙行[4]
- 1949年(昭和24年)2月10日 - 田川鉱業所、温海鉱業所を分離。
- 1950年(昭和25年)
- 3月14日 - 温海鉱業所を閉鎖。
- 12月 - 田川炭鉱(株)設立。(企業合理化のため田川鉱業所を分離)
- 1954年(昭和29年)7月30日 - 田川炭鉱(株)を(株)大阪造船所に譲渡
- 1960年(昭和35年)11月10日 - 閉山。離職者434名。
- 1982年(昭和57年) - 殉職者119名の霊を弔う慰霊碑が建立される。
脚注
[編集]- ^ “官報. 1938年06月02日”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年7月21日閲覧。
- ^ “官報. 1939年05月24日”. 国立国会図書館デジタルコレクション. 2020年7月21日閲覧。
- ^ a b c 『五十年史』内略年表 新潟鉄道管理局
- ^ 荘内自由新聞 昭和23年10月19日1面
外部リンク
[編集]