田名部館
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田名部館 (青森県) | |
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別名 | 田名部代官所 |
城郭構造 | 平城(居館) |
築城主 | 南部師行? |
築城年 | 建武年間(1334年-1338年)? |
主な城主 | 南部氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年)頃 |
遺構 | 空堀 |
指定文化財 | 史跡等未指定[1][2] |
埋蔵文化財 包蔵地番号 |
青森県No.208056 (田名部館遺跡)[1] |
位置 | 北緯41度17分45.6秒 東経141度12分35.6秒 / 北緯41.296000度 東経141.209889度座標: 北緯41度17分45.6秒 東経141度12分35.6秒 / 北緯41.296000度 東経141.209889度 |
地図 |
田名部館(たなぶだて)は、青森県むつ市小川町にあった日本の城[1]。中世から近世の平山城で、二重の空堀が遺構として残っている。館跡は代官山公園として整備されている[3]。
沿革
[編集]建武年間(1334年-1338年)の頃、八戸根城の南部師行が家臣の武田修理、赤目五郎を目代として置いたところといわれる。
康正年間(1455年-1457年)、蠣崎城主・蠣崎信純(蠣崎蔵人)が南部氏に背いた際、糠部郡宇曾利郷(下北半島)が蠣崎氏の配下になったため、田名部館も南部氏の攻撃を受けた(蠣崎蔵人の乱)。
乱後に根城(八戸)南部氏家臣・新田盛政が城代となり、その後、八戸氏の属城となる。また慶長年間(1596-1615年)に八戸直政の室、清心尼が田名部北方の女館にいたが、元和3年(1617年)に南部利直が根城南部氏から下北の支配権を接収した。
寛文9年(1672年)のころ、館下の常念寺を代官所としていたが、寛文13年(1673年)頃に、館のある場所に田名部代官所が移されて明治に至る。
戊辰の役後、明治元年(1868年)、南部藩の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北は削封され、翌2年(1869年)、陸奧国3万石として会津藩が移封し斗南藩として田名部に移ったが、明治4年(1871年)に廃藩となった。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『岩手県史 第12巻 年表』岩手県、1966年11月1日。
- むつ市史編さん委員会『むつ市史 近世編』青森県むつ市、1988年3月31日。
- むつ市史編さん委員会『むつ市史 年表編』青森県むつ市、1988年2月20日。
- 工藤睦男『大畑町史』青森県下北郡大畑町(現むつ市)、1992年2月1日。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4040010205。
関連項目
[編集]外部リンク
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