コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田丸稲之衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田丸 稲之衛門
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文化2年(1805年
死没 慶應元年2月4日1865年3月1日
改名 幼名:丑次郎、安之允、:直允
別名 仮名:稲之衛門
墓所 常磐共有墓地
官位従四位
幕府 江戸幕府
水戸藩
氏族 田丸氏
父母 父:山国共綿、母:田丸直諒の娘
養父:田丸直諒
兄弟 山国喜八郎共昌稲之衛門
テンプレートを表示

田丸 稲之衛門(たまる いなのえもん)は、幕末期の水戸藩士・志士

水戸天狗党の乱において天狗党の首領として各地を転戦。越前国敦賀にて処刑された。

生涯

[編集]

実父は山国共綿、母は田丸直諒の娘。外祖父である田丸直諒の養子となった。田丸稲之衛門は天保6年(1835年)、水戸藩馬廻組となり、同10年(1839年)、藩領検地のため、縄奉行となる。これを機に藩政改革の勢力と懇意となった。同11年(1840年)、進物番、翌12年(1841年)に大番組となり、13年(1842年)には田丸家の家督を相続し、200石となる。弘化2年(1845年)、使番を兼務し、嘉永2年(1849年)11月に書院番組頭となり、安政6年(1859年)に水戸藩目付となる。安政7年(1860年)1月、使番に転じた。順調に出世海道を歩むも、兄・山国共昌の影響もあり、尊皇攘夷派に組するようになっていった。

文久3年(1863年)には町奉行となったが、尊皇攘夷派の重鎮として信頼を集めるようになり、尊皇攘夷派が筑波山に挙兵すると、尊王派の将の一人として招かれた。これに、水戸藩親幕府勢力である諸生党が討伐の兵を挙げると、天狗党の乱が勃発し、稲之衛門ら天狗党はこれに応戦した。戦況は藩内全域に及んだが、幕府軍が尊皇攘夷派を賊軍とみなし、水戸藩諸生党と連合して天狗党鎮圧に乗り出すと、天狗党の主力部隊は降参した。

しかし、武田耕雲斎や田丸稲之衛門らの一隊はその後も尊皇の志を達すべく、京都への上洛を目指して転戦していった。下野国、陸奥国へと移動し、幕府から天狗党討伐を命ぜられた各藩と戦火を交えることとなった。しかし、天狗党の武力に真っ向から挑むだけの兵力がない藩も多く、領内の移動を黙認されたり、金銭により藩地の通交を遠慮するなどのこともあったため、天狗党は比較的容易に異動することができた。しかし、上野国から美濃国にかけて、高崎藩諏訪藩松本藩大垣藩譜代大名の兵力と戦火を交え、やがて天狗党は北上し、北陸道から京都に向かうこととなった。やがて越前国に至ると、大遠征の中で天狗党も疲弊し、かつ越前藩加賀藩らの大藩に対するだけの武力もなくなっていたこと、加賀藩が天狗党に同情的であったこともあり、武田、稲之衛門ら一党は加賀藩に降伏することとなった。慶應元年(1865年)2月4日、幕命により稲之衛門は賊将として敦賀の地で斬刑となる。享年61。

しかし、その後、薩長を中心に明治維新が起きると、尊皇派であった田丸の功績が認められ、明治24年(1891年)に従四位贈位された[1][2]。また靖国神社に合祀される。

家族

[編集]

登場作品

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社1986年)335頁参照。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
  3. ^ a b 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)336頁参照。

参照文献

[編集]
  • 明田鉄男編『幕末維新全殉難者名鑑1』(新人物往来社、1986年)ISBN 4404013353