田中敬孝
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名前 | ||||||
カタカナ | タナカ ヨシタカ | |||||
ラテン文字 | TANAKA Yoshitaka | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1899年??月??日 | |||||
出身地 | 広島県広島市 | |||||
没年月日 | 1985年3月6日 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
田中 敬孝(たなか よしたか、1899年(明治32年)[1] - 1985年(昭和60年)3月6日)は、日本のサッカー指導者。広島県広島市翠町(現・南区翠町)出身[2]。 息子は東洋工業や日本代表でもプレーした田中雍和。
戦前における「サッカー王国広島」の歴史を拓いた人物である[3]。
来歴・人物
[編集]旧制広島中学[注 1](現広島県立広島国泰寺高等学校)在学中の1914年(大正3年)同校に初めて蹴球部(サッカー部)が出来て入部[4]。それまでは同好会的なものだった[2][5]。田中はレフトウイングで、後に日本サッカー協会会長となる野津謙もサッカー部の同期でフルバック、広島カープの設立で知られる谷川昇も同期でハーフセンターだった[2]。サッカー部の一年上が関西学院大学体育会サッカー部創設者・平田一三[6][7][8][9] と山口高等学校 (再興山高)サッカー部創設者・武田邦次郎[6][9]。慶應義塾体育会ソッカー部創設者・深山静夫は1年下となる[10][11]。
1916年(大正5年)卒業後[2]広島高等師範学校(現広島大学)に進学。サッカー部の主将を務めた。
1919年(大正8年)1月26日、第一次世界大戦後似島検疫所内に収容されたドイツ人捕虜との交流の一環として、母校広島高師グラウンドでサッカーの試合が行われた[注 2][注 3]。この試合は旧制中学数校で結成された合同チーム、広島県師、広島高師、の3チームが捕虜チームとそれぞれ対戦し、高師0-5、県師0-6とそれぞれ捕虜チームに大敗した(合同チームも負けたがスコア不明)。高師の主将だった田中もこの試合に出場、ドイツ人の技術の高さに驚き、ボールに触れなかった、ヒールキック、サイドキックを初めて見たと後に回想している[3]。田中は試合後、陸軍の許可を受けドイツ人捕虜からサッカーを教わるため、毎週日曜日には小船に乗って似島[注 4]に渡り捕虜収容所に足繁く通い、捕虜チームキャプテンのカール・F・グラーザー(Karl F Glaser)達からサッカーを教わった[8][14]。 また、日本にバウムクーヘンを伝来させ、老舗洋菓子店「ユーハイム」を創業したカール・ユーハイムは、このドイツ人捕虜チームの一員であった。[15]
1920年(大正9年)卒業後、母校広島中学の英語教師に赴任し、サッカー部を指導[16]。同年、広島中学は神戸高商主催の関西中等大会に出場[注 5][14]、3年連続で決勝に進出し1921年(大正10年)には全国中等学校蹴球選手権大会(現在の全国高校サッカー選手権)を四連覇中だった御影師範を決勝で下したばかりか、野津の手引きで実現した[21] 日本サッカー史上初めての選抜チーム・サッカー日本代表(全関東蹴球団)にも練習試合で勝利した[8][9][22]。神戸高商主催大会では1922年(大正11年)にも御影師範や神戸一中などを下して優勝[9][22]。 後に、広島中学/広島一中のOBチームである鯉城蹴球団は、草創期のア式蹴球全国優勝大会(現在の天皇杯)を1924年(大正13年)第4回、1925年第5回大会と連覇するが、主力は香川幸ら田中の教え子であった。 ドイツ人からサッカーを教わった田中の指導は評判となって指導依頼が届き、広島市内の学校だけではなく、先の神戸一中や姫路師範や御影師範、八幡商業など関西の学校にも指導して周り最新の技術を伝授した[3]。これらは関西のサッカーレベル向上に貢献し、また西日本一円にも影響を及ぼした[3][8][22][23]。
ただ在籍2年で教職を退き、京都帝国大学(京都大学)経済学部に進学している[16]。以降の来歴は不明[16]。
晩年は広島貿易取締役会長などを務めた[3][16]。また1977年『広島一中国泰寺高百年史』編集時には編集委員長を務めるなど、国泰寺高校同窓会発展に貢献した[16]。
1985年3月6日没[16]。
注釈
[編集]- ^ 広島中学が校名を広島一中と改称するのは1922年(大正11年)。
- ^ これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われている[12]。
- ^ 捕虜チームの出場選手の一人であるフーゴー・クライバー(Hugo Klaiber)は、ドイツに帰国後ヴァンバイルでサッカークラブ「SV ヴァンバイル」を創設した。このクラブは後にギド・ブッフバルトを輩出し、現在も存続している[8][12]。
- ^ 広島湾に浮かぶ小島・似島は、Jリーグ創設に尽力した森健兒、元日本代表選手および監督・森孝慈の他、多くのサッカー選手を輩出している[13]。
- ^ 草創期の全国中等学校蹴球選手権大会(現在の全国高校サッカー選手権)は、関西地区のみの大会で広島一中は参加を拒否されていたため、神戸高商主催の大会に出場せざるを得なかったのだが[17][18]、神戸一中の選手たちは、近畿のチームだけの日本フットボール優勝大会より、広島一中や広島高師附属中学の広島勢が来る神戸高商主催の大会で勝つ方が値打ちがあると言っていたという[19][20]。
出典
[編集]- ^ 1979年9月に出版された『広島スポーツ100年』49頁に80歳と書かれているため推定。
- ^ a b c d 『広島スポーツ100年』49頁
- ^ a b c d e 「新風土記(474) 少年の島 広島県」朝日新聞1975年6月25日3面、「少年の島 =広島県」『新 風土記 五』朝日新聞社、1975年、164頁
- ^ 『広島サッカー85年史』23頁の記述ではサッカー部の創部は1912年。
- ^ 『広島一中国泰寺高百年史』より: 蹴球本日誌
1914年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ - ^ a b あゆみ 1974, p. 50.
- ^ 有島弘記 (2018年11月23日). “殿堂入り4人 関学大サッカー部100年の誇り”. 神戸新聞NEXT (神戸新聞社). オリジナルの2019年2月4日時点におけるアーカイブ。 2019年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』22-25頁
- ^ a b c d 『広島一中国泰寺高百年史』158、159、221-223頁、290、291頁
『兵庫サッカーの歩み-兵庫県サッカー協会70年史』、兵庫県サッカー協会70年史編集委員会、兵庫県サッカー協会、1997年、111、112頁
サッカー オンラインマガジン 2002world..com 日本サッカーの歴史
ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー: 蹴球本日誌 - ^ 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』39頁
- ^ 慶応義塾体育会(編) 編『風呼んで翔ける荒鷲よ 慶応義塾体育会ソッカー部50年』三田ソッカー倶楽部、1978年、19、21-25、161、283頁頁。歴史館 - 慶應義塾体育会ソッカー部、歴史館2≪主将、浜田諭吉氏 - 慶應義塾体育会ソッカー部、賀川サッカーライブラリー
- ^ a b 『青島から来た兵士たち』瀬戸武彦著、12、103、108-111、126、127頁
- ^ 似島
- ^ a b 『広島スポーツ100年』60頁
- ^ “ユーハイムとサッカー | 日本サッカーアーカイブ”. 日本サッカーアーカイブ. 2021年11月17日閲覧。
- ^ a b c d e f “大正05年卒の人物”. 鯉城同窓会. 2021年7月29日閲覧。
- ^ 『広島一中国泰寺高百年史』より(2): 蹴球本日誌
- ^ 『広島一中国泰寺高百年史』339頁
- ^ 『週刊サッカーマガジン』2010年10月19日号、67頁
- ^ 『週刊サッカーマガジン』2010年12月7日号、63頁
- ^ 『広島一中国泰寺高百年史』296頁
- ^ a b c 『広島スポーツ史』307-309頁
- ^ 1920年の日本サッカー:日本サッカーアーカイブ
参考資料
[編集]- 日本蹴球協会(編) 編『日本サッカーのあゆみ』講談社、1974年。
- 『広島スポーツ100年〜広島県のスポーツ史』金枡晴海著 中国新聞社 1979年
- 『広島スポーツ史』河野徳男著 財団法人広島県体育協会 1984年
- 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』広島サッカー85年史編纂委員会 財団法人 広島県サッカー協会、2010年
- 『創立九十周年記念誌』「創立九十周年記念誌」編集委員会、広島県広島国泰寺高等学校、1967年
- 『広島一中国泰寺高百年史』広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会、1977年
- 『青島から来た兵士たち』瀬戸武彦著 同学社 2006年
- 在日ドイツ兵捕虜のサッカー交流とその教育遺産 (PDF) 岸本肇 東京未来大学 2009年
- 日本サッカーアーカイブ : 日本サッカー史 賀川浩
- 蹴球本日誌
- 織田幹雄年表 早稲田大学
- 毎日新聞夕刊、2006年1月20日4面 mail226-230 - ウェイバックマシン(2014年4月15日アーカイブ分)
- チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会 - ウェイバックマシン(2005年3月9日アーカイブ分)