生方敏郎
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生方 敏郎(うぶかた としろう、1882年8月24日 - 1969年8月6日)は、日本の随筆家、文学者。
概要
[編集]群馬県沼田生まれ。明治学院を経て早稲田大学英文科卒[1]。在学中からトルストイに傾倒、「東京朝日新聞」記者となり、随筆、評論、小説を書き、大杉栄と交わりがあった。1935年より個人雑誌『古人今人』を10年以上に渡り刊行、軍部への風刺から二度発禁処分を受けた[2]。墓所は多磨霊園。
家族
[編集]父親は生方幸助。母親のかく(地元上之町で薬舗を営む商家・生方弥右衛門[3]の後妻として嫁ぎ、弥右衛門没後幸助を婿にした)は星野光多の妹で、敏郎は光多に世話になったことから、息子に光多と名付けた[4]。歌人・生方たつゑは、甥の妻にあたる[5]。生方家は地元の旧家で、1886年に設立された小学生のための英語学校「沼田英吉利学校」の発起にも協力した[6][7]。
著書
[編集]- 『竜神丸 海上奇談』菅谷与吉 1912
- 『綱島梁川の病間録』名著評論社 1915 (名著梗概及評論)
- 『敏郎集』植竹書院 1915
- 『夏目漱石氏の我輩は猫である』名著評論社 1915 (名著梗概及評論)
- 『人のアラ世間のアラ』米山堂 1917
- 『敏郎対話一円札と猫』日本書院 1918
- 『諷刺・玉手箱を開くまで』日本書院 1919
- 『洋服細民の悲しい笑ひ』日新閣 1920
- 『金持の犬と貧乏人の猫』日本書院 1920
- 『三都見物』日本書院 1921
- 『虐げられた笑』実業之日本社 1922
- 『女性は支配する』日本書院出版部 1923
- 『謎の人生』教文社 1924
- 『福太郎と幸兵衛の対話』春秋社(早稲田文学パンフレツト) 1924
- 『金ゆゑに』共楽社 1925
- 『山椒の粒』実業之日本社 1925
- 『哄笑・微笑・苦笑』大日本雄弁会 1926
- 『明治大正見聞史』春秋社 1926 のち中公文庫
- 『君と僕』大日本雄弁会 1927
- 『東京初上り 生方敏郎集』現代ユウモア全集刊行会 1928
- 『食後談笑』万里閣書房 1928
- 『吸血記』万里閣書房 (悪の華文庫) 1930
- 『人生を裏から覗けば』さんもん書房 1935
- 『ユーモア人生学』さんもん書房 1936
- 『不景気を笑ふ話』森田書房 1936
- 『源氏と平家 治承四年六月より寿永三年正月まで』古人今人社 1939
- 『源平太平記 読切日本外史』文松堂 1942
翻訳
[編集]参考
[編集]- 新潮日本人名辞典
注
[編集]- ^ 『現代文芸読本 : 教授資料. 巻2』国語教育研究会 編 (永沢金港堂, 1926)
- ^ 第9回上之町誌編纂会議上之町誌編纂委員会、2010年8月25日
- ^ 『群馬県営業便覧 : 附・繁昌記』(全国営業便覧発行所, 1904)
- ^ 星野達雄『星野光多と群馬のキリスト教』星野光多と群馬のキリスト教刊行会, 1987.7
- ^ 生方たつゑ『心の花ごよみ』143p
- ^ 『群馬県教育史』群馬県教育史研究編さん委員会, 群馬県教育センター
- ^ 第27回上之町誌編纂会議上之町誌編纂委員会、平成23年8月30日