甘露寺忠長 (1909年生)
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甘露寺 忠長(かんろじ ただなが、1909年〈明治42年〉4月29日[1] - 1937年〈昭和12年〉3月24日[1])は、明治時代から昭和時代にかけての華族[2]。伯爵甘露寺受長の嗣子[2]。位階は従五位[2]。
生涯
[編集]1909年(明治42年)4月29日、甘露寺受長の長男として誕生する[1]。母は北白川宮能久親王第一王女の満子女王[1]。姉に績子、壽子がいる[1]。
1929年(昭和4年)5月15日、20歳で従五位に叙爵された[3]。
1930年(昭和5年)3月28日、旧制学習院高等科文科丙類を卒業した[4]。同年4月3日、京都帝国大学経済学部に入学した[5]。
1933年(昭和8年)3月30日、学士試験に合格したことにより京都帝国大学を卒業した[6]。
1937年(昭和12年)3月24日、卒去した[1][2]。これに伴い、弟の親房が嗣子となった。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 霞会館 1996, p. 477.
- ^ a b c d 『官報』第3070号 1937, 「彙報:華族卒去」.
- ^ 『官報』第837号 1929, 「叙任及辞令」.
- ^ 『官報』第983号 1930, 「彙報:卒業証書授与」.
- ^ 『官報』第1008号 1930, 「彙報:新入学生宣誓式」.
- ^ 『官報』第1886号 1933, 「彙報:学士試験合格者」.
参考文献
[編集]- 『平成新修旧華族家系大成:上巻』霞会館編、吉川弘文館、1996年。