王緒高
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王緒高 | |
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プロフィール | |
出生: | 1890年(清光緒16年)[1][2] |
死去: |
1951年 中華人民共和国 |
出身地: | 清山東省登州府蓬莱県 |
職業: | 官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王緒高 |
簡体字: | 王绪高 |
拼音: | Wáng Xùgao |
ラテン字: | Wang Hsü-kao |
和名表記: | おう しょこう |
発音転記: | ワン シューガオ |
王 緒高(おう しょこう、1890年 - 1951年)は、中華民国の官僚・政治家。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会において各職を歴任した。
事績
[編集]1912年(宣統3年)、北洋高等警務学堂(学校)を卒業し、直隷省の武清県や豊潤県で知事を歴任している。国民政府の北伐後は、河北省政府公署で科長や秘書を務めた[1][2]。
中華民国臨時政府が成立すると、天津特別市で各職を歴任[1]。南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に改組された後の1940年(民国29年)5月14日、河北省政府公署に転じて津海道道尹代理に就任した[3](7月に正式就任と見られる)[1][2]。1943年(民国32年)2月26日、河北省政府公署で民政庁庁長代理に就任したが、3月18日には天津特別市長代理も兼任する。この異例の状況は半年以上続くも、同年10月15日、王は両職から退いた[1][4]。
日本敗北後、王緒高は蔣介石の国民政府に漢奸として逮捕され、1946年(民国35年)7月15日、河北高等法院で懲役8年の判決を受けている[5][6]。中華人民共和国建国後の1951年に処刑された。享年62[1][7]。
注
[編集]- ^ a b c d e f 徐主編(2007)、170頁。
- ^ a b c 満蒙資料協会(1942)、505頁。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第276号、民国29年5月14日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会32頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1128頁・1141頁。
- ^ 益井(1977)、184頁。
- ^ 張(2012)、417頁。
- ^ 王緒高の処刑理由は不明。同年5月、漢奸の大量処刑が実施され、『人民日報』1951年5月23日に名簿が掲載されたが、その中に王の名前は見当たらない。7月には徐良と温世珍が天津市で処刑されたが、こちらでも王の名前は報道(『人民日報』1951年7月12日)に無い。
参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 『中国紳士録 第二版』満蒙資料協会、1942年。
- 張同楽『華北淪陥区日偽政権研究』三聯書店、2012年。ISBN 978-7-108-03802-9。
- 益井康一『漢奸裁判史 1946-1948』みすず書房、1977年。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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