独孤修徳
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独孤 修徳(どっこ しゅうとく、生没年不詳)は、中国隋末唐初の人物。曾祖父は独孤信。祖父は独孤蔵。父は独孤機。『旧唐書』では独孤修と記される。
生涯
[編集]王世充が隋の恭帝侗を廃して鄭の皇帝を称すると、独孤機は、密かに唐に降伏しようとしたが、これが王世充に露見すると、王世充に殺害された[1]。
武徳4年(621年)、秦王李世民が鄭を滅ぼすと、王世充は、投降して長安に押送され、蜀への流罪とされた。王世充は、雍州光徳坊の廨舎[2](役所の建物)に所在していたところ、独孤修徳は、兄弟と密かに謀り、廨舎に赴き、詔書が発せられたと偽って王世充を呼び出した。王世充が兄の王世惲とともに出て来たところを、父の敵討ちであるとして独孤修徳らが殺害した。唐の高祖李淵は、詔書を発し、独孤修徳の官位を罷免した。王世充のその他の兄弟やその子らは、謀反のかどで誅殺された[3][4][5]。
独孤修徳の官位は同州刺史に至り、滕国公に封ぜられた。
脚注
[編集]- ^ 『新唐書』巻85列伝第十「王世充伝」:初,修德父機嘗仕越王侗,世充既簒,謀歸唐,為所屠者也。
- ^ “廨舎”. コトバンク. 2022年6月21日閲覧。
- ^ 『旧唐書』巻54列伝第四「王世充伝」:秦王以世充至長安,高祖數其罪,世充對曰:「計臣之罪,誠不容誅,但陛下愛子秦王許臣不死。」高祖乃釋之。與兄芮、妻、子同徙於蜀,將行,為仇人定州刺史獨孤修德所殺。子玄應及兄世偉等在路謀叛,伏誅。世充自簒位,凡三年而滅。
- ^ 『新唐書』巻85列伝第十「王世充伝」:五月,王擒建德,並獲王琬、長孫安世,俘示東都城下,且遣安世入言敗狀。世充惶惑,將突圍出保襄、漢,謀於諸將,皆不答,遂率將吏降軍門。王受之,以屬吏,陳兵入城,發府庫賚將士。其黄門侍郎薛德音以移檄嫚逆,崔弘丹造弩多傷士,前誅之;又收段達、楊汪、孟孝義、單雄信、楊公卿、郭士衡、郭什柱、董浚、張童仁、朱粲、王德仁等斬洛渚上。以世充歸長安,高祖數其罪,世充曰:「計臣罪不容誅,但秦王許臣以不死。」乃赦為庶人,與其族徙於蜀。將行,為羽林將軍獨孤修德所殺。……子玄應,兄世偉,在道謀反,伏誅。世充簒,凡三年滅。
- ^ 『資治通鑑』巻189「唐紀五」:上見王世充而數之,世充曰:「臣罪固當誅,然秦王許臣不死。」丙寅,詔赦世充為庶人,與兄弟子侄徙處蜀;斬竇建德於市。 ……王世充以防夫未備,置雍州廨舎。獨孤機之子定州刺史修德帥兄弟至其所,矯稱敕呼鄭王;世充與兄世惲趨出,修德等殺之。詔免修德官。其餘兄弟子侄等,於道亦以謀反誅。