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「風雲 (駆逐艦)」の版間の差分

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{{Infobox 艦艇
{{Infobox 艦艇
| 名称 = 風雲
|名称 = 風雲
| 画像 = [[File:Japanese destroyer Kazagumo on 28 March 1942.jpg|300px|]]
|画像 = Japanese destroyer Kazagumo on 28 March 1942.jpg
| 画像説明 = 風雲, 1942年3月28日の竣工時
|画像幅=300
|画像説明 = 1942年3月28日の竣工時
| 建造所 = [[浦賀船渠]]
|建造所 = [[浦賀船渠]]
| 運用者 = {{navy|大日本帝国}}
|運用者 = {{IJNAVY}}
| 艦種 = [[駆逐艦]]
|艦種 = 一等[[駆逐艦]]
| 級名 = [[夕雲型駆逐艦]]
|級名 = [[夕雲型駆逐艦]]
| 発注 = [[1939年]]度([[④計画]])
|発注 = 1939年度([[④計画]])
| 起工 = [[1940年]]12月23日
|起工 = 1940年12月23日
| 進水 = [[1941年]]9月26日
|進水 = 1941年9月26日
| 竣工 = [[1942年]]3月28日
|竣工 = 1942年3月28日
| 就役 =
|就役 =
| 最後 = [[1944年]]6月8日戦没
|最後 = 1944年6月8日、[[ダバオ]]南南東沖の[[フィリピン海]]にて戦没
| 除籍 = 1944年7月10日
|除籍 = 1944年7月10日
| 基準排水量 = 2,077 t
|基準排水量 = 2,077 トン
| 公試排水量 = 2,520 t
|公試排水量 = 2,520 トン
| 全長 = 119.3 m
|全長 = 119.3 [[メートル|m]]
| 最大幅 = 10.8 m
|最大幅 = 10.8 m
| 吃水 = 3.76 m
|吃水 = 3.76 m
| 主缶 = [[ロ号艦本式缶]]3
|主缶 = [[ロ号艦本式缶]]×3
| 主機 = [[艦本式タービン]]22軸
|主機 = [[艦本式タービン]]×2
| 出力 = 52,000hp
|出力 = 52,000 [[馬力]]
|推進器=[[スクリュープロペラ]]×2軸
| 最大速力 = 35.0kt
|最大速力 = 35.0 [[ノット]]
| 燃料 = 重油:600トン
|燃料 = 重油:600 [[トン|t]]
| 航続距離 = 18ktで5,000浬
|航続距離 = 5,000 [[海里]]/18ノット
| 乗員 = 225名
|乗員 = 225名
| 兵装 = '''新造時'''<br />50口径12.7cm連装砲 3基6門<br />25mm機銃 II×2<br />61cm4連装[[魚雷発射管]] 2基8門<br />(九三式魚雷16本)<br />爆雷×18乃至36
|兵装 = {{ubl|'''新造時'''|[[五十口径三年式十二糎七砲|50口径三年式12.7センチ連装砲]]×3基
|[[九六式二十五粍機銃|九六式25mm連装機銃]]×2基
|61センチ九二式4連装[[魚雷発射管]]×2基(九三式[[魚雷]]×16本)
|九四式爆雷投射機×1基(九五式[[爆雷]]×18乃至36)}}
|レーダー=[[仮称二号電波探信儀二型|22号電探]]
|ソナー=[[九三式水中聴音機]]<br />[[九三式水中探信儀|九三式三型探信儀]]
| その他 =
| その他 =
| 備考 =
| 備考 =
}}
}}
'''風雲'''(かざぐも)は<ref name="S16達277号">[[#達昭和16年9月]] p.7〔 達第二百七十七號 昭和十五年度及昭和十六年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦二隻、駆潜艇及掃海特務艇二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十六年九月十日 海軍大臣 及川古志郎|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 一等驅逐艦 風雲(カザグモ)|三菱重工業株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第四十五潜水艦(以下略) 〕</ref>、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。
'''風雲'''(かざぐも)は<ref name="S16達277号">[[#達昭和16年9月]] p.7</ref>、[[大日本帝国海軍]]の[[駆逐艦]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。


== 概要 ==
== 概要 ==
'''風雲'''(かざぐも)は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[浦賀船渠]]で建造し、[[太平洋戦争]]で運用した[[駆逐艦]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。[[夕雲型駆逐艦]](一等駆逐艦)の3番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和17年12月31日)]] p.4|夕雲型|夕雲、巻雲、風雲、長波、巻波、<del>高波</del>、大波、清波、玉波、早波、濱波|</ref>。
[[大日本帝国海軍|日本海軍]]が[[浦賀船渠]]で建造し、[[太平洋戦争]]で運用した[[駆逐艦]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。[[夕雲型駆逐艦]](一等駆逐艦)の3番艦である<ref>[[#艦艇類別等級表(昭和17年12月31日)]] p.4</ref>。
[[1940年]](昭和15年)12月末に起工、[[1942年]](昭和17年)3月28日に竣工し、'''第10駆逐隊'''に所属した<ref name="S17内令524">[[#内令昭和17年3月(4)]]、p.42〔 内令第五百二十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月二十八日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「巻雲」ノ下ニ「、風雲」ヲ加フ| 〕</ref><ref name="S17公報限4079">{{アジア歴史資料センター|C12070411900|昭和17年5月1日(金)海軍公報(部内限)第4079号 p.2}}『○司令驅逐艦指定 十驅逐隊ハ四十三日司驅逐艦ヲ風雲ニ指定セリ』</ref>。
[[1940年]](昭和15年)12月末に起工、[[1942年]](昭和17年)3月28日に竣工し、'''第10駆逐隊'''に所属した<ref name="S17内令524">[[#内令昭和17年3月(4)]]、p.42</ref><ref name="S17公報限4079">{{アジア歴史資料センター|C12070411900|昭和17年5月1日(金)海軍公報(部内限)第4079号 p.2}}</ref>。甲型駆逐艦4隻([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]、風雲)を揃えた10駆逐隊は<ref name="S17内445">[[#内令昭和17年3(2)]]、pp.20-21</ref><ref name="S17内650">[[#内令昭和17年4月(4)]]、p.3</ref>、第十戦隊に所属して6月上旬の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]に従事する{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=141-145|ps=主要幹部}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。[[第一航空艦隊|南雲機動部隊]]壊滅時、「風雲」は僚艦と共に空母「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」の救援と救助をおこなった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=379-382|ps=「飛龍」}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=329-331|ps=山本長官の誤算(吉田艦長証言)}}
甲型駆逐艦4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)を揃えた第10駆逐隊は<ref name="S17内令445">[[#内令昭和17年3月(2)]]、pp.20-21〔 内令第四百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年三月十四日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |第十驅逐隊|夕雲、巻雲| 〕</ref><ref name="S17内令650">[[#内令昭和17年4月(4)]]、p.3〔 内令第六百五十號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年四月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「夕雲」ノ上ニ「秋雲、」ヲ加フ 〕</ref>、第十戦隊に所属して6月上旬の[[ミッドウェー海戦|ミッドウェー作戦]]に従事する{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=141-145|ps=主要幹部}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。南雲機動部隊壊滅時、風雲は僚艦と共に空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]の救援と救助をおこなった{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=379-382|ps=「飛龍」}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=329-331|ps=山本長官の誤算(吉田艦長証言)}}。


[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]新編後、第10駆逐隊は引続き第十戦隊に所属して[[第二次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]に参加した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。[[第三次ソロモン海戦]]では、第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将の指揮下で重巡洋艦[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]と[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]を護衛し、[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]砲撃作戦に従事した。その後、第10駆逐隊はソロモン諸島や[[パプアニューギニア|東部ニューギニア]]での輸送作戦に従事した([[鼠輸送]])。
[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]]新編後、第10駆逐隊は引続き第十戦隊に所属して[[第二次ソロモン海戦]]や[[南太平洋海戦]]に参加した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}。[[第三次ソロモン海戦]]では、第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将の指揮下で重巡洋艦[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]][[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]を護衛し、[[ガダルカナル島]][[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]砲撃作戦に従事した。その後、ソロモン諸島や[[パプアニューギニア|東部ニューギニア]]での輸送作戦に従事した([[鼠輸送]])。


[[1943年]](昭和18年)2月初頭、第10駆逐隊は[[ケ号作戦|ガ島撤退作戦]]に参加する{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}。同作戦で姉妹艦[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]が沈没した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93b|ps=巻雲(まきぐも)}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}。
[[1943年]](昭和18年)2月初頭、第10駆逐隊は[[ガダルカナル島撤収作戦|ガ島撤退作戦]]に参加する{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}。
7月、第10駆逐隊は[[アリューシャン諸島|アリューシャン方面]]に派遣され、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将の指揮下で[[キスカ島撤退作戦]]に従事する。つづいて南方方面の戦局悪化([[ニュージョージア島の戦い]])にともない、ソロモン諸島に進出した。10月上旬には第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦「秋雲」)の指揮下で[[第二次ベララベラ海戦]]に参加した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}、第10駆逐隊は姉妹艦[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]を失った{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93c|ps=夕雲(ゆうぐも)}}。
7月、[[アリューシャン諸島|アリューシャン方面]]に派遣され、第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将の指揮下で[[キスカ島撤退作戦]]に従事する。つづいて南方方面の戦局悪化([[ニュージョージア島の戦い]])にともない、ソロモン諸島に進出した。10月上旬には第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦「秋雲」)の指揮下で[[第二次ベララベラ海戦]]に参加した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}。


日本海軍は10月31日附で朝潮型駆逐艦[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]を第10駆逐隊に編入し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91|ps=朝雲(あさぐも)}}、駆逐艦3隻編制(秋雲、風雲、朝雲)となった<ref name="S18内令345">[[#内令昭和18年3月(1)]] 、p.10〔 内令第三百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年三月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「巻雲、」ヲ削ル|第三十四驅逐隊ノ項中「羽風、」ヲ削ル 〕</ref><ref name="S18内令2556">[[#内令昭和18年12月(1)]]、p.2〔 内令第二千五百五十六號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十八年十二月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第十驅逐隊ノ項中「夕雲、」ヲ削ル 〕</ref><ref name="S18内令2245">[[#内令昭和18年10月(5)]]、p.38〔 内令第二千二百四十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第九驅逐隊ノ項中ヲ削十驅逐ノ項中「風雲」ノ下ニ「朝雲」ヲフ|第二十四驅逐隊ノ項中「涼風」ノ下ニ「満潮」ヲ加フ|六十一驅逐隊ノ項中「若月」ノ下ニ「、秋月」ヲ加フ 〕</ref>
日本海軍は10月31日附で駆逐艦[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]を第10駆逐隊に編入し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=91|ps=朝雲(あさぐも)}}、駆逐艦3隻編制(秋雲、風雲、朝雲)となった<ref name="S18内令345">[[#内令昭和18年3月(1)]] 、p.10</ref><ref name="S18内令2556">[[#内令昭和18年12月(1)]]、p.2</ref><ref name="S18内令2245">[[#内令昭和18年10月(5)]]、p.38</ref>。雲」は[[ろ号作戦]]にともない[[ラバウ]]に進出{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=424-425|ps=一航空戦の飛行機隊のラバウル進出}}[[ブーゲンビル島の戦い|タロキナ逆上陸作戦]]や[[ラバウル空襲|ラバウル対空戦闘]]に参した。その後、第10駆逐隊は艦隊の護衛任務に従事した
風雲は[[ろ号作戦]]にともない[[ラバウル]]に進出{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=424-425|ps=第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出}}、[[ブーゲンビル島の戦い|タロキナ逆上陸作戦]]や[[ラバウル空襲|ラバウル対空戦闘]]に参加した。その後、第10駆逐隊は艦隊の護衛任務に従事した。


[[1944年]](昭和19年)4月11日、秋雲が米潜水艦の雷撃で撃沈され{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93d|ps=秋雲(あきぐも)}}、10駆は風雲と朝雲に減少する<ref name="S19内令743">[[#内令昭和19年6月(2)]]、p.12〔 内令第七百四十三號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年六月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第六驅逐隊ノ項ヲ削ル|第十驅逐隊ノ項中「秋雲、」ヲ削ル|第十九驅逐隊ノ項中「、天霧」ヲ削ル 〕</ref>。
[[1944年]](昭和19年)4月11日、秋雲が米潜水艦の雷撃で撃沈され{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93d|ps=秋雲(あきぐも)}}、10駆は風雲と朝雲に減少する<ref name="S19内令743">[[#内令昭和19年6月(2)]]、p.12</ref>。
6月初旬、風雲と朝雲は[[渾作戦]]に従事して戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]や重巡洋艦を護衛した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=494-495}}<ref name="あ号日誌(2)20">[[#あ号作戦日誌(2)]] pp.20-21〔 (ハ)十駆逐隊(1)風雲 渾部隊トシテ第五戰隊扶桑ノ警戒ニ任ジツヽ「タウイタウイ」ヨリ「ダバオ」回航中ノ所一日同地着二日渾作戦間接護衛隊トシテ第五戦隊扶桑トニ「ダバオ」出撃「ビアク」ニ向ケ航行中ノ所渾作戰中止反転ス 四敵哨戒機数機ト交戰戰果被害ナク五日「ダバオ」ニ入港ス七日渾作戰再興即日「ダバオ」出撃バチヤン」ニ向ケ警戒航行中ノ處八日0320「セントオーガスチン」岬ノ二四〇度二〇浬ニ於テ敵浮上潜水艦ヲ発見之ガ攻撃ニ向ヒツヽアル中雷撃ヲ沈没セリ </ref>。
6月初旬、風雲朝雲は[[渾作戦]]に従事して戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]や重巡洋艦を護衛した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=494-495}}<ref name="あ号日誌(2)20">[[#あ号作戦日誌(2)]] pp.20-21</ref>。五戦([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]][[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])との6月8{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=502-503}}、「風雲」は[[ダバオ]]沖合で米潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]]」の魚雷攻撃け、沈没した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}<ref name="あ号(2)21朝雲">[[#あ号作戦日誌(2)]] p.21</ref>。
第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])と共に行動中の6月8日{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=502-503}}、風雲は[[ダバオ]]沖合で米潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]]の魚雷攻撃を受け、沈没した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93a|ps=風雲(かざぐも)}}<ref name="あ号(2)21朝雲">[[#あ号作戦日誌(2)]] p.21〔 (2)朝雲 七日迄ノ経緯風雲ト同断 八日風雲遭難ニ際シ乗員救助九日「バチヤン」着燃料補給ノ上十一日「サムバキ」ニ回航(以下略) 〕</ref>。


== 艦歴 ==
== 艦歴 ==
=== 竣工まで ===
=== 竣工まで ===
風雲は1939年度(④計画)仮称第118号艦として、[[浦賀船渠]]で建造された<ref>[[#福井著作5巻|日本駆逐艦物語]]、289頁「日本海軍駆逐艦艦名一覧/風雲 Kazagumo」</ref>
風雲は1939年度(④計画)仮称第118号艦として、[[浦賀船渠]]で建造された{{Sfn|福井|1983|p=289}}
[[1940年]](昭和15年)12月23日、起工([[藤永田造船所]]の夕雲型2番艦「巻雲」と同日起工)<ref name="S17内令第840号">[[#内令昭和17年5月(2)]]p.22『艦名:風雲|艦種:一等駆逐艦|(性能略)|製造所:浦賀船渠會社|起工年月日15-12-23|進水年月日16-9-26|竣工年月日17-3-28|(兵装略)</ref>。
[[1940年]](昭和15年)12月23日、起工<ref name="S17内令第840号">[[風雲 (駆逐艦)#内令昭和17年5月(2)|#内令昭和175月(2)p]].22</ref>。
[[1941年]](昭和16年)9月10日附で風雲(カザグモ)と命名<ref name="S16達277号" />、同日附で夕雲型駆逐艦に類別された<ref>[[#内令昭和16年9月(1)]] p.47〔 内令第千三十五號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十六年九月十日 海軍大臣及川古志郎|駆逐艦、一等夕雲型ノ項中「巻雲」ノ下ニ「、風雲」ヲ加フ 〕</ref>。9月26日、風雲は進水した<ref name="S17内令第840号" />。
[[1941年]](昭和16年)9月10日附で風雲と命名<ref name="S16達277号" />、同日附で夕雲型駆逐艦に類別された<ref>[[#内令昭和16年9月(1)]] p.47</ref>。9月26日、進水した<ref name="S17内令第840号" />。
[[1942年]](昭和17年)1月20日、[[吉田正義]]中佐(海兵50期)は本艦艤装員長に任命される<ref name="jirei798">{{アジア歴史資料センター|C13072083900|昭和17年1月20日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第798号 p.25}}</ref>。翌日、浦賀船渠の風雲艤装員事務所は事務を開始した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070410100|昭和17年1月26日(月)海軍公報(部内限)第4003号 p.11}}『○事務所設置(略)驅逐艦風雲艤装員事務所ヲ一二十一神奈川縣三浦郡浦賀町谷戸六地番浦賀船渠株式會社浦賀工場内ニ設置シ事務ヲ開始セリ(以下略)</ref>。
[[1942年]](昭和17年)1月20日、[[吉田正義]]中佐艤装員長に任命される<ref name="jirei798">{{アジア歴史資料センター|C13072083900|昭和17年1月20日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第798号 p.25}}</ref>。翌日、浦賀船渠の艤装員事務所は事務を開始した<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070410100|昭和17年1月26日(月)海軍公報(部内限)第4003号 p.11}}</ref>。
327、性能調査終了<ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.19</ref>。
3月28日、竣工した<ref>[[風雲 (駆逐艦)#S1703横鎮日誌(1)|#S1703横鎮日誌(1)pp]].17-18</ref><ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.22</ref>。艤装員事務所を撤去する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070411100|昭和17年3月31日(火)海軍公報(部内限)第4056号 p.31}}</ref>。[[横須賀鎮守府]]籍<ref>[[#内令昭和17年3月(3)]] p.42</ref>。吉田も正式に駆逐艦長(初代)となった<ref name="jirei835">{{アジア歴史資料センター|C13072084700|昭和17年3月28日(発令3月28日付)海軍辞令公報(部内限)第835号 p.23}}</ref>。
[[3月16日]]、[[浦賀船渠]]で夕雲型6番艦[[高波 (駆逐艦)|高波]]が進水する<ref name="S1703横鎮(1)17">[[#S1703横鎮日誌(1)]]pp.17-18『(1)艦船關係 起工、進水、竣工』</ref>。
27日、性能調査終了<ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.19〔 二十七日一六三〇艦政本部長|二十七日一二〇〇浦賀首席監督官 風雲艤装委員長(横鎮参謀長)|艦本機密第三三一番電 驅逐艦風雲ノ主要性能ハ良好ナリ一般兵装艤装ハ概ネ適良ニシテ就役ニ適スルモノト認ム 首席監督官ハ右ノ旨製造所長ニ傳フベシ 〕</ref>。
3月28日、風雲は竣工した<ref name="S1703横鎮(1)17" /><ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.22〔 二十八日一〇三〇風雲艤装員長|二十八日一二三〇横鎮長官|風雲機密第一番電 驅逐艦風雲受領セリ 〕</ref>。艤装員事務所を撤去する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070411100|昭和17年3月31日(火)海軍公報(部内限)第4056号 p.31}}『○事務所撤去 驅逐艦風雲艤装員事務所ヲ三月二十八日撤去セリ』</ref>。[[横須賀鎮守府]]籍<ref>[[#内令昭和17年3月(3)]] p.42〔 内令第五百二十三號 驅逐艦 風雲 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 風雲 右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年三月二十八日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕</ref>。吉田も正式に風雲駆逐艦長(初代)となった<ref name="jirei835">{{アジア歴史資料センター|C13072084700|昭和17年3月28日(発令3月28日付)海軍辞令公報(部内限)第835号 p.23}}</ref>。


===昭和17年の戦い===
=== 昭和17年の戦い ===
風雲竣工直前の[[3月14日]]、日本海軍は夕雲型1番艦[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]と夕雲型2番艦[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]](3月14日竣工)<ref>[[#S1703横鎮(3)]] p.2〔 十四日一一〇〇巻雲艦長(宛略)巻雲機密第一番電 巻雲ノ引渡ヲ受ク 一〇三〇 〕</ref>により'''第10駆逐隊'''(駆逐隊司令[[阿部俊雄]]大佐、前職第8駆逐隊司令)を編制した<ref name="S17内令445" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072084600|昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.12}}</ref>。
風雲竣工直前の3月14日、日本海軍は夕雲型1番艦[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]と2番艦[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]<ref>[[#S1703横鎮日誌(3)]] p.2</ref>により'''第10駆逐隊'''(司令[[阿部俊雄]]大佐)を編制した<ref name="S17内令445" /><ref>{{アジア歴史資料センター|C13072084600|昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.12}}</ref>。「風雲」は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された<ref name="S17内令524" /><ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]], p.21</ref>。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する<ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.31</ref>。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を風雲に指定した<ref name="S17公報限4079" />。
4月15日、[[陽炎型駆逐艦]]19番艦の「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった<ref name="S17内令650" />。
風雲は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された<ref name="S17内令524" /><ref>『横須賀鎮守府戦時日誌』C08030316100, pp.21</ref>。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する<ref>[[#S1703横鎮日誌(4)]] p.31〔 三十日一〇〇〇風雲艦長(宛略)風雲機密第二番電 第一〇驅逐隊司令着任迄風雲驅逐艦長職務ヲ代理ス 〕</ref>。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を風雲に指定した<ref name="S17公報限4079" />。
4月15日、[[陽炎型駆逐艦]]19番艦の[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった<ref name="S17内令650" />。


秋雲編入直前の4月10日、戦隊改編により南雲機動部隊(指揮官[[南雲忠一]][[中将]]・海軍兵学校36期[[第一航空艦]]司令長官)の直衛に任ずる部隊として'''第十戦隊'''(司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将・海軍兵学校40期)が編制され、第10駆逐隊も第十戦隊に所属した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=135-137|ps=空母の現状と編制}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=141-145|ps=主要幹部}}。
4月10日、戦隊改編により[[第一航空艦]]司令長[[南雲忠一]]中将、通称・南雲機動部隊)の直衛に任ずる部隊として'''第十戦隊'''(司令官[[木村進 (海軍軍人)|木村進]]少将)が編制され、第10駆逐隊も第十戦隊に所属した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=135-137|ps=空母の現状と編制}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=141-145|ps=主要幹部}}。これまでの第一水雷戦隊(司令官・[[大森仙太郎]]少将)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡「[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]」以下<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070419900|昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.28}}</ref>
* 第10駆逐隊:司令・[[阿部俊雄]]大佐(第1小隊:1. '''風雲'''、2. 夕雲、第2小隊:3. 巻雲、4. 秋雲)
これまでの第一水雷戦隊(司令官[[大森仙太郎]]少将・海兵41期)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡[[長良 (軽巡洋艦)|長良]]以下<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070419900|昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.28}}『○旗艦指定 第十戰隊司令官ハ四月十三日旗艦ヲ長良ニ指定セリ/第一海上護衛隊司令官ハ四月十一日旗艦ヲ浮島丸ニ指定セリ』</ref>、第10駆逐隊〔司令[[阿部俊雄]]大佐 第1小隊:(1)風雲、(2)夕雲、第2小隊:(3)巻雲、(4)秋雲〕、第17駆逐隊〔第1小隊:(1)[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、(2)[[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、第2小隊:(3)[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、(4)[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]〕、第7駆逐隊〔第1小隊:(1)[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、(2)[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、第2小隊:(3)[[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]]〕が所属していた<ref>[[#ミッドウエー海戦戦闘詳報(1)]] p.8〔 第十戦隊戦時日誌(一)艦隊区分 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=136-137}}。
* 第17駆逐隊(第1小隊:1. [[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]]、2. [[浦風 (陽炎型駆逐艦)|浦風]]、第2小隊:3. [[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]、4. [[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]])
だが第7駆逐隊は機動部隊から外されて北方部隊に所属しており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令[[有賀幸作]]大佐:第1小隊〈[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]〉、第2小隊〈[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]〉)、燃料補給部隊という編成である<ref>[[#ミッドウエー海戦戦闘詳報(1)]] p.9〔 (二)軍隊区分(イ)五月二十日附機動部隊兵力部署 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=137|ps=第一機動部隊の編制}}。
* 第7駆逐隊(第1小隊:1. [[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]、2. [[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]、第2小隊:3. [[曙 (吹雪型駆逐艦)|曙]])
が所属していた<ref>[[#ミッドウエー海戦戦闘詳報(1)]] p.8〔 第十戦隊戦時日誌(一)艦隊区分 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=136-137}}{{Efn2|だが第7駆逐隊は機動部隊から外されて北方部隊に所属しており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令・[[有賀幸作]]大佐:第1小隊〈[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]、[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]〉、第2小隊〈[[萩風 (駆逐艦)|萩風]]、[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]〉)、燃料補給部隊という編成である<ref>[[#ミッドウエー海戦戦闘詳報(1)]] p.9〔 (二)軍隊区分(イ)五月二十日附機動部隊兵力部署 〕</ref>{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=137|ps=第一機動部隊の編制}}。}}。


4月18日の[[ドーリットル空襲]]時、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲){{#tag:Ref|秋雲は南雲機動部隊を護衛しており、ドーリットル空襲時は別行動。|group="注"}}は前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)に編入され、重巡洋艦戦隊や空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]等とともに米軍機動部隊追撃のため横須賀を出動した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=184-185|ps=前進部隊の作戦}}。だが接敵できず、前進部隊各部隊・各艦は4月22日から23日にかけて横須賀に帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=185}}。
4月18日の[[ドーリットル空襲]]時、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲){{Efn2|秋雲は南雲機動部隊を護衛しており、別行動。}}は前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)に編入され、重巡洋艦戦隊や空母[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]等とともに米軍機動部隊追撃のため横須賀を出動した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=184-185|ps=前進部隊の作戦}}。だが接敵できず、前進部隊各部隊・各艦は4月22日から23日にかけて横須賀に帰投した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=185}}。


第十戦隊は6月5日の[[ミッドウェー海戦]]が初陣となったが、まず主力空母3隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])がアメリカ軍機動部隊艦載機[[SBD (航空機)|SBD急降下爆撃機ドーントレス]]{{Sfn|山口多聞|1989|pp=222-224}}の空襲を受け、被弾炎上した{{Sfn|磯風、特年兵|2011|pp=42-45|ps=巨大空母の臨終}}{{sfn|草鹿|1979|pp=139-140|ps=惨!わが空母群の壊滅}}。
第十戦隊は6月5日の[[ミッドウェー海戦]]が初陣となったが、まず主力空母3隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])がアメリカ軍機動部隊艦載機[[SBD (航空機)|SBD急降下爆撃機]]{{Sfn|山口多聞|1989|pp=222-224}}の空襲を受け、被弾炎上した{{Sfn|磯風、特年兵|2011|pp=42-45|ps=巨大空母の臨終}}{{sfn|草鹿|1979|pp=139-140|ps=惨!わが空母群の壊滅}}。[[戦闘詳報]]では、「赤城」に座乗の南雲長官・[[草鹿龍之介]]参謀長・[[源田実]]参謀、[[淵田美津雄]]赤城飛行長等の司令部人員を救助するため「7時45分に『野分』が赤城に接近した」と記録している{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=373}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(2)]] p.28</ref>。『[[戦史叢書]]、第43巻ミッドウェー海戦』によれば、司令部は「野分」に移乗したのち「長良」に移動して8時30分に将旗を掲げたとする{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=335}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|p=153}}。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、司令部は駆逐艦を経由せず、[[装載艇]]で直接「長良」に移動している{{sfn|牧島|2001|p=261}}。旗艦変更にあたり、草鹿は「最初は附近の駆逐艦にでもと思ったのであるが、折よく安否を気づかって接近してきた第十戦隊旗艦『長良』に移乗することにした。」と回想している{{sfn|草鹿|1979|pp=140-141|ps=遂に旗艦変更に決す}}。機動部隊側の記録や回想に対し、吉田正義(当時、風雲駆逐艦長){{Sfn|山口多聞|1989|p=228}}は「南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、風雲に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦の長良へ移動した」と回想している{{Sfn|秋雲会|1986|p=32}}{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=54}}。
[[戦闘詳報]]では、赤城に座乗の南雲長官・[[草鹿龍之介]]参謀長・[[源田実]]参謀、[[淵田美津雄]]赤城飛行長等の司令部人員を救助するため「7時45分に野分が赤城に接近した」と記録している{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=373}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(2)]] p.28〔 0745司令部移乗ノタメ駆逐艦野分近接ス 〕</ref>。『[[戦史叢書]]、第43巻ミッドウェー海戦』によれば、南雲司令部は野分に移乗したのち長良(第十戦隊旗艦)に移動して0830に将旗を掲げたとする{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=335}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|p=153}}。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、南雲司令部は駆逐艦を経由せず、[[装載艇]]で直接長良に移動している<ref>[[#炎の海]]261頁</ref>。旗艦変更にあたり、草鹿は「最初は附近の駆逐艦にもと思ったのであるが、折よく安否を気づかって接近してきた第十戦隊旗艦「長良」に移乗することにした。」と回想している{{sfn|草鹿|1979|pp=140-141|ps=遂に旗艦変更に決す}}。機動部隊側の記録や回想に対し、[[吉田正義]](当時、風雲駆逐艦長){{Sfn|山口多聞|1989|p=228}}は「南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、風雲に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦の長良へ移動した」と回想している<ref name="z">『栄光の駆逐艦 秋雲』32ページ</ref>{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=54}}。


空母3隻被弾炎上後、第10駆逐隊は[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将)の空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]の支援に従事した{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|pp=55a-57|ps=空母「飛龍」の最期}}。最終的に飛龍も被弾炎上し{{sfn|草鹿|1979|pp=143-145|ps=転機を求めて東奔西走}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=245-248|ps=回避およばずついに被弾}}、風雲と谷風は飛龍の左舷に横付けして消火活動に協力した{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=55b}}{{Sfn|山口多聞|1989|pp=268-269}}。長益(当時、飛龍航海長)は、消火作業をおこなった駆逐艦の艦名について、「風雲、巻雲」と回想している{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=248-250|ps=駆逐艦の応援消火もむなし}}。飛龍の周囲には駆逐艦4隻(艦名不詳)がいて、消火に協力したという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=380}}。また飛龍の御真影と負傷者の一部は、風雲に収容された{{Sfn|山口多聞|1989|pp=268-269}}。鎮火の見込みが立ったため[[加来止男]]飛龍艦長は風雲に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。小林勇一(当時、飛龍戦闘機整備分隊長)は「やれもしない水雷戦隊の夜襲などと言わず、あの時そのまま駆逐艦に消火を続けさせ、母艦を徹底的に冷やしたら、『飛竜』を沈めずに持って帰れたのに」と回想している{{Sfn|山口多聞|1989|p=310}}。草鹿参謀長は「冷静に考えれば、飛龍の被爆と同時に、艦を救い人を救って、速やかに引きあげるべきであった。そのときも、そう思わぬでもなかったが、戦が不利だからといって、速やかに引きあげるということは、なんとなく軍人としてできにくいことであった。」と回想している{{sfn|草鹿|1979|pp=143-145|ps=転機を求めて東奔西走}}。
空母3隻被弾炎上後、第10駆逐隊は[[第二航空戦隊]](司令官[[山口多聞]]少将)の空母[[飛龍 (空母)|飛龍]]の支援に従事した{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|pp=55a-57|ps=空母「飛龍」の最期}}。最終的に飛龍も被弾炎上し{{sfn|草鹿|1979|pp=143-145|ps=転機を求めて東奔西走}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=245-248|ps=回避およばずついに被弾}}、風雲谷風飛龍の左舷に横付けして消火活動に協力した{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=55b}}{{Sfn|山口多聞|1989|pp=268-269}}。長益(当時、飛龍航海長)は、消火作業をおこなった駆逐艦の艦名について、「風雲、巻雲」と回想している{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=248-250|ps=駆逐艦の応援消火もむなし}}。飛龍の周囲には駆逐艦4隻(艦名不詳)がいて、消火に協力したという{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=380}}。また飛龍の御真影と負傷者の一部は、風雲に収容された{{Sfn|山口多聞|1989|pp=268-269}}。鎮火の見込みが立ったため[[加来止男]]飛龍艦長は風雲に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。小林勇一(当時、飛龍戦闘機整備分隊長)は「やれもしない水雷戦隊の夜襲などと言わず、あの時そのまま駆逐艦に消火を続けさせ、母艦を徹底的に冷やしたら、『飛竜』を沈めずに持って帰れたのに」と回想している{{Sfn|山口多聞|1989|p=310}}。草鹿参謀長は「冷静に考えれば、飛龍の被爆と同時に、艦を救い人を救って、速やかに引きあげるべきであった。そのときも、そう思わぬでもなかったが、戦が不利だからといって、速やかに引きあげるということは、なんとなく軍人としてできにくいことであった。」と回想している{{sfn|草鹿|1979|pp=143-145|ps=転機を求めて東奔西走}}。


山口司令官と加来艦長は総員退去を下令、風雲と巻雲は飛龍生存者を収容した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=380}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(1)]] pp.42-44〔 (ハ)飛龍(略)6日0015総員退去下令御真影ヲ奉ジ風雲巻雲ニ分乗開始0130移乗ヲ終了ス 〕</ref>。飛龍接舷時、[[ヒューマンエラー|過失]]により風雲・飛龍の接触事故がおこり、風雲はマストや測距義に損傷を受けている{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=382-383|ps=山口司令官の戦死}}{{Sfn|山口多聞|1989|p=296-297}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=250-252|ps=艦と運命を共にした司令官}}。風雲の[[カッターボート]]が飛龍右舷にいたところ上から[[拳銃]]が落ちてきたため、飛龍副長の鹿江隆大佐(海兵48期)は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。
山口司令官と加来艦長は総員退去を下令、風雲巻雲は生存者を収容した{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=380}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(1)]] pp.42-44</ref>。飛龍接舷時、[[ヒューマンエラー|過失]]により接触事故がおこり、風雲はマストや測距義に損傷を受けている{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=382-383|ps=山口司令官の戦死}}{{Sfn|山口多聞|1989|p=296-297}}{{Sfn|証言ミッドウェー|1999|pp=250-252|ps=艦と運命を共にした司令官}}。風雲の[[カッターボート]]が飛龍右舷にいたところ上から[[拳銃]]が落ちてきたため、飛龍副長の鹿江隆大佐は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。なお、「飛龍」は「巻雲」によって雷撃処分されたが{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=381}}、すぐには沈没しなかった{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、「谷風」が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=488-491|ps=主力方面敵空母機来襲}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(2)]] p.2</ref>。沈没寸前に「飛龍」から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された{{Sfn|山口多聞|1989|p=295}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=383-385|ps=飛龍乗員の脱出、漂流}}。吉田は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。第十駆逐隊は6月13日に[[呉市|呉]]へ帰投した{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=148}}。
なお、飛龍は駆逐艦[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]によって雷撃処分されたが{{Sfn|戦史叢書43|1971|p=381}}、すぐには沈没しなかった{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、駆逐艦[[谷風 (陽炎型駆逐艦)|谷風]](第17駆逐隊)が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=488-491|ps=主力方面敵空母機来襲}}<ref>[[#第1航空艦隊戦闘詳報(2)]] p.2〔 且味方飛行機ハ尚漂流中トノ報告アリシヲ以テ6日0945長良機ヲ以テ之ヲ捜索谷風ヲ分派撃沈セントセシガ共ニ目標ヲ発見セザルヲ以テ撃沈セシモノト推定ス 〕</ref>。沈没寸前に飛龍から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された{{Sfn|山口多聞|1989|p=295}}{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=383-385|ps=飛龍乗員の脱出、漂流}}。吉田(風雲駆逐艦長)は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=56}}。第十駆逐隊は6月13日に[[呉市|呉]]へ帰投した<ref>木俣『日本水雷戦史』148ページ</ref>。

7月14日、<!-- 臨時編成は機動部隊。第一航空艦隊は常設 -->第一航空艦隊が解隊されて[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編〜1944年11月15日解散)|第三艦隊]]が編制され{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=637-642|ps=第三艦隊の新設}}、引き続き[[南雲忠一]]中将が第三艦隊司令長官、[[草鹿龍之介]]少将が同艦隊参謀長を務めた{{sfn|草鹿|1979|pp=150-151|ps=艦隊の編制替え}}{{Sfn|山口多聞|1989|p=296-297}}。この再編にともない第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下駆逐艦16隻{{sfn|草鹿|1979|p=151}}(第4駆逐隊〈嵐、野分、萩風、舞風〉、第10駆逐隊〈秋雲、夕雲、巻雲、風雲〉、第16駆逐隊〈[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]]〉、第17駆逐隊〈谷風、浦風、浜風、磯風〉)という戦力を揃えた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=431-432|ps=聯合艦隊主力}}。


7月14日、<!-- 臨時編成は機動部隊。第一航空艦隊は常設 -->第一航空艦隊が解隊されて[[第三艦隊 (日本海軍)#六代(1942年7月14日新編〜1944年11月15日解散)|第三艦隊]]が編制され{{Sfn|戦史叢書43|1971|pp=637-642|ps=第三艦隊の新設}}、引き続き南雲中将が第三艦隊司令長官、草鹿少将が同参謀長を務めた{{sfn|草鹿|1979|pp=150-151|ps=艦隊の編制替え}}{{Sfn|山口多聞|1989|p=296-297}}。この再編にともない第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下駆逐艦16隻{{sfn|草鹿|1979|p=151}}{{Efn2|
* 第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)
* 第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、'''風雲''')
* 第16駆逐隊([[雪風 (駆逐艦)|雪風]]、[[時津風 (陽炎型駆逐艦)|時津風]]、[[天津風 (陽炎型駆逐艦)|天津風]]、[[初風 (駆逐艦)|初風]])
* 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)}}
という戦力を揃えた{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=431-432|ps=聯合艦隊主力}}。
=== ガダルカナル島の戦い ===
=== ガダルカナル島の戦い ===
[[1942年]](昭和17年)8月7日、連合軍は[[ウォッチタワー作戦]]により[[ガダルカナル島]]および[[フロリダ諸島]]([[フロリダ諸島の戦い]])に来襲、同諸島に上陸して橋頭堡を築き[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった{{sfn|草鹿|1979|pp=158-159|ps=米、反撃にたちあがる}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}。
[[1942年]](昭和17年)8月7日、連合軍は[[ウォッチタワー作戦]]により[[ガダルカナル島]]および[[フロリダ諸島]]([[フロリダ諸島の戦い]])に来襲、同諸島に上陸して橋頭堡を築き[[ガダルカナル島の戦い]]が始まった{{sfn|草鹿|1979|pp=158-159|ps=米、反撃にたちあがる}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=438-439|ps=ガダルカナル島及びツラギ上陸}}。
8月16日、第三艦隊は[[柱島泊地]]を出撃して[[チューク諸島|トラック諸島]]に向かう{{sfn|草鹿|1979|p=161}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=541}}。アメリカ機動部隊が出現した事によりトラック泊地寄港をとりやめ、[[ソロモン諸島]]東方海域に急行した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=545-547|ps=第三艦隊戦策}}<ref>十一戦隊戦時日誌』C08030051400, pp.21</ref>。8月24日の[[第二次ソロモン海戦]]では、空母の直衛を務めた{{#tag:Ref|1942年8月14日発令の機動部隊軍隊区分によれば、本隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤、第10駆逐隊〈風雲、夕雲、巻雲、秋雲〉、第16駆逐隊〈時津風、天津風、初風〉、秋風){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=542}}。|group="注"}}。
8月16日、第三艦隊は[[柱島泊地]]を出撃して[[チューク諸島|トラック諸島]]に向かう{{sfn|草鹿|1979|p=161}}{{Sfn|戦史叢書49|1971|p=541}}。アメリカ機動部隊が出現した事によりトラック泊地寄港をとりやめ、[[ソロモン諸島]]東方海域に急行した{{Sfn|戦史叢書49|1971|pp=545-547|ps=第三艦隊戦策}}<ref>[[#S1704 11戦隊戦時日誌 (1)]], p.21</ref>。8月24日の[[第二次ソロモン海戦]]では、空母の直衛を務めた{{Efn2|1942年8月14日発令の機動部隊軍隊区分によれば、本隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤、第10駆逐隊〈風雲、夕雲、巻雲、秋雲〉、第16駆逐隊〈時津風、天津風、初風〉、秋風){{Sfn|戦史叢書49|1971|p=542}}。}}。
9月は秋雲とともにトラック周辺で警戒行動や対潜活動を行った<ref>『栄光の駆逐艦 秋雲33ページ</ref>。9月中旬、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃を支援するため、前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)と機動部隊(南雲長官)はトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=149|ps=前進、機動各部隊の「ガ」島北方海面への進出}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=116-120|ps=前進部隊及び機動部隊}}。総攻撃失敗により、前進部隊と機動部隊は一部艦艇を[[ソロモン諸島]]に派遣し、9月23日トラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=143}}。
9月、「風雲」秋雲とともにトラック周辺で警戒行動や対潜活動を行った{{Sfn|秋雲会|1986|p=33}}。9月中旬、ガダルカナル島[[ホニアラ国際空港|ヘンダーソン飛行場]]に対する日本陸軍総攻撃を支援するため、前進部隊(指揮官[[近藤信竹]]第二艦隊司令長官)と機動部隊(南雲長官)はトラック泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=149|ps=前進、機動各部隊の「ガ」島北方海面への進出}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=116-120|ps=前進部隊及び機動部隊}}。総攻撃失敗により、前進部隊と機動部隊は一部艦艇をソロモン諸島に派遣し、9月23日トラック泊地にもどった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=143}}。


10月26日の[[南太平洋海戦]]では、機動部隊・前衛部隊{{#tag:Ref|機動部隊前衛部隊は、第十一戦隊司令官[[阿部弘毅]]少将が指揮する。第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(長良、秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風)。|group="注"}}に配備される{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=273-275|ps=支援部隊の編制}}。<!--前衛部隊のうち秋雲と巻雲は、前進部隊とともにアメリカ機動部隊を追撃し、漂流するアメリカ空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]を撃沈した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93d|ps=秋雲(あきぐも)}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=304-305}}。-->
10月26日の[[南太平洋海戦]]では、機動部隊・前衛部隊{{Efn2|機動部隊前衛部隊は、第十一戦隊司令官[[阿部弘毅]]少将が指揮する。第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(長良、秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風)。}}に配備される{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=273-275|ps=支援部隊の編制}}。


南太平洋海戦の後、11月3日付で秋雲以外の第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は[[第二水雷戦隊]](司令官[[田中頼三]]少将・海兵41期)、第七戦隊(司令官[[西村祥治]]少将・海兵39期)とともに外南洋部隊に加勢された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=326|ps=昭和17年11月1日0821発令の聯合艦隊電令作第366号、翌日発令の聯合艦隊電令作第369号に依る。}}{{#tag:Ref|秋雲は損傷艦([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])や護衛の駆逐艦([[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、第4駆逐隊、第17駆逐隊)と共に内地へ帰投している<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.22〔 11月1日1717第三艦隊司令長官/一.左ノ各艦(隊)ハ左記ニ依リ内地ニ帰投修理整備作業ニ任ズベシ(1)回航地 艦名:横須賀 翔鶴第四駆逐隊(萩風欠)、秋月/呉:熊野筑摩、第十七駆逐隊第1小隊 秋雲 佐世保:瑞鳳、第十七駆逐隊第2小隊 (2)行動(イ)11月2日1400以後「トラック」発各回航地毎ニ先任艦長指揮シ回航スルモノトス。但シ呉佐世保ニ回航スルモノハ途中迄同一行動ヲ執リ分離時迄瑞鳳艦長指揮スベシ(以下略) 〕</ref>。|group="注"}}。
南太平洋海戦の後、11月3日付で秋雲以外の第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は[[第二水雷戦隊]](司令官[[田中頼三]]少将)、第七戦隊(司令官[[西村祥治]]少将)とともに外南洋部隊に加勢された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=326|ps=昭和17年11月1日0821発令の聯合艦隊電令作第366号、翌日発令の聯合艦隊電令作第369号に依る。}}{{Efn2|秋雲は損傷艦([[翔鶴 (空母)|翔鶴]]、[[瑞鳳 (空母)|瑞鳳]]、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]])や護衛の駆逐艦([[秋月 (駆逐艦)|秋月]]、第4駆逐隊、第17駆逐隊)と共に内地へ帰投している<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]], p.22</ref>。}}。
11月3日、重巡[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]と[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、第二水雷戦隊、第10駆逐隊(夕雲、風雲)はトラック泊地を出撃、5日[[ショートランド諸島]]ショートランド泊地に到着する{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=350a-351|ps=七日の輸送}}外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官)の指揮下に入った<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.6〔 (一)「トラック」ニ於テ作戰準備指導ヲ整ヘ十一月三日1250第七戰隊(熊野欠)摩耶 第二水雷戰隊 第十駆逐隊ヲ率ヰ「トラック」出撃五日1200「ショートランド」ニ進出外南洋部隊指揮官ノ麾下ニ入リ外南洋部隊支援隊トナル 〕</ref>。第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将は外南洋増援部隊指揮官の職務を[[田中頼三]]少将(二水戦司令官)に引き継ぎ、第三水雷戦隊各艦と共にトラック泊地へ戻った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=349-350}}。
11月3日、重巡[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]][[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、第二水雷戦隊、第10駆逐隊(夕雲、風雲)はトラック泊地を出撃、11月5日[[ショートランド諸島]]に到着{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=350a-351|ps=七日の輸送}}外南洋部隊(指揮官[[三川軍一]]第八艦隊司令長官)の指揮下に入った<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.6</ref>。第三水雷戦隊司令官[[橋本信太郎]]少将は外南洋増援部隊指揮官の職務を田中少将に引き継ぎ、第三水雷戦隊各艦と共にトラック泊地へ戻った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=349-350}}。


ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦([[鼠輸送]])に際して、第10駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官二水戦司令官)に編入された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。田中司令官は増援部隊の編制変更をおこない、甲増援隊によるガダルカナル島輸送作戦を命じた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。今次輸送作戦における甲増援隊は、風雲を含む駆逐艦11隻で実施された{{#tag:Ref|第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐が指揮する。第15駆逐隊([[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]])第24駆逐隊([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])第31駆逐隊([[巻波 (駆逐艦)|巻波]]、[[高波 (駆逐艦)|高波]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]])第10駆逐隊(夕雲、風雲)|group="注"}}によって実施された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。
ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦([[鼠輸送]])に際して、第10駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官二水戦司令官)に編入された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。田中司令官は増援部隊の編制変更をおこない、甲増援隊によるガダルカナル島輸送作戦を命じた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。今次輸送作戦における甲増援隊は、風雲を含む駆逐艦11隻で実施された{{Efn2|第15駆逐隊司令[[佐藤寅治郎]]大佐が指揮する。
* 第15駆逐隊([[親潮 (駆逐艦)|親潮]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、[[陽炎 (陽炎型駆逐艦)|陽炎]])
* 第24駆逐隊([[海風 (白露型駆逐艦)|海風]]、[[江風 (白露型駆逐艦)|江風]]、[[涼風 (駆逐艦)|涼風]])
* 第31駆逐隊([[巻波 (駆逐艦)|巻波]]、[[高波 (駆逐艦)|高波]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]])
* 第10駆逐隊(夕雲、'''風雲''')}}によって実施された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}。
11月6日深夜、甲増援隊はショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}<ref name="a">戦時日誌』C08030098800, pp.15</ref>。途中で[[B-17 (航空機)|B-17]] の空襲を受けたが被害はなく、深夜にガ島に到着するとタサファロング隊とエスペランス隊にわかれる{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。エスペランス隊(夕雲、風雲)は糧食を降ろしたのち、175名の傷病兵と便乗者(戦史叢書では海軍69名・陸軍3名)を乗せて8日昼前に帰投した<ref>戦時日誌』C08030098800, pp.15,16、木俣『日本水雷戦史』218ページ</ref>。本作戦中、空襲を受けた長波と高波に若干の損害があった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。また、巻雲は7日7時30分にショートランド泊地に到着、増援部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。
11月6日深夜、甲増援隊はショートランド泊地を出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=350b}}<ref name="a">[[#S1711 2水戦戦時日誌 (1)]], p.15</ref>。途中で[[B-17 (航空機)|B-17]]の空襲を受けたが被害はなく、深夜にガ島に到着するとタサファロング隊とエスペランス隊にわかれる{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=351}}。エスペランス隊(夕雲、風雲)は糧食を降ろしたのち、175名の傷病兵と便乗者(戦史叢書では海軍69名・陸軍3名)を乗せて8日昼前に帰投した<ref>[[#S1711 2水戦戦時日誌 (1)]], pp.15,16、{{Harvnb|木俣水雷戦史|1986|p=218}}</ref>


11月10日9時、第10駆逐隊司令[[阿部俊雄]]大佐指揮下の駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、巻波、涼風)は、[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]の師団長[[佐野忠義]]陸軍中将を含む陸兵600名、物資、第十一戦隊弾着観測員(飛行場砲撃時)を搭載してショートランドを出撃する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=353a|ps=十日の輸送}}。空襲を受けたが被害はなく、揚陸地点でアメリカ軍魚雷艇4隻と交戦しこれを撃退、揚陸に成功し、傷病者585名を収容して11日午前中に帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=353b}}。
11月10日9時、第10駆逐隊司令阿部俊雄大佐指揮下の駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、巻波、涼風)は、[[第38師団 (日本軍)|第38師団]]長[[佐野忠義]]陸軍中将を含む陸兵600名、物資、第十一戦隊弾着観測員(飛行場砲撃時)を搭載してショートランドを出撃する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=353a|ps=十日の輸送}}。空襲を受けたが被害はなく、揚陸地点でアメリカ軍魚雷艇4隻と交戦しこれを撃退、揚陸に成功し、傷病者585名を収容して11日午前中に帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=353b}}。


11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]では、外南洋部隊支援隊指揮官(第七戦隊司令官[[西村祥治]]少将の指揮下、駆逐艦4隻(風雲、夕雲、巻雲、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]])で巡洋艦3隻([[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]、[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]])を護衛した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=376-378|ps=「鈴谷、摩耶」のガ島飛行場砲撃と「衣笠」の喪失}}。本来ならば朝潮ではなく[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]が支援隊に編入されていたが、出撃前に泊地で空襲をうけ行動不能となっていた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=377}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=339-341|ps=ショートランド泊地防空}}。そこで、外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官[[三川軍一]]中将直率の外南洋部隊主隊([[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]、朝潮)から朝潮が第七戦隊の護衛にまわった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=377}}。
11月中旬の[[第三次ソロモン海戦]]では、外南洋部隊支援隊指揮官西村少将の指揮下、駆逐艦4隻(風雲、夕雲、巻雲、[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]){{efn2|本来ならば朝潮ではなく[[満潮 (駆逐艦)|満潮]]が支援隊に編入されていたが、出撃前に泊地で空襲をうけ行動不能となっていた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=377}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=339-341|ps=ショートランド泊地防空}}。そこで、外南洋部隊指揮官三川中将直率の外南洋部隊主隊([[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]、[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]、[[五十鈴 (軽巡洋艦)|五十鈴]]、朝潮)から朝潮が第七戦隊の護衛にまわった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=377}}。}}で巡洋艦3隻(鈴谷、摩耶、[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]])を護衛した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=376-378|ps=「鈴谷、摩耶」のガ島飛行場砲撃と「衣笠」の喪失}}。
11月13日深夜から約20分間、鈴谷と摩耶はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する対地砲撃を実施したが、決定的な損害を与えられなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=157-159}}。
11月13日深夜から約20分間、鈴谷と摩耶はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する対地砲撃を実施したが、決定的な損害を与えられなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=157-159}}。
14日午前6時頃、支援隊(重巡2、駆逐艦4)は主隊と[[ニュージョージア島]]南方で合流し、ショートランド泊地へむかう{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.18〔 (別圖其ノ二)自十一月十三日0540至十四日1300第七戰隊(熊野欠)摩耶行動圖 〕</ref>。だが[[ニュージョージア諸島]]南方で、ヘンダーソン基地航空隊と空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]艦載機の空襲をうける{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=381-383|ps=米航空部隊の戦闘}}。対空戦闘により重巡[[衣笠 (重巡洋艦)|衣笠]]が沈没した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=161|ps=『重巡摩耶』では、風雲と巻雲が衣笠生存者を救助とする。}}。ほかに鳥海摩耶五十鈴等が損傷を受けた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}。主隊・支援隊はショートランド泊地で急速補給をおこなったのち輸送船団(第二水雷戦隊)救援に向かうが、アメリカ艦隊と直接交戦する事はなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=398}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] pp.6-7〔 (三)十三日0540外南洋部隊主隊ト共ニ「ショートランド」出撃2210「サボ」島北西方ニ於テ主隊ト分離支援隊ヲ率ヰ「ガ」島海面ニ突入飛行場制圧射撃ヲ実施十四日0004射撃ヲ終了 0550「ニュージョージァ」島南方ニ於テ主隊ト合同0630ヨリ約三時間ニ亘リ敵艦上機群ト交戰シツツ避退1300「ショートランド」ニ帰着燃料補給ノ上1749主隊ト共ニ再ビ「ショートランド」出撃「ソロモン」群島北方海面ヲ機宜行動輸送船隊ヲ支援シタル後十五日1427「ショートランド」ニ帰投セリ 〕</ref>。
14日午前6時頃、支援隊(重巡2、駆逐艦4)は主隊と[[ニュージョージア島]]南方で合流し、ショートランド泊地へむかう{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.18</ref>。だが[[ニュージョージア諸島]]南方で、ヘンダーソン基地航空隊と空母[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]艦載機の空襲をうける{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=381-383|ps=米航空部隊の戦闘}}。対空戦闘により重巡衣笠が沈没した{{Sfn|重巡摩耶|2002|p=161|ps=『重巡摩耶』では、風雲と巻雲が衣笠生存者を救助とする。}}。ほかに鳥海」「摩耶」「五十鈴等が損傷を受けた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=378}}。主隊・支援隊はショートランド泊地で急速補給をおこなったのち輸送船団(第二水雷戦隊)救援に向かうが、アメリカ艦隊と直接交戦する事はなかった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=398}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] pp.6-7</ref>。


第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=163-165}}、[[パプアニューギニア]]の[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]に上陸作戦を敢行した([[ポートモレスビー作戦|ブナとゴナの戦い]]){{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=413-415|ps=連合軍のブナ上陸と南東方面部隊の対策}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=415-418|ps=東部ニューギニア方面の連合軍の作戦}}。連合軍の反撃を受けて、連合艦隊はガダルカナル島よりもニューギニア方面を重視する姿勢をとる{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=418a-420|ps=聯合艦隊司令部の作戦指導}}。
第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は{{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=163-165}}、[[パプアニューギニア]]の[[ブナ (パプアニューギニア)|ブナ]]に上陸作戦を敢行した([[ポートモレスビー作戦|ブナとゴナの戦い]]){{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=413-415|ps=連合軍のブナ上陸と南東方面部隊の対策}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=415-418|ps=東部ニューギニア方面の連合軍の作戦}}。連合軍の反撃を受けて、連合艦隊はガダルカナル島よりもニューギニア方面を重視する姿勢をとる{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=418a-420|ps=聯合艦隊司令部の作戦指導}}。
11月17日、風雲を含む外南洋部隊指揮官直率部隊{{#tag:Ref|鳥海(第八艦隊旗艦)、夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎。|group="注"}}はラバウルに到着した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=414}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=419}}。第八艦隊司令部は陸上に移り<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.46〔 十七日0655第八艦隊司令長官(宛略)第八艦隊機密第170655番電 将旗ヲ一時「ラボール」ニ移揚ス 〕</ref>、4隻(鳥海、五十鈴、涼風、望月)はトラック泊地へ回航、他の巡洋艦(天龍)や駆逐艦はニューギニア方面の作戦に従事することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=414}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.46〔 十九日1535外南洋部隊指揮官(宛略)外南洋部隊機密第191538番電 外南洋部隊電令作第235号 天竜ヲ支援部隊ヨリ除キ「ラビ」飛行場攻略部隊ニ復皈 〕</ref>。
11月17日、風雲を含む外南洋部隊指揮官直率部隊{{Efn2|鳥海(第八艦隊旗艦)、夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎。}}はラバウルに到着した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=414}}{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=419}}。第八艦隊司令部は陸上に移り<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.46</ref>、4隻(鳥海、五十鈴、涼風、望月)はトラック泊地へ回航、他の巡洋艦(天龍)や駆逐艦はニューギニア方面の作戦に従事することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=414}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.46</ref>。同日夜、輸送部隊は駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)で出撃し、バサブア(ブナ地区)へ約1,000名を揚陸させた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=419}}
同日夜、輸送部隊は駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)で出撃し、バサブア(ブナ地区)へ約1000名を揚陸させた{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=419}}。


11月22日、輸送隊の駆逐艦4隻(巻雲、風雲、夕雲、荒潮)は陸兵800名のバサブア輸送を実施した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=423-425|ps=外南洋部隊兵力部署}}。同日、三川中将は新たな兵力部署を発令する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=424}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.52</ref>。
11月22日、輸送隊の駆逐艦4隻(巻雲、風雲、夕雲、荒潮)は陸兵800名のバサブア輸送を実施した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=423-425|ps=外南洋部隊兵力部署}}。同日、外南洋部隊指揮官三川中将は新たな兵力部署を発令する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=424}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(1)]] p.52〔 二十二日1240外南洋部隊指揮官(宛略)外南洋部隊機密第231240番電 外南洋部隊兵力部署ヲ左ノ通改ム(区分、指揮官、主要任務ノ順)一.主隊 直率 鳥海望月 全作戦支援/二.支援隊 第七戦隊司令官 第七戦隊(熊野欠)摩耶 「ソロモン」方面作戦支援/三.増援部隊 第二水雷戦隊司令官 第三十一駆逐隊、第十五駆逐隊(早潮欠)、第二十四駆逐隊(海風欠) 「ガ」島方面ニ対スル輸送作戦/四.R方面航空部隊 第十一航空戦隊司令官 第八〇二航空隊、水戦隊、千歳飛行機隊、讃岐丸山陽丸天霧哨三十六号哨三十八号 RX方面索敵「ガ」島方面輸送船上空直衛、「ショートランド」方面上空警戒、対潜掃蕩/五.RX方面防備部隊 第一根拠地隊司令官 兵力及任務従前通/六.「ニューギニア」方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戦隊(竜田欠)第八駆逐隊(満潮欠)第十駆逐隊(秋雲欠)春雨白露磯波電早潮 「ニューギニア」方面ニ対スル輸送作戦/七.東部ニューギニア方面防備部隊 第七根拠地隊(第二十三駆潜隊、第二十二駆潜隊欠)第八十二警備隊、横五特、佐五特 「ニューギニア」占領地域ノ防衛/八.R方面防備部隊 第八根拠地隊司令官 従前ヨリ第八十二警備隊、横五特、佐五特ヲ除ク兵力 「ラボール」方面防衛、輸送船護衛/九.附属直率隊 従前ノ兵力ニ五十鈴龍田海風満潮卯月、八聯特陸、第八気象隊ヲ加ヘル外従前通リ 〕</ref>。
第10駆逐隊を含め、東部ニューギニア方面護衛隊{{#tag:Ref|1942年11月22日時点の東部ニューギニア方面護衛隊は、駆逐艦[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、夕雲、巻雲、風雲。|group="注"}}は、第十八戦隊司令官[[松山光治]]少将(旗艦天龍)の指揮下に入った{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=424}}。
第10駆逐隊を含め、東部ニューギニア方面護衛隊{{Efn2|1942年11月22日時点の東部ニューギニア方面護衛隊は、駆逐艦[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[電 (吹雪型駆逐艦)|電]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[早潮 (駆逐艦)|早潮]]、夕雲、巻雲、'''風雲'''。}}は、第十八戦隊司令官[[松山光治]]少将(旗艦天龍)の指揮下に入った{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=424}}。


11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)は、独立混成第21旅団{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=278|ps=独立混成第二十一旅団の南東方面への転用}}(兵団長[[山県栗花生]]陸軍少将{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=148|ps=中部太平洋方面に対する最初の陸軍部隊の進出下令}}。今次輸送作戦では巻雲乗艦)の陸兵輸送作戦を実施することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=426-427|ps=混成第二十一旅団第一次輸送}}。出撃後、29日昼間にB-17の空襲を受ける{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]大破・[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]至近弾損傷の被害をうけ、輸送作戦は中止された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。兵団長乗艦の巻雲は協議のため先に帰投し、風雲は白露の護衛を夕雲と春雨(ラバウルから救援のため出撃)にひきつぎ、30日1400ラバウルに単独帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。
11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)は、独立混成第21旅団{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=278|ps=独立混成第二十一旅団の南東方面への転用}}(兵団長[[山県栗花生]]陸軍少将{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=148|ps=中部太平洋方面に対する最初の陸軍部隊の進出下令}}。今次輸送作戦では巻雲乗艦)の陸兵輸送作戦を実施することになった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=426-427|ps=混成第二十一旅団第一次輸送}}。出撃後、29日昼間にB-17の空襲を受ける{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。駆逐艦「[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]大破・巻雲至近弾損傷の被害をうけ、輸送作戦は中止された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。兵団長乗艦の巻雲は協議のため先に帰投し、風雲白露の護衛を夕雲「[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]]」(ラバウルから救援のため出撃)にひきつぎ、11月30日14時ラバウルに単独帰投した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=427b}}。
12月初頭におこなわれた第二次輸送作戦も不成功に終わった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=427a-428|ps=混成第二十一旅団第二次輸送}}。
12月初頭におこなわれた第二次輸送作戦も不成功に終わった{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=427a-428|ps=混成第二十一旅団第二次輸送}}。
12月8日、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]、磯波、電)で出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=428-429|ps=混成第二十一旅団第三次輸送}}。だが重爆の空襲により朝潮と磯波が損傷し、天候や敵機の触接等を理由に作戦は中止された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=429}}。
12月8日、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]、[[ (吹雪型駆逐艦)|電]])で出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=428-429|ps=混成第二十一旅団第三次輸送}}。だが重爆の空襲により朝潮磯波が損傷し、天候や敵機の触接等を理由に作戦は中止された{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=429}}。
12月11日、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃する{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=57}}。[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]を経由したのち、[[アドミラルティ諸島]](ロレンガウ)で支援隊(熊野、鈴谷、望月)から燃料補給を受けつつ<ref>[[#S1711七戦隊日誌(5)]] p.5〔 (二)十二月十二日0512支援隊(第七戰隊)風雲夕雲ヲ率ヰ「カビエン」出撃1612「ロレンガウ」ニ進出東部「ニューギネア」方面増援部隊ノ補給竝ニ支援ニ任ジタル後十三日1300支援隊ヲ率ヰ「ロレンガウ」発十四日0750「カビエン」着尓後「カビエン」方面ニ在リテ「ソロモン」群島方面作戰竝ニ「カビエン」方面警戒ニ任ズ 〕</ref>、迂回路をとってブナへ向かう{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=447-448|ps=混成第二十一旅団第四次輸送}}。14日午前2時より揚陸を開始、輸送作戦は成功した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=448}}。被害は空襲至近弾の荒潮のみだった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=448}}{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。
12月11日、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃する{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=57}}。[[ニューアイルランド島]][[カビエン]]を経由したのち、[[アドミラルティ諸島]](ロレンガウ)で支援隊([[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、鈴谷、[[望月 (駆逐艦)|望月]])から燃料補給を受けつつ<ref>[[#S1711七戦隊日誌(5)]] p.5</ref>、迂回路をとってブナへ向かう{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=447-448|ps=混成第二十一旅団第四次輸送}}。14日午前2時より揚陸を開始、輸送作戦は成功した{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=448}}。被害は空襲至近弾の荒潮のみだった{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=448}}{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。


ニューギニア方面の作戦を進展させるため、日本軍は[[ニューギニア島]]北岸の[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]と[[ウェワク]]を占領して飛行場を設置し、ラエ、サラモアに対する後方基地として強化することにした{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=474-476|ps=マダン、ウエワク攻略作戦}}。だが、[[ポートモレスビー]]の連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、ウエワク攻略部隊の上空警戒のため空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]([[第二航空戦隊]])と護衛部隊([[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]、磯風、浜風、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]){{#tag:Ref|戦史叢書83巻』476では、母艦航空部隊について隼鷹阿賀野磯風濱風ほか艦名不詳の駆逐艦1隻とする。|group="注"}}を派遣した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=475-476}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(5)]] p.36〔 十四日0813第八艦隊司令長官(宛略)第八艦隊機密第14081353番電「ム」号作戰ニ関スル外南洋部隊ノ要旨左通リ 一.兵力部署(区分指揮官兵力)主隊直率 鳥海/支援隊 第七戰隊司令官 第七戰隊/R方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戰隊(竜田欠)/「ウエワク」攻略部隊 第十駆逐隊司令 第十駆逐隊(秋雲欠)清澄丸/「マダン」飛行場攻略部隊 愛國丸船長 駆逐艦四隻 愛國丸護國丸/母艦航空部隊 第二航空戰隊司令官 第二航空戰隊(飛鷹欠)第十戰隊(駆逐艦欠)駆逐艦三隻/二.各部ノ任務 (イ)主隊及支援隊ハ敵情ニ應ジ出撃作戰支援 (ロ)RZ方面護衛隊 x+2日「ラボール」発「アドミラウテイ」島北方ケイマンヲ迂回シ1800及2100頃夫々「ウエワク」「マダン」ニ入泊揚陸ヲ開始X+1日出迄ニ揚陸完了出港 (ロ)母艦航空部隊ハ「ウエワク」北方海面ヲ機宜行動「ウエワク」攻略部隊ノ上空直衛ニ任ジ状況ニ依リ「ウエワク」敵軍ヲ攻撃 〕/[[#S1712四水戦日誌(2)]] p.20〔 十三日2145AdB指揮官(宛略)2Fキデ132145 AdB電令作第92号 GF電令作第413号ニ依リ一時南東方面部隊ニ編入スベキdヲ磯風浜風及2dg(春雨五月雨欠)ニ指定ス AdB軍隊区分中ヨリ2sf(飛鷹欠)10S(dg欠)17dg2D及2dg(春雨五月雨欠)ヲ除ク 〕</ref>。
ニューギニア方面の作戦を進展させるため、日本軍は[[ニューギニア島]]北岸の[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]と[[ウェワク]]を占領して飛行場を設置し、ラエ、サラモアに対する後方基地として強化することにした{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=474-476|ps=マダン、ウエワク攻略作戦}}。だが、[[ポートモレスビー]]の連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、ウエワク攻略部隊の上空警戒のため空母[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]([[第二航空戦隊]])と護衛部隊([[阿賀野 (軽巡洋艦)|阿賀野]]、磯風、浜風、[[村雨 (白露型駆逐艦)|村雨]]){{Efn2|{{harvnb|戦史叢書83|1975|p=476}}では、母艦航空部隊について隼鷹」「阿賀野」「磯風」「濱風ほか艦名不詳の駆逐艦1隻とする。}}を派遣した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=475-476}}<ref>[[#S1711七戦隊日誌(5)]] p.36[[#S1712四水戦日誌(2)]] p.20</ref>。
第10駆逐隊(巻雲、夕雲、風雲)と輸送船[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]]はウェワク攻略を、駆逐艦4隻と輸送船([[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]]、[[護国丸 (特設巡洋艦)|護国丸]])および軽巡天龍がマダン攻略を実施した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=475-476}}。ウェワク攻略部隊は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊は同日18時にラバウルを出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=476-478|ps=実施}}。隼鷹航空隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸を実施、21日朝にラバウルへ戻った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、アメリカ潜水艦[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]]の雷撃で軽巡洋艦[[天龍 (軽巡洋艦)|天龍]](第十八戦隊旗艦)を喪失した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。本作戦終了とともに第10駆逐隊は前進部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。
第10駆逐隊(巻雲、夕雲、風雲)と輸送船[[清澄丸 (特設巡洋艦)|清澄丸]]はウェワク攻略を、駆逐艦4隻と輸送船([[愛国丸 (特設巡洋艦)|愛国丸]]、[[護国丸 (特設巡洋艦)|護国丸]])および軽巡天龍がマダン攻略を実施した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=475-476}}。ウェワク攻略部隊は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊は同日18時にラバウルを出撃した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=476-478|ps=実施}}。隼鷹航空隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく12月18日夜にウェワク揚陸を実施、12月21日朝にラバウルへ戻った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、アメリカ潜水艦[[アルバコア (SS-218)|アルバコア]] (USS ''Albacore'', SS-218) 」の雷撃で軽巡洋艦天龍(第十八戦隊旗艦)を喪失した{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。本作戦終了とともに第10駆逐隊は前進部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=477-478}}。
===昭和18年の戦い===
{{Main|ケ号作戦}}


=== 昭和18年の戦い ===
[[1943年]](昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は[[阿部俊雄]]大佐{{#tag:Ref|阿部俊雄大佐は、軽巡[[大淀 (軽巡洋艦)|大淀]]艦長、空母[[信濃 (空母)|信濃]]艦長等を歴任した。|group="注"}}から[[吉村真武]]大佐<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089400|昭和18年1月18日(発令1月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1036号 pp.9-10}}</ref>に交代した{{#tag:Ref|吉村真武大佐は、1943年1月7日まで軽巡[[龍田 (軽巡洋艦)|龍田]]艦長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089000|昭和18年1月9日(発令1月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1027号 pp.20-21}}</ref>であった。|group="注"}}。
{{Main|ガダルカナル島撤収作戦}}

[[1943年]](昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐から[[吉村真武]]大佐に交代した<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072089400|昭和18年1月18日(発令1月18日付)海軍辞令公報(部内限)第1036号 pp.9-10}}</ref>。
第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した('''ケ号作戦'''){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=148|ps=〈表3〉ガダルカナル島撤収作戦}}。
第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した('''ケ号作戦'''){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=148|ps=〈表3〉ガダルカナル島撤収作戦}}。
1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊(指揮官[[草鹿任一]]南東方面艦隊司令長官)に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=534-536|ps=外南洋部隊兵力部署}}。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲{{#tag:Ref|巻雲はケ号作戦第一次作戦で触雷、2月1日夜自沈{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=560}}。第二次作戦以降の作戦には加わっていない。|group="注"}}、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦では[[ラッセル諸島]]からの撤退作戦を行った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=566-568|ps=第三次撤収(二月七日)}}。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で[[巻雲 (夕雲型駆逐艦)|巻雲]]が触雷し[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]により雷撃処分され、また[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]も空襲で大破した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}(三水戦司令官は旗艦を駆逐艦[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]に変更){{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=89}}。第二次作戦では[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]が大破{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=90}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=214-216}}、第三次作戦で[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]が中破した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=93}}。
1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊(指揮官[[草鹿任一]]南東方面艦隊司令長官)に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=534-536|ps=外南洋部隊兵力部署}}。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲{{Efn2|巻雲はケ号作戦第一次作戦で触雷、2月1日夜自沈{{Sfn|戦史叢書83|1975|p=560}}。第二次作戦以降の作戦には加わっていない。}}、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦では[[ラッセル諸島]]からの撤退作戦を行った{{Sfn|戦史叢書83|1975|pp=566-568|ps=第三次撤収(二月七日)}}。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で巻雲が触雷し夕雲により雷撃処分され、また駆逐艦「[[巻波 (駆逐艦)|巻波]]も空襲で大破した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}(三水戦司令官は旗艦を駆逐艦[[白雪 (吹雪型駆逐艦)|白雪]]に変更){{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=89}}。第二次作戦では駆逐艦「[[舞風 (駆逐艦)|舞風]]が大破{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=90}}{{Sfn|大和最後の艦長|2011|pp=214-216}}、第三次作戦で磯風が中破した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=147|ps=奇跡のガ島撤退}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=93}}。


巻雲を喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける<ref name="S18内令345" />。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下の外南洋部隊増援部隊に所属した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=12-13|ps=外南洋部隊}}。
巻雲を喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける<ref name="S18内令345" />。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下の外南洋部隊増援部隊に所属した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=12-13}}。同時期の日本軍は、日本陸軍部隊の中国大陸東岸~南東方面輸送作戦を実施しており、これを[[丙号輸送]]と呼称した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=30-32}}(丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官[[岸福治]]少将){{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=240-247|ps=丙号輸送の経過}}。
2月14日、外南洋部隊指揮官はウェワク輸送作戦の兵力部署を下令、ケ号作戦に従事していた駆逐隊・駆逐艦は丙号輸送部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=244}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=34-36}}。第10駆逐隊も丙号輸送部隊に組み込まれ、輸送部隊指揮官は「夕雲」と「風雲」を丙三号輸送作戦の第一輸送隊([[北上 (軽巡洋艦)|北上]]、[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]、讃岐丸、相良丸)の護衛に加えた{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=244}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=35}}。丙三号輸送は、[[第41師団 (日本軍)|第41師団]](師団長・[[阿部平輔]]中将)をウェワクへ輸送する任務である{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=243}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=35}}。輸送部隊に編入された駆逐艦は2月17日にパラオに到着{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=35}}。第一輸送隊は2月17日にパラオから出発し、2月20日にウェワクに到着した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=36}}。
同時期の日本軍は、日本陸軍部隊の中国大陸東岸~南東方面輸送作戦を実施しており、これを[[丙号輸送]]と呼称した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=30-32}}(丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官[[岸福治]]少将){{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=240-247|ps=丙号輸送の経過}}。
2月14日、外南洋部隊指揮官はウェワク輸送作戦の兵力部署を下令、ケ号作戦に従事していた駆逐隊・駆逐艦は丙号輸送部隊に編入された{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=244}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=34-36|ps=丙三号輸送}}。第10駆逐隊も丙号輸送部隊に組み込まれ、輸送部隊指揮官は夕雲と風雲を丙三号輸送作戦の第一輸送隊([[北上 (軽巡洋艦)|北上]]、[[大井 (軽巡洋艦)|大井]]、讃岐丸、相良丸)の護衛に加えた{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=244}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=35}}。丙三号輸送は、[[第41師団 (日本軍)|第四十一師団]](師団長[[阿部平輔]]中将)をウェワクへ輸送する任務である{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=243}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=35}}。
輸送部隊に編入された駆逐艦は2月17日にパラオに到着<ref>戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、35ページ</ref>。第一輸送隊は2月17日にパラオから出発し、2月20日にウェワクに到着した<ref>戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、36ページ</ref>。


3月上旬、日本軍は[[ビスマルク海海戦]]の大敗をうけて南東方面への輸送作戦を変更する{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=176|ps=マダン輸送の再検討}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=70-73|ps=二 ハンサ輸送/南東方面部隊及び第八方面軍の作戦指導}}。第10駆逐隊司令吉村大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨、皐月)は、ウェワクと[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]の間にあるハンサ湾へ[[第20師団 (日本軍)|第二十師団]](師団長[[青木重誠]]中将)の将兵を輸送する輸送6隻の護衛を行った([[第一次ハンサ輸送]]){{#tag:Ref|輸送船6隻の内訳は、帝龍丸桃山丸旺洋丸阿蘇丸しどにい丸安昌丸。|group="注"}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=364-367|ps=ハンサ及びウエワク輸送の護衛}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=72a-73|ps=輸送の実施}}。
3月上旬、日本軍は[[ビスマルク海海戦]]の大敗をうけて南東方面への輸送作戦を変更する{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=176|ps=マダン輸送の再検討}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=70-73}}。第10駆逐隊司令吉村大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]][[皐月 (睦月型駆逐艦)|皐月]])は、ウェワクと[[マダン (パプアニューギニア)|マダン]]の間にあるハンサ湾へ[[第20師団 (日本軍)|第21師団]](師団長[[青木重誠]]中将)の将兵を輸送する輸送6隻{{Efn2|輸送船6隻の内訳は、帝龍丸」「桃山丸」「旺洋丸」「阿蘇丸」「しどにい丸」「安昌丸。}}の護衛を行った([[第一次ハンサ輸送]]){{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=364-367|ps=ハンサ及びウエワク輸送の護衛}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=72a-73}}。
3月8日にパラオを出発、陸軍戦闘機の掩護をうけて3月12日朝にハンサ湾到着、揚陸がおこなわれる{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=180-181|ps=船団掩護}}。護衛部隊は二分割される{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=72b}}。翌日未明、秋雲と五月雨は輸送船団を護衛してパラオへむかい{{#tag:Ref|3月13日1850、B-17の夜間空襲により桃山丸が沈没{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=180-181|ps=船団掩護}}、残船団は18日パラオに到着した。|group="注"}}、駆逐艦3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルに移動、14日朝に到着した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=72b}}。
3月8日にパラオを出発、陸軍戦闘機の掩護をうけて3月12日朝にハンサ湾到着、揚陸がおこなわれる{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=180-181}}。護衛部隊は二分割される{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=72b}}。翌日未明、秋雲と五月雨は輸送船団を護衛してパラオへむかい{{Efn2|3月13日18時50分、B-17の夜間空襲により桃山丸が沈没{{Sfn|戦史叢書07|1967|p=180-181}}、残船団は3月18日パラオに到着した。}}、駆逐艦3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルに移動、3月14日朝に到着した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=72b}}。
3月19日、「風雲」と「夕雲」は[[グロスター岬|ツルブ]]へ弾薬、糧食を揚陸した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=74}}。その後は[[ラバウル]]を経てショートランドへ再進出し、[[コロンバンガラ島]]への輸送作戦に加わる{{Sfn|秋雲会|1986|p=40}}。4月1日、駆逐艦5隻(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)でコロンバンガラ輸送を実施した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=132a-133}}。4月3日、「風雲」は[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]入港時に触雷し第一缶室と機械室の一部に浸水した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=83-84}}。ブインにはアメリカ軍の[[TBF (航空機)|TBF]]が3月20日と21日に機雷を敷設していた{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=83}}。これ以降、輸送部隊から外された{{Sfn|秋雲会|1986|p=40}}。4月28日、横須賀に帰投した。5月、修理をおこなった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=521}}。
3月19日、「風雲」と「夕雲」は[[ツルブ]]へ弾薬、糧食を揚陸した<ref>戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、74ページ</ref>。
その後は[[ラバウル]]を経てショートランドへ再進出し、[[コロンバンガラ島]]への輸送作戦に加わる<ref name="b">『栄光の駆逐艦 秋雲』40ページ</ref>。4月1日、駆逐艦5隻(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)でコロンバンガラ輸送を実施した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=132a-133|ps=中部ソロモン方面増援輸送}}。4月3日、「風雲」は[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]入港時に触雷し第一缶室と機械室の一部に浸水した<ref>戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、83-84ページ</ref>。ブインにはアメリカ軍の[[TBF (航空機)|TBF]]が3月20日と21日に機雷を敷設していた<ref>戦史叢書第96巻 南東方面海軍作戦<3>ガ島撤収後、83ページ</ref>。
これ以降、輸送部隊から外された<ref name="b" />。4月28日、横須賀に帰投した。5月、修理をおこなった{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=521}}。


{{Main|キスカ島撤退作戦}}
{{Main|キスカ島撤退作戦}}


5月29日、[[アッツ島の戦い|アッツ島地上戦]]により[[アッツ島]]の日本軍守備隊は玉砕した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=562-563|ps=最終攻撃 5月19日~29日}}。
5月29日、[[アッツ島の戦い|アッツ島地上戦]]により[[アッツ島]]の日本軍守備隊は玉砕した{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=562-563|ps=最終攻撃 5月19日~29日}}。
6月10日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は北方部隊(指揮官・[[河瀬四郎]]第五艦隊司令長官)に編入された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=598}}。[[幌筵島]]に到着と共に、水雷部隊(指揮官・第一水雷戦隊司令官[[木村昌福]]少将)に編入された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=598}}<ref>[[#S1806 第1水戦戦時日誌 (1)]], p.8</ref>。同時期に行われていた[[キスカ島]]からの[[キスカ島撤退作戦|第一期撤収作戦]]は、投入された潜水艦が次々に損傷し、6月23日に中止された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=574}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=605}}。そこで水雷戦隊の出番となり、第二期ケ号作戦が実施される{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=593-594|ps=北方情勢}}。第10駆逐隊は、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加した。収容部隊([[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]〈木村少将旗艦〉、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=161-162|ps=初陣、キスカ撤収作戦}}、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、秋雲、夕雲、'''風雲'''、[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]{{Efn2|「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷、単独で幌筵へ帰投{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。}}、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]{{Efn2|「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷後、燃料補給部隊護衛にまわる{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。}}、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]){{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=226}}、主隊([[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]){{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=181-182}}、燃料補給部隊([[占守型海防艦|国後]]、日本丸)という部隊区分だった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=607-614}}。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、「風雲」のみ[[上陸用舟艇|発動艇]]を回収し、さらに陸戦隊が飼っていた[[キツネ]]も持ち帰ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。このキツネは[[上野動物公園]]に寄贈された{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。撤退作戦を終えた後、第10駆逐隊は8月3日付で機動部隊に復帰した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=666}}。横須賀を経て再び南方へと向かった{{Sfn|秋雲会|1986|p=47}}。
6月10日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は北方部隊(指揮官[[河瀬四郎]]第五艦隊司令長官)に編入された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=598}}。[[幌筵島]]に到着と共に、水雷部隊(指揮官[[木村昌福]]第一水雷戦隊司令官、海軍少将・海兵41期){{#tag:Ref|前任の第一水雷戦隊司令官[[森友一]]少将が急病で倒れ{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=599}}、木村昌福少将は1943年6月11日に着任、14日幌筵に進出した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=605}}。|group="注"}}に編入された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=598}}<ref>『第一水雷戦隊戦時日誌』C08030084400, pp.8</ref>。
同時期に行われていた[[キスカ島]]からの[[キスカ島撤退作戦|第一期撤収作戦]]は、投入された潜水艦が次々に損傷し、6月23日に中止された{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=574}}{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=605}}。そこで水雷戦隊の出番となり、第二期ケ号作戦が実施される{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=593-594|ps=北方情勢}}。第10駆逐隊は、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加した。
収容部隊([[阿武隈 (軽巡洋艦)|阿武隈]]〈木村少将旗艦〉、[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]、[[島風 (島風型駆逐艦)|島風]]{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|pp=161-162|ps=初陣、キスカ撤収作戦}}、[[響 (吹雪型駆逐艦)|響]]、[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]、[[薄雲 (吹雪型駆逐艦)|薄雲]]、[[長波 (駆逐艦)|長波]]、[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]、'''風雲'''、[[若葉 (初春型駆逐艦)|若葉]]{{#tag:Ref|国後を起因とする多重衝突事故で損傷、単独で幌筵へ帰投{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。|group="注"}}、[[初霜 (初春型駆逐艦)|初霜]]{{#tag:Ref|国後を起因とする多重衝突事故で損傷後、燃料補給部隊護衛にまわる{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=638}}。|group="注"}}、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]){{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=226}}、主隊([[多摩 (軽巡洋艦)|多摩]]){{Sfn|重巡摩耶|2002|pp=181-182}}、燃料補給部隊([[占守型海防艦|国後]]、日本丸)という部隊区分だった{{Sfn|戦史叢書29|1969|pp=607-614}}。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、風雲のみ[[上陸用舟艇|発動艇]]を回収し、さらに陸戦隊が飼っていた[[キツネ]]も持ち帰ったという{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。キツネは[[上野動物公園]]に寄贈された{{Sfn|佐藤、艦長たち続篇|1984|p=58}}。撤退作戦を終えた後、第10駆逐隊は8月3日付で機動部隊に復帰した{{Sfn|戦史叢書29|1969|p=666}}。横須賀を経て再び南方へと向かった<ref>『栄光の駆逐艦 秋雲』47ページ</ref>。


{{Main|ニュージョージア島の戦い}}
{{Main|ニュージョージア島の戦い}}


9月15日附で風雲駆逐艦長は吉田中佐から[[橋本金松]]少佐(当時、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]駆逐艦長)<ref name="jirei1216">{{アジア歴史資料センター|C13072093000|昭和18年9月15日(発令9月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1216号 p.35}}</ref>に交代した{{#tag:Ref|後日、吉田は第41駆逐隊([[冬月 (駆逐艦)|冬月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]])司令として[[坊ノ岬沖海戦]]に参加する。|group="注"}}。
9月15日附で風雲駆逐艦長は吉田中佐から[[橋本金松]]少佐(当時、白露駆逐艦長)<ref name="jirei1216">{{アジア歴史資料センター|C13072093000|昭和18年9月15日(発令9月14日付)海軍辞令公報(部内限)第1216号 p.35}}</ref>に交代した{{Efn2|後日、吉田は第41駆逐隊([[冬月 (駆逐艦)|冬月]]、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]])司令として[[坊ノ岬沖海戦]]に参加する。}}。
9月20日、風雲{{#tag:Ref|昭和18年9月5日、第10駆逐隊の夕雲と秋雲は第三水雷戦隊の指揮下に入った。|group="注"}}は第三水雷戦隊(司令官[[伊集院松治]]大佐・海兵43期、旗艦「川内」)の指揮下に入り、第10駆逐隊が揃う{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=290}}<ref>戦時日誌』C08030106000, pp.43</ref>。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=293-295|ps=A「セ」号作戦軍隊区分}}(セ号作戦の行動と経過詳細は当該記事を参照)。
9月20日、風雲は第三水雷戦隊(司令官[[伊集院松治]]大佐、旗艦「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」)の指揮下に入り、第10駆逐隊が揃う{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=290}}<ref>[[#S1807 3水戦戦時日誌 (3)]], p.43</ref>{{Efn2|「夕雲」と「秋雲」は昭和18年9月5日、先行して第三水雷戦隊の指揮下に入っていた。}}。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=293-295A表}}(セ号作戦の行動と経過詳細は当該記事を参照)。
9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ{{#tag:Ref|吉村真武大佐は、1943年10月11日より軽巡洋艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]艤装員長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093800|昭和18年10月13日(発令10月11日付)海軍辞令公報(部内限)第1237号 p.17}}</ref>となる。|group="注"}}、[[天野重隆]]大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092600|昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2}}</ref>に交代する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093100|昭和18年9月22日(発令9月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1221号 p.30}}</ref>。
9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ{{#tag:Ref|吉村真武大佐は、1943年10月11日より軽巡洋艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]艤装員長<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093800|昭和18年10月13日(発令10月11日付)海軍辞令公報(部内限)第1237号 p.17}}</ref>となる。|group="注"}}、[[天野重隆]]大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072092600|昭和18年8月21日(発令8月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1196号 p.2}}</ref>に交代する<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072093100|昭和18年9月22日(発令9月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1221号 p.30}}</ref>。
9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊(指揮官[[伊集院松治]]第三水雷戦隊司令官、旗艦「秋雲」)として敵艦隊の出現に備えた{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=297-300}}。連合軍の巡洋艦や水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度で特筆すべき海戦は生起せず{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=302}}、セ号作戦は成功裡に終わった{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=286}}。
9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊(指揮官伊集院大佐、旗艦「秋雲」)として敵艦隊の出現に備えた{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=297-300}}。連合軍の巡洋艦や水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度で特筆すべき海戦は生起せず{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=302}}、セ号作戦は成功裡に終わった{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=286}}。


{{Main|第二次ベララベラ海戦}}
{{Main|第二次ベララベラ海戦}}


戦いは間を置かず続けられ、日本軍は[[ベララベラ島]]からの撤退作戦を実施した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=140}}。10月6日未明にラバウルを出撃し、[[ブーゲンビル島]]南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=213-214}}。増援部隊指揮官[[伊集院松治]]第三水雷戦隊司令官(秋雲座乗)は夜襲隊([[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]、風雲、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]][[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]]、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]])を指揮して戦闘海域へ向かった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=211-213|ps=「秋雲」旗艦となる}}。6日夜、{{仮リンク|フランク・R・ウォーカー|en|Frank R. Walker}}大佐率いる第42駆逐群<ref>木俣『日本水雷戦史365ページ</ref>の先制攻撃を受けて夜間水上戦闘が始まった{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=307-308|ps=ベララベラ島沖海戦}}(日本側呼称''第二次ベララベラ海戦''、連合軍呼称''ベララベラ島沖海戦''){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=214-216|ps="東京急行"を阻止せよ}}。当時の日本側夜襲部隊陣形は、秋雲(三水戦旗艦)-磯風-風雲-夕雲の[[単縦陣]]であったという{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=141|ps=第二次ベララベラ海戦図}}。
戦いは間を置かず続けられ、日本軍は[[ベララベラ島]]からの撤退作戦を実施した{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=140}}。10月6日未明にラバウルを出撃し、[[ブーゲンビル島]]南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=213-214}}。増援部隊指揮官伊集院大佐秋雲座乗)は夜襲隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]、五月雨)を指揮して戦闘海域へ向かった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=211-213|ps=「秋雲」旗艦となる}}。日夜、{{仮リンク|フランク・R・ウォーカー|en|Frank R. Walker}}大佐率いる第42駆逐群{{Sfn|木俣水雷戦史|1986|p=365}}の先制攻撃を受けて夜間水上戦闘が始まった{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=307-308}}(日本側呼称''第二次ベララベラ海戦''、連合軍呼称''ベララベラ島沖海戦''){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=214-216|ps="東京急行"を阻止せよ}}。当時の日本側夜襲部隊陣形は、秋雲(三水戦旗艦)-磯風風雲夕雲の[[単縦陣]]であったという{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=141|ps=第二次ベララベラ海戦図}}。戦闘開始後、「風雲」に後続していた「夕雲」が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦「[[シャヴァリア (DD-451)|シャヴァリア]] (USS ''Chevalier'', DD-451) 」に「夕雲」の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=216-218}}。「風雲」は二番砲塔に被弾(戦死1、負傷者数名)、使用不能となった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=366}}。甲型3隻(秋雲、磯風、風雲)は別働の第27駆逐隊(時雨、五月雨){{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=240-242}}と共に駆逐艦「{{仮リンク|セルフリッジ (DD-357)|label=セルフリッジ|en|USS Selfridge (DD-357)}} (USS ''Selfridge'', DD-357) 」と「[[オバノン (DD-450)|オバノン]] (USS ''O'Bannon'', DD-450) 」に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=367}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}。「風雲」は「夕雲」の生存者を救助したが{{Sfn|木俣、水雷戦史|1986|p=368}}、生存者の一部はアメリカ軍にも救助されている{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}。「夕雲」の沈没により、第10駆逐隊は「風雲」と「秋雲」の2隻となった<ref name="S18内令2556" />
戦闘開始後、風雲に後続していた夕雲が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦[[シャヴァリア (DD-451)|シャヴァリア]] (''USS Chevalier, DD-451'') に夕雲の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=216-218}}。風雲は二番砲塔に被弾(戦死1、負傷者数名)、使用不能となった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}<ref>木俣『日本水雷戦史』366ページ</ref>。甲型3隻(秋雲、磯風、風雲)は別働の第27駆逐隊(時雨、五月雨){{Sfn|五月雨出撃す|2010|pp=240-242}}と共に{{仮リンク|セルフリッジ (DD-357)|label=セルフリッジ|en|USS Selfridge (DD-357)}} (''USS Selfridge, DD-357'') と[[オバノン (DD-450)|オバノン]] (''USS O'Bannon, DD-450'') に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった<ref>木俣『日本水雷戦史』367ページ</ref>{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}。風雲は夕雲生存者を救助したが<ref>木俣『日本水雷戦史』368ページ</ref>、夕雲生存者の一部はアメリカ軍にも救助されている{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=219-221}}。夕雲の沈没により、第10駆逐隊は風雲と秋雲の2隻となった<ref name="S18内令2556" />。


ラバウルに帰投後、10月7日限りで外南洋部隊(第八艦隊、第三水雷戦隊)の指揮下から離れ、原隊に復帰した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=284}}<ref>戦時日誌』C08030106100, pp.28</ref>。秋雲とともに[[グロスター岬|ツルブ]]への輸送作戦を行った後<ref name="c">『栄光の駆逐艦 秋雲』51ページ</ref>、第三艦隊(司令長官[[小沢治三郎]]中将・海兵37期)に合流して[[エニウェトク環礁]]へ進出した<ref name="c" />{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=418-419|ps=聯合艦隊決戦兵力のブラウン進出}}。
ラバウルに帰投後、「風雲」「秋雲」10月7日限りで外南洋部隊(第八艦隊、第三水雷戦隊)の指揮下から離れ、原隊に復帰した{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=284}}<ref>[[#S1807 3水戦戦時日誌 (4)]], p.28</ref>。「風雲」は「秋雲とともにツルブへの輸送作戦を行った後{{Sfn|秋雲会|1986|p=51}}<ref name="c">『栄光の駆逐艦 秋雲』51ページ</ref>、第三艦隊(司令長官[[小沢治三郎]]中将)に合流して[[エニウェトク環礁]]へ進出した{{Sfn|秋雲会|1986|p=51}}{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=418-419|ps=聯合艦隊決戦兵力のブラウン進出}}。
10月28日、連合艦隊は[[ろ号作戦]]を発動する{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=424-425|ps=第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=372-373|ps=「ろ」号作戦発令―十月二十八日}}。第一航空戦隊の航空隊をラバウル陸上基地に転用し、第十戦隊や第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出、一航戦の基地員や物件をトラックからカビエンもしくはラバウルへ輸送することになった{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=425}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=384}}。風雲と大波は第二部隊として10月31日にトラックを出発、11月1日カビエンに到着した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=425}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=390}}。
10月28日、連合艦隊は[[ろ号作戦]]を発動する{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=424-425|ps=第一航空戦隊の飛行機隊のラバウル進出}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=372-373}}。第一航空戦隊の航空隊をラバウル陸上基地に転用し、第十戦隊や第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出、一航戦の基地員や物件をトラックからカビエンもしくはラバウルへ輸送することになった{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=425}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=384}}。風雲駆逐艦「[[大波 (駆逐艦)|大波]]」は第二部隊として10月31日にトラックを出発、11月1日カビエンに到着した{{Sfn|戦史叢書62|1973|p=425}}{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=390}}。


{{Main|ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島沖海戦}}
{{Main|ブーゲンビル島の戦い|ブーゲンビル島沖海戦}}


11月1日、南東方面部隊はブーゲンビル島タロキナ逆上陸作戦に関連し、第三襲撃部隊(阿賀野、若月、初風、風雲、大波、長波)を編成した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=388-390|ps=タロキナへの逆上陸輸送計画の生起}}。だが風雲と大波は輸送作戦に従事していたので、同日深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=390}}。ラバウルに進出した風雲はタロキナ逆上陸作戦部隊に加わる{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=397-399|ps=ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い}}。同時期にラバウルへ進出した第二艦隊司令長官[[栗田健男]]中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日の[[ラバウル空襲]]により大打撃を受け{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=425-426|ps=遊撃部隊のラバウル進出直後の被害}}即日ラバウルを撤収した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=400-401|ps=重巡部隊のトラック帰投}}。ラバウルに残った水雷戦隊でタロキナ逆上陸作戦はつづけられ、第一支援隊(阿賀野、若月、浦風)として輸送作戦を支援した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=401-404|ps=タロキナ北方逆上陸の成功}}。11月11日、米軍機動部隊は再度のラバウル空襲を敢行、日本側は駆逐艦[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]が沈没するなど損害を受ける{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=414-415|ps=邀撃空戦と艦艇の被害}}。第十戦隊・第二水雷戦隊の大部分はラバウルから退却した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=428-429|ps=「阿賀野」の被雷とその救難}}。
11月1日、南東方面部隊はブーゲンビル島タロキナ逆上陸作戦に関連し、第三襲撃部隊(阿賀野、[[若月 (駆逐艦)|若月]][[初風 (駆逐艦)|初風]]、風雲、大波、長波)を編成した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=388-390}}。だが風雲大波は輸送作戦に従事していたので、同日深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった{{Sfn|戦史叢書96|1976|p=390}}。ラバウルに進出した風雲はタロキナ逆上陸作戦部隊に加わる{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=397-399}}。同時期にラバウルへ進出した第二艦隊司令長官[[栗田健男]]中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日の[[ラバウル空襲]]により大打撃を受け{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=425-426|ps=遊撃部隊のラバウル進出直後の被害}}即日ラバウルを撤収した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=400-401}}。ラバウルに残った水雷戦隊でタロキナ逆上陸作戦はけられ、第一支援隊(阿賀野、若月、浦風)として輸送作戦を支援した{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=401-404}}。11月11日、米軍機動部隊は再度のラバウル空襲を敢行、日本側は駆逐艦[[涼波 (駆逐艦)|涼波]]が沈没するなど損害を受ける{{Sfn|戦史叢書96|1976|pp=414-415}}。第十戦隊・第二水雷戦隊の大部分はラバウルから退却した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=428-429|ps=「阿賀野」の被雷とその救難}}。


トラックに帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊・遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島へ進出した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=485-486|ps=遊撃部隊のマーシャル進出}}。その後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])は戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]と空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀へ帰投した<ref>戦隊戦時日誌』C08030050000, pp.5,10,25,31</ref>。12月21日、司令駆逐艦は風雲から秋雲にかわった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070443300|昭和18年12月25日(土)海軍公報(部内限)第4575号 p.39}}『○司令驅逐艦變更 第十驅逐隊司令ハ十二月十一日司令驅逐艦ヲ秋雲ニ變更セリ』</ref>。その後、風雲は[[IHI|東京石川島造船所]]で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。
「風雲」はトラックに帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊・遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島へ進出した{{Sfn|戦史叢書62|1973|pp=485-486|ps=遊撃部隊のマーシャル進出}}。その後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、[[山雲 (駆逐艦)|山雲]])は戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]と空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀へ帰投した<ref>[[#S1812 10戦隊日誌 (1)]], pp.5,10,25,31</ref>。12月21日、司令駆逐艦は風雲から秋雲にかわった<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070443300|昭和18年12月25日(土)海軍公報(部内限)第4575号 p.39}}</ref>。その後、風雲は[[IHI|東京石川島造船所]]で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。


===昭和19年の戦い===
=== 昭和19年の戦い ===
ろ号作戦実施中の1943年(昭和18年)10月31日附で[[朝潮型駆逐艦|満潮型駆逐艦]]「朝雲」が第10駆逐隊に加入、10駆は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる<ref name="S18内令2245" />。修理を終えた後の[[1944年]](昭和19年)1月17日、「風雲」と「秋雲」は横須賀を出港し、「翔鶴」を[[瀬戸内海]]まで護衛した<ref>[[#S1812 第10戦隊日誌 (2)]], pp.6,10</ref>。2月6日、桜部隊([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、翔鶴、[[筑摩 (重巡洋艦)|筑摩]]、[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]、秋雲、風雲、朝雲、[[初月 (駆逐艦)|初月]]、若月)として[[洲本市|洲本]]沖を出撃し、2月13日[[シンガポール|昭南]]に到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=31-32|ps=聯合艦隊主力(水上部隊)の概況}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=171-172|ps=リンガ方面在泊部隊}}<ref name="d">[[#S1812 第10戦隊日誌 (3)]], pp.5</ref>。リンガ泊地で訓練に従事するが、「瑞鶴」に修理が必要となったため、2月20日に第10駆逐隊は「瑞鶴」を護衛して内地にむかった{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}。2月27日、呉に到着する{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}。
ろ号作戦実施中の[[1943年]](昭和18年)10月31日附で[[朝潮型駆逐艦|満潮型駆逐艦]]の[[朝雲 (駆逐艦)|朝雲]]が第10駆逐隊に加入、10駆は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる<ref name="S18内令2245" />。
3月7日、第10駆逐隊は「瑞鶴」、重巡「[[最上 (重巡洋艦)|最上]]」、第三戦隊(司令官・[[鈴木義尾]]中将)の戦艦2隻([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])を護衛して瀬戸内海を出撃、[[リンガ泊地]]に向かい、3月15日到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}<ref>[[#S1812 第10戦隊日誌 (4)]], p.4</ref>。
修理を終えた後の[[1944年]](昭和19年)1月17日、風雲と秋雲は横須賀を出港し、翔鶴を[[瀬戸内海]]まで護衛した<ref>『第十戦隊戦時日誌』C08030050100, pp.6,10</ref>。2月6日、桜部隊([[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]、翔鶴、筑摩、矢矧、秋雲、風雲、朝雲、初月、若月)として[[洲本市|洲本]]沖を出撃し、13日[[シンガポール|昭南]]に到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=31-32|ps=聯合艦隊主力(水上部隊)の概況}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=171-172|ps=リンガ方面在泊部隊}}<ref name="d">『第十戦隊戦時日誌』C08030050200, pp.5</ref>。リンガ泊地で訓練に従事するが、瑞鶴に修理が必要となったため、2月20日に第10駆逐隊は瑞鶴を護衛して内地にむかった{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}。27日、呉に到着する{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}。
3月20日附で第10駆逐隊司令[[天野重隆]]大佐は第61駆逐隊司令へ転任し、後任の司令は[[赤澤次壽雄]]大佐(当時、「[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]」駆逐艦長)となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096800|昭和19年3月22日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1384号 p.25}}</ref>。3月25日、赤澤大佐は司令駆逐艦を「秋雲」から「風雲」に変更する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462300|昭和19年4月24日(月)海軍公報(部内限)第4673号 p.39}}</ref>。リンガ泊地に到着後、第10駆逐隊は第十戦隊(旗艦「矢矧」)とともに航空戦隊との合同訓練に従事した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}{{Sfn|秋雲会|1986|p=58}}。
3月7日、第10駆逐隊は瑞鶴、重巡洋艦[[最上 (重巡洋艦)|最上]]、第三戦隊(司令官[[鈴木義尾]]中将、海兵40期)の戦艦2隻([[金剛 (戦艦)|金剛]]、[[榛名 (戦艦)|榛名]])を護衛して瀬戸内海を出撃、[[リンガ泊地]]に向かい、3月15日到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}<ref>『第十戦隊戦時日誌』C08030050300, pp.4</ref>。
4月11日、「秋雲」がアメリカ潜水艦「[[レッドフィン (潜水艦)|レッドフィン]] (USS ''Redfin'', SS-272) 」{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446-447}}の雷撃で撃沈された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93d|ps=秋雲(あきぐも)}}<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120641100|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年4月1日~19年4月20日、p.24}}</ref>。第10駆逐隊は風雲と朝雲の2隻となった<ref name="S19内令743" />。5月12日にリンガ泊地を出撃して[[タウィタウィ州|タウイタウイ]]に進出し、タンカー護衛と対潜掃討に従事した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=373}}。
3月20日附で第10駆逐隊司令[[天野重隆]]大佐は[[秋月型駆逐艦]]の第61駆逐隊司令へ転任し、後任の10駆司令は[[赤澤次壽雄]]大佐(当時、[[涼月 (駆逐艦)|涼月]]駆逐艦長)となった<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072096800|昭和19年3月22日(発令3月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1384号 p.25}}</ref>。3月25日、赤澤大佐は司令駆逐艦を秋雲から風雲に変更する<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070462300|昭和19年4月24日(月)海軍公報(部内限)第4673号 p.39}}『○司令驅逐艦變更 第十驅逐隊司令ハ三月二十五日司令驅逐艦ヲ風雲ニ變更セリ』</ref>。
リンガ泊地に到着後、第10駆逐隊は第十戦隊(旗艦[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]])とともに航空戦隊との合同訓練に従事した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=172}}<ref>『栄光の駆逐艦 秋雲』58ページ</ref>。
4月11日、秋雲がアメリカ潜水艦[[レッドフィン (潜水艦)|レッドフィン]]<ref name="叢書(46)446" />の雷撃で撃沈された{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93d|ps=秋雲(あきぐも)}}<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120641100|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年4月1日~19年4月20日、p.24}}(19-4)|11|1815|秋雲ハ「ミンダナオ」西南端「ザンボアンガ」灯台ノ112°27′ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク|菲蘭 10S/3F|沈没 乗員ノ大部ハ救助セラレタル模様|</ref>。第10駆逐隊は風雲と朝雲の2隻となった<ref name="S19内令743" />。5月12日にリンガ泊地を出撃して[[タウィタウィ州|タウイタウイ]]に進出し、タンカー護衛と対潜掃討に従事した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=373}}。


{{Main|ビアク島の戦い|渾作戦}}
{{Main|ビアク島の戦い|渾作戦}}


この頃、[[ビアク島]]を巡って攻防が繰り広げられており{{sfn|草鹿|1979|pp=233-234|ps=敵を誘い出してたたく}}、帝国海軍は'''渾作戦'''を発動してビアク島救援作戦を展開{{sfn|草鹿|1979|pp=234-236}}{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|pp=36-40|ps=ビアク来攻と渾作戦}}。
この頃、[[ビアク島]]を巡って攻防が繰り広げられており{{sfn|草鹿|1979|pp=233-234|ps=敵を誘い出してたたく}}、帝国海軍は'''渾作戦'''を発動してビアク島救援作戦を展開{{sfn|草鹿|1979|pp=234-236}}{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|pp=36-40|ps=ビアク来攻と渾作戦}}。
5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官[[左近允尚正]]第十六戦隊司令官旗艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]])に編入される{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=490|ps=聯合艦隊電令作第102号(5月29日2343)}}。間接護衛隊の戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]と第10駆逐隊(風雲、朝雲)、警戒隊(指揮官[[橋本信太郎]]第五戦隊司令官、中将・海兵41期)の第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])と第27駆逐隊([[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]][[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]][[白露 (白露型駆逐艦)|白露]][[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]){{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=494-495}}は、タウイタウイから[[ダバオ]]へ移動した{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|p=37}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=493}}。
5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官[[左近允尚正]]第十六戦隊司令官旗艦[[青葉 (重巡洋艦)|青葉]])に編入される{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=490|ps=聯合艦隊電令作第102号(5月29日2343)}}。間接護衛隊の戦艦[[扶桑 (戦艦)|扶桑]]と第10駆逐隊(風雲、朝雲)、警戒隊(指揮官・第五戦隊司令官[[橋本信太郎]]中将)の第五戦隊([[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]、[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]])と第27駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨){{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=494-495}}は、タウイタウイから[[ダバオ]]へ移動した{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|p=37}}{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=493}}。
6月2日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、輸送隊(青葉、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])等と共にダバオを出撃する<ref>[[#S1906五戦隊日誌]] p.2〔 ()前月末渾部隊ニ編入セラレ「ダバオ」ニ待機中ノ處二日渾作戰部隊警戒隊(5S 27dg)(扶桑10dg)ヲ率ヰ「ビアク」島ニ向ケ「ダバオ」ヲ出撃セルモ三戰ノ一時中止セラレタルヲ以テ五「ダバオ」ニ歸投警戒待機ス此ノ間四払暁敵B-24三機ト交戰ソノ一機ヲ撃墜他ヲ撃退セリ </ref>{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=496a-498|ps=第一次渾作戦経過}}。
6月2日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、輸送隊(青葉、[[鬼怒 (軽巡洋艦)|鬼怒]]、[[敷波 (吹雪型駆逐艦)|敷波]]、[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]])等と共にダバオを出撃する<ref>[[#S1906五戦隊日誌]] p.2</ref>{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=496a-498|ps=第渾作戦経過}}。[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]に触されたため<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.7-8}}(昭和19年6月3日項)</ref>、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官は6月3夜に戦の中止を発した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=496c|ps=聯合艦隊電令作第115号(6月32025)}}<ref>[[#S1906第27駆誌(1)]] p.19</ref>。「敵機動部隊発見」は誤報と判明したため渾作戦は再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は原隊復帰{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=496c|ps=聯合艦隊電令第115号(6月3日2025)}}、つづいてダバオ回航を命じられた<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.11-12}}</ref>
6月5日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)はダバオに到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=497}}{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|p=39}}。このあと渾作戦は駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲で「春雨」(第27駆逐隊司令戦死)を喪失し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=90|ps=春雨(はるさめ)}}、さらにアメリカの巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=498|ps=第二次渾作戦}}(第二次渾作戦){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=151|ps=ニューギニア沖の退却戦}}{{sfn|草鹿|1979|pp=236-237|ps=ビアク突入に失敗}}。そこで、連合艦隊は第一戦隊司令官[[宇垣纏]]中将の大和型戦艦「大和」と「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]および[[早川幹夫]]少将指揮下の[[第二水雷戦隊]]なども投入して<ref>[[#あ号作戦日誌(2)]] pp.4-5</ref>、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった{{sfn|草鹿|1979|pp=237-239|ps=武蔵、大和を加え再度決行}}。
[[B-24 (航空機)|B-24爆撃機]]に触接されたため<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.7-8}}(昭和19年6月3日項)〔 GFハ渾作戰一時中止ヲ發令 〕</ref>、[[豊田副武]]連合艦隊司令長官は6月3日夜に作戦の中止を発令した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=496c|ps=聯合艦隊電令作第115号(6月3日2025)}}<ref>[[#S1906第27駆日誌(1)]] p.19〔 六-三2250GF長官(宛略)GF電令作第115號 渾作戰ヲ一時中止ス 各部隊左ニ依リ行動セヨ 一.5S及間接護衛隊ハ原隊ニ復歸セヨ/二.輸送隊(27dgヲ含ム)ハ「ソロン」ニ入泊シ機ヲ見テ渾作戰ヲ再興セヨ 〕</ref>。
「敵機動部隊発見」は誤報と判明したため渾作戦は再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は原隊復帰{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=496c|ps=聯合艦隊電令作第115号(6月3日2025)}}、つづいてダバオ回航を命じられた<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、pp.11-12}}(19-6)|4| |(司令長官)GF 右敵「ドウルヴィレ」岬北方ニ出現ノ報ニヨリ渾部隊ハ陸軍部隊ヲ至急「ソロン」ニ揚陸シ「アンボン」ニ一時避退スル如ク下令セルモ敵KdBハ誤ナルコト判明セルヲ以テ 渾作戰再興|菲島 蘭印|5S 扶桑 10dg(風雲 朝雲)ヲ「ダバオ」ニ囘航セシム|</ref>。
6月5日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)はダバオに到着した{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=497}}{{Sfn|サイパン・レイテ海戦記|2004|p=39}}。
このあと渾作戦は駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲で[[春雨 (白露型駆逐艦)|春雨]](第27駆逐隊司令戦死)を喪失し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=90|ps=春雨(はるさめ)}}、さらにアメリカの巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された{{Sfn|戦史叢書12|1968|p=498|ps=第二次渾作戦}}(第二次渾作戦){{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=151|ps=ニューギニア沖の退却戦}}{{sfn|草鹿|1979|pp=236-237|ps=ビアク突入に失敗}}。
そこで、連合艦隊は第一戦隊司令官[[宇垣纏]]中将の大和型戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]と[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]および[[第二水雷戦隊]]司令官[[早川幹夫]]少将指揮下の水雷戦隊なども投入して<ref>[[#あ号作戦日誌(2)]] pp.4-5〔 (イ)第一機動艦隊 前月中旬來其ノ全力ヲ「タウイタウイ」ニ集結決戰即應ノ態勢ヲ持シアリシトコロ敵ノ「ビアク」攻略作戰ニ對應スル爲前月末一部兵力ヲ之ニムケラレタルモ所期ノ成果ヲ得ラレザリシヲ以テ更ニ本月十日第一戰隊(長門欠)第二水雷戰隊(能代沖波島風)ヲ渾部隊ニ増勢セラレ右作戰部隊ハ十二日「バチヤン」泊地ニ其ノ大部ノ集結ヲ了シ作戰準備中新ニ敵ノ「マリアナ」進攻作戰ニ依リ渾作戰ハ一時中止ノ止ムナキニ至リ… 〕</ref>、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった{{sfn|草鹿|1979|pp=237-239|ps=武蔵、大和を加え再度決行}}。


[[6月7日]]夕刻、連合艦隊は電令作第124号をもって第五戦隊(妙高、羽黒)と第10駆逐隊(風雲、朝雲)を渾部隊に編入し<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.21}}(19-6)|7|P.M.|GFハ 5S 10dg(風雲 朝雲)ヲ渾部隊ニ編入| ||</ref>、[[ハルマヘラ島]]バチャン泊地への進出を命じた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=502-503}}。同日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してダバオを出撃した<ref>[[#S1906五戦隊日誌]] pp.2-3〔 (二)七日5S 10dgハ再ビ渾作戰部隊ニ編入セラレ同日ダバオ出港九日「バチャン」泊地着輸送隊(16S浦波敷波)ト合同同泊地ニテ待機ス「ダバオ」出撃時七日夜風雲敵潜ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ十日1S(長門欠)2sd(能代島風沖波)渾部隊ニ編入セラル 〕</ref><ref name="あ号日誌(2)20" />。この時、{{仮リンク|ダバオ湾|en|Davao Gulf}}口ではアメリカ潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]]が哨戒を行っていた<ref name="叢書(46)446">[[#叢書46海上護衛戦]]446-447頁『米潜水艦に撃沈されたわが駆逐艦一覧表』</ref>
6月7日夕刻、連合艦隊は電令作第124号をもって第五戦隊(妙高、羽黒)と第10駆逐隊(風雲、朝雲)を渾部隊に編入し<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.21}}</ref>、[[ハルマヘラ島]]バチャン泊地への進出を命じた{{Sfn|戦史叢書12|1968|pp=502-503}}。同日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してダバオを出撃した<ref>[[#S1906五戦隊日誌]] pp.2-3</ref><ref name="あ号日誌(2)20" />。この時、{{仮リンク|ダバオ湾|en|Davao Gulf}}口ではアメリカ潜水艦[[ヘイク (潜水艦)|ヘイク]] (USS ''Hake'', SS-256) 」が哨戒を行っていた{{Sfn|戦史叢書46|1971|pp=446-447}}
翌[[6月8日]]未明、ヘイクのレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知<ref>「SS-256, USS HAKE」p.118</ref>。午前2時12分、{{coor dm|06|03|N|125|57|E|}}の地点で魚雷を6本発射した<ref>「SS-256, USS HAKE」p.141,142</ref>。うち2本が風雲の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し<ref>木俣『日本水雷戦史439ページ</ref>、4分で沈没した<ref>「SS-256, USS HAKE」p.141</ref>。日本側記録によれば、午前3時13分に最初の魚雷が命中して航行不能になり、午前3時35分に再度の雷撃をうけて沈没した<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.25}}(19-6)|8|0313/0335|風雲ハ「ダバオ」湾口ニ於テ敵(潜水艦)ノ雷撃ヲ受ク/(0335)風雲ハ第二回ノ雷撃ヲ受ク|菲島 蘭印/同右|航行不能/沈没 人員133名救助|</ref>。
翌[[6月8日]]未明、ヘイクのレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知<ref>「SS-256, USS HAKE」p.118</ref>。午前2時12分、{{coor dm|06|03|N|125|57|E|}}の地点で魚雷を6本発射した<ref>「SS-256, USS HAKE」p.141,142</ref>。うち2本が風雲の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し{{Sfn|木俣水雷戦史|1986|p=439}}、4分で沈没した<ref>「SS-256, USS HAKE」p.141</ref>。日本側記録によれば、午前3時13分に最初の魚雷が命中して航行不能になり、午前3時35分に再度の雷撃をうけて沈没した<ref>{{アジア歴史資料センター|C16120642900|昭和19.4.1~昭和19.6.30 太平洋戦争経過概要その8(防衛省防衛研究所)19年6月1日~19年6月10日、p.25}}</ref>。


ダバオ湾を警戒中の駆逐艦[[ (吹雪型駆逐艦)|響]]と[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]は、駆逐艦[[浜風 (陽炎型駆逐艦)|浜風]]を通じて救援要請を受け<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.16〔 六月八日浜風|日榮丸|キド第080416番電 發第五戦隊司令官風雲雷撃ヲ受ケタル爲湾口附近敵潜伏在面突破迄貴隊驅逐艦二隻救難竝ニ護衛トシテ派遣サレ度 〕</ref>直ちに出動する<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.17〔 六月八日響艦長(宛略)響機密第08610番電 響秋霜救助ノ爲出動ス』/[[#S1905日栄丸日誌(3)]]p.6『六月八日|0550|風雲救難ノ爲メ響秋霜出動/第五戦隊入港補給、補給後出港 秋霜第五戦隊ト共ニ出港 〕- p.17 〔 六月八日響|日榮丸浜風|今ヨリ(響)救難ノ爲出動ス秋霜湾口哨戒中ニ付同艦モ派遣セラルヽヲ適當ト認ム|手旗 〕</ref>。各艦は朝雲と共に救助活動に従事した<ref name="あ号(2)21朝雲" />。乗員のうち136名は[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]に移乗してダバオへ向かったが<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.18〔 六月十一日秋霜駆逐艦長(宛略)秋霜機密第110800番電 本日1630タバオ着ノ予定風雲乗員136(要檐者15名)収容御手配ヲ乞フ 〕</ref>、他の者は全員戦死した。風雲座乗中の第10駆逐隊司令[[赤沢次寿雄]]大佐も戦死した(少将に進級)<ref>『栄光の駆逐艦 秋雲65,66ページ</ref><ref>{{アジア歴史資料センター|A12090516900|海軍少将赤沢次寿雄叙位の件}}</ref>。
ダバオ湾を警戒中の駆逐艦[[秋霜 (駆逐艦)|秋霜]]は、駆逐艦浜風を通じて救援要請を受け<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.16</ref>直ちに出動する<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.17[[#S1905日栄丸日誌(3)]], pp.6,17 </ref>。各艦は朝雲と共に救助活動に従事した<ref name="あ号(2)21朝雲" />。乗員のうち136名は秋霜に移乗してダバオへ向かったが<ref>[[#S1905日栄丸日誌(2)]] p.18</ref>、他の者は全員戦死した。風雲座乗中の第10駆逐隊司令[[赤沢次寿雄]]大佐も戦死した(少将に進級){{Sfn|秋雲会|1986|pp=65-66}}<ref>{{アジア歴史資料センター|A12090516900|海軍少将赤沢次寿雄叙位の件}}</ref>。

「風雲」は7月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された<ref>[[#内令昭和19年7月]]、p.11</ref><ref>[[#内令昭和19年7月]]、pp.13-14</ref>。


駆逐艦風雲は7月10日附で
夕雲型駆逐艦<ref>[[#内令昭和19年7月]]、p.11〔 内令第八三三號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年七月十日 海軍大臣|軍艦、砲艦橋立型ノ項中「橋立、」ヲ削ル|驅逐艦、一等神風型ノ項中「、朝凪」ヲ、同夕雲型ノ項中「風雲、」ヲ、同二等若竹型ノ項中「、刈萱」ヲ削ル(以下略) 〕</ref>、
帝国駆逐艦籍<ref>[[#内令昭和19年7月]]、pp.13-14〔 内令第八四二號|横須賀鎮守府在籍 軍艦 橋立 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 風雲|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 朝凪|舞鶴鎮守府在籍 驅逐艦 刈萱 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル(以下略)昭和十九年七月十日 海軍大臣 〕</ref>から除籍された。
== 歴代艦長 ==
== 歴代艦長 ==
;艤装員長
;艤装員長
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# 吉田正義 中佐:1942年3月28日<ref name="jirei835" /> - 1943年9月14日<ref name="jirei1216" />
# 吉田正義 中佐:1942年3月28日<ref name="jirei835" /> - 1943年9月14日<ref name="jirei1216" />
# 橋本金松 少佐/中佐:1943年9月14日<ref name="jirei1216" /> - 1944年6月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月21日(発令6月15日付)海軍辞令公報(甲)第1517号 p.1}}</ref>
# 橋本金松 少佐/中佐:1943年9月14日<ref name="jirei1216" /> - 1944年6月15日<ref>{{アジア歴史資料センター|C13072099600|昭和19年6月21日(発令6月15日付)海軍辞令公報(甲)第1517号 p.1}}</ref>

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア [[参考文献を明記する]] より著者五十音順 -->
<!-- ウィキペディア [[参考文献を明記する]] より著者五十音順 -->
*<!-- イケダ2002 -->{{Cite book|和書|author=池田清|authorlink=池田清 (政治学者)|chapter=|title=重巡 摩耶 {{small|元乗組員が綴る栄光の軌跡}}|publisher=学習研究社|series=学研M文庫|year=2002|month=01|origyear=1986|ISBN=4-05-901110-X|ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}}}}
*{{Cite book|和書 |author=池田清 |authorlink=池田清 (政治学者) |chapter= |title=重巡 摩耶 |publisher=[[学習研究社]] |series=学研M文庫 |origyear=1986 |ISBN=4-05-901110-X |ref={{SfnRef|重巡摩耶|2002}} |date=2002-01}}
*<!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=2011|month=10|origyear=1999|title={{smaller|波濤の中の青春}} 駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}}}}
*{{Cite book|和書 |author=井上理二 |origyear=1999 |title=駆逐艦磯風と三人の特年兵 |publisher=[[光人社]] |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2709-2 |ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}} |date=2011-10}}
*<!-- オイデ1989 -->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=|year=1989|month=08|origyear=1986|title={{smaller|烈将}} 山口多聞|publisher=徳間書店|series=徳間文庫|isbn=4-19-598853-5|ref={{SfnRef|山口多聞|1989}}}}
*<!-- オイデ1989 -->{{Cite book|和書 |author=生出寿 |authorlink=生出寿 |origyear=1986 |title=烈将 山口多聞 |publisher=[[徳間書店]] |series=徳間文庫 |isbn=4-19-598853-5 |ref={{SfnRef|山口多聞|1989}} |date=1989-08}}
*<!--オイデ2011-->{{Cite book|和書|author=生出寿|authorlink=生出寿|year=2011|month=11|title=戦艦「大和」最後の艦長 {{small|海上修羅の指揮官}}新装版|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=9784-7698-2143-4|ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}}}}
*{{Cite book|和書 |author=生出寿 |title=戦艦「大和」最後の艦長 新装版 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=9784-7698-2143-4 |ref={{SfnRef|大和最後の艦長|2011}} |date=2011-11}}
* {{Cite book|和書 |title=日本水雷戦史 |date=1986 |publisher=図書出版社 |ref={{SfnRef|木俣、水雷戦史|1986}} |author=木俣滋郎 |author-link=木俣滋郎 |isbn=978-4809901089}}
* {{Cite book|和書|author=生出寿|year=1997|month=12|title={{small|連合艦隊・名指揮官の生涯}} 戦場の将器 木村昌福|publisher=光人社|isbn=4-7698-0835-6|ref=戦場の将器}}
* {{Cite book|和書 |author=木俣滋郎 |coauthors= |year=2013 |month=6 |origyear=1988 |title=撃沈戦記 |chapter=16.駆逐艦『夕雲』 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2786-3 |ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}} |date=2013-6}}
* 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。
* {{Cite book|和書 |authorlink=草鹿龍之介 |title=連合艦隊参謀長の回想 |publisher=光和堂 |isbn=4-87538-039-9 |ref=harv |date=1979-01 |author=草鹿龍之介}}
* 駆逐艦秋雲会『栄光の駆逐艦 秋雲』駆逐艦秋雲会、1986年
* {{Cite book|和書 |title=栄光の駆逐艦 秋雲 |year=1986 |publisher=駆逐艦秋雲会 |ref={{SfnRef|秋雲会|1986}} |editor=駆逐艦秋雲会}}
* 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年、ISBN 4-87970-047-9
* {{Cite book|和書 |author=佐藤和正 |authorlink=佐藤和正 |title=艦長たちの太平洋戦争 続編 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0231-5 |ref={{SfnRef|佐藤、艦長たち続篇|1984}} |date=1984-04}}
* 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書 |author=須藤幸助 |origyear=1956 |title=駆逐艦「五月雨」出撃す |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4-7698-2630-9 |ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} |date=2010-01}}
* 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
* {{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|year=2013|month=6|origyear=1988|title=撃沈戦記 {{small|海原に果てた日本艦船25隻の航跡}}|chapter=16.駆逐艦「夕雲」|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2786-3|ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}}}}
*<!-- クサカ1979-1 -->{{Cite book|和書|last=草鹿|first=龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|month=1|chapter=|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|isbn=4-87538-039-9|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1984|month=04|title=艦長たちの太平洋戦争 続編 {{small|17人の艦長が語った勝者の条件}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0231-5|ref={{SfnRef|佐藤、艦長たち続篇|1984}}}}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=1995|month=12|title=艦長たちの太平洋戦争 続編 {{small|17人の艦長が語った勝者の条件}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2106-9|ref=佐藤 艦長続編(文庫)}}
**「欺瞞戦術」<駆逐艦「風雲」艦長・吉田正義大佐の証言>(太平洋戦争時、風雲艦長、第43駆逐隊司令、第41駆逐隊司令等)
*{{Cite book|和書|author=佐藤和正|authorlink=佐藤和正|year=2004|origyear=1984|month=9|title=艦と乗員たちの太平洋戦争 {{small|日本海軍と乗員はいかに戦ったか}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2432-7|ref=艦と乗員たちの太平洋戦争(文庫)}}
** 艦隊の中核 <駆逐艦「風雲」輸送作戦に奮闘す>
*<!-- サトウキヨオ204 -->{{Cite book|和書|author=佐藤清夫|year=2004|month=1|oldyear=1997|title=駆逐艦「野分」物語 {{small|若き航海長の太平洋海戦記}}|isbn=4-7698-2408-4|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|ref={{SfnRef|野分物語|2004}}}}
*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=1|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }}
*<!-- タカマツミヤ1997-06 -->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=嶋中鵬二|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref={{SfnRef|高松宮日記6巻|1997}}}}
*<!-- タカマツミヤ1997-06 -->{{Cite book|和書|author=高松宮宣仁親王|authorlink=高松宮宣仁親王|coauthors=嶋中鵬二|title=高松宮日記 第六巻 {{small|昭和十八年 二月~九月}}|publisher=中央公論社|year=1997|origyear=|ISBN=4-12-403396-6|ref={{SfnRef|高松宮日記6巻|1997}}}}
*<!--ハシモト1999-10-->{{Cite book|和書|author1=橋本敏男|authorlink1=橋本敏男|author2=田辺弥八ほか|authorlink2=田辺弥八|coauthors=|year=1999|month=10|origyear=1992|title=証言・ミッドウェー海戦 {{small|私は炎の海で戦い生還した!}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2249-9|ref={{SfnRef|証言ミッドウェー|1999}}}}
*{{Cite book|和書 |author1=橋本敏男 |author2=[[田辺弥八]] ほか |origyear=1992 |title=証言・ミッドウェー海戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4-7698-2249-9 |ref={{SfnRef|証言ミッドウェー|1999}} |date=199-10}}
* <!--フクイ1993-->{{Cite book|和書|author=福井静夫|authorlink=福井静夫|editor=阿部安雄・戸高一成/編集委員|year=1993|month=1|title={{small|福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記}} 日本駆逐艦物語|volume=第5巻|publisher=光人社|isbn=4-7698-0611-6|ref=福井著作5巻}}
* {{Cite book|和書 |author=福井静夫 |authorlink=福井静夫 |editor=阿部安雄・戸高一成 |title=日本駆逐艦物語 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-0611-6 |ref={{SfnRef|福井|1983}} |date=1983-01 |series=福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻}}
*<!-- フクダ1981 -->{{Cite book|和書|author=福田幸弘|coauthors=|year=1981|month=07|origyear=1983|title=連合艦隊 ― {{small|サイパン・レイテ海戦記}}|publisher=時事通信社|series=|isbn=|ref={{SfnRef|サイパン・レイテ海戦記|2004}} }}
*{{Cite book|和書|author=福田幸弘|coauthors=|year=1981|month=07|origyear=1983|title=連合艦隊 ― {{small|サイパン・レイテ海戦記}}|publisher=時事通信社|series=|isbn=|ref={{SfnRef|サイパン・レイテ海戦記|2004}} }}
*<!--ホウエイチョウ07 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦|volume=第7巻|year=1967|month=8|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書07|1967}}}}
*{{Cite book|和書 |author=防衛庁防衛研修所戦史室 |title=戦史叢書 東部ニューギニア方面陸軍航空作戦 |volume=第7巻 |publisher=朝雲新聞社 |isbn= |ref={{SfnRef|戦史叢書07|1967}} |date=1967-08}}
*<!--ホウエイチョウ12 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 マリアナ沖海戦|volume=第12巻|year=1968|month=2|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref={{SfnRef|戦史叢書12|1968}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 マリアナ沖海戦 |volume=第12巻 |publisher=朝雲新聞社 |isbn= |ref={{SfnRef|戦史叢書12|1968}} |date=1968-02 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
*<!--ホウエイチョウ29 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 北東方面海軍作戦|volume=第29巻|year=1969|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 北東方面海軍作戦 |volume=第29巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書29|1969}} |date=1969-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
*<!--ホウエイチョウ43 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 ミッドウェー海戦|volume=第43巻|year=1971|month=3|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 ミッドウェー海戦 |volume=第43巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書43|1971}} |date=1971-03 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|year=1971|month=5|title=戦史叢書46 海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|isbn=|ref=叢書46海上護衛戦}}
* {{Cite book|和書 |title=戦史叢書 海上護衛戦 |publisher=朝雲新聞社 |isbn= |ref={{SfnRef|戦史叢書46|1971}} |date=1971-05 |editor=防庁防衛研修所史室 |volume=第46巻}}
*<!--ホウエイチョウ49 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> {{small|ガ島奪還作戦開始まで}}|volume=第49巻|year=1971|month=9|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> {{small|ガ島奪還作戦開始まで}} |volume=第49巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書49|1971}} |date=1971-09 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
*<!--ホウエイチョウ62 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}}|volume=第62巻|year=1973|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書  中部太平洋方面海軍作戦<2> {{small|昭和十七年六月以降}} |volume=第62巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書62|1973}} |date=1973-02 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
*<!--ホウエイチョウ83 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> {{small|ガ島撤収まで}}|volume=第83巻|year=1975|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書83|1975}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> {{small|ガ島撤収まで}} |volume=第83巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書83|1975}} |date=1975-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
*<!--ホウエイチョウ96 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}}|volume=第96巻|year=1976|month=8|publisher=朝雲新聞社|ref={{SfnRef|戦史叢書96|1976}}}}
*{{Cite book|和書 |title=戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> {{small|ガ島撤収後}} |volume=第96巻 |publisher=朝雲新聞社 |ref={{SfnRef|戦史叢書96|1976}} |date=1976-08 |editor=防衛庁防衛研修所戦史室}}
* {{Cite book|和書|author=牧島貞一|authorlink=牧島貞一|year=2001|title=炎の海 {{small|報道カメラマン空母と共に}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-2328-2|ref=炎の海}}
* {{Cite book|和書 |author=牧島貞一 |year=2001 |title=炎の海 |publisher=光人社 |isbn=4-7698-2328-2 |ref={{sfnRef|牧島|2001}}}}
*{{Cite book|和書 |pages= |title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 |series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ 第19巻 |publisher=学習研究社 |editor=歴史群像編集部 |isbn=4-05-601918-5 |ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} |date=1998-08 |editor-link=歴史群像}}
* 「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-601918-5|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }}
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
**(143-158頁)日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕

* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030315800|title=昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)|ref=S1703横鎮日誌(1)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030315800|title=昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)|ref=S1703横鎮日誌(5)}}** 第十一戦隊司令部『自昭和十七年八月一日至同年八月三十一日 第十一戦隊戦時日誌』(昭和17年7月14日〜昭和17年11月30日 第11戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030051400
** 第二水雷戦隊司令部『自昭和十七年十一月一日至昭和十七年十一月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030098800
** 第七戦隊司令部『自昭和十七年十一月一日至同十一月三十日 第七戦隊戦時日誌』(昭和17年4月1日〜昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030047600
** 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年六月一日至昭和十八年六月三十日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084400
** 第一水雷戦隊司令部『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年6月1日〜昭和18年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030084500
** 第三水雷戦隊司令部『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第三水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年7月1日〜昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030106000
** 第三水雷戦隊司令部『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年7月1日〜昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030106100
** 第十戦隊司令部『自昭和十八年十二月一日至昭和十八年十二月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050000
** 第十戦隊司令部『自昭和十九年一月一日至昭和十九年一月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050100
** 第十戦隊司令部『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月二十九日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050200
** 第十戦隊司令部『自昭和十九年三月一日至昭和十九年三月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050300
** 第十戦隊司令部『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030050500
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**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030723500|title=昭和19年6月1日~昭和19年6月30日 第5戦隊戦時日誌|ref=S1906五戦隊日誌}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030148200|title=昭和19年6月1日~昭和20年1月24日 第27駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1906第27駆日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030039800|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=あ号作戦日誌(1)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030039900|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=あ号作戦日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030685200|title=昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=S1905日栄丸日誌(2)}}
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030685300|title=昭和19年5月1日~昭和19年10月31日 特設運送船日栄丸戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=S1905日栄丸日誌(3)}}

* [https://issuu.com/hnsa/docs/ss-256_hake SS-256, USS HAKE](issuuベータ版)
* [https://issuu.com/hnsa/docs/ss-256_hake SS-256, USS HAKE](issuuベータ版)


{{ul|[https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所){{columns-list|20em|small=1|
== 脚注 ==
*{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030315800}} |title=昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1) |ref=S1703横鎮日誌(1) |publisher=}}
{{脚注ヘルプ}}
*{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030316000}} |title=昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3) |ref=S1703横鎮日誌(3) |publisher=}}
=== 注釈 ===
*{{Cite book|和書 |id={{JACAR|C08030316100}} |title=昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4) |ref=S1703横鎮日誌(4) |publisher=}}
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==
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風雲
1942年3月28日の竣工時
1942年3月28日の竣工時
基本情報
建造所 浦賀船渠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等駆逐艦
級名 夕雲型駆逐艦
艦歴
発注 1939年度(④計画
起工 1940年12月23日
進水 1941年9月26日
竣工 1942年3月28日
最期 1944年6月8日、ダバオ南南東沖のフィリピン海にて戦没
除籍 1944年7月10日
要目
基準排水量 2,077 トン
公試排水量 2,520 トン
全長 119.3 m
最大幅 10.8 m
吃水 3.76 m
主缶 ロ号艦本式缶×3基
主機 艦本式タービン×2基
出力 52,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 35.0 ノット
燃料 重油:600 t
航続距離 5,000 海里/18ノット
乗員 225名
兵装
レーダー 22号電探
ソナー 九三式水中聴音機
九三式三型探信儀
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風雲(かざぐも)は[1]大日本帝国海軍駆逐艦[2]

概要

日本海軍浦賀船渠で建造し、太平洋戦争で運用した駆逐艦[2]夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の3番艦である[3]1940年(昭和15年)12月末に起工、1942年(昭和17年)3月28日に竣工し、第10駆逐隊に所属した[4][5]。甲型駆逐艦4隻(秋雲夕雲巻雲、風雲)を揃えた第10駆逐隊は[6][7]、第十戦隊に所属して6月上旬のミッドウェー作戦に従事する[8][2]南雲機動部隊壊滅時、「風雲」は僚艦と共に空母「飛龍」の救援と救助をおこなった[9][10]

第三艦隊新編後、第10駆逐隊は引続き第十戦隊に所属して第二次ソロモン海戦南太平洋海戦に参加した[2]第三次ソロモン海戦では、第七戦隊司令官西村祥治少将の指揮下で重巡洋艦「鈴谷」と「摩耶」を護衛し、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃作戦に従事した。その後、ソロモン諸島や東部ニューギニアでの輸送作戦に従事した(鼠輸送)。

1943年(昭和18年)2月初頭、第10駆逐隊はガ島撤退作戦に参加する[2][11]。 7月、アリューシャン方面に派遣され、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下でキスカ島撤退作戦に従事する。つづいて南方方面の戦局悪化(ニュージョージア島の戦い)にともない、ソロモン諸島に進出した。10月上旬には第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐(旗艦「秋雲」)の指揮下で第二次ベララベラ海戦に参加した[12]

日本海軍は10月31日附で駆逐艦「朝雲」を第10駆逐隊に編入し[13]、駆逐艦3隻編制(秋雲、風雲、朝雲)となった[14][15][16]。「風雲」はろ号作戦にともないラバウルに進出[17]タロキナ逆上陸作戦ラバウル対空戦闘に参加した。その後、第10駆逐隊は艦隊の護衛任務に従事した。

1944年(昭和19年)4月11日、「秋雲」が米潜水艦の雷撃で撃沈され[18]、10駆は風雲と朝雲に減少する[19]。 6月初旬、「風雲」と「朝雲」は渾作戦に従事して戦艦「扶桑」や重巡洋艦を護衛した[20][21]。第五戦隊(妙高羽黒)と共に行動中の6月8日[22]、「風雲」はダバオ沖合で米潜水艦「ヘイク」の魚雷攻撃を受け、沈没した[2][23]

艦歴

竣工まで

「風雲」は1939年度(④計画)仮称第118号艦として、浦賀船渠で建造された[24]1940年(昭和15年)12月23日、起工[25]1941年(昭和16年)9月10日附で「風雲」と命名[1]、同日附で夕雲型駆逐艦に類別された[26]。9月26日、進水した[25]1942年(昭和17年)1月20日、吉田正義中佐が艤装員長に任命される[27]。翌日、浦賀船渠の艤装員事務所は事務を開始した[28]。 3月27日、性能調査終了[29]。 3月28日、竣工した[30][31]。艤装員事務所を撤去する[32]横須賀鎮守府[33]。吉田も正式に駆逐艦長(初代)となった[34]

昭和17年の戦い

「風雲」竣工直前の3月14日、日本海軍は夕雲型1番艦「夕雲」と2番艦「巻雲[35]により第10駆逐隊(司令・阿部俊雄大佐)を編制した[6][36]。「風雲」は3月28日の竣工と同時に横須賀鎮守府海面防備部隊直率部隊に編入され、同日附で第10駆逐隊に編入された[4][37]。阿部司令が着任するまで、吉田中佐(風雲艦長)が職務を代行する[38]。4月13日、着任した阿部司令は第10駆逐隊司令駆逐艦を風雲に指定した[5]。 4月15日、陽炎型駆逐艦19番艦の「秋雲」が第10駆逐隊に編入され、定数4隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲)となった[7]

4月10日、戦隊改編により第一航空艦隊(司令長官・南雲忠一中将、通称・南雲機動部隊)の直衛に任ずる部隊として第十戦隊(司令官・木村進少将)が編制され、第10駆逐隊も第十戦隊に所属した[39][8]。これまでの第一水雷戦隊(司令官・大森仙太郎少将)に代わって南雲機動部隊の直衛に就く第十戦隊は、旗艦・軽巡「長良」以下[40]

  • 第10駆逐隊:司令・阿部俊雄大佐(第1小隊:1. 風雲、2. 夕雲、第2小隊:3. 巻雲、4. 秋雲)
  • 第17駆逐隊(第1小隊:1. 谷風、2. 浦風、第2小隊:3. 浜風、4. 磯風
  • 第7駆逐隊(第1小隊:1. 、2. 、第2小隊:3.

が所属していた[41][42][注 1]

4月18日のドーリットル空襲時、第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)[注 2]は前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)に編入され、重巡洋艦戦隊や空母「祥鳳」等とともに米軍機動部隊追撃のため横須賀を出動した[45]。だが接敵できず、前進部隊各部隊・各艦は4月22日から23日にかけて横須賀に帰投した[46]

第十戦隊は6月5日のミッドウェー海戦が初陣となったが、まず主力空母3隻(赤城加賀蒼龍)がアメリカ軍機動部隊艦載機SBD急降下爆撃機[47]の空襲を受け、被弾炎上した[48][49]戦闘詳報では、「赤城」に座乗の南雲長官・草鹿龍之介参謀長・源田実参謀、淵田美津雄赤城飛行長等の司令部人員を救助するため「7時45分に『野分』が赤城に接近した」と記録している[50][51]。『戦史叢書、第43巻ミッドウェー海戦』によれば、司令部は「野分」に移乗したのち「長良」に移動して8時30分に将旗を掲げたとする[52][53]。だが司令部附信号兵やカメラマンの証言によると、司令部は駆逐艦を経由せず、装載艇で直接「長良」に移動している[54]。旗艦変更にあたり、草鹿は「最初は附近の駆逐艦にでもと思ったのであるが、折よく安否を気づかって接近してきた第十戦隊旗艦『長良』に移乗することにした。」と回想している[55]。機動部隊側の記録や回想に対し、吉田正義(当時、風雲駆逐艦長)[56]は「南雲長官以下司令部は赤城内火艇で風雲(第10駆逐隊司令駆逐艦)に移乗、風雲に将旗を掲げたのち第十戦隊旗艦の長良へ移動した」と回想している[57][58]

空母3隻被弾炎上後、第10駆逐隊は第二航空戦隊(司令官・山口多聞少将)の空母「飛龍」の支援に従事した[59]。最終的に「飛龍」も被弾炎上し[60][61]、「風雲」と「谷風」は「飛龍」の左舷に横付けして消火活動に協力した[62][63]。長益(当時、飛龍航海長)は、消火作業をおこなった駆逐艦の艦名について、「風雲、巻雲」と回想している[64]。「飛龍」の周囲には駆逐艦4隻(艦名不詳)がいて、消火に協力したという[65]。また「飛龍」の御真影と負傷者の一部は、「風雲」に収容された[63]。鎮火の見込みが立ったため加来止男飛龍艦長は「風雲」に離れるよう下令したが、その2時間後に誘爆が起ったという[66]。小林勇一(当時、飛龍戦闘機整備分隊長)は「やれもしない水雷戦隊の夜襲などと言わず、あの時そのまま駆逐艦に消火を続けさせ、母艦を徹底的に冷やしたら、『飛竜』を沈めずに持って帰れたのに」と回想している[67]。草鹿参謀長は「冷静に考えれば、『飛龍』の被爆と同時に、艦を救い人を救って、速やかに引きあげるべきであった。そのときも、そう思わぬでもなかったが、戦が不利だからといって、速やかに引きあげるということは、なんとなく軍人としてできにくいことであった。」と回想している[60]

山口司令官と加来艦長は総員退去を下令、「風雲」と「巻雲」は生存者を収容した[65][68]。「飛龍」接舷時、過失により接触事故がおこり、「風雲」はマストや測距義に損傷を受けている[66]。山口司令官、加来艦長は飛龍から脱出せず、戦死した[69][70][71]。「風雲」のカッターボートが「飛龍」右舷にいたところ上から拳銃が落ちてきたため、「飛龍」副長の鹿江隆大佐は「加来艦長はこの拳銃で自決したのでは」と語ったという[66]。なお、「飛龍」は「巻雲」によって雷撃処分されたが[72]、すぐには沈没しなかった[66]。アメリカ軍に鹵獲されるのを防ぐため、「谷風」が飛龍処分を下令され捜索に向かったが、発見できずに引き返した[73][74]。沈没寸前に「飛龍」から脱出した機関科生存者39名(4名漂流中死亡)は、のちにアメリカ軍によって救助された[75][76]。吉田は「飛龍を確実に処分して生存者を救助すればよかった」と回想している[66]。第十駆逐隊は6月13日にへ帰投した[77]

7月14日、第一航空艦隊が解隊されて第三艦隊が編制され[78]、引き続き南雲中将が第三艦隊司令長官、草鹿少将が同参謀長を務めた[79][70]。この再編にともない第十戦隊から第7駆逐隊が外れ、第4駆逐隊および第16駆逐隊が編入される。第十戦隊は軽巡長良以下駆逐艦16隻[80][注 3] という戦力を揃えた[81]

ガダルカナル島の戦い

1942年(昭和17年)8月7日、連合軍はウォッチタワー作戦によりガダルカナル島およびフロリダ諸島フロリダ諸島の戦い)に来襲、同諸島に上陸して橋頭堡を築きガダルカナル島の戦いが始まった[82][83]。 8月16日、第三艦隊は柱島泊地を出撃してトラック諸島に向かう[84][85]。アメリカ機動部隊が出現した事によりトラック泊地寄港をとりやめ、ソロモン諸島東方海域に急行した[86][87]。8月24日の第二次ソロモン海戦では、空母の直衛を務めた[注 4]。 9月、「風雲」は「秋雲」とともにトラック周辺で警戒行動や対潜活動を行った[89]。9月中旬、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃を支援するため、前進部隊(指揮官・近藤信竹第二艦隊司令長官)と機動部隊(南雲長官)はトラック泊地を出撃した[90][91]。総攻撃失敗により、前進部隊と機動部隊は一部艦艇をソロモン諸島に派遣し、9月23日トラック泊地にもどった[92]

10月26日の南太平洋海戦では、機動部隊・前衛部隊[注 5]に配備される[93]

南太平洋海戦の後、11月3日付で「秋雲」以外の第10駆逐隊(夕雲、巻雲、風雲)は第二水雷戦隊(司令官・田中頼三少将)、第七戦隊(司令官・西村祥治少将)とともに外南洋部隊に加勢された[94][注 6]。 11月3日、重巡「鈴谷」と「摩耶」、第二水雷戦隊、第10駆逐隊(夕雲、風雲)はトラック泊地を出撃、11月5日にショートランド諸島に到着し[96]、外南洋部隊(指揮官・三川軍一第八艦隊司令長官)の指揮下に入った[97]。第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将は外南洋増援部隊指揮官の職務を田中少将に引き継ぎ、第三水雷戦隊各艦と共にトラック泊地へ戻った[98]

ガダルカナル島への駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)に際して、第10駆逐隊は外南洋部隊増援部隊(指揮官二水戦司令官)に編入された[99]。田中司令官は増援部隊の編制変更をおこない、甲増援隊によるガダルカナル島輸送作戦を命じた[99]。今次輸送作戦における甲増援隊は、「風雲」を含む駆逐艦11隻で実施された[注 7]によって実施された[99]。 11月6日深夜、甲増援隊はショートランド泊地を出撃した[99][100]。途中でB-17の空襲を受けたが被害はなく、深夜にガ島に到着するとタサファロング隊とエスペランス隊にわかれる[101]。エスペランス隊(夕雲、風雲)は糧食を降ろしたのち、175名の傷病兵と便乗者(戦史叢書では海軍69名・陸軍3名)を乗せて8日昼前に帰投した[102]

11月10日9時、第10駆逐隊司令・阿部俊雄大佐指揮下の駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、巻波、涼風)は、第38師団長・佐野忠義陸軍中将を含む陸兵600名、物資、第十一戦隊弾着観測員(飛行場砲撃時)を搭載してショートランドを出撃する[103]。空襲を受けたが被害はなく、揚陸地点でアメリカ軍魚雷艇4隻と交戦しこれを撃退、揚陸に成功し、傷病者585名を収容して11日午前中に帰投した[104]

11月中旬の第三次ソロモン海戦では、外南洋部隊支援隊指揮官・西村少将の指揮下、駆逐艦4隻(風雲、夕雲、巻雲、朝潮[注 8]で巡洋艦3隻(鈴谷、摩耶、天龍)を護衛した[107]。 11月13日深夜から約20分間、鈴谷と摩耶はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する対地砲撃を実施したが、決定的な損害を与えられなかった[108][109]。 14日午前6時頃、支援隊(重巡2、駆逐艦4)は主隊とニュージョージア島南方で合流し、ショートランド泊地へむかう[108][110]。だがニュージョージア諸島南方で、ヘンダーソン基地航空隊と空母「エンタープライズ」艦載機の空襲をうける[111]。対空戦闘により重巡「衣笠」が沈没した[112]。ほかに「鳥海」「摩耶」「五十鈴」等が損傷を受けた[108]。主隊・支援隊はショートランド泊地で急速補給をおこなったのち輸送船団(第二水雷戦隊)救援に向かうが、アメリカ艦隊と直接交戦する事はなかった[113][114]

第三次ソロモン海戦に勝利した連合軍は[115]パプアニューギニアブナに上陸作戦を敢行した(ブナとゴナの戦い[116][117]。連合軍の反撃を受けて、連合艦隊はガダルカナル島よりもニューギニア方面を重視する姿勢をとる[118]。 11月17日、風雲を含む外南洋部隊指揮官直率部隊[注 9]はラバウルに到着した[119][120]。第八艦隊司令部は陸上に移り[121]、4隻(鳥海、五十鈴、涼風、望月)はトラック泊地へ回航、他の巡洋艦(天龍)や駆逐艦はニューギニア方面の作戦に従事することになった[119][122]。同日夜、輸送部隊は駆逐艦5隻(夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎)で出撃し、バサブア(ブナ地区)へ約1,000名を揚陸させた[120]

11月22日、輸送隊の駆逐艦4隻(巻雲、風雲、夕雲、荒潮)は陸兵800名のバサブア輸送を実施した[123]。同日、三川中将は新たな兵力部署を発令する[124][125]。 第10駆逐隊を含め、東部ニューギニア方面護衛隊[注 10]は、第十八戦隊司令官松山光治少将(旗艦「天龍」)の指揮下に入った[124]

11月28日、第10駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(夕雲、巻雲、風雲、白露)は、独立混成第21旅団[126](兵団長・山県栗花生陸軍少将[127]。今次輸送作戦では「巻雲」乗艦)の陸兵輸送作戦を実施することになった[128]。出撃後、29日昼間にB-17の空襲を受ける[129]。駆逐艦「白露」大破・「巻雲」至近弾損傷の被害をうけ、輸送作戦は中止された[129]。兵団長乗艦の「巻雲」は協議のため先に帰投し、「風雲」は「白露」の護衛を「夕雲」と「春雨」(ラバウルから救援のため出撃)にひきつぎ、11月30日14時ラバウルに単独帰投した[129]。 12月初頭におこなわれた第二次輸送作戦も不成功に終わった[130]。 12月8日、駆逐艦6隻(風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波)で出撃した[131]。だが重爆の空襲により「朝潮」と「磯波」が損傷し、天候や敵機の触接等を理由に作戦は中止された[132]。 12月11日、駆逐艦5隻(風雲、夕雲、荒潮、磯波、電)でラバウルを出撃する[133]ニューアイルランド島カビエンを経由したのち、アドミラルティ諸島(ロレンガウ)で支援隊(熊野、鈴谷、望月)から燃料補給を受けつつ[134]、迂回路をとってブナへ向かう[135]。14日午前2時より揚陸を開始、輸送作戦は成功した[136]。被害は空襲至近弾の荒潮のみだった[136][137]

ニューギニア方面の作戦を進展させるため、日本軍はニューギニア島北岸のマダンウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ、サラモアに対する後方基地として強化することにした[138]。だが、ポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、ウエワク攻略部隊の上空警戒のため空母「隼鷹」(第二航空戦隊)と護衛部隊(阿賀野、磯風、浜風、村雨[注 11]を派遣した[139][140]。 第10駆逐隊(巻雲、夕雲、風雲)と輸送船「清澄丸」はウェワク攻略を、駆逐艦4隻と輸送船(愛国丸護国丸)および軽巡天龍がマダン攻略を実施した[139]。ウェワク攻略部隊は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊は同日18時にラバウルを出撃した[141]。隼鷹航空隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく12月18日夜にウェワク揚陸を実施、12月21日朝にラバウルへ戻った[142]。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で「護国丸」が中破、アメリカ潜水艦「アルバコア (USS Albacore, SS-218) 」の雷撃で軽巡洋艦「天龍」(第十八戦隊旗艦)を喪失した[142]。本作戦終了とともに第10駆逐隊は前進部隊に編入された[142]

昭和18年の戦い

1943年(昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐から吉村真武大佐に交代した[143]。 第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した(ケ号作戦[11][144]。 1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊(指揮官・草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する[145]。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲[注 12]、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦を行った[147]。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で「巻雲」が触雷し「夕雲」により雷撃処分され、また駆逐艦「巻波」も空襲で大破した[11](三水戦司令官は旗艦を駆逐艦「白雪」に変更)[148]。第二次作戦では駆逐艦「舞風」が大破[149][150]、第三次作戦で「磯風」が中破した[11][151]

「巻雲」を喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける[14]。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下の外南洋部隊増援部隊に所属した[152]。同時期の日本軍は、日本陸軍部隊の中国大陸東岸~南東方面輸送作戦を実施しており、これを丙号輸送と呼称した[153](丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官岸福治少将)[154]。 2月14日、外南洋部隊指揮官はウェワク輸送作戦の兵力部署を下令、ケ号作戦に従事していた駆逐隊・駆逐艦は丙号輸送部隊に編入された[155][156]。第10駆逐隊も丙号輸送部隊に組み込まれ、輸送部隊指揮官は「夕雲」と「風雲」を丙三号輸送作戦の第一輸送隊(北上大井、讃岐丸、相良丸)の護衛に加えた[155][157]。丙三号輸送は、第41師団(師団長・阿部平輔中将)をウェワクへ輸送する任務である[158][157]。輸送部隊に編入された駆逐艦は2月17日にパラオに到着[157]。第一輸送隊は2月17日にパラオから出発し、2月20日にウェワクに到着した[159]

3月上旬、日本軍はビスマルク海海戦の大敗をうけて南東方面への輸送作戦を変更する[160][161]。第10駆逐隊司令・吉村大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨皐月)は、ウェワクとマダンの間にあるハンサ湾へ第21師団(師団長・青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送6隻[注 13]の護衛を行った(第一次ハンサ輸送[162][163]。 3月8日にパラオを出発、陸軍戦闘機の掩護をうけて3月12日朝にハンサ湾到着、揚陸がおこなわれる[164]。護衛部隊は二分割される[165]。翌日未明、秋雲と五月雨は輸送船団を護衛してパラオへむかい[注 14]、駆逐艦3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルに移動、3月14日朝に到着した[165]。 3月19日、「風雲」と「夕雲」はツルブへ弾薬、糧食を揚陸した[166]。その後はラバウルを経てショートランドへ再進出し、コロンバンガラ島への輸送作戦に加わる[167]。4月1日、駆逐艦5隻(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)でコロンバンガラ輸送を実施した[168]。4月3日、「風雲」はブイン入港時に触雷し第一缶室と機械室の一部に浸水した[169]。ブインにはアメリカ軍のTBFが3月20日と21日に機雷を敷設していた[170]。これ以降、輸送部隊から外された[167]。4月28日、横須賀に帰投した。5月、修理をおこなった[171]

5月29日、アッツ島地上戦によりアッツ島の日本軍守備隊は玉砕した[172]。 6月10日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は北方部隊(指揮官・河瀬四郎第五艦隊司令長官)に編入された[173]幌筵島に到着と共に、水雷部隊(指揮官・第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)に編入された[173][174]。同時期に行われていたキスカ島からの第一期撤収作戦は、投入された潜水艦が次々に損傷し、6月23日に中止された[175][176]。そこで水雷戦隊の出番となり、第二期ケ号作戦が実施される[177]。第10駆逐隊は、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加した。収容部隊(阿武隈〈木村少将旗艦〉、木曾島風[178]朝雲薄雲長波、秋雲、夕雲、風雲若葉[注 15]初霜[注 16]五月雨[180]、主隊(多摩[181]、燃料補給部隊(国後、日本丸)という部隊区分だった[182]。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、「風雲」のみ発動艇を回収し、さらに陸戦隊が飼っていたキツネも持ち帰ったという[137]。このキツネは上野動物公園に寄贈された[137]。撤退作戦を終えた後、第10駆逐隊は8月3日付で機動部隊に復帰した[183]。横須賀を経て再び南方へと向かった[184]

9月15日附で「風雲」駆逐艦長は吉田中佐から橋本金松少佐(当時、「白露」駆逐艦長)[185]に交代した[注 17]。 9月20日、「風雲」は第三水雷戦隊(司令官・伊集院松治大佐、旗艦「川内」)の指揮下に入り、第10駆逐隊が揃う[186][187][注 18]。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した[188](セ号作戦の行動と経過詳細は当該記事を参照)。 9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ[注 19]天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)[190]に交代する[191]。 9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊(指揮官・伊集院大佐、旗艦「秋雲」)として敵艦隊の出現に備えた[192]。連合軍の巡洋艦や水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度で特筆すべき海戦は生起せず[193]、セ号作戦は成功裡に終わった[194]

戦いは間を置かず続けられ、日本軍はベララベラ島からの撤退作戦を実施した[12][195]。10月6日未明にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった[196]。増援部隊指揮官・伊集院大佐(「秋雲」座乗)は夜襲隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)を指揮して戦闘海域へ向かった[197]。同日夜、フランク・R・ウォーカー英語版大佐率いる第42駆逐群[198]の先制攻撃を受けて夜間水上戦闘が始まった[199](日本側呼称第二次ベララベラ海戦、連合軍呼称ベララベラ島沖海戦[12][200]。当時の日本側夜襲部隊陣形は、「秋雲」(三水戦旗艦)-「磯風」-「風雲」-「夕雲」の単縦陣であったという[201]。戦闘開始後、「風雲」に後続していた「夕雲」が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦「シャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) 」に「夕雲」の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた[202]。「風雲」は二番砲塔に被弾(戦死1、負傷者数名)、使用不能となった[203][204]。甲型3隻(秋雲、磯風、風雲)は別働の第27駆逐隊(時雨、五月雨)[205]と共に駆逐艦「セルフリッジ英語版 (USS Selfridge, DD-357) 」と「オバノン (USS O'Bannon, DD-450) 」に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった[206][203]。「風雲」は「夕雲」の生存者を救助したが[207]、生存者の一部はアメリカ軍にも救助されている[203]。「夕雲」の沈没により、第10駆逐隊は「風雲」と「秋雲」の2隻となった[15]

ラバウルに帰投後、「風雲」「秋雲」10月7日限りで外南洋部隊(第八艦隊、第三水雷戦隊)の指揮下から離れ、原隊に復帰した[208][209]。「風雲」は「秋雲」とともにツルブへの輸送作戦を行った後[210][211]、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将)に合流してエニウェトク環礁へ進出した[210][212]。 10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する[17][213]。第一航空戦隊の航空隊をラバウル陸上基地に転用し、第十戦隊や第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出、一航戦の基地員や物件をトラックからカビエンもしくはラバウルへ輸送することになった[214][215]。「風雲」と駆逐艦「大波」は第二部隊として10月31日にトラックを出発、11月1日カビエンに到着した[214][216]

11月1日、南東方面部隊はブーゲンビル島タロキナ逆上陸作戦に関連し、第三襲撃部隊(阿賀野、若月初風、風雲、大波、長波)を編成した[217]。だが「風雲」と「大波」は輸送作戦に従事していたので、同日深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった[216]。ラバウルに進出した「風雲」はタロキナ逆上陸作戦部隊に加わる[218]。同時期にラバウルへ進出した第二艦隊司令長官・栗田健男中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日のラバウル空襲により大打撃を受け[219]、即日ラバウルを撤収した[220]。ラバウルに残った水雷戦隊でタロキナ逆上陸作戦は続けられ、第一支援隊(阿賀野、若月、浦風)として輸送作戦を支援した[221]。11月11日、米軍機動部隊は再度のラバウル空襲を敢行、日本側は駆逐艦「涼波」が沈没するなど損害を受ける[222]。第十戦隊・第二水雷戦隊の大部分はラバウルから退却した[223]

「風雲」はトラックに帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊・遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島へ進出した[224]。その後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、山雲)は戦艦「大和」と空母「翔鶴」を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀へ帰投した[225]。12月21日、司令駆逐艦は「風雲」から「秋雲」にかわった[226]。その後、「風雲」は東京石川島造船所で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。

昭和19年の戦い

ろ号作戦実施中の1943年(昭和18年)10月31日附で満潮型駆逐艦「朝雲」が第10駆逐隊に加入、10駆は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる[16]。修理を終えた後の1944年(昭和19年)1月17日、「風雲」と「秋雲」は横須賀を出港し、「翔鶴」を瀬戸内海まで護衛した[227]。2月6日、桜部隊(瑞鶴、翔鶴、筑摩矢矧、秋雲、風雲、朝雲、初月、若月)として洲本沖を出撃し、2月13日昭南に到着した[228][229][230]。リンガ泊地で訓練に従事するが、「瑞鶴」に修理が必要となったため、2月20日に第10駆逐隊は「瑞鶴」を護衛して内地にむかった[231]。2月27日、呉に到着する[231]。 3月7日、第10駆逐隊は「瑞鶴」、重巡「最上」、第三戦隊(司令官・鈴木義尾中将)の戦艦2隻(金剛榛名)を護衛して瀬戸内海を出撃、リンガ泊地に向かい、3月15日到着した[231][232]。 3月20日附で第10駆逐隊司令天野重隆大佐は第61駆逐隊司令へ転任し、後任の司令は赤澤次壽雄大佐(当時、「涼月」駆逐艦長)となった[233]。3月25日、赤澤大佐は司令駆逐艦を「秋雲」から「風雲」に変更する[234]。リンガ泊地に到着後、第10駆逐隊は第十戦隊(旗艦「矢矧」)とともに航空戦隊との合同訓練に従事した[231][235]。 4月11日、「秋雲」がアメリカ潜水艦「レッドフィン (USS Redfin, SS-272) 」[236]の雷撃で撃沈された[18][237]。第10駆逐隊は風雲と朝雲の2隻となった[19]。5月12日にリンガ泊地を出撃してタウイタウイに進出し、タンカー護衛と対潜掃討に従事した[238]

この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており[239]、帝国海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開[240][241]。 5月30日付で第10駆逐隊(風雲、朝雲)は渾部隊(指揮官・左近允尚正第十六戦隊司令官、旗艦「青葉」)に編入される[242]。間接護衛隊の戦艦「扶桑」と第10駆逐隊(風雲、朝雲)、警戒隊(指揮官・第五戦隊司令官橋本信太郎中将)の第五戦隊(妙高羽黒)と第27駆逐隊(春雨、五月雨、白露、時雨)[20]は、タウイタウイからダバオへ移動した[243][244]。 6月2日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は、輸送隊(青葉、鬼怒敷波浦波)等と共にダバオを出撃する[245][246]B-24爆撃機に触接されたため[247]豊田副武連合艦隊司令長官は6月3日夜に作戦の中止を発令した[248][249]。「敵機動部隊発見」は誤報と判明したため渾作戦は再開されたが、第五戦隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)は原隊復帰[248]、つづいてダバオ回航を命じられた[250]。 6月5日、警戒隊と間接護衛隊(扶桑、風雲、朝雲)はダバオに到着した[251][252]。このあと渾作戦は駆逐艦6隻のみで実施されたが空襲で「春雨」(第27駆逐隊司令戦死)を喪失し[253]、さらにアメリカの巡洋艦部隊に迎撃されて撃退された[254](第二次渾作戦)[255][256]。そこで、連合艦隊は第一戦隊司令官宇垣纏中将の大和型戦艦「大和」と「武蔵および早川幹夫少将指揮下の第二水雷戦隊なども投入して[257]、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった[258]

6月7日夕刻、連合艦隊は電令作第124号をもって第五戦隊(妙高、羽黒)と第10駆逐隊(風雲、朝雲)を渾部隊に編入し[259]ハルマヘラ島バチャン泊地への進出を命じた[22]。同日深夜、第10駆逐隊(風雲、朝雲)は第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してダバオを出撃した[260][21]。この時、ダバオ湾英語版口ではアメリカ潜水艦「ヘイク (USS Hake, SS-256) 」が哨戒を行っていた[236]。 翌6月8日未明、「ヘイク」のレーダーは湾の中央を高速で移動する4つの目標を探知[261]。午前2時12分、北緯06度03分 東経125度57分 / 北緯6.050度 東経125.950度 / 6.050; 125.950の地点で魚雷を6本発射した[262]。うち2本が「風雲」の左舷中央部と左舷艦尾に命中、搭載の魚雷が誘爆し[263]、4分で沈没した[264]。日本側記録によれば、午前3時13分に最初の魚雷が命中して航行不能になり、午前3時35分に再度の雷撃をうけて沈没した[265]

ダバオ湾を警戒中の駆逐艦「響」と「秋霜」は、駆逐艦「浜風」を通じて救援要請を受け[266]、直ちに出動する[267]。各艦は「朝雲」と共に救助活動に従事した[23]。乗員のうち136名は「秋霜」に移乗してダバオへ向かったが[268]、他の者は全員戦死した。「風雲」座乗中の第10駆逐隊司令赤沢次寿雄大佐も戦死した(少将に進級)[269][270]

「風雲」は7月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍から除籍された[271][272]

歴代艦長

艤装員長
  1. 吉田正義 中佐:1942年1月20日[27] - 1942年3月28日[34]
駆逐艦長
  1. 吉田正義 中佐:1942年3月28日[34] - 1943年9月14日[185]
  2. 橋本金松 少佐/中佐:1943年9月14日[185] - 1944年6月15日[273]

脚注

注釈

  1. ^ だが第7駆逐隊は機動部隊から外されて北方部隊に所属しており、実際の機動部隊警戒隊(指揮官:第十戦隊司令官木村少将)は長良以下第10駆逐隊4隻、第17駆逐隊4隻、第四水雷戦隊/第4駆逐隊(司令・有賀幸作大佐:第1小隊〈野分〉、第2小隊〈萩風舞風〉)、燃料補給部隊という編成である[43][44]
  2. ^ 「秋雲」は南雲機動部隊を護衛しており、別行動。
  3. ^
    • 第4駆逐隊(嵐、野分、萩風、舞風)
    • 第10駆逐隊(秋雲、夕雲、巻雲、風雲
    • 第16駆逐隊(雪風時津風天津風初風
    • 第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)
  4. ^ 1942年8月14日発令の機動部隊軍隊区分によれば、本隊(翔鶴、瑞鶴、龍驤、第10駆逐隊〈風雲、夕雲、巻雲、秋雲〉、第16駆逐隊〈時津風、天津風、初風〉、秋風)[88]
  5. ^ 機動部隊前衛部隊は、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する。第十一戦隊(比叡、霧島)、第七戦隊(鈴谷)、第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊(長良、秋雲、風雲、巻雲、夕雲、浦風、磯風、谷風)。
  6. ^ 「秋雲」は損傷艦(翔鶴瑞鳳筑摩熊野)や護衛の駆逐艦(秋月、第4駆逐隊、第17駆逐隊)と共に内地へ帰投している[95]
  7. ^ 第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐が指揮する。
  8. ^ 本来ならば「朝潮」ではなく満潮が支援隊に編入されていたが、出撃前に泊地で空襲をうけ行動不能となっていた[105][106]。そこで、外南洋部隊指揮官・三川中将直率の外南洋部隊主隊(鳥海衣笠五十鈴、朝潮)から「朝潮」が第七戦隊の護衛にまわった[105]
  9. ^ 鳥海(第八艦隊旗艦)、夕雲、巻雲、風雲、親潮、陽炎。
  10. ^ 1942年11月22日時点の東部ニューギニア方面護衛隊は、駆逐艦朝潮荒潮春雨白露磯波早潮、夕雲、巻雲、風雲
  11. ^ 戦史叢書83 1975, p. 476では、母艦航空部隊について「隼鷹」「阿賀野」「磯風」「濱風」ほか艦名不詳の駆逐艦1隻とする。
  12. ^ 巻雲はケ号作戦第一次作戦で触雷、2月1日夜自沈[146]。第二次作戦以降の作戦には加わっていない。
  13. ^ 輸送船6隻の内訳は、「帝龍丸」「桃山丸」「旺洋丸」「阿蘇丸」「しどにい丸」「安昌丸」。
  14. ^ 3月13日18時50分、B-17の夜間空襲により「桃山丸」が沈没[164]、残船団は3月18日パラオに到着した。
  15. ^ 「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷、単独で幌筵へ帰投[179]
  16. ^ 「国後」を起因とする多重衝突事故で損傷後、燃料補給部隊護衛にまわる[179]
  17. ^ 後日、吉田は第41駆逐隊(冬月涼月)司令として坊ノ岬沖海戦に参加する。
  18. ^ 「夕雲」と「秋雲」は昭和18年9月5日、先行して第三水雷戦隊の指揮下に入っていた。
  19. ^ 吉村真武大佐は、1943年10月11日より軽巡洋艦矢矧艤装員長[189]となる。

出典

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関連項目