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「西興除村」の版間の差分

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| 廃止日 = 1905年4月1日
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| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止理由 = 新設合併
| 廃止詳細 = [[東興除村]]、'''西興除村''' → [[興除地域|興除村]]
| 廃止詳細 = [[東興除村]]、'''西興除村''' → [[興除村]]
| 現在の自治体 = [[岡山市]]
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| よみがな = にしこうじょそん
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*[[1889年]](明治22年)6月1日、[[町村制]]の施行により、[[児島郡]]西疇村、曽根村が合併して村制施行し、'''西興除村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』591頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 33 岡山県』850頁。</ref>。旧村名を継承した西疇、曽根の2大字を編成{{R|角川}}。
*[[1889年]](明治22年)6月1日、[[町村制]]の施行により、[[児島郡]]西疇村、曽根村が合併して村制施行し、'''西興除村'''が発足<ref name=変遷>『市町村名変遷辞典』591頁。</ref><ref name=角川>『角川日本地名大辞典 33 岡山県』850頁。</ref>。旧村名を継承した西疇、曽根の2大字を編成{{R|角川}}。
*[[1903年]](明治36年)西興除村漁業組合設立{{R|角川}}
*[[1903年]](明治36年)西興除村漁業組合設立{{R|角川}}
*[[1905年]](明治38年)4月1日、児島郡東興除村と合併し'''[[興除地域|興除村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。合併後、興除村大字西疇・曽根となる{{R|角川}}。
*[[1905年]](明治38年)4月1日、児島郡東興除村と合併し'''[[興除村]]'''を新設して廃止された{{R|変遷}}{{R|角川}}。合併後、興除村大字西疇・曽根となる{{R|角川}}。


=== 地名の由来 ===
=== 地名の由来 ===

2024年4月6日 (土) 22:52時点における版

にしこうじょそん
西興除村
廃止日 1905年4月1日
廃止理由 新設合併
東興除村西興除村興除村
現在の自治体 岡山市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 岡山県
児島郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 1,758
(『角川日本地名大辞典 33 岡山県』850頁、1891年)
隣接自治体 東興除村、彦崎村藤戸村都窪郡茶屋町
西興除村役場
所在地 岡山県児島郡西興除村大字曽根
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西興除村(にしこうじょそん[1][2])は、岡山県児島郡にあった。現在の岡山市南区の一部にあたる。

地理

児島湖の西方、倉敷川の下流域に位置していた[2]

歴史

  • 1889年(明治22年)6月1日、町村制の施行により、児島郡西疇村、曽根村が合併して村制施行し、西興除村が発足[1][2]。旧村名を継承した西疇、曽根の2大字を編成[2]
  • 1903年(明治36年)西興除村漁業組合設立[2]
  • 1905年(明治38年)4月1日、児島郡東興除村と合併し興除村を新設して廃止された[1][2]。合併後、興除村大字西疇・曽根となる[2]

地名の由来

興除は、岡山藩儒・小原大之介梅坡が『管子』から引用した「興利除害」に由来[3]

産業

  • 漁業[2]
  • 1889年(明治22年)児島養貝合資会社が大字曽根字丙川に設立され、灰貝養殖を計画したが、2年後、児島郡玉井村八浜に移転した[2]

脚注

  1. ^ a b c 『市町村名変遷辞典』591頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 『角川日本地名大辞典 33 岡山県』850頁。
  3. ^ 「興除〈岡山市〉」『角川日本地名大辞典 33 岡山県』448頁。

参考文献

関連項目