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'''保木城'''(ほぎじょう)は、[[岡山県]][[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]](旧[[瀬戸地域|瀬戸町]])にあった[[日本の城]]。
'''保木城'''(ほぎじょう)は、[[岡山県]][[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]](旧[[瀬戸町 (岡山県)|瀬戸町]])にあった[[日本の城]]。


[[安芸国]]の[[矢野城]]も「保木城」の別名で呼ばれることがあり、区別のため[[旧国名]]を冠して'''備前保木城'''と呼ばれることもある。
[[安芸国]]の[[矢野城]]も「保木城」の別名で呼ばれることがあり、区別のため[[旧国名]]を冠して'''備前保木城'''と呼ばれることもある。

2024年4月6日 (土) 22:50時点における最新版

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保木城
岡山県
別名 備前保木城、熊野保木城
天守構造 山城
築城主 不明
築城年 天文 (元号)年間(1532年 - 1554年頃)
主な城主 明石氏
廃城年 不明
遺構 土塁、曲輪、堀切、礎石、井戸
指定文化財 なし
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保木城(ほぎじょう)は、岡山県岡山市東区(旧瀬戸町)にあった日本の城

安芸国矢野城も「保木城」の別名で呼ばれることがあり、区別のため旧国名を冠して備前保木城と呼ばれることもある。

概要

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宇喜多氏の家臣であった明石行雄(景親)・守重(全登)父子ら明石氏の居城として天文年間(1532年 - 1554年)に創建されたと考えられているが、大坂夏の陣で全登が敗走した後に廃城になったと見られる。 小川博毅によると、守重(全登)は、永禄12年前後に保木城で生まれた可能性が高いと指摘している[1]。 現在は土塁、曲輪、堀切、礎石、井戸が遺構として残存しており、岡山市教育委員会が発掘調査を行っている。

交通

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山陽本線万富駅より北東へ約2キロ、城山(山陽自動車道のトンネルが貫通している)の山頂。

脚注

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  1. ^ 小川博毅『史伝 明石掃部―最後のキリシタン武将―』 橙書房、2012年、42-44頁。

関連項目

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