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「伊木忠義」の版間の差分

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宝永年間(1704年 - [[1710年]])、知行地の福谷村に新田開発を行う。
宝永年間(1704年 - [[1710年]])、知行地の福谷村に新田開発を行う。


享保5年(1720年)8月1日、病没、享年52(数え年)。50歳を過ぎた頃から病気がちとなり、嫡子[[伊木忠興|忠興]]に[[火葬]]、および3代・4代の眠る千力山ではなく長島に墓所を造営するよう命じた。忠興は父の遺言通り、[[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[瀬戸地域|瀬戸町]]で荼毘に付し、長島に埋葬した。忠興が6代当主となった。
享保5年(1720年)8月1日、病没、享年52(数え年)。50歳を過ぎた頃から病気がちとなり、嫡子[[伊木忠興|忠興]]に[[火葬]]、および3代・4代の眠る千力山ではなく長島に墓所を造営するよう命じた。忠興は父の遺言通り、[[岡山市]][[東区 (岡山市)|東区]][[瀬戸町 (岡山県)|瀬戸町]]で荼毘に付し、長島に埋葬した。忠興が6代当主となった。


法名は摂受院殿明誉常照光念大居士。墓所は伊木家長島墓所([[岡山県]][[瀬戸内市]])。
法名は摂受院殿明誉常照光念大居士。墓所は伊木家長島墓所([[岡山県]][[瀬戸内市]])。

2024年4月6日 (土) 22:50時点における版

伊木忠義の墓

伊木 忠義(いぎ ただよし、寛文9年5月21日1669年6月19日) - 享保5年8月1日1720年9月3日))は、岡山藩筆頭家老伊木家5代当主。通称は将監。主君は池田綱政継政

生涯

忠義は伊木家初代忠次の二男・幸雄を初代とする分家(5千石)の4代目であった。実父は伊木兵庫幸知、実母は宗家4代忠親の姉・豊。幼名は三五郎。元服して通称を将監と名乗った。

叔父の忠親に嫡子がなかったため、元禄14年(1701年)に養子に迎えられ家督を相続する。幸雄系の分家はここで廃絶となった。

正室は池田長尚の娘であったが、元禄6年(1693年)に没した。正室との間に子はなかった。正室没後、吉岡氏の娘を後妻に迎え、2男5女をもうけた。宝永元年(1704年)、義父・忠親が没した。享年53。

宝永年間(1704年 - 1710年)、知行地の福谷村に新田開発を行う。

享保5年(1720年)8月1日、病没、享年52(数え年)。50歳を過ぎた頃から病気がちとなり、嫡子忠興火葬、および3代・4代の眠る千力山ではなく長島に墓所を造営するよう命じた。忠興は父の遺言通り、岡山市東区瀬戸町で荼毘に付し、長島に埋葬した。忠興が6代当主となった。

法名は摂受院殿明誉常照光念大居士。墓所は伊木家長島墓所(岡山県瀬戸内市)。

参考文献

  • 『茶人伊木三猿斎』 桂又三郎/著 奥山書店、1976年
  • 『備前藩筆頭家老伊木氏と虫明』 邑久町郷土史クラブ/編 1996年