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伊木忠親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊木忠親夫妻の墓

伊木 忠親(いぎ ただちか、承応元年(1652年)11月 - 宝永元年8月22日1704年9月20日))は、岡山藩筆頭家老伊木家4代当主。官位は従五位下。通称は清兵衛。主君は池田綱政

生涯

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忠親は3代伊木忠貞の七男で、側室・於以津(清松院)との子である。正室にも6人の男児が生まれたが、いずれも早世した。幼名は三次郎、のち長十郎。元服の後、勘解由忠虎と名乗った。

寛文12年(1672年)6月28日、父が江戸から岡山への帰途に急死する。同年9月9日、家督を相続し清兵衛忠親と改名した。鳥取藩家老・荒尾成元の娘・於利津と婚姻した。延宝8年(1680年)、藩主綱政が虫明陣屋を訪ね、伊木家の知行地を視察した。

貞享元年(1684年)、正室・於利津が死去した。享年27。夫妻に子はなかった。側室に京都の松井氏の娘・於津磨を迎えていたが、こちらにも子はなかった。於津磨は享保13年(1728年)に66歳で死去している。

元禄14年(1701年)、赤穂事件が起こる。吉良邸討ち入りを指揮した大石良雄の母は岡山藩家老・池田由成天城池田家)の娘であったことから、幕府に配慮し、筆頭家老の忠親は天城池田家の当主とともに隠居を命じられた。さらに3万3千石の知行は3千石減の3万石となり、これが幕末まで続いた。天城池田家も同様に減禄となった。忠親には嫡子がなかったため、同腹の姉・豊の子で分家の伊木将監を養子とし、5代忠義として家督を譲った。

宝永元年(1704年)死去、享年53。法名は瑞興院殿祥巖慈雲大居士。墓所は伊木家千力山墓所(岡山県瀬戸内市)。

参考文献

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  • 『茶人伊木三猿斎』 桂又三郎/著 奥山書店、1976年
  • 『備前藩筆頭家老伊木氏と虫明』 邑久町郷土史クラブ/編 1996年