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旗岡八幡神社(はたがおかはちまんじんじゃ) |
'''旗岡八幡神社'''/'''旗ヶ岡八幡神社'''(はたがおかはちまんじんじゃ)は、[[東京都]][[品川区]][[旗の台]]にある神社。 |
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== 由緒 == |
== 由緒 == |
2023年11月7日 (火) 07:22時点における版
旗岡八幡神社 | |
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所在地 | 東京都品川区旗の台3-6-12 [1] |
位置 | 北緯35度36分16.7秒 東経139度42分28.1秒 / 北緯35.604639度 東経139.707806度座標: 北緯35度36分16.7秒 東経139度42分28.1秒 / 北緯35.604639度 東経139.707806度 |
主祭神 | 誉田別尊、比売大神、息長帯比売命[1] |
社格等 | 郷社 |
創建 | 長元3年(1030年) |
別名 | 旗ヶ岡八幡神社、中延八幡宮 |
例祭 | 9月第二日曜[1] |
地図 |
旗岡八幡神社/旗ヶ岡八幡神社(はたがおかはちまんじんじゃ)は、東京都品川区旗の台にある神社。
由緒
長元3年(1030年)に源頼信が当時下総国(現在の千葉県)において発生していた平忠常の乱を平定するために、下総に行く途中この地に宿営し霊威を感得して、この地に八幡大神を奉り戦勝を祈願したのが発祥とされる[2]。当時この地に陣を張り、源氏の白旗をなびかせて武威を大いに誇ったという。そのことが現地名の「旗の台」や「旗岡」の名の由来になっているとされる[注釈 1]。その後、鎌倉時代に入り、当地の領主・荏原義宗(源義家の末裔と言われている[3])によって社殿等が建立され、源氏の守護神のみならず地域の鎮守神とした[4]。また荏原義宗は日蓮宗に篤く帰依し、息子を日蓮の高弟・日朗の弟子とさせた。息子は後に朗慶上人となり、荏原氏の館跡に法蓮寺を開山した。この寺院は長く隣接する旗岡八幡神社の別当寺となった。明治時代に別当は廃止されたが、現在でも当神社に隣接してある。また、旗岡八幡神社の前の道は鎌倉道のひとつで古来より鎌倉へと通じる道として知られていた[注釈 2]。
その後の時代になっても人々からの信仰は厚く、江戸時代には2代将軍・徳川秀忠に祈願所とされたほか、特に弓術者から篤い信仰を得て、毎年2月15日には近郊の各地から武士が集まって境内で弓術の競射が行われるようになり、有名であった。試合後は一同に甘酒が振舞われたに由来して、現在でも2月になると『甘酒祭』が当神社内でとりおこなわれている。また江戸時代には『中延八幡宮』とも呼ばれ、『江戸名所図会』にもその名で描かれている[5]。
その後、第二次世界大戦による戦災で拝殿等が焼失。(絵馬堂のみ残存)現在の社殿は昭和39年(1964年)に再建されたものである。
アクセス
氏子地域
- 品川区旗の台一丁目(全域)、二丁目1~8・9(一部)・13(一部)、三丁目(全域)、四丁目(全域)、五丁目(全域)、六丁目26~33
- 品川区西中延一丁目4~11、二丁目(全域)、三丁目(全域)
- 品川区中延一丁目~六丁目(全域)
- 品川区東中延一丁目~三丁目(全域)
- 品川区荏原六丁目(全域)
- 品川区戸越五丁目1・2・14・15、六丁目1~3・13~15・23
- 品川区豊町六丁目1~3、22~26
- 品川区西大井六丁目1(一部)
- 品川区二葉四丁目1~2・27
文化財
脚注
注釈
出典
参考文献
- 平野栄治著「品川区歴史散歩」学生社 1993年発行
- 「中延村 (八幡社)」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ46荏原郡ノ8、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:763981/90。
- 斎藤長秋 編「巻之二 天璇之部 中延八幡宮」『江戸名所図会』 一、有朋堂書店、415,418,420頁。NDLJP:1174130/213。
- “旗岡八幡神社”. 東京都神社庁. 2020年6月29日閲覧。
- “旗岡八幡神社絵馬殿”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2020年6月29日閲覧。
- “荏原地区の指定文化財”. 品川区. 2020年6月29日閲覧。
関連項目
外部リンク
- “旗岡八幡神社”. 2020年6月29日閲覧。