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2023年10月29日 (日) 00:08時点における版
長田 清治郎 (ながた せいじろう、1891年(明治24年)7月27日[1] - 1961年(昭和36年)1月10日[2])は、日本の実業家。三菱化工機社長[1][2][3]。
経歴
鳥取県鳥取市出身[1]。呉服太物商・長田幾蔵の長男[4]。1915年、神戸高等商業学校を卒業[1]。三菱合資に入社、三菱重工業に配属され長崎支店をふり出しに、本店営業第五部長、機械部長、三原車輛製作所長等を歴任して1946年12月に取締役に選任される[2]。
1950年中日本重工業の取締役に転じて活躍中、偶々三菱化工機が潰れかかったので同社の再建に起用され、1952年1月同社に顧問で入り、翌2月社長に就任する[2]。
1961年1月10日、突然脳出血を起こして東京都世田谷区上馬1丁目の自宅で逝去する[2]。1月12日、葬儀は小石川音羽の護国寺で三菱化工機の社葬として営まれる[2]。
人物
家族・親族
- 長田家
- 祖父・喜一郎[4]
- 父・幾蔵(1861年 - ?、呉服太物商) - 鳥取市片原3丁目、長田喜一郎の三男[4]。小学校を中途退学し、13歳の時より28歳まで巽呉服店に入り、呉服商を見習う[4]。1890年、鳥取市本町4丁目に於いて独立、呉服太物商を経営する[4]。趣味は囲碁[4]。住所は鳥取市本町4丁目[4]。
- 妻・芳子(1898年 - ?、鳥取、金田喜代蔵の長女)[1]
- 長男[1]
- 二男・博孝[5](1923年 - 2015年、三菱銀行取締役)
- 三男[1]
- 四男[1]
- 長女[1]
- 親戚
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 『東京紳士録 昭和39年版』な38頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f 『新日本経済 25(2)』54頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月7日閲覧。
- ^ a b 『現代財界家系譜 第1巻』248 - 249頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『因幡人事興信録』な543頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月7日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第24版 上』お363頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月7日閲覧。
参考文献
- 荒木義雄編『因幡人事興信録』因幡人事興信録編纂所、1923年。
- 新日本経済社『新日本経済 25(2)、1961年。
- 東京探偵社編『東京紳士録 昭和39年版』東京探偵社、1964年。
- 『現代財界家系譜 第1巻』現代名士家系譜刊行会、1968年。
- 人事興信所編『人事興信録 第24版 上』人事興信所、1968年。