「赤の広場での軍事パレード」の版間の差分
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2023年8月27日 (日) 21:47時点における版
現地名 | Военные парады на Красной площади |
---|---|
英語名 | Military parades on Red Square |
場所 | ソビエト連邦モスクワ赤の広場
ロシアモスクワ赤の広場 |
種別 | 軍事パレード デモンストレーション |
テーマ | 革命記念パレード
対独戦勝記念パレード メーデー記念パレード |
赤の広場での軍事パレード(あかのひろばでのぐんじパレード、ロシア語: Военные парады на Красной площади)は、ロシアの首都モスクワの中心部赤の広場で開催される観兵式の総称である。ソビエト連邦時代に開催されたほとんどの観兵式は十月革命を記念するものであり、毎年11月7日に行われた。1968年までは革命記念日の他、5月1日のメーデーにも軍事パレードが行われていた。ソビエト連邦崩壊後は独ソ戦の勝利を記念する閲兵式が1995年以降毎年開かれるようになっている[注釈 1]。
この記事では赤の広場で行われるパレードについて解説しているが、ほかの都市では使用車両や演奏される曲、形態が異なる。
パレードの主な形
時代によってパレードの形は変化するが、基本的にはスパスカヤ塔からオープンカー(1952年以前は馬)に搭乗した国防相級の人物が登場し、広場に集合している兵士に挨拶をした後、レーニン廟(97年以降は広場中央雛壇)に登り、国防相(1941年はソ連共産党書記長、1990年はソ連大統領、1995年以降はロシア連邦大統領)が演説をした後、国歌が演奏され、兵士の行進が始まる。兵士の行進が終わった後、車両部門の行進が始まり、戦車などが広場を走行する。車両行進が終わると同時に観閲飛行が始まり、戦闘機などが赤の広場上空を飛行する。観閲飛行の最後には戦闘機でロシア国旗を表す三色のスモークが赤の広場上空に焚かれ、観閲飛行は終了する。それと同時に軍楽隊による3分程度のパフォーマンスが行われ、軍楽隊の解散を以て軍事パレードは終了する。ソ連時代は軍事パレード終了後、労働者によるデモンストレーションが行われたが、ソ連崩壊後のロシアでは大統領らが赤の広場近くの無名戦士の墓に花を供え、国歌演奏の後、第154独立警備プレオブラジェンスキー連隊による行進が行われる。
受閲部隊指揮官、観閲官の挨拶・報告
挨拶・報告等の例(1982年)
ルシェフ受閲部隊指揮官『Парад смирно!! Для встречи слево, на кра-УЛ!!』
ルシェフ受閲部隊指揮官『受閲部隊、気を付け!!頭を左に向け銃を捧げよ!!』
(観閲官がスパスカヤ塔から登場、受閲部隊指揮官と観閲官が合流)
ルシェフ受閲部隊指揮官
『Товарищ маршал советского союза,
Войска Московского гарнизона для парада в ознаменование 65-я годовщины
Великой октябрьской социалистической революции.
построены. Командующий парадом , генерал-армии Лушев』
ルシェフ受閲部隊指揮官
『同志ソ連邦元帥閣下、
モスクワ駐屯部隊は偉大なる10月社会主義革命65周年記念式典の為
整列したことを報告する。ルシェフ受閲部隊指揮官ー陸軍上級大将』
(巡閲開始)
観閲官『Здравствуйте товарищи!!』
観閲官『同志達!!』
兵士『Здравствуйте товарищ маршалы и генералы!!』
兵士『同志元帥閣下上級大将閣下!!』
観閲官『65-я годовщины Великой октябрьской социалистической революции!!』
観閲官『大10月社会主義革命65周年御目出度う!!』
兵士『ура!!Ура!!Ура!!』
兵士『万歳!!万歳!!万歳!!』
(観閲官が霊廟に登壇)
指揮官『Вольно』
指揮官『休め、全員傾聴』
(ファンファーレ演奏)
(観閲官と指揮官による巡閲終了、観閲官による演説)
観閲官『Да здравствует героический Советский народ его доблестные вооруженные силы.
Слава Коммунистической парти советского союза, вдохновитель и организатор у всех наших побед ура!』
観閲官『英雄的な全ソビエト国民とその勇敢な軍隊に万歳。
私達が掴んだ全ての勝利の鼓舞者であり立役者であるソビエト連邦共産党に万歳!』
兵士『ура!!Ура!!Ура!!』
兵士『万歳!!万歳!!万歳!!』
(国歌演奏演奏終了後、総員傾聴解除のファンファーレが演奏される)
指揮官『Парад Смирно!! К торжественному маршу,』
指揮官『受閲部隊、気を付け!!行進の準備をせよ!!』
(列線兵、指定された位置へガチョウ行進で移動)
指揮官『Побатальонно, на одного линейного дистанции, первый батальон прямо, остальные напра - ВО! На пле - чо! Равнение направо! Шагом марш!』
指揮官『第一大隊以外の各大隊は列線兵一人分の間隔を取り右を向け!!銃を担え!!右を見て、行進開始!!』
(行進開始)
ソ連成立以前(ロシア革命)
ソ連成立以前のパレードは主にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(RSFSR)モスクワで行われた。最初のパレードは1918年5月1日に行われた。
ソ連成立後 - 第二次世界大戦前
第二次世界大戦以前のパレードは当時のソ連体制、大粛清などが影響し幹部の入れ替わりが激しかった。映像も少なく、儀礼的とはいえ形式も確立していなかったためパレードごとに様々な特色が出ている。
第二次世界大戦中
第二次世界大戦中は1941年の大10月革命24周年記念パレードのみ開催された。このパレード当時、モスクワにはドイツ軍が迫っており、パレードに参加した兵士はそのまま前線に送られた。
1941年大10月社会主義革命24周年記念パレード
日付 | 場所 | 最高指導者 |
---|---|---|
1941年11月7日 | ソビエト連邦 | ヨシフ・スターリン |
1941年11月7日に開催された大10月社会主義革命24周年記念パレードは独ソ戦(ソ連では大祖国戦争)中に開催された唯一のパレードである。「モスクワ駐留軍作戦」という名で極秘に計画され、モスクワ攻略戦(1941年9月30日-1942年4月20日)の最中、前線がモスクワからわずか数十キロのところにあるときに開催された。このパレードは、赤軍の兵士や司令官の高い精神を示し、ソ連全土から何千人もの若者が前線で志願兵として入隊するきっかけとなり、歴史的に重要な意義のあるものとなった。
11月7日当時の天気予報は、モスクワ西部の気象観測所がすべてドイツ軍に占拠されていたため判明できなかったが、パレードの前夜ヴィトルド・ヴィトキエヴィッチ率いるティミリャゼフ・アカデミーの予報士たちは、低い雲と雪があれば爆撃を防げるという予報を出した。猛吹雪にもかかわらず、モスクワの防空網は25分間のパレードを守るために完全な警戒態勢に入った。市内には35の医療拠点と10台の救急車が稼動していた。建物、道路、ガス、電気網の火災や倒壊に備え、赤の広場付近に5人の復旧班、10人半の消防士、その他の特殊装備を動員した。パレードの前夜、チェーカー将校、衛兵、技術スタッフがレーニン廟を点検し閉鎖した。
独ソ戦以降消灯されたクレムリンの赤い星はスターリンの命令で再び点灯された。
ソ連崩壊後の2002年以降、10月革命24周年パレードを称える「名誉パレード」が開催されるようになった。なお新型コロナウイルス感染症 の流行により2020年以降は開催を見合わせている。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦終了後、特に独ソ戦終了直後に開催されたモスクワ対独戦勝記念パレードはソ連崩壊後でも重要視される国家行事の一つとしてあげられる。
ヨシフ・スターリン死後、現代まで受け継がれるパレードの原型が完成された。
1957年式
1957年式は1957年に開催された大10月社会主義革命40周年記念式典(パレード)から1966年の大10月革命49周年記念式典までの形式を指す。スターリン時代の装飾の影響で、派手な装飾が1957年式の主な特徴である。冷戦ピークということもあり、当時最新鋭のミサイルや戦車などが走行した。
1967年式
1967年式は1967年に開催された大10月社会主義革命50周年記念式典(パレード)から1976年の大10月社会主義革命59周年記念式典までの形式を指す。装飾に数字版(グム左側に10月革命が起きた年である1917、グム右側にパレード開催年)が導入され、レーニンの肖像画が新調された。1967年には10月革命50周年を記念して赤の広場の隣にあるマネージュ広場 が『大10月革命50周年記念広場』に改名され、ソ連初のカラー放送が開始されるなど、全体的に見ても大規模に祝われたパレードであった。
1977年式
1977年式は1977年に開催された大10月社会主義革命60周年記念式典(パレード)から1986年の大10月社会主義革命69周年記念式典までの形式を指す。レーニンの肖像画が新調された。
1987年式
1987年式は1987年に開催された大10月革命70周年記念式典(パレード)から1989年の大10月革命72周年記念式典までの形式を指す。1990年に開催されたパレード(革命73周年記念パレード)は、形式こそ1987年式とほぼ変わらないが、3月11日のリトアニア・ソビエト社会主義共和国独立回復宣言などが影響し、装飾が87年式と異なるので1987年式には含まれないものとする。1977年式の数字版は新調され、ソビエト連邦構成共和国の国旗が飾られなくなった。他にも、クレムリン城壁に飾られる共和国国章の間にリーフが付けられ、ソビエト共和国の結束をアピールした。
90年代ロシア式
1991年にソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が誕生したが、急速な資本主義化や第一次チェチェン紛争など数多くの問題を抱えることとなり、1995年までパレードは開催されなかった。1995年に開催された対独戦勝50周年記念パレードは、ソ連のシンボルとも言える鎌と槌が描かれた旗の登場や、ボリス・エリツィン大統領ら政府幹部がレーニン廟に登るなど、新生ロシアが目標としていた共産主義の克服をアピールできずロシア内外から批判の声が上がった。ただし、97年からは特設ステージ上にて行われるようになった。
00年代ロシア式
1999年12月にエリツィンが大統領を辞任し、ウラジーミル・プーチンがロシア大統領になると、パレードの内容は大きく変更された。2001年には国歌がソ連国歌と同じメロディーに回帰し、05年にはグム百貨店正面に電光掲示板がされるなど、ソ連時代を尊重しながらも近代ロシアを確立したいプーチン政権の思惑がパレードに映し出された。2003年と2004年、2006年と2007年の国歌はアカペラで披露され、新しいロシアをアピールした。04年からは総員傾聴解除のファンファーレが変更となった。2008年にプーチンが任期満了で大統領を辞任し、後継者となったメドヴェージェフ政権以降、ソ連崩壊後から中止されていた戦車部門が復活するなど、強いロシアをアピールするようになり、2014年のクリミア併合などで強いロシアの実現を国民にアピールするようになった。
2010年代ロシア式
2010年に開催された対独戦勝65周年記念パレード以降、聖旗とロシア国旗を掲げる兵士が行進する際の曲がプレオブラジェンスキー近衛連隊行進曲(Марш лейб-гвардии Преображенского полка)から、独ソ戦直後に作曲された聖なる戦い(Священная война)に変更され、兵士の行進隊形がソ連時代と同じものになるなど、独ソ戦の勝利を強調するようなパレード形式となった。2012年にプーチンが大統領に復帰し、2014年にクリミア併合が行われると、パレードも徐々に規模を拡大し、2015年のパレードでは中国やベラルーシ、インドやカザフスタンなどの軍が赤の広場を行進した。2019年に開催された対独戦勝74周年記念パレードでは、司令官と観閲官が乗る車がジルのЗИЛ-41041 АМГ(GAZ製)から、ロシア国営の自動車会社であるアウルス社の新車、アウルス・セナート(Аурус Сенат)に変更された。
2020年代ロシア式
2020年代ロシア式は、基本的に2010年代ロシア式とほぼ変わらないが、節目でない2022年に開催された対独戦勝70周年記念パレードの装飾が全体的に赤色になるなどの変更点がいくつかある。2020年のパレードは、新型コロナの世界的流行により、5月9日から6月24日に史上初めて延期された。他にも、スパスカヤ塔から司令官挨拶までの曲が祝典巡閲行進曲『祝勝行進曲』(Торжественно-триумфальный марш)から、祝典巡閲行進曲『赤軍25周年』(Юбилейный встречный марш «25 лет РККА»)に変更されたりなど、ソ連色が濃くなっている。
ソ連崩壊後の主なパレード
1991年にソ連が崩壊し、新しくロシア連邦が誕生するとソ連崩壊に伴う混乱により1995年までパレードは開催されなかった。1995年に対独戦勝50周年記念パレードが開催されて以降、毎年開催されている。
1995年対独戦勝記念パレード
このパレードは、ソ連崩壊後初のパレードである。1990年に開催された革命73周年記念以来の軍事パレードだが、ソ連崩壊に伴い赤の広場に帝政ロシア時代の宗教的建造物が再建されたことによりソ連時代のパレードと比べ小規模となった。午前9時55分、ボリス・エリツィンらロシア政府幹部がレーニン廟に登壇、午前10時を知らせる鐘が鳴ると同時にパレードが開催された。
このパレードではレーニン廟正面にある「ЛЕНИН」の石碑が隠され、ロシア国民からの批判を招いた。
ソ連時代と同様スパスカヤ塔から司令官が入場し、報告するのだが、ヴァスクレセンスキー門の再建によりマネージュ広場は使われなかった。その他最後の挨拶から霊廟に登るまでの曲が革命パレードに使用される「万歳我が祖国」から対独戦勝記念パレードのみに使われる「栄光あれ」へ、レーニンの肖像画から勝利勲章に変更されるなどソ連時代のパレードとは少し違った装飾で開催された。
2005年対独戦勝記念パレード
2005年のパレードでは、初めてレーニン廟全体が隠された。ウラジーミル・プーチンが大統領になってから初めての節目であったが、外国の要人が数多く出席した。午前10時、勝利の旗の入場が終わった後スパスカヤ塔からセルゲイ・イワノフが広場に入場、広場にいる兵士を激励した。このパレードで初めて電光掲示板がグム百貨店に設置された。
名前 | 役職(2005年当時) | パレードへの参加 |
---|---|---|
ミハイ1世 | 元ルーマニア国王 | 参加 |
ジョージ・W・ブッシュ | アメリカ大統領 | |
トニー・ブレア | イギリス首相 | 急用の為欠席 |
ジョン・プレスコット | イギリス副首相 | 首相代理として出席 |
ゲアハルト・シュレーダー | ドイツ首相 | 参加 |
ジャック・シラク | フランス大統領 | |
小泉純一郎 | 内閣総理大臣 | |
胡錦濤 | 中国共産党総書記 中国国家主席 | |
盧武鉉 | 韓国大統領 | |
マンモハン・シン | インド首相 | |
シルヴィオ・ベルルスコーニ | イタリア首相 | |
スヴェトザル・マロヴィッチ | セルビアモンテネグロ大統領 | |
ヴァイラ・ヴィーチェ=フレイベルガ | ラトビア大統領 | |
イルハム・アリエフ | アゼルバイジャン大統領 | |
ロベルト・コチャリャン | アルメニア大統領 | |
イスラム・カリモフ大統領 | ウズベキスタン大統領 | |
ヌルスルタン・ナザルバエフ | カザフスタン大統領 | |
ヴィクトル・ユシチェンコ | ウクライナ大統領 | |
エモマリ・ラフモン | タジキスタン大統領 | |
クルマンベク・バキエフ | キルギス大統領 | |
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ | 欧州共同体委員会委員長 | |
コフィー・アナン | 国際連合事務総長 |
2015年対独戦勝記念パレード
2015年のパレードはクリミア併合後初となるパレードとなった。2005年戦勝パレードより規模を拡大し、ソ連式の行進体制に変更された。パレードへの招待状は68カ国の首脳、国連、ユネスコ、欧州評議会、欧州連合の首脳に送られた。
2022年対独戦勝パレード
2022年のパレードはウクライナ侵攻(ロシアでは特別軍事作戦)以降、初となるパレードとなった。2021年に開催された対独戦勝76周年記念パレードと比べ小規模となったが、ほぼ例年通りの進行で開催された。ペスコフ大統領報道官は4月に開催を発表し、首脳級要人は招待しないと発表したが、中東やアフリカ諸国の特使などが出席した。
プーチン大統領はこの日に、 ウクライナに対する正式な宣戦布告を行うという予測があったが、正式な宣戦布告は行われなかった。
ショイグ国防相の巡礼後、プーチン大統領の演説が始まった。プーチン大統領は演説で西側諸国、NATOを名指しで非難し、NATOと西側諸国はロシアを弱体化させる為にウクライナを利用していると述べた。プーチン大統領は、現在のウクライナ政府とナチス・ドイツ政府との類似点を描いたロシア軍を称賛し、現在の軍隊は「祖国とその将来のために、そして誰も第二次世界大戦の教訓を忘れないように戦っている」と兵士と国民を鼓舞した。
脚注
注釈
- ^ ソ連時代の対独戦勝パレードは1945年・1965年・1985年・1990年の5月9日《戦勝記念日》に行われた。