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* 武州桧原、相州佐野川並棡原三郷の総鎮守とされ、[[三国峠 (東京都・神奈川県・山梨県)|三国山]]頭に座し、ここで祭祀が行われていた。かつて三国峠道が武蔵・相模・甲斐へ通じていた頃、人々は休息の時をこの神社で過ごしていた。 [[石楯尾神社#石楯尾神社 (佐野川の御石杜)|石楯尾神社]]は、かつては[[生藤山]](三国山)の東、高津座(つつぐら)峯にあって奥の宮と呼ばれ、ふもとの蚕山には前社がおかれていた<ref group="文">(1985年(昭和60年))「新編相模国風土記稿巻之119 村里部 津久井縣巻之4」『大日本地誌大系23 新編相模国風土記稿 第5巻』pp.353-356.雄山閣</ref>。 |
* 武州桧原、相州佐野川並棡原三郷の総鎮守とされ、[[三国峠 (東京都・神奈川県・山梨県)|三国山]]頭に座し、ここで祭祀が行われていた。かつて三国峠道が武蔵・相模・甲斐へ通じていた頃、人々は休息の時をこの神社で過ごしていた。 [[石楯尾神社#石楯尾神社 (佐野川の御石杜)|石楯尾神社]]は、かつては[[生藤山]](三国山)の東、高津座(つつぐら)峯にあって奥の宮と呼ばれ、ふもとの蚕山には前社がおかれていた<ref group="文">(1985年(昭和60年))「新編相模国風土記稿巻之119 村里部 津久井縣巻之4」『大日本地誌大系23 新編相模国風土記稿 第5巻』pp.353-356.雄山閣</ref>。 |
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* [[1334年]](建武元甲戌年)3月に、当時の領主[[新田義貞]]朝臣が蚕山(こやま、931m)<ref group="文">守屋二郎「山梨東部の山 登山詳細図(東編)、及び国土地理院の地図</ref>の社添へに御堂を建て軍荼利夜叉明王を祭った。<ref>軍荼利明王は三つの目、八本の手、そして蛇があちこちに巻きつく勇ましい姿で密教の仏様。名前はトグロを表すサンスクリット語のクンダリーニに由来する</ref>。 |
* [[1334年]](建武元甲戌年)3月に、当時の領主[[新田義貞]]朝臣が蚕山(こやま、931m)<ref group="文">守屋二郎「山梨東部の山 登山詳細図(東編)、及び国土地理院の地図</ref>の社添へに御堂を建て軍荼利夜叉明王を祭った。<ref>軍荼利明王は三つの目、八本の手、そして蛇があちこちに巻きつく勇ましい姿で密教の仏様。名前はトグロを表すサンスクリット語のクンダリーニに由来する</ref>。 |
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* 400年以上前の室町時代の文禄年間(1593年〜1596年)に野火の災に罹り現今の地に遷座<ref name="kunndari6" group="上">{{cite web|url=http://www.hakken-uenohara.jp/entry.html?id=113281|title=発見うえのはら - 軍刀利神社のカツラ|publisher=上野原市観光協会|date=2016-4-4|accessdate=2023-06-14}}</ref><ref name="kunndari4>軍刀利神社元社の立派な鳥居と小さな祠がある軍刀利山に、建てられた神社の由来を書いた石碑に記載あり-公益財団法人 日本山岳会 東京多摩支部 コースNO.33報告記事 2021年12月30日</ref>。 |
* 400年以上前の室町時代の文禄年間(1593年〜1596年)に野火の災に罹り現今の地に遷座<ref name="kunndari6" group="上">{{cite web|url=http://www.hakken-uenohara.jp/entry.html?id=113281|title=発見うえのはら - 軍刀利神社のカツラ|publisher=上野原市観光協会|date=2016-4-4|accessdate=2023-06-14}}</ref><ref name="kunndari4">軍刀利神社元社の立派な鳥居と小さな祠がある軍刀利山に、建てられた神社の由来を書いた石碑に記載あり-公益財団法人 日本山岳会 東京多摩支部 コースNO.33報告記事 2021年12月30日</ref>。 |
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* 甲斐国志に軍茶利夜叉明王社棡原村鎮守永正8年(1511年)とある。[[軍荼利明王]]は、疫病をもたらす毘那夜迦天(インドのガネーシャ)を調伏する。ここでは軍神として信仰は篤く部門特に武田信玄や岩殿城(大月市)主小山田家累代からの厚い崇敬を集めていた<ref name="kunndari1" group="県"/><ref name="kunndari3" group="国">{{cite web|url=https://kyoju.biodic.go.jp/?_action=gtcontents&_command=column051|title=軍刀利(ぐんだり)神社のカツラ【山梨県】|publisher=環境省自然環境局生物多様性センター|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-04}}</ref>。武田信玄は自画讃水仙を奉献。上野原豪族加藤氏、小菅遠江守信影累代の主など、神社維持費を[[幕末]]に至るまで奉献していた記述がある<ref>社務所-神社めぐり</ref>。 |
* 甲斐国志に軍茶利夜叉明王社棡原村鎮守永正8年(1511年)とある。[[軍荼利明王]]は、疫病をもたらす毘那夜迦天(インドのガネーシャ)を調伏する。ここでは軍神として信仰は篤く部門特に武田信玄や岩殿城(大月市)主小山田家累代からの厚い崇敬を集めていた<ref name="kunndari1" group="県"/><ref name="kunndari3" group="国">{{cite web|url=https://kyoju.biodic.go.jp/?_action=gtcontents&_command=column051|title=軍刀利(ぐんだり)神社のカツラ【山梨県】|publisher=環境省自然環境局生物多様性センター|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-04}}</ref>。武田信玄は自画讃水仙を奉献。上野原豪族加藤氏、小菅遠江守信影累代の主など、神社維持費を[[幕末]]に至るまで奉献していた記述がある<ref>社務所-神社めぐり</ref>。 |
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* 寛永9壬申年(1632)に再建の棟札<ref group="文">上野原町誌編纂委員会 編(1975年(昭和50年))『上野原町誌(下)』pp.1002.甲陽書房</ref>。 |
* 寛永9壬申年(1632)に再建の棟札<ref group="文">上野原町誌編纂委員会 編(1975年(昭和50年))『上野原町誌(下)』pp.1002.甲陽書房</ref>。 |
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[[石楯尾神社#石楯尾神社(佐野川の御石杜)|石楯尾神社]]には天磐楯(あま のいわたて)を東国の安定した治世のためここに鎮め、神武天皇を祀った。参道を更に進むと奥の院があり、ここには山梨県天然記念物のカツラの巨木とせせらぎがある。更に進むと、軍荼利山<ref>「荼毘(だび)」(火葬)の意味で、「軍荼利明王」という神様に由来する</ref>山頂近くにある1531年に武田氏が戦勝祈願をした元社(もとやしろ)に至る。所要時間は女坂をたどれば、奥の院から1時間で至る(なお三国山経由では1時間30分である)。 |
[[石楯尾神社#石楯尾神社(佐野川の御石杜)|石楯尾神社]]には天磐楯(あま のいわたて)を東国の安定した治世のためここに鎮め、神武天皇を祀った。参道を更に進むと奥の院があり、ここには山梨県天然記念物のカツラの巨木とせせらぎがある。更に進むと、軍荼利山<ref>「荼毘(だび)」(火葬)の意味で、「軍荼利明王」という神様に由来する</ref>山頂近くにある1531年に武田氏が戦勝祈願をした元社(もとやしろ)に至る。所要時間は女坂をたどれば、奥の院から1時間で至る(なお三国山経由では1時間30分である)。 |
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戦前は武運長久を祈願する為、出兵前の兵士や家族の参拝が絶えなかったという<ref name="JAFNAVI>{{cite web|url=https://drive.jafnavi.jp/facility/191119X00172|title=軍刀利神社|publisher=JAFナビ|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-06}}</ref>。400年の歴史の重みのある石段のたもとには、湧き水を引いた手水舎(てみずしゃ)がある<ref name="yamanashi">{{cite web|url=https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/8103|title=軍刀利神社(旧指定村社)|publisher=山梨県神社庁|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-06}}</ref>。 |
戦前は武運長久を祈願する為、出兵前の兵士や家族の参拝が絶えなかったという<ref name="JAFNAVI">{{cite web|url=https://drive.jafnavi.jp/facility/191119X00172|title=軍刀利神社|publisher=JAFナビ|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-06}}</ref>。400年の歴史の重みのある石段のたもとには、湧き水を引いた手水舎(てみずしゃ)がある<ref name="yamanashi">{{cite web|url=https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/8103|title=軍刀利神社(旧指定村社)|publisher=山梨県神社庁|date=2022-03-29|accessdate=2023-06-06}}</ref>。 |
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今日は500年の歴史をもち、福の神として地元の信仰が篤い。また、参道を歩く登山者の多い神社である。 |
今日は500年の歴史をもち、福の神として地元の信仰が篤い。また、参道を歩く登山者の多い神社である。 |
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** (バス利用)「井戸」行きバス([[富士急バス]])<ref name="tbck114">{{cite web|url=https://www.fujikyubus.co.jp/pdf/rosen/uenohara/uenohara-ido_202204.pdf|title=上野原駅発井戸行バス時刻表|publisher=富士急山梨バス |format=pdf |date=2023-05-17|accessdate=2023-05-17}}</ref>で終点で下車<ref name="kunndari3" group="国" />。徒歩15分。バス停「井戸」から軍刀利神社拝殿まで約1.2 km、カツラのある「奥の院」は更に約600 m先である。 |
** (バス利用)「井戸」行きバス([[富士急バス]])<ref name="tbck114">{{cite web|url=https://www.fujikyubus.co.jp/pdf/rosen/uenohara/uenohara-ido_202204.pdf|title=上野原駅発井戸行バス時刻表|publisher=富士急山梨バス |format=pdf |date=2023-05-17|accessdate=2023-05-17}}</ref>で終点で下車<ref name="kunndari3" group="国" />。徒歩15分。バス停「井戸」から軍刀利神社拝殿まで約1.2 km、カツラのある「奥の院」は更に約600 m先である。 |
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** (徒歩)[[徒歩所要時間|徒歩]]2時間33分。(直線距離6.4 km)。 |
** (徒歩)[[徒歩所要時間|徒歩]]2時間33分。(直線距離6.4 km)。 |
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* 社務所の横と本殿の階段下に駐車場15台ある<ref name="kunndari1" group="県" /><ref name="JAFNAVI />。 |
* 社務所の横と本殿の階段下に駐車場15台ある<ref name="kunndari1" group="県" /><ref name="JAFNAVI" />。 |
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== 登山口としての役割 == |
== 登山口としての役割 == |
2023年6月29日 (木) 00:13時点における版
軍刀利神社 | |
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所在地 | 山梨県上野原市棡原4134 |
位置 | 北緯35度40分14.66秒 東経139度7分23.02秒 / 北緯35.6707389度 東経139.1230611度座標: 北緯35度40分14.66秒 東経139度7分23.02秒 / 北緯35.6707389度 東経139.1230611度 |
主祭神 | 日本武尊 |
社格等 | 旧村社 |
創建 | 不詳 1048年(永承3年)[1] |
例祭 | 4月19日[2] |
軍刀利神社(ぐんだりじんじゃ)は、山梨県上野原市棡原にある神社。旧社格は村社[県 1]。
歴史
- 武州桧原、相州佐野川並棡原三郷の総鎮守とされ、三国山頭に座し、ここで祭祀が行われていた。かつて三国峠道が武蔵・相模・甲斐へ通じていた頃、人々は休息の時をこの神社で過ごしていた。 石楯尾神社は、かつては生藤山(三国山)の東、高津座(つつぐら)峯にあって奥の宮と呼ばれ、ふもとの蚕山には前社がおかれていた[文 1]。
- 1334年(建武元甲戌年)3月に、当時の領主新田義貞朝臣が蚕山(こやま、931m)[文 2]の社添へに御堂を建て軍荼利夜叉明王を祭った。[3]。
- 400年以上前の室町時代の文禄年間(1593年〜1596年)に野火の災に罹り現今の地に遷座[上 1][4]。
- 甲斐国志に軍茶利夜叉明王社棡原村鎮守永正8年(1511年)とある。軍荼利明王は、疫病をもたらす毘那夜迦天(インドのガネーシャ)を調伏する。ここでは軍神として信仰は篤く部門特に武田信玄や岩殿城(大月市)主小山田家累代からの厚い崇敬を集めていた[県 1][国 1]。武田信玄は自画讃水仙を奉献。上野原豪族加藤氏、小菅遠江守信影累代の主など、神社維持費を幕末に至るまで奉献していた記述がある[5]。
- 寛永9壬申年(1632)に再建の棟札[文 3]。
- 寛政2庚戌年(1790)に本殿・拝殿を建立[文 4]。
- 武神として日本武尊を祭神とする神社であると広く知られている[要出典][県 1]が、明治元年神仏分離令[6]と明治5年修験道廃止令[7]前までは修験道の大正院[8]が、神仏習合の神社である軍荼利夜叉明王社(ぐんだりみょうおう)の別当(管理)を務めて、修験者がその信奉者を増やしてきた。 明治時代に密教の軍茶利夜叉明王を廃止し、代わりに武神としての日本武尊を祭神とした[1]軍刀利神社と改称した[国 1]。信仰の形も変わり、今日では縁結び、子宝、安産、厄除け、招福、延命長寿の神社である[9]。
境内
コンクリートで舗装された道を進むと一の鳥居、社務所(祭礼時には開く)、二の鳥居のある古い石段を登ると本殿である。本殿横の剣は、日本武尊が東征の帰りに三国山の山頂で草薙の剣を神実(かむざね)として祀ったことに由来している[県 1]。
石楯尾神社には天磐楯(あま のいわたて)を東国の安定した治世のためここに鎮め、神武天皇を祀った。参道を更に進むと奥の院があり、ここには山梨県天然記念物のカツラの巨木とせせらぎがある。更に進むと、軍荼利山[10]山頂近くにある1531年に武田氏が戦勝祈願をした元社(もとやしろ)に至る。所要時間は女坂をたどれば、奥の院から1時間で至る(なお三国山経由では1時間30分である)。
戦前は武運長久を祈願する為、出兵前の兵士や家族の参拝が絶えなかったという[11]。400年の歴史の重みのある石段のたもとには、湧き水を引いた手水舎(てみずしゃ)がある[2]。
今日は500年の歴史をもち、福の神として地元の信仰が篤い。また、参道を歩く登山者の多い神社である。
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一の鳥居
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本殿
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元社
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石碑
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額(2023年6月)
行事
- 1月1日 歳旦祭[12]
- 4月19日 例大祭
- 10月19日 秋祭
- 11月23日 新嘗祭
- 12月31日 除夜祭
文化財
山梨県指定天然記念物
奥の院には、山梨県指定の天然記念物(1961年12月7日指定)のカツラがそびえ立つ。規模は、根廻りは斜面に沿って14.0 m、地面上より1mの幹囲は9.2 m、樹高33.0 mである[国 1][県 2] [県 3][上 2]。
上野原市の指定文化財
参道入口の大鳥居の左脇に所在した樹高18.1 m、幹周3.12 mの井戸のサイカチは、樹齢は300年以上とされ、根元から幹にかけて空洞であった。倒木のため、2015年に文化財指定が解除された[上 3]。一の鳥居の左側にあるのが井戸のサイカチである。
アクセス
登山口としての役割
軍刀利神社は三国山、熊倉山への日帰りハイキングの登山口でもある[文 5]。
三国山・生藤山は環境庁が「どんどん登山をし、自然が愛され自然が守られるよう」と願って定めた関東ふれあいの道“富士見のみち”と呼ばれる日帰り登山ルート上にある。そのルートは高尾駅から〈美32〉系統「陣馬高原下」行バス[14](西東京バス恩方営業所が運行)から始まる。終点の「陣馬高原下」から、和田峠、醍醐丸、連行峰を経て生藤山。そして熊倉山、浅間峠、「上川乗」[15]に至る。距離14.7km、所要時間5時間35分である[国 2]。
鳥居の管理
山梨県軍刀利神社奥の院と元社にある2ヶ所の銀色の鳥居は、山岳写真家の白旗史朗が寄贈したものである。10年目の塗装作業を白旗大月後援会、地元上野原市の東斐山岳会、相模原市の藤野山岳会、NPO北丹沢山岳センターの手で実施した[16]。
課題
小菅村のことわざに「林道ができると山の手入れをしなくなる」「農道ができると畑が駄目になる」とある。農山村地区から都市地区への移動が楽になり、仕事も買い物も都市部で済ませるため、バスはなくなり村の商店街は廃れ、山や田畑の手入れをする農業、林業の従事者が減った結果、村々の山は荒れ、田畑は耕作放棄地や産廃処理場兼メガソーラー発電所に変容した[17]。この中で上野原市棡原地区や相模原市緑区佐野川地区には、天皇皇后両陛下行幸啓碑のある「ふるさと長寿館[国 3][上 4][県 4]」やカントリークラブのほか、社会福祉施設や特別養護老人ホームもある。トレッキングの日帰りバスツアー観光客の誘致のため2023年現在、上岩登山道にチップを撒いたり尾根近くまで勾配を緩く拡幅するなどの改良工事が進められている。このように、雇用を生み出す地域再生が地域の課題になっている。
棡原の食事は穀物と野菜の食事で、これが長寿を生んだというおかずはキュウリ、トマト、ナスなどの生野菜、煮物、それに漬物などで、肉や魚などの動物性たんぱく質は余り食べない。味噌汁も溢れるほどの野菜[要出典][18]。このような麦を中心に据えた〝穀菜食〞文化で長寿者を輩出した山梨・棡原は食生活、生活様式の急変を受け、親が子の葬式を出す「逆さ仏」、「長寿村・短命化の教訓」のモデルとなった[報 1][19][報 2][20]。
歴史の綾
- 軍太利神社(埼玉県飯能市大河原)は、建仁年間(1201年 – 1203年)に大河原村(現飯能市大字大河原)の領主で鎌倉幕府御家人[21]の大河原四郎が武門の守護神として勧請したといわれている[22][23]。
- 安楽寺(東京都青梅市成木)[23]は、軍荼利明王を祀る堂を護るための別当寺として建てられたものと見られる[誰によって?]。愛染明王・不動明王・軍荼利明王を本尊とし、成木の軍荼利様として親しまれている[24]。
所在地
- 山梨県上野原市棡原4134
周辺の施設など
- ゆずりはら青少年自然の家
- ふるさと長寿館
- 上野原カントリークラブ
- 佐野川薫風 - 社会福祉法人ラファエル会 - 知的障害者通所更生施設、
- 銀の館 - 社会福祉法人ラファエル会 - 特別養護老人ホーム
- 倉子峠・句碑群
注釈
- ^ a b “軍刀利神社のカツラ”. 人里の巨木たち - 上越大学. 2004年2月13日閲覧。
- ^ a b “軍刀利神社(旧指定村社)”. 山梨県神社庁 (2022年3月29日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ 軍荼利明王は三つの目、八本の手、そして蛇があちこちに巻きつく勇ましい姿で密教の仏様。名前はトグロを表すサンスクリット語のクンダリーニに由来する
- ^ 軍刀利神社元社の立派な鳥居と小さな祠がある軍刀利山に、建てられた神社の由来を書いた石碑に記載あり-公益財団法人 日本山岳会 東京多摩支部 コースNO.33報告記事 2021年12月30日
- ^ 社務所-神社めぐり
- ^ 神仏分離
- ^ 女人禁制
- ^ 大正院は不動明王や役行者等を信仰・礼拝する山岳信仰の修験道行者・修験僧の住居を兼ねた草庵のようである。2013年6月13日
- ^ “薬の休憩室(第22回):~軍刀利神社のミステリー”. 協同組合 藤沢薬業協会. 2023年6月25日閲覧。
- ^ 「荼毘(だび)」(火葬)の意味で、「軍荼利明王」という神様に由来する
- ^ a b “軍刀利神社”. JAFナビ (2022年3月29日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “軍刀利(ぐんだり)神社”. 国際教養振興協会 ICPA. 2023年6月14日閲覧。
- ^ “上野原駅発井戸行バス時刻表” (pdf). 富士急山梨バス (2023年5月17日). 2023年5月17日閲覧。
- ^ “高尾駅北口発陣馬高原下行バス時刻表”. NAVITIME (2023年5月17日). 2023年5月17日閲覧。
- ^ “上川乗発武蔵五日市駅行バス時刻表”. NAVITIME (2023年5月17日). 2023年5月27日閲覧。
- ^ “軍刀利神社鳥居と元社鳥居が白銀に輝く鳥居に生まれ変わった”. NPO北丹沢山岳センター北丹沢合同会社 (2011年3月20日). 2023年6月14日閲覧。
- ^ “山梨県北都留郡小菅村のことわざ風土記(民俗誌)” (pdf). NPO法人郷土のことわざネットワーク・ことネット (2017年5月30日). 2023年6月9日閲覧。
- ^ “山梨・棡原の長寿は〝穀菜食〞が作った(38)”. ヘルスビジネスオンライン (2023年5月23日). 2023年6月16日閲覧。
- ^ “40年前 長寿日本一の村 山梨県棡原村。”. 腸内環境協会 (2016年4月20日). 2023年6月15日閲覧。
- ^ 上野原市#長寿
- ^ 飯能市史編集委員会編 1982, p. 87.
- ^ 飯能市史編集委員会編 1982, p. 35.
- ^ a b 軍太利神社 (飯能市)
- ^ 安楽寺
- 報道関係資料
- ^ “長寿の里探訪 山梨・棡原 寿命は食べた野菜の量に比例”. 日本食糧新聞社 (1996年7月10日). 2023年6月15日閲覧。
- ^ “知られざるキーワードは“無尽”!? 最強の健康長寿「山梨県」のDNA”. デイリー新潮 (2018年1月28日). 2023年6月15日閲覧。
- 上野原市資料
- ^ “発見うえのはら - 軍刀利神社のカツラ”. 上野原市観光協会 (2016年4月4日). 2023年6月14日閲覧。
- ^ “山梨県指定天然記念物「軍刀利神社のカツラ」”. 上野原市 (2016年4月4日). 2023年6月15日閲覧。
- ^ “発見うえのはら - 文化財コース”. 上野原市観光協会. 2023年6月14日閲覧。
- ^ “発見うえのはら - 長寿館”. 上野原市観光協会. 2023年6月14日閲覧。
- 山梨県関係資料
- ^ a b c d e “軍刀利神社 (ぐんだりじんじゃ)”. 公益社団法人やまなし観光推進機構 (2023年5月22日). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “軍刀利神社のカツラ ー 山梨の文化財ガイド(データベース)”. 山梨県観光文化・スポーツ部文化振興・文化財課 (2023年2月17日). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “県指定天然記念物”. 山梨県 (2022年4月17日). 2023年6月14日閲覧。
- ^ “ふるさと長寿館(ふるさとちょうじゅかん)”. 公益社団法人やまなし観光推進機構 (2021年6月9日). 2023年6月4日閲覧。
- 環境庁・農林水産省関係資料
- ^ a b c d “軍刀利(ぐんだり)神社のカツラ【山梨県】”. 環境省自然環境局生物多様性センター (2022年3月29日). 2023年6月4日閲覧。
- ^ “コース紹介 03.富士見のみち”. 環境庁 (2018-0108). 2023年5月26日閲覧。
- ^ “特集2 ほっとするね。おばあちゃんの懐かしご飯(2)”. 農林水産省 (2013年5月). 2023年6月14日閲覧。
参考文献
この辺りを扱った江戸時代の地誌は、「甲斐国史」及び「新編武蔵国風土記稿」と「新編相模国風土記稿」である。
関連項目
外部リンク
- 軍刀利神社のカツラ - 上野原市教育委員会 更新日2023-01-23 閲覧日2023-06-14