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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 西田春耕 『口嗜小史』 1919年 ※[[国立国会図書館デジタルコレクション]]に本文あり[{{NDLDC|1182969/45}}]。
* 西田春耕 『口嗜小史』 1919年 ※[[国立国会図書館デジタルコレクション]]に本文あり[{{NDLDC|1182969/45}}]。
* 沢田章編 『日本画家大事典』 啓成社、1913年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[[{{NDLDC|945967/69}}]。
* 沢田章編 『日本画家大事典』 啓成社、1913年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[[{{NDLDC|945967/69}}]]。
* [[日本浮世絵協会]]編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) [[大修館書店]]、1982年 ※113頁
* [[日本浮世絵協会]]編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) [[大修館書店]]、1982年 ※113頁
* 中野雅宗編 『日本書画鑑定大事典』(第二巻) 国書刊行会、2007年 ※231頁
* 中野雅宗編 『日本書画鑑定大事典』(第二巻) 国書刊行会、2007年 ※231頁

2023年4月29日 (土) 00:05時点における版

人見 淇堂(ひとみ きどう、文化12年〈1815年[1]明治27年〈1894年3月17日)とは、江戸時代後期から明治時代にかけての画家

来歴

椿椿山の門人。また一時期、葛飾北斎の門下だったという。名は政義(まさよし)、通称は甚四郎。東京の人で浅草区森下町、後に青山南町に住む[2]。享年80。墓所は赤坂青山北町の青原寺にあったが、青原寺は明治42年(1909年)に現在の中野区上高田に移転している。

作品

脚注

  1. ^ 『口嗜小史』(明治20年〈1887年〉刊行)の「今年七十三」の記述から逆算。
  2. ^ 明治22年の『書画集覧次第不同』に「青山ミナミ丁 人見淇堂」とあり。

参考文献

  • 西田春耕 『口嗜小史』 1919年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[2]
  • 沢田章編 『日本画家大事典』 啓成社、1913年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり[[3]]。
  • 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年 ※113頁
  • 中野雅宗編 『日本書画鑑定大事典』(第二巻) 国書刊行会、2007年 ※231頁
  • 鈴木美絵 「暁斎をめぐる画家 ー是真・乾堂・綾岡・淇堂・黄石・竹圃・柳亭・応真―」 『暁斎』第95号 河鍋暁斎記念美術館、2007年