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この処分の意思決定者は、[[高山清司]]率いる[[名古屋]]の[[弘道会]]であった。このことから、[[警察庁]][[組織犯罪対策部]]は、後藤組と弘道会の間での[[抗争|対立抗争]]の発生の懸念を2008年10月度の[[愛知県公安委員会]]に報告するに至っている。<ref>[http://www.pref.aichi.jp/koan/pdf/20/10.pdf 『定例公安委員会:対立抗争に発展するおそれのある事案の発生』] 2008年10月3日 ''[[愛知県公安委員会]]''</ref>
この処分の意思決定者は、[[高山清司]]率いる[[名古屋]]の[[弘道会]]であった。このことから、[[警察庁]][[組織犯罪対策部]]は、後藤組と弘道会の間での[[抗争|対立抗争]]の発生の懸念を2008年10月度の[[愛知県公安委員会]]に報告するに至っている。<ref>[http://www.pref.aichi.jp/koan/pdf/20/10.pdf 『定例公安委員会:対立抗争に発展するおそれのある事案の発生』] 2008年10月3日 ''[[愛知県公安委員会]]''</ref>

===創価学会と後藤組の関係===
暴力団後藤組元組長の後藤忠政によれば、創価学会は、もともと日蓮正宗の信徒の集まりで、かつては富士宮の大石寺が本山だったから、地元で揉め事を扱っていた俺とは、自然と関わり合いも出てくるわな。  初めて接点を持ったのは俺が三十二、三(歳)ぐらいの時(1975〜76年)で、まだ川内組の枝だった頃だ。その5、6年ほど前(69〜70年)から、学会は大石寺周辺の土地という土地を買い漁って、境内を拡張して大本堂(正本堂)を建てたり(72年建立〉、その近くにバカでかい墓地(現在の「創価学会富士桜自然墓地公園」、80年完成)を作ったりしていた。何しろあの当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。
大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億近くになったんじゃないか。もちろん、この学会の建設ラッシュで地元は潤ったが、俺たちにとっても昭和40年代、50年代の富士宮での最大の利権だった。それこそ、ヤクザ、堅気問わず、富士宮中の悪という悪が、その利権に群がって丁々発止を繰り広げたんだ。  そんななか、富士桜の造成を一手に引き受けていたのが、地元じゃ有名な「日原」という男だった。 日原は地元じゃ、「影の市長」とか、「富士宮の小佐野賢治」とか呼ばれてさ。ちょっとした有名人だったんだよ。後で、この富士桜で儲けた金を隠してて、脱税で挙げられるんだけどな。その後も東名(高速道路)なんかに食い込んで、ボロ儲けしていた。バブルの時に手を広げ過ぎてパンクしちまったが、今でも再起を目指して頑張ってるそうだ。バイタリティーのある男だよ。  俺は初め、その日原から頼まれて、用心棒みたいなことをやっていた。何しろ当時は〝学会利権〟にありつこうと、色んな悪い奴が次から次へと集まってきたから。ただ当時はまだ、俺もチンピラみたいなもんだったから、今から考えたら鼻くそみたいな小遣いで、日原のために動いてやったんだ。  ところが、日原が、富士桜の儲けを独り占めするもんだから、他の業者から散々、反発を買ったんだよ。やり過ぎたんだ。墓石でもさ、台湾か中国で買ってくれば1000円か2000円程度のものを5000円で売って、据え付けたら1万円ぐらいになって、それが何万基もあるんだから。そんなこんなで日原は怪文書を撒かれたり、告発されたりしてたんだが、日原の悪口と一緒に、ウチの組の悪口を書いたビラを、ご丁寧にも新聞に折り込んで撒いたMという男がいた。それに怒ったウチの若い衆が、相手ん家にブルドーザーで突っ込んだんだ。
 1977(昭和52)年11月21日、後藤組幹部が富士宮市内のM宅に12トン用の大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10メートルにわたって破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2カ月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕された。  後から聞いた話だと、相手もなかなか腹の据わった奴だったらしいよ。「いつでも来い」とか言って、自分も日本刀持って寝てたらしいから。この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ。
 山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長(当時。現在は名誉会長)の。〝お庭番〟であると同時に、「宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件」など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。 学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしてたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ。けど、この告発の黒幕が実は日原で、山崎は日原を懐柔するために日原と組んだんだ。それからは、何をするにも山崎と日原は二人三脚だった。  ところがだんだん、学会と日原のこれまでやってきた悪事がバレてきて、富士宮の中でも左翼の連中を中心に「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」とかいうのができたりして、(創価学会に対する)反対運動が起こった。デモが起こるぐらいに盛り上がったんだが、その時に山崎から(反対運動が)「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから。‪<ref>‬ 後藤忠政著 宝島社 憚りながら第4章‪</ref>‬

公明党元都議会議員の龍年光によれば、「創価学会自体、以前から暴力団と関係があります。池田大作の指示のもと学会の政界や暴力団山関係の交渉の窓口は、当初、私自身が担当していましたからね。 私が担当したのは昭和20~30年代にかけてです。その後、竹入義勝元公明党委員長がその役割を引き継ぎましたが、竹入の片腕だったのが、藤井だった。昭 和30~40年代のことで竹入が一線を退いてからは、藤井が一手に、裏工作を担当するようになった。いわば、学会、つまり池田大作の〃お庭番〃です」‪<ref>‬ 週刊現代・97/11/22 ‪</ref>‬


==最高幹部==
==最高幹部==

2023年8月19日 (土) 21:34時点における版

後藤組
設立1969年
設立者後藤忠政
本部〒418-0005
静岡県富士宮市宮原635-2
首領後藤忠政
活動期間1969年 - 2008年
構成員数
(推定)
約1000人
上部団体 山口組

後藤組(ごとうぐみ)は、かつて静岡県富士宮市に本部を置いていた暴力団指定暴力団・六代目山口組の二次団体であったが、山口組から除籍処分を受けたことで2008年(平成20年)に解散。その後、傘下組織の良知組藤友会が山口組の直系団体に昇格した。

来歴

組長後藤忠政は、三代目山口組時代のボンノこと菅谷政雄が興した菅谷組の幹部で「北陸の帝王」と呼ばれた川内弘率いる川内組の幹部だった。 菅谷組の内紛から川内が射殺され、伊堂組舎弟を経て四代目山口組の直参(二次団体組長)に昇格。一和会との「山一抗争」の時には構成員が、一和会会長・山本広宅にダイナマイトを持参してダンプで突入した。この際に機動隊と銃撃戦を行った[1]

1975年、抗争が拡大する中で拳銃乱射事件を起こす。後藤組長ら10人が逮捕され、幹部のほとんどが服役する状態となった。その最中の1976年には、富士宮市市長選挙に介入。現職市長を中傷する怪文書を握りつぶす代償として1000万円を要求していたことが明らかになる[2]

五代目山口組の東京進出時にはいち早く行動を起こし、確固たる地盤を築いた。1990年に起きた「八王子抗争」の後、八王子に傘下の正東会が地位を確立した。その後、世間を騒がせた武富士問題の結果、日本航空の個人筆頭株主となった。後藤組傘下企業舎弟及びフロント企業が東京都内に多数進出。

後藤組の名は、1992年の映画「ミンボーの女」をめぐる伊丹十三監督襲撃事件で、武闘派暴力団として報道された。伊丹十三監督襲撃事件とは、「ミンボーの女」で地上げやゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描いた伊丹監督が、同年5月22日夜に自宅の近くで刃物を持った五人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負った事件である。伊丹監督は「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した。警察は現場の車より山口組系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。

2005年に東京都渋谷区の雑居ビルの所有権をめぐってビル管理者とトラブルになり、不動産不正登記事件やビル管理会社顧問刺殺事件が起こり、後藤組長が電磁的公正証書不実記録容疑で、後藤組幹部と後藤組組員が殺人罪で立件されて有罪判決が下されている(真珠宮ビル事件)。

除籍・解散

2008年秋に山口組執行部から除籍処分を受け、組長・後藤忠政は引退。後藤組にかわり、元傘下の良知組藤友会が山口組直参となった。

この処分については、六代目山口組執行部による『反執行部勢力の排除』の一環であったとする見方がある[3]。ただ、同時期に、後藤は病気を理由に本部の定例会を欠席しておきながら、芸能人数名を招待しての誕生会を兼ねたゴルフコンペを開いており、これが執行部から問題視されていたのも事実である。

この処分に連座した団体は後藤組のほかに7団体。すなわち、井奥会神戸大門会熊本六代目奥州会津角定一家福島二代目一心会大阪浅川会大阪太田興業大阪二代目浅川一家福岡で、わけても井奥会と大門会が受けたのは最も重い処分にあたる絶縁であった。[4]

この処分の意思決定者は、高山清司率いる名古屋弘道会であった。このことから、警察庁組織犯罪対策部は、後藤組と弘道会の間での対立抗争の発生の懸念を2008年10月度の愛知県公安委員会に報告するに至っている。[5]

創価学会と後藤組の関係

暴力団後藤組元組長の後藤忠政によれば、創価学会は、もともと日蓮正宗の信徒の集まりで、かつては富士宮の大石寺が本山だったから、地元で揉め事を扱っていた俺とは、自然と関わり合いも出てくるわな。  初めて接点を持ったのは俺が三十二、三(歳)ぐらいの時(1975〜76年)で、まだ川内組の枝だった頃だ。その5、6年ほど前(69〜70年)から、学会は大石寺周辺の土地という土地を買い漁って、境内を拡張して大本堂(正本堂)を建てたり(72年建立〉、その近くにバカでかい墓地(現在の「創価学会富士桜自然墓地公園」、80年完成)を作ったりしていた。何しろあの当時、大石寺絡みの土地売買や建設工事で、富士宮に流れ込んだ金は莫大だったんだ。 大本堂で300億円、富士桜(自然墓地公園)で200億円、その周りの土地を買うのに数百億円といった具合に、全部で1000億近くになったんじゃないか。もちろん、この学会の建設ラッシュで地元は潤ったが、俺たちにとっても昭和40年代、50年代の富士宮での最大の利権だった。それこそ、ヤクザ、堅気問わず、富士宮中の悪という悪が、その利権に群がって丁々発止を繰り広げたんだ。  そんななか、富士桜の造成を一手に引き受けていたのが、地元じゃ有名な「日原」という男だった。 日原は地元じゃ、「影の市長」とか、「富士宮の小佐野賢治」とか呼ばれてさ。ちょっとした有名人だったんだよ。後で、この富士桜で儲けた金を隠してて、脱税で挙げられるんだけどな。その後も東名(高速道路)なんかに食い込んで、ボロ儲けしていた。バブルの時に手を広げ過ぎてパンクしちまったが、今でも再起を目指して頑張ってるそうだ。バイタリティーのある男だよ。  俺は初め、その日原から頼まれて、用心棒みたいなことをやっていた。何しろ当時は〝学会利権〟にありつこうと、色んな悪い奴が次から次へと集まってきたから。ただ当時はまだ、俺もチンピラみたいなもんだったから、今から考えたら鼻くそみたいな小遣いで、日原のために動いてやったんだ。  ところが、日原が、富士桜の儲けを独り占めするもんだから、他の業者から散々、反発を買ったんだよ。やり過ぎたんだ。墓石でもさ、台湾か中国で買ってくれば1000円か2000円程度のものを5000円で売って、据え付けたら1万円ぐらいになって、それが何万基もあるんだから。そんなこんなで日原は怪文書を撒かれたり、告発されたりしてたんだが、日原の悪口と一緒に、ウチの組の悪口を書いたビラを、ご丁寧にも新聞に折り込んで撒いたMという男がいた。それに怒ったウチの若い衆が、相手ん家にブルドーザーで突っ込んだんだ。  1977(昭和52)年11月21日、後藤組幹部が富士宮市内のM宅に12トン用の大型ブルドーザーで突入し、ブロック塀を10メートルにわたって破壊。その後、Mに日本刀で斬りつけ、左腕や背中などに2カ月の怪我を負わせ、翌日、殺人未遂の容疑で逮捕された。  後から聞いた話だと、相手もなかなか腹の据わった奴だったらしいよ。「いつでも来い」とか言って、自分も日本刀持って寝てたらしいから。この事件でウチの若い衆は(懲役)6年食らったんだけど、実は日原の後ろにはあの「山崎正友」がいたんだ。日原と山崎は、それこそ二人三脚で富士桜を進めていたわけだ。  山崎正友は当時、創価学会の顧問弁護士で、池田大作・創価学会会長(当時。現在は名誉会長)の。〝お庭番〟であると同時に、「宮本顕治・共産党委員長宅盗聴事件」など、過去に創価学会が行なった数々のダーティーワークの指揮官でもあった。 学会は、大本堂を造る時からデタラメなことをしてたんだ。大本堂を造る際に、市道を勝手に(市の許可なく)潰したり、農地を不正に取得したりしてな。それが(富士宮市)議会で問題になったり、道路法違反で池田大作が告発されたりしたんだよ。けど、この告発の黒幕が実は日原で、山崎は日原を懐柔するために日原と組んだんだ。それからは、何をするにも山崎と日原は二人三脚だった。  ところがだんだん、学会と日原のこれまでやってきた悪事がバレてきて、富士宮の中でも左翼の連中を中心に「日原造園、創価学会と市政の疑惑を正す市民会議」とかいうのができたりして、(創価学会に対する)反対運動が起こった。デモが起こるぐらいに盛り上がったんだが、その時に山崎から(反対運動が)「何とかならんか」という相談があった。そういう裏の話は当時、あの男(山崎)がすべて仕切っていて、池田ともサシで話し合えるぐらいの実力は持ってたんだ。実際、俺にも「親分のことは池田会長に伝えてあります。池田会長も『くれぐれもよろしく』と言ってました」と言ってたんだから。‪[6]

公明党元都議会議員の龍年光によれば、「創価学会自体、以前から暴力団と関係があります。池田大作の指示のもと学会の政界や暴力団山関係の交渉の窓口は、当初、私自身が担当していましたからね。 私が担当したのは昭和20~30年代にかけてです。その後、竹入義勝元公明党委員長がその役割を引き継ぎましたが、竹入の片腕だったのが、藤井だった。昭 和30~40年代のことで竹入が一線を退いてからは、藤井が一手に、裏工作を担当するようになった。いわば、学会、つまり池田大作の〃お庭番〃です」‪[7]

最高幹部

  • 組長・後藤忠政(六代目山口組舎弟、旧伊堂組舎弟、元川内組若頭補佐兼静岡支部長)
  • 若頭・良知政志(良知組組長)
  • 若頭補佐・山口勝美(山勝組組長)
  • 若頭補佐・石原英也(政竜会会長)
  • 若頭補佐・篠原誠(忠誠会会長)
  • 若頭補佐・日高丈昌(日高組組長)
  • 若頭補佐・深沢正志(深澤組組長)
  • 特別相談役・渡辺宏(渡辺組組長)
  • 特別相談役・石川和一(石川組組長)
  • 舎弟頭・佐野宏好(三代目大石会会長)
  • 舎弟頭補佐・坂本剛志(坂本組組長)
  • 舎弟頭補佐・古橋勝利(正東会会長)
  • 総本部長・塚本修正(志太宗家十代目)
  • 副本部長・池田満(二代目東駿会会長)

その他の組員

舎弟

  • 舎弟・庄子喬(二代目東京盛代庄子組組長)
  • 舎弟・鴻池隆(鴻池組組長)
  • 舎弟・早川正(早川組組長)
  • 舎弟・佐野明義(藤友会会長)
  • 舎弟・太田茂昭(太田組組長)
  • 舎弟・中村政治(會津家七代目組長)
  • 舎弟・永持昌男(永昌会会長)
  • 舎弟・高山勲(三代目高山会会長)
  • 舎弟・柿畑務(柿畑組組長)
  • 舎弟・長澤城二(大石会会長代行)

幹部

  • 事務局長・惟村邦歳(惟村組組長)
  • 風紀委員長・佐野光男(佐野会会長)
  • 慶弔委員長・諸田芳雄(諸田組組長)
  • 組長秘書・横山孝司

脚注

出典

  1. ^ “「よほどの事が…」山口組、武闘派後藤組長を除籍処分”. ZAKZAK. (2008年10月15日). http://www.zakzak.co.jp/top/200810/t2008101510_all.html 
  2. ^ 富士宮市長に「一千万円出せ」怪文書でゆする 暴力団事務所で『朝日新聞』1976年(昭和51年)1月15日朝刊、13版、23面
  3. ^ 『大相撲「野球賭博」の裏側に警察の「山口組掃討」頂上作戦』 2010年7月1日 現代ビジネス
  4. ^ 六代目山口組完全データBOOK 2008年版 : 『後藤組長除籍の余波と直参大量処分の真相とは?』 (p.130-143) 2009年2月 メディアックス ISBN 978-4-86201-358-3
  5. ^ 『定例公安委員会:対立抗争に発展するおそれのある事案の発生』 2008年10月3日 愛知県公安委員会
  6. ^ ‬ 後藤忠政著 宝島社 憚りながら第4章‪
  7. ^ ‬ 週刊現代・97/11/22 ‪

関連項目