「T-27 (戦車)」の版間の差分
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[[1920年代]]、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は初の国産[[戦車]][[T-18 (戦車)|MS-1またはT-18]]([[ルノー FT-17 軽戦車]]を[[模倣]]した独自発展型)と組み合わせて使う[[偵察]]・連絡用の[[豆戦車|タンケッテ]]を求めた。[[プロトタイプ|試作]]戦車T-16を元に、無[[砲塔]]のT-18のようなT-17タンケッテが作られ、T-21やT-25がペーパープランのみに終わり、さらにT-17の発展型であるT-23が試作された。 |
[[1920年代]]、[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]は初の国産[[戦車]][[T-18 (戦車)|MS-1またはT-18]]([[ルノー FT-17 軽戦車]]を[[模倣]]した独自発展型)と組み合わせて使う[[偵察]]・連絡用の[[豆戦車|タンケッテ]]を求めた。[[プロトタイプ|試作]]戦車T-16を元に、無[[砲塔]]のT-18のようなT-17タンケッテが作られ、T-21やT-25がペーパープランのみに終わり、さらにT-17の発展型であるT-23が試作された。 |
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その後、[[イギリス]]で偵察用として量産された低[[費用|コスト]]の豆戦車・[[カーデン・ロイド豆戦車|カーデン・ロイドMk.IV]]が現れた。これは[[軍縮]]で安価な戦車が求められたこともあり、16もの[[国]]に[[輸出]]され、各国で模倣・改良された。[[ソビエト連邦|ソ連]]でも購入した26輌のカーデンロイドを25-VまたはK-25と命名して運用し、これをもとに改良したのがN.コズイレフの設計チームによる'''T-27'''である。[[DP28軽機関銃]]を1丁備え、カーデンロイドのようなオープントップではなく、上部まで[[装甲]]板に守られ、[[防御 (軍事)|防御]]力を高めていた。[[:en:Ford Madel AA|フォード・AA]]用の40[[馬力]][[ガソリンエンジン]]を備え、[[機関銃]]を扱う[[指揮官|車長]]と[[運転者|操縦士]]の2人が乗り込んでいた。 |
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[[1931年]]に採用されて[[大量生産]]されたT-27は、ソ連[[機甲師団|機甲部隊]]の創設期において重要な地位を占め、[[1930年代|30年代]]前半には[[中央アジア]]で[[反共主義|反共勢力]]との戦いに用いられたが、やがてその役割はより大型な新型戦車にとって代わられていった。最大10 mm しかない装甲や射界の限定された武装の貧弱さはもちろんのこと、小型すぎて[[雪]]中や泥濘地で車体底面が接地して行動不能になるなど、機動性でも劣っていたためである。また、オチキス 37 mm 戦車砲や76.2 mm [[歩兵砲]]や[[無反動砲]]、[[ロケット弾]]を搭載した[[自走砲]]型も試作されたが、採用されたものはない。 |
[[1931年]]に採用されて[[大量生産]]されたT-27は、ソ連[[機甲師団|機甲部隊]]の創設期において重要な地位を占め、[[1930年代|30年代]]前半には[[中央アジア]]で[[反共主義|反共勢力]]との戦いに用いられたが、やがてその役割はより大型な新型戦車にとって代わられていった。最大10 mm しかない装甲や射界の限定された武装の貧弱さはもちろんのこと、小型すぎて[[雪]]中や泥濘地で車体底面が接地して行動不能になるなど、機動性でも劣っていたためである。また、オチキス 37 mm 戦車砲や76.2 mm [[歩兵砲]]や[[無反動砲]]、[[ロケット弾]]を搭載した[[自走砲]]型も試作されたが、採用されたものはない。 |
2023年3月25日 (土) 10:17時点における最新版
T-27 | |
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ウクライナで展示されるT-27 | |
種類 | 豆戦車 |
原開発国 | ソビエト連邦 |
運用史 | |
配備期間 | 1931 - 1941 |
配備先 | ソビエト連邦 |
関連戦争・紛争 | 第二次世界大戦 |
開発史 | |
開発者 | Sir John Carden-Loyd, N. Kozyrev, Factory No. 37, Moscow |
製造業者 | Bolshevik Factory, GAZ |
製造期間 | 1931 - 33 |
製造数 | 2,540 輌 |
派生型 | T-27A |
諸元 (T-27A[1]) | |
重量 | 2.7トン |
全長 | 2.60 m |
全幅 | 1.83 m |
全高 | 1.44 m |
要員数 | 2 名 |
| |
装甲 | 6 - 10 mm |
主兵装 | 7.62 mm DT機銃(2,520発) |
エンジン | GAZ-AA |
出力重量比 | 15 hp/tonne |
懸架・駆動 | bogie |
燃料タンク容量 | 46 L |
行動距離 | 120 km(74.5 mi) |
速度 | 42 km/h(26 mp/h) |
T-27は、大戦間期に量産されたソ連の豆戦車(Танкетка)である。
概要
[編集]1920年代、ソ連軍は初の国産戦車MS-1またはT-18(ルノー FT-17 軽戦車を模倣した独自発展型)と組み合わせて使う偵察・連絡用のタンケッテを求めた。試作戦車T-16を元に、無砲塔のT-18のようなT-17タンケッテが作られ、T-21やT-25がペーパープランのみに終わり、さらにT-17の発展型であるT-23が試作された。
その後、イギリスで偵察用として量産された低コストの豆戦車・カーデン・ロイドMk.IVが現れた。これは軍縮で安価な戦車が求められたこともあり、16もの国に輸出され、各国で模倣・改良された。ソ連でも購入した26輌のカーデンロイドを25-VまたはK-25と命名して運用し、これをもとに改良したのがN.コズイレフの設計チームによるT-27である。DP28軽機関銃を1丁備え、カーデンロイドのようなオープントップではなく、上部まで装甲板に守られ、防御力を高めていた。フォード・AA用の40馬力ガソリンエンジンを備え、機関銃を扱う車長と操縦士の2人が乗り込んでいた。
1931年に採用されて大量生産されたT-27は、ソ連機甲部隊の創設期において重要な地位を占め、30年代前半には中央アジアで反共勢力との戦いに用いられたが、やがてその役割はより大型な新型戦車にとって代わられていった。最大10 mm しかない装甲や射界の限定された武装の貧弱さはもちろんのこと、小型すぎて雪中や泥濘地で車体底面が接地して行動不能になるなど、機動性でも劣っていたためである。また、オチキス 37 mm 戦車砲や76.2 mm 歩兵砲や無反動砲、ロケット弾を搭載した自走砲型も試作されたが、採用されたものはない。
退役後
[編集]本車は1930年代の末までに実戦部隊から退き、訓練用に用いたり、多くが1940年6月までに45mm対戦車砲用の牽引車に改造された。また、重工業を持たないモンゴル人民共和国の、人民革命軍の機甲連隊創設時に供与されている。
爆撃機に搭載して空挺戦車にする実験が行われたが、実用化しなかった。
脚注
[編集]- ^ Zaloga 1983, p 123.