「藤原頼遠」の版間の差分
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2023年8月31日 (木) 23:01時点における版
時代 | 平安時代中期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
氏族 | 奥州藤原氏 |
父母 | 父:藤原正頼、養父:藤原千清、実父は出羽権介坂上有行か |
兄弟 | 有遠(太郎大夫)、頼遠、頼清 |
妻 | 平国妙姉妹 |
子 | 経清、連国[注釈 1]、重久[1]、頼久[1]、遠久[1] |
藤原 頼遠(ふじわら の よりとお)は、平安時代中期(藤原時代)の貴族。
首都, 平安京(京都)の朝廷で、天皇の祖父として210年間にわたる摂関政治を行った藤原氏の本流である藤原北家の初代・藤原房前の次男(分家)・藤原魚名の子孫である、位階(身分)が正二位の高級貴族である公卿・藤原秀郷の長男(本家)・藤原千時の子孫である。
藤原秀郷の長男・藤原千時の本家の子孫は、約100年間, 東北地方全域を自治支配した軍事貴族・奥州藤原氏(平泉藤原氏)の4代目当主・藤原泰衡の代で、同じ軍事貴族である源頼朝のだまし討ちによって滅亡した。
一方、藤原秀郷の次男・藤原千常の分家の子孫には、足利氏・小山氏・下河辺氏・佐藤氏・伊賀氏・長沼氏・結城氏・白河氏・武藤氏・大友氏・少弐氏・戸次氏・立花氏・筑紫氏・鍋島氏などの、主に関東地方の武士がいる。
経歴
『尊卑分脈』には、頼遠は「下総住人・五郎太大夫」と書かれている[2]。その後、陸奥国に下向するがその理由は不明である[2]。なお、頼遠が住んでいた下総国(千葉県北部および茨城県南部) を含む房総を中心に起こった、長元元年(1028年からの平忠常の乱に関連した可能性も考えられる[2]。
『続群書類従』坂上系図によると、陸奥権少掾,すなわち陸奥国(宮城県・福島県・岩手県・青森県)のナンバースリーである坂上,藤原頼遠は、藤原秀郷の孫である祖父・藤原千清の養子になったという[2]。
藤原頼遠の長男で、位階(身分)が五位以上の貴族である宮城県亘理郡の領主・藤原経清は、上国である陸奥国(宮城県 ・福島県・岩手県・青森県)の国司である陸奥守兼日本唯一の地方軍政府である鎮守府 (古代)(のちの幕府)の鎮守府将軍( のちの征夷大将軍)・藤原登任と共に首都,京都から赴任してきた多賀城のナンバーツーで、内閣総理大臣・安倍晋三の先祖・安倍頼良(改名し安倍頼時)の長女と結婚したあと起きた東北地方の大戦・前九年の役の中心人物であり、安部氏と共に滅亡したが、その一人息子である奥州藤原氏(平泉藤原氏)の初代当主・藤原経清(位階,正六位上の武将)が、世界遺産・平泉を本拠地として、天皇(朝廷の許可を得て納税をしながら、東北地方全域を約100年間 ,自治支配し、第3代当主・藤原秀衡のとき貴族である陸奥守兼鎮守府将軍として名実ともに東北地方全域を支配したが、同じ軍事貴族の源頼朝を擁立した関東武士の一人、北条時政・北条政子・北条義時の親子による 源頼朝の弟・源義経をめぐる陰謀工作によって平泉で内戦が発生し、源氏軍(関東武士団)との戦いにも敗れて滅亡した。
『康富記』文安元年(1444年)閏6月23日条に見える、前九年の役において安倍氏軍の将として戦死を遂げた藤原重光や、後三年の役の金沢柵合戦において源義家軍の将として名が見える藤原重宗は、頼遠の孫(頼遠の子と目される重久の子)とされる[1]。
系譜
脚注
注釈
- ^ 官位は出羽輔介(『尊卑分脈』)
出典
参考文献
- 野口実『千葉氏の研究』名著出版〈関東武士研究叢書〉、2000年5月。ISBN 9784626015761。