「落合英二」の版間の差分
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
m Bot作業依頼: セントラル・リーグ分のTemplateについて (Template:中日ドラゴンズの選手・スタッフ) - log |
||
198行目: | 198行目: | ||
* {{Instagram|eiji.ochiai.88|Eiji Ochiai 88 SL}} |
* {{Instagram|eiji.ochiai.88|Eiji Ochiai 88 SL}} |
||
{{中日ドラゴンズ}} |
{{中日ドラゴンズの選手・スタッフ}} |
||
{{セントラル・リーグ最優秀中継ぎ投手}} |
{{セントラル・リーグ最優秀中継ぎ投手}} |
||
{{中日ドラゴンズ1991年ドラフト指名選手}} |
{{中日ドラゴンズ1991年ドラフト指名選手}} |
2023年1月27日 (金) 05:05時点における版
中日ドラゴンズ ヘッド兼投手コーチ #77 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 栃木県下野市 |
生年月日 | 1969年7月25日(55歳) |
身長 体重 |
178 cm 87 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1991年 ドラフト1位 |
初出場 | 1993年7月28日 |
最終出場 | 2006年8月2日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
| |
この表について
|
落合 英二(おちあい えいじ、1969年7月25日 - )は、栃木県下都賀郡石橋町(現:下野市)出身の元プロ野球選手(投手)、コーチ。
中日ドラゴンズの中継ぎとして活躍した右腕投手。2022年から中日ドラゴンズの一軍ヘッド兼投手コーチを務める。2017年のみ登録名は「英二」。
経歴
プロ入り前
作新学院高等部ではエースとして活躍。1986年秋季栃木大会準々決勝に進むが、佐野日大高に敗退。翌1987年春季栃木大会は準決勝で足利工の石井忠徳と投げ合い完封勝ち、決勝に進み高村祐がエースの前年の選抜準優勝校・宇都宮南高に敗れるが関東大会出場権を得る[1]。大会では2回戦(初戦)で常総学院のエース・島田直也に抑えられ、完封負け。同年夏の栃木大会は準決勝で足利工の石井と再度投げ合うが、延長10回裏サヨナラ負けを喫し、ベスト4。
卒業後は日本大学経済学部へ進学し[2]、硬式野球部に入部。当時の日大は東都大学野球リーグ二部に沈んでいたが、1989年秋季リーグで6勝を挙げ、二部優勝。入替戦で國學院大に2連投勝利で降し、一部復帰を果たす。その後も優勝には届かなかったが投の主軸として活躍。1990年のワールドカップ日本代表にも選出された。この年の秋も入替戦では完封、完投を含む3連投で残留に貢献。一部リーグ通算27試合登板、8勝13敗、防御率2.12、148奪三振、二部では12勝2敗。150km/hのストレートを武器に同リーグの若田部健一(駒大)とともにドラフトの目玉候補とされていたが、大学4年時に投球の際に右肘を骨折する重傷を負う。一時は選手生命も危惧されたが、回復すると判断した中日が1991年のドラフト会議にて東北福祉大のエース斎藤隆の外れ1位指名を受け、入団。大学の1学年後輩に門奈哲寛、プロでも同僚となった渡邉博幸、同郷の真中満がいた。
プロ入り後
プロ1年目の1992年には肘にサファイアを埋め込む大手術を行った。
2年目の1993年に一軍登板を達成してから数年間は肘の状態を考慮し、ショートリリーフ専門だった。1995年以降はチーム事情もあり主に先発として一軍の登板機会を得る。先発としては完投能力はあるものの投球が良い時と悪い時の差が激しく成績を残せない時期が続いた。同姓の落合博満が現役選手として中日に在籍していた時期、基本的にスコアボード表記は英二は「落合英」、博満は単に「落合」と表記していた。ただ、一時期の東京ドームで博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞等一部の活字メディアでは博満に「落合博」を使用していた。
1998年に就任した大学時代の先輩・宮田征典コーチの意向もあり、抑えを務めていた宣銅烈に繋ぐ中継ぎとして固定されたことが転機となる。弓長起浩に次ぐリーグ2位の55試合に登板し、防御率2.82、4勝5敗5セーブの成績を挙げ、リリーフポイント19.70で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。
翌1999年は、プロ8年目で初めてオールスターゲームに選出された[3]。この年はサムソン・リーや岩瀬仁紀らと強力な中継ぎ陣を形成し、リーグ優勝に大きく貢献した。同年の福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは3試合に登板、第2戦では9回から川上憲伸をリリーフし、勝利に貢献した。オフの12月24日に2900万円増の年俸8600万円で契約を更改した[4]。
2000年は、キャンプ中に右肩痛を起こし開幕2軍スタートとなった[5]。3月18日の時点では5月に1軍昇格を目指し、調整していることが報道された[5]が、4月中旬と5月中旬に痛みが再発し[6]調整が遅れたため、前半戦は7月19日のヤクルトスワローズ戦(神宮球場)に登板しただけだった[7]。最終的に21試合に登板し防御率2.75だった。
2001年、5月10日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)で2年ぶりにセーブを挙げた[8]。5試合連続で失点したこともあった[9]が、最終的に45試合に登板し、防御率1.73をマークした。
2002年、3月30日の開幕戦[10]、ヤクルト戦(ナゴヤドーム)で登板した際に左脇腹を痛め、翌日登録抹消された[11]。この年は37試合に登板し、1勝2敗1セーブ、防御率2.62だった[10]。オフの12月16日に300万円減の年俸8500万円で契約を更改した[10]。
2003年、シーズン中の8月3日にFA権を取得した[12]。この年は自己最多の61試合に登板し、7勝0敗1セーブ、防御率1.77の成績を残した。FA権を行使せず3年4億円で残留した[13][14]。
落合博満が監督に就任した2004年は、3月に右肩に違和感を覚えた[15]ことにより、開幕2軍スタートとなった。4月21日に出場選手登録され、翌日の阪神タイガース戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板した[16]。この年も中継ぎ陣の柱として活躍。不調の岩瀬に代わり抑えを務めた時期もあった。9月26日には7年ぶりに先発登板し、5回無失点で勝利に貢献[17]。同年の西武ライオンズとの日本シリーズでも3試合に中継ぎとして登板している。
2005年、前年オフに首脳陣から先発転向を命じられ、先発に転向した[18][19]。8年ぶりに開幕ローテーションに入り[20]、5月5日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)でシーズン初勝利を挙げた[21]。だが、翌週の交流戦・西武戦(インボイス西武ドーム)では4回4失点と結果を残せず[22]、中継ぎに再転向した。
2006年はプロ野球の投球フォームのルール改正により二段フォームだった落合も投球フォーム改造を余儀なくされるなどの問題から開幕は二軍で迎え、一軍に上がっても結果は出せなかった。チームがリーグ優勝した際には一軍にいなかったが、落合をずっと支えてきた永田トレーナーが監督胴上げの瞬間、落合英二の背番号「26」のプレートを掲げ万歳するシーンが見られた。永田トレーナー以外にも、落合を慕っていた荒木雅博や朝倉健太も帽子の裏に「26」と書いて出場していたという。同年は6月26日に1軍昇格した[23]ものの、最終的に5試合の登板にとどまり[24]、現役を引退した[25]。
1球勝利投手、1球セーブ投手、1球ホールド、1球敗戦投手、0球登板(交代を告げられてマウンドに上がってから雨天中断、その後降板[26])という珍記録を持っている。
現役引退後
2007年から2009年まで3年間、中部日本放送(CBC)の野球解説者等を務めた。同局ではテレビ番組『サンデードラゴンズ』内で「落合英二ブルブルの輪」というコーナーも担当していた。解説初年度は「ネット裏解説」という奇妙なポジションでの解説を務めることが多かった[27]が、その後は普通に実況席で解説をしていた。ただし、全国ネットの場合は2年目以降でも「ネット裏解説」として出演する場合があった。「ネット裏解説」の時は、観客に話しかけられることがあったという。ドラゴンズの選手からは「英二さんがすぐ見えるところにいるのが変な感じ」といわれたりしたとのこと。
ドラゴンズ時代に同僚だった宣銅烈が監督を務めていた縁で、韓国のサムスン・ライオンズでコーチ研修を受けた。2010年からサムスンの投手コーチに就任。落合コーチ就任後、サムスン・ライオンズのチーム防御率は大幅に改善し、2011年からは投手起用の全権を任され、その手腕は高く評価された。2012年シーズン、サムスンは2年連続韓国シリーズ優勝を達成し、同年のアジアシリーズ終了後に退団[28] 。教え子の中には、後に日本やメジャーで活躍する呉昇桓がいた。
2013年から2014年まで2年間は、野球解説者に復帰。本数契約でCBC・東海ラジオ・テレビ愛知に出演する。また、中日スポーツの野球評論家も務める。2014年10月16日に千葉ロッテマリーンズの一軍投手コーチに就任する事が発表された[29] 。2017年より登録名を「英二」へ変更。同年現在、姓を省略し名のみを登録名としているコーチは中日時代のチームメイトでもあった英智外野守備走塁コーチに次いで2人目。同年10月11日に来季コーチ契約を行わないことを通告された[30]。
2017年11月の秋季キャンプから合流し、2018年から韓国サムスンの投手コーチに再就任する[31]。 2019年秋より韓国サムスン二軍監督に就任。
2022年より中日の一軍ヘッド兼投手コーチに就任。この際、監督に就任することとなった立浪和義が東海テレビ「ニュースOne」に出演した際、立浪が「77は落合英二にと思っています」と発言し、かつて星野仙一が監督時代に使用していた背番号「77」を付けることとなった[32]。
人物
「霊感に優れている」と言われており、以下のような話がある。
- 試合中に大豊泰昭に自分のバットを差し出して「このバットを使ったら打てる」と予言したところ、大豊が本塁打を打った。
- 1996年、山崎武司にもバットを差し出したところ、その年に山崎は本塁打王になった[33]。
- 1999年には、ズームイン!!朝!のプロ野球イレコミ情報で、どこの球場で優勝を決めるかと質問されると、「ブルペンが外にある球場で星野監督が胴上げされるのが見える」と予言。実際にプルペンが外にある神宮球場で優勝を決めている。
- 2009年6月30日の対阪神戦の6回裏、一死満塁で藤井淳志が打席に立った際、ホームランバッターというわけでもなく、さらにそれまでのシーズンで藤井は満塁の場面の打率が7打席1安打と良くなかったにもかかわらず「藤井が颯爽とベースを回る姿が見える」と予言。そしてその打席、藤井は逆転のプロ初となる満塁本塁打を放った[34]。
- 中日で同僚であった川上憲伸が自身のYouTubeチャンネルにて落合との霊感エピソードについて語っている[35]。
- 2022年3月20日のオープン戦の対千葉ロッテマリーンズ戦にて中日のチャンステーマ「サウスポー」がスピーカーから流れると、リズムを刻んでノリノリになっている姿が中日ファンの間で話題になっていた。
人間関係
監督だった星野仙一に投球などで注意される時、殴られたことがあったが、結婚後は「俺は既婚者の奴は殴らないから安心しろ」と言われたという(落合に限らず、星野は独身選手には手を出すことはあっても、既婚者に対しては基本的に手を出さなかった)。
横浜から移籍してきた谷繁元信は落合よりは1つ年下であるが、何故か「英ちゃん」と呼ばれ、タメ口で話されている。『サンデードラゴンズ』で落合は「歳の分は実績で加味されている」と冗談交じりに語っていた。
2007年に中日に入団した堂上直倫とは、父である堂上照が球団寮の寮長ということもあって以前から付き合いがあり、2006年のファン感謝デーで行われた引退セレモニーでは「成し遂げられなかった日本一の夢をここにいる選手・コーチ、それにこのナゴヤドームのどこかで見ている堂上直倫君に託します」とあいさつ、場内をどよめかせた[36][37]。ちなみにその時堂上は愛工大名電の野球部の仲間と共に変装して来場していた。また、2007年の沖縄キャンプの休日で堂上が報道陣の写真撮影に応じた際、落合からの貰い物と思われる「EIJI 26」とネームの入った短パンを履いていた。その後堂上直倫が入団した2007年に中日は日本一に輝いた。
家族
妻はフィギュアスケートの元選手で、幼少期の安藤美姫、浅田真央を指導したことがある。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993 | 中日 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 36 | 9.1 | 5 | 1 | 5 | 3 | 0 | 7 | 1 | 0 | 2 | 2 | 1.93 | 1.07 |
1994 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 1 | -- | .667 | 146 | 34.0 | 35 | 2 | 14 | 1 | 1 | 23 | 0 | 0 | 13 | 12 | 3.18 | 1.44 | |
1995 | 30 | 14 | 0 | 0 | 0 | 3 | 9 | 2 | -- | .250 | 404 | 96.1 | 119 | 11 | 16 | 4 | 3 | 47 | 0 | 0 | 54 | 51 | 4.76 | 1.40 | |
1996 | 24 | 14 | 3 | 2 | 1 | 4 | 6 | 1 | -- | .400 | 411 | 96.1 | 98 | 6 | 29 | 6 | 2 | 61 | 1 | 0 | 49 | 40 | 3.74 | 1.32 | |
1997 | 19 | 9 | 2 | 0 | 1 | 4 | 7 | 0 | -- | .364 | 271 | 66.1 | 66 | 3 | 7 | 1 | 2 | 52 | 0 | 0 | 33 | 27 | 3.66 | 1.10 | |
1998 | 55 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 6 | 5 | -- | .400 | 308 | 73.1 | 81 | 3 | 12 | 2 | 0 | 36 | 0 | 0 | 29 | 23 | 2.82 | 1.27 | |
1999 | 56 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 2 | -- | .556 | 207 | 51.2 | 43 | 8 | 9 | 2 | 2 | 27 | 0 | 0 | 17 | 16 | 2.79 | 1.01 | |
2000 | 21 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 83 | 19.2 | 20 | 0 | 6 | 4 | 1 | 18 | 2 | 0 | 7 | 6 | 2.75 | 1.32 | |
2001 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | -- | .000 | 177 | 41.2 | 41 | 1 | 11 | 3 | 1 | 19 | 0 | 0 | 14 | 8 | 1.73 | 1.25 | |
2002 | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 138 | 34.1 | 27 | 1 | 7 | 4 | 3 | 21 | 0 | 0 | 12 | 10 | 2.62 | 0.99 | |
2003 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 215 | 56.0 | 53 | 4 | 5 | 2 | 0 | 35 | 0 | 0 | 11 | 11 | 1.77 | 1.04 | |
2004 | 42 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 10 | -- | .571 | 186 | 44.0 | 46 | 3 | 10 | 2 | 2 | 17 | 0 | 0 | 12 | 12 | 2.45 | 1.27 | |
2005 | 31 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 8 | .667 | 210 | 47.2 | 64 | 6 | 10 | 0 | 1 | 27 | 0 | 0 | 26 | 25 | 4.72 | 1.55 | |
2006 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | 20 | 4.1 | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 3 | 0 | 0 | 4 | 4 | 8.31 | 1.62 | |
通算:14年 | 463 | 44 | 5 | 2 | 2 | 37 | 45 | 24 | 8 | .451 | 2812 | 675.0 | 704 | 50 | 142 | 34 | 19 | 393 | 4 | 0 | 283 | 247 | 3.29 | 1.25 |
タイトル
- 最優秀中継ぎ投手:1回 (1998年)
記録
- 初記録
- 初登板:1993年7月28日、対横浜ベイスターズ19回戦(ナゴヤ球場)、9回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:1993年8月5日、対広島東洋カープ13回戦(広島市民球場)、8回裏に江藤智から
- 初勝利:1993年9月28日、対読売ジャイアンツ21回戦(ナゴヤ球場)、7回表に4番手で救援登板、1回無失点
- 初セーブ:1994年7月2日、対横浜ベイスターズ15回戦(横浜スタジアム)、8回裏1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3無失点
- 初先発登板・初先発勝利:1995年5月27日、対ヤクルトスワローズ7回戦(千葉マリンスタジアム)、6回1失点
- 初完投勝利・初完封勝利:1996年4月24日、対ヤクルトスワローズ5回戦(明治神宮野球場)
- 初ホールド:2005年7月1日、対ヤクルトスワローズ7回戦(明治神宮野球場)、5回裏に2番手で救援登板、2回無失点
- その他の記録
- 1球勝利投手:1999年7月11日、対阪神タイガース15回戦(ナゴヤドーム)、9回表1死に救援登板・完了、今岡誠を遊ゴロ併殺打 ※史上9人目[38]
- 1球敗戦投手:1995年4月27日、対阪神タイガース5回戦(阪神甲子園球場)、10回裏に救援登板、グレン・デービスにサヨナラ本塁打[38] ※史上13人目
- 1球勝利・1球敗戦を両方記録 ※史上初
- オールスターゲーム出場:2回(1999年、2003年)
背番号
- 19(1992年 - 1993年)
- 71(1994年)[39]
- 25(1995年)
- 26(1996年 - 2006年)
- 88(2010年 - 2012年、2015年 - 2021年)
- 77(2022年 - )
登録名
- 落合 英二(おちあい えいじ、1992年 - 2006年、2010年 - 2012年、2015年 - 2016年、2018年 - )
- 英二(えいじ、2017年)
関連情報
出演番組
脚注
- ^ 決勝戦は高村は登板せず。
- ^ “代表紹介”. 不動産総合行政書士事務所 | 重説・契約書(神奈川・東京). 2022年4月29日閲覧。
- ^ “夢舞台でも大暴れ誓うドラ戦士 監督推薦で5人が球宴出場”. 中日スポーツ (1999年7月15日). 2001年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合 ふくれっ面サイン 金額面納得も中継ぎ査定まだ不満”. 中日スポーツ (1999年12月25日). 2001年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ a b “落合「開幕」アウト!/竜 抑え4枚でスタート”. 中日スポーツ (2000年3月18日). 2001年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合球宴明けにも1軍”. 中日スポーツ (2000年7月2日). 2001年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合復活だ!!146キロ試運転上々 1イニング3人ピシャリ”. 中日スポーツ (2000年7月20日). 2001年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合2年ぶりセーブ 9回ピシャリ”. 中日スポーツ (2001年5月11日). 2002年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “投手陣は耐えきれない 自慢の中継ぎも誤算”. 中日スポーツ (2001年7月4日). 2002年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ a b c “落合 微減にホッ 300万減8500万 来季“失地回復””. 中日スポーツ (2002年12月17日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合 登録抹消 左ろっ間筋の肉離れ 1軍復帰早くても来月中旬”. 中日スポーツ (2002年4月1日). 2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合「FA行使するときは、出るとき」”. 中日スポーツ (2003年8月4日). 2004年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英、残留決意 ドラゴンズで最後まで野球やりたい”. 中日スポーツ (2003年10月9日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英 3年4億円で合意 オーナーから「残留ありがとう」”. 中日スポーツ (2003年10月28日). 2005年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英は開幕微妙 右肩に違和感 1週間ノースロー”. 中日スポーツ (2004年3月13日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “英二、今期初登板踏ん張った 中継ぎ万全に”. 中日スポーツ (2004年4月23日). 2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英が先発!7年ぶり白星”. 中日スポーツ (2022年4月29日). 2006年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “英二、あるぞ先発転向 8年ぶりローテ復帰案浮上”. 中日スポーツ (2004年11月5日). 2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “先発好感触 英二「ヨシッ」 フリー打撃初登板 直球オンリー55球”. 中日スポーツ (2005年2月13日). 2005年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英、反省2発”. 中日スポーツ (2005年4月7日). 2005年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “2005年5月5日 【公式戦】 試合結果 (中日vs東京ヤクルト)”. NPB(一般社団法人日本野球機構). 2022年4月29日閲覧。
- ^ “ドラゴンズ、先発投手陣再編 今季初の同一カード3連敗”. 中日スポーツ (2005年5月13日). 2005年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “岡本抹消、落合英二が昇格へ”. 中日スポーツ (2006年6月26日). 2006年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “落合英二引退 竜ひと筋15年 故障とも闘い続けた投のリーダー”. 中日スポーツ (2006年10月28日). 2007年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “中日落合英二が引退会見”. 名古屋版最新ニュース : 日刊スポーツ - nikkansports.com (2006年10月30日). 2007年11月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ 投球練習中に右脇腹に違和感で降板したと言われていたが、本人がCBCラジオのドラゴンズワールド内で否定している。
- ^ 他局でもグラウンドに近い位置に解説者を置く場合があるが、落合はバックネット裏の客席に座っていた点が異なる。
- ^ 異文化で確かな功績を残した落合英二 自費参加から「韓国一の投手コーチ」に - Sports Navi、2012年10月29日
- ^ 落合英二氏 投手コーチ就任のお知らせ - ロッテ公式サイト、2014年10月16日
- ^ コーチ契約について - 千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト 2017年10月11日
- ^ 落合英二氏が来季韓国サムスン投手コーチに 今季でロッテ退団 - Sponichi Annex 2017年10月21日
- ^ 【中日】星野仙一さんの背番号『77』は落合英二ヘッドに「ベンチに77番は必要」立浪新監督明かす - 中日新聞 2021年10月29日
- ^ “中日・山崎武司 霊感強かった同僚の予言に従い本塁打量産”. NEWSポストセブン (小学館). (2012年3月18日) 2013年10月27日閲覧。
- ^ “下柳攻略…伏線は足攻”. 中日スポーツ (2009年7月1日). 2009年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ “【恐怖実話】中日の霊能者 落合英二との呪われた極秘合宿 沖縄の幽霊ビーチ”. shigeru makino. 2021年8月23日閲覧。
- ^ “チームメイトが恋人にしたい男、ドラゴンズに堂上直倫がいてよかった 文春野球コラム ペナントレース2018”. 文春オンライン (2018年4月20日). 2022年4月29日閲覧。
- ^ セレモニーの時点では、堂上はドラフト会議で中日が既に交渉権を獲得しており、仮契約を済ませた段階であった
- ^ a b “落合 1球白星 サヨナラ呼んだ竜投必勝リレー”. 中日スポーツ (1999年7月12日). 2001年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月29日閲覧。
- ^ この年入団したディオン・ジェームズが背番号19を希望したため。ただし1994年のキャンプ初日の写真撮影の際に「12」、キャンプ中は「70」をつけていた。「12」から「70」への変更は高橋三千丈コーチの(「12」を付けていた現役時代、終盤は血行障害に苦しみ、縁起が悪いと考えて)、「70」から「71」への変更は高木守道監督の(「70」は投手の番号ではない、というイメージから)意向だという。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 落合英二 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube
- Eiji Ochiai 88 SL (@eiji.ochiai.88) - Instagram