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[[明治維新]]後、宇和島藩の推挙で新政府に出仕し{{R|歴106}}1868年(明治元年[[2月 (旧暦)|2月]])大阪府裁判所掛兼外国掛に就任{{R|近現}}。以後、兼外国事務局運上所御用掛附属吟味役勘定役、同局勘定掛、大阪府権大属、[[民部省|民部]]・[[大蔵省]][[通商司]]権大佑、大蔵省通商司通商大佑、同[[戸籍局|戸籍司]]11等出仕、[[戸籍局|戸籍寮]]戸籍権大属、戸籍大属、大蔵省[[国債局|国債寮]]国債大属、国債寮7等出仕、大蔵少書記官、同権大書記官、同出納局長心得、同出納局長、[[主計局]]長、兼預金局長、兼国債局長、[[理財局]]長、兼臨時[[秩禄処分]]調査局長などを務めた{{R|近現}}{{R|貴参}}{{R|財界}}{{R|歴106}}。 |
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1903年(明治36年)10月、[[山本達雄 (政治家)|山本達雄]]第5代日銀総裁の任期が満了となり、大勢は山本の再任と認識していたが、松尾が大蔵省局長に通算17年も在任し、当時の大蔵総務長官([[大蔵次官]])[[阪谷芳郎]]よりも先輩でありその処遇に苦慮していたことと、[[日露戦争]]開戦となると日銀総裁は戦費調達のため政府の方針に従ってくれる人物が望ましく、山本は政府に従順な人物ではなかったため、[[曾禰荒助]][[財務大臣 (日本)|大蔵大臣]]の意向により松尾が第6代日銀総裁に就任した<ref>『歴代日本銀行総裁論』106-111頁。</ref>。 |
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2023年1月7日 (土) 06:07時点における版
松尾 臣善(まつお しげよし、1843年3月6日(天保14年2月6日[1][2][3])- 1916年(大正5年)4月8日[1][2][4][注釈 1])は、幕末の宇和島藩士、明治期の大蔵官僚。旧姓・中根、幼名・寅之助[2]。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。
経歴
播磨国飾東郡姫路[5](現兵庫県姫路市)で、郷士・中根佐平治の二男[2][注釈 2]として生れ、豪農・松尾七兵衛(方信[1])の養子となる[2][5]。学問を好み特に数学に優れていた[3][5]。宇和島藩に迎えられ、1863年(文久3年)藩の直営事業で功績があり士分に取り立てられた[2][3][5]。
明治維新後、宇和島藩の推挙で新政府に出仕し[5]1868年(明治元年2月)大阪府裁判所掛兼外国掛に就任[2]。以後、兼外国事務局運上所御用掛附属吟味役勘定役、同局勘定掛、大阪府権大属、民部・大蔵省通商司権大佑、大蔵省通商司通商大佑、同戸籍司11等出仕、戸籍寮戸籍権大属、戸籍大属、大蔵省国債寮国債大属、国債寮7等出仕、大蔵少書記官、同権大書記官、同出納局長心得、同出納局長、主計局長、兼預金局長、兼国債局長、理財局長、兼臨時秩禄処分調査局長などを務めた[2][4][3][5]。
1903年(明治36年)10月、山本達雄第5代日銀総裁の任期が満了となり、大勢は山本の再任と認識していたが、松尾が大蔵省局長に通算17年も在任し、当時の大蔵総務長官(大蔵次官)阪谷芳郎よりも先輩でありその処遇に苦慮していたことと、日露戦争開戦となると日銀総裁は戦費調達のため政府の方針に従ってくれる人物が望ましく、山本は政府に従順な人物ではなかったため、曾禰荒助大蔵大臣の意向により松尾が第6代日銀総裁に就任した[6]。
日露戦争開戦後は、金本位制度を維持し外国債の募集を行う[7]。1904年(明治37年)松本重太郎経営の百三十銀行の経営が行き詰まり、政府の強い要請で安田善次郎にその処理を一任し、日銀から特別貸付600万円の支援を行った[8]。日露戦争後の1906年(明治39年)景気の過熱に対応するため、国債以外のものを担保として貸し出す場合に公定歩合より高いレートを適用が可能となる高率適用制度を導入した[9]。1911年(明治44年)6月に日銀総裁を退任した[2][10]。
1900年(明治33年)3月10日、貴族院勅選議員に任じられ[4][11][12]、1916年4月8日の死去まで在任した[4][13]。また、1907年(明治40年)9月23日、日露戦争の功により男爵を叙爵した[1][3][14]。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲五等双光旭日章[18]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[19]
- 1895年(明治28年)10月31日 - 勲二等旭日重光章[20]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章
- 1907年(明治40年)9月23日 - 男爵[14]。
- 1911年(明治44年)8月24日 - 金杯一組[21]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[22]
- 1916年(大正5年)4月8日 - 従二位[23]
著作
- 『還暦紀念録』松尾義夫、1904年。
親族
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』572-573頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本近現代人物履歴事典』476頁。
- ^ a b c d e 『財界物故傑物伝 下巻』404-407頁。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』164頁。
- ^ a b c d e f 『歴代日本銀行総裁論』106頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』106-111頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』115-116頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』116-117頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』117-118頁。
- ^ 『歴代日本銀行総裁論』121頁。
- ^ 『官報』第5005号、明治33年3月12日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、10頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、23頁。
- ^ a b 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」1884年7月1日。
- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第2112号「叙任及辞令」1890年7月15日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
参考文献
- 実業之世界社編輯局編『財界物故傑物伝 下巻』実業之世界社、1936年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
- 吉野俊彦、補論・鈴木淑夫『歴代日本銀行総裁論:日本政策史の研究』〈講談社学術文庫〉講談社、2014年。
外部リンク
日本の爵位 | ||
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