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2022年11月23日 (水) 11:52時点における版
待兼山 | |
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中山池から待兼山を望む。中央付近が頂上。画面左に阪大坂の街灯が見える。 | |
標高 | 77.3 m |
所在地 | 日本 大阪府豊中市・箕面市・池田市 |
位置 | 北緯34度48分26.5秒 東経135度27分2.7秒 / 北緯34.807361度 東経135.450750度座標: 北緯34度48分26.5秒 東経135度27分2.7秒 / 北緯34.807361度 東経135.450750度 |
山系 | 千里丘陵 |
待兼山の位置
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プロジェクト 山 |
待兼山(まちかねやま)は、大阪府豊中市・池田市・箕面市にまたがる千里丘陵の山。標高77.3m[1]。「待兼山町」として豊中市の地名にもなっており、その面積の大半を大阪大学豊中キャンパスが占め、その周りは閑静な高級住宅街となっている。
概要
古くは歌枕ともなった由緒ある山。『枕草子』の「山は」の項や[2]、『古今和歌六帖』『詞花和歌集』『新古今和歌集』『夫木和歌抄[注釈 1]』などにも登場する[3][4]。
かつては褐鉄鉱の一種である高師小僧「待兼山石」を産出した。山頂付近には、大正天皇の行幸を記念した石碑が立っている。
1926年(大正15年)、山上に旧制浪速高等学校が設立され、現在もその後身の大阪大学石橋団地(通称豊中キャンパス)が立地する。そのため「待兼山」は阪大の代名詞となっている[注釈 3]。
また1964年(昭和39年)、学内工事現場から出土した先史時代(新生代第四紀)のワニ・マチカネワニの化石でも有名[4][5]。日本で発見されたワニ類化石第1号であり、完全に近い骨格であることが評価され2014年(平成26年)、国の登録記念物として登録された[6][7]。
大阪大学と中国自動車道をはさんで南東に位置する正安寺は、「待兼山」を山号とする。読みは「たいけんざん」[8]。
池
待兼山山頂(北緯34度48分26.5秒 東経135度27分02.7秒 / 北緯34.807361度 東経135.450750度)南側の緩やかな斜面には阪大坂があり谷底に中山池(北緯34度48分20.8秒 東経135度27分04.7秒 / 北緯34.805778度 東経135.451306度)がある。かつては、近世以降に造成されたと思われる上山池、中山池、下山池の3つの池があった。下山池は豊中キャンパス外に存在し宅地開発で埋め立てられた。キャンパス内の上山池も埋め立てられ、残るのは中山池のみである[9]。豊中キャンパス東口の国際交流会館前には乳母谷池(北緯34度48分18.6秒 東経135度27分23.6秒 / 北緯34.805167度 東経135.456556度)がある[10]。基礎工学国際棟シグマホール西側に待兼池(北緯34度48分13.0秒 東経135度27分16.8秒 / 北緯34.803611度 東経135.454667度)がある[10][11]。
文化財
- 待兼山古墳出土品 - 1938年(昭和13年)、国認定重要美術品に認定。豊中キャンパスの北方にかつて存在していた待兼山古墳は、4世紀築造の前方後円墳。現在は宅地となっているが、待兼山丘陵北縁の尾根上[注釈 4]に、前方部を南に向けて立地していたと考えられている[13]。
- 待兼山遺跡 - 豊中キャンパス一帯は待兼山遺跡として国の遺跡台帳に登録されている[12]。1983年(昭和58年)、理学部ラジオアイソトープセンター建設工事の際に弥生時代の集落跡が見つかった[14]。1998年(平成10年)に確認された待兼山5号墳は2005年(平成17年)の調査で5世紀後半築造と推定される直径15mの円墳と判明し[15]人物埴輪、馬形埴輪などの一部が出土した[16][17]。待兼山5号墳は現在駐輪場となっていて、地表に古墳周溝範囲をタイルで標示し、解説板を設置している[18][10]。
- 大阪大学会館 - イ号館と呼ばれていた。1928年(昭和3年)に旧制浪速高等学校の校舎として建てられ、学制改革により大阪大学に移管。以降、旧教養部の建物として使われた。2004年(平成16年)、国の登録有形文化財建造物に登録[19]。
- 待兼山修学館 - 1931年(昭和6年)に大阪大学医学部の前身である、大阪医科大学の附属病院石橋分院として建てられ、近年は、医療技術短期大学部本館として使われていた。豊中キャンパスでは大阪大学会館に次いで2番目に古い建物。2008年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録[1]。現在は大阪大学総合学術博物館待兼山修学館展示場として使用[20]。修学館の後方に標高77.3mの待兼山がある[1]。
交通アクセス
参考文献
- 大阪大学埋蔵文化調査委員会『待兼山遺跡III - 大阪大学旧医療技術短期大学跡地試掘調査報告 -』(PDF)大阪大学、2001年4月 。2021年3月11日閲覧。
- 大阪大学埋蔵文化調査委員会『待兼山遺跡IV - 大阪大学豊中地区・待兼山周辺修景整備工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 -』(PDF)大阪大学、2008年3月 。2021年3月11日閲覧。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 待兼山修学館 - 大阪大学総合学術博物館
- ^ 清少納言『枕草子/第十段』。ウィキソースより閲覧。
- ^ “待兼山”. 大阪大学総合学術博物館. 2017年9月30日閲覧。
- ^ a b 豊中PRパンフレット(p.6とp.7)(PDF:2,347KB) (PDF)
- ^ 平成26年7月の広報とよなかで紹介した内容はこちら(PDF:6,454KB) (PDF)
- ^ “大阪大学 マチカネワニ化石が国の登録記念物に”. 2017年9月30日閲覧。
- ^ “大阪大学総合学術博物館 マチカネワニ化石が国の登録記念物へ!!”. 大阪大学総合学術博物館. 2017年9月30日閲覧。
- ^ 歴史 - 正安寺
- ^ 待兼山遺跡III 2001, p. 13/77.
- ^ a b c d 大阪大学 豊中キャンパス バリアフリーマップ - Osaka University (PDF)
- ^ 阪大・理学研究科News ツイッター - 2016年7月20日
- ^ a b 待兼山遺跡の概要 - 大阪大学大学院文学研究科・文学部
- ^ 待兼山古墳出土品 - 豊中市
- ^ 待兼山遺跡IV 2008, p. 10/127.
- ^ 待兼山遺跡IV 2008, pp. 16/127 - 17/127.
- ^ 待兼山遺跡IV 2008, pp. 27/127 - 66/127.
- ^ “待兼山5号墳から出土した馬と馬を引く人の埴輪(大阪・豊中市)”. 時事通信社. (2007年7月7日) 2017年10月2日閲覧。
- ^ 待兼山遺跡IV 2008, p. 4/127.
- ^ 大阪大学会館
- ^ 総合学術博物館について - 大阪大学総合学術博物館