「ニコラエ・チャウシェスク」の版間の差分
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{{Infobox officeholder |
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{{大統領 |
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| name = ニコラエ・チャウシェスク |
| name = ニコラエ・チャウシェスク |
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| native_name = ''Nicolae Ceaușescu'' |
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| native_name_lang = |
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| image = Nicolae Ceaușescu.jpg |
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| honorific_prefix = |
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| caption = ニコラエ・チャウシェスク(1981年) |
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| image = Nicolae Ceaușescu.jpg |
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| 国名 =[[File:Flag of PCR.svg|25x20px]] [[ルーマニア共産党]] |
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| caption = ニコラエ・チャウシェスク(1965年) |
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| office = ルーマニア共産党書記長{{Ref label |term|a|}} |
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| term_start = {{Start date|1965|3|22}} |
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| office1 = ルーマニア社会主義共和国大統領 |
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| 1blankname1 = 閣僚評議会議長 |
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| 国名3 = {{flagicon|ROM1965}} [[ルーマニア社会主義共和国]] |
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| 代数3 = |
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* マーナ・マネスク |
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* イリエ・ヴェルデッツ |
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* コンスタンティン・ダスカレスク |
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| death_place = {{ROM1989}}、[[ドゥンボヴィツァ県]][[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]] |
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| spouse = [[エレナ・チャウシェスク]] |
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| children = [[ヴァレンティン・チャウシェスク|ヴァレンティン]]<br />[[ゾヤ・チャウシェスク|ゾヤ]]<br />[[ニク・チャウシェスク|ニク]] |
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| religion = [[無神論]](かつては[[ルーマニア正教会]]) |
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| allegiance = {{ROM1948}} |
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| branch = [[ルーマニア陸軍]] |
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| serviceyears = [[1948年]]以降 |
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| rank = [[File:RO-Army-OF8.png|25px]] [[中将]] |
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| signature = Nicolae Ceauşescu signature.svg |
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'''ニコラエ・チャウシェスク'''({{Lang-ro|Nicolae Ceaușescu}} {{IPA-ro|nikoˈla.e t͡ʃe̯a.uˈʃesku||Ro-Nicolae Ceaușescu.ogg}}、[[1918年]][[1月26日]]<ref>[http://ceausescunicolae.files.wordpress.com/2010/09/ascrisceausescudosaruldcadresemnat.jpg Nicolae Ceauşescu Preşedintele României site oficial: Image]</ref> - [[1989年]][[12月25日]])は、[[ルーマニア]]の[[政治家]]。[[ルーマニア共産党]][[書記長]]([[1965年]] - 1989年)<ref>就任当初は、「ルーマニア労働党第一書記」。</ref>、[[ルーマニア社会主義共和国]][[国家評議会議長]]([[1967年]] - [[1989年]])、初代[[ルーマニアの大統領|大統領]]([[1974年]] - [[1989年]])。 |
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| office2 = ルーマニア国家評議会議長 |
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1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨した。その統治前半期の1960年代後半から70年代にかけては、[[東ヨーロッパ|東欧]][[社会主義国|社会主義圏]]にあって[[ソビエト連邦|ソ連]]から距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治の鍵を握る人物の一人として注目されたが、1980年代に入ると、強権的な統治や[[個人崇拝]]、国民生活の窮乏に対する内外の批判が高まった。1989年の[[東欧革命]]の最後を飾る流血の政変([[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]])によって権力の座を追われ、[[ワルシャワ条約機構]]加盟国の[[国家元首]]の中で唯一処刑された。 |
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| term_start2 = {{Start date|1967|12|9}} |
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| term_end2 = {{End date|1989|12|22}} |
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| predecessor2 = キヴ・ストイカ |
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| successor2 = |
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| 1blankname2 = 閣僚評議会議長 |
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| 1namedata2 = {{plain list| |
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* イオン・ゲオルゲ・マオレル |
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* マーナ・マネスク |
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* イリエ・ヴェルデッツ |
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* コンスタンティン・ダスカレスク |
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| office3 = ルーマニア大国民議会議員 |
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== 生涯 == |
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| term_start3 = {{Start date|1950|5|31}} |
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=== 前半生 === |
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| term_end3 = {{End date|1955|10|3}} |
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==== 生い立ち ==== |
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| 1blankname3 = 常任幹部会議長 |
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[[1918年]]、[[ルーマニア王国]][[オルト県]]スコルニチェシュティ村の農家にて、10人兄弟の三男として生まれる({{仮リンク|チャウシェスクの家族|en|Ceaușescu family}}を参照)。11歳のとき、工場で働くために首都の[[ブカレスト]]に移住する。 |
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| 1namedata3 = [[コンスタンティン・イオン・パルホン]]<br />ペトル・グローザ |
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| office4 = 国防副大臣 |
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==== 党活動の開始 ==== |
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| term_start4 = {{Start date|1950|3|18}} |
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[[File:007 Ceausescu mug shot Targoviste police 1936.jpg|right|220px|thumb|トゥルゴヴィシュテの警察によるチャウシェスクの顔写真(1936年)]] |
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| term_end4 = 1954年 |
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[[1932年]]、当時は非合法組織であった[[ルーマニア共産党]]に入党し、[[1933年]]に逮捕される。翌[[1934年]]には、鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動の扇動(2度目)を理由に再び逮捕された。逮捕当時の警察によるチャウシェスクに関する記録には「危険な[[共産主義]]の扇動者」「共産主義の配布者」「反[[ファシズム|ファシスト]]の[[プロパガンダ]]」といった記述がある。その後チャウシェスクは地下に潜伏するが、「反ファシスト」活動の罪により[[1936年]]にドフタナ刑務所に投獄された<ref name="autogenerated3">{{Cite web |url=http://www.ceausescu.org/ceausescu_texts/ceausescu_chronology.htm |title=www.ceausescu.org - the leading infosource on the web about Ceausescu and his era! |accessdate=2018-09-29 |publisher=ceausescu.org}}</ref>。獄中で後に妻となる[[エレナ・チャウシェスク|エレナ・ペトレスク]]と出会う。[[1940年]]、チャウシェスクは再び逮捕され、投獄される。[[1943年]]には[[トゥルグ・ジウ]]の[[強制収容所]]に移された。この時に[[ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ]]と出会い、収容所での生活を共にする。 |
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| 1blankname4 = 閣僚評議会議長 |
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| 1namedata4 = ペトル・グローザ<br />ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
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| 1blankname5 = 国防大臣 |
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| 1namedata5 = エミール・ボドナラーシュ |
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| office6 = 農業副大臣 |
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==== 第二次世界大戦後 ==== |
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| term_start6 = 1949年 |
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[[1945年]][[5月8日]]、[[第二次世界大戦]]の敗戦によって[[ルーマニア王国]]は崩壊し、ルーマニアは[[ソビエト連邦]]に占領された。この頃、チャウシェスクは{{仮リンク|共産青年同盟 (ルーマニア)|en|Union of Communist Youth|label=ルーマニア共産主義青年同盟}}の書記を務めていた([[1944年]]〜[[1945年]])<ref name="autogenerated3" />。[[1946年]]、[[エレナ・チャウシェスク|エレナ・ペトレスク]]と結婚。チャウシェスクはエレナを終生の伴侶とし、以後、エレナは生涯にわたって夫の政治人生を支えることになる。[[1947年]]、ルーマニア共産党が権力を握ると、チャウシェスクは農業省の次官を、そして[[ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ]]の下で国防次官を務める。[[1952年]]、[[アナ・パウケル]]らモスクワ派共産主義者が追放されると、チャウシェスクは[[中央委員会]]の委員となった。[[1954年]]、正式に[[政治局]]の一員となり、党内の序列では2番目に高い地位にまで昇り詰めた<ref name="autogenerated3" />。 |
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| term_end6 = 1950年 |
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| 1blankname6 = 閣僚評議会議長 |
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| 1namedata6 = ペトル・グローザ<br />ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
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| 1blankname7 = 農業大臣 |
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| 1namedata7 = ヴァスィーレ・ヴァイダ |
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| office8 = 農業次官 |
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[[File:Gheorghe Gheorghiu-Dej1.jpg|thumb|150px|[[ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ]]]] |
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| term_start8 = {{Start date|1948|5|13}} |
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[[1965年]][[3月19日]]、{{仮リンク|ルーマニア労働者党|ro|Partidul Muncitoresc Român}}([[1948年]]に共産党は社会民主党を併合して「ルーマニア労働者党」と改称していた{{efn|[[ドイツ社会主義統一党]]や[[ポーランド統一労働者党]]のように共産党が社会民主主義政党を半強制的に併合して党名変更をしたケースは、他の東欧社会主義国でも見られた。}}。)の[[書記長]]であったゲオルゲ・デジが死去する。チャウシェスクはデジと昔からの親友ではあったが、デジが死んだ時点では明白な後継者というわけではなかった。だがデジ死去後に政治局内で後継者を巡る対立が起こり、妥協の候補としてチャウシェスクに白羽の矢が立ち、チャウシェスクは労働者党の[[第一書記]]に就任した。 |
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| term_end8 = 1949年 |
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| 1blankname8 = 閣僚評議会議長 |
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| 1namedata8 = ペトル・グローザ<br />ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
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| 1blankname9 = 農業大臣 |
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| 1namedata9 = ヴァスィーレ・ヴァイダ |
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| office10 = ルーマニア共産党中央委員会委員 |
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| term_start10 = 1952年 |
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==== 独自外交の展開 ==== |
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| term_end10 = {{End date|1989|12|22}} |
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チャウシェスクの最初の仕事は、政党名をルーマニア労働者党から[[ルーマニア共産党]]へ戻すことと、国名を「ルーマニア人民共和国」から「[[ルーマニア社会主義共和国]]」へと変更したことであった。[[1967年]]、チャウシェスクは[[国家元首]]である[[国家評議会議長]]となり、自身の権力を強化した。政権を獲得してからしばらくの間の外交政策は、ソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国で人気を得た。[[1960年代]]、ルーマニアは[[ワルシャワ条約機構]]へ積極的に干渉し、[[1968年]]の[[プラハの春|チェコ事件]]に対しては、[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]へのルーマニア軍の派遣を拒否してソ連を公然と非難した。一方でソ連は、[[東側諸国|共産主義ブロック]]内で独自路線をゆくルーマニアの態度を「うわべだけのもの」とさほど重要視していなかった。 |
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| office11 = 共産主義青年同盟第一書記 |
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これらの外交策により、チャウシェスクは[[アメリカ合衆国]]および西側諸国から開放政策の推進を持ちかけられることになった。[[ルーマニア社会主義共和国]]は、ドイツ連邦共和国([[西ドイツ]])が承認した最初の共産主義国であり{{efn|西ドイツは[[ハルシュタイン原則]]に基づき、対立していた[[東ドイツ]]を国家承認する国々とは、国交を結ばない外交方針であった。}}、IMF([[国際通貨基金]])やGATT([[関税および貿易に関する一般協定]])にも加盟し、[[アメリカ合衆国大統領]][[リチャード・ニクソン]]も真っ先に迎え入れた<ref>{{cite news|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,907041-1,00.html|title=RUMANIA: Enfant Terrible|publisher=TIME Magazine|date=Monday, Apr. 02, 1973|retrieved on 13.10.2009 | accessdate=2010-05-20}}</ref>。また、[[ニクソン大統領の中国訪問]]も仲介しており<ref>ヘンリー・キッシンジャー著「キッシンジャー回想録 中国(上)」第8章 和解への道 241~247P </ref>、[[1971年]]6月に[[中ソ対立]]最中の[[中華人民共和国]]を訪問し、8月には軍事代表団<ref>{{cite web |url=https://www.mofa.go.jp/policy/other/bluebook/1971/1971-1-5.htm |title=Section 5. Situation in mainland China |date= |website=[[日本国外務省]] |access-date=2018-06-28}}</ref>も訪中してルーマニアはワルシャワ条約機構の加盟国であるのにも関わらず、ワルシャワ条約から脱退した[[アルバニア]]の[[エンヴェル・ホッジャ]]のように中国から軍需品を導入し<ref>{{cite web |url=http://armstrade.sipri.org/armstrade/page/trade_register.php |title=Arms Transfers Database |date= |website=[[ストックホルム国際平和研究所]] |access-date=2018-06-28}}</ref>、同年10月に[[国際連合]]でアルバニアなどと共に中国を[[国際連合安全保障理事会常任理事国|常任理事国]]に昇格させる[[アルバニア決議]]の賛同国として名を連ねた。同じくソ連と距離を置く[[社会主義国]]だった[[ユーゴスラビア]]とは、[[東ヨーロッパ]]では共産主義ブロック崩壊前の[[欧州経済共同体]]で貿易協定を結ぶ唯一の国でもあった<ref>{{cite book|title=European Union enlargement: background, developments, facts|authors=Martin Sajdik, Michaël Schwarzinger|publisher=Transaction Publishers, NJ, USA, 2008|page=10|ISBN=978-1-4128-0667-1}}</ref>。[[1973年]]に米国の支援する[[チリ・クーデター]]によって社会主義的な[[サルバドール・アジェンデ]]政権を打倒した[[アウグスト・ピノチェト]]政権とは中国と並んで国交を維持した数少ない共産圏だった。チャウシェスクは東側諸国の国家元首だったが、前述のように[[西側諸国]]へ積極的にアプローチし、アメリカ、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[フランコ体制下のスペイン|スペイン]]、[[日本]]など西側主要諸国へ公式訪問するなかで、改革を達成した共産主義のアピールを行った。また、チャウシェスクは自身を「見識ある国際的な政治家」とアピールしていた<ref>{{cite book|title=The EU and Romania: accession and beyond|author=David Phinnemore|publisher=Federal Trust for Education and Research,London, UK, 2006|ISBN=1-903403-79-0|page=13}}</ref>。 |
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| term_start11 = {{Start date|1944|8|23}} |
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| term_end11 = {{End date|1945|6}} |
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| successor11 = コンスタンティン・ダスカレスク |
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| office12 = オルト郡地域委員会第一書記 |
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[[1974年]]には[[大統領制]]を導入し、ルーマニアの初代大統領に就任した{{efn|チャウシェスクは大統領就任以前も元首である国家評議会議長であったが、国家評議会議長は国家評議会という「国家元首の機能を果たす合議体」の長という形式([[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]、民主化以前の[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]、2015年現在の[[キューバ]]などの社会主義国でも国家評議会議長が国家元首)であるのに対し、大統領は単独で国家元首であるのが異なっている。}}。 |
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| term_start12 = {{Start date|1946|12}} |
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| term_end12 = {{End date|1948|5}} |
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| office13 = ルーマニア大国民議会議員 |
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[[File:Ceausescu and Nixon 3.jpg|200px|thumb|[[リチャード・ニクソン]]、[[ジェラルド・フォード]]と会談するチャウシェスク(1973年)]] |
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| term_start13 = {{Start date|1948|3|28}} |
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[[File:Ceausescu - Queen Elisabeth II - 1978.jpg|thumb|1978年6月13日、[[バッキンガム宮殿]]にて、[[エリザベス2世]]とともに]] |
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| term_end13 = {{End date|1952|11|30}} |
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[[File:CeausescuKim1971.jpg|200px|thumb|[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を訪問し、[[金日成]](左)と面会するチャウシェスク(1971年)]] |
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| constituency13 = オルト郡 |
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[[1975年]][[4月4日]]から[[4月9日]]にかけて日本を訪問し、[[昭和天皇]]([[4月4日]])、[[三木武夫]]首相(当時)([[4月5日]])と会談した<ref>{{Cite web |url=http://www.geocities.jp/nakanolib/choku/cs50.htm |title=中野文庫 - 勅語(昭和50年) |accessdate=2018-09-29 |publisher=NAKANO Makoto}}{{要検証|date=2018-09-29 |title=信頼性不明の個人サイト。}}</ref><ref>[https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/JPEU/19750409.D1J.html 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室「ニコラエ・チャウシェスク・ルーマニア社会主義共和国大統領夫妻の訪日に際しての共同コミュニケ」]</ref>。[[1977年]]には[[イスラエル]]を訪問した[[エジプト]]の大統領[[アンワル・アッ=サーダート]](当時)と会談し、国際情勢に関して協議した。ルーマニアは、イスラエルとPLO([[パレスチナ解放機構]])の両方と正常な外交関係を維持した唯一の国でもあった<ref>{{cite book|title=Romania versus the United States: diplomacy of the absurd, 1985-1989|authors=Roger Kirk, Mircea Răceanu|publisher=Institute for the Study of Diplomacy, Georgetown University, 1994|ISBN=0-312-12059-1|page=81}}</ref>。 |
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| term_start14 = {{Start date|1952|11|30}} |
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また、西側諸国による[[1980年モスクワオリンピック]]の大規模な[[ボイコット]]の報復として東側諸国が軒並みボイコットした[[1984年ロサンゼルスオリンピック]]においても、ルーマニアは他の東側諸国と足並みをそろえず中国とともに参加した。こうした姿勢は西側諸国からは賞賛されたものの、ソ連や[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]などの東側諸国から顰蹙を買った。 |
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| term_end14 = {{End date|1969|3|2}} |
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| constituency14 = ピテシュティ区 |
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| term_start15 = {{Start date|1969|3|2}} |
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==== 堕胎と離婚の禁止 ==== |
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| term_end15 = {{End date|1989|12|22}} |
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[[1966年]]、チャウシェスク政権はルーマニアの人口を増やすため[[人工妊娠中絶]]を[[法律]]で禁止とした。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子供を持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子供を産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられたが、殆どの女性は興味を示さずせいぜい子供2-3人程度がルーマニアの平均的な家庭であった({{仮リンク|ルーマニアの人口統計|en|Demographics of Romania}}を参照)<ref>[http://www.country-studies.com/romania/demographic-policy.html Communist Romania's Demographic Policy, U.S. Library of Congress country study] for details see Gail Kligman. 1998. ''The Politics of Duplicity. Controlling Reproduction in Ceausescu's Romania.'' Berkeley: University of California Press.</ref>。また、秘密裏に行われた妊娠中絶の結果[[不具|障害]]を負った女性、あるいは死亡する女性も少なくなかった<ref>{{ウェブアーカイブ |url=http://www.sustainabilityinstitute.org/dhm_archive/index.php?display_article=vn318cohort_of67ed{{リンク切れ|date=2018-09-29}} |title=Ceausescu's Longest-Lasting Legacy - the Cohort of '67 |archiveurl=https://archive.is/OXtp |archivedate=2012-12-04 |archiveservice=archive.today |deadlink=yes}}</ref>。 |
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| constituency15 = [[ブカレスト|ブクレシュティ]] |
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| office16 = ルーマニア下院議員 |
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チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、[[離婚]]に大きな制約を設け一部の例外を除いて禁止した。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが、今度は[[ネグレクト|育児放棄]]によって[[孤児院]]に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子供が激増した。こうした人口政策で発生した孤児たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、[[ストリートチルドレン]]化するなど後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。 |
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| term_start16 = {{Start date|1946|11|19}} |
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| term_end16 = {{End date|1948|2|25}} |
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| constituency16 = オルト郡 |
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| birth_date = {{birth date|df=yes|1918|1|23}} |
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報道ではストリートチルドレンは最大で1万人強いたとされるが、この政策に影響を受けた1967年からの3年間で40万人強の人口が増えており、一人当たりの育児費用は減ったとみられるものの、大半は成人を迎えている。{{独自研究範囲|なお、同程度の経済状況であった隣国[[ブルガリア]]と比べても失業率は一貫して低く、雇用と消費の担い手となっているのもまた事実である。また、チャウシェスクチルドレンが40歳を迎えた[[リーマン・ショック|リーマンショック]]前年の2007年までの10年間の[[国内総生産|GDP]]伸び率は、隣国のブルガリアや[[ハンガリー]]と比べても突出して高く、所謂、[[人口ボーナス]]の状況だった可能性もある。|date=2022年3月}} |
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| birth_place = [[ルーマニア王国]]・スコルニチェシュティ |
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| death_date = {{nowrap| {{death date and age|df=yes|1989|12|25|1918|1|23}}}} |
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| death_place = [[ルーマニア社会主義共和国]]・オルト郡[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]] |
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| death_cause = [[銃殺刑]] |
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| resting_place = ゲンチャ墓地 |
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| nationality = ルーマニア |
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| party = [[ルーマニア共産党]] |
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| spouse = [[エレナ・チャウシェスク]](1947年 - 1989年) |
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| children = [[ヴァレンティン・チャウシェスク]]<br />[[ゾヤ・チャウシェスク]]<br />[[ニク・チャウシェスク]] |
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| religion = [[無神論]] |
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| awards = [[File:Hero Romania.png|20px|link=ルーマニア社会主義共和国英雄]] [[File:Victoria Socialismului Type 1.jpg|20px|link=「社会主義の勝利」勲章]] [[File:Order of Lenin badge with ribbon.png|20px|link=レーニン勲章]] [[File:Order of the October Revolution (obverse).jpg|20px|link=十月革命勲章]] [[File:Karl-Marx-Orden.jpg|20px|link=カール・マルクス勲章]] [[File:Order Star Romania 1kl.jpg|20px|link=ルーマニア人民共和国星章]] [[File:100 years Lenin OBVERSE.jpg|20px|link=ヴラジーミル・イリイチ・レーニン生誕100周年記念勲章]] [[File:20yearsvictory.jpg|20px|link=大祖国戦争勝利20周年記念勲章(1941 - 1945)]] |
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| signature = Nicolae Ceaușescu signature.svg |
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| allegiance = ルーマニア社会主義共和国 |
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{{see also|ストリートチルドレン#ルーマニアの問題|ルーマニアの孤児}} |
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| branch = ルーマニア陸軍 |
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| serviceyears = 1950年 - 1954年 |
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| battles = |
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| rank = [[File:RO-Army-OF7-1.png|25px]] [[中将]] |
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| module = |
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| footnotes = a. {{note|term}} {{small|前任者のゲオルギウ=デジのころまでは「ルーマニア労働者党第一書記」}} |
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'''ニコラエ・チャウシェスク'''(''Nicolae Ceaușescu'', {{IPA-ro|nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku|lang|Ro-Nicolae Ceaușescu.ogg}}; [[1918年]][[1月26日]]– [[1989年]][[12月25日]]) は、[[ルーマニア]]の共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。 |
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==== アジアの共産主義体制の影響 ==== |
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[[画像:Propaganda poster Ceausescu.jpg|thumb|right|150px|ルーマニア国内のチャウシェスクの[[プロパガンダ]]ポスター]] |
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[[1971年]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]、[[ベトナム民主共和国|北ベトナム]]を訪問したチャウシェスクは、それらアジアの国々の共産主義体制の影響を受けた。チャウシェスクは[[毛沢東]]と[[金日成]]を称賛し、エレナ夫人も毛沢東の妻である[[江青]]と親交を結んだ<ref>Behr, Edward Kiss the Hand You Cannot Bite, New York: Villard Books, 1991 page 195.</ref>。ルーマニアに帰国後まもなく、中国の[[文化大革命]]と北朝鮮の[[主体思想]]のような政治綱領の具現化と国家の大変革を志向するようになる。同年[[7月6日]]、チャウシェスクはルーマニア共産党政治局の執行委員会で[[演説]]を行った。この演説は{{仮リンク|7月の論文|en|July Theses}}と呼ばれている。 |
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王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。[[ルーマニア共産党]]に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、[[ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ]](''Gheorghe Gheorghiu-Dej'')による指導のもと、共産党内で出世していった。[[1965年]]3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。 |
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==== 部下の亡命 ==== |
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[[Image:Bundesarchiv Bild 183-1985-0530-026, Berlin, Ceausescu-Besuch.jpg|thumb|[[東ベルリン]]にて、[[エーリッヒ・ホーネッカー]]と]] |
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[[1978年]]、ルーマニアの[[秘密警察]][[セクリタテア]]の上級幹部である[[イオン・ミハイ・パチェパ]]がアメリカに亡命した。陸軍少将でもあったパチェパは西側にルーマニアが構築したスパイ網の情報をもたらしたため、チャウシェスク政権にとって大きな痛手となった。チャウシェスクは内相を含む政府、軍部関係者を大量更迭して国内の引き締めを図る<ref>将軍ら多数を解任 亡命事件に連座『朝日新聞』1978年(昭和53年)9月2日朝刊、13版、7面</ref>とともに、秘密警察の組織・運営の見直しを余儀なくされた。パチェパは[[1986年]]に出版した著書『''Red Horizon : Chronicles of a Communist Spy Chief'' 』{{efn|日本語題:『赤い王朝 -チャウシェスク独裁政権の内幕-』 ISBN 978-4770407702}}にて、チャウシェスク政権の内情(アメリカの産業に対する大々的な工作活動や、西側から支持を得るための取り組みなど)を暴露している。パチェパ亡命後のルーマニアはより孤立を深め、経済は停滞した。チャウシェスクの諜報機関は外国の諜報機関によって逆に侵入を受けるようになり、チャウシェスクによる支配は徐々に弱まっていった。かつてのパチェパの協力者を一掃するためセクリタテアの再編成を試みるも効果は無かった。 |
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権力の座に就いたころのチャウシェスクは報道の検閲を緩和したり、党の[[イデオロギー]]に反しない限り、表現の自由を認め、[[東ヨーロッパ]]の[[東側諸国|共産陣営]]の中でも比較的自由な気風が見られた。しかし、[[1971年]]に訪問先の中国と北朝鮮で強烈な[[個人崇拝]]を目の当たりにし、それに影響されたチャウシェスクのルーマニアは、まもなく[[全体主義]]の色を帯びるようになった。[[秘密警察]]・[[セクリターテ]](''Securitate'')がルーマニア国内における大規模な監視と冷酷な抑圧を担当して国民を従わせ、報道機関を統制下に置き、ルーマニアは東ヨーロッパの国々の中で最も抑圧的な国と見なされるようになった。 |
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==== 対外債務 ==== |
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[[1968年]]の[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]のソ連からの政治的独立、ならびにソ連による同国への軍事侵攻([[チェコ事件]])に対するチャウシェスクによる抗議は西側主要国の称賛を呼んだ。西側主要国はチャウシェスクについて「反ソ連の一匹狼」と考えており、チャウシェスクに資金援助を行うことでワルシャワ条約機構の内部分裂を狙い、チャウシェスクは経済開発のために西側から130億ドル以上の融資を受けたが、この融資が最終的にルーマニアの国家財政を破綻させた。チャウシェスクは、莫大な対外債務を返済するために[[憲法]]を改正し、将来的にルーマニアが外国から融資を受けることを禁止した。[[1980年代]]、チャウシェスクは対外債務返済のため、あらゆる農産物や工業品の大量輸出を行い、国内では食糧の[[配給 (物資)|配給]]制が実施された。一連の強引な[[飢餓輸出]]により、ルーマニア国民は日々の食糧や冬の暖房用の燃料にも事欠くようになり、停電は当たり前になるなど、国民生活は次第に困窮の度合いを深めていった。[[1980年代]]のルーマニア国民の生活水準は着実に下がっていったにも関わらず、国民には「対外債務返済のための一時的なものであり、最終的には利益になる」と説明された。対外債務は[[1989年]]夏までに完済したが、大規模な輸出政策は同年12月に革命が勃発するまで続いた。 |
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チャウシェスクはルーマニアの人口を大幅に増やす政策を実施しようとした。チャウシェスクは[[1966年]]に法律を制定し、[[避妊]]を禁止する「法令第770号」(''Decretul 770'')を可決した。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの[[所得税]]を課した<ref name = "leagănele din România comunistă" />。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、[[離婚]]については例外的な事例のみ、認められた。子供を5人以上産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合、「[[母親英雄]]」(''Мать-Героиня'')の[[勲章]]を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ[[妊娠]]を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった<ref name = "Ceausescu's Longest-Lasting Legacy -- the Cohort of '67" >{{Cite web |url = http://www.sustainabilityinstitute.org/dhm_archive/index.php?display_article=vn318cohort_of67ed |title = Ceausescu's Longest-Lasting Legacy -- the Cohort of '67 |last = |first = |author = Donella H. Meadows |authorlink = |coauthors = |date = |website = sustainabilityinstitute.org |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20051224184814/http://www.sustainabilityinstitute.org/dhm_archive/index.php?display_article=vn318cohort_of67ed |archive-date = 24 December 2005 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。さらに、国の養護施設に子供が預けられたことで、[[孤児]]だけでなく、[[HIV]]感染までもが増加した<ref name = "Upheaval in the East: Romania's AIDS Babies: A Legacy of Neglect" />。 |
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==== 緊迫 ==== |
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[[image:Ceausescu & Gorbachev 1985.jpg|thumb|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]とチャウシェスク(1985年)]] |
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チャウシェスクは政権獲得当初こそ国民から高い支持を得ていたものの、1980年代にはその人気は低下していった。1989年頃になると、チャウシェスクはもはやルーマニアの現状を受け入れることすらままならなかった。1980年代末、一般市民がろくに商品が無い商店の前に長い行列を作っている中、チャウシェスクが商品でいっぱいの店に入り、大量の食べ物を抱えて芸術祭を訪問する対照的な姿が国営テレビで度々放映された。 |
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チャウシェスクは前任者のゲオルギウ=デジの方針を踏襲する形で、自国ルーマニアを[[ソ連]]から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、[[1970年代]]の[[石油危機]]が契機となり、ルーマニアの抱える[[対外債務]]の額は飛躍的に増大した。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。それに伴って慢性的な物資不足が続き、水、油、熱、電気、医薬品、その他の生活必需品について、政府は[[配給制]]を導入するほどになり<ref name = "Конфликтолог" /><ref name = "Румынский диктатор Чаушеску, убитый 21 год назад, мог быть не похоронен" />、国民の生活水準は目に見えて低下していった。その一方で、ニコラエ・チャウシェスクと妻[[エレナ・チャウシェスク]](''Elena Ceaușescu'')の二人に対する個人崇拝は前例が無いほどに強まった。[[ミハイル・ゴルバチョフ]](''Михаил Горбачев'')が打ち出した「[[ペレストロイカ]]」(''Перестройка'')をチャウシェスクが公然と批判したことにより、ルーマニアとソ連の外交関係の悪化は深刻なものとなった<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。 |
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食糧配給のための軍の派遣部隊は、チャウシェスクが訪問する店へ先回りし品物を補充して「チャウシェスク政権によって達成された高い生活水準」を演出し、またある時には、チャウシェスクが訪問する農場に国中から手配した栄養十分の畜牛を放ったりもした。[[1989年]]当時、ルーマニア国内のテレビでは「記録的豊作である」と宣伝されたが、当時の平均的なルーマニア国民が経験した窮乏との落差・矛盾はどうやっても説明がつくものではなかった。 |
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[[Image:TimbruNicolaeCeausescu.png|thumb|ニコラエ・チャウシェスクの70歳の誕生日と政治活動55周年を記念して発行された切手(1988年)]] |
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国民の中には、国内の窮乏をチャウシェスクが知らないのではないかと考え、チャウシェスクが各地を訪問する際に嘆願書や不満を訴えた手紙を手渡す者もいた。しかしチャウシェスクは、それらの手紙を受け取ると、それをすぐに秘密警察の人間に渡した。これらの手紙をチャウシェスクが実際に読んだかどうかは今なお不明だが、いずれにしても嘆願書を渡すことは非常にリスクが大きく、国民は次第にそれを思いとどまるようになった。チャウシェスクは、ルーマニア経済の実情については側近から良い報告しか受けておらず、本当の国内事情を把握していなかったとされている。 |
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[[1989年]]12月、[[ティミショアラ]](''Timișoara'')に住む[[ハンガリー人]]の[[牧師]]への立ち退き命令に対する抗議運動が始まり、ひいては[[ルーマニア革命 (1989年)|ここから暴動・革命運動に発展していった]]。[[12月17日]]、ルーマニア陸軍、民兵、治安部隊が出動し、抗議集団に対して発砲し、死傷者が出始めた。[[イラン]]を訪問する予定であったチャウシェスクは、[[12月18日]]、暴動の鎮圧を命じ、イランに向かった。帰国後の[[12月20日]]、チャウシェスクはテレビ演説を行い、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの[[主権]]を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたものだ」と訴えた<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" >{{Cite web |url = http://pravo.ru/process/view/34899/ |title = В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 4 August 2010 |website = |work = |publisher = Право |archive-url = https://web.archive.org/web/20111026183711/http://pravo.ru/process/view/34899/ |archive-date = 26 October 2011 |access-date = 4 October 2022 }}</ref><ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" >{{Cite web |url = https://www.istpravda.com.ua/articles/2010/12/25/10921/ |title = Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури |last = |first = |author = Юрій Бохан |authorlink = |coauthors = |date = 25 December 2010 |website = |work = |publisher = Истправда |archive-url = https://web.archive.org/web/20101228002031/https://www.istpravda.com.ua/articles/2010/12/25/10921/ |archive-date = 28 December 2010 |access-date = 27 September 2022 }}</ref>。[[12月22日]]の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上から[[ヘリコプター]]に乗って逃亡、首都・[[ブカレスト|ブクレシュティ]](''București'')から脱出して[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]](''Târgoviște'')に着くも、その日のうちに軍隊に捕縛された。[[イオン・イリエスク]](''Ion Iliescu'')が議長となった[[救国戦線評議会]](''Consiliului Frontului Salvării Naţionale'')による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で[[起訴]]され、夫婦の全財産没収ならびに[[死刑]]を宣告されたのち、ニコラエとエレナの両名は[[銃殺刑]]に処せられた<ref>{{Cite web |url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/25/newsid_2542000/2542623.stm |title = 1989: Romania's 'first couple' executed |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 25 december 1989 |website = |work = |publisher = [[BBC News]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20030204004136/http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/december/25/newsid_2542000/2542623.stm |archive-date = 4 February 2003|access-date = 27 September 2022 }}</ref>。 |
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このほかにもチャウシェスクは首都[[ブカレスト]]市内に「[[国民の館]]」と呼ばれる巨大な[[宮殿]]を建設し、党や国家の要職もチャウシェスクの家族・親族30人以上が独占していた。こうした一般庶民の生活を顧みない政治姿勢に国民は失望し、人気も支持も低下していった。 |
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== 生い立ち == |
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1985年、ソ連で[[ミハイル・ゴルバチョフ]]が推進する[[ペレストロイカ]]の影響で東欧でも自由化・民主化の機運が高まると、なおも個人独裁に固執するチャウシェスクは国際社会で一層孤立することになった。東西両陣営から[[欧州統合]]の障害とみなされ、第二次大戦後初となる[[バス勲章|GCB]]の剥奪にまで至っている{{efn|GCBの称号が剥奪された例は、公認されているだけで過去に3例あり、戦前では[[イタリア王国]]の[[ベニート・ムッソリーニ]]、戦後では[[ジンバブエ]]の独裁者[[ロバート・ムガベ]]である。}}。 |
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[[File:Scornicesti-Ceausescu.jpg|thumb|left|150px|ニコラエ・チャウシェスクの生家]] |
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[[File:007 Ceausescu mug shot Targoviste police 1936.jpg|left|150px|thumb|トゥルゴヴィシュテの警察が撮影したニコラエの顔写真(1936年)]] |
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[[1918年]]、[[ルーマニア王国]]オルト郡スコルニチェシュティ(''Scornicești, Județul Olt'')の貧しい農家にて、十人兄弟の三男として生まれた。ニコラエが生まれた日付は公式には[[1月26日]]であるが<ref name = "Ceaușescu, între legendă și adevăr: data nașterii și alegerea numelui de botez" >{{cite web |url = https://jurnalul.ro/special-jurnalul/ceausescu-intre-legenda-si-adevar-data-nasterii-si-alegerea-numelui-de-botez-576781.html |title = Ceauşescu, între legendă şi adevăr: data naşterii şi alegerea numelui de botez |date = 2 May 2011 |author = Lavinia Betea |work = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20131207023321/http://jurnalul.ro/special-jurnalul/ceausescu-intre-legenda-si-adevar-data-nasterii-si-alegerea-numelui-de-botez-576781.html |archive-date = 7 December 2013 |access-date = 3 October 2022 }}</ref>、出生に関する住民登録書に登録されている彼の日付は「[[1月23日]]」となっている<ref>{{Cite web |url = http://www.gandul.info/stiri/unul-dintre-cele-mai-bine-pazite-secrete-inainte-de-1989-data-reala-a-nasterii-lui-nicolae-ceausescu-foto-13786598 |title = Unul dintre cele mai bine păzite secrete înainte de 1989: data reală a naşterii lui Nicolae Ceauşescu. FOTO |last = |first = |author = Mihaela Stoica |authorlink = |coauthors = |date = 26 January 2015 |website = |work = Gandul |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20150129014902/http://www.gandul.info/stiri/unul-dintre-cele-mai-bine-pazite-secrete-inainte-de-1989-data-reala-a-nasterii-lui-nicolae-ceausescu-foto-13786598 |archive-date = 29 January 2015 |access-date = 3 October 2022 }}</ref>。のちに書き残した自伝の中で、彼は自身の誕生日をいずれも全て「1月26日」とした<ref name = "Ceaușescu, între legendă și adevăr: data nașterii și alegerea numelui de botez" /><ref name = ":2" >{{cite web |url = https://infocultural.eu/cataloagele-scolare-si-autobiografia-lui-nicolae-ceausescu-facute-publice-de-arhivele-nationale |title = Cataloagele școlare și autobiografia lui Nicolae Ceaușescu, făcute publice de Arhivele Naționale |author = Daniel Lăcătuș |publisher = Info Cultural |date = 26 January 2022 |archive-url = |archive-date = |access-date = 6 March 2022 }}</ref>。 |
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父親のアンドゥルーツァ(''Andruță'', 1886 - 1969)は土地を所有し、羊を数頭飼育し、仕立て屋として収入を補っていた<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。家は二部屋のみで、家族はおもに[[ポレンタ]]([[トウモロコシ]]を粉にして煮る[[粥]]の一種)を食べていた。当時、スコルニチェシュティに住んでいた[[司祭]]はアンドゥルーツァについて「彼は自分の子供たちに興味を示さなかった。彼はものを盗み、酒飲みで、よく喧嘩し、悪態をついていた」と語っている<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" >{{Cite web |url = http://www.natgeo.ro/istorie/personalitati-si-evenimente/8435-viata-lui-nicolae-ceausescu?showall=1 |title = Viata lui Nicolae Ceausescu |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = National Geographic România |archive-url = https://web.archive.org/web/20121110041753/http://www.natgeo.ro/istorie/personalitati-si-evenimente/8435-viata-lui-nicolae-ceausescu?showall=1 |archive-date = 10 November 2012 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。母親のアレクサンドリーナ(''Alexandrina'', 1888 - 1977)は従順で勤勉な農民であり、敬虔な[[キリスト教徒]]であった。両親が亡くなったのち、ニコラエはスコルニチェシュティに[[教会]]を建てるよう命じた。ここの教会の壁には、ニコラエの両親の肖像画が飾られている。 |
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=== 革命と最期 === |
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[[File:Ceaușescu Grave.jpg|thumb|{{仮リンク|ゲンチャ墓地|en|Ghencea Cemetery}}にあるチャウシェスク夫妻の墓]] |
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{{main|ルーマニア革命 (1989年)}} |
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ニコラエは[[小学校]]に上がり、しばしば裸足で通っていた。友人がおらず、多感で予測不能な少年であったという<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。11歳のときに首都・[[ブカレスト|ブクレシュティ]](''București'')に移住し、靴職人の見習いとして働き、靴作りの技術を学んだ。ニコラエに技術を教えたのはアレクサンドル・サンドレスク(''Alexandru Săndulescu'')であり、この人物は能動的なルーマニア共産党員であった<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。共産党は、当時は法律違反の組織であった。[[1933年]]11月、ニコラエはルーマニア共産党の青年機構である「共産主義青年同盟」(''Uniunea Tineretului Comunist'')の一員に加わった<ref name = "devotat, disciplinat, inteligenţă vie" >{{Cite web |url = https://jurnalul.ro/scinteia/special/nicolae-ceausescu-devotat-disciplinat-inteligenta-vie-515561.html |title = Nicolae Ceauşescu, "devotat, disciplinat, inteligenţă vie" |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 24 July 2009 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20140903152909/https://jurnalul.ro/scinteia/special/nicolae-ceausescu-devotat-disciplinat-inteligenta-vie-515561.html |archive-date = 3 September 2014 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。[[11月23日]]、ニコラエは鉄道[[ストライキ|労働争議]]を扇動したうえ、共産主義を扇動する趣旨の小冊子を配布した容疑で逮捕された<ref name = "Nicolae Ceausescu Chronology" >{{Cite web |url = http://www.ceausescu.org/ceausescu_texts/ceausescu_chronology.htm |title = Nicolae Ceausescu Chronology |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = Ceausescu.org |work = |publisher = |archive-url = |archive-date = |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1989年]]に[[ポーランド]]で民主的な政権が成立するなど、[[東欧革命]]の余波がルーマニアにも波及することを恐れたチャウシェスクは、チェコ事件の時とは反対にワルシャワ条約機構軍による軍事介入をソ連に要請した。しかしソ連のゴルバチョフは[[新ベオグラード宣言]]に基づきこの要求を一蹴し、チャウシェスクは事実上ソ連に見限られる形となった。チャウシェスクはなおも権力の維持を図ろうとするが、首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。 |
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[[1934年]]6月、鉄道労働者たちの[[クラヨーヴァ]](''Craiova'')での裁判に抗議する趣旨の嘆願書の署名を集めた容疑で逮捕された。{{仮リンク|イオン・ゲオルゲ・マオレル|ro|Ion Gheorghe Maurer}}の証言によれば、ニコラエは声明書と署名一覧表を配布して報酬を受け取っていたという<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。1934年、ネグルの地区委員会に声をかけられ、反ファシスト運動に参加した。ニコラエがのちに書き残した自伝によれば、当時は全国反ファシスト委員会ならびに反ファシスト青年中央委員会に所属していたという<ref name = "devotat, disciplinat, inteligenţă vie" />。[[1930年代]]半ばの時点でニコラエは数回の逮捕を経験しており、1934年8月の時点で4回投獄されている<ref name = "Nicolae Ceausescu Chronology" />。[[秘密警察]]の[[スィグランツァ]](''Siguranța Statului'')が作成したニコラエの略歴書類には、「共産主義を扇動する危険人物」「反[[ファシズム]]の宣伝活動の資料を配布する共産主義者」との紹介文が記述されている<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" /><ref name = "Nicolae Ceausescu Chronology" />。 |
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チャウシェスクは軍隊による発砲を含む弾圧で事態に対処しようとするも、国防大臣[[ワシーリ・ミリャ]]はこれを拒否。その後、ミリャが不審な死を遂げ、チャウシェスクにより処刑されたという噂が広がり、それまでチャウシェスクに忠誠を誓っていたルーマニア国軍も政権に反旗を翻した。同年12月に起きた[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]でチャウシェスクは完全に[[失脚]]し政権は崩壊、[[12月25日]]、逃亡先の[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]]において、革命軍の手によって妻エレナとともに即決で死刑判決を下され、直ちに[[銃殺刑]]された。[[生存説]]を打ち消すために、処刑された死体の映像がメディアに公開された。 |
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[[1936年]][[6月6日]]、ニコラエは、ブラショヴ裁判所にて、懲役2年、さらに[[法廷侮辱罪]]を理由に六カ月の追加の懲役、罰金2000レイ、スコルニチェシュティに一年間の強制居住、を宣告された<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。ドフターナ刑務所(''Penitenciarul Doftana'')に投獄されたニコラエは、ここの刑務所の職員から暴力を振るわれた。これ以後、何か発言する際には[[吃音]]が生じるようになった<ref name = "biography.com" />。ニコラエはこの刑務所で、[[ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ]](''Gheorge Gheorghiu-dej'')、{{仮リンク|キヴ・ストイカ|en|Chivu Stoica}}、{{仮リンク|エミール・ボドナラーシュ|ru|Emil Bodnăraș}}といった将来の共産指導者たちと出会った<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" >{{Cite web |url = http://minspace.narod.ru/Education/edu9hist14.html |title = Реставрация капитализма в Восточной Европе |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = minspace.narod |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20130424133552/http://minspace.narod.ru/Education/edu9hist14.html |archive-date = 24 April 2013 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。ニコラエは、ゲオルギウ=デジから[[マルクス・レーニン主義]]の理論を教わった<ref name = "biography.com" >{{Cite web |url = https://www.biography.com/political-figure/nicolae-ceausescu |title = Nicolae Ceausescu Biography |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 1 April 2014 |website = Biography.com |work = |publisher = A&E Television Networks |archive-url = |archive-date = |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。ルーマニアの社会学者、パーヴェル・クンパーノ(''Pavel Câmpeanu'', 1920 - 2003)は、ブクレシュティ=ジラーヴァ刑務所(''Penitenciarul București-Jilava'')でニコラエと出会い、独房で一緒に過ごしたことがある<ref name = "The Revolt of the Romanians" >{{Cite web |url = https://www.nybooks.com/articles/1990/02/01/the-revolt-of-the-romanians/ |title = The Revolt of the Romanians |last = |first = |author = Pavel Câmpeanu |authorlink = |coauthors = |date = 3 January 1990 |website = |work = |publisher = The New York Review of Books |archive-url = https://archive.ph/CR3nI |archive-date = 10 May 2021 |access-date = 26 October 2022 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://romania.europalibera.org/a/amintirea-lui-pavel-c%C3%A2mpeanu-(1920-2003)/30646258.html |title = Amintirea lui Pavel Câmpeanu (1920–2003) |last = |first = |author = Vladimir Tismăneanu |authorlink = |coauthors = |date = 1 June 2020 |website = |work = |publisher = Radio Europe Liberă |archive-url = https://web.archive.org/web/20210306235916/https://romania.europalibera.org/a/amintirea-lui-pavel-c%C3%A2mpeanu-(1920-2003)/30646258.html |archive-date = 6 March 2021 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。クンパーノはニコラエについて、「共産主義の末端運動への参加は、自分が社会生活に溶け込むために導きだした選択肢であった」「実際のところ、1930年代のニコラエは、注意力が足りず、怠惰な少年でしかなかった」と語っている<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。 |
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== 没後 == |
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チャウシェスク夫妻の没後、ルーマニア全土の病院は革命の犠牲者数について、「64,000人」という数字よりもはるかに低い「1,000人未満」という数字を報告した<ref>{{cite book|last=Aubin|first=Stephen P|title=Distorting defense: network news and national security|publisher=Greenwood Publishing Group|date=1998|pages=158|isbn=9780275963033|url=https://books.google.co.jp/books?id=5YH5rPgWvzUC&pg=PA158&dq=revolution+romania+1989+death+toll&lr=&as_drrb_is=q&as_minm_is=0&as_miny_is=&as_maxm_is=0&as_maxy_is=&as_brr=3&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=28 June 2008}}</ref>。 |
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[[1938年]]に[[仮釈放]]される。[[1939年]]、軍事閲兵式の最中に、化学繊維工場で働いていた女性、レヌーツァ・ペトレスク(''Lenuța Petrescu'')と出会った<ref name = "Nicolae Ceausescu: a profile of the former communist dictator " />。 |
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[[File:IICCR N014 Ceausescu playing billiards.jpg|thumb|[[ビリヤード]]に興ずるチャウシェスク]] |
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[[File:019.Vacanta-pentrecuta-in-Moldova-1976 (1).jpg|thumb|[[モルドバ]]にて、[[イオン・イリエスク]]とともに[[輪投げ]]に興ずるチャウシェスク]] |
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[[1940年]]、ニコラエは「[[公序良俗]]に対して陰謀を企てた」容疑で再逮捕され、有罪判決を受けた。ジラーヴァ刑務所にいたニコラエは、軍病院で歯の治療を受けるために刑務所の管理者から受け取った許可証を利用し、レヌーツァと面会していた<ref>{{Cite web |url = http://www.historia.ro/exclusiv_web/general/articol/nicu-lenuta-sex-gardianul-usa |title = Nicu şi Lenuţa, sex cu gardianul la uşă |last = |first = |author = Lavinia Betea |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Historia |archive-url = https://web.archive.org/web/20111023231750/http://www.historia.ro/exclusiv_web/general/articol/nicu-lenuta-sex-gardianul-usa |archive-date = 23 October 2011 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。[[1942年]]にカランセベシュ(''Caransebeș'')に、[[1943年]]にヴァカレシュティ(''Văcărești'')に移送された<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。拘留は終了したが、[[イオン・アントネスク]](''Ion Antonescu'')は自身の政府を弱体化させる可能性のある共産主義の活動家を釈放することについて危惧しており、ニコラエたちは釈放されず、[[トゥルグ・ジウ]](''Târgu Jiu'')の収容所に移送された。[[ミハイ1世 (ルーマニア王)|ミハイ一世]]が起こした宮廷クーデターに伴い、[[1944年]][[8月23日]]にアントネスクが逮捕されると、共産主義者たちは釈放された<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。 |
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[[1990年]]、[[自由選挙]]による[[議会]]が開かれると、野党側は与党救国戦線を激しく追及した。これはのちに救国戦線が右派([[ペトレ・ロマン]])と左派([[イオン・イリエスク]]、後の[[社会民主党 (ルーマニア)|社会民主党]])に分裂する遠因にもなった。 |
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ニコラエとレヌーツァの二人は、[[1947年]][[12月23日]]に[[結婚]]した。この時点で、レヌーツァはニコラエの子供を身籠っており、妊娠7ヶ月であった<ref name = "Apostolii Epocii de Aur. De ce era Nicolae Ceauşescu un pic cam trist" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stil-de-viata/cultura/apostolii-epocii-de-aur-de-ce-era-nicolae-1673601.html |title = Apostolii Epocii de Aur. De ce era Nicolae Ceauşescu un pic cam trist |last = |first = |author = Laurenţiu Ungureanu,Radu Eremia |authorlink = |coauthors = |date = 13 December 2015 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://web.archive.org/web/20220909183244/https://adevarul.ro/stil-de-viata/cultura/apostolii-epocii-de-aur-de-ce-era-nicolae-1673601.html |archive-date = 9 September 2022 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。[[1948年]]2月、長男のヴァレンティンが生まれた。 |
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末期のチャウシェスク政権は他の長期政権同様、チャウシェスク本人ではなく高級官僚化した党幹部らが実質的な権力を握っていたとされる。当時の党幹部らは革命の際に国外に脱出しており、真相は明らかにされていない。実際の革命の現場でも、集会の場にルーマニア人の[[ジャーナリスト]]がおらず外国の報道機関しかいなかったこと、国軍・大統領親衛隊の能力を超える武力が行使された形跡があることなど、未だ解明されていない点が多い。 |
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レヌーツァは名前を「[[エレナ・チャウシェスク]]」(''Elena Ceaușescu'')に改め、のちにルーマニア共産党の運営や政治に深く関与するようになる。 |
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[[1999年]]12月、革命10周年に当たってルーマニア国内で行なわれた[[世論調査]]によると、6割を超える国民が「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20190729205701/http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2014082500042/?doc_id=1590|title = 柏原を訪れた国家元首 |publisher = www.city.kashiwara.osaka.jp |date = |accessdate = 2019-07-30}}</ref>」と答え、同国政府を驚かせた。[[市場経済]]の停滞と[[失業者]]の増加により生活が悪化したことなどから国民の不満が高まり、各地の工場や炭坑では[[ストライキ]]が頻発した。現在もチャウシェスクの負の遺産として残されている[[国民の館]]は観光地化され、世界中から多くの人々が訪れている。 |
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== 権力の掌握 == |
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[[File:1944 soviet 4.png|thumb|1944年8月30日、ブクレシュティにて、チャウシェスクたちがソ連軍を出迎える様子]] |
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[[File:Gheorghiu-Dej, Ceausescu & delegates in Feb 1948.jpg|thumb|1948年2月に開催されたルーマニア労働者党大会での集合写真。写真中央に立つのはゲオルギウ=デジ。その左側にいるのがチャウシェスク。]] |
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[[File:Ceausescu-Comisar-1954.jpg|thumb|軍服姿のチャウシェスク(1954年)]] |
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[[File:Gheorghiu-Dej & Khrushchev at Bucharest's Baneasa Airport (June 1960).jpg|thumb|[[1960年]]6月、第7回ルーマニア労働者党大会閉会後、ブクレシュティにあるバネアサ空港にて、[[ニキータ・フルシチョフ]]を見送るゲオルギウ=デジ。ゲオルギウ=デジの右後ろにいるのがチャウシェスク。]] |
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[[File:382. Gheorghiu Dej 60th birthday.jpg|thumb|[[1961年]][[11月8日]]、ブクレシュティにて、60歳の誕生日を祝うゲオルギウ=デジ。写真の右端にいるのがチャウシェスク。中央左にいるのは内務大臣、[[アレクサンドル・ドラギーチ]]。]] |
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[[File:Regiunea Autonoma Mures, delegatia PCR si Ceausescu.jpg|thumb|[[1965年]]、チャウシェスク率いる共産党幹部がハンガリー自治区を訪問した際の様子。]] |
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[[File:Ceausescu.jpg|thumb|[[鄧小平]]、[[レオニード・ブレジネフ]]と(1965年)]] |
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[[File:IICCR G539 Ceausescu Dubcek Svoboda.jpg|thumb|[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]を訪問するチャウシェスク(1968年)]] |
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[[File:Adunare Piaţa Palatului August 1968.jpg|thumb|ソ連によるチェコスロバキアへの軍事侵攻を非難する演説(1968年8月21日)]] |
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[[File:Moldovan workers during Ceausescu visit (1972). (14549532742).jpg|thumb|チャウシェスクによる訪問を迎え入れる[[モルドヴァ]]の労働者(1972年)]] |
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[[File:Ceausescu and Nixon 3.jpg|thumb|[[リチャード・ニクソン]]、[[ジェラルド・フォード]]と(1973年)]] |
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[[File:President Gerald R. Ford, First Lady Betty Ford, Romanian President Nicolae Ceausescu, and Mrs. Ceausescu Dancing with Folk Dancers in Bucharest, Romania - NARA - 12007119.jpg|thumb|1975年8月2日、首都・ブクレシュティにて、[[ジェラルド・フォード]]、[[ベティ・フォード]]、妻エレナとともに[[フォークダンス]]を踊るチャウシェスク]] |
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[[File:1975 Ceausescu J. Chirac Neptun.jpg|thumb|[[ジャック・シラク]]と(1975年)]] |
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[[File:1975 Ceausescus Tokio Hirohito.jpg|thumb|[[東京]]にて、[[昭和天皇]]と(1975年)]] |
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[[File:Ceausescu and Carter 2.jpg|thumb|[[ワシントンD.C.]]にて、[[ジミー・カーター]]と(1978年)]] |
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[[File:Ceausescu - Queen Elisabeth II - 1978.jpg|thumb|1978年6月、[[バッキンガム宮殿]]にて、[[エリザベス2世]]と]] |
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[[File:Ceausescu Anul Nou.jpg|thumb|1978年の[[元旦]]に、国民に向けてメッセージを伝えるチャウシェスク]] |
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[[File:Bundesarchiv Bild 183-1987-0529-029, Berlin, Tagung Warschauer Pakt, Gruppenfoto.jpg|thumb|ワルシャワ条約機構加盟国の首脳たち]] |
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[[File:Ceausescu & Gorbachev 1985.jpg|thumb|[[ミハイル・ゴルバチョフ]]と(1985年)]] |
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[[File:IICCR LA502 Ceauşescu and Justin Moisescu.jpg|thumb|[[ルーマニア正教会]]の新たな総主教に選出されたジャスティン・モイセスクと(1977年)]] |
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ミハイ1世が起こした宮廷クーデターによりイオン・アントネスクの政府は崩壊し、親ドイツ政権が終わった。[[1944年]]8月、ソ連軍のルーマニアへの進軍が加速した。1944年9月の時点で、ソ連はルーマニアの大部分を占領下に置いていた。[[9月12日]]にルーマニアとソ連のあいだで休戦協定が結ばれたのち、ソ連軍はルーマニア全土を占領するに至った。ソ連がルーマニアを占領した初期の頃には、ソ連軍の兵士によるルーマニア人女性への[[強姦]]が横行していた記録が残っている<ref>{{Cite book |last = Naimark |first = Norman M. |title = The Russians in Germany: a history of the Soviet Zone of occupation, 1945–1949 |year= 1995 |publisher = Belknap Press of Harvard University Press |isbn = 0-674-78405-7 |location = Cambridge, Mass. |oclc = 32276211 |page = 70 }}</ref>。 |
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[[1947年]][[12月30日]]、{{仮リンク|ペトル・グローザ|ro|Petru Groza}}がゲオルギウ=デジを伴ってエリサベータ宮殿(''La Palatul Elisabeta'')を訪れ、ミハイ1世に対して{{仮リンク|ミハイ1世の退位|ro|Abdicarea regelui Mihai|label=退位}}を迫った。ミハイ1世が退位を表明したのに伴い、ルーマニア共産党が政権を掌握し、「ルーマニア人民共和国」(''Republica Populară Română'')の樹立が宣言された。[[1948年]][[2月4日]]、ソ連とルーマニアの間で、友好、協力、相互扶助の条約が調印された。同月、ルーマニア労働者党(''Partidul Muncitoresc Român'')の最初の党大会が開催された。チャウシェスクは[[1944年]][[8月23日]]から[[1945年]]6月まで、ルーマニア共産主義青年同盟の第一書記を務めていた。1948年[[5月13日]]、閣僚評議会議長のペトル・グローザにより、チャウシェスクは農業次官に任命された。農業大臣の{{仮リンク|ヴァスィーレ・ヴァイダ|ro|Vasile Vaida}}の副官としてであった<ref>{{Cite web |url = http://www.adevarul.ro/actualitate/adevaratul_ceausescu/Ceausescu_a_colectivizat_cu_arma_in_mana_0_556744613.html |title = Ceauşescu a colectivizat cu arma în mână |last = |first = |author = Ilarion Ţiu |authorlink = |coauthors = |date = 18 September 2011 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://web.archive.org/web/20110924081601/http://www.adevarul.ro/actualitate/adevaratul_ceausescu/Ceausescu_a_colectivizat_cu_arma_in_mana_0_556744613.html |archive-date = 24 September 2011 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。[[1949年]]には農業副大臣に任命され、[[1950年]][[3月18日]]には国防副大臣および陸軍高等政治総局長に任命された<ref>{{Cite web |url = http://www.arhivelenationale.ro/images/custom/image/serban/1950/1950_pdf.pdf |title = ROMÂNIA – VIAŢA POLITICĂ ÎN DOCUMENTE – 1950 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = arhivelenationale |archive-url = https://web.archive.org/web/20130325090418/http://www.arhivelenationale.ro/images/custom/image/serban/1950/1950_pdf.pdf |archive-date = 25 March 2013 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。チャウシェスクは最終的に[[中将]]の地位にまで上り詰めたが、軍隊に従軍した経験は無かった<ref name = "Cristian Preda" >Cristian Preda, ''Rumânii fericiți. Vot și putere de la 1831 până în prezent.''Iași, Polirom, 2011, p. 256</ref>。 |
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[[1952年]]、ゲオルギウ=デジの推薦を受けて、チャウシェスクはルーマニア労働者党中央委員会委員に選出された。1954年には中央委員会書記になり、1955年には中央委員会政治局員になった<ref name = "Nicolae Ceausescu Chronology" />。1950年代半ばの時点で、チャウシェスクは党と国政に大きな影響力を及ぼす存在となっており、党内序列第2位にまで上り詰めた<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" >{{Cite web |url = http://2000.net.ua/2000/aspekty/persona/68663 |title = «Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету |last = |first = |author = Владимир ВОЛОШИН |authorlink = |coauthors = |date = 1 September 2010 |website = |work = |publisher = Еженедельник 2000 |archive-url = https://web.archive.org/web/20121226013946/http://2000.net.ua/2000/aspekty/persona/68663 |archive-date = 26 December 2012 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。 |
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ゲオルギウ=デジは、[[アナ・パウケル]](''Ana Pauker'')のような「モスクワ派」(彼女と同じく、党員の多くがモスクワで数年間亡命暮らしを送っていたことから、このように呼ばれる)と「獄中派」(その多くは、第二次世界大戦中にドフターナ刑務所で過ごしていた)は敵対状態にあった。「獄中派」の事実上の指導者であったゲオルギウ=デジは、[[集団農場]]の強化を支持し<ref>Kligman and Verdery, ''Peasants Under Siege: The Collectivization of Romanian Agriculture, 1949–1962,'' pp. 105, 201–202.</ref>、[[1948年]]には[[法務大臣]]の{{仮リンク|ルクレチウ・パトラシュカーヌ|en|Lucrețiu Pătrășcanu}}を逮捕させ、その見せしめ裁判を後押しした<ref>Tismaneanu, ''Stalinism for All Seasons: A Political History of Romanian Communism,'' pp. 118–119.</ref>。パトラシュカーヌは[[1954年]]にジラーヴァ刑務所で殺された<ref>{{Cite web |url = https://historia.ro/sectiune/general/lucretiu-patrascanu-destinul-fabulos-al-unui-om-575055.html |title = Lucrețiu Pătrășcanu, destinul fabulos al unui om asasinat de propria convingere politică |last = |first = |author = Tudor Curtifan |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Historia |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20220831185731/https://historia.ro/sectiune/general/lucretiu-patrascanu-destinul-fabulos-al-unui-om-575055.html |archive-date = 31 August 2022 |access-date = 1 September 2022 }}</ref>。[[1952年]][[5月27日]]、中央委員会書記局の委員であったアナ・パウケル、{{仮リンク|ヴァスィーレ・ルカ|en|Vasile Luca}}、{{仮リンク|テオハリ・ジョルジェスク|en|Teohari Georgescu}}は書記局から粛清・追放された。モスクワ派の同志たちを粛清したことにより、ゲオルギウ=デジの党と国家に対する支配力は強まることとなった。チャウシェスクはゲオルギウ=デジの決定を支持したが、ゲオルギウ=デジの死後にチャウシェスクが書記長に就任すると、彼らはいずれも名誉回復がなされた。 |
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ゲオルギウ=デジは、[[ニキータ・フルシチョフ]](''Никита Хрущев'')による[[非スターリン化|脱スターリン化]](''Десталинизация'')という新たな一連の行為に対して、当初は動揺を見せていた。その後、ゲオルギウ=デジは[[1950年代]]後半に[[ワルシャワ条約機構]](''The Warsaw Treaty Organization'')と[[経済相互援助会議]](''The Council for Mutual Economic Assistance'')において、ルーマニアが半自主的な外交・経済政策の事業計画立案者となり、ソ連からの指示に叛く形で、ルーマニアにおける重工業の創設を主導した([[インド]]と[[オーストラリア]]から輸入した鉄資源を活用する形で[[ガラーツィ]](''Galați'')に大規模な製鉄所を新たに建設する)。皮肉なことに、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、かつてはソ連に最も忠実な衛星国の一つと考えられていたため、「外交政策の寛大さと『自由主義』が国内の抑圧と結び付いた様式を最初に確立したのは誰か」が忘れられる傾向にある<ref>{{Cite web |url = https://www.academia.edu/22876051/Dej-a-Vu_Early_Roots_of_Romanias_Independence |title = Dej-a-Vu: Early Roots of Romania's Independence - East European Quarterly, vol. 42. no. 4 (Winter 2008): 365-404. , 2008 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20220121053246/https://www.academia.edu/22876051/Dej-a-Vu_Early_Roots_of_Romanias_Independence |archive-date = 21 January 2022 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。このような価値体系に基づいた措置は、「ソヴロム」(''SovRom'', ルーマニアとソ連の経済企業。ソ連が資源を確保するための手段として設立された。[[1956年]]に解散)の追放や、ソ連とルーマニアの共通文化事業の縮小に伴い、明らかにされた。 |
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[[1955年]]、ニキータ・フルシチョフがルーマニアを訪問した際、ゲオルギウ=デジは、ルーマニア国内に駐留しているソ連軍を撤退させるよう要求した<ref>{{Cite web |url = https://evz.ro/derusificarea-romaniei-ii-dej-si-insurectia-anticomunista-din-ungaria-bodnaras-agent-9.html|title = Derusificarea României (II) – Dej şi Insurecţia anticomunistă din Ungaria. Bodnăraş, agentul Siguranţei|last = |first = |author = Adrian Pătruşcă|authorlink = |coauthors = |date = 19 March 2012|website = |work = Evenimentul Zilei|publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20200923201718/https://evz.ro/derusificarea-romaniei-ii-dej-si-insurectia-anticomunista-din-ungaria-bodnaras-agent-9.html|archive-date = 23 September 2020|access-date = 3 March 2022 }}</ref>。[[1958年]]の秋までに、ソ連はルーマニアから最後の赤軍を撤退させた。これはゲオルギウ=デジ個人の功績である。しかし、秘密警察の[[セクリターテ]](''Securitate'')は依然としてゲオルギウ=デジの忠実な手先であった<ref>Dennis Deletant, ''Communist Terror in Romania: Gheorghiu-Dej and the Police State, 1948–1965'' (New York: St. Martin's Press, 1999), p. x.</ref>。[[1956年]]に勃発した[[ハンガリー動乱]]のおり、ルーマニアはハンガリーに対する弾圧の波に加わった。動乱の指導者、[[ナジ・イムレ|ナギ・イムレ]](''Nagy Imre'')に対して、ゲオルギウ=デジは「舌で吊るすべきだ」と言い放った<ref name = "Cine a fost Gheorghiu-Dej: Stalinul României" >{{Cite web |url = https://moldova.europalibera.org/a/blog-vladimir-tismaneanu/28769469.html |title = Cine a fost Gheorghiu-Dej: Stalinul României |last = |first = |author = Vladimir Tismăneanu |authorlink = |coauthors = |date = |website = Radio Europe Liberă |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20220831185730/https://moldova.europalibera.org/a/blog-vladimir-tismaneanu/28769469.html |archive-date = 31 August 2022 |access-date = 1 September 2022 }}</ref>。ナギ・イムレは[[1958年]]6月に[[絞首刑]]に処せられた。 |
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[[1949年]][[3月2日]]、ルーマニア大国民議会常任幹部会(''Prezidiul Marii Adunari Nationale'')は法令第82号を発行し、50[[ヘクタール]]の土地の[[国有化]]を決定した。1949年の初頭、チャウシェスクは、農地の国有化のために設立された農業省の特別委員会の指揮を執っていた。農業副大臣から国防副大臣になったあとも、チャウシェスクは[[集団農場]]の政策に関わっていた<ref name = "Ceauşescu a colectivizat cu arma în mână" >{{Cite web |url = http://www.adevarul.ro/actualitate/adevaratul_ceausescu/Ceausescu_a_colectivizat_cu_arma_in_mana_0_556744613.html |title = Ceauşescu a colectivizat cu arma în mână |last = |first = |author = Ilarion Ţiu |authorlink = |coauthors = |date = 18 September 2011 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://web.archive.org/web/20110924081601/http://www.adevarul.ro/actualitate/adevaratul_ceausescu/Ceausescu_a_colectivizat_cu_arma_in_mana_0_556744613.html |archive-date = 24 September 2011 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。[[1957年]][[12月4日]]、ルーマニアの東部にある村、ヴァドゥ・ロシュカ(''Vadu Roșca'')で農民による蜂起が勃発した。チャウシェスクはこれを鎮圧するため、部隊を率いて同地に出動した。チャウシェスクは部隊に対し、現地の農民たちに機関銃で発砲するよう命じた。この蜂起で18人が逮捕され、「反逆」と「社会秩序に対する陰謀」の罪で実刑判決を受けた<ref>The Book of Whispers pages 265-267, Polirom Publishing House, Iasi, 2009, ISBN 978-973-46-0887-4</ref>。[[2006年]]、財務大臣の{{仮リンク|ヴァルジャン・ヴォスゲイニアン|ro|Varujan Vosganian}}は、ルーマニアの上院議会にて、チャウシェスクが鎮圧したこの事件を取り上げ、「9人の農民が射殺され、48人が負傷した」と発表した。[[1949年]]から[[1952年]]にかけて80000人を超える農民が逮捕され、そのうち30000人が実刑判決を受けた<ref>{{Cite web |url = http://www.ziua.net/display.php?data=2007-12-14&id=230718 |title = "Mai rai ca Ceausescu" |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 14 December 2007 |website = |work = Ziua |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20071215131405/http://www.ziua.net/display.php?data=2007-12-14&id=230718 |archive-date = 15 December 2007 |access-date = 4 October 2022 }}</ref>。集団農場政策は、ルーマニアの共産主義者が実行した最も広範な「再生」事業であった。産業と銀行体系の国有化の達成に4年(1948年 - 1952年)かかり、集団農場は[[1962年]]まで続いた。ルーマニア労働者党の活動家、中央政府・地方政府、民兵、治安部隊、軍隊、国境警備隊、党と国家のあらゆる勢力が集団農場に関与していた。ルーマニアの人口の70%が農民であり、彼らに共産主義の生活様式を強制するのは困難であった。1949年3月、チャウシェスクはルーマニア労働者党の本会議の席で、教育現場でマルクス・レーニン主義教育を強化するよう勧告していた<ref name = "Ceauşescu a colectivizat cu arma în mână" />。 |
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[[1957年]][[11月4日]]、チャウシェスク、キヴ・ストイカ、{{仮リンク|レオンテ・ロウト|en|Leonte Răutu}}を含むルーマニア労働者党の代表団が[[Il-14 (航空機)|Il-14]]に搭乗し、[[十月革命]]から40周年を迎える記念式典に参加するためにブクレシュティを出発し、[[モスクワ]]へ向かった。当初はゲオルギウ=デジが彼らを統率する予定であったが、健康上の理由から取りやめたという。午後5時48分、[[ヴヌーコヴォ国際空港|ヴヌーカヴァ国際空港]](''Аэропорт Вну́ково'')に着陸する直前、操縦士の不手際が原因で機体が墜落した。この[[航空事故]]で、外務大臣の{{仮リンク|グリゴーレ・プレオターサ|en|Grigore Preoteasa}}と乗務員三名が死亡したが、チャウシェスク本人は無事であった<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。[[1950年代]]から[[1960年代]]の初頭にかけて、チャウシェスクはソ連を数回訪問している<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" />。 |
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[[1965年]][[3月19日]]午後5時43分、ゲオルギウ=デジが[[肺癌]]で亡くなった<ref>{{Cite web |url = https://historia.ro/sectiune/calendar/calendar-19-martie-1965-gheorghe-gheorghiu-dej-566577.html |title = Calendar 19 martie: 1965 - Gheorghe Gheorghiu-Dej a murit din cauza unui dublu cancer galopant |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Historia |publisher = |archive-url = |archive-date = |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。[[1954年]]から[[1955年]]にかけて、ゲオルギウ=デジからルーマニア労働者党第一書記の座を譲られたことがあった{{仮リンク|ゲオルゲ・アポストル|ro|Gheorghe Apostol}}は、自分が「ゲオルギウ=デジ直々に後継者に指名された」と主張していたが、閣僚評議会議長のイオン・ゲオルゲ・マオレルはアポストルに対して敵意を抱いていた。マオレルは、アポストルが権力を掌握するのを阻止しようとし、妥協案として、ゲオルギウ=デジが子飼いにしていたチャウシェスクに党指導部をまとめさせることにした<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" />。ゲオルギウ=デジと仲の良かった[[内務大臣]]、[[アレクサンドル・ドラギーチ]](''Alexandru Drăghici'')が党内で権力を掌握するのを危惧したイオン・ゲオルゲ・マオレル、キヴ・ストイカ、エミール・ボドナラーシュは、党の新たな指導者としてニコラエ・チャウシェスクへの支持を表明した<ref name = "crime" >{{Cite web |url = http://www.crimelecomunismului.ro/ro/biografiile_nomenklaturii/|title = Biografiile nomenklaturii |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = crimele comunismului |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20100620225535/http://www.crimelecomunismului.ro/ro/biografiile_nomenklaturii/ |archive-date = 20 June 2010 |access-date = 25 February 2022 }}</ref>。なお、キヴ・ストイカがチャウシェスクへの支持を表明したのは、国家評議会議長の役職と引き換えであった。チャウシェスクを指名した彼らは、チャウシェスクを「自分たちに従順な[[傀儡]]にしよう」と考えていた<ref name = "ФАКТЫ 15033" /><ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。 |
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[[1965年]][[3月22日]]、満場一致の承認を得て、ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア労働者党中央委員会第一書記に就任した<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。イオン・ゲオルゲ・マオレルは閣僚評議会議長、ゲオルゲ・アポストルとエミール・ボドナラーシュは閣僚評議会第一副議長の座に留まり、キヴ・ストイカは1965年[[3月24日]]に国家評議会議長に就任し、[[1967年]][[12月9日]]までこれを務めた。1965年7月に開催されたルーマニア労働者党第9回党大会の席にて、チャウシェスクは政党名を「[[ルーマニア共産党]]」(''Partidul Comunist Român'')に戻すことを提案し、可決された。前任者のゲオルギウ=デジは、1948年2月以来、「ルーマニア労働者党第一書記」の肩書を名乗っていたが、チャウシェスクはこの役職名を「ルーマニア共産党書記長」に戻した。1965年[[8月21日]]、チャウシェスクは新たな憲法の制定を宣言し、国名を「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」(''Republica Socialistă Română'')に変更した<ref name = "Nicolae Ceausescu Chronology" />。 |
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[[1990年]][[1月4日]]、「ルーマニア自由テレビ」(''Televiziunea Română Gratuită'')で放映されたイオン・ゲオルゲ・マオレルへの取材映像の中で、マオレルは「チャウシェスクを書記長に指名したのは、私の過ちだった」と答えた。マオレルによれば、「もし国内で[[権力闘争]]が公然と始まった場合、それを口実にソ連が再び軍隊を編成して派遣してくる恐れがあった」という。マオレルは、チャウシェスクについて「十分な教育は受けていないが、学習意欲が旺盛で、[[偏見]]を抱くことなく他人の意見に耳を傾け、理解しようとする人物」と語っている<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" >{{Cite web |url = http://studyport.ru/istoriya/istoriya-rumyinii-xx-veka-politika-chaushesku |title = История Румынии XX века. Политика Чаушеску |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 25 October 2011 |website = |work = |publisher = Study Port |archive-url = https://web.archive.org/web/20111025215207/http://studyport.ru/istoriya/istoriya-rumyinii-xx-veka-politika-chaushesku |archive-date = 25 October 2011 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクは、党指導部の1人である[[アレクサンドル・ドラギーチ]](''Alexandru Drăghici'')とも対立関係にあり、ドラギーチの粛清に着手した。[[1965年]]末から[[1966年]]初頭にかけて、チャウシェスクは政治書類記録の専門家、{{仮リンク|ヴァスィーレ・パティリネツ|en|Vasile Patilineț}}に対して、ドラギーチの高位職への対応に関する幅広い調査の一環として、「ルクレチウ・パトラシュカーヌの処刑にドラギーチがどのように関与したか」<ref>Tismăneanu, p. 196</ref>について文書をまとめ上げるよう要請した<ref name = "asasin" >{{Cite web |url = http://www.9am.ro/stiri-revista-presei/Actualitate/62590/Alexandru-Draghici-biografia-unui-asasin.html|title = Alexandru Drăghici – biografia unui asasin|last = |first = |author = Mihai Pelin |authorlink = |coauthors = |date = 19 May 2007 |website = |work = Gardianul |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20080304012717/http://www.9am.ro/stiri-revista-presei/Actualitate/62590/Alexandru-Draghici-biografia-unui-asasin.html|archive-date = 4 March 2008 |access-date = 25 February 2022 }}</ref>。ドラギーチのもとでなされた悪行が公然と知れ渡ると、チャウシェスクは党を「浄化」するため、ドラギーチの排除に着手した<ref>{{Cite web |url = http://jurnalul.ro/special-jurnalul/cum-l-a-salvat-maurer-pe-draghici-de-la-puscarie-72942.html|title = Cum l-a salvat Maurer pe Drăghici de la pușcărie |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 14 February 2004 |website = |work = Jurnalul Național |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20140324053539/http://jurnalul.ro/special-jurnalul/cum-l-a-salvat-maurer-pe-draghici-de-la-puscarie-72942.html |archive-date = 24 March 2014 |access-date = 25 February 2022 }}</ref>。チャウシェスクは、[[1952年]]から[[1965年]]にかけて行われた全ての弾圧の悪玉化としてセクリターテの元責任者の名前を挙げ<ref name = "asasin" />、1956年のハンガリー動乱のあとに推進された打擲行為に対する認識の無さを主張した<ref>Bottoni, pp. 225–226</ref>。[[1968年]]4月に開催されたルーマニア共産党本会議総会の場で、ドラギーチは党の支配権を巡ってチャウシェスクと対立し、権力の座から転落した<ref name = "banu11; neagoe249" >Banu and Banu, p. 11; S. Neagoe, p. 249</ref>。この本会議総会において、[[1954年]]に処刑されたルクレチウ・パトラシュカーヌの名誉回復が採択されるとともに、ドラギーチは党から完全に駆逐された<ref name = "crime" /><ref>{{Cite web |url = http://adevarul.ro/cultura/istorie/marele-bal-reabilitarea-patrascanu-excluderea-draghici-1_50ce2726596d72009109ccb3/index.html|title = VIAŢA LUI CEAUŞESCU Marele bal – reabilitarea lui Pătrăşcanu şi excluderea lui Drăghici |last = |first = |author = Lavinia Betea |authorlink = |coauthors = |date = 16 December 2012 |website = |work = Adevărul |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20121230223026/http://adevarul.ro/cultura/istorie/marele-bal-reabilitarea-patrascanu-excluderea-draghici-1_50ce2726596d72009109ccb3/index.html |archive-date = 30 December 2012 |access-date = 25 February 2022 }}</ref>。ドラギーチは、その年のうちに、ルーマニア共産党中央委員会政治局、ルーマニア大国民議会常任幹部会、閣僚評議会からも除名され、さらには将校の地位から予備役の兵卒に降格させられた。 |
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[[1969年]]に開催されたルーマニア共産党第10回党大会にて、党の規約が変更された。それによれば、書記長は中央委員会本会議ではなく、党大会の場で直接選出されることになった。これにより、チャウシェスクにはさらに強大な権力が集中することになった。このころには、政治局の人間の3分の2は、チャウシェスクが指名した人物で占められていた。 |
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キヴ・ストイカは、[[1970年代]]前半に全役職から解任された。[[1976年]][[2月18日]]、ストイカは頭に銃弾を受けて死んだ。彼の死は、公式には「自殺」と発表された<ref name = "Игорь Анатольевич Мусский" />が、ストイカの妻は夫の死について「自殺ではない」と訴えた。ゲオルゲ・アポストルは、ルーマニア共産党第10回党大会にて、{{仮リンク|コンスタンティン・ダスカレスク|ru|Constantin Dăscălescu}}に批判され、党指導部を解任された。アポストルは、のちに南米の国々で大使を務めることになった。イオン・ゲオルゲ・マオレルは[[1974年]][[3月29日]]に閣僚評議会議長を解任された。 |
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ニコラエの妻・エレナも党指導部の1人となり、彼女は夫とともに党の運営に深く関与するようになった。エレナは[[1972年]]7月にルーマニア共産党中央委員会委員に、[[1973年]]6月にはルーマニア共産党中央委員会政治局員に、さらにはエミール・ボドナラーシュによる推薦を受けて、党執行委員会に選出された。[[1980年]]3月、ニコラエはエレナを閣僚評議会第一副議長に任命している<ref>{{Cite web |url = https://www.inright.ru/news/id_2853/ |title = В Румынии эксгумированы останки Николае Чаушеску и его жены Елены |author = |date = 21 July 2010 |website = Информационное агентство |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20150924035226/https://www.inright.ru/news/id_2853/ |archive-date = 24 September 2015 |access-date = 7 November 2022 }}</ref>。 |
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その間にも、チャウシェスクへの権力の集中は続いた。[[1967年]][[12月9日]]にキヴ・ストイカが国家評議会議長を辞任すると、チャウシェスクはストイカの後任として第3代国家評議会議長に就任した<ref name = "Игорь Анатольевич Мусский" >{{Cite web |url = http://litrus.net/book/read/64026?p=211 |title = Игорь Анатольевич Мусский |last = |first = |author = 100 великих диктаторов - Страница |authorlink = |coauthors = |date = |website = Litrus |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20160309141425/http://litrus.net/book/read/64026?p=211 |archive-date = 9 March 2016 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。同日、エミール・ボドナラーシュを国家評議会副議長に任命した。ボドナラーシュは[[1976年]][[1月24日]]までこれを務めた。チャウシェスクは[[1967年]]に経済評議会を、[[1968年]]に国防評議会を設立し、国家評議会の権限を継続的に拡大させた。チャウシェスクは国防評議会議長に任命され、ルーマニア軍の最高司令官という立ち位置となった。 |
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[[1974年]][[3月28日]]、ルーマニアの憲法が改正され、最高行政権が国家評議会から唯一の元首である大統領に移譲され、国家評議会は大統領が引き続き主導する機関として存続した。新たな憲法によれば、大統領はルーマニア大国民議会から選出され、任期は「5年間」であった。1974年[[3月29日]]、チャウシェスクはルーマニア社会主義共和国の大統領に選出されるとともに、事実上の終身大統領となる趣旨を宣言するに至った<ref name = "РИА Новости" >{{Cite web |url = http://ria.ru/politics/20091216/199411078.html |title = Николае Чаушеску. Биографическая справка |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 16 December 2009 |website = |work = |publisher = РИА Новости |archive-url = https://web.archive.org/web/20150215211708/http://ria.ru/politics/20091216/199411078.html |archive-date = 15 February 2015 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。 |
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== 内政 == |
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ルーマニア共産党書記長に就任したころのチャウシェスクは、国内の報道の検閲を緩和した。ルーマニアにおける報道の自由は、ほかの共産国家に比べると緩やかであった。ルーマニア国民は、国内だけでなく外国による報道にも触れることが可能であった。ルーマニアへの出入りは比較的自由であり、共産党政府は住民の移住を妨害したりはしなかった。ルーマニア在住の[[ユダヤ人]]は、[[イスラエル]]に向かう権利を得られた。芸術や文化における表現の様式は、党の[[イデオロギー]]に反しない限り、自由であった<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。 |
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=== 堕胎の禁止 === |
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[[File:Birth-death RO.svg|thumb|1950年以降のルーマニアの[[出生率]]のグラフ]] |
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[[1966年]][[10月1日]]、チャウシェスクは[[堕胎]]と[[避妊]]を禁止する「法令第770号」(''Decretul 770'')を新たに制定した。[[10月2日]]、国家評議会議長のキヴ・ストイカによる署名のもと、法律が布告された<ref>{{Cite web |url = http://www.lege-online.ro/lr-DECRET-770%20-1966-(177)-(1).html |title = DECRET 770 /1966 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = lege-online |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20151003174356/http://www.lege-online.ro/lr-DECRET-770%20-1966-(177)-(1).html |archive-date = 3 October 2015 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。ルーマニアでは、[[1957年]]に中絶を許可する内容の法令が出ており、それを廃止する形となった。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの[[所得税]]を課した<ref name = "leagănele din România comunistă" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stiri-interne/sanatate/the-new-yorker-puterea-atingerii-in-dezvoltarea-1605733.html |title = The New Yorker: Puterea atingerii în dezvoltarea copiilor. Studiu de caz: leagănele din România comunistă |last = |first = |author = Radu Eremia |authorlink = |coauthors = |date = 3 August 2015 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://archive.ph/o4rhj |archive-date = 30 October 2022 |access-date = 30 October 2022 }}</ref>。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、[[離婚]]については例外的な事例のみ、認められた。5人以上の子供を産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合は「[[母親英雄]]」(''Мать-Героиня'')の[[勲章]]を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ[[妊娠]]を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった<ref name = "Ceausescu's Longest-Lasting Legacy -- the Cohort of '67" />。 |
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チャウシェスクは、「子供を持つことを避ける者は、国家の法律に違反する脱走兵である」と述べた。当時、ルーマニア国民が俗に「月経警察」と呼んでいた役人の前で、女性は妊娠しているかどうか確認を受けた。[[1986年]]、共産主義青年団の組織員たちは一般家庭を回り、住人の女性に対して[[性行為]]の頻度について尋ねた。子供がいない場合、「何故まだ妊娠していないのか」を詳しく説明する必要があり、納得のいく説明ができなければ独身税が課せられた。これは毎月の収入の10%に相当する額であった。しかし、これは望ましい結果にはつながらなかった。すべての妊娠のうち、約60%が中絶に終わった<ref name = "Последний вампир Трансильвании" />。およそ10000人のルーマニア人女性が秘密裏に堕胎しようとし、[[合併症]]を併発して死亡したという<ref name = "Король, королева и принц: таким был режим Чаушеску, рухнувший 30 лет назад" />。 |
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この法律により、ルーマニアの人口は確かに増加したが、何千人もの子供たちが[[孤児院]]に置き去りにされ、[[孤児]]の数が増えただけでなく、[[HIV]]感染までもが増加した<ref name = "Upheaval in the East: Romania's AIDS Babies: A Legacy of Neglect" >{{Cite web |url = https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9C0CE5DA103AF93BA35751C0A966958260 |title = Upheaval in the East: Romania's AIDS Babies: A Legacy of Neglect |last = |first = |author = CELESTINE BOHLEN |authorlink = |coauthors = |date = 8 February 1990 |website = |work = |publisher = [[The New York Times]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20071013214352/https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9C0CE5DA103AF93BA35751C0A966958260 |archive-date = 13 October 2007 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。孤児に対応するため、国営の「施設」が作られるも、過密状態で職員の数は不足し、子供たちの最も基本的な需要さえ満たせずにいた<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1785216/ Pediatric AIDS in Romania – A Country Faces Its Epidemic and Serves as a Model of Success] Karen Dente, MD, MA, Freelance Medical Journalist and Jamie Hess, MS III, BA. MedGenMed. 2006; 8(2): 11. Published online 2006 Apr 6. {{PMCID|PMC1785216}} {{PMID|16926750}}</ref>。[[1966年]]から[[1967年]]にかけて、ルーマニアの出生数はほぼ2倍に膨らんだが、[[1970年代]]に入ると再び低下した。1990年初頭のルーマニアでは、約100000人の子供たちが、世間から秘匿され、悲惨な状況下にあった孤児院の内部で暮らしており、これは医療における怠慢、無関心、施設の不備の組み合わせでもたらされた<ref name = " DOSAR: Generaţia SIDA - au supravieţuit, dar au stat ascunşi" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stiri-interne/societate/dosar-generatia-sida-au-supravietuit-dar-au-987327.html |title = DOSAR: Generaţia SIDA - au supravieţuit, dar au stat ascunşi |last = |first = |author = Mihai Mincan |authorlink = |coauthors = |date = 24 January 2011 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://archive.ph/LLInl |archive-date = 17 October 2022 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。当時のルーマニアは、出生率と乳児死亡率の両方とも、ヨーロッパで最も高く<ref name = "Ceaușescu, între legendă și adevăr: data nașterii și alegerea numelui de botez" />、[[コンドーム]]の[[密輸]]が増加していた<ref name = "Последний вампир Трансильвании" >{{Cite web |url = https://www.kommersant.ru/doc/534716 |title = Последний вампир Трансильвании |last = |first = |author = КИРИЛЛ БОЛЬШАКОВ |authorlink = |coauthors = |date = 20 December 2004 |website = |work = |publisher = [[Коммерсантъ]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20150713032336/https://www.kommersant.ru/doc/534716 |archive-date = 13 July 2015 |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。 |
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ルーマニア国内におけるエイズ感染の爆発的な蔓延の「材料」は、期限切れの注射器による注射と血液の微量輸血、この2つを中心に構成された<ref name = " DOSAR: Generaţia SIDA - au supravieţuit, dar au stat ascunşi" />。ルーマニアでエイズが蔓延していた事実に対して、チャウシェスクは「資本主義社会特有の現象である」とみなし、イデオロギー上の理由からHIV感染の蔓延の問題を無視していた。1980年代のルーマニアでは、HIV検査は実施されてはいなかった。 |
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内務大臣のアレクサンドル・ドラギーチはチャウシェスクと対立して粛清されたが、チャウシェスクが公布したこの堕胎禁止令に対してドラギーチは支持を表明しており、出生主義を含む他の政策面で、チャウシェスクとドラギーチの意見が一致したこともある<ref>{{Cite web |url = http://hiphi.ubbcluj.ro/modernizarea_ss/Documente_politica_sanitara.pdf |title = DOCUMENTE PRIVIND POLITICA SANITARĂ ÎN ROMÂNIA (1965—1989) |last = |first = |author = Elena Bărbulescu, Mihai Croitor, Alexandru Onojescu |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Editura Mega, Cluj-Napoca, 2010, pp. 10–1. {{ISBN2|978-606-543-103-4}} |publisher = |archive-url = |archive-date = |access-date = 27 October 2022 }}</ref>。 |
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この法律は、[[1989年]][[12月26日]]をもって廃止された。 |
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=== 農村の体系化と運河建設 === |
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[[1972年]]以降、チャウシェスクは都市と農村の地域を「体系化」する事業を開始した。「多国間で発展した社会主義社会を構築する」ための重要な段階として宣伝されたこの事業計画に基づき、農村世帯を大量に除去し、住民を集合住宅に移住させた。農村の解体は、ルーマニアの農村社会の破壊につながった。[[1984年]]、[[ドナウ・黒海運河]](''Canalul Dunăre–Marea Neagră'')が9年の歳月をかけて開通したのち、首都のブクレシュティと[[黒海]]との間で海軍輸送を可能にするため、[[ドナウ・ブカレスト運河]](''Canalul Dunăre-București'')の開通計画が持ち上がった。[[1986年]]にこれの工事が開始されたが、のちの[[1989年]]12月に勃発した革命でチャウシェスク政権が滅びると、この事業は停止となった。ドナウ・ブカレスト運河の建設と、体系化の「事業計画」は、ミハイレシュチュルイ(''Mihăileştiului'')地域の住民を恐怖に陥れた。1989年の末までに、チャウシェスクはこの地域の農村の大部分を一掃しようとしていた。約7000 - 8000の農村集落がルーマニアの地図から消え、残りの集落は取り壊された<ref>{{Cite web |url = http://jurnalul.ro/scinteia/special/sate-ciuntite-dupa-un-plan-trasat-pe-hartie-511551.html |title = Sate "ciuntite" după un plan trasat pe hârtie |last = |first = |author = Anca Alexe, Roxana Vintila |authorlink = |coauthors = |date = 17 June 2009 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20141216040104/http://jurnalul.ro/scinteia/special/sate-ciuntite-dupa-un-plan-trasat-pe-hartie-511551.html |archive-date = 16 December 2014 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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=== イオン・ミハイ・パチェパの離反 === |
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[[1978年]]、[[秘密警察]]・[[セクリターテ]](''Securitate'')の上級諜報員、[[イオン・ミハイ・パチェパ]](''Ion Mihai Pacepa'')が[[アメリカ合衆国]]に政治亡命した。1978年7月、パチェパはチャウシェスクによる指令で[[西ドイツ]]へ向かった。そこでパチェパは、西ドイツの首相、[[ヘルムート・シュミット]](''Helmut Schmidt'')に対して秘密の伝達を送り、西ドイツの首都・[[ボン]](''Bonn'')にあったアメリカ大使館を通じて、アメリカ合衆国への[[政治亡命]]を要請した<ref name = "romaniajournal16Feb2021" />。合衆国大統領の[[ジミー・カーター]](''Jimmy Carter'')は、パチェパによる政治亡命の要請を正式に承認した。チャウシェスクはパチェパの背信に激怒し、[[神経衰弱]]に陥った。チャウシェスクはパチェパに対し、「国家反逆罪」で2件の死刑判決を下し、パチェパの財産の没収を命じ、パチェパの首に200万ドルの懸賞金をかけたことを公布した。チャウシェスクはパチェパを見つけ出して殺すよう指令を出したが、失敗に終わっている。[[1987年]]、パチェパは著書『''Red Horizons: Chronicles of a Communist Spy Chief''』(『赤い地平線:共産諜報長官による記録』、ルーマニア語版題名『''Orizonturi roşii: Cronicile unui spion comunist''』)を出版した。本書は、パチェパがチャウシェスクの側近を務めていたころの様々な出来事を、本人の記憶に基づき、[[英語]]で詳述したもので、チャウシェスク政権がアラブのテロ組織と協力していた話や、アメリカの産業に対する熱心な諜報活動、[[西側諸国]]からの政治的支持を得るための周到な計画を明かしている。この本は27ヶ国で出版された<ref>{{Cite web |url = https://evz.ro/inmormantare-pacepa-arlington.html |title = Unde a fost înmormântat generalul Ion Mihai Pacepa. Ar fi murit de COVID-19. Video |last = |first = |author = Radu Balaj |authorlink = |coauthors = |date = 17 February 2021 |website = |work = |publisher = Evenimentul Zilei |archive-url = https://web.archive.org/web/20210217090715/https://evz.ro/inmormantare-pacepa-arlington.html |archive-date = 21 February 2021 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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パチェパは[[2021年]]に[[COVID-19]]に感染して亡くなった<ref name = "romaniajournal16Feb2021" >{{Cite web |url = https://www.romaniajournal.ro/society-people/romanian-ex-communist-spy-chief-ion-mihai-pacepa-dies-of-coronavirus-at-92/ |title = Romanian Ex-Communist Spy Chief Ion Mihai Pacepa Dies Of Coronavirus At 92 |author = |date = 16 February 2021 |website = |publisher = Romania Journal |archive-url = https://web.archive.org/web/20210216083618/https://www.romaniajournal.ro/society-people/romanian-ex-communist-spy-chief-ion-mihai-pacepa-dies-of-coronavirus-at-92/ |archive-date = 16 February 2021 |access-date = 19 October 2022 }}</ref><ref name = "realitatea15Feb2021" >{{Cite web |url = https://www.realitatea.net/stiri/actual/generalul-ion-mihai-pacepa-ucis-de-coronavirus-in-statele-unite_602a75ad0b8cb53084174892 |title = Generalul Ion Mihai Pacepa a murit de COVID în Statele Unite |author = Andrei Zbîrnea |website = Realitatea.net |archive-url = https://archive.ph/3DvUf |archive-date = 19 October 2022 |date= 15 February 2021 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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=== ルーマニア語とラテン語 === |
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チャウシェスクは、ルーマニアという国家の偉大さの誇示を目的とした科学研究を非常に重視していた。ルーマニア科学協会(''Academia Română'')では、「ルーマニア人こそが古代ローマ人の直系の後継者であり、ルーマニア語は他の現代言語の中で最もラテン語に近い言語である」とする科学理論が盛んに展開された<ref name = "Николае Чаушеску - конкурент Дракулы? " >{{Cite web |url = http://www.pravda.ru/world/europe/easteurope/26-12-2009/1005432-0/ |title = Николае Чаушеску - конкурент Дракулы? |last = |first = |author = Вадим Трухачев |authorlink = |coauthors = |date = 26 December 2009 |website = |work = |publisher = Правда |archive-url = https://web.archive.org/web/20091227072150/http://www.pravda.ru/world/europe/easteurope/26-12-2009/1005432-0/ |archive-date = 27 December 2009 |access-date = 17 October 2022 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://lenta.ru/articles/2009/12/26/chaoshescu/ |title = Зря тронул Трансильванию |last = |first = |author = Николай Анищенко |authorlink = |coauthors = |date = 26 December 2009 |website = |work = |publisher = Лента |archive-url = https://web.archive.org/web/20091229103410/https://lenta.ru/articles/2009/12/26/chaoshescu/ |archive-date = 29 December 2009 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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=== 教会の破壊 === |
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チャウシェスク政権の時代に、[[教会]]や[[修道院]]の建物の取り壊しが実施された。首都・ブクレシュティでは23の教会が解体された<ref>{{Cite web |url = http://www.realitatea.net/megastory-sambata-de-la-21-30-misterul-mastilor-venetiene_836997.html |title = Megastory: Cazul Ţundrea, misterul măştilor veneţiene şi buldozerele de la Sf. Vineri |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 21 May 2011 |website = Realitatea.net |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20110524160146/http://www.realitatea.net/megastory-sambata-de-la-21-30-misterul-mastilor-venetiene_836997.html |archive-date = 24 May 2011 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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教会の解体には、妻・エレナも関わった。[[1987年]][[6月13日]]、エレナはブクレシュティにあった教会『''Biserica „Sfânta Vineri”-Herasca''』(「[[聖金曜日]]・ヘラスカ教会」)を解体するよう命じた。彼女はその際に「''Jos porcăria!''」(「滅びよ!」)と叫んだという。翌7月、教会は取り壊された。のちにこの教会は、建物があった地点から150メートル離れた場所に再建された。ブクレシュティでは、23の教会が共産主義者によって取り壊され、「聖金曜日・ヘラスカ教会」は17番目に破壊された教会であった<ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20151005105147/https://evz.ro/biserica-demolata-de-ceausescu-reconstruita-video-881323.html |title = Biserica demolată de Ceauşescu, reconstruită VIDEO |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 4 January 2010 |website = |work = Evenimentul Zilei |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20151005105147/https://evz.ro/biserica-demolata-de-ceausescu-reconstruita-video-881323.html |archive-date = 5 October 2015 |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。 |
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=== 外国人との会話の制限 === |
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ルーマニア国民と外国人との接触を制限・管理するため、特別な法律が採択された。ルーマニア人が外国人と通話する際には、例外なく報告する義務が生じ<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />、[[1982年]]になると、外国人と通話可能な回数が制限された。これらの措置により、ルーマニア人は外部との接触が困難になり、異議を唱える者に対する抑圧が促進された<ref>Vlad Georgescu- Istoria românilor de la origini până în zilele noastre, Editura Humanitas, Bucureşti, 1992, p. 297</ref>。 |
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== 外交 == |
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[[1968年]]8月、ワルシャワ条約機構加盟国の軍隊が[[チェコ・スロヴァキア]]に軍事侵攻する一週間前、チャウシェスクは[[プラハ]]を訪問し、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記、[[アレクサンデル・ドゥプチェク]](''Alexander Dubček'')に対して支援を申し出た。ソ連がチェコ・スロヴァキアを占領したあとの[[1968年]][[8月21日]]、チャウシェスクはブクレシュティにて演説を行い、ソ連を公然と非難した。「チェコ・スロヴァキアへの侵攻は甚だしい間違いであり、ヨーロッパの平和と社会主義の運命に対する重大な脅威であり、革命運動の歴史において恥ずべき汚点を残した」「兄弟国の内政への軍事介入を許してはならない。それぞれの国において、社会主義をどのようにして構築すべきか、部外者にはそれをとやかく言う権利は無いのだ」<ref name = "Николае Чаушеску: «Перестройка ведет к крушению социализма»" >{{Cite web |url = http://establishment.com.ua/articles/2005/11/8/595/ |title = Николае Чаушеску: «Перестройка ведет к крушению социализма» |last = |first = |author = Николай ЛОЗОВОЙ |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20070714003329/http://establishment.com.ua/articles/2005/11/8/595/ |archive-date = 14 July 2007 |access-date = 17 October 2022 }}</ref> |
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チャウシェスクは、この軍事侵攻へのルーマニア軍の参加を拒否している<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" />。チャウシェスクは、[[1979年]]12月にソ連が[[アフガニスタン]]に軍事侵攻した際にもソ連を非難し、ソ連がルーマニアの領土に軍事基地を置くことを正式に禁じた<ref>{{Cite web |url = http://topics.nytimes.com/topics/reference/timestopics/people/c/nicolae_ceausescu/index.html |title = Times Topics - Nicolae Ceausescu|last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 23 May 2010 |website = |work = |publisher = [[The New York Times]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20100523190517/http://topics.nytimes.com/topics/reference/timestopics/people/c/nicolae_ceausescu/index.html |archive-date = 23 May 2010 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1969年]]に[[ダマンスキー島]]で発生したソ連と中国の武力紛争に対しては、チャウシェスクはどちらも支持せず、中立の立場を取った。ルーマニアは他の社会主義国とは異なり、[[1967年]]6月の[[第三次中東戦争]]後も[[イスラエル]]との外交関係を維持し、[[1973年]]に[[チリ]]で[[アウグスト・ピノチェト]](''Augusto Pinochet'')による軍事クーデターが発生したあとも、チリとの外交関係を維持した。アメリカの議会は「貿易における[[最恵国待遇]]の地位をルーマニアに与えよう」との決定を下した。この決定の論拠となったのは、ルーマニアがイスラエルとの外交関係を中東戦争後も維持した点にあったという<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。 |
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[[1975年]][[4月4日]]から[[4月9日]]にかけて、チャウシェスクは妻・エレナとともに[[日本]]を公式訪問し、[[三木武夫]]や[[昭和天皇]]と会談している<ref name = "The History of the Soviet Bloc 1945–1991" >{{Cite web |url = http://www.coldwar.hu/chronologies/1945-1991/Chronology_1975.html |title = 1975 - The History of the Soviet Bloc 1945–1991 A CHRONOLOGY |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Cold War History Research Center, Budapest |publisher = |archive-url = |archive-date = |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。1975年[[10月9日]]には[[明仁]]と[[美智子]]がルーマニアを訪問し、チャウシェスクは妻・エレナとともに両名を迎え入れている<ref>{{Cite web |url = https://ceausescunicolae.wordpress.com/2021/11/20/ceausescu-made-in-japan-emperor-hirohito-and-princess-nagako-had-meeting-with-president-ceausescu-in-tokyo-japan-on-4-april-1975-crown-prince-akihito-and-crown-princess-michiko-had-meeting-with/ |title = Ceaușescu „Made in Japan”. Emperor Hirohito and Princess Nagako had meeting with President Ceausescu in Tokyo, Japan on 4 April 1975. Crown Prince Akihito and Crown Princess Michiko had meeting with President Ceausescu in Bucharest, Romania on 9 October 1979. |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 20 November 2021 |website = |work = |publisher = |archive-url = |archive-date = |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクは外交政策の一環として、さまざまな国際紛争において、ルーマニアの指導者として調停役を務めることもあった。[[1966年]]、チャウシェスクは、[[北大西洋条約機構]]と[[ワルシャワ条約機構]]を同時に解散させる構想を打ち出したことがある<ref>{{Cite web |url = https://www.kp.ru/daily/23228/27051/ |title = Чаушеску свергло ЦРУ? |last = |first = |author = Максим ЧИЖИКОВ |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Комсомольская правда |archive-url = https://web.archive.org/web/20040414103718/https://www.kp.ru/daily/23228/27051/ |archive-date = 14 April 2004 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。アメリカとソ連の双方に対して、核ミサイルの配備を止めるよう求めたこともある<ref name = "IN RUMANIA, ALL HAIL THE CHIEF, AND DRACULA, TOO" />。[[1969年]]、チャウシェスクは、アメリカと中国の国交樹立の仲介役も果たしている<ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />。 |
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チャウシェスクは、1966年3月18日号の『[[タイム (雑誌)|タイム誌]]』(『''The Time Magazine''』)の表紙を飾っている<ref>{{Cite web |url= https://content.time.com/time/covers/0,16641,19660318,00.html |title = Nicolae Ceausescu Mar. 18, 1966 |date = |website = |work = |publisher = The Time Magazine |archive-url = |archive-date = |access-date = 1 November 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクによる外交で、ルーマニアは[[イスラエル]]と[[パレスチナ]]の双方と良好な関係を維持できた<ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />。[[1977年]]、[[エジプト]]の大統領、[[アンワル・アッ=サーダート]]がイスラエルを訪問した際、チャウシェスクは、イスラエルの指導者との交渉に参加している。 |
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1970年代初頭に[[リビア]]を訪問したチャウシェスクは、[[ムアンマル・アル=カッザーフィー]]と会談し、その際に「あなたは[[クルアーン]]を信じ、私は[[マルクス主義]]を信じている。しかし、私もあなたも、自国の独立を信じている。あなたはアメリカ人を追い出し、私はロシア人を追い出した。あなたは[[イスラーム]]の独立国家を、私はマルクス主義の独立国家を建設する。そのためにも、我々はお互いに協力し合うべきです」と述べた<ref>{{Cite web |url = http://www.intertrend.ru/news/html/54.html |title = Европа / Тайны семейства Чаушеску |last = |first = |author = Григорий Полегаев |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Intertrend |archive-url = https://web.archive.org/web/20091030012735/http://www.intertrend.ru/news/html/54.html |archive-date = 30 October 2009 |access-date = 17 October 2022 }}</ref><ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。 |
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チェウシェスクは外交手段を駆使してソ連からの脱却を図ろうとした。[[1984年ロサンゼルスオリンピック|1984年にロス・アンジェレスで開催されたオリンピック]]に、ルーマニアは正式に参加した。ソ連は衛星国に対してこのオリンピックへの不参加を呼びかけたが、チャウシェスクはこれを無視して選手団をアメリカに派遣した<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。[[東ヨーロッパ]]の共産圏の中で、ルーマニアはこのオリンピックに参加した数少ない国でもあった。のちにチャウシェスクにはオリンピック勲章が授与された。 |
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ルーマニアは、[[欧州共同体]]、[[イスラエル]]、[[西ドイツ]]と国交を結んでいた。[[1974年]]にルーマニアを欧州共同体の優遇国一覧表に加える条約が締結され<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" />、[[1980年]]にはルーマニアと欧州共同体の間で[[工業製品]]の[[貿易]]に関する協定が締結された。これは、[[リチャード・ニクソン]](''Richard Nixon'')と[[ジェラルド・フォード]](''Gerald Ford'')の二人のルーマニアへの公式訪問につながった。 |
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[[西側諸国]]を精力的に訪問したチャウシェスクは、自らを「ソ連の枠組みの中で独立した外交政策を追求する共産主義の改革者」と位置づけ、西側諸国の政治指導者から好感を持たれた。[[1967年]]、ルーマニアはソ連の許可を得ず、西ドイツを国家として承認し、良好な関係を維持した。ルーマニアは両国間の協定により、[[トランシルバニア|トランスィルヴァニア]](''Transylvania'')に住むドイツ人が西ドイツから金銭面での補償を受ける代わりに出国を許可した<ref name = "Румыния при Чаушеску" >{{Cite web |url = http://www.world-history.ru/countries_about/2359.html |title = Румыния при Чаушеску |last = |first = |author = Демьянов Сергей |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Всемирная История |archive-url = https://web.archive.org/web/20120210050736/http://www.world-history.ru/countries_about/2359.html |archive-date = 10 February 2012 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1969年]]8月、リチャード・ニクソンがルーマニアを訪問し、チャウシェスクはニクソンと会談した。ルーマニアは、合衆国大統領が訪問した初めての共産国となった<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。その後、30年近く指名手配を受けていた[[反共主義]]の不正規兵部隊の司令官、{{仮リンク|イオン・ガブリラ・オゴラヌ|ru|Ion Gavrilă Ogoranu}}が、恩赦で釈放された。これは時の国務長官、[[ヘンリー・キッシンジャー]](''Henry Kissinger'')の要請によるものであった<ref>{{Cite web |url = https://www.hotnews.ro/stiri-cultura-11092464-ion-gavrila-ogoranu-cunoscutul-luptator-din-rezistenta-anticomunista-implinit-azi-89-ani.htm |title = Ion Gavrila Ogoranu- luptatorul din Rezistenta care timp de 30 de ani nu a putut fi prins de Securitate |last = |first = |author = Ionut Baias |authorlink = |coauthors = |date = 2 January 2012 |website = |work = |publisher = Hot News |archive-url = https://web.archive.org/web/20120104205708/https://www.hotnews.ro/stiri-cultura-11092464-ion-gavrila-ogoranu-cunoscutul-luptator-din-rezistenta-anticomunista-implinit-azi-89-ani.htm |archive-date = 4 January 2012 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。チャウシェスクと会談したニクソンは、チャウシェスクの印象について、「筋金入りのスターリニストであり、外交の場面でよく見られる陳腐な決まり文句を使わない人だ」と評した<ref name = "Ceauşescu a cerut rachete de la americani" >{{Cite web |url = https://evz.ro/ceausescu-a-cerut-rachete-de-la-americani-838713.html |title = Ceauşescu a cerut rachete de la americani |last = |first = |author = Adam Popescu |date = 6 February 2009 |website = |work = |publisher = Evenimentul Zilei |archive-url = https://web.archive.org/web/20150121034642/https://evz.ro/ceausescu-a-cerut-rachete-de-la-americani-838713.html |archive-date = 21 January 2015 |access-date = 7 November 2022 }}</ref><ref name = "Ceauşescu vedea în Nixon un zarzavagiu" >{{Cite web |url = https://evz.ro/ceausescu-vedea-in-nixon-un-zarzavagiu-857592.html |title = Ceauşescu vedea în Nixon un zarzavagiu |last = |first = |author = Adam Popescu |date = 4 July 2009 |website = |work = |publisher = Evenimentul Zilei |archive-url = https://web.archive.org/web/20150121033135/https://evz.ro/ceausescu-vedea-in-nixon-un-zarzavagiu-857592.html |archive-date = 21 January 2015 |access-date = 7 November 2022 }}</ref>。チャウシェスクは、「自分はニクソンと会談する」という話を、会談の公式発表の36時間前にソ連に通知したという。ニクソンとの会談で、チャウシェスクは「あなたのルーマニア訪問に対し、ソ連の同志たちが少し動揺しているのは確かです」と述べたという。当時のチャウシェスクは「歴史的な分析に基づき、ソ連の覇権はそう長くは続かないだろう」と予測していたという<ref name = "Ceauşescu a cerut rachete de la americani" /><ref name = "Ceauşescu vedea în Nixon un zarzavagiu" />。 |
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[[1985年]][[3月11日]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]](''Михаил Горбачев'')が[[ソ連共産党]]の書記長に選出された。[[1986年]][[4月8日]]、[[トリヤッチ|タリヤーチェ]]を訪問していたゴルバチョフは、「政治的および経済的な変革」を意味する言葉として、「[[ペレストロイカ]]」(''Перестройка'')という単語を初めて使った<ref>{{Cite web |url = https://www.golosameriki.com/a/us-day-in-history-april-8-2011-04-07-119428879/231210.html |title = 8 апреля в истории |last = |first = |author = Ульяна Сапронова |authorlink = |coauthors = |date = 7 April 2011 |website = golosameriki.com |work = |publisher = |archive-url = https://archive.ph/grXcl |archive-date = 18 October 2022 |access-date = 18 October 2022 }}</ref>。のちにゴルバチョフは、「[[グラスノスチ]]」(''Гла́сность'')と呼ばれる改革の実施にも着手した。これは報道における検閲の緩和と、情報の積極的な公開である。チャウシェスクは、ゴルバチョフが打ち出したペレストロイカを批判した<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。それまでも理想的とは言い難い状況にあったルーマニアとソ連の関係は、これによってさらに悪化した。[[1989年]][[8月23日]]、ルーマニアで行われた「ファシスト占領解放45周年記念式典」に出席したチャウシェスクは、「ルーマニアでペレストロイカが行われるよりも、ドナウ川が逆流する可能性のほうが高いだろう」と発言した<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" /><ref name = "Николае Чаушеску: «Перестройка ведет к крушению социализма»" /><ref>{{Cite web |url = https://web.archive.org/web/20201012232917/https://www.bbc.com/russian/international/2014/12/141215_romania_revolution_ceaucescu |title = Как Дунай потек вспять: 25 лет румынской революции |last = |first = |author = Артем Кречетников |authorlink = |coauthors = |date = 16 December 2014 |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20201012232917/https://www.bbc.com/russian/international/2014/12/141215_romania_revolution_ceaucescu |archive-date = 12 October 2020 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1989年]][[12月6日]]、チャウシェスクとゴルバチョフの最後の会談が[[モスクワ]]で行われた。その場に同席していたチャウシェスクの軍事顧問で閣僚評議会第一副議長、{{仮リンク|イオン・ディンカ|ru|Ion Dincă}}によれば、二人の会話には「下品な言葉だけが欠落していた」という。チャウシェスクは「いかなる改革政策も実施しない」と拒否し、それに対してゴルバチョフは「極めて深刻な結果をもたらすだろう」と述べ、チャウシェスクを精神的に追い詰めたという<ref name = "ПОЧЕМУ ПОТОРОПИЛИСЬ РАССТРЕЛЯТЬ НИКОЛАЯ ЧАУШЕСКУ?" >{{Cite web |url = http://planeta.by/article/445 |title = ПОЧЕМУ ПОТОРОПИЛИСЬ РАССТРЕЛЯТЬ НИКОЛАЯ ЧАУШЕСКУ? |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = December 2006 |website = |work = |publisher = Планета |archive-url = https://web.archive.org/web/20150803045510/http://planeta.by/article/445 |archive-date = 3 August 2015 |access-date = 17 October 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクと西側の関係は、[[1980年代]]に著しく悪化した。[[1987年]]以降、チャウシェスクは[[経済相互援助会議]]の加盟国やG7諸国への訪問を拒否され、[[1988年]]には貿易における最恵国待遇からも外された<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。ルーマニアとソ連の同盟関係はもはや決裂状態に陥った。 |
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== チャウシェスク政権下のルーマニア経済 == |
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=== 経済成長 === |
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[[File:Nicolae Ceausescu driving the first Dacia car.jpg|thumb|ダチア車第一号に乗るチャウシェスク([[1968年]][[8月20日]])]] |
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ルーマニアの他国への依存度を下げるため、チャウシェスクはルーマニアを農業国から先進工業国に変えようとした。[[1950年代]]から[[1960年代]]にかけてのルーマニアの工業生産は約40倍に成長した<ref name = "ЖОС ЧАУШЕСКУ! Жизнь и смерть одного диктатора" >{{Cite web |url = http://www.xxl-online.ru/content/zhos-chaushesku-zhizn-i-smert-odnogo-diktatora-1868 |title = ЖОС ЧАУШЕСКУ! Жизнь и смерть одного диктатора |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 8 December 2011 |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20120513033535/http://www.xxl-online.ru/content/zhos-chaushesku-zhizn-i-smert-odnogo-diktatora-1868 |archive-date = 13 May 2012 |access-date = 17 October 2022 }}</ref><ref name = "Румыния при Чаушеску" />。1950年代初頭から、多数の大型機械製造工場や冶金工場が建設され、大型水力発電所も複数建設された。工業化自体は前任者のゲオルギウ=デジの時代から始まってはいたが、それに伴う経済成長は、チャウシェスク治下の初期のころにも続いた。1960年代後半になると、[[計画経済]]の様式を維持しつつ、国内の企業の財政と経済の自律性を認め、従業員の仕事に対する物欲的な意欲を高めるための方策も講じた。[[1970年代]]には、工業化の成功や外国との貿易の増加により、ルーマニアは経済成長を続けた。ルーマニアは、1973年に[[西側諸国]]の資本による合弁会社の設立を許可し、西側の企業がルーマニア国内の市場に参入し始めた<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。[[1970年]]、ブクレシュティの中心部に、ホテル『''Intercontinental''』が建設された。中央ヨーロッパから東ヨーロッパに連なる[[カルパティア山脈]]や[[黒海]]には高級な行楽地が建設され、共産圏の市民には手が届き辛い西洋製の商品が購入可能になり、ルーマニア国民は外国製の自動車を購入する機会を得た。また、1970年代にはピテシュティ(''Pitești'')で自動車「[[ダチア (自動車)|ダチア]]」(''Dacia'')を独自に生産する体制が整った。工業化はその後も成果を上げ続け、[[1974年]]のルーマニアの工業生産量は、[[1944年]]の100倍になっていた<ref name = "ФАКТЫ 15033" >{{Cite web |url = http://fakty.ua/print/15033 |title = Николае Чаушеску впервые услышал о коммунистических идеалах в тюрьме, куда попал за воровство |last = |first = |author = Наталия ТЕРЕХ |authorlink = |coauthors = |date = 30 July 2010 |website = |work = |publisher = ФАКТЫ |archive-url = https://web.archive.org/web/20140227090102/http://fakty.ua/print/15033 |archive-date = 27 February 2014 |access-date = 19 October 2014 }}</ref><ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。1970年代半ばの時点で、国民所得は[[1938年]]の15倍になっていた<ref name = "Реставрация капитализма в Восточной Европе" />。 |
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ルーマニアは石油産油国でもある。石油生産とその精製、石油化学工業が急速に発展し、[[1976年]]のルーマニアの石油生産量は、一日につき、30万[[バレル]]に達した<ref name = "ЖОС ЧАУШЕСКУ! Жизнь и смерть одного диктатора" />。ルーマニアは150を超える国々と貿易関係を築き、1987年の年間貿易額は世界第12位となった。[[1967年]]から[[1987年]]にかけて9.6倍以上に増加したルーマニアの輸出構造は、加工度の高い製品の輸出が中心となった。これは全輸出の62%を占める。「完成品を輸出してこそ利益が出る」とチャウシェスクは考えていた<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />が、西側市場におけるルーマニアの製品は、他国の製品と比べて競争能力は弱かった<ref name = "Николае Чаушеску - конкурент Дракулы? " />。 |
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=== 石油危機と対外債務 === |
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[[1973年]]10月、[[サウジアラビア]]率いる[[アラブ石油輸出国機構]](''The Organization of Arab Petroleum Exporting Countries'')の国々が石油の[[禁輸]]を宣言した。この禁輸措置は、[[第四次中東戦争]]で[[イスラエル]]を支持した国々が対象となった<ref>{{Cite web |url = https://history.state.gov/milestones/1969-1976/oil-embargo |title = Oil Embargo, 1973–1974 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 31 October 2013 |website = |work = |publisher = The United States Department of State |archive-url = https://web.archive.org/web/20140306225604/https://history.state.gov/milestones/1969-1976/oil-embargo |archive-date = 6 March 2014 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。この禁輸措置で、世界各国の政治と経済が影響を受け、ルーマニアも例外ではなかった。石油危機と原油価格の高騰が重なり、ルーマニア経済は低迷することとなった。ルーマニアは年間約1000万 - 1100万トンもの石油を生産していたが、[[1980年代]]初頭のルーマニアは生産量のほぼ2倍の量の石油を処理していた。石油製品の輸出の拡大と、石油化学産業の需要を満たすため、国内で処理される石油の量は急速に増加した。[[1982年]]には2260万トンだったのが、[[1989年]]には3060万トンにまで増加した<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。 |
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急速に経済発展したルーマニアは、自国のエネルギー資源だけでは産業や生産を賄いきれなくなり、外国から石油を輸入するようになった。ルーマニアの石油生産量は、1970年代前半には年平均で10%の伸び率を示していたが、10年後には3%以下にまで下がっていた。ルーマニアが輸出する製品の価格は、西側の製品の3 - 4倍の値段になった。チャウシェスクは別の方法を模索し始めた。ゲオルギウ=デジが実施していた、ルーマニアから出国したい人に向けて許可証を売る手段を思い出したチャウシェスクは、イスラエルへ向かう[[ユダヤ人]]のために許可証を発行し、それに対してイスラエルはルーマニアに[[養鶏場]]を5つ建設し、ユダヤ人を迎え入れるごとにルーマニアにお金を支払っていた<ref name = "Последний вампир Трансильвании" />。当時、ルーマニアに住んでいたドイツ人が西ドイツに向かう場合、西ドイツはドイツ人一人につき、5000[[マルク]]のお金をルーマニアに支払っていた<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。当時、ルーマニア軍の装備品を供給していたのはソ連であった。ルーマニアは、ソ連製の「廃止された」武器の試供品をアメリカに販売し、外貨収入を得られた。かつてアメリカはソ連の「T-72」戦車を購入していた<ref name = "Последний вампир Трансильвании" />。チャウシェスクは、これらの手段で得たお金を対外債務の返済に回した<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。 |
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ルーマニアにおける一人当たりの発電量は、[[スペイン]]や[[イタリア]]のそれよりも多かったが、テレビ放送は1日に2 - 3時間放映されるのみで、集合住宅では15ワットの[[電球]]を1つ設置するだけであり、夜になると国中が暗闇に包まれた。一方、チャウシェスクが住んでいた「人民の館」(''Casa Poporului'')の窓はすべて点灯していた<ref name = "Последний вампир Трансильвании" />。 |
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[[1975年]]、アメリカはルーマニアに対し、貿易における[[最恵国待遇]](''The Most Favored Nation Treatment'')の地位を与えた<ref name = "Румыния при Чаушеску" />。1970年代のルーマニアの経済成長は、最恵国待遇を与えたアメリカの存在や、[[国際復興開発銀行]](''The International Bank for Reconstruction and Development, IBRD'')といった国際金融機関からの信用供与によるところが大きかった。[[1975年]]から[[1987年]]の間に、約220億ドル相当の融資がルーマニアに供与され<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />、そのうちの100億ドルはアメリカからのものであった<ref name = "Николае Чаушеску: «Перестройка ведет к крушению социализма»" />。[[1971年]]、ルーマニアは[[関税および貿易に関する一般協定]](''General Agreement on Tariffs and Trade, GATT'')に正式に加盟した<ref name = "Румыния при Чаушеску" />。この年、ルーマニアの産業発展のために[[国際通貨基金]](''The International Monetary Fund, IMF'')から多額の融資を受け、[[1972]]年には''IMF''と''IBRD''の正式会員となった。ルーマニアは、1990年以前にこれらの機関に加盟した初めての共産国家でもあった<ref>{{Cite web |url = http://www.rri.ro/arh-art.shtml?lang=9&sec=223&art=164392 |title = Румыния и МВФ |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 29 August 2011 |website = |work = |publisher = Radio Romania International |archive-url = https://archive.ph/Qt8N |archive-date = 10 September 2012 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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ルーマニアは、[[イラン]]や[[ペルシア湾]]の国々とも友好関係を結んだ。[[1979年]]まで、チャウシェスクはイランのパフラヴィー皇帝から支援を受けており、ルーマニアはイランから石油を定価で買い取っていた<ref name = "Румыния при Чаушеску" />。しかし、パフラヴィー皇帝は[[イラン革命]]によって失脚し、イスラム原理主義者が権力を掌握した。西側諸国とイランの間で経済関係が断絶し、ペルシア湾では大規模な戦争が続いた。1979年以降、ルーマニアは石油の代金を外貨で支払わねばならなくなった。原油価格は、1979年春の時点では1バレルにつき16ドルだったのが、[[1980年]]の春には40ドルに跳ね上がった。西側諸国の政府は、石油危機以降に開発された節約戦略と、石油に代わるエネルギー源の使用を積極的に模索し始め、1980年以降になると、世界は石油および石油製品の長期にわたる需要の減少期に突入することになった。[[1977年]]以降、ルーマニアは石油輸入国になった。自国の石油精製産業の発展に向けての全体的な戦略は、低価格を維持し、この燃料の需要を伸ばし続けるよう設計された。1980年代の初頭、石油の購入と石油製品の販売に関連する貿易により、ルーマニアは一日につき、90万ドルの損失を被った<ref name = "Румыния при Чаушеску" /><ref name = "ЖОС ЧАУШЕСКУ! Жизнь и смерть одного диктатора" />。 |
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ルーマニアの一部の企業の生産費用は、西側諸国の3 - 4倍にもなっていたが、原油価格が安い限り、これでも問題にはならなかった。しかし、ルーマニア経済は、国の石油埋蔵量の枯渇や世界経済危機に直面した。ルーマニアは対外債務100億ドルを[[1981年]]までに前倒しで返済せねばならなくなり、苦境に立たされることとなった<ref name = "Румынская доля" >{{Cite web |url = http://www.business-magazine.ru/mech_new/experience/pub297453 |title = Румынская доля |last = |first = |author = Сергей Голубицкий |authorlink = |coauthors = |date = 26 February 2008 |website = |work = |publisher = Бизнес Журнал |archive-url = https://web.archive.org/web/20091222222318/http://www.business-magazine.ru/mech_new/experience/pub297453 |archive-date = 22 December 2009 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。ルーマニアは1980年代に対外債務の返済を開始した。債務の支払い期限は1990年代半ばであった<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />。 |
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西側の指導者はチャウシェスクに対し、ルーマニアが[[ワルシャワ条約機構]]と[[経済相互援助会議]]から離脱すれば、ルーマニアを優遇する趣旨を仄めかした。しかし、チャウシェスクはこれを断り、ルーマニアは予定を前倒しして債務と利子を返済する、と宣言した<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" /><ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" >{{Cite web |url = http://www.duel.ru/199603/?3_3_2 |title = ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ |last = |first = |author = Артур БАГИРОВ |authorlink = |coauthors = |date = 1996 |website = |work = |publisher = Дуэль |archive-url = https://web.archive.org/web/20020820023729/http://www.duel.ru/199603/?3_3_2 |archive-date = 20 August 2002 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1983年]]、チャウシェスクは、ルーマニアが対外債務をこれ以上膨らませるのを禁止するため、[[国民投票]]を実施した<ref name = "Николае Чаушеску - конкурент Дракулы? " />。対外債務の返済を確実なものとするため、食料品の[[配給制]]が始まった。配給券が発行され、一人につき、卵5個、小麦粉と砂糖2ポンド、マーガリン半ポンド<ref name = "Конфликтолог" >{{Cite web |url = http://www.conflictologist.org/main/protesty-v-socialisticheskoy-rumynii.htm |title = румынском обществе 1970-1980-х |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 2006 |website = |work = |publisher = Конфликтолог |archive-url = https://web.archive.org/web/20140416112527/http://www.conflictologist.org/main/protesty-v-socialisticheskoy-rumynii.htm |archive-date = 16 April 2014 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>で、肉と[[乳製品]]も配給制となった<ref name = "Румынский диктатор Чаушеску, убитый 21 год назад, мог быть не похоронен" >{{Cite web |url = http://www.newsinfo.ru/articles/2010-07-21/vyoopmui/733853/ |title = Румынский диктатор Чаушеску, убитый 21 год назад, мог быть не похоронен |last = |first = |author = Молчанов Анатолий |authorlink = |coauthors = |date = 21 July 2010 |website = Newsinfo |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20100723005524/http://www.newsinfo.ru/articles/2010-07-21/vyoopmui/733853/ |archive-date = 23 July 2010 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。自動車の所有者はガソリンの販売も制限され、一ヶ月につき30リットルであった。一般家庭で温水が出るのは週に一回だけであった<ref name = "Конфликтолог" />。一日に数回の[[停電]]が発生し、「冬の間は冷蔵庫の使用停止」「洗濯機やその他の家電製品の使用禁止」「エレベーターの使用禁止」、これらの節電が呼びかけられた<ref>Raport al Comisiei prezidenţiale pentru analiza dictaturii comuniste din România, Michael Shafir, Romania. Politics, Economics, and Society. Political Stagnation and Simulated Change,London, Frances Pinter Publishers, 1985, p. 118</ref>。ルーマニア国内のエネルギー消費量は、[[1979年]]と[[1982年]]に20%減少し、[[1983年]]に50%減少し、[[1985年]]にはさらに50%減少した。人々が食べ物を買うために列に並ぶのは、よく見られる光景となった。建物には暖房があっても使用禁止であった。医療は無料ではあるが、薬や設備が慢性的に不足していた<ref name = "Viata lui Nicolae Ceausescu" />。冬季には、冷蔵庫や家電製品の使用は固く禁じられ、住宅では暖房用のガスの使用も禁止された。違反した場合、「経済警察」に摘発され、罰金を科せられるだけでなく、電気やガスも停められた<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。 |
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次男・ニクは、父に対して「お父さん、この国で何が起こっているのかご存じでしょうか?店はいつも客で溢れており、テレビ放送は1日につき2時間、掃除機と冷蔵庫は経済上の理由から使用を禁止されているのですよ」と尋ねた。それに対して父は、「それらは一時的な窮乏であり、国民は対処できるだろう」と答えたという<ref>{{Cite web |url = http://www.segodnya.ua/oldarchive/c2256713004f33f5c2256b4c004b25f6.html |title = ЧАУШЕСКУ БОЯЛСЯ, ЧТО ЕГО ОТРАВЯТ |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 26 January 2002 |website = |work = Сегодня |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20160304131318/http://www.segodnya.ua/oldarchive/c2256713004f33f5c2256b4c004b25f6.html |archive-date = 4 March 2016 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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エネルギーの生産量を増やすため、ルーマニアは[[原子力発電所]]の建設計画を採用した。この計画の一環として、[[ウラン]]の貯蔵所が設立され、[[原子炉]]を備えた5つの発電装置(発電量700メガワット)を持つ、「チェルナーヴォーダ原子力発電所」(''Centrala nucleară de la Cernavodă'')が建設された。[[カナダ]]と[[イタリア]]の協力で、[[1982年]]に建設が開始されたが、[[1986年]]4月に[[チェルノブイリ原子力発電所事故|チェルノーヴィリ原発事故]]が発生すると、建設が一時的に中止となった。チェルナーヴォーダ原子力発電所は、チャウシェスク政権以降もルーマニアで唯一の原子力発電所として稼働し続けている。 |
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現時点での経済政策は正しいのだ、と国民に納得させるための宣伝活動も盛んに実施された。節電の呼びかけや基本的な必需品に対する配給制の導入について、公式の宣伝では「より合理的に分配する試みである」と説明された<ref name = "Режим Чаушеску глазами румынского поэта (весна 1989 г.)" >{{Cite web |url = http://ava.md/projects/history/016353-rezhim-chaushesku-glazami-ruminskogo-poeta-vesna-1989-g.html |title = Режим Чаушеску глазами румынского поэта (весна 1989 г.) |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 21 June 2012 |website = |work = |publisher = AVA.MD |archive-url = https://web.archive.org/web/20120628225017/http://ava.md/projects/history/016353-rezhim-chaushesku-glazami-ruminskogo-poeta-vesna-1989-g.html |archive-date = 28 June 2012 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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一連のルーマニア経済の困難について、チャウシェスクは他の政治家たちに責任転嫁しようとした<ref name = "Режим Чаушеску глазами румынского поэта (весна 1989 г.)" />。[[1980年代]]には、「経済政策の遂行中に間違いを犯した」との理由で、主要な役職に就いていた者たちが次々に解任された。閣僚評議会議長を務めていた{{仮リンク|イリエ・ヴェルデッツ|ro|Ilie Verdeţ}}は、経済危機の解決方法を巡ってチャウシェスクと激しい論争を繰り広げた。ヴェルデッツは、チャウシェスクから「対外経済関係における心得違い」を指摘され、[[1982年]][[5月21日]]に辞任した。その後、ヴェルデッツは国家評議会副議長に任命された<ref>{{Cite web |url = http://62.231.119.106/Materiale/Supliment%20%20-%20In%20memoriam%20ILIE%20VERDET.pdf |title = „Stânga românească nr. 13/martie 2006 - In memoriam Ilie Verdeț”|last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20070928050246/http://62.231.119.106/Materiale/Supliment%20%20-%20In%20memoriam%20ILIE%20VERDET.pdf |archive-date = 28 September 2007 |access-date = 19 October 2022 }}</ref>。 |
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緊縮財政を経て、[[1988年]]のルーマニアは輸出が輸入を50億ドル上回った<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。これは第二次世界大戦終結から初めてのことであった<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />。[[1989年]]4月までに、ルーマニアは対外債務をほぼ完全に返済できた<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />。利息も含めた債務額は210億ドルにも達していた<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。[[1989年]][[4月12日]]、ルーマニア共産党中央委員会本会議総会の場で、チャウシェスクは「ルーマニアは対外債務を完済した」ことを発表した<ref name = "Последний вампир Трансильвании" />。そのうえで、「ルーマニアは、今後一切、外国からの融資を受けない」と宣言した。 |
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しかしながら、一連の緊縮財政の結果や、政治的理由による西側やソ連との協力関係の停止により、ルーマニアは経済的破局の瀬戸際に立たされた。対外債務の完済後も、チャウシェスクが発した命令により、ルーマニア製品の大量輸出は続いたが、国内の消費は減る一方であった。それが止まったのは、チャウシェスク政権滅亡後のことであった。 |
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== 個人崇拝 == |
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[[File:Ceausescu receiving the presidential sceptre 1974.jpg|thumb|ルーマニア大統領に選ばれたチャウシェスクが、シュテファン・ヴォイテクから統治権の象徴である王笏を受け取る([[1974年]][[4月29日]])]] |
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[[File:Personality cult86d.jpg|thumb|党大会で演説するチャウシェスク(1986年)]] |
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[[1971年]]6月、チャウシェスクは中国と北朝鮮を訪問し、[[毛沢東]]や[[金日成]]と会談した。チャウシェスクは彼らの[[個人崇拝]](''Cult of Personality'')に強く影響され、中国や北朝鮮の政治体制を模倣するようになったとみられている<ref name = "Gramatica obscurantismului" >{{Cite web |url = https://moldova.europalibera.org/tismaneanu/2016/7/14 |title = Gramatica obscurantismului |last = |first = |author = Vladimir Tismăneanu |authorlink = |coauthors = |date = 14 July 2016 |website = Radio Europe Liberă |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20220219194419/https://moldova.europalibera.org/tismaneanu/2016/7/14 |archive-date = 19 February 2022 |access-date = 27 September 2022 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.ssoar.info/ssoar/bitstream/handle/document/55935/ssoar-sp-rpsr-2017-3-pintilie-Arta_in_spatiu |title = Artă în spațiul public sau artă pentru sine Ipostaze ale artistului Ion Grigorescu în epoca comunistăși posttotalitară |last = |first = |author = Ileana Pintilie |authorlink = |coauthors = |date = |website = www.ssoar.info |work = Studia Politica: Romanian Political Science Review, 17(3)/2017, p. 399 |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20220219194421/https://www.ssoar.info/ssoar/bitstream/handle/document/55935/ssoar-sp-rpsr-2017-3-pintilie-Arta_in_spatiul_public_sau.pdf |archive-date = 19 February 2022 |access-date = 27 September 2022 }}</ref><ref>{{Cite web |url = http://revistasferapoliticii.ro/sfera/126-127/art03-tanase.html |title = Reprezentarea partidelor politice romanesti in Parlamentul European |last = |first = |author = Stelian Tănase |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Sfera Politicii, nr. 126-127/2007, p. 16|publisher = evistasferapoliticii.ro|archive-url = https://web.archive.org/web/20190806055818/http://revistasferapoliticii.ro/sfera/126-127/art03-tanase.html |archive-date = 6 August 2019 |access-date = 27 September 2022 }}</ref><ref name="serc">Emilia Șercan, ''Cultul secretului. Mecanismele cenzurii în presa comunistă'', p. 95. Bucharest: Editura Polirom, 2016, ISBN 978-973-465-3386</ref>。[[1971年]][[7月6日]]のルーマニア共産党中央委員会政治局本会議総会の場で、チャウシェスクは「''Tezele din iulie''」(「七月の主張」)と呼ばれる[[演説]]を行った。基本的な内容は、社会における党の影響力のさらなる強化、学校や大学、児童・青年・学生団体における政治・思想教育の強化、政治宣伝の拡大、党の研究と大衆的政治活動の改善、「愛国活動」の一環として主要建設事業への若者の参加の促進、これらに向けて、ラジオ、テレビ放送、出版社、劇場、オペラ、バレエ、芸術組合の活動の指針を決める、というものであった。チャウシェスクが書記長に就任したころの自由主義的な政策は終わりを告げ、[[検閲]]が復活した。ルーマニアの報道機関は北朝鮮の政治体制に触発され、チャウシェスクを賛美する政治的運動を展開し、これがチャウシェスクに対する[[個人崇拝]]の始まりとなった。[[金日成]]の[[チュチェ思想]]に関する話はルーマニア語に翻訳され、国内で広く配布された。また、チャウシェスクは、国家保安局(''Departamentul Securității Statului'')、「[[セクリターテ]]」の権限を大幅に拡大させた。 |
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1970年代初頭から、ニコラエ・チャウシェスクに対する個人崇拝が始まった。このころから、チャウシェスクは「祖国の父」(''Tatăl Patriei'')という呼び名を党内で徐々に築き上げていった。この指導者像は、ルーマニア共産党が公式に支持する「新たな歴史的概念」の一部を構成するもので、チャウシェスク自身はこの過程には干渉しなかった。[[1974年]]以降になると、彼は歴史上の著名な人物と自分を比較するようになった<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" />。チャウシェスクに対する個人崇拝は組織的に展開され、[[ヨシフ・スターリン]](''Иосиф Сталин'')、[[毛沢東]]、[[ヨシップ・ブロズ・チトー|ヨシップ・ブロズ・ティトー]](''Јосип Броз Тито'')に対する個人崇拝の水準に比肩するか、あるいはそれらを凌駕するほどにまで強まり、当時のルーマニア人からは密かに「マオ=チェスク」(''Mao-Cescu'')と呼ばれたこともあった<ref name = "THE CULT OF CEAUSESCU" >{{Cite web |url = http://www.nytimes.com/1986/11/30/magazine/the-cult-of-ceausescu.html?pagewanted=1 |title = THE CULT OF CEAUSESCU |last = |first = |author = DAVID BINDER |authorlink = |coauthors = |date = 30 November 1986 |website = |work = |publisher = [[The New York Times]] |archive-url = https://archive.ph/Wcou2 |archive-date = 12 July 2013 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>。チャウシェスクの訪問先の国々では、連合王国の[[エリザベス二世]](''Queen Elizabeth II'')に対するが如く、盛大な閲兵式が開催されるようになった<ref name = "Nicolae Ceausescu: a profile of the former communist dictator " >{{Cite web |url = http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/romania/7903325/Nicolae-Ceausescu-a-profile-of-the-former-communist-dictator.html |title = Nicolae Ceausescu: a profile of the former communist dictator |last = |first = |author = Andrew Hough |authorlink = |coauthors = |date = 22 July 2010 |website = |work = |publisher = [[The Daily Telegraph]] |archive-url = https://web.archive.org/web/20100724081016/http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/europe/romania/7903325/Nicolae-Ceausescu-a-profile-of-the-former-communist-dictator.html |archive-date = 24 July 2010 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>。ルーマニア国内ではチャウシェスクの比較的若いころの肖像画が各地に設置されるようになった。国内のどの書店でも、チャウシェスクに関する本(全28巻の演説集)が山積みになっており、ルーマニアの日刊紙はチャウシェスクの業績の記録に専念し、夕方のテレビ放送はチャウシェスクの日々の日程や活動を伝え<ref name = "IN RUMANIA, ALL HAIL THE CHIEF, AND DRACULA, TOO" >{{Cite web |url = http://www.nytimes.com/1983/12/24/world/in-rumania-all-hail-the-chief-and-dracula-too.html |title = IN RUMANIA, ALL HAIL THE CHIEF, AND DRACULA, TOO |last = |first = |author = JOHN KIFNER |authorlink = |coauthors = |date = 24 December 1983 |website = |work = |publisher = [[The New York Times]] |archive-url = https://archive.ph/CZuhj |archive-date = 11 July 2013 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>、新聞販売店や楽器店ではチャウシェスクによる演説を録音したものが販売され、画家や詩人はチャウシェスクを称える作品を創らねばならなかった<ref name = "THE CULT OF CEAUSESCU" />。チャウシェスクは{{仮リンク|シュテファン・ヴォイテク|en|Ștefan Voitec}}から[[王笏]]を手渡され、大国民議会の開会式に登場する際にはこれを手に持った状態で現われた。 |
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チャウシェスク政権の頃には、作家、詩人、歌手、作曲家、映画監督、画家に公費を払っていた。画家たちは、チャウシェスクとその家族の肖像画を毎日大量に描いていた。チャウシェスクは、自身の誕生日に一般の人々からの無償の愛を描いた絵画を贈られるのを気に入っていた。チャウシェスクの時代に描かれた絵画は、ブクレシュティにある国立近代美術館に展示されているが、チャウシェスクへの敬意を示すわけではないことを表すため、美術館の管理者の決定に基づき、これらの絵画は斜めに傾き、逆さまに吊るされている<ref name = "Чаушеску -- мертвый король красного китча (Фото)" >{{Cite web |url = http://charter97.org/ru/news/2009/9/14/21946/ |title = Чаушеску -- мертвый король красного китча (Фото) |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 14 September 2009 |website = Хартия'97 |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20090915142314/http://charter97.org/ru/news/2009/9/14/21946/ |archive-date = 15 September 2009 |access-date = 2022-10-20}}</ref>。 |
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チャウシェスクは、常に「偉大なる指導者」として描かれた。「カルパティアの天才」「理性に満ちたるドナウ」「我らが光の源」<ref name = "Николае Чаушеску - конкурент Дракулы? " />、「これまでに見たことがない、新たな時代の創造者」<ref name = "Король, королева и принц: таким был режим Чаушеску, рухнувший 30 лет назад" >{{Cite web |url = https://detaly.co.il/korol-koroleva-i-prints-30-letiyu-padeniya-rezhima-chaushesku-posvyashhaetsya/ |title = Король, королева и принц: таким был режим Чаушеску, рухнувший 30 лет назад |last = |first = |author = Йотам Яркони |authorlink = |coauthors = |date = 22 November 2019 |website = |work = |publisher = Детали |archive-url = https://web.archive.org/web/20200928021034/https://detaly.co.il/korol-koroleva-i-prints-30-letiyu-padeniya-rezhima-chaushesku-posvyashhaetsya/ |archive-date = 28 September 2020 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>、「英雄の中の英雄」「労働者の中の労働者」「この地上に初めて出現した有力者」<ref name = "IN RUMANIA, ALL HAIL THE CHIEF, AND DRACULA, TOO" />といった賛美の言葉で彩られていた。 |
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夫・ニコラエとともに、妻・エレナも個人崇拝の対象となった。エレナには「無限に続く大空に隣り合って瞬ける星の如く、彼女は偉大なる夫の傍らで光り輝き、ルーマニアの勝利への道筋を見つめるのです」との賛美が捧げられ、「''Mama Neamului''」(「国民の母」)なる称号で呼ばれ、「党の光明」「女傑」「文化と科学を導く光」とも呼ばれた<ref name = "Чаушеску -- мертвый король красного китча (Фото)" />。 |
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[[1983年]]12月、第一次世界大戦後のルーマニア統一65周年記念集会が開催された。しかし、他の多くの行事と同じく、実際にはニコラエ・チャウシェスクを祝賀するための行事であった。会場の正面には「ニコラエ・チャウシェスク書記長同志率いるルーマニア共産党万歳!」と書かれた横断幕が張られ、[[フォーク・ダンス]]や[[バレエ]]の上演も行われた。西側のある外交官は、チャウシェスクについて「東ヨーロッパにおいて最も独裁的且つ権威主義的な支配者」と表現したうえで「これは個人崇拝である」と呼んだ<ref name = "IN RUMANIA, ALL HAIL THE CHIEF, AND DRACULA, TOO" />。 |
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多くの証言によれば、チャウシェスク自身、ルーマニア国民からの人望や強い支持を最後まで信じていたという<ref>{{Cite web |url = http://echo.msk.ru/blog/ablindul/883343-echo/ |title = Путин и Первомай или урок от Чаушеску |last = |first = |author = АЛЕКСЕЙ БЛИНДУЛ |authorlink = |coauthors = |date = 29 April 2012 |website = Радиостанция «Эхо Москвы» |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20160313214815/http://echo.msk.ru/blog/ablindul/883343-echo/ |archive-date = 13 March 2016 |access-date = 0 October 2022 }}</ref>。しかし、ルーマニアの経済危機が深刻化するにつれて、チャウシェスクに対する不信感が募り、ルーマニア社会では緊張感が高まりつつあった<ref name = "Конфликтолог" />。 |
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== 政権への抗議 == |
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[[File:Lupeni 1977.jpg|thumb|ルペニを訪問するチャウシェスク(1977年11月)]] |
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[[1977年]][[6月30日]]、法令第三号(''Legea nr. 3'')が制定された。この法律では、鉱山労働者の定年が引き上げられ、障害者年金が廃止された<ref name = "Конфликтолог" />。トランスィルヴァニアの南西部、ジウルイ渓谷(''Valea Jiului'')にあるルペニ(''Lupeni'')で働く90000人の鉱山労働者のうち、35000人が[[1977年]][[8月1日]]の深夜に操業停止を決定し、労働争議を展開した。もともと安い給料であったことに加え、労働時間がさらに延長され、3月からは残業代は支払われず、休日問わず働くよう義務付けられ、「生産目標を達成できなければ給料から天引き」とされた。労働者たちの貧しい生活環境や、彼らの苦境に対して経営陣がまるで無関心であったことも手伝った。労働者たちは労働時間の短縮や労働環境の改善を要求した。[[8月2日]]、労働者たちは、ブクレシュティからやって来た党の代表団を捕らえ、チャウシェスクを連れてくるよう要求した。[[8月3日]]に現場に到着したチャウシェスクは労働者たちの怒りを鎮めようとしたが、何千人もの群衆はチャウシェスクの言い分には耳を傾けず、強い抗議で答えた<ref name = "Румыния при Чаушеску" />。群衆の中からは「''Lupeni '29!''」との叫び声の唱和も起こったが、これは[[1929年]]8月にも同地で発生した労働争議について言及している。この労働争議の主導者であるコンスタンティン・ドブレ(''Constantin Dobre'')は、チャウシェスクの目の前で、労働日程、就業規則、年金、物資の供給、住居、投資に関する要求を読み上げた。チャウシェスクは鉱山労働者たちの労働条件と生活状況の改善を約束し、現場から去っていった。1977年[[12月31日]]まで、就労障害年金受給者は給料と年金の両方を受け取れるよう決定され、労働時間を8時間から6時間に短縮し、供給を改善するという約束は履行されたが、他の要求に関しては受け入れられなかった。この労働争議に参加した労働者たちの一部は、のちにセクリターテから殴る蹴るの暴行を受けたり、懲役刑を宣告されたりした。また、およそ4000人の労働者が解雇されたという<ref name = "Румыния при Чаушеску" />。懲役刑が終わった者たちの多くは治安当局の厳格な監視下に置かれ、何年にもわたって嫌がらせを受けた。 |
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[[1981年]]、鉱山労働者たちが再び蜂起し、[[1982年]]には[[マラムレシュ]](''Maramureș'')で暴動が発生した。[[1986年]]から[[1987年]]にかけては、クルージ(''Cluj'')の重工業、冷蔵庫工場で、1987年には[[ヤシ|ヤーシ]](''Iași'')にある自動車工場、ルーマニア国内の産業の中心地で、大規模な労働争議が続発した。[[1987年]][[11月15日]]、並ぶのに疲れ、慢性的な食糧不足に悩まされていた工業都市、[[ブラショヴ]](''Brașov'')の労働者たちは、給料削減に加えて大規模な人員削減が行われることを知り、市内の中心部に移動した。当初、彼らは「我々は食料と暖房を要求する!」「我々は金を要求する!」「我々の子供たちに食料が要る!」「我々には灯りと暖房が要る!」「配給券無しでパンを買えるようにせよ!」と唱和していた<ref>Ruxandra Cesereanu: „Decembrie '89. Deconstrucţia unei revoluţii”, Ediţia a II-a revăzută şi adăugită (Editura Polirom, Iaşi, 2009), p.25, 26, 31, 32, 34, 38, 39, 40</ref>。ブラショヴの市長(ブラショヴ郡党委員会の書記でもある)が姿を現わし、「あと一カ月もすれば、諸君らは諸君らの子供たちと一緒に[[藁]]を喜んで食べるようになるだろう」と言った<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。抗議者たちは市長を殴り、党委員会の建物や市庁舎に闖入した。そこにはさまざまな種類の食べ物でいっぱいの宴席があった<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。群衆は「この泥棒め!」「チャウシェスクを倒せ!」「共産党を叩き潰せ!」と唱和し、[[1848年]]の国歌『''Deşteaptă-te, române!''』(『目覚めよ、ルーマニア人!』)を歌った<ref name = "Конфликтолог" />。労働者たちは、建物内の壁からチャウシェスクの肖像画を引き剥がし、これを建物の前の広場で燃やした<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。この暴動は治安部隊と軍隊に鎮圧されたが、死者が出たという報告は無い。逮捕された者たちは殴る蹴るの暴行を受け、裁判では有罪判決を受け、国内の別の場所に強制送還され、その後も治安当局の監視下に置かれた。 |
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[[1989年]][[3月10日]]、{{仮リンク|ゲオルゲ・アポストル|ro|Gheorghe Apostol}}が起草し、{{仮リンク|アレクサンドル・ブーラダーノ|en|Alexandru Bârlădeanu}}、{{仮リンク|コルネリウ・マネスク|ro|Corneliu Mănescu}}、{{仮リンク|グリゴーレ・イオン・ラチャーノ|ro|Grigore Ion Răceanu}}、{{仮リンク|コンスタンティン・プルヴォレスク|ro|Constantin Pârvulescu}}、{{仮リンク|スィルヴィオ・ブルカン|en|Silviu Brucan}}が署名した文書が発表された。これはチャウシェスクによる一連の政策を非難する内容であった<ref name = "Румынская революция 1989 года. Часть 1" >{{Cite web |url = http://www.world-history.ru/countries_about/2360.html |title = Румынская революция 1989 года. Часть 1 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Всемирная История |archive-url = https://web.archive.org/web/20120418225502/http://www.world-history.ru/countries_about/2360.html |archive-date = 18 April 2012 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>。この書簡は「''Scrisoarea celor şase''」(「六人による手紙」)と呼ばれ、[[1989年]][[3月11日]]に[[BBCテレビ]]と[[ラジオ・フリー・ヨーロッパ]](''Radio Free Europe'')でも取り上げられ、放送された。1989年[[3月13日]]、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議の場でこの書簡が議題に上がった。チャウシェスクは、ルーマニア国民が外国人との関係を維持できる条件をより厳格にするよう決定したうえで、これに署名した者たちを「国家に対する裏切り者」と認定した。ゲオルゲ・アポストルをはじめ、書簡の作者たちは逮捕され、尋問され、自宅軟禁下に置かれた。 |
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ルーマニア生まれの歴史学者、{{仮リンク|ヴラディミール・ティスマナーノ|en|Vladimir Tismăneanu}}によれば、この書簡はルーマニア国民に幅広く支持されたわけではないが、チャウシェスク政権の抑圧体制の暴露とその崩壊につながった、という<ref>Tismăneanu, Stalinism pentru eternitate, p.263</ref>。また、ティスマナーノは「『六人による手紙』は、反全体主義の宣誓書というわけではなく、チャウシェスクの独裁の濫用に対する党の旧親衛隊による反乱の叫びであった。これは遅きに失した反乱であり、イデオロギーに関連するものに限定され、政治との関連は無かった」と書いた。署名者の1人であるスィルヴィオ・ブルカンについて、「彼はチャウシェスクを公に批判することは無かった。ブラショヴで蜂起が起こるまで、ブルカンはこれを遵守した。その後も党の指導的役割に対して反対の姿勢は見せなかった。彼はチャウシェスクの個人崇拝の行き過ぎと、『レーニン主義の規範』からの逸脱が見られた時にだけ、異議を唱えた」「決して反体制派というわけではなく、ルーマニア共産党内では派閥主義者に過ぎなかった。彼は自由民主主義を信じてはいなかったし、[[多元主義]]を大切にする人物でもなかった」と書いた<ref>{{Cite web |url = https://www.contributors.ro/cine-a-fost-silviu-brucan-marele-maestru-al-mistificarilor/ |title = Cine a fost Silviu Brucan? Marele maestru al mistificarilor |last = |first = |author = Vladimir Tismăneanu |authorlink = |coauthors = |date = 19 April 2013 |website = |work = |publisher = Contributors |archive-url = https://web.archive.org/web/20201022184609/https://www.contributors.ro/cine-a-fost-silviu-brucan-marele-maestru-al-mistificarilor/ |archive-date = 22 October 2020 |access-date = 20 October 2022 }}</ref>。 |
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== ルーマニア共産党14回党大会 == |
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[[1989年]]10月ごろから、チャウシェスクによる権力の濫用について書かれた内容の書簡が国中に出回るようになっていた。学者、作家、共産党の幹部が署名しており、その中には、のちの[[救国戦線評議会]](''Consiliului Frontului Salvării Naţionale'')の議長を務めることになる[[イオン・イリエスク]](''Ion Iliescu'')の名前もあった<ref name = "Конфликтолог2" />。それには、「11月に開催される第14回党大会で、チャウシェスクを再選させてはならない」「この狂人夫婦に抗議の声を上げよ」との趣旨が書かれていた。[[1989年]][[11月20日]]から[[11月24日]]にかけて、ルーマニア共産党第14回党大会が開催され、チャウシェスクが共産党書記長を含めたすべての役職に再選された。会場にいた者たちは、チャウシェスクに対してその場で総立ちして一斉に拍手喝采を送った<ref name = "Конфликтолог2" >{{Cite web |url = http://www.conflictologist.org/main/rumynskaya-revolucija-1989-rasstrel-chaushesku.htm |title = Румынская революция |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Конфликтолог |archive-url = https://web.archive.org/web/20140416043057/http://www.conflictologist.org/main/rumynskaya-revolucija-1989-rasstrel-chaushesku.htm |archive-date = 16 April 2014 |access-date = 22 October 2022 }}</ref>。また、チャウシェスクはこの第14回党大会の場で、[[ミハイル・ゴルバチョフ]](''Михаил Горбачев'')が推進する[[ペレストロイカ]](''Перестройка'')について、「社会主義を崩壊させ、ひいては共産党の崩壊につながる」と公然と批判した<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。これ以降、ソ連はチャウシェスクのことを「独裁者」「スターリニスト」と呼び始めるようになった。さらに、[[1988年]]以降、アメリカとイギリスの報道機関が「チャウシェスクの存在は、西側にとってもゴルバチョフにとっても問題になりつつある」「ルーマニアが『ペレストロイカ』に反対するすべての社会主義国を結集させる可能性がある」と報じるようになった<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。チャウシェスクは、ペレストロイカに賛同しない国々(アルバニア、キューバ、ヴェトナム、中国、北朝鮮)による経済共同体を創設する計画を打ち出した。[[1988年]]10月、チャウシェスクはモスクワでゴルバチョフと会談し、その会談で「ルーマニアは、社会主義の段階的な撤廃を意味する『ペレストロイカ』を拒否した」と報道された<ref name = "ЗА ЧТО УБИЛИ НИКОЛАЕ ЧАУШЕСКУ" />。 |
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チャウシェスクは、[[1989年]]の秋から冬にかけて、世界各地からの代表団に会い、取材に応じた。この間にルーマニア国内のさまざまな企業を訪問し、そのたびに称号を授与された。生産担当班から話を聞き、チャウシェスクは国内の情勢について多くのことを知っていたという<ref name = "Конфликтолог2" />。 |
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== 1989年12月 == |
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=== ティミショアラ === |
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==== 12月15日 - 12月17日 ==== |
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[[File:1989 December 16. sugárút és a Tudor Vladimirescu út kereszteződése. Fortepan 31892.jpg|thumb|1989年12月16日、ティミショアラでの抗議運動の様子]] |
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[[File:Romania, Transylvania, Timisoara Fortepan 31879.jpg|thumb|ティミショアラで逮捕された者たち]] |
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[[File:Román Nemzeti Színház és Operaház, T-55 harckocsi. Romániai forradalom. Fortepan 31905.jpg|thumb|ティミショアラにある劇場前に現われた戦車]] |
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[[1989年]][[12月15日]]、ルーマニア政府は、[[ティミショアラ]](''Timișoara'')に住む[[ハンガリー人]]の[[牧師]]、{{仮リンク|トゥーケーシュ・ラースロー|hu|Tőkés László}}に対して[[教区]]から立ち退くよう命じた。[[12月16日]]、ハンガリー人の[[改革派教会]]の教区民が教会の前に集結し、トゥーケーシュへの立ち退き命令に対する抗議運動を開始した。共産党当局に忠実なトランスィルヴァニアの[[司教]]により、トゥーケーシュは、自分が住んでいた住宅に住む権利を剥奪され、別の場所への追放を命ぜられた。16日の日中までに、教会の前に[[プロテスタント]]の信者の集団ができあがり、ティミショアラでは通行人がこの集団に加わり、群衆は徐々に規模を増していった。ティミショアラの市長、ペトレ・モーツ(''Petre Moț'')がトゥーケーシュの立ち退き命令に反対する旨を文書で確認するのを拒否すると、群衆は反共主義の標語を唱和し始めた。聖マリア広場では[[路面電車]]が止められ、{{仮リンク|イオン・モノラン|ro|Ion Monoran}}、ダニエル・ザガネスク(''Daniel Zăgănescu'')、{{仮リンク|ボールビー・ラースロー|hu|Borbély László (politikus)}}らが、反共産党を訴える演説を行った。ダニエル・ザガネスクは路面電車に乗り、「''Ma numesc Daniel Zăgănescu si nu mi-e frica de Securitate. Jos Ceausescu!''」(「私はダニエル・ザガネスクと申します。私はセクリターテなぞ恐れてはいない。チャウシェスクを倒すのだ!」)と叫んだ<ref name = "Pentru timisoreni, ziua de 16 decembrie a fost trecerea de la o nemultumire, la o adevarata revolta ce avea sa declanseze Revolutia din 1989." >{{Cite web |url = https://stirileprotv.ro/stiri/timis/16-decembrie-89-prima-zi-in-care-oamenii-decid-sa-si-castige-libertatea-chiar-cu-propriul-sange.html |title = Pentru timisoreni, ziua de 16 decembrie a fost trecerea de la o nemultumire, la o adevarata revolta ce avea sa declanseze Revolutia din 1989. |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 30 October 2012 |website = |work = [[Pro TV]] |publisher = |archive-url = https://archive.ph/NVTsr |archive-date = 26 October 2022 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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トゥーケーシュへの立ち退き命令に抗議する意味で、[[蝋燭]]を灯した人々が現われ、抗議は拡大を続けた。午後9時、セクリターテの長官、{{仮リンク|ユリアン・ヴラード|ru|Iulian Vlad}}はこの反乱を鎮圧するため、上級作戦部隊をティミショアラに派遣した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" >{{Cite web |url = https://www.digi24.ro/special/campanii-digi24/1989-anul-care-a-schimbat-lumea/30-de-ani-de-la-revolutia-din-1989-ce-s-a-intamplat-intre-16-si-22-decembrie-1989-in-romania-1235382?__grsc=cookieIsUndef0&__grts=52566867&__grua=acff52a1652901ae7e446fb41b9189b7&__grrn=1 |title = 30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România |last = |first = |author = Elena Tănase |authorlink = |coauthors = |date = 22 December 2019 |website = |work = Digi24 |publisher = |archive-url = https://archive.ph/GpuaF |archive-date = 26 October 2022 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。抗議者たちは[[ティミショアラ正教大聖堂]](''Catedrala Mitropolitană din Timişoara'')の周辺を移動し、市内を行進し、治安部隊と再び対峙した。午後9時から午後11時30分にかけて、民兵、警備員、消防士、国境警備隊で構成された部隊が180人を逮捕した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。 |
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[[12月17日]]午前9時、陸軍参謀本部の工作員の集団が市内に到着した。トゥーケーシュ・ラースローは、妻とともに夜中のうちに強制退去させられていた。午前11時、ティミショアラでの抗議運動の参加者は、いつしか数千人にまで膨れ上がっていた。中心部にある本屋の窓ガラスが割られ、チャウシェスクを賛美する本は酷く損壊していた。国防大臣で将軍の[[ワシーリ・ミリャ|ヴァスィーレ・ミーラ]](''Vasile Milea'')は、ティミショアラ市内にあるルーマニア共産党本部の建物を、400人の兵士で守るよう命令を出した。午後1時30分、ミーラは「ティミショアラの状況は悪化の一途を辿っています。軍による介入命令をお願い致します。軍は戦闘状態に突入します。ティミショアラ郡にて非常事態が進行中です」と報告した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。軍隊に対して命令を出せるのは、法的にはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2回、ヴァスィーレ・ミーラに少なくとも6回電話し、ティミショアラでの暴動を腕ずくで迅速に鎮圧するよう指令を出した<ref name = "Diversiune si represiune. timisoara, 16-17 decembrie 1989" />。午後1時45分、ティミショアラの通りに[[戦車]]が現われた。午後4時頃、抗議者たちは郡の党委員会の建物に闖入し、党の文書、宣伝用の小冊子、チャウシェスクの著書、共産党の権力の象徴であるこれらを窓から次々に投げ捨てた。彼らは建物に火を付けようとしたが、これは軍の部隊に阻止された。午後4時30分、チャウシェスクは、首都・ブクレシュティにてルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、ティミショアラでの出来事について、国防大臣たちと議論を始めた。チャウシェスクは、反乱の鎮圧を躊躇した{{仮リンク|トゥドール・ポステルニク|ru|Tudor Postelnicu}}、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難した<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" />。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラに対し、「ミーラよ、あなたの部下は何をしていたのか。なぜすぐに介入しなかった?なぜ撃たなかった?部下に足元を撃たれてもおかしくないはずだ」と質問した。ミーラは「私はいかなる種類の弾薬も与えませんでした」と答えた。チャウシェスクは、治安部隊に対して発砲命令を出さなかったユリアン・ヴラードに対し、怒りを込めて応酬した。「あなたのやったことは、国家の利益、人民の利益、社会主義の利益に対する裏切りだ。責任ある行動を取らなかったのだ」「あなたにいかなる処罰を与えるべきか、分かるか?銃殺刑だ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、敵と手を結んだも同然の行為だからだ!」<ref name = "Diversiune si represiune. timisoara, 16-17 decembrie 1989" >{{Cite web |url = https://www.qreferat.com/referate/istorie/DIVERSIUNE-SI-REPRESIUNE-TIMIS237.php |title = Diversiune si represiune. timisoara, 16-17 decembrie 1989 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = Qreferat |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20210805200629/https://www.qreferat.com/referate/istorie/DIVERSIUNE-SI-REPRESIUNE-TIMIS237.php |archive-date = 5 August 2021 |access-date = 26 October 2022 }}</ref> |
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ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議者を撃てとの指令を受けたが、ミーラはこれを陸軍部隊に伝令するのを拒否した。ミーラは「軍規を確認しましたが、人民軍は人民を撃ち殺せ、との記述がある項目はどこにも見当たりませんでした」と発言した<ref name = "Diversiune si represiune. timisoara, 16-17 decembrie 1989" /><ref name = "ЧАУШЕСКУ И “ЗОЛОТАЯ ЭРА” РУМЫНИИ : 6. “Антихрист был убит в Рождество”" >{{Cite web |url = http://www.allk.ru/book/415/4360.html |title = “ЗОЛОТАЯ ЭРА” РУМЫНИИ : 6. “Антихрист был убит в Рождество” |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date =25 July 2008 |website = Allk |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20081225072658/http://www.allk.ru/book/415/4360.html |archive-date = 25 December 2008 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクは、反逆者を撃つよう命じた。この命令を出したチャウシェスクに対し、国防大臣、内務大臣、セクリターテの長官は初めて反対を表明した。チャウシェスクは、自分に対する彼らの忠誠と服従を疑い、3人に対して「役職を解任する」と発言したが、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対し、彼ら3人への支持を表明した。チャウシェスクは怒りを露わにし、「ならば私は書記長を辞任する。別の人物を書記長に選出するが良い!」と言い、会議室から出て行った。{{仮リンク|エミール・ボブ|ru|Emil Bobu}}とコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとを追いかけ、部屋に戻るよう懇願した<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" />。数分後、チャウシェスクは会議室に戻り、会議を続けた。チャウシェスクは、ティミショアラの党代表と緊急の電話会議を実施し、民間人に対する発砲命令を出した<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。チャウシェスクは将軍の[[イオン・コーマン]](''Ion Coman'')を司令官に任命し<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" >{{Cite web |url = https://www.mediafax.ro/main-story/focus-18-ani-de-la-revolutie.html?5226;2307930 |title = FOCUS: 18 ani de la revoluţie |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 16 December 2007 |website = |work = Mediafax |publisher = |archive-url = https://archive.ph/Jujse |archive-date = 9 September 2013 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>、12月17日午後3時30分、国防省と内務省の将官の代表団がティミショアラに派遣された。午後6時、ジロクルイ(''Girocului'')にて、[[参謀総長]]の[[ステファン・グシェ|シュテファン・グーシャ]](''Ştefan Guşă'')の命令により、道を塞がれた戦車を回収する名目で、抗議者に対して発砲が始まった。午後6時45分ごろ、ティミショアラの部隊は、信号「''Radu cel Frumos''」を受けた。これは「軍隊に戦争弾薬を装備させ、戦闘態勢に切り替えよ」との指令であった<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。ティミショアラでは、国防省の部隊による発砲がついに開始され、数時間で300人を超える人々が撃たれた。 |
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トゥーケーシュ・ラースローは、1989年7月にハンガリーのテレビ局の取材訪問で「ルーマニア人は自分たちの人権さえも知らないのだ」と発言していた。[[2008年]]にトゥーケーシュが語ったところでは「これは、独裁者であるチャウシェスクを支持する必要は無いのだ、ということを伝えるものでした。チャウシェスクの仮面を剥ぎ取るためにどうしても必要だったのです」という<ref>Der Grenzer am Eisernen Vorhang. Part 4. A film by Sylvia Nagel. LE Vision GmbH. Mitteldeutsche Rundfunk (MDT), 2008. Broadcast by [[YLE]] Teema, 3 January 2012.</ref>。 |
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1989年[[12月22日]]、トゥーケーシュ・ラースローは[[救国戦線評議会]]の委員の1人に任命された。 |
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==== 12月18日 ==== |
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12月18日午前5時30分、ティミショアラの部隊の司令官、イオン・コーマンは、現地の状況について「取り締まりの最中にあります」とブクレシュティに報告した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。この24時間で、ティミショアラでは66人が死亡し、300人近くが負傷した。この日、チャウシェスクは[[イラン]]を訪問する予定があった。午前8時、チャウシェスクは「イランへの訪問を取り消す必要は無い」と判断し、[[テヘラン]]に出発した。午後3時から午後4時にかけて、抗議者が殺されたことに激怒した労働者の大規模な集団が、市内の中心部に移動していた。午後5時から午後7時にかけて、蝋燭を手にした者たちが大聖堂の階段に集結した。将軍の{{仮リンク|ミハイ・チツァック|ro|Mihai Chiţac}}は兵士たちに発砲を命じ、自らも民間人に向けて発砲した。7人が死亡し、98人が負傷した。 |
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==== 12月19日 ==== |
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12月17日から18日の夜にかけて、ティミショアラの郡病院にて、撃たれて死亡した者たちの遺体が安置された。[[12月19日]]、エレナ・チャウシェスクとイオン・コーマンの命令に基づき、遺体安置所に安置されていた58体の遺体のうち、43体が冷凍トラックに積まれ、ブクレシュティに移送された。彼らの遺体は[[火葬]]され、その遺灰は水路に投げ捨てられた。弾圧された痕跡を残さないようにするのが目的であった。エレナ・チャウシェスクはこれを「''Operaţiunea Trandafirul''」(「バラ作戦」)と名付けた<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。午前7時から午後12時、数千人の労働者が街頭に繰り出していた。ティミショアラでの抗議運動ははもはや止めることが不可能になっていた。午後1時50分、シュテファン・グーシャは兵士たちに対し、兵舎への撤退を命じた。 |
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==== 12月20日 ==== |
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午前9時、抗議者の集団は数万人規模にまで膨らんでいた。ティミショアラの中心部にある劇場広場に集結した群衆は「独裁者を倒せ!」「自由を!」「神がおわします!」「軍隊は我々の味方だ!」と唱和した。午後12時、ティミショアラの中心部には、およそ15万人の抗議者がいた。彼らは兵士に差し入れを送った。午後12時30分、抗議者数人が劇場の桟敷を開放し、その直後に「[[主の祈り]]」の唱和が始まった。拡声器を通じて「ティミショアラは共産主義から解放されたルーマニアの最初の都市である」と宣言された。午後2時30分、閣僚評議会議長の{{仮リンク|コンスタンティン・ダスカレスク|ru|Constantin Dăscălescu}}がティミショアラに到着した。抗議者たちは、国の指導者の立場にある者たち全員の辞任、自由選挙、ティミショアラでの殺害の責任者を裁判にかけるよう要求した。 |
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イランを訪問中のチャウシェスクは、自国からの連絡を受けて急遽帰国するに至った。午後5時、イランから帰国し、状況がますます悪化していることを知ったチャウシェスクは、{{仮リンク|ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスク|ro|Victor Atanasie Stănculescu}}をティミショアラの司令官に任命するとともに、非常事態宣言を布告した。午後7時、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行った。チャウシェスクはティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。チャウシェスクはまた、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" /><ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」とも訴えた<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。12月20日の夜、チャウシェスクと治安部隊の幹部との間でテレビ会議が実施された。チャウシェスクは、「チャウシェスクを支持する、公認済みの無産階級50000人」で構成された特別自衛部隊を創設して首都に集め、暴徒に立ち向かうよう党指導部に指示を出した<ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />。チャウシェスクは、21日にブクレシュティで「社会主義の利益を守る」ための「人民集会」(''Adunare Populară'')を開催し、国民に直接語りかけることにした。 |
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=== 12月21日の演説 === |
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[[File:Revolution Square of Bucharest, Romania, during the 1989 Revolution. Photo taken from a broken window of the Athénée Palace Hotel.jpg|thumb|1989年12月、ブクレシュティの様子]] |
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[[File:PozeRevolutia1989clujByRazvanRotta13.jpg|thumb|銃で撃たれて死んだ抗議者([[1989年]][[12月21日]])]] |
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[[File:TR-85tankRomanianRevolution1989.jpg|thumb|ブクレシュティ市内に出動した戦車]] |
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[[1989年]][[12月21日]]午前9時、首都・ブクレシュティの中心部、[[革命広場 (ブカレスト)|革命広場]]にて、抗議者の群衆がルーマニア共産党中央委員会の建物の前に集結した。チャウシェスクがこの集会を開こうと決めたのは、「自分はまだ国民から支持されている」との自信があったからである<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" />。午前11時、集会が始まった。午後12時、チャウシェスクが建物の桟敷に姿を現わし、演説を始めた。 |
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ところが、演説が始まってまもなく、群衆の中で突如爆竹が炸裂し、騒ぎが勃発したことで、チェウシェスクは演説を中断せざるを得なくなった。救国戦線評議会の委員の1人、{{仮リンク|カズィミール・イオネスク|ro|Cazimir Ionescu}}がのちに語ったところによれば、「ニコラエ・チャウシェスクの演説を妨害する目的で特別に編成された集団の存在があったのだ」という<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />。ルーマニアの日刊紙『''România Liberă''』(『自由ルーマニア』)は、「12月21日のチャウシェスクの演説を『台無しにした』のは誰だったのか?については、ティミショアラからブクレシュティに移動してきた集団の仕業である」と報道している<ref>{{Cite web |url = http://www.romanialibera.ro/dupa-20-de-ani/a172545-timisorenii-au-stricat-mitingul-din-21-decembrie.html |title = Timisorenii au "stricat" mitingul din 21 decembrie |last = |first = |author = Petre Mihai Bacanu |authorlink = |coauthors = |date = 15 December 2009 |website = |work = |publisher = România Liberă |archive-url = https://web.archive.org/web/20091218182811/http://www.romanialibera.ro/dupa-20-de-ani/a172545-timisorenii-au-stricat-mitingul-din-21-decembrie.html |archive-date = 18 December 2009 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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チャウシェスクは群衆に何度も「''Hallo!''」と呼びかけて静粛にするよう促し、群衆を落ち着かせようとした。エレナ・チャウシェスクやセクリターテの職員も「聞こえないのか?静かにせよ!」と群衆に向けて怒鳴った。群衆が一旦静かになると、チャウシェスクは再び演説を続けた。チャウシェスクはこの演説の中で「最低賃金200レイ、年金100レイ、社会扶助300レイ、児童手当30 - 50レイ、出産手当1000 - 2000レイの引き上げの実施を約束する」と発表した。これは前日招集したルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会でチャウシェスク本人が提案した内容であった<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" />。しかし、騒ぎはますます大きくなり、チャウシェスクは混乱と戸惑いの表情を隠せずにいた。チャウシェスクは建物の中に引き戻された。チャウシェスクは郡党委員会の第一書記と電話会議を行い、「ここ数日の一連の出来事は、国を不安定にさせ、ルーマニアの独立と主権に対する組織的な策動の結果である」と宣言し、党と国家権力、民兵、治安部隊、軍隊を総動員するよう求めたうえで、「我々は、この出来事の正体を暴き、断固として拒否し、始末を付けねばならない」と述べた。革命広場から出た者たちは恐慌状態に陥り、革命広場周辺の通りに集まると、「独裁者を倒せ!」「チャウシェスクよ、お前は誰だ? - スコルニチェシュティ出身の極悪人だ!」との唱和を始めた。 |
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午後4時、ホテル『''Intercontinental''』の前にいた群衆に、ルーマニア国防省のトラックが制御不能状態で突っ込んだ。これにより、7人が死亡し、8人が負傷した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。 |
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午後6時、抗議者2000人が大学広場(''Piața Universității'')に障害物を設置した。午後8時、治安部隊が抗議者たちに発砲し始め、彼らを次々に逮捕していった。午後11時、ヴァスィーレ・ミーラが障害物を撤去するよう命じた。抗議者たちは地下鉄で逃げようとするも、治安部隊に捕らえられ、拷問された。その中には、子供、女性、老人も含まれ、駅の階段や乗降口には血が飛び散っていた。この過程で50人が殺され、462人が負傷し、1245人が逮捕され、ジラーヴァ刑務所に移送された。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党の建物の中で過ごした。午前1時ごろ、ヴァスィーレ・ミーラとユリアン・ヴラードは、ブクレシュティの中心部から抗議集団が一掃された趣旨を報告した<ref name = "Lovitura de Stat" >{{Cite web |url = http://www.ioanscurtu.ro/content/view/87/1/ |title = "Lovitura de Stat" data de generalul Stanculescu (22 Decembrie 1989) |last = |first = |author = Ioan Scurtu |authorlink = |coauthors = |date = 2009 |website = ioanscurtu |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20090701071356/http://www.ioanscurtu.ro/content/view/87/1/ |archive-date = 1 July 2009 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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=== 12月22日 === |
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[[1989年]][[12月22日]]の午前3時から午前5時にかけて、消防車や清掃車が出動し、大学広場や地下鉄の階段、周辺の通路に付着した血痕を洗い流していた。ブクレシュティで抗議者たちが弾圧されたという知らせは瞬く間に拡がり、反チャウシェスクの気運はますます増幅していた。午前7時、労働者・抗議者の集団がルーマニア共産党中央委員会の建物に向かった。建物は約1000人の兵士が警護していた。午前9時、ニコラエ・チャシェスクは、ユリアン・ヴラードとヴァスィーレ・ミーラに対し、抗議の群衆がこの建物に接近するのを何としてでも阻止するよう指示を出した。午前9時30分ごろ、ヴァスィーレ・ミーラが心臓を銃で撃ち貫いて死んでいるのが発見された。ミーラの死を知らされたチャウシェスクは酷く動揺し、「ミーラ将軍は国家と国民を裏切った」と述べた。午前9時45分、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議が始まった。チャウシェスクは「ミーラ将軍が、私のもとを離れた2分後に自殺したことを知らされた」と述べた<ref name = "Lovitura de Stat" />。死ぬ直前のミーラと会話した{{仮リンク|コルネリウ・プルカラベスク|ro|Corneliu Pârcălăbescu}}によれば、ミーラは「私はニコラエ・チャウシェスクから国民を撃つよう命じられた。自国民への射殺命令は、私には出せない」と語っていたという<ref name = "Un martor rupe tăcerea: Vasile Milea a fost împuşcat şi strangulat la ordin" >{{Cite web |url = http://www.amosnews.ro/arhiva/un-martor-rupe-tacerea-vasile-milea-fost-impuscat-strangulat-ordin-16-05-2005 |title = Un martor rupe tăcerea: Vasile Milea a fost împuşcat şi strangulat la ordin |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 16 May 2005 |website = |work = |publisher = Amos News |archive-url = https://web.archive.org/web/20131225084518/http://www.amosnews.ro/arhiva/un-martor-rupe-tacerea-vasile-milea-fost-impuscat-strangulat-ordin-16-05-2005 |archive-date = 25 December 2013 |access-date = 26 Octiber 2022 }}</ref>。チャウシェスクは「直ちにルーマニア全土に非常事態宣言を布告する。これは憲法に則ったものであり、大統領の権限でもある。国家評議会を招集するには及ばん」と述べた。コンスタンティン・ダスカレスクは「誠実な労働者を撃っていいものかどうか」と疑問を呈し、それに対してトゥドール・ポステルニクは「我々が発砲すべき相手は誠実な労働者ではなく、出来損ない連中やクズどもです」と述べた。チャウシェスクは、「もちろん、労働者に銃を向けるわけにはいかない。我々は労働者の代表なのであり、労働者を撃つことは無い。しかし、なかには卑怯者もいる。裏切り者のミーラに責任を負わせる。他にもいるかもしれんな」と答えた<ref name = "Lovitura de Stat" />。 |
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チャウシェスクは、ルーマニア全土に非常事態宣言を布告した。この布告が国営テレビとラジオの放送で読み上げられたあとに「国防大臣が、ルーマニアの独立と主権に反する裏切り行為を働き、それが露見するのを悟って自殺したことをお知らせ致します」と報道された<ref name = "trădării" >{{Cite web |url = http://www.jurnalul.ro/jurnalul-national/secretul-tradarii-generalului-vasile-milea-531060.htm |title = Secretul "trădării" generalului Vasile Milea |last = |first = |author = MIRUNA PASA PETRU, RAZVAN BELCIUGANU |authorlink = |coauthors = |date = 21 February 2010 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20111115060144/http://www.jurnalul.ro/jurnalul-national/secretul-tradarii-generalului-vasile-milea-531060.htm |archive-date = 15 November 2011 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。ヴァスィーレ・ミーラが死んだため、チャウシェスクは、ティミショアラから戻ってきたヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクを新たな国防大臣に任命した。しかし、スタンクレスクはチャウシェスクに忠誠を示す一方で、他方では二重の駆け引きを始めた。午前10時7分、彼は軍隊に対して兵舎への引き揚げ、ならびに抗議者の群衆と「対話」するよう命じた。 |
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=== チャウシェスク夫妻の逃亡 === |
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[[File:Revolutie Bucuresti1.JPG|thumb|チャウシェスク夫妻が逃亡したあとに群衆が占拠したルーマニア共産党中央委員会の建物]] |
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[[File:Revolutia Bucuresti 1989 019.JPG|thumb|群衆に語り掛けるペトレ・ロマン]] |
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ヴァスィーレ・ミーラの死を発表してまもなく、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時集会を招集し、チャウシェスク自ら軍の指揮を執る趣旨を発表した。ルーマニア共産党中央委員会の建物の前には5万人の群衆が集まっていたが、その数はさらに増えていた。午前11時30分ごろ、チャウシェスクは桟敷に姿を現わし、拡声器を手に取り、群衆に向けて演説を行おうとしたが、彼らの怒りを買っただけであった。セクリターテの長官、マリン・ナゴエ(''Marin Neagoe'')は[[ヘリコプター]]の手配を要請した。抗議者たちが建物内に侵入し始めた。午後12時6分、大群衆が見守る中、チャウシェスク夫妻と護衛の乗ったヘリコプターが、建物の屋上から離陸していった<ref name = "А говорили – мамалыга не взрывается" >{{Cite web |url = http://evartist.narod.ru/text14/74.htm |title = А говорили – мамалыга не взрывается |last = |first = |author = Сергей Железняк |authorlink = |coauthors = |date = |website = Evartist |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20120514135956/http://evartist.narod.ru/text14/74.htm |archive-date = 14 May 2012 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。抗議者たちは、ニコラエとエレナの肖像画を窓から投げ捨てた。軍隊は群衆の側に付き、セクリターテとの対決姿勢に入っていた。12時30分ごろ、抗議者たちは軍隊とともに国営テレビ局を占拠した。午後1時、抗議者たちはチャウシェスク夫妻の逃亡を伝えるとともに、「チャウシェスクはもう終わりだ!」と宣言した。午後1時30分、ヴィクトル・スタンクレスクは軍隊に対して「国防大臣の命令に従うように」との指令を出した。この時点で、チャウシェスクを権力の座から引き摺り下ろす道筋は完了していた<ref name = "Румынская революция 1989 года. Часть 2" />。 |
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午後2時45分、ルーマニア共産党の幹部の1人、[[イオン・イリエスク]](''Ion Iliescu'')は演説を行い、「チャウシェスクのやったことは、共産主義を汚しただけに留まらないのだ」と語りかけた。午後3時ごろ、ブクレシュティ工科大学(''Universitatea Tehnică din București'')の講師でのちに首相となる[[ペトレ・ロマン]](''Petre Roman'')がルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、「''Frontului Unităţii Poporului''」(「人民統一戦線」)の声明を読み上げた<ref name = "Decembrie 1989 - Verdictul Occidentului: a fost lovitura de stat" >{{Cite web |url = https://jurnalul.ro/special-jurnalul/decembrie-1989-verdictul-occidentului-a-fost-lovitura-de-stat-10868.html |title = Decembrie 1989 - Verdictul Occidentului: a fost lovitura de stat |last = |first = |author = Alex Mihai Stoenescu |authorlink = |coauthors = |date = 5 October 2006 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20140514001211/https://jurnalul.ro/special-jurnalul/decembrie-1989-verdictul-occidentului-a-fost-lovitura-de-stat-10868.html |archive-date = 14 May 2014 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。午後4時、イオン・イリエスクとペトレ・ロマンが陸軍および治安維持の責任者と会談した。午後5時、イオン・イリエスクがルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、その際に「同志諸君!」と呼びかけたことで群衆から非難され、表現の仕方を直した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。 |
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救国戦線評議会の議長に就任したイオン・イリエスクは、午後10時30分に宣誓書を読み上げ、チャウシェスクの権力からの追放、民主主義、政治における多元主義、経済回復のための措置の導入を宣言した<ref name = "30 de ani de la Revoluția din 1989. Ce s-a întâmplat între 16 și 22 decembrie 1989 în România" />。イリエスクはまた、「混乱と内戦、無政府状態を避けるため、総選挙が行われるまでは、救国戦線評議会が国家権力を引き継ぐ」と発表した<ref name = "А говорили – мамалыга не взрывается" />。 |
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チャウシェスク夫妻は、ブクレシュティの北部にあるスナゴヴ(''Snagov'')に向かった。ここにはヴィクトル・スタンクレスクが約束した予備隊が待機していた。チャウシェスクはスナゴヴから軍管区の司令官に電話をかけていた。電話からは、チャウシェスクへの忠誠を誓う言葉が届いた<ref name = "Румынская революция 1989 года. Часть 2" >{{Cite web |url = http://www.world-history.ru/countries_about/2361.html |title = Румынская революция 1989 года. Часть 2 |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = Всемирная История |archive-url = https://web.archive.org/web/20120920165252/http://www.world-history.ru/countries_about/2361.html |archive-date = 20 September 2012 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。夫妻はヘリコプターに乗って現地へ向かおうとしたが、スタンクレスクが領空を閉鎖した。彼はチャウシェスクの乗ったヘリコプターを撃墜するつもりでいたが、スタンクレスクの部下の一人がそれを止めるよう進言し、[[トゥルゴヴィシュテ (ルーマニア)|トゥルゴヴィシュテ]](''Târgoviște'')の近くの野原に着陸させた<ref name = "Румынская революция 1989 года. Часть 2" />。着陸後、ヘリコプターの操縦士は反乱軍に亡命した。チャウシェスク夫妻は、護衛とともに、通りかかった車の運転手に対して自分たちを乗せるよう要求し、[[ピテシュティ]](''Piteşti'')に向かおうとした。チャウシェスク夫妻は二台目の車を拾った。エレナは「森に隠れよう」と提案し、ニコラエは「労働者の助けを借りよう」と答えた。二人はルーマニア共産党地方委員会の建物に避難しようとしたが、入ることは許されなかった。12月22日午後3時30分、チャウシェスク夫妻は軍隊に捕らえられ、身柄を拘束された<ref name = "Румынская революция 1989 года. Часть 2" />。 |
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チャウシェスクの略式裁判の参加者の一人、{{仮リンク|ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスク|ro|Gelu Voican Voiculescu}}によれば、チャウシェスク夫妻は自分たちが「捕らえられた」とは認識しておらず、トゥルゴヴィシュテの軍隊に保護されていると信じていた、という<ref name = "История Румынии XX века. Политика Чаушеску" />。その後2日間、夫婦は基地内にある独房と装甲兵員輸送車の中で過ごした。この間に、夫婦は簡易な健康診断を受けた<ref>{{Cite web |url = http://ru.euronews.com/2009/12/23/romania-remembers-ceausescu-s-execution/ |title = 20 лет после Чаушеску |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 23 December 2009 |website = Euronews |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20130904035918/http://ru.euronews.com/2009/12/23/romania-remembers-ceausescu-s-execution/ |archive-date = 4 September 2013 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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[[12月24日]]、アメリカ合衆国の国務長官、[[ジェイムズ・ベイカー (国務長官)|ジェイムス・ベイカー]](''James Baker'')はソ連の外務省に対し、「チャウシェスク政権の危機に関係する形での流血の事態を防ぐために、ソ連やワルシャワ条約機構がルーマニアに介入した場合、アメリカは反対しない」と通告した。ソ連は、「ルーマニア人の運命はルーマニア人自身に委ねる」と決定したという<ref name = "ПОЧЕМУ ПОТОРОПИЛИСЬ РАССТРЕЛЯТЬ НИКОЛАЯ ЧАУШЕСКУ?" />。 |
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== 糖尿病治療とインスリン注射 == |
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ニコラエ・チャウシェスクは[[糖尿病]]を患っていた<ref name = "POWER CRUMBLED QUICKLY CEAUSESCU'S DECLINE TOOK 4 SHORT DA" >{{Cite web |url = https://greensboro.com/power-crumbled-quickly-ceausescus-decline-took-4-short-days/article_065fb40c-20d6-5fca-995f-c40fa28b3acf.html |title = POWER CRUMBLED QUICKLY CEAUSESCU'S DECLINE TOOK 4 SHORT DAYS |last = |first = |author = VIOREL URMA The Associated Press |authorlink = |coauthors = |date = 6 January 1990 |website = |work = |publisher = Greensboro News and Record |archive-url = https://archive.ph/vhKd3 |archive-date = 26 October 2022 |access-date = 26 October 2022 }}</ref><ref name = "Ultimele zile ale cuplului Ceausescu" >{{Cite web |url = https://jurnalul.ro/campaniile-jurnalul/decembrie-89/ultimele-zile-ale-cuplului-ceausescu-71485.html |title = Ultimele zile ale cuplului Ceausescu |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 15 March 2004 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20130312235523/https://jurnalul.ro/campaniile-jurnalul/decembrie-89/ultimele-zile-ale-cuplului-ceausescu-71485.html |archive-date = 12 March 2013 |access-date = 26 October 2022 }}</ref><ref name = "Teroriştii din ’89, controlaţi de la Moscova" >{{Cite web |url = https://jurnalul.ro/scinteia/special/teroristii-din-89-controlati-de-la-moscova-531069.html |title = Teroriştii din ’89, controlaţi de la Moscova |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 21 February 2010 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20160306155128/https://jurnalul.ro/scinteia/special/teroristii-din-89-controlati-de-la-moscova-531069.html |archive-date = 6 March 2016 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1989年]]4月、チャウシェスクを診察した医師、{{仮リンク|ユリアン・ミンク|ro|Iulian Mincu}}は、チャウシェスクの[[静脈]]にインスリンを注射しないと命の危険につながる、と説得したが、チャウシェスクはこれを拒否した。チャウシェスクの弟の一人、ニコラエ・アンドゥルーツァ・チャウシェスク(''Nicolae Andruţă Ceauşescu'', 1924 - 2000)も糖尿病であり、ミンクはアンドゥルーツァにインスリンを投与した。チャウシェスクによれば、「弟にインスリンを投与したら、インスリンに依存する身体になってしまった」という。ミンクによれば、チャウシェスクの身体はインスリン抵抗性が認められ、[[血糖値]]は390を超えていたという。チャウシェスクは酒はほとんど飲まず、[[炭水化物]]が多いものを食べていた。食事療法が変更され、[[果物]]の糖質量にも注意しつつ、肉とチーズの摂取については制限されなかった<ref name = "EXCLUSIV: Cum era să moară Ceauşescu în aprilie 1989 şi cum" />。 |
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[[インスリン]](''Insulin'')とは、[[膵臓]]の[[ランゲルハンス島]]にある[[β細胞]](''Beta Cell'')から分泌される[[ペプチドホルモン]]である。細胞による[[ブドウ糖]]の取り込みを促進し、炭水化物、脂質、タンパク質の代謝を調節し、分裂を促進する効果を通じて細胞分裂と成長を促し、正常な血糖値を維持する<ref name = "Insulin and Insulin Resistance" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1204764/ Insulin and Insulin Resistance] Gisela Wilcox. Clin Biochem Rev. 2005 May; 26(2): 19–39. {{PMCID|PMC1204764}} {{PMID|16278749}}</ref>。[[インスリン抵抗性]](''Insulin Resistance'')とは、インスリンが肝臓、脂肪組織、骨格筋といった抹消標的組織において、インスリンの機能が損なわれたり、弱まったり、機能を発揮できない状態を指す。インスリン抵抗性は、2型糖尿病の発症にも関与する極めて重要な病因因子である<ref name = "Immunometabolic bases of type 2 diabetes in the severity of COVID-19" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8311488/ Immunometabolic bases of type 2 diabetes in the severity of COVID-19] Rebeca Viurcos-Sanabria and Galileo Escobedo. World J Diabetes. 2021 Jul 15; 12(7): 1026–1041. Published online 2021 Jul 15. {{doi|10.4239/wjd.v12.i7.1026}} {{PMCID|PMC8311488}} {{PMID|34326952}}</ref>。 |
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炭水化物が多い食事は[[高血糖症]](''Hyperglycemia'')を有意に惹き起こす<ref name = "Effect of high carbohydrate intake on hyperglycemia">[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/1468287/ Effect of high carbohydrate intake on hyperglycemia, islet function, and plasma lipoproteins in NIDDM] A Garg, S M Grundy, M Koffler. {{PMID|1468287}} {{DOI|10.2337/diacare.15.11.1572}}</ref><ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity">[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6082688/ The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity: Beyond ‘Calories In, Calories Out’] David S Ludwig, MD, PhD and Cara B Ebbeling, PhD. JAMA Intern Med. Author manuscript; available in PMC 2019 Aug 1. Published in final edited form as: JAMA Intern Med. 2018 Aug 1; 178(8): 1098-1103, {{doi|10.1001/jamainternmed.2018.2933}} {{PMID|29971406}}.</ref><ref name = "Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes">[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7177487/ Low-Carbohydrate Diets in the Management of Obesity and Type 2 Diabetes: A Review from Clinicians Using the Approach in Practice] Tara Kelly, David Unwin, and Francis Finucane. Int J Environ Res Public Health. 2020 Apr; 17(7): 2557. Published online 2020 Apr 8, {{doi|10.3390/ijerph17072557}}.</ref>。高血糖になると、膵臓は血糖値を正常な状態に戻そうとしてさらに多くのインスリンを分泌し、これは[[高インスリン血症]](''Hyperinsulinemia'')の原因となる。炭水化物を食べて高血糖になり、そのたびにインスリンを注射する、というのを繰り返していると、さまざまな[[合併症]]や[[癌]]を患う危険性が上昇し、インスリンの強制的な注射やインスリンの強制分泌を促進する薬物の服用は、身体に深刻な不利益をもたらす<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23372169/ Mortality and other important diabetes-related outcomes with insulin vs other antihyperglycemic therapies in type 2 diabetes] Craig J Currie, Chris D Poole, Marc Evans, John R Peters, Christopher Ll Morgan. {{PMID|23372169}} {{DOI|10.1210/jc.2012-3042}}</ref>。インスリン療法を受けている患者は、インスリン療法を受けていない患者に比べて、[[心血管疾患]](''Cardiovascular Disease'')で死亡する危険性が上昇する<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33662172/ Risk of early mortality and cardiovascular disease according to the presence of recently-diagnosed diabetes and requirement for insulin treatment: a nationwide study] You-Bin Lee, Kyungdo Han, Bongsung Kim, Min Sun Choi, Jiyun Park, Minyoung Kim, Sang-Man Jin, Kyu Yeon Hur, Gyuri Kim, Jae Hyeon Kim. {{PMID|33662172}} {{DOI|10.1111/jdi.13539}}</ref>。さらに、インスリンを注射して血糖値を下げようとすると、心血管疾患の発症率は低下せず、死亡率は上昇する。体重については、インスリンを注射していた'''だけ'''で10㎏以上も増加した<ref>[https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/18539917/ Effects of intensive glucose lowering in type 2 diabetes]{{PMID|18539917}} {{DOI|10.1056/NEJMoa0802743}}</ref>。インスリンは脂肪の蓄積を強力に促進し、空腹感を高め、体重と体脂肪を増やす作用が強い[[ホルモン]]である。たとえカロリーを制限したところで、インスリンを注射された動物には過剰な量の体脂肪が蓄積する<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity">[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6082688/ The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity: Beyond ‘Calories In, Calories Out’] David S Ludwig, MD, PhD and Cara B Ebbeling, PhD. JAMA Intern Med. Author manuscript; available in PMC 2019 Aug 1. Published in final edited form as: JAMA Intern Med. 2018 Aug 1; 178(8): 1098-1103, {{doi|10.1001/jamainternmed.2018.2933}} {{PMID|29971406}}.</ref>。インスリン抵抗性に伴い、血糖値が慢性的に高い状態が続くと、高血糖症、高インスリン血症、および全身の細胞に[[酸化ストレス]](''Oxidative Stress'')をもたらす<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6138814/ The etiology of oxidative stress in insulin resistance] Samantha Hurrle and Walter H. Hsu. Biomed J. 2017 Oct; 40(5): 257–262. Published online 2017 Nov 8. {{doi|10.1016/j.bj.2017.06.007}} {{PMCID|6138814}} {{PMID|29179880}}</ref>。高血糖は、体内で[[AGEs]](''Advanced Glycation End Products'', 「最終糖化産物」と呼ばれる)の産生を促進する。これは身体の老化を強力に促進する物体で、タンパク質に糖が結合することでタンパク質が変性する。果糖はAGEsをブドウ糖以上に強力に生成し、ブドウ糖を摂取したときの10倍もできやすくなる<ref>[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5227984/ Formation of Fructose-Mediated Advanced Glycation End Products and Their Roles in Metabolic and Inflammatory Diseases] Alejandro Gugliucci, Published online 2017 Jan 11, {{doi|10.3945/an.116.013912}}.</ref>。インスリン抵抗性において、高血糖は、最終糖化産物の形成を促進する<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" />。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。インスリンは脂肪細胞にエネルギーを貯蔵するにあたり、重要なホルモン信号を持つ。脂肪細胞は肝臓や骨格筋においてインスリン抵抗性に直面したとしても、インスリン感受性(インスリンの効き目の強さ)を維持する傾向が強く、インスリン抵抗性が強まれば強まるほど、脂肪組織の形成が促進され、体重の増加が加速し、[[肥満]]の原因となる<ref>[https://www.ahajournals.org/doi/10.1161/01.ATV.0000186208.06964.91 Fast Food, Central Nervous System Insulin Resistance, and Obesity] Elvira Isganaitis, Robert H.Lustig RH (December 2005). Arteriosclerosis, Thrombosis, and Vascular Biology. 25 (12): 2451–62.{{doi|10.1161/01.ATV.0000186208.06964.91}} {{PMID|16166564}}</ref>。 |
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ユリアン・ミンクは「静脈内に大量のインスリンを投与するのは勇気が要る」「インスリンの投与は低血糖性昏睡に陥る危険を孕んでおり、責任問題になる」「400~500単位のインスリンが作られた。10単位のインスリンを投与した場合、低血糖性昏睡状態に陥る危険性があった」と語った。ミンクは「インスリン注射以外に方法は無い」との立場を崩さず、チャウシェスクにインスリンを投与した<ref name = "EXCLUSIV: Cum era să moară Ceauşescu în aprilie 1989 şi cum" >{{Cite web |url = https://www.dcnews.ro/exclusiv-cum-era-sa-moara-ceausescu-in-aprilie-1989-si-cum-l-a-dat-ceauseasca-de-gol-in-strainatate-ca-are-diabet-video_112294.html |title = EXCLUSIV: Cum era să moară Ceauşescu în aprilie 1989 şi cum l-a dat Ceauşeasca de gol în străinătate că are diabet - VIDEO |last = |first = |author = Val Vâlcu |authorlink = |coauthors = |date = 15 October 2011 |website = |work = |publisher = DCnews |archive-url = https://web.archive.org/web/20140724045333/https://www.dcnews.ro/exclusiv-cum-era-sa-moara-ceausescu-in-aprilie-1989-si-cum-l-a-dat-ceauseasca-de-gol-in-strainatate-ca-are-diabet-video_112294.html |archive-date = 24 July 2014 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。 |
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インスリンの過剰分泌を促進する食事は、インスリンを注射した時と同様の作用をもたらす<ref name = "The Carbohydrate-Insulin Model of Obesity" />。炭水化物を食べ続けることで慢性的な高血糖が常態化すると、身体はさらにインスリンの分泌量を増やそうとする。高血糖に伴う高インスリン血症およびインスリン抵抗性によって、筋肉細胞や脂肪細胞におけるインスリン感受性は低下し、血糖値は低下せず、インスリン抵抗性に対処するために膵臓のβ細胞は過剰な量のインスリンを分泌しようとする<ref>[https://www.omicsonline.org/open-access/correlations-of-oxidized-low-density-lipoprotein-with-insulin-leptin-and-risk-of-cardiovascular-disease-in-a-group-of-diabetic-obese-tunisian-women-2165-7904-1000279.php?aid=61925 Correlations of Oxidized Low Density Lipoprotein with Insulin, Leptin and Risk of Cardiovascular Disease in a group of Diabetic Obese Tunisian Women] Fethi Ben Slama, Wala Gaaloul Helali, Faika Ben Mami, Mohamed Chiheb Ben Rayana, Omrane Belhadj and Hajer Aounallah Skhiri. Published: October 30, 2015 {{doi|10.4172/2165-7904.1000279}}</ref>。インスリンの大量分泌が常態化し、膵臓が疲弊すると、正常な血糖値を維持するのに必要な量のインスリンも分泌できなくなり(血糖値が制御不能状態に陥る)、糖尿病を発症する<ref name = "Immunometabolic bases of type 2 diabetes in the severity of COVID-19" />。この状態でも炭水化物を食べるのを止めず、インスリンも注射しないと命の危険に直結する。 |
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ユリアン・ミンクは「チャウシェスクへのインスリン注射はうまくいった」と語っている<ref name = "EXCLUSIV: Cum era să moară Ceauşescu în aprilie 1989 şi cum" />が、高血糖、インスリン、高インスリン血症、インスリン抵抗性、糖尿病、心血管疾患、癌は密接に関係している<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" /><ref name = "Hyperinsulinemia and Its Pivotal Role in Aging, Obesity, Type 2 Diabetes, Cardiovascular Disease and Cancer" >[https://www.mdpi.com/1422-0067/22/15/7797/htm Hyperinsulinemia and Its Pivotal Role in Aging, Obesity, Type 2 Diabetes, Cardiovascular Disease and Cancer] Multidisciplinary Digital Publishing Institute. Published: 21 July 2021. {{doi|10.3390/ijms22157797}}</ref>。血糖値を下げるためにインスリンを注射する'''だけ'''で、身体はインスリン抵抗性を発症し、体重と体脂肪が有意に増加し、糖尿病、さらには癌をも患いやすくなる<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" />。インスリンは[[癌]]を促進する。インスリンは強力な[[分裂促進因子]](''Mitogen'')であり、あらゆる癌の発生にはインスリン、高インスリン血症、インスリン抵抗性が直接関与している証拠を提供する<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC8164941/ Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer] Anni M.Y. Zhang, Elizabeth A. Wellberg, Janel L. Kopp, and James D. Johnson. Diabetes Metab J. 2021 May; 45(3): 285–311. Published online 2021 Mar 29. {{doi|10.4093/dmj.2020.0250}} {{PMCID|PMC8164941}} {{PMID|33775061}}</ref>。高インスリン血症は、癌による死亡率を2倍に増やす。体重やBMIの数値が正常であったとしても、血中のインスリン濃度が上昇する'''だけ'''で、癌の発生率のみならず、その死亡率までもが上昇する<ref name = "Hyperinsulinemia in Obesity, Inflammation, and Cancer" />。慢性的な高インスリン血症は癌を促進する。インスリンは'''腫瘍の成長、増殖、転移を直接誘導する'''力を持つ<ref name = "Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3372318/ Insulin Resistance and Cancer Risk: An Overview of the Pathogenetic Mechanisms] Biagio Arcidiacono, Stefania Iiritano, Aurora Nocera, Katiuscia Possidente, Maria T. Nevolo, Valeria Ventura, Daniela Foti, Eusebio Chiefari, and Antonio Brunetti. Exp Diabetes Res. 2012; 2012: 789174. Published online 2012 Jun 4. {{doi|10.1155/2012/789174}} {{PMCID|PMC3372318}} {{PMID|22701472}}</ref><ref name = "The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer" >[https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2949481/ The Proliferating Role of Insulin and Insulin-Like Growth Factors in Cancer] Emily Jane Gallagher and Derek LeRoith. Trends Endocrinol Metab. 2010 Oct; 21(10): 610–618. Published online 2010 Jul 19. {{doi|10.1016/j.tem.2010.06.007}} {{PMCID|PMC2949481}} {{PMID|20663687}}</ref><ref>[https://www.spandidos-publications.com/10.3892/ijo.2017.3844 Insulin induction instigates cell proliferation and metastasis in human colorectal cancer cells] Chi-Cheng Lu, Pei-Yi Chu, Shih-Min Hsia, Chi-Hao Wu, Yu-Tang Tung, and Gow-Chin Yen. Published online on: January 5, 2017. {{doi|10.3892/ijo.2017.3844}}</ref>。 |
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インスリンは身体の老化を強力に促進し、脳の認知機能を破壊し、寿命を縮める<ref name = "Insulin: too much of a good thing is bad" >[https://bmcmedicine.biomedcentral.com/articles/10.1186/s12916-020-01688-6 Insulin: too much of a good thing is bad] Hubert Kolb, Kerstin Kempf, Martin Röhling & Stephan Martin. BMC Medicine. Published: 21 August 2020. {{doi|10.1186/s12916-020-01688-6}}</ref><ref name = "Hyperinsulinemia and Its Pivotal Role in Aging, Obesity, Type 2 Diabetes, Cardiovascular Disease and Cancer" />。糖尿病患者がインスリン療法(インスリンを注射して血糖値を下げる)を受けるだけで、動脈疾患のみらず、[[アテローム性動脈硬化症]](''Atherosclerosis'')の危険も上昇する<ref name = "Insulin: too much of a good thing is bad" />。また、糖尿病患者はインスリンを注射している'''だけ'''で死亡率が倍になる。高血糖においては、癌細胞は大量の[[ブドウ糖]]をエサにして増殖していく<ref>{{Cite web |url = https://blog.thefastingmethod.com/insulin-toxicity-t2d-37/ |title = Insulin toxicity – T2D 37 |last = |first = |author = Jason Fung, MD |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20211023210637/https://blog.thefastingmethod.com/insulin-toxicity-t2d-37/ |archive-date = 23 October 2021 |access-date = 5 October 2022 }}</ref>。 |
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[[1989年]][[12月24日]]の時点で、チャウシェスクはインスリンを携帯していなかった<ref>{{Cite web |url = https://jurnalul.ro/scinteia/special/teroristii-din-89-controlati-de-la-moscova-531069.html |title = Teroriştii din ’89, controlaţi de la Moscova |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 21 February 2010 |website = |work = |publisher = Jurnalul Național |archive-url = https://web.archive.org/web/20160306155128/https://jurnalul.ro/scinteia/special/teroristii-din-89-controlati-de-la-moscova-531069.html |archive-date = 6 March 2016 |access-date =27 October 2022 }}</ref><ref name = "Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stiri-interne/societate/operatiunea-insulina-pentru-ceausescu-944702.html |title = Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“ |last = |first = |author = Grigore Cartianu |authorlink = |coauthors = |date = 4 December 2009 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://archive.ph/Dm6FV |archive-date = 28 October 2022 |access-date = 27 October 2022 }}</ref>。チャウシェスクの糖尿病は悪化しており、インスリンを注射しなければ命を落とす可能性が高い体質になっていた。チャウシェスクは、[[12月22日]]の朝にインスリンを注射していた。インスリンを3日間注射しないままでいると、糖尿病性昏睡に陥ることをチャウシェスクは自覚していた<ref name = "Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“" />。トゥルゴヴィシュテの駐屯地にいた大佐のアンドレイ・ケメニチ(''Andrei Kemenici'')は、12月24日の朝、エレナ・チャウシェスクから「夫のニコラエは糖尿病で、インスリンをもう3日間注射していない」と聞かされた。24日の深夜、陸軍諜報局の将校が封筒を持ってトゥルゴヴィシュテを訪れた。その封筒の中には、チャウシェスクのために手配されたインスリンの入った小瓶と注射針が同封されていた。ヴィクトル・スタンクレスクは封筒を開封し、中にはインスリンの小瓶と注射針が入っていることをケメニチに告げた。封筒には手書きによる覚書も同封されており、それには「チャウシェスクはインスリンを忘れて出て行ってしまったので、すぐに投与しなければ昏睡状態に陥る危険がある」との趣旨が書かれていた。ケメニチがチャウシェスクのもとへ向かい、インスリンを見せると、チャウシェスクは「確かに、これは私の身体に必要なものだが、注射するにはまだ早い。お茶を飲んだからね...。注射は明日にするかな」と答えたという<ref name = "Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“" />。 |
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当初のケメニチは封筒の中身について、「爆弾でないのなら、毒に違いない」と自分に言い聞かせたという。ケメニチは、チャウシェスクが糖尿病患者であり、インスリンを注射していたことを知らなかったという。「私は、(チャウシェスクを)銃殺刑に処すことには同意しませんでした。薬殺刑にすべきだ、と考えていたのです」と述べた<ref name = "Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“" />。 |
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略式裁判の終了後、空挺部隊の隊員がエレナ・チャウシェスクの両手を縛っていたとき、大佐のゲオルゲ・シュテファン(''Gheorghe Ștefan'')が、インスリンの入った封筒を没収したという。封筒と、未使用のインスリンが入った2本の小瓶は現存するが、その中身について専門的な調査が実施されたことは無い。3本目の小瓶に入っていたインスリンについては、チャウシェスクが注射したのか、途中で破損したのかどうかについては不明のままである<ref name = "Operaţiunea „Insulină pentru Ceauşescu“" />。 |
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1989年4月の時点で、チャウシェスクは糖尿病の合併症で命を落としてもおかしくない状態にあった。ユリアン・ミンクは「インスリンを注射することでチャウシェスクの命を救えた」と語っている<ref name = "EXCLUSIV: Cum era să moară Ceauşescu în aprilie 1989 şi cum" />が、前述のとおり、インスリンは毒性の強いホルモンであり、インスリンの投与量が過剰である場合、脳を損傷したり、失明したり、[[低血糖症]](''Hypoglycemia'')を惹き起こして死亡することがあるため、インスリンを服用する行為自体が非常に危険である<ref name = "ghent-wakefield" >{{Cite web |url = https://www.menshealth.com/trending-news/a19543375/ghent-wakefield-death-insulin-bodybuilder-wwe/ |title = 35-Year-Old Bodybuilder's Sudden Death Raises Questions About Insulin Use |author = JACK CROSBIE |date = 21 November 2017 |website = menshealth.com |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20180823042035/https://www.menshealth.com/trending-news/a19543375/ghent-wakefield-death-insulin-bodybuilder-wwe/ |archive-date = 23 August 2018 |access-date = 17 February 2021 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/brit-bodybuilder-unable-see-talk-22896233 |title = Brit bodybuilder unable to see, talk and walk after supplements put him in coma |last = |first = |author = Joshua Smith |authorlink = |coauthors = |date = 23 October 2020 |website = dailystar.co.uk |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20201029073531/https://www.dailystar.co.uk/news/latest-news/brit-bodybuilder-unable-see-talk-22896233 |archive-date = 29 October 2020 |access-date = 19 October 2022 }}</ref><ref name = "Insulin as a drug of abuse in body building">[https://bjsm.bmj.com/content/37/4/356 Insulin as a drug of abuse in body building] P J Evans, R M Lynch. {{PMID|12893725}} {{DOI|10.1136/bjsm.37.4.356}}</ref>。 |
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== 最期 == |
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[[File:Grave of Nicolae Ceausescu - Ghencea Civil Cemetery - Bucharest - Romania.jpg|thumb|チャウシェスクが埋葬されていた墓(2007年の時点)]] |
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[[File:Ceaușescu Grave.jpg|thumb|チャウシェスク夫妻が埋葬されているゲンチャ墓地。エレナの生年が「1919」と刻印されているが、正確な生年は「1916」である<ref name = "NR. INVENTAR: 2800" >{{Cite web |url = http://arhivelenationale.ro/site/download/inventare/Comitetul-Central-al-Partidului-Comunist-Roman.-Cabinetul-2.-ElenaCeausescu.-1984-1989.-Inv.-2800.pdf |title = FOND C.C. AL P.C.R. –CABINETUL 2 – ELENA CEAUŞESCU INVENTAR Anii extremi: 1984–1989 Nr. u.a.: 180 |website = Arhivelenationale |publisher = Arhivele Naționale (National Archives of Romania) |archive-url = https://web.archive.org/web/20180409043214/http://arhivelenationale.ro/site/download/inventare/Comitetul-Central-al-Partidului-Comunist-Roman.-Cabinetul-2.-ElenaCeausescu.-1984-1989.-Inv.-2800.pdf |archive-date = 9 April 2018 |access-date = 8 April 2018 }}</ref>。]] |
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イオン・イリエスクは、チャウシェスク夫妻を裁判にかける「特別軍事法廷」を設立する命令に署名した<ref>{{Cite web |url = https://www.rador.ro/2014/12/12/revolutia-romana-din-decembrie-1989/ |title = Cronologie Revoluţia Română din decembrie 1989 |last = |first = |author = V. Brădăţeanu |authorlink = |coauthors = |date = 12 December 2014 |website = |work = |publisher = Rador |archive-url = https://web.archive.org/web/20150404045145/https://www.rador.ro/2014/12/12/revolutia-romana-din-decembrie-1989/ |archive-date = 4 April 2015 |access-date = 27 September 2022 }}</ref><ref name ="Primele decrete semnate de Ion Iliescu în 1989 au fost" >{{Cite web |url = https://www.curentul.info/actualitate/primele-decrete-semnate-de-ion-iliescu-in-1989-au-fost-ilegale-iar-monitorul-oficial-a-amanat-publicarea-lor/ |title = Primele decrete semnate de Ion Iliescu în 1989 au fost ilegale iar Monitorul Oficial a amânat publicarea lor |last = |first = |author = Alexandru Panait |authorlink = |coauthors = |date = 27 December 2019 |website = |work = |publisher = Curentul |archive-url = https://web.archive.org/web/20191228023928/https://www.curentul.info/actualitate/primele-decrete-semnate-de-ion-iliescu-in-1989-au-fost-ilegale-iar-monitorul-oficial-a-amanat-publicarea-lor/ |archive-date = 28 December 2019 |access-date = 27 September 2022 }}</ref><ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />。 |
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[[1989年]][[12月25日]]、ヴィクトル・スタンクレスク、{{仮リンク|ヴィルジル・マグラーノ|ro|Virgil Măgureanu}}、ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスクの乗ったヘリコプターが、トゥルゴヴィシュテに到着した。 |
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12月25日午後1時20分、トゥルゴヴィシュテの軍の駐屯地内の兵舎の中で、ニコラエとエレナに対する特別軍事法廷「''Tribunal al Poporului''」(「人民裁判」)が始まった。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告された<ref name ="Primele decrete semnate de Ion Iliescu în 1989 au fost" />。1989年12月25日付の官報には、救国戦線評議会による署名とともに、以下の公式声明が掲載された。「歴史と法律を前に、独裁者とその手先たちの犯した罪は、国を破滅へと導こうとする行為に対するしかるべき制裁を厳正に決定する法廷の場で立証されるであろう」<ref name ="Primele decrete semnate de Ion Iliescu în 1989 au fost" /> |
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この公式声明が発表された時点で、チャウシェスクはすでに処刑されていた。 |
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チャウシェスクの弁護人を務めたニコラエ・テオドレスク(''Nicolae Teodorescu'')が、刑法第162条、第163条、第165条、第357条に規定されている行為に基づいて起訴された趣旨を告げると、チャウシェスクは、ルーマニア大国民議会の承認が無い限り、この裁判は無効であり、自分たちを裁いている軍人たちの言い分には何の根拠も無い、と反論した。「私は起訴などされていない。私はルーマニアの大統領であり、最高司令官であり、大国民議会と労働者階級の代表者の前でのみ答えよう。それだけだ。この[[クーデター]]を起こした者たちの行為は、国民に対する裏切りであり、ルーマニアの独立を崩壊に追い込んだのだ。最初から最後に至るまで、全てが欺瞞なのだ!」<ref name = "Împreună am luptat, să murim împreună!" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/news/societate/nicolae-elena-ceausescu-Impreuna-luptat-murim-impreuna-1_50ad82ad7c42d5a663967ee4/index.html |title = Nicolae şi Elena Ceauşescu: „Împreună am luptat, să murim împreună!“ |last = |first = |author = Grigore Cartian |authorlink = |coauthors = |date = 19 December 2009 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://web.archive.org/web/20131102145555/https://adevarul.ro/news/societate/nicolae-elena-ceausescu-Impreuna-luptat-murim-impreuna-1_50ad82ad7c42d5a663967ee4/index.html |archive-date = 2 November 2013 |access-date = 27 October 2022 }}</ref> |
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この裁判は、テレビ映像を通じて世界中に放映された。テレビに映し出された映像では、エレナは少数の質問に答えたのみで、喚いたり叫んだりする様子が目立ち、ニコラエがエレナに対して落ち着くよう宥める様子も見られた。チャウシェスクは、当初から法的な観点に基づいて論議していた。裁判開始から絶命の瞬間まで、チャウシェスクは明晰であった。 |
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午後2時40分、裁判は終わり、午後2時45分にニコラエとエレナに対して死刑が宣告された。その後まもなく、夫婦は両手を紐で後ろ手に縛られた状態で建物から連行されていった。連行されていく途中、ニコラエは「自由なる独立国・ルーマニア社会主義共和国万歳!」と叫んだ<ref name = "Страта Чаушеску. Так закінчуються диктатури" />。ニコラエは、銃殺される少し前に、共産革命の歌「[[インターナショナル (歌)|インターナショナル]]」を口ずさみ、「裏切り者を殺せ!」と叫んだ<ref name = "Почему Михаил Горбачев дал согласие на казнь Николае Чаушеску?">{{Cite web |url = http://www.argumenti.ru/espionage/n276/94258/ |title = Расстрел у стены солдатской уборной - Почему Михаил Горбачев дал согласие на казнь Николае Чаушеску? |last = |first = |author = Александр КОНДРАШОВ |authorlink = |coauthors = |date = 16 February 2011 |website = Argumenti |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20110830104207/http://www.argumenti.ru:80/espionage/n276/94258 |archive-date = 30 August 2011 |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。エレナは「夫と一緒に死なせて欲しい」「私と夫は一緒に戦った。一緒に死ぬわ」「殺すのなら、拘束を解いた状態で殺してちょうだい」「私たちはいつでも一緒よ。法律がそう言っているわ」と要求し、自分の両手を[[紐]]で縛ろうとする軍人たちに対して「これは何なの?これで何をするつもりなの?触るな!縛るな!私たちを怒らせるつもり!?私はお前たちの母親であり続けてきたのよ!私の手が折れる!手を放せ、その手を放すのよ!恥を知りなさい!」と叫んで抵抗しようとした<ref name = "Împreună am luptat, să murim împreună!" />。エレナはまた、銃殺隊を前に、以下のように絶叫した。「よく考えなさい。私はこの20年間、お前たちの母親であり続けてきたのよ!」<ref name = "Конфликтолог2" /> |
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[[1989年]][[12月25日]]午後2時50分、ニコラエ・チャウシェスクとエレナ・チャウシェスクの二人は[[銃殺刑]]に処せられた<ref name = "Почему Михаил Горбачев дал согласие на казнь Николае Чаушеску?" />。夫婦の処刑は判決が出てから10分以内に執行された。夫婦が銃殺される前後の映像もテレビ中継を通じて世界中に放映された。夫婦の遺骸はゲンチャ墓地(''Cimitirul Ghencea'')に埋葬された。 |
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ルーマニア国内のテレビでチャウシェスク夫妻が銃殺された映像が公開され、その際にアナウンサーは「反キリスト者が、[[クリスマス]]の日に殺されました」と伝えた<ref name = "Последний вампир Трансильвании" /><ref name = "ЧАУШЕСКУ И “ЗОЛОТАЯ ЭРА” РУМЫНИИ : 6. “Антихрист был убит в Рождество”" />。 |
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チャウシェスク夫妻の処刑を指揮したイオネル・ボエロ(''Ionel Boeru'')は、「二人には何の同情も湧かなかった。視線を交わすことも無かった。動物を殺すようなものだ」と語っている<ref>{{Cite web |url = https://www-stern-de.translate.goog/politik/ausland/ceausescus-scharfrichter-der-diktator-und-sein-henker-3293070.html?_x_tr_sl=de&_x_tr_tl=en&_x_tr_hl |title = Der Diktator und sein Henker |last = |first = |author = Matthias Schepp |authorlink = |coauthors = |date = 20 October 2005 |website = |work = |publisher = Stern |archive-url = |archive^date = |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。 |
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この裁判は、犯罪捜査が実施されなかった点、起訴状が無い点、起訴状を被告人に通知しなかった点、精神医学に基づく専門的な検査を実施しなかった点、裁判の期限を設定しなかった点、弁護人を選定しなかった点、上訴の提出期限を守らずに裁定しなかった点が法律違反である。軍事検察官であったミハイ・ポポヴ(''Mihai Popov'')によれば、ルーマニアの法律では判決から10日が経過して初めて判決が確定するが、その規定にも違反しており、その10日間のうちに、被告が「上訴しない」と最初に宣言していたとしても、考えを変える権利が被告人にはある。当時の手続きでは、控訴期間が終了した時点で、有罪判決を受けた者は恩赦を申請するか、もしくは恩赦を申請しない旨を書面で表明する必要があった。その恩赦の申請が却下されて初めて、刑の執行が可能になったのだという<ref name = "Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu" >{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stiri-interne/societate/adevar-si-minciuna-in-procesul-familiei-ceausescu-1036269.html |title = Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu |last = |first = Cristian Delcea |author = |authorlink = |coauthors = |date = 25 January 2012 |website = |work = |publisher = Adevărul |archive-url = https://web.archive.org/web/20160304235633/https://adevarul.ro/news/societate/adevar-minciuna-procesul-familiei-ceausescu-1_50ad82fc7c42d5a6639684f3/index.html |archive-date = 4 March 2016 |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。 |
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ミハイ・ポポヴは、「チャウシェスク夫妻に対する『告訴』の内容は、どこまでも常軌を逸したものだった。チャウシェスク夫妻は、死刑になる可能性のある殺人罪で裁かれるべきであった。12月22日以前のティミショアラでの出来事を考慮するなら、この判決は妥当だと言えるかもしれない。しかし、殺人の扇動に対する有罪判決は、大量殺戮に対する有罪判決とは異なり、全財産の没収を伴うものではないし、それを実施する権利も無いのだ」と述べた<ref name = "Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu" />。また、ポポヴは「チャウシェスク夫妻に対する裁判は、ルーマニアの恥を世界中に晒した」とも明言している<ref name = "Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu" />。 |
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歴史家のゾエ・ペトレ(''Zoe Petre'')は、「俗に言うトゥルゴヴィシュテ裁判は、法律違反も甚だしく、噴飯物の告訴に基づいており、ルーマニアの最近の歴史において恥ずべき節目であり続けている、あの裁判には何ら法的価値は無く、強盗を劇的に演出し、いかにも法に則って進めたかのように見せかけただけの失敗作である。ルーマニアの新たな指導者となる人物について、チャウシェスクは確かに多くのことを知っていた。だからこそ、チャウシェスクは死なねばならなかったのだ」と述べた<ref name = "Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu" />。 |
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検事を担当した人物はチャウシェスクに対し、「『精神疾患を抱えている』と認めるなら、被告人に責任を負わせるつもりは無い」とする妥協案を提示した。しかし、チャウシェスク夫妻はそれを強く拒否した<ref name = "В расстреле президента Румынии Чаушеску и его жены не все чисто" />。 |
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夫婦の全財産没収と死刑が宣告されたのち、チャウシェスクが「いかなる判決であれ、私は認めるつもりは無い!」と叫ぶと、弁護人のニコラエ・テオドレスクは、「この判決を認めないということは、被告人は控訴する権利を行使しない、という意味です。今この場において、この判決は最終決定である点に気を付けて下さい」と発言した<ref name = "Împreună am luptat, să murim împreună!" />。 |
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イオン・イリエスクは、[[2009年]]12月に以下のように述べた。「私はチャウシェスクの処刑を悔やんではいない。彼は悪事の主犯格であり、然るべき報いを受けただけだ」<ref name = "«Гений Карпат» Чаушеску Штрихи к политическому портрету" /> |
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ソ連共産党中央委員会政治局委員の一人であった[[ミハイル・ソロメンツェフ|ミハイル・サロメンツェフ]](''Михаи́л Соло́менцев'')はチャウシェスクの処刑について、「私はチャウシェスクに対して拒否反応を覚えたことは無い。彼の処刑については、まったくもって不愉快であり、残酷だ。裁判も捜査も、起訴状も無いではないか。彼らのやったことは、ただ評決を読み上げ、二人を外へ連れていき、撃ち殺した。どこからどう見たって法律違反じゃないのか?」と述べている<ref>{{Cite web |url = http://fakty.ua/64912-eks-glava-komissii-partijnogo-kontrolya-pri-ck-kpss-mihail-solomencev-quot-mne-uzhe-desyatyj-desyatok-poshel-zhivu-proshlym-quot |title = Экс-глава комиссии партийного контроля при цк кпсс михаил соломенцев: «мне уже десятый десяток пошел. Живу прошлым… » |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 3 September 2004 |website = |work = |publisher = Fakty |archive-url = https://web.archive.org/web/20130814125834/http://fakty.ua/64912-eks-glava-komissii-partijnogo-kontrolya-pri-ck-kpss-mihail-solomencev-quot-mne-uzhe-desyatyj-desyatok-poshel-zhivu-proshlym-quot |archive-date = 14 August 2013 |access-date = 27 October 2022 }}</ref>。 |
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ルーマニア国立銀行の元総裁で、財務省で30年以上勤務し、チャウシェスクと一緒に働いた経験があり、チャウシェスクの良い面も悪い面も知っているデチェバル・ウルダ(''Decebal Urdea'')は、「経済学者としての観点から言うと、チャウシェスクが国民経済を弱体化させた、というのは無理がある。弱体化というのは、自分の個人的な目的のために何らかの害をなし、何らかの利益を得るという意図的な行為のことだ」としたうえで、「チャウシェスクが国民経済を弱体化させた」というのはバカげた主張だ」と断言している<ref name = "Adevăr şi minciună în procesul familiei Ceauşescu" />。 |
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1989年12月16日から22日にかけて、1104人が死亡し、3352人が負傷した。12月22日以降に登録された犠牲者の内訳は、805人が兵士(260人が死亡、545人が負傷)、138人が警察官(65人が死亡、73人が負傷)であった。法廷に送られた約100件の起訴状に加えて、検察官は別の5395件の事件を捜査し、そのうち4881件は不起訴処分とした。[[1990年]]3月、身体的危害を加える暴力行為は恩赦となった。不起訴処分となった理由の1つとして、この革命で発砲した兵士たちの多くが、「自分たちは敵と戦っている」、もしくは「自衛のために戦っている」と信じていた点にあった<ref name = "FOCUS: 18 ani de la revoluţie" />。また、抗議者の群衆に発砲するよう命じたのはチャウシェスクではなく、ヴィクトル・スタンクレスクであったことが判明したという<ref name = "ФАКТЫ 15033" />。 |
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共産政権が滅びたのち、ルーマニアでは[[1990年]][[1月7日]]に[[死刑]]を廃止した<ref>{{Cite web |url = http://www.cdep.ro/pls/legis/legis_pck.htp_act_text?idt=11033 |title = DECRET-LEGE nr.6 din 7 ianuarie 1990 |last = |first = |author = ION ILIESCU |authorlink = |coauthors = |date = January 1990 |website = |work = cdep |publisher = |archive-url = |archive^date = |access-date = 26 September 2022 }}</ref>。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニアで死刑が執行された最後の存在となった。また、共産主義体制下のルーマニアで死刑が導入されたのは、[[1957年]][[9月30日]]のことであった<ref>{{Cite web |url = http://www.sferapoliticii.ro/sfera/149/art06-duduciuc_tiu.html |title = Constituţia şi opinia publică:consensul social privind pedeapsa cu moartea |last = |first = |author = ALINA DUDUCIUC, ILARION ŢIU |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = Sfera Politicii |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20150924100831/http://www.sferapoliticii.ro/sfera/149/art06-duduciuc_tiu.html |archive-date = 24 September 2015 |access-date = 26 September 2022}}</ref>。 |
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略式裁判の際、チャウシェスクは「外国の銀行に秘密口座を開設した」と言われたが、そのような口座は実際には存在しないことが分かった<ref>{{Cite web |url = http://www.rtv.net/misterul-conturilor-lui-ceausescu_66720.html |title = Misterul conturilor lui Ceauşescu VIDEO |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 17 February 2013 |website = RTV |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20130218131332/http://www.rtv.net/misterul-conturilor-lui-ceausescu_66720.html |archive-date = 18 February 2013 |access-date = 27 October 2022 }}</ref>。国会特別委員会の議長、サビネ・クタス(''Sabine Kutas'')は、「銀行家や中央銀行総裁、ジャーナリストに話を聞き、証言を聞いた結果、『ニコラエ・チャウシェスクが外国の銀行に秘密の口座を持ち、お金を不正に移していた』ことを示す証拠は見付からなかった」と結論付けている<ref name = "Румынский диктатор Чаушеску, убитый 21 год назад, мог быть не похоронен" />。 |
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== 世論調査 == |
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[[2009年]]にルーマニアで実施された「''CURS''」による世論調査の結果によれば、ニコラエ・チャウシェスクについて、回答者の31%が「ルーマニアに利益をもたらした人物として歴史の教科書に載せるべきだ」と考えており、13%は「国に不利益をもたらした」と考えており、52%は「良いことも悪いこともした」と考えている。56歳以上の回答者の多くは、「チャウシェスクは悪いことよりも良いことをした」と考えている。農村部においては、「チャウシェスクは悪いことをした」と考えているのは9%であり、40%はチャウシェスクのことを高く評価している。その理由は、「農村は20年前と同じか、それ以上に悲惨なことになっている。道路の状態は悪く、下水道は無く、ガス管が無いゆえに薪を燃やして火を起こしている。しかし、チャウシェスクの時代には、少なくとも雇用があったのだ」という<ref>{{Cite web |url = http://www.jurnalul.ro/special/cum-ar-trebui-sa-fie-apreciat-nicolae-ceausescu-in-manualele-de-istorie-527540.htm |title = Cum ar trebui să fie apreciat Nicolae Ceauşescu în manualele de istorie? |last = |first = |author = ILARION TIU |authorlink = |coauthors = |date = 17 November 2009 |website = |work = |publisher = |archive-url = https://archive.ph/U9GF |archive-date = 3 August 2012 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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『''Marsh Copsey Associates''』とルーマニア社会調査局が共同で実施した世論調査では、回答者の60%以上が「1989年以前に比べると、現在の政治家は腐敗しており、チャウシェスク政権のころのほうが公序良俗を守っていた」と回答した。回答者の55.8%が、「共産党独裁政権による政治は、現在の政治に比べて、国民を大切にしていた」と回答した。さらに、回答者の35%が「チャウシェスク政権の崩壊は、ルーマニアにとって不利益」であり、22%が「チャウシェスクが統治していたころに戻りたい」と回答した。「これは『現在の政治体制に不満があり、政治家全員が、自分たちの直面している問題の解決に対して無関心を決め込んでいるだけでなく、無能な存在である』と考えている人たちの比率である」という。さらに、18歳から29歳までの回答者のあいだで、18.5%が共産主義への回帰を望んでおり、25.6%は「どちらとも言えない」と回答した。48.4%が「1989年12月当時、何が起こっていたのかを知っておく必要がある」と回答し、33.6%は「知りたくない」と回答し、18.1%は「分からない」と回答した。1989年12月の出来事で、セクリターテの関与とその役割については、42.6%が「分からない」と回答し、30.2%が「好ましくない役割を果たした」と回答し、19.5%が「有益な役割を果たした」と回答し、7.8%が「何の役割も果たさなかった」と回答した。そして、回答者の73.4%は、「チャウシェスク夫妻は処刑されるべきではなかった」と回答し、「処刑されて当然だ」と回答したのは12%であった。「1989年の出来事から20年経った今、ルーマニアは共産主義から脱却したかどうか」の設問では、回答者の41.8%が「多少なりとも脱却した」と回答し、30%は「ある程度脱却した」と回答し、「完全に脱却した」と回答したのは8.3%であった。自分と自分の家族の生活状況については、ルーマニア国民の42.2%が「1989年以前よりも悪くなっている」と回答し、30.7%は「楽になった」と回答し、27.1%は「何も変わっていない」と回答した。この調査は、2009年[[10月15日]]から[[10月19日]]にかけて、18歳以上の1222人を対象に実施され、誤差は±2.9%であった<ref>{{Cite web |url = https://ziare.com/politica/stiri-politice/romanii-regreta-comunismul-si-executia-sotilor-ceausescu-947779 |title = Romanii regreta comunismul si executia sotilor Ceausescu |last = |first = |author = Irina Ursu |authorlink = |coauthors = |date = 11 November 2009 |website = Ziare |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20140311144201/https://ziare.com/politica/stiri-politice/romanii-regreta-comunismul-si-executia-sotilor-ceausescu-947779 |archive-date = 11 March 2014 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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ルーマニア評価戦略研究所は、[[2010年]][[7月21日]]から[[7月23日]]にかけて、18歳以上のルーマニア人1460人を対象に世論調査を実施し、[[7月26日]]に結果を公表した。それによれば、回答者の63%が「1989年以前のほうが生活は良かった」と回答し、23%が「今の生活のほうが良い」と回答した。ニコラエ・チャウシェスクの政治については、49%が「良い指導者だった」と回答し、15%が「悪い指導者だった」と回答し、30%が「良くも悪くもない」と回答した。「共産党の存在を法的に禁止すべきか」に賛成の回答を示したのは13%で、57%はそれに反対であった。ロシアの通信社『''Регнум Новости''』(「リェグノム・ノヴォスチェ」)は、「もしも現在のルーマニアで、チャウシェスクが大統領選挙に出馬した場合、ルーマニア国民の41%が彼に投票しようとするだろう」と書いた<ref>{{Cite web |url = http://www.regnum.ru/news/polit/1308493.html |title = Соцопрос: 41% румын хотят возвращения диктатора Чаушеску |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 26 July 2010 |website = Regnum |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20100729022619/http://www.regnum.ru/news/polit/1308493.html |archive-date = 29 July 2010 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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ルーマニア評価戦略研究所は、2010年[[12月19日]]から[[12月21日]]にかけて世論調査を実施した。回答者の45%が「1989年の出来事が無ければ、自分の生活はもっと良くなった」と考えており、25%以上は「生活はより悪くなった」と考えている。チャウシェスクの裁判と死刑について、回答者の84%は「あれは公正な裁判ではないし、チャウシェスクを処刑したのは間違っていた」と考えており、50%が「チャウシェスク夫妻を死刑にした裁判の評決に反対する」と回答した。1989年12月の出来事については、ルーマニア人のあいだでは意見が分かれている。45%は「革命」で、45%は「クーデター」と考えている。また、回答者の64%は「あの出来事には外部の勢力が関わっていた」と確信しており、回答者の51%は「ソ連が関与していた」と考えている<ref>{{Cite web |url = https://www.blackseanews.net/read/7576 |title = Опрос: больше половины румын сожалеют о смерти Чаушеску |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 24 December 2010 |website = Blacksea News |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20120314025505/http://www.blackseanews.net/read/7576 |archive-date = 14 March 2012 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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心理学者のジョルジェ・ヴシュチェラーノ(''George Vîșceleanu'')は、「ルーマニアの『黄金時代』(チャウシェスクによる共産主義体制)を悔やんでいるのは、物質面で恩恵を得られた人か、受けた教育水準が平均以下の人だけである」という。「当時は自由な表現が許されず、あらゆる面で抑圧的な体制だった」と述べた。歴史学者のヴァスィーレ・レチンツァン(''Vasile Lechințan'')によれば、「共産主義時代に対する郷愁の念がある背景には、青春時代が過ぎ去ってしまったことへの後悔がある」という。「彼らが共産主義を懐かしむのは、そのころの彼らが全盛期で、若く、両親も生きていて、家族が揃っていたからだ」「学校を卒業したあとは就職し、現在は入手が困難な住居に住める。当時は誰もがそう信じていた」と述べた。社会学者のマリウス・マティチェスク(''Marius Matichescu'')によれば、過去に対する懐古の情は、現在満たされていない中で生じるものだという。「仕事も住まいも、当時は国から提供されていたのに、今では手に入れるのが困難だ」「共産主義体制に対する郷愁の念は、現時点で困難に直面している人々に見られる点に注目すべきだ」と述べた<ref>{{Cite web |url = https://adevarul.ro/stil-de-viata/cultura/foto-amintiri-din-epoca-de-aur-de-ce-suntem-1418739.html |title = FOTO Amintiri din Epoca de Aur: de ce suntem nostalgici după Ceauşescu. Cum explică sociologii şi istoricii dorul românilor după comunism |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 15 March 2013 |website = |work = |publisher = |archive-url = https://archive.ph/iCymM |archive-date = 29 October 2022 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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== 勲章 == |
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[[File:IICCR N014 Ceausescu playing billiards.jpg|thumb|[[ビリヤード]]に興ずるチャウシェスク(1976年)]] |
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[[File:IICCR N155 Ceausescu hunting boars.jpg|thumb|休暇中に狩りを行う様子(1976年)]] |
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[[File:Roemeense president Ceausescu (tgv 60e verjaardag) op wintersport met echtge, Bestanddeelnr 929-5396.jpg|thumb|妻・エレナと(1978年1月24日)]] |
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ニコラエ・チャウシェスクは、「ルーマニア社会主義共和国英雄」(''Erou Al Republicii Socialiste România'')<ref name = "Decretul nr. 168/1971 privind conferirea titlului de Erou al Republicii Socialiste România şi a ordinului Victoria Socialismului tovarăşului Nicolae Ceauşescu" >{{Cite web |url = https://lege5.ro/Gratuit/gyydaoby/decretul-nr-168-1971-privind-conferirea-titlului-de-erou-al-republicii-socialiste-romania-si-a-ordinului-victoria-socialismului-tovarasului-nicolae-ceausescu |title = Decretul nr. 168/1971 privind conferirea titlului de Erou al Republicii Socialiste România şi a ordinului Victoria Socialismului tovarăşului Nicolae Ceauşescu |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 6 May 1971 |website = Lege5 |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20161213213702/https://lege5.ro/Gratuit/gyydaoby/decretul-nr-168-1971-privind-conferirea-titlului-de-erou-al-republicii-socialiste-romania-si-a-ordinului-victoria-socialismului-tovarasului-nicolae-ceausescu |archive-date = 13 December 2016 |access-date = 29 October 2022 }}</ref><ref name = "Decretul 1 din 25 ianuarie 1978 (Decretul 1/1978) " >{{Cite web |url = http://www.legestart.ro/Decretul-1-1978-conferirea-doua-oara-Titlului-Onoare-Suprem-Erou-Republicii-Socialiste-Romania-Ordinului-Victoria-Socialismului-Tovarasului-NICOLAE-CEAUSESCU-Secretar-(MTYyNjEz).htm |title = Decretul 1 din 25 ianuarie 1978 (Decretul 1/1978) |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = Legestart |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20110122050143/http://www.legestart.ro/Decretul-1-1978-conferirea-doua-oara-Titlului-Onoare-Suprem-Erou-Republicii-Socialiste-Romania-Ordinului-Victoria-Socialismului-Tovarasului-NICOLAE-CEAUSESCU-Secretar-(MTYyNjEz).htm |archive-date = 19 January 2012 |access-date = 29 October 2022 }}</ref><ref name = "Decretul 10 din 25 ianuarie 1988 (Decretul 10/1988) " >{{Cite web |url = http://www.legestart.ro/Decretul-10-1988-a-Comitetului-Politic-Executiv-Comitetului-Central-Partidului-Comunist-Roman-Consiliului-Stat-Republicii-Socialiste-Romania-conferirea-Titlului-Onoare-(ODIxODM-).htm |title = Decretul 10 din 25 ianuarie 1988 (Decretul 10/1988) |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = Legestart |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20120118135648/http://www.legestart.ro/Decretul-10-1988-a-Comitetului-Politic-Executiv-Comitetului-Central-Partidului-Comunist-Roman-Consiliului-Stat-Republicii-Socialiste-Romania-conferirea-Titlului-Onoare-(ODIxODM-).htm |archive-date = 18 January 2012 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>、「『社会主義の勝利』勲章」(''Ordinul "Victoria Socialismului"'')<ref name = "Decretul nr. 168/1971 privind conferirea titlului de Erou al Republicii Socialiste România şi a ordinului Victoria Socialismului tovarăşului Nicolae Ceauşescu" /><ref name = "Decretul 1 din 25 ianuarie 1978 (Decretul 1/1978) " /><ref name = "Decretul 10 din 25 ianuarie 1988 (Decretul 10/1988) " />をはじめ、数々の勲章を受勲している。[[1988年]]には、[[東ドイツ]]の[[エーリッヒ・ホーネッカー]](''Erich Honecker'')から「[[カール・マルクス勲章]]」を授与された<ref>{{Cite web |url = https://moldova.europalibera.org/a/1880751.html |title = 15 noiembrie 1989 - Ziua internaţională de acţiune România |last = |first = |author = William Totok |authorlink = |coauthors = |date = 17 November 2009 |website = Radio Europe Liberă |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20191114183400/https://moldova.europalibera.org/a/1880751.html |archive-date = 14 November 2019 |access-date = 29 October 2022 }}</ref>。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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長男の[[ヴァレンティン・チャウシェスク]](''Valentin Ceauşescu'')は物理学者。政治には一切関わらなかった。「長男は[[養子]]」との噂が長年広まっていた<ref name = "EVZ20150601" >{{Cite web |url = http://evz.ro/copiii-dictatorului-valentin-ceausescu-fiul-model-al-unei-familii-problema.html |title = SPECIAL EVZ. Copiii DICTATORULUI comunist. Valentin Ceaușescu, fiul model al unei familii-problemă |author = Cătălin Olteanu |date = 1 June 2015 |publisher = Evenimentul Zilei |archive-url = https://web.archive.org/web/20150601012230/http://evz.ro/copiii-dictatorului-valentin-ceausescu-fiul-model-al-unei-familii-problema.html |archive-date = 1 June 2015 |access-date = 7 November 2022 }}</ref><ref>{{Cite web |url = https://www.click.ro/news/national/femeile-din-viata-lui-valentin-ceausescu-cum-arata-prima-sotie-antipatizata-de |title = Femeile din viața lui Valentin Ceaușescu. Cum arăta prima soție, antipatizată de dictatori |author = Eugenia Alexandrescu |date = 13 March 2017 |publisher = Click! |archive-url = https://web.archive.org/web/20170313174023/https://www.click.ro/news/national/femeile-din-viata-lui-valentin-ceausescu-cum-arata-prima-sotie-antipatizata-de |archive-date = 13 March 2017 |access-date = 7 November 2022 }}</ref>ものの、この噂を裏付ける具体的な証拠が示されたことはなく<ref name="EVZ20150601" />、ヴァレンティン本人も養子説を繰り返し否定している<ref name = "EVZ20150601" /><ref>{{Cite web |url = http://www.ceausescu.org/ceausescu_texts/valentin_mega_interview_ro.html |title = 'Mega-interviu' cu Valentin Ceausescu |author = Dan Filoti |date = 30 May 2006 |publisher = Ceausescu.org |archive-url = https://web.archive.org/web/20060627075326/http://www.ceausescu.org/ceausescu_texts/valentin_mega_interview_ro.html |archive-date = 27 June 2006 |access-date = 7 November 2022 }}</ref>。ニコラエとエレナが1947年12月に結婚した時点で、エレナは妊娠7ヶ月であった<ref name = "Apostolii Epocii de Aur. De ce era Nicolae Ceauşescu un pic cam trist" />。エレナはその2か月後にヴァレンティンを産んだ。 |
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妻[[エレナ・チャウシェスク|エレナ]]との間に2男1女がいる。 |
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* [[ヴァレンティン・チャウシェスク]]([[1948年]][[2月17日]] - ) - 長男。[[核物理学]]者。[[養子]]だという噂が長年広まっていた<ref name="EVZ20150601">{{Cite news|author=Cătălin Olteanu|title=Copiii DICTATORULUI comunist. Valentin Ceaușescu, fiul model al unei familii-problemă|url=http://evz.ro/copiii-dictatorului-valentin-ceausescu-fiul-model-al-unei-familii-problema.html|language=[[ルーマニア語]]|date=2015-06-01|newspaper=[[:en:Evenimentul Zilei|Evenimentul Zilei]]|accessdate=2018-01-07}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.click.ro/news/national/femeile-din-viata-lui-valentin-ceausescu-cum-arata-prima-sotie-antipatizata-de|title=Femeile din viața lui Valentin Ceaușescu. Cum arăta prima soție, antipatizată de dictatori|author=Eugenia Alexandrescu|language=ルーマニア語|date=2017-08-03|newspaper=[[:en:Click!|Click!]]|accessdate=2018-01-07}}</ref>ものの、この噂を裏付ける具体的な証拠が示されたことはなく<ref name="EVZ20150601" />、ヴァレンティン本人も養子説を否定している<ref name="EVZ20150601" /><ref>{{Cite web|author=Dan Filoti |url=http://www.ceausescu.org/ceausescu_texts/valentin_mega_interview_ro.html |title='Mega-interviu' cu Valentin Ceausescu |language=ルーマニア語 |date=2006-05-30 |publisher=Ceausescu.org |accessdate=2018-01-07}}</ref>。[[核物理学]]者となり政治には関わっていなかったことから、革命の際にも身柄拘束はされなかった。その後、[[横領]]などの容疑で逮捕されたものの、[[不起訴処分]]となり釈放、現在は核物理学者として復帰している。革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。 |
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* [[ゾヤ・チャウシェスク]]([[1949年]][[3月1日]] - [[2006年]][[11月20日]]) - 長女。[[数学者]]であった一方、党の役職にもついていた。革命前は贅沢三昧の暮らしをしていたといわれ、「[[イヌ|飼い犬]]に[[牛肉]]を与えていた」等と報じられる。革命の際に身柄を拘束される。間もなく横領などの容疑で改めて逮捕されたが、不起訴処分となり釈放。その後革命時に新政権によって没収された財産の返還を求める裁判を起こした。最終的にその訴えの一部が認められ、財産の一部がゾヤに返還された。2006年、[[肺がん]]のため死去。 |
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* [[ニク・チャウシェスク]]([[1951年]][[9月1日]] - [[1996年]][[9月25日]]) - 次男。革命時はセクリタテアの幹部で、党政治執行委員候補であり、父の後継者と目されていた。革命の際には愛人とともに車で逃亡を図るも逮捕された。間もなくブカレスト市内の国営テレビ局に連行され、押しかけた人々に罵られながら救国戦線の関係者らに詰問され、その一部始終がテレビで放映された。その後横領など複数の罪で起訴され、懲役20年の判決を受け服役。1992年[[肝硬変]]のため解放されるも、その4年後の1996年に死去。生前は[[アルコール依存症|酒浸り]]の生活であったという<ref>Ion Mihai Pacepa (1990) ''Red Horizons: The True Story of Nicolae and Elena Ceaușescus' Crimes, Lifestyle, and Corruption'', Regnery Publishing, Inc. pp. 62–63. {{ISBN2|0-89526-746-2}}.</ref>。 |
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長女の[[ゾヤ・チャウシェスク]](''Zoia Ceaușescu'')は数学者であり、複数の論文を発表している<ref>{{Cite web |title = Zoia Ceaușescu on Google Scholar |url = https://scholar.google.com/scholar?hl=en&as_sdt=0%2C44&q=%22Z.+Ceausescu%22&btnG= |website = [[Google Scholar]] |access-date = 17 November 2022 }}</ref>。政治にはほとんど関わらなかった。[[2006年]][[11月20日]]、[[肺癌]]で死んだ<ref name = "Sub povara numelui" >{{Cite web |url = http://www.monitorulsb.ro/cms/site/m_sb/news/sub_povara_numelui_4967.html |title = Sub povara numelui |last = |first = |author = CAMELIA ONCIU |authorlink = |coauthors = |date = 22 November |year = 2006 |month = |format = |website = |work = |publisher = Monitorulsb |archive-url = https://web.archive.org/web/20070929171648/http://www.monitorulsb.ro/cms/site/m_sb/news/sub_povara_numelui_4967.html |archive-date = 29 September 2007 |access-date = 30 September 2020 }}</ref><ref>{{Cite web |url = http://www.evz.ro/articole/detalii-articol/420087/Invinsa-de-cancer/ |title = Invinsa de cancer |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 22 November |year = 2006 |month = |format = |website = |work = |publisher = Evenimentul Zilei |archive-url = https://web.archive.org/web/20090520181515/http://www.evz.ro/articole/detalii-articol/420087/Invinsa-de-cancer/ |archive-date = 20 May 2009 |access-date = 30 September 2020 }}</ref>。 |
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== 関連作品 == |
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;映画 |
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* ''Autobiografia lui Nicolae Ceausescu'' (ニコラエ・チャウシェスク自伝) - Andrei Ujica監督、[[2010年]]。チャウシェスクの書記長就任から、89年の革命後の裁判までの記録映像を編集、構成。[http://www.imdb.com/title/tt1646958/ IMBb][http://www.youtube.com/watch?v=1h50di3Bc6g&feature=related Youtube] |
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* [[MASTERキートン]] - [[浦沢直樹]]らによる[[日本]]の漫画。[[1988年]]〜[[1992年]]に連載。最終章において、主人公たちがチャウシェスクの隠し遺産をめぐる争いに巻き込まれる。 |
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* [[4ヶ月、3週と2日]] - [[2007年]]のルーマニア映画。[[クリスティアン・ムンジウ]]監督、[[アナマリア・マリンカ]]主演。チャウシェスク政権下、[[中絶]]が違法だった[[1987年]]のルーマニアを舞台に、望まぬ妊娠をしたルームメイトの堕胎のため奔走する女学生の一日をリアルに描写した作品。[[カンヌ国際映画祭]] [[パルム・ドール]]受賞。 |
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== 参考文献 == |
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;チャウシェスク本人の著作、演説・報告・インタビュー集 |
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*([[草野悟一]]編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会主義建設の旗手』[[ベースボール・マガジン社|恒文社]]、1971年。 |
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*(草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 平和と国際協力の政策』恒文社、1971年。 |
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*(草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 国際平和への道』恒文社、1978年。 |
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*([[鈴木四郎]]訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会・政治思想』恒文社、1981年。 |
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;その他 |
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* [[川崎秀二]]『自主独立路線のルーマニア 米中和解の立役者チャウシェスク 』[[仙石出版社]]、1972年。 |
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* [[松丸了]]『ルーマニア革命 ブカレスト駐在日本人の記録』[[東洋経済新報社]]、1990年。 |
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* [[鈴木四郎]]『チャウシェスク銃殺その後 ルーマニアはどこへ』[[中央公論社]]、1991年。 |
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* {{仮リンク|シルビュ・ブルカン|en|Silviu Brucan}}([[大塚寿一]]訳)『ルーマニア・二つの革命 「不毛な世代」のわが体験』[[サイマル出版会]]、1993年{{efn|著者はルーマニア共産党最高幹部であったがチャウシェスクと対立。89年の革命では救国戦線のリーダーの一人となる。}}。 |
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* [[イオン・ミハイ・パチェパ]]([[住谷春也]]訳)『赤い王朝 チャウシェスク独裁政権の内幕』恒文社、1993年{{efn|著者はチャウシャスク政権下の[[セクリタテア|秘密警察]]最高幹部であったが、1978年アメリカに亡命。}}。 |
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* [[柴宜弘]]編『バルカン史(世界各国史18)』[[山川出版社]]、1998年。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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次男の[[ニク・チャウシェスク]](''Nicu Ceaușescu'')は、[[ブカレスト大学]]の物理学部を卒業後、政治の道を歩む。1989年12月の革命で、殺人を扇動した容疑で逮捕され、20年の懲役刑を言い渡された。[[肝硬変]]と[[糖尿病]]を患っており、[[1996年]][[9月16日]]にブカレスト大学病院に緊急入院し、手術を受けた。[[9月18日]]にルーマニアを離れ、[[ウィーン|ヴィーン]]に向かい、手術を受けた。[[1996年]][[9月26日]]に同地で死んだ。その3日後、両親と同じくゲンチャ墓地に埋葬された<ref>{{Cite web |url = https://www.newsru.com/world/22nov2006/zoe.html |title = Дочь расстрелянного румынского экс-президента Чаушеску скончалась от рака |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = 22 November 2006 |month = |format = |website = Newsru.com |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20100122013152/https://www.newsru.com/world/22nov2006/zoe.html |archive-date = 22 January 2010 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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=== 注釈 === |
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== 映画 == |
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* ''Autobiografia lui Nicolae Ceausescu'' (『ニコラエ・チャウシェスク自伝』) - チャウシェスクの書記長就任から、89年の革命後の裁判までの記録映像を編集、構成。[[2010年]]公開。監督はアンドレイ・ウージカ(''Andrei Ujica'')。 |
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* [[4ヶ月、3週と2日]](原題:『''4 luni, 3 săptămâni și 2 zile''』) - [[2007年]]に公開されたルーマニア映画。監督は[[クリスティアン・ムンジウ]](''Cristian Mungiu'')、主演は[[アナマリア・マリンカ]](''Anamaria Marinca'')。チャウシェスク政権の時代、[[中絶]]が違法だった[[1987年]]のルーマニアを舞台に、望まぬ形で妊娠した同室者の堕胎に向けて奔走する女学生の一日。[[カンヌ国際映画祭]]で[[パルム・ドール]]を受賞した。[[ニューヨーク・タイムス]](''The New York Times'')の映画評論家、マノーラ・ダルギス(''Manohla Dargis'')は、「アカデミー賞まで受賞するなんてのはバカげているが、可能な限り、沢山の人々が視聴するに値する映画だ」と評価した<ref>{{Cite web |url = https://www.nytimes.com/2008/01/25/movies/25mont.html |title = Friend Indeed Who Doesn’t Judge or Flinch |last = |first = |author = MANOHLA DARGIS |authorlink = |coauthors = |date = 25 January 2008 |website = |work = |publisher = [[The New York Times]]|archive-url = https://web.archive.org/web/20150527005019/https://www.nytimes.com/2008/01/25/movies/25mont.html |archive-date = 27 May 2015 |access-date = 26 October 2022 }}</ref>。 |
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== ニコラエ・チャウシェスクによる自伝・演説・報告 == |
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* ''Report during the joint solemn session of the CC of the Romanian Communist Party, the National Council of the Socialist Unity Front and the Grand National Assembly: Marking the 60th anniversary of the creation of a Unitary Romanian National State'', 1978 |
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* ''Major problems of our time: Eliminating underdevelopment, bridging gaps between states, building a new international economic order'', 1980 |
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* ''The solving of the national question in Romania (Socio-political thought of Romania's President)'', 1980 |
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* ''Ceaușescu: Builder of Modern Romania and International Statesman'', 1983 |
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* ''The nation and co-habiting nationalities in the contemporary epoch (Philosophical thought of Romania's president)'', 1983 |
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* ''The history of the Romanian people in the view of the President'' (''Istoria poporului român în concepția președintelui''), 1988 |
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=== 日本語翻訳版 === |
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*(草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会主義建設の旗手』[[ベースボール・マガジン社|恒文社]]、1971年 |
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*(草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 平和と国際協力の政策』恒文社、1971年 |
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*(草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 国際平和への道』恒文社、1978年 |
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*([[鈴木四郎]]訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会・政治思想』恒文社、1981年 |
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== 参考資料 == |
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* Ion Mihai Pacepa : ''Red Horizons: Chronicles of a Communist Spy Chief'', Regnery Gateway, 1987 {{ISBN2|978-0895265708}} |
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* Stelian Tănase, "Societatea civilă românească și violența" ("Romanian Civil Society and Violence"), in ''Agora'', issue 3/IV, July–September 1991 |
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* Silviu Brucan : ''The Wasted Generation: Memoirs Of The Romanian Journey From Capitalism To Socialism And Back'', Westview Press, 1993. {{ISBN2|978-0-8133-1833-2}} |
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* Dennis Deletant (1995), ''Ceaușescu and the Securitate: Coercion and Dissent in Romania, 1965–1989'', {{ISBN2|978-1563246333}} pub. M. E. Sharpe. p. 351 |
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* Dumitru Burlan, ''Dupa 14 ani – Sosia lui Ceaușescu se destăinuie'' ("After 14 Years: The Double of Ceaușescu confesses"). Editura Ergorom. 31 July 2003. |
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* Vladimir Tismăneanu, ''Stalinism pentru eternitate: O istorie politică a comunismului românesc'', Editura Humanitas. 2014. |
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* {{Cite web |url = http://www.crimelecomunismului.ro/ro/biografiile_nomenklaturii/|title = Biografiile nomenklaturii |last = |first = |author = |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = crimele comunismului |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20100620225535/http://www.crimelecomunismului.ro/ro/biografiile_nomenklaturii/ |archive-date = 20 June 2010 |access-date = 25 February 2022 }} |
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* {{Cite web |url = http://www.cnsas.ro/documente/caiete/Caiete_CNSAS_nr_3_2009.pdf |title = Alexandru Drăghici la ora naţionalismului – popularizarea „Declaraţiei din aprilie 1964” |last = |first = |author = Luminița Banu and Florian Banu |authorlink = |coauthors = |date = 2009 |website = |work = Caietele CNSAS |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20140324051433/http://www.cnsas.ro/documente/caiete/Caiete_CNSAS_nr_3_2009.pdf |archive-date = 24 March 2014 |access-date = 26 October 2022 }} |
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* {{Cite web |url = http://adatbank.transindex.ro/vendeg/htmlk/pdf9119.pdf |title = TRANSILVANIA ROŞIE. COMUNISMUL ROMÂN ŞI PROBLEMA NAŢIONALĂ 1944–1965 |last = |first = |author = STefano BoTToni |authorlink = |coauthors = |date = |website = |work = ediTura inSTiTuTului penTru STudierea proBlemelor minoriTăţilor naţionale |publisher = Cluj-napoca, 2010 |archive-url = https://web.archive.org/web/20121024120704/http://adatbank.transindex.ro/vendeg/htmlk/pdf9119.pdf |archive-date = 24 October 2012 |access-date = 26 October 2022 }} |
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* {{Cite web |url = http://www.ioanscurtu.ro/content/view/87/1/ |title = "Lovitura de Stat" data de generalul Stanculescu (22 Decembrie 1989) |last = |first = |author = Ioan Scurtu |authorlink = |coauthors = |date = 2009 |website = ioanscurtu |work = |publisher = |archive-url = https://web.archive.org/web/20090701071356/http://www.ioanscurtu.ro/content/view/87/1/ |archive-date = 1 July 2009 |access-date = 26 October 2022 }} |
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== 出典 == |
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{{Reflist}} |
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== |
== 外部リンク == |
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{{Commons category}} |
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{{commons&cat|Nicolae Ceauşescu|Nicolae Ceauşescu}} |
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* [[ルーマニア革命 (1989年)]] |
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* [[ルーマニア共産党]] |
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* [[ルーマニア社会主義共和国]] |
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* [[国民の館]] |
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* [[1989年のルーマニア革命に関する書籍一覧]] |
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* [[バルカン政治家]] |
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* [http://ro.wikisource.org/wiki/Stenograma_procesului_Ceau%C5%9Fescu Stenograma procesului Ceaușescu] --- 1989年12月25日、ニコラエとエレナに対する略式裁判の記録(ルーマニア語) |
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{{先代次代|[[ルーマニア共産党|ルーマニア共産党書記長]]|[[1965年]] - [[1989年]]|[[ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ]]|(解散)}} |
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{{先代次代|国家評議会議長|[[1967年]] - [[1989年]]|{{仮リンク|キヴ・ストイカ|en|Chivu Stoica}}|(大統領制移行)}} |
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{{先代次代|[[ルーマニアの大統領|ルーマニア大統領]]|[[1974年]] - [[1989年]]|(発足)|[[イオン・イリエスク]]}} |
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{{Normdaten}} |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=wWIbCtz_Xwk&ab_channel=AvocatulPoporului Nicolae Ceausescu LAST SPEECH (english subtitles) 1/2] - 1989年12月21日、ニコラエ・チャウシェスクによる最後の演説・その1(英語字幕付き) |
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* [https://www.youtube.com/watch?v=3muDjmU2ozQ&ab_channel=AvocatulPoporului Nicolae Ceausescu LAST SPEECH english subtitles 2/2] - 1989年12月21日、ニコラエ・チャウシェスクによる最後の演説・その2(英語字幕付き) |
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2022年11月17日 (木) 15:02時点における版
ニコラエ・チャウシェスク | |
---|---|
Nicolae Ceaușescu | |
ニコラエ・チャウシェスク(1965年) | |
ルーマニア共産党書記長[a] | |
任期 1965年3月22日 – 1989年12月22日 | |
前任者 | ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
ルーマニア社会主義共和国大統領 | |
任期 1974年3月28日 – 1989年12月22日 | |
閣僚評議会議長 |
|
ルーマニア国家評議会議長 | |
任期 1967年12月9日 – 1989年12月22日 | |
閣僚評議会議長 |
|
前任者 | キヴ・ストイカ |
ルーマニア大国民議会議員 | |
任期 1950年5月31日 – 1955年10月3日 | |
常任幹部会議長 | コンスタンティン・イオン・パルホン ペトル・グローザ |
国防副大臣 | |
任期 1950年3月18日 – 1954年 | |
閣僚評議会議長 | ペトル・グローザ ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
国防大臣 | エミール・ボドナラーシュ |
農業副大臣 | |
任期 1949年 – 1950年 | |
閣僚評議会議長 | ペトル・グローザ ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
農業大臣 | ヴァスィーレ・ヴァイダ |
農業次官 | |
任期 1948年5月13日 – 1949年 | |
閣僚評議会議長 | ペトル・グローザ ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ |
農業大臣 | ヴァスィーレ・ヴァイダ |
ルーマニア共産党中央委員会委員 | |
任期 1952年 – 1989年12月22日 | |
共産主義青年同盟第一書記 | |
任期 1944年8月23日 – 1945年6月 | |
後任者 | コンスタンティン・ダスカレスク |
オルト郡地域委員会第一書記 | |
任期 1946年12月 – 1948年5月 | |
ルーマニア大国民議会議員 | |
任期 1948年3月28日 – 1952年11月30日 | |
選挙区 | オルト郡 |
任期 1952年11月30日 – 1969年3月2日 | |
選挙区 | ピテシュティ区 |
任期 1969年3月2日 – 1989年12月22日 | |
選挙区 | ブクレシュティ |
ルーマニア下院議員 | |
任期 1946年11月19日 – 1948年2月25日 | |
選挙区 | オルト郡 |
個人情報 | |
生誕 | 1918年1月23日 ルーマニア王国・スコルニチェシュティ |
死没 | 1989年12月25日 (71歳没)
ルーマニア社会主義共和国・オルト郡トゥルゴヴィシュテ |
死因 | 銃殺刑 |
墓地 | ゲンチャ墓地 |
国籍 | ルーマニア |
政党 | ルーマニア共産党 |
配偶者 | エレナ・チャウシェスク(1947年 - 1989年) |
子供 | ヴァレンティン・チャウシェスク ゾヤ・チャウシェスク ニク・チャウシェスク |
宗教 | 無神論 |
受賞 | ファイル:Karl-Marx-Orden.jpg |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | ルーマニア社会主義共和国 |
所属組織 | ルーマニア陸軍 |
軍歴 | 1950年 - 1954年 |
最終階級 | 中将 |
a. ^ 前任者のゲオルギウ=デジのころまでは「ルーマニア労働者党第一書記」 |
ニコラエ・チャウシェスク(Nicolae Ceaușescu, ルーマニア語: [nikoˈla.e tʃe̯a.uˈʃesku] ( 音声ファイル); 1918年1月26日– 1989年12月25日) は、ルーマニアの共産政治家。ルーマニア社会主義共和国大統領、ルーマニア共産党書記長、ルーマニア国家評議会第3代目議長を歴任した。
王制時代のルーマニアの貧しい農家に生まれ、早くから共産主義運動に関わった。ルーマニア共産党に入党し、数回逮捕され、第二次世界大戦中は収容所暮らしを送った。戦後、ルーマニア共産党が権力を握ると、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorghe Gheorghiu-Dej)による指導のもと、共産党内で出世していった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、チャウシェスクはゲオルギウ=デジの後継者としてルーマニア共産党書記長に就任し、権力を掌握した[1]。
権力の座に就いたころのチャウシェスクは報道の検閲を緩和したり、党のイデオロギーに反しない限り、表現の自由を認め、東ヨーロッパの共産陣営の中でも比較的自由な気風が見られた。しかし、1971年に訪問先の中国と北朝鮮で強烈な個人崇拝を目の当たりにし、それに影響されたチャウシェスクのルーマニアは、まもなく全体主義の色を帯びるようになった。秘密警察・セクリターテ(Securitate)がルーマニア国内における大規模な監視と冷酷な抑圧を担当して国民を従わせ、報道機関を統制下に置き、ルーマニアは東ヨーロッパの国々の中で最も抑圧的な国と見なされるようになった。
チャウシェスクはルーマニアの人口を大幅に増やす政策を実施しようとした。チャウシェスクは1966年に法律を制定し、避妊を禁止する「法令第770号」(Decretul 770)を可決した。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの所得税を課した[2]。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、離婚については例外的な事例のみ、認められた。子供を5人以上産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合、「母親英雄」(Мать-Героиня)の勲章を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ妊娠を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった[3]。さらに、国の養護施設に子供が預けられたことで、孤児だけでなく、HIV感染までもが増加した[4]。
チャウシェスクは前任者のゲオルギウ=デジの方針を踏襲する形で、自国ルーマニアをソ連から独立させようとした。チャウシェスクによる指導のもと、外国の資本の参入を認め、国際金融機関から融資を受けたルーマニアは経済成長を見せ、農業国から工業国への転身を果たしたが、1970年代の石油危機が契機となり、ルーマニアの抱える対外債務の額は飛躍的に増大した。対外債務を返済するため、チャウシェスクは農作物や工業製品の輸出量を増やすよう、政府に指示を出した。それに伴って慢性的な物資不足が続き、水、油、熱、電気、医薬品、その他の生活必需品について、政府は配給制を導入するほどになり[5][6]、国民の生活水準は目に見えて低下していった。その一方で、ニコラエ・チャウシェスクと妻エレナ・チャウシェスク(Elena Ceaușescu)の二人に対する個人崇拝は前例が無いほどに強まった。ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)が打ち出した「ペレストロイカ」(Перестройка)をチャウシェスクが公然と批判したことにより、ルーマニアとソ連の外交関係の悪化は深刻なものとなった[7]。
1989年12月、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師への立ち退き命令に対する抗議運動が始まり、ひいてはここから暴動・革命運動に発展していった。12月17日、ルーマニア陸軍、民兵、治安部隊が出動し、抗議集団に対して発砲し、死傷者が出始めた。イランを訪問する予定であったチャウシェスクは、12月18日、暴動の鎮圧を命じ、イランに向かった。帰国後の12月20日、チャウシェスクはテレビ演説を行い、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたものだ」と訴えた[8][9]。12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡、首都・ブクレシュティ(București)から脱出してトゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)に着くも、その日のうちに軍隊に捕縛された。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、ニコラエとエレナの両名は銃殺刑に処せられた[10]。
生い立ち
1918年、ルーマニア王国オルト郡スコルニチェシュティ(Scornicești, Județul Olt)の貧しい農家にて、十人兄弟の三男として生まれた。ニコラエが生まれた日付は公式には1月26日であるが[11]、出生に関する住民登録書に登録されている彼の日付は「1月23日」となっている[12]。のちに書き残した自伝の中で、彼は自身の誕生日をいずれも全て「1月26日」とした[11][13]。
父親のアンドゥルーツァ(Andruță, 1886 - 1969)は土地を所有し、羊を数頭飼育し、仕立て屋として収入を補っていた[14]。家は二部屋のみで、家族はおもにポレンタ(トウモロコシを粉にして煮る粥の一種)を食べていた。当時、スコルニチェシュティに住んでいた司祭はアンドゥルーツァについて「彼は自分の子供たちに興味を示さなかった。彼はものを盗み、酒飲みで、よく喧嘩し、悪態をついていた」と語っている[14]。母親のアレクサンドリーナ(Alexandrina, 1888 - 1977)は従順で勤勉な農民であり、敬虔なキリスト教徒であった。両親が亡くなったのち、ニコラエはスコルニチェシュティに教会を建てるよう命じた。ここの教会の壁には、ニコラエの両親の肖像画が飾られている。
ニコラエは小学校に上がり、しばしば裸足で通っていた。友人がおらず、多感で予測不能な少年であったという[14]。11歳のときに首都・ブクレシュティ(București)に移住し、靴職人の見習いとして働き、靴作りの技術を学んだ。ニコラエに技術を教えたのはアレクサンドル・サンドレスク(Alexandru Săndulescu)であり、この人物は能動的なルーマニア共産党員であった[14]。共産党は、当時は法律違反の組織であった。1933年11月、ニコラエはルーマニア共産党の青年機構である「共産主義青年同盟」(Uniunea Tineretului Comunist)の一員に加わった[15]。11月23日、ニコラエは鉄道労働争議を扇動したうえ、共産主義を扇動する趣旨の小冊子を配布した容疑で逮捕された[16]。
1934年6月、鉄道労働者たちのクラヨーヴァ(Craiova)での裁判に抗議する趣旨の嘆願書の署名を集めた容疑で逮捕された。イオン・ゲオルゲ・マオレルの証言によれば、ニコラエは声明書と署名一覧表を配布して報酬を受け取っていたという[14]。1934年、ネグルの地区委員会に声をかけられ、反ファシスト運動に参加した。ニコラエがのちに書き残した自伝によれば、当時は全国反ファシスト委員会ならびに反ファシスト青年中央委員会に所属していたという[15]。1930年代半ばの時点でニコラエは数回の逮捕を経験しており、1934年8月の時点で4回投獄されている[16]。秘密警察のスィグランツァ(Siguranța Statului)が作成したニコラエの略歴書類には、「共産主義を扇動する危険人物」「反ファシズムの宣伝活動の資料を配布する共産主義者」との紹介文が記述されている[14][16]。
1936年6月6日、ニコラエは、ブラショヴ裁判所にて、懲役2年、さらに法廷侮辱罪を理由に六カ月の追加の懲役、罰金2000レイ、スコルニチェシュティに一年間の強制居住、を宣告された[14]。ドフターナ刑務所(Penitenciarul Doftana)に投獄されたニコラエは、ここの刑務所の職員から暴力を振るわれた。これ以後、何か発言する際には吃音が生じるようになった[17]。ニコラエはこの刑務所で、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ(Gheorge Gheorghiu-dej)、キヴ・ストイカ、エミール・ボドナラーシュといった将来の共産指導者たちと出会った[1]。ニコラエは、ゲオルギウ=デジからマルクス・レーニン主義の理論を教わった[17]。ルーマニアの社会学者、パーヴェル・クンパーノ(Pavel Câmpeanu, 1920 - 2003)は、ブクレシュティ=ジラーヴァ刑務所(Penitenciarul București-Jilava)でニコラエと出会い、独房で一緒に過ごしたことがある[18][19]。クンパーノはニコラエについて、「共産主義の末端運動への参加は、自分が社会生活に溶け込むために導きだした選択肢であった」「実際のところ、1930年代のニコラエは、注意力が足りず、怠惰な少年でしかなかった」と語っている[14]。
1938年に仮釈放される。1939年、軍事閲兵式の最中に、化学繊維工場で働いていた女性、レヌーツァ・ペトレスク(Lenuța Petrescu)と出会った[20]。
1940年、ニコラエは「公序良俗に対して陰謀を企てた」容疑で再逮捕され、有罪判決を受けた。ジラーヴァ刑務所にいたニコラエは、軍病院で歯の治療を受けるために刑務所の管理者から受け取った許可証を利用し、レヌーツァと面会していた[21]。1942年にカランセベシュ(Caransebeș)に、1943年にヴァカレシュティ(Văcărești)に移送された[14]。拘留は終了したが、イオン・アントネスク(Ion Antonescu)は自身の政府を弱体化させる可能性のある共産主義の活動家を釈放することについて危惧しており、ニコラエたちは釈放されず、トゥルグ・ジウ(Târgu Jiu)の収容所に移送された。ミハイ一世が起こした宮廷クーデターに伴い、1944年8月23日にアントネスクが逮捕されると、共産主義者たちは釈放された[1]。
ニコラエとレヌーツァの二人は、1947年12月23日に結婚した。この時点で、レヌーツァはニコラエの子供を身籠っており、妊娠7ヶ月であった[22]。1948年2月、長男のヴァレンティンが生まれた。
レヌーツァは名前を「エレナ・チャウシェスク」(Elena Ceaușescu)に改め、のちにルーマニア共産党の運営や政治に深く関与するようになる。
権力の掌握
ミハイ1世が起こした宮廷クーデターによりイオン・アントネスクの政府は崩壊し、親ドイツ政権が終わった。1944年8月、ソ連軍のルーマニアへの進軍が加速した。1944年9月の時点で、ソ連はルーマニアの大部分を占領下に置いていた。9月12日にルーマニアとソ連のあいだで休戦協定が結ばれたのち、ソ連軍はルーマニア全土を占領するに至った。ソ連がルーマニアを占領した初期の頃には、ソ連軍の兵士によるルーマニア人女性への強姦が横行していた記録が残っている[23]。
1947年12月30日、ペトル・グローザがゲオルギウ=デジを伴ってエリサベータ宮殿(La Palatul Elisabeta)を訪れ、ミハイ1世に対して退位を迫った。ミハイ1世が退位を表明したのに伴い、ルーマニア共産党が政権を掌握し、「ルーマニア人民共和国」(Republica Populară Română)の樹立が宣言された。1948年2月4日、ソ連とルーマニアの間で、友好、協力、相互扶助の条約が調印された。同月、ルーマニア労働者党(Partidul Muncitoresc Român)の最初の党大会が開催された。チャウシェスクは1944年8月23日から1945年6月まで、ルーマニア共産主義青年同盟の第一書記を務めていた。1948年5月13日、閣僚評議会議長のペトル・グローザにより、チャウシェスクは農業次官に任命された。農業大臣のヴァスィーレ・ヴァイダの副官としてであった[24]。1949年には農業副大臣に任命され、1950年3月18日には国防副大臣および陸軍高等政治総局長に任命された[25]。チャウシェスクは最終的に中将の地位にまで上り詰めたが、軍隊に従軍した経験は無かった[26]。
1952年、ゲオルギウ=デジの推薦を受けて、チャウシェスクはルーマニア労働者党中央委員会委員に選出された。1954年には中央委員会書記になり、1955年には中央委員会政治局員になった[16]。1950年代半ばの時点で、チャウシェスクは党と国政に大きな影響力を及ぼす存在となっており、党内序列第2位にまで上り詰めた[27]。
ゲオルギウ=デジは、アナ・パウケル(Ana Pauker)のような「モスクワ派」(彼女と同じく、党員の多くがモスクワで数年間亡命暮らしを送っていたことから、このように呼ばれる)と「獄中派」(その多くは、第二次世界大戦中にドフターナ刑務所で過ごしていた)は敵対状態にあった。「獄中派」の事実上の指導者であったゲオルギウ=デジは、集団農場の強化を支持し[28]、1948年には法務大臣のルクレチウ・パトラシュカーヌを逮捕させ、その見せしめ裁判を後押しした[29]。パトラシュカーヌは1954年にジラーヴァ刑務所で殺された[30]。1952年5月27日、中央委員会書記局の委員であったアナ・パウケル、ヴァスィーレ・ルカ、テオハリ・ジョルジェスクは書記局から粛清・追放された。モスクワ派の同志たちを粛清したことにより、ゲオルギウ=デジの党と国家に対する支配力は強まることとなった。チャウシェスクはゲオルギウ=デジの決定を支持したが、ゲオルギウ=デジの死後にチャウシェスクが書記長に就任すると、彼らはいずれも名誉回復がなされた。
ゲオルギウ=デジは、ニキータ・フルシチョフ(Никита Хрущев)による脱スターリン化(Десталинизация)という新たな一連の行為に対して、当初は動揺を見せていた。その後、ゲオルギウ=デジは1950年代後半にワルシャワ条約機構(The Warsaw Treaty Organization)と経済相互援助会議(The Council for Mutual Economic Assistance)において、ルーマニアが半自主的な外交・経済政策の事業計画立案者となり、ソ連からの指示に叛く形で、ルーマニアにおける重工業の創設を主導した(インドとオーストラリアから輸入した鉄資源を活用する形でガラーツィ(Galați)に大規模な製鉄所を新たに建設する)。皮肉なことに、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、かつてはソ連に最も忠実な衛星国の一つと考えられていたため、「外交政策の寛大さと『自由主義』が国内の抑圧と結び付いた様式を最初に確立したのは誰か」が忘れられる傾向にある[31]。このような価値体系に基づいた措置は、「ソヴロム」(SovRom, ルーマニアとソ連の経済企業。ソ連が資源を確保するための手段として設立された。1956年に解散)の追放や、ソ連とルーマニアの共通文化事業の縮小に伴い、明らかにされた。
1955年、ニキータ・フルシチョフがルーマニアを訪問した際、ゲオルギウ=デジは、ルーマニア国内に駐留しているソ連軍を撤退させるよう要求した[32]。1958年の秋までに、ソ連はルーマニアから最後の赤軍を撤退させた。これはゲオルギウ=デジ個人の功績である。しかし、秘密警察のセクリターテ(Securitate)は依然としてゲオルギウ=デジの忠実な手先であった[33]。1956年に勃発したハンガリー動乱のおり、ルーマニアはハンガリーに対する弾圧の波に加わった。動乱の指導者、ナギ・イムレ(Nagy Imre)に対して、ゲオルギウ=デジは「舌で吊るすべきだ」と言い放った[34]。ナギ・イムレは1958年6月に絞首刑に処せられた。
1949年3月2日、ルーマニア大国民議会常任幹部会(Prezidiul Marii Adunari Nationale)は法令第82号を発行し、50ヘクタールの土地の国有化を決定した。1949年の初頭、チャウシェスクは、農地の国有化のために設立された農業省の特別委員会の指揮を執っていた。農業副大臣から国防副大臣になったあとも、チャウシェスクは集団農場の政策に関わっていた[35]。1957年12月4日、ルーマニアの東部にある村、ヴァドゥ・ロシュカ(Vadu Roșca)で農民による蜂起が勃発した。チャウシェスクはこれを鎮圧するため、部隊を率いて同地に出動した。チャウシェスクは部隊に対し、現地の農民たちに機関銃で発砲するよう命じた。この蜂起で18人が逮捕され、「反逆」と「社会秩序に対する陰謀」の罪で実刑判決を受けた[36]。2006年、財務大臣のヴァルジャン・ヴォスゲイニアンは、ルーマニアの上院議会にて、チャウシェスクが鎮圧したこの事件を取り上げ、「9人の農民が射殺され、48人が負傷した」と発表した。1949年から1952年にかけて80000人を超える農民が逮捕され、そのうち30000人が実刑判決を受けた[37]。集団農場政策は、ルーマニアの共産主義者が実行した最も広範な「再生」事業であった。産業と銀行体系の国有化の達成に4年(1948年 - 1952年)かかり、集団農場は1962年まで続いた。ルーマニア労働者党の活動家、中央政府・地方政府、民兵、治安部隊、軍隊、国境警備隊、党と国家のあらゆる勢力が集団農場に関与していた。ルーマニアの人口の70%が農民であり、彼らに共産主義の生活様式を強制するのは困難であった。1949年3月、チャウシェスクはルーマニア労働者党の本会議の席で、教育現場でマルクス・レーニン主義教育を強化するよう勧告していた[35]。
1957年11月4日、チャウシェスク、キヴ・ストイカ、レオンテ・ロウトを含むルーマニア労働者党の代表団がIl-14に搭乗し、十月革命から40周年を迎える記念式典に参加するためにブクレシュティを出発し、モスクワへ向かった。当初はゲオルギウ=デジが彼らを統率する予定であったが、健康上の理由から取りやめたという。午後5時48分、ヴヌーカヴァ国際空港(Аэропорт Вну́ково)に着陸する直前、操縦士の不手際が原因で機体が墜落した。この航空事故で、外務大臣のグリゴーレ・プレオターサと乗務員三名が死亡したが、チャウシェスク本人は無事であった[14]。1950年代から1960年代の初頭にかけて、チャウシェスクはソ連を数回訪問している[27]。
1965年3月19日午後5時43分、ゲオルギウ=デジが肺癌で亡くなった[38]。1954年から1955年にかけて、ゲオルギウ=デジからルーマニア労働者党第一書記の座を譲られたことがあったゲオルゲ・アポストルは、自分が「ゲオルギウ=デジ直々に後継者に指名された」と主張していたが、閣僚評議会議長のイオン・ゲオルゲ・マオレルはアポストルに対して敵意を抱いていた。マオレルは、アポストルが権力を掌握するのを阻止しようとし、妥協案として、ゲオルギウ=デジが子飼いにしていたチャウシェスクに党指導部をまとめさせることにした[27]。ゲオルギウ=デジと仲の良かった内務大臣、アレクサンドル・ドラギーチ(Alexandru Drăghici)が党内で権力を掌握するのを危惧したイオン・ゲオルゲ・マオレル、キヴ・ストイカ、エミール・ボドナラーシュは、党の新たな指導者としてニコラエ・チャウシェスクへの支持を表明した[39]。なお、キヴ・ストイカがチャウシェスクへの支持を表明したのは、国家評議会議長の役職と引き換えであった。チャウシェスクを指名した彼らは、チャウシェスクを「自分たちに従順な傀儡にしよう」と考えていた[40][41]。
1965年3月22日、満場一致の承認を得て、ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア労働者党中央委員会第一書記に就任した[1]。イオン・ゲオルゲ・マオレルは閣僚評議会議長、ゲオルゲ・アポストルとエミール・ボドナラーシュは閣僚評議会第一副議長の座に留まり、キヴ・ストイカは1965年3月24日に国家評議会議長に就任し、1967年12月9日までこれを務めた。1965年7月に開催されたルーマニア労働者党第9回党大会の席にて、チャウシェスクは政党名を「ルーマニア共産党」(Partidul Comunist Român)に戻すことを提案し、可決された。前任者のゲオルギウ=デジは、1948年2月以来、「ルーマニア労働者党第一書記」の肩書を名乗っていたが、チャウシェスクはこの役職名を「ルーマニア共産党書記長」に戻した。1965年8月21日、チャウシェスクは新たな憲法の制定を宣言し、国名を「ルーマニア人民共和国」から「ルーマニア社会主義共和国」(Republica Socialistă Română)に変更した[16]。
1990年1月4日、「ルーマニア自由テレビ」(Televiziunea Română Gratuită)で放映されたイオン・ゲオルゲ・マオレルへの取材映像の中で、マオレルは「チャウシェスクを書記長に指名したのは、私の過ちだった」と答えた。マオレルによれば、「もし国内で権力闘争が公然と始まった場合、それを口実にソ連が再び軍隊を編成して派遣してくる恐れがあった」という。マオレルは、チャウシェスクについて「十分な教育は受けていないが、学習意欲が旺盛で、偏見を抱くことなく他人の意見に耳を傾け、理解しようとする人物」と語っている[41]。
チャウシェスクは、党指導部の1人であるアレクサンドル・ドラギーチ(Alexandru Drăghici)とも対立関係にあり、ドラギーチの粛清に着手した。1965年末から1966年初頭にかけて、チャウシェスクは政治書類記録の専門家、ヴァスィーレ・パティリネツに対して、ドラギーチの高位職への対応に関する幅広い調査の一環として、「ルクレチウ・パトラシュカーヌの処刑にドラギーチがどのように関与したか」[42]について文書をまとめ上げるよう要請した[43]。ドラギーチのもとでなされた悪行が公然と知れ渡ると、チャウシェスクは党を「浄化」するため、ドラギーチの排除に着手した[44]。チャウシェスクは、1952年から1965年にかけて行われた全ての弾圧の悪玉化としてセクリターテの元責任者の名前を挙げ[43]、1956年のハンガリー動乱のあとに推進された打擲行為に対する認識の無さを主張した[45]。1968年4月に開催されたルーマニア共産党本会議総会の場で、ドラギーチは党の支配権を巡ってチャウシェスクと対立し、権力の座から転落した[46]。この本会議総会において、1954年に処刑されたルクレチウ・パトラシュカーヌの名誉回復が採択されるとともに、ドラギーチは党から完全に駆逐された[39][47]。ドラギーチは、その年のうちに、ルーマニア共産党中央委員会政治局、ルーマニア大国民議会常任幹部会、閣僚評議会からも除名され、さらには将校の地位から予備役の兵卒に降格させられた。
1969年に開催されたルーマニア共産党第10回党大会にて、党の規約が変更された。それによれば、書記長は中央委員会本会議ではなく、党大会の場で直接選出されることになった。これにより、チャウシェスクにはさらに強大な権力が集中することになった。このころには、政治局の人間の3分の2は、チャウシェスクが指名した人物で占められていた。
キヴ・ストイカは、1970年代前半に全役職から解任された。1976年2月18日、ストイカは頭に銃弾を受けて死んだ。彼の死は、公式には「自殺」と発表された[48]が、ストイカの妻は夫の死について「自殺ではない」と訴えた。ゲオルゲ・アポストルは、ルーマニア共産党第10回党大会にて、コンスタンティン・ダスカレスクに批判され、党指導部を解任された。アポストルは、のちに南米の国々で大使を務めることになった。イオン・ゲオルゲ・マオレルは1974年3月29日に閣僚評議会議長を解任された。
ニコラエの妻・エレナも党指導部の1人となり、彼女は夫とともに党の運営に深く関与するようになった。エレナは1972年7月にルーマニア共産党中央委員会委員に、1973年6月にはルーマニア共産党中央委員会政治局員に、さらにはエミール・ボドナラーシュによる推薦を受けて、党執行委員会に選出された。1980年3月、ニコラエはエレナを閣僚評議会第一副議長に任命している[49]。
その間にも、チャウシェスクへの権力の集中は続いた。1967年12月9日にキヴ・ストイカが国家評議会議長を辞任すると、チャウシェスクはストイカの後任として第3代国家評議会議長に就任した[48]。同日、エミール・ボドナラーシュを国家評議会副議長に任命した。ボドナラーシュは1976年1月24日までこれを務めた。チャウシェスクは1967年に経済評議会を、1968年に国防評議会を設立し、国家評議会の権限を継続的に拡大させた。チャウシェスクは国防評議会議長に任命され、ルーマニア軍の最高司令官という立ち位置となった。
1974年3月28日、ルーマニアの憲法が改正され、最高行政権が国家評議会から唯一の元首である大統領に移譲され、国家評議会は大統領が引き続き主導する機関として存続した。新たな憲法によれば、大統領はルーマニア大国民議会から選出され、任期は「5年間」であった。1974年3月29日、チャウシェスクはルーマニア社会主義共和国の大統領に選出されるとともに、事実上の終身大統領となる趣旨を宣言するに至った[50]。
内政
ルーマニア共産党書記長に就任したころのチャウシェスクは、国内の報道の検閲を緩和した。ルーマニアにおける報道の自由は、ほかの共産国家に比べると緩やかであった。ルーマニア国民は、国内だけでなく外国による報道にも触れることが可能であった。ルーマニアへの出入りは比較的自由であり、共産党政府は住民の移住を妨害したりはしなかった。ルーマニア在住のユダヤ人は、イスラエルに向かう権利を得られた。芸術や文化における表現の様式は、党のイデオロギーに反しない限り、自由であった[1]。
堕胎の禁止
1966年10月1日、チャウシェスクは堕胎と避妊を禁止する「法令第770号」(Decretul 770)を新たに制定した。10月2日、国家評議会議長のキヴ・ストイカによる署名のもと、法律が布告された[51]。ルーマニアでは、1957年に中絶を許可する内容の法令が出ており、それを廃止する形となった。子供のいない女性による妊娠中絶を禁止し、子供がいない25歳以上の女性と男性に対しては、30%近くの所得税を課した[2]。子供が5人未満の女性への避妊薬の販売は禁止となり、離婚については例外的な事例のみ、認められた。5人以上の子供を産んだ女性には、国から物資の援助を受ける権利が生じ、10人以上産んだ場合は「母親英雄」(Мать-Героиня)の勲章を授与された。しかし実際には、女性の多くは望まぬ妊娠を避け、秘密裏に堕胎しようとして怪我を負ったり、死亡したりした。チャウシェスクは労働力を増やそうと考えており、自国民の家族や胎児のことを心配していたわけではなかった[3]。
チャウシェスクは、「子供を持つことを避ける者は、国家の法律に違反する脱走兵である」と述べた。当時、ルーマニア国民が俗に「月経警察」と呼んでいた役人の前で、女性は妊娠しているかどうか確認を受けた。1986年、共産主義青年団の組織員たちは一般家庭を回り、住人の女性に対して性行為の頻度について尋ねた。子供がいない場合、「何故まだ妊娠していないのか」を詳しく説明する必要があり、納得のいく説明ができなければ独身税が課せられた。これは毎月の収入の10%に相当する額であった。しかし、これは望ましい結果にはつながらなかった。すべての妊娠のうち、約60%が中絶に終わった[52]。およそ10000人のルーマニア人女性が秘密裏に堕胎しようとし、合併症を併発して死亡したという[53]。
この法律により、ルーマニアの人口は確かに増加したが、何千人もの子供たちが孤児院に置き去りにされ、孤児の数が増えただけでなく、HIV感染までもが増加した[4]。孤児に対応するため、国営の「施設」が作られるも、過密状態で職員の数は不足し、子供たちの最も基本的な需要さえ満たせずにいた[54]。1966年から1967年にかけて、ルーマニアの出生数はほぼ2倍に膨らんだが、1970年代に入ると再び低下した。1990年初頭のルーマニアでは、約100000人の子供たちが、世間から秘匿され、悲惨な状況下にあった孤児院の内部で暮らしており、これは医療における怠慢、無関心、施設の不備の組み合わせでもたらされた[55]。当時のルーマニアは、出生率と乳児死亡率の両方とも、ヨーロッパで最も高く[11]、コンドームの密輸が増加していた[52]。
ルーマニア国内におけるエイズ感染の爆発的な蔓延の「材料」は、期限切れの注射器による注射と血液の微量輸血、この2つを中心に構成された[55]。ルーマニアでエイズが蔓延していた事実に対して、チャウシェスクは「資本主義社会特有の現象である」とみなし、イデオロギー上の理由からHIV感染の蔓延の問題を無視していた。1980年代のルーマニアでは、HIV検査は実施されてはいなかった。
内務大臣のアレクサンドル・ドラギーチはチャウシェスクと対立して粛清されたが、チャウシェスクが公布したこの堕胎禁止令に対してドラギーチは支持を表明しており、出生主義を含む他の政策面で、チャウシェスクとドラギーチの意見が一致したこともある[56]。
農村の体系化と運河建設
1972年以降、チャウシェスクは都市と農村の地域を「体系化」する事業を開始した。「多国間で発展した社会主義社会を構築する」ための重要な段階として宣伝されたこの事業計画に基づき、農村世帯を大量に除去し、住民を集合住宅に移住させた。農村の解体は、ルーマニアの農村社会の破壊につながった。1984年、ドナウ・黒海運河(Canalul Dunăre–Marea Neagră)が9年の歳月をかけて開通したのち、首都のブクレシュティと黒海との間で海軍輸送を可能にするため、ドナウ・ブカレスト運河(Canalul Dunăre-București)の開通計画が持ち上がった。1986年にこれの工事が開始されたが、のちの1989年12月に勃発した革命でチャウシェスク政権が滅びると、この事業は停止となった。ドナウ・ブカレスト運河の建設と、体系化の「事業計画」は、ミハイレシュチュルイ(Mihăileştiului)地域の住民を恐怖に陥れた。1989年の末までに、チャウシェスクはこの地域の農村の大部分を一掃しようとしていた。約7000 - 8000の農村集落がルーマニアの地図から消え、残りの集落は取り壊された[57]。
イオン・ミハイ・パチェパの離反
1978年、秘密警察・セクリターテ(Securitate)の上級諜報員、イオン・ミハイ・パチェパ(Ion Mihai Pacepa)がアメリカ合衆国に政治亡命した。1978年7月、パチェパはチャウシェスクによる指令で西ドイツへ向かった。そこでパチェパは、西ドイツの首相、ヘルムート・シュミット(Helmut Schmidt)に対して秘密の伝達を送り、西ドイツの首都・ボン(Bonn)にあったアメリカ大使館を通じて、アメリカ合衆国への政治亡命を要請した[58]。合衆国大統領のジミー・カーター(Jimmy Carter)は、パチェパによる政治亡命の要請を正式に承認した。チャウシェスクはパチェパの背信に激怒し、神経衰弱に陥った。チャウシェスクはパチェパに対し、「国家反逆罪」で2件の死刑判決を下し、パチェパの財産の没収を命じ、パチェパの首に200万ドルの懸賞金をかけたことを公布した。チャウシェスクはパチェパを見つけ出して殺すよう指令を出したが、失敗に終わっている。1987年、パチェパは著書『Red Horizons: Chronicles of a Communist Spy Chief』(『赤い地平線:共産諜報長官による記録』、ルーマニア語版題名『Orizonturi roşii: Cronicile unui spion comunist』)を出版した。本書は、パチェパがチャウシェスクの側近を務めていたころの様々な出来事を、本人の記憶に基づき、英語で詳述したもので、チャウシェスク政権がアラブのテロ組織と協力していた話や、アメリカの産業に対する熱心な諜報活動、西側諸国からの政治的支持を得るための周到な計画を明かしている。この本は27ヶ国で出版された[59]。
パチェパは2021年にCOVID-19に感染して亡くなった[58][60]。
ルーマニア語とラテン語
チャウシェスクは、ルーマニアという国家の偉大さの誇示を目的とした科学研究を非常に重視していた。ルーマニア科学協会(Academia Română)では、「ルーマニア人こそが古代ローマ人の直系の後継者であり、ルーマニア語は他の現代言語の中で最もラテン語に近い言語である」とする科学理論が盛んに展開された[61][62]。
教会の破壊
チャウシェスク政権の時代に、教会や修道院の建物の取り壊しが実施された。首都・ブクレシュティでは23の教会が解体された[63]。
教会の解体には、妻・エレナも関わった。1987年6月13日、エレナはブクレシュティにあった教会『Biserica „Sfânta Vineri”-Herasca』(「聖金曜日・ヘラスカ教会」)を解体するよう命じた。彼女はその際に「Jos porcăria!」(「滅びよ!」)と叫んだという。翌7月、教会は取り壊された。のちにこの教会は、建物があった地点から150メートル離れた場所に再建された。ブクレシュティでは、23の教会が共産主義者によって取り壊され、「聖金曜日・ヘラスカ教会」は17番目に破壊された教会であった[64]。
外国人との会話の制限
ルーマニア国民と外国人との接触を制限・管理するため、特別な法律が採択された。ルーマニア人が外国人と通話する際には、例外なく報告する義務が生じ[41]、1982年になると、外国人と通話可能な回数が制限された。これらの措置により、ルーマニア人は外部との接触が困難になり、異議を唱える者に対する抑圧が促進された[65]。
外交
1968年8月、ワルシャワ条約機構加盟国の軍隊がチェコ・スロヴァキアに軍事侵攻する一週間前、チャウシェスクはプラハを訪問し、チェコ・スロヴァキア共産党第一書記、アレクサンデル・ドゥプチェク(Alexander Dubček)に対して支援を申し出た。ソ連がチェコ・スロヴァキアを占領したあとの1968年8月21日、チャウシェスクはブクレシュティにて演説を行い、ソ連を公然と非難した。「チェコ・スロヴァキアへの侵攻は甚だしい間違いであり、ヨーロッパの平和と社会主義の運命に対する重大な脅威であり、革命運動の歴史において恥ずべき汚点を残した」「兄弟国の内政への軍事介入を許してはならない。それぞれの国において、社会主義をどのようにして構築すべきか、部外者にはそれをとやかく言う権利は無いのだ」[66]
チャウシェスクは、この軍事侵攻へのルーマニア軍の参加を拒否している[27]。チャウシェスクは、1979年12月にソ連がアフガニスタンに軍事侵攻した際にもソ連を非難し、ソ連がルーマニアの領土に軍事基地を置くことを正式に禁じた[67]。
1969年にダマンスキー島で発生したソ連と中国の武力紛争に対しては、チャウシェスクはどちらも支持せず、中立の立場を取った。ルーマニアは他の社会主義国とは異なり、1967年6月の第三次中東戦争後もイスラエルとの外交関係を維持し、1973年にチリでアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)による軍事クーデターが発生したあとも、チリとの外交関係を維持した。アメリカの議会は「貿易における最恵国待遇の地位をルーマニアに与えよう」との決定を下した。この決定の論拠となったのは、ルーマニアがイスラエルとの外交関係を中東戦争後も維持した点にあったという[41]。
1975年4月4日から4月9日にかけて、チャウシェスクは妻・エレナとともに日本を公式訪問し、三木武夫や昭和天皇と会談している[68]。1975年10月9日には明仁と美智子がルーマニアを訪問し、チャウシェスクは妻・エレナとともに両名を迎え入れている[69]。
チャウシェスクは外交政策の一環として、さまざまな国際紛争において、ルーマニアの指導者として調停役を務めることもあった。1966年、チャウシェスクは、北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構を同時に解散させる構想を打ち出したことがある[70]。アメリカとソ連の双方に対して、核ミサイルの配備を止めるよう求めたこともある[71]。1969年、チャウシェスクは、アメリカと中国の国交樹立の仲介役も果たしている[9]。
チャウシェスクは、1966年3月18日号の『タイム誌』(『The Time Magazine』)の表紙を飾っている[72]。
チャウシェスクによる外交で、ルーマニアはイスラエルとパレスチナの双方と良好な関係を維持できた[9]。1977年、エジプトの大統領、アンワル・アッ=サーダートがイスラエルを訪問した際、チャウシェスクは、イスラエルの指導者との交渉に参加している。
1970年代初頭にリビアを訪問したチャウシェスクは、ムアンマル・アル=カッザーフィーと会談し、その際に「あなたはクルアーンを信じ、私はマルクス主義を信じている。しかし、私もあなたも、自国の独立を信じている。あなたはアメリカ人を追い出し、私はロシア人を追い出した。あなたはイスラームの独立国家を、私はマルクス主義の独立国家を建設する。そのためにも、我々はお互いに協力し合うべきです」と述べた[73][1]。
チェウシェスクは外交手段を駆使してソ連からの脱却を図ろうとした。1984年にロス・アンジェレスで開催されたオリンピックに、ルーマニアは正式に参加した。ソ連は衛星国に対してこのオリンピックへの不参加を呼びかけたが、チャウシェスクはこれを無視して選手団をアメリカに派遣した[41]。東ヨーロッパの共産圏の中で、ルーマニアはこのオリンピックに参加した数少ない国でもあった。のちにチャウシェスクにはオリンピック勲章が授与された。
ルーマニアは、欧州共同体、イスラエル、西ドイツと国交を結んでいた。1974年にルーマニアを欧州共同体の優遇国一覧表に加える条約が締結され[27]、1980年にはルーマニアと欧州共同体の間で工業製品の貿易に関する協定が締結された。これは、リチャード・ニクソン(Richard Nixon)とジェラルド・フォード(Gerald Ford)の二人のルーマニアへの公式訪問につながった。
西側諸国を精力的に訪問したチャウシェスクは、自らを「ソ連の枠組みの中で独立した外交政策を追求する共産主義の改革者」と位置づけ、西側諸国の政治指導者から好感を持たれた。1967年、ルーマニアはソ連の許可を得ず、西ドイツを国家として承認し、良好な関係を維持した。ルーマニアは両国間の協定により、トランスィルヴァニア(Transylvania)に住むドイツ人が西ドイツから金銭面での補償を受ける代わりに出国を許可した[74]。
1969年8月、リチャード・ニクソンがルーマニアを訪問し、チャウシェスクはニクソンと会談した。ルーマニアは、合衆国大統領が訪問した初めての共産国となった[41]。その後、30年近く指名手配を受けていた反共主義の不正規兵部隊の司令官、イオン・ガブリラ・オゴラヌが、恩赦で釈放された。これは時の国務長官、ヘンリー・キッシンジャー(Henry Kissinger)の要請によるものであった[75]。チャウシェスクと会談したニクソンは、チャウシェスクの印象について、「筋金入りのスターリニストであり、外交の場面でよく見られる陳腐な決まり文句を使わない人だ」と評した[76][77]。チャウシェスクは、「自分はニクソンと会談する」という話を、会談の公式発表の36時間前にソ連に通知したという。ニクソンとの会談で、チャウシェスクは「あなたのルーマニア訪問に対し、ソ連の同志たちが少し動揺しているのは確かです」と述べたという。当時のチャウシェスクは「歴史的な分析に基づき、ソ連の覇権はそう長くは続かないだろう」と予測していたという[76][77]。
1985年3月11日、ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)がソ連共産党の書記長に選出された。1986年4月8日、タリヤーチェを訪問していたゴルバチョフは、「政治的および経済的な変革」を意味する言葉として、「ペレストロイカ」(Перестройка)という単語を初めて使った[78]。のちにゴルバチョフは、「グラスノスチ」(Гла́сность)と呼ばれる改革の実施にも着手した。これは報道における検閲の緩和と、情報の積極的な公開である。チャウシェスクは、ゴルバチョフが打ち出したペレストロイカを批判した[1]。それまでも理想的とは言い難い状況にあったルーマニアとソ連の関係は、これによってさらに悪化した。1989年8月23日、ルーマニアで行われた「ファシスト占領解放45周年記念式典」に出席したチャウシェスクは、「ルーマニアでペレストロイカが行われるよりも、ドナウ川が逆流する可能性のほうが高いだろう」と発言した[7][66][79]。
1989年12月6日、チャウシェスクとゴルバチョフの最後の会談がモスクワで行われた。その場に同席していたチャウシェスクの軍事顧問で閣僚評議会第一副議長、イオン・ディンカによれば、二人の会話には「下品な言葉だけが欠落していた」という。チャウシェスクは「いかなる改革政策も実施しない」と拒否し、それに対してゴルバチョフは「極めて深刻な結果をもたらすだろう」と述べ、チャウシェスクを精神的に追い詰めたという[80]。
チャウシェスクと西側の関係は、1980年代に著しく悪化した。1987年以降、チャウシェスクは経済相互援助会議の加盟国やG7諸国への訪問を拒否され、1988年には貿易における最恵国待遇からも外された[7]。ルーマニアとソ連の同盟関係はもはや決裂状態に陥った。
チャウシェスク政権下のルーマニア経済
経済成長
ルーマニアの他国への依存度を下げるため、チャウシェスクはルーマニアを農業国から先進工業国に変えようとした。1950年代から1960年代にかけてのルーマニアの工業生産は約40倍に成長した[81][74]。1950年代初頭から、多数の大型機械製造工場や冶金工場が建設され、大型水力発電所も複数建設された。工業化自体は前任者のゲオルギウ=デジの時代から始まってはいたが、それに伴う経済成長は、チャウシェスク治下の初期のころにも続いた。1960年代後半になると、計画経済の様式を維持しつつ、国内の企業の財政と経済の自律性を認め、従業員の仕事に対する物欲的な意欲を高めるための方策も講じた。1970年代には、工業化の成功や外国との貿易の増加により、ルーマニアは経済成長を続けた。ルーマニアは、1973年に西側諸国の資本による合弁会社の設立を許可し、西側の企業がルーマニア国内の市場に参入し始めた[14]。1970年、ブクレシュティの中心部に、ホテル『Intercontinental』が建設された。中央ヨーロッパから東ヨーロッパに連なるカルパティア山脈や黒海には高級な行楽地が建設され、共産圏の市民には手が届き辛い西洋製の商品が購入可能になり、ルーマニア国民は外国製の自動車を購入する機会を得た。また、1970年代にはピテシュティ(Pitești)で自動車「ダチア」(Dacia)を独自に生産する体制が整った。工業化はその後も成果を上げ続け、1974年のルーマニアの工業生産量は、1944年の100倍になっていた[40][41]。1970年代半ばの時点で、国民所得は1938年の15倍になっていた[1]。
ルーマニアは石油産油国でもある。石油生産とその精製、石油化学工業が急速に発展し、1976年のルーマニアの石油生産量は、一日につき、30万バレルに達した[81]。ルーマニアは150を超える国々と貿易関係を築き、1987年の年間貿易額は世界第12位となった。1967年から1987年にかけて9.6倍以上に増加したルーマニアの輸出構造は、加工度の高い製品の輸出が中心となった。これは全輸出の62%を占める。「完成品を輸出してこそ利益が出る」とチャウシェスクは考えていた[41]が、西側市場におけるルーマニアの製品は、他国の製品と比べて競争能力は弱かった[61]。
石油危機と対外債務
1973年10月、サウジアラビア率いるアラブ石油輸出国機構(The Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)の国々が石油の禁輸を宣言した。この禁輸措置は、第四次中東戦争でイスラエルを支持した国々が対象となった[82]。この禁輸措置で、世界各国の政治と経済が影響を受け、ルーマニアも例外ではなかった。石油危機と原油価格の高騰が重なり、ルーマニア経済は低迷することとなった。ルーマニアは年間約1000万 - 1100万トンもの石油を生産していたが、1980年代初頭のルーマニアは生産量のほぼ2倍の量の石油を処理していた。石油製品の輸出の拡大と、石油化学産業の需要を満たすため、国内で処理される石油の量は急速に増加した。1982年には2260万トンだったのが、1989年には3060万トンにまで増加した[41]。
急速に経済発展したルーマニアは、自国のエネルギー資源だけでは産業や生産を賄いきれなくなり、外国から石油を輸入するようになった。ルーマニアの石油生産量は、1970年代前半には年平均で10%の伸び率を示していたが、10年後には3%以下にまで下がっていた。ルーマニアが輸出する製品の価格は、西側の製品の3 - 4倍の値段になった。チャウシェスクは別の方法を模索し始めた。ゲオルギウ=デジが実施していた、ルーマニアから出国したい人に向けて許可証を売る手段を思い出したチャウシェスクは、イスラエルへ向かうユダヤ人のために許可証を発行し、それに対してイスラエルはルーマニアに養鶏場を5つ建設し、ユダヤ人を迎え入れるごとにルーマニアにお金を支払っていた[52]。当時、ルーマニアに住んでいたドイツ人が西ドイツに向かう場合、西ドイツはドイツ人一人につき、5000マルクのお金をルーマニアに支払っていた[41]。当時、ルーマニア軍の装備品を供給していたのはソ連であった。ルーマニアは、ソ連製の「廃止された」武器の試供品をアメリカに販売し、外貨収入を得られた。かつてアメリカはソ連の「T-72」戦車を購入していた[52]。チャウシェスクは、これらの手段で得たお金を対外債務の返済に回した[41]。
ルーマニアにおける一人当たりの発電量は、スペインやイタリアのそれよりも多かったが、テレビ放送は1日に2 - 3時間放映されるのみで、集合住宅では15ワットの電球を1つ設置するだけであり、夜になると国中が暗闇に包まれた。一方、チャウシェスクが住んでいた「人民の館」(Casa Poporului)の窓はすべて点灯していた[52]。
1975年、アメリカはルーマニアに対し、貿易における最恵国待遇(The Most Favored Nation Treatment)の地位を与えた[74]。1970年代のルーマニアの経済成長は、最恵国待遇を与えたアメリカの存在や、国際復興開発銀行(The International Bank for Reconstruction and Development, IBRD)といった国際金融機関からの信用供与によるところが大きかった。1975年から1987年の間に、約220億ドル相当の融資がルーマニアに供与され[8]、そのうちの100億ドルはアメリカからのものであった[66]。1971年、ルーマニアは関税および貿易に関する一般協定(General Agreement on Tariffs and Trade, GATT)に正式に加盟した[74]。この年、ルーマニアの産業発展のために国際通貨基金(The International Monetary Fund, IMF)から多額の融資を受け、1972年にはIMFとIBRDの正式会員となった。ルーマニアは、1990年以前にこれらの機関に加盟した初めての共産国家でもあった[83]。
ルーマニアは、イランやペルシア湾の国々とも友好関係を結んだ。1979年まで、チャウシェスクはイランのパフラヴィー皇帝から支援を受けており、ルーマニアはイランから石油を定価で買い取っていた[74]。しかし、パフラヴィー皇帝はイラン革命によって失脚し、イスラム原理主義者が権力を掌握した。西側諸国とイランの間で経済関係が断絶し、ペルシア湾では大規模な戦争が続いた。1979年以降、ルーマニアは石油の代金を外貨で支払わねばならなくなった。原油価格は、1979年春の時点では1バレルにつき16ドルだったのが、1980年の春には40ドルに跳ね上がった。西側諸国の政府は、石油危機以降に開発された節約戦略と、石油に代わるエネルギー源の使用を積極的に模索し始め、1980年以降になると、世界は石油および石油製品の長期にわたる需要の減少期に突入することになった。1977年以降、ルーマニアは石油輸入国になった。自国の石油精製産業の発展に向けての全体的な戦略は、低価格を維持し、この燃料の需要を伸ばし続けるよう設計された。1980年代の初頭、石油の購入と石油製品の販売に関連する貿易により、ルーマニアは一日につき、90万ドルの損失を被った[74][81]。
ルーマニアの一部の企業の生産費用は、西側諸国の3 - 4倍にもなっていたが、原油価格が安い限り、これでも問題にはならなかった。しかし、ルーマニア経済は、国の石油埋蔵量の枯渇や世界経済危機に直面した。ルーマニアは対外債務100億ドルを1981年までに前倒しで返済せねばならなくなり、苦境に立たされることとなった[84]。ルーマニアは1980年代に対外債務の返済を開始した。債務の支払い期限は1990年代半ばであった[8]。
西側の指導者はチャウシェスクに対し、ルーマニアがワルシャワ条約機構と経済相互援助会議から離脱すれば、ルーマニアを優遇する趣旨を仄めかした。しかし、チャウシェスクはこれを断り、ルーマニアは予定を前倒しして債務と利子を返済する、と宣言した[8][7]。
1983年、チャウシェスクは、ルーマニアが対外債務をこれ以上膨らませるのを禁止するため、国民投票を実施した[61]。対外債務の返済を確実なものとするため、食料品の配給制が始まった。配給券が発行され、一人につき、卵5個、小麦粉と砂糖2ポンド、マーガリン半ポンド[5]で、肉と乳製品も配給制となった[6]。自動車の所有者はガソリンの販売も制限され、一ヶ月につき30リットルであった。一般家庭で温水が出るのは週に一回だけであった[5]。一日に数回の停電が発生し、「冬の間は冷蔵庫の使用停止」「洗濯機やその他の家電製品の使用禁止」「エレベーターの使用禁止」、これらの節電が呼びかけられた[85]。ルーマニア国内のエネルギー消費量は、1979年と1982年に20%減少し、1983年に50%減少し、1985年にはさらに50%減少した。人々が食べ物を買うために列に並ぶのは、よく見られる光景となった。建物には暖房があっても使用禁止であった。医療は無料ではあるが、薬や設備が慢性的に不足していた[14]。冬季には、冷蔵庫や家電製品の使用は固く禁じられ、住宅では暖房用のガスの使用も禁止された。違反した場合、「経済警察」に摘発され、罰金を科せられるだけでなく、電気やガスも停められた[41]。
次男・ニクは、父に対して「お父さん、この国で何が起こっているのかご存じでしょうか?店はいつも客で溢れており、テレビ放送は1日につき2時間、掃除機と冷蔵庫は経済上の理由から使用を禁止されているのですよ」と尋ねた。それに対して父は、「それらは一時的な窮乏であり、国民は対処できるだろう」と答えたという[86]。
エネルギーの生産量を増やすため、ルーマニアは原子力発電所の建設計画を採用した。この計画の一環として、ウランの貯蔵所が設立され、原子炉を備えた5つの発電装置(発電量700メガワット)を持つ、「チェルナーヴォーダ原子力発電所」(Centrala nucleară de la Cernavodă)が建設された。カナダとイタリアの協力で、1982年に建設が開始されたが、1986年4月にチェルノーヴィリ原発事故が発生すると、建設が一時的に中止となった。チェルナーヴォーダ原子力発電所は、チャウシェスク政権以降もルーマニアで唯一の原子力発電所として稼働し続けている。
現時点での経済政策は正しいのだ、と国民に納得させるための宣伝活動も盛んに実施された。節電の呼びかけや基本的な必需品に対する配給制の導入について、公式の宣伝では「より合理的に分配する試みである」と説明された[87]。
一連のルーマニア経済の困難について、チャウシェスクは他の政治家たちに責任転嫁しようとした[87]。1980年代には、「経済政策の遂行中に間違いを犯した」との理由で、主要な役職に就いていた者たちが次々に解任された。閣僚評議会議長を務めていたイリエ・ヴェルデッツは、経済危機の解決方法を巡ってチャウシェスクと激しい論争を繰り広げた。ヴェルデッツは、チャウシェスクから「対外経済関係における心得違い」を指摘され、1982年5月21日に辞任した。その後、ヴェルデッツは国家評議会副議長に任命された[88]。
緊縮財政を経て、1988年のルーマニアは輸出が輸入を50億ドル上回った[7]。これは第二次世界大戦終結から初めてのことであった[8]。1989年4月までに、ルーマニアは対外債務をほぼ完全に返済できた[8]。利息も含めた債務額は210億ドルにも達していた[41]。1989年4月12日、ルーマニア共産党中央委員会本会議総会の場で、チャウシェスクは「ルーマニアは対外債務を完済した」ことを発表した[52]。そのうえで、「ルーマニアは、今後一切、外国からの融資を受けない」と宣言した。
しかしながら、一連の緊縮財政の結果や、政治的理由による西側やソ連との協力関係の停止により、ルーマニアは経済的破局の瀬戸際に立たされた。対外債務の完済後も、チャウシェスクが発した命令により、ルーマニア製品の大量輸出は続いたが、国内の消費は減る一方であった。それが止まったのは、チャウシェスク政権滅亡後のことであった。
個人崇拝
1971年6月、チャウシェスクは中国と北朝鮮を訪問し、毛沢東や金日成と会談した。チャウシェスクは彼らの個人崇拝(Cult of Personality)に強く影響され、中国や北朝鮮の政治体制を模倣するようになったとみられている[89][90][91][92]。1971年7月6日のルーマニア共産党中央委員会政治局本会議総会の場で、チャウシェスクは「Tezele din iulie」(「七月の主張」)と呼ばれる演説を行った。基本的な内容は、社会における党の影響力のさらなる強化、学校や大学、児童・青年・学生団体における政治・思想教育の強化、政治宣伝の拡大、党の研究と大衆的政治活動の改善、「愛国活動」の一環として主要建設事業への若者の参加の促進、これらに向けて、ラジオ、テレビ放送、出版社、劇場、オペラ、バレエ、芸術組合の活動の指針を決める、というものであった。チャウシェスクが書記長に就任したころの自由主義的な政策は終わりを告げ、検閲が復活した。ルーマニアの報道機関は北朝鮮の政治体制に触発され、チャウシェスクを賛美する政治的運動を展開し、これがチャウシェスクに対する個人崇拝の始まりとなった。金日成のチュチェ思想に関する話はルーマニア語に翻訳され、国内で広く配布された。また、チャウシェスクは、国家保安局(Departamentul Securității Statului)、「セクリターテ」の権限を大幅に拡大させた。
1970年代初頭から、ニコラエ・チャウシェスクに対する個人崇拝が始まった。このころから、チャウシェスクは「祖国の父」(Tatăl Patriei)という呼び名を党内で徐々に築き上げていった。この指導者像は、ルーマニア共産党が公式に支持する「新たな歴史的概念」の一部を構成するもので、チャウシェスク自身はこの過程には干渉しなかった。1974年以降になると、彼は歴史上の著名な人物と自分を比較するようになった[27]。チャウシェスクに対する個人崇拝は組織的に展開され、ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)、毛沢東、ヨシップ・ブロズ・ティトー(Јосип Броз Тито)に対する個人崇拝の水準に比肩するか、あるいはそれらを凌駕するほどにまで強まり、当時のルーマニア人からは密かに「マオ=チェスク」(Mao-Cescu)と呼ばれたこともあった[93]。チャウシェスクの訪問先の国々では、連合王国のエリザベス二世(Queen Elizabeth II)に対するが如く、盛大な閲兵式が開催されるようになった[20]。ルーマニア国内ではチャウシェスクの比較的若いころの肖像画が各地に設置されるようになった。国内のどの書店でも、チャウシェスクに関する本(全28巻の演説集)が山積みになっており、ルーマニアの日刊紙はチャウシェスクの業績の記録に専念し、夕方のテレビ放送はチャウシェスクの日々の日程や活動を伝え[71]、新聞販売店や楽器店ではチャウシェスクによる演説を録音したものが販売され、画家や詩人はチャウシェスクを称える作品を創らねばならなかった[93]。チャウシェスクはシュテファン・ヴォイテクから王笏を手渡され、大国民議会の開会式に登場する際にはこれを手に持った状態で現われた。
チャウシェスク政権の頃には、作家、詩人、歌手、作曲家、映画監督、画家に公費を払っていた。画家たちは、チャウシェスクとその家族の肖像画を毎日大量に描いていた。チャウシェスクは、自身の誕生日に一般の人々からの無償の愛を描いた絵画を贈られるのを気に入っていた。チャウシェスクの時代に描かれた絵画は、ブクレシュティにある国立近代美術館に展示されているが、チャウシェスクへの敬意を示すわけではないことを表すため、美術館の管理者の決定に基づき、これらの絵画は斜めに傾き、逆さまに吊るされている[94]。
チャウシェスクは、常に「偉大なる指導者」として描かれた。「カルパティアの天才」「理性に満ちたるドナウ」「我らが光の源」[61]、「これまでに見たことがない、新たな時代の創造者」[53]、「英雄の中の英雄」「労働者の中の労働者」「この地上に初めて出現した有力者」[71]といった賛美の言葉で彩られていた。
夫・ニコラエとともに、妻・エレナも個人崇拝の対象となった。エレナには「無限に続く大空に隣り合って瞬ける星の如く、彼女は偉大なる夫の傍らで光り輝き、ルーマニアの勝利への道筋を見つめるのです」との賛美が捧げられ、「Mama Neamului」(「国民の母」)なる称号で呼ばれ、「党の光明」「女傑」「文化と科学を導く光」とも呼ばれた[94]。
1983年12月、第一次世界大戦後のルーマニア統一65周年記念集会が開催された。しかし、他の多くの行事と同じく、実際にはニコラエ・チャウシェスクを祝賀するための行事であった。会場の正面には「ニコラエ・チャウシェスク書記長同志率いるルーマニア共産党万歳!」と書かれた横断幕が張られ、フォーク・ダンスやバレエの上演も行われた。西側のある外交官は、チャウシェスクについて「東ヨーロッパにおいて最も独裁的且つ権威主義的な支配者」と表現したうえで「これは個人崇拝である」と呼んだ[71]。
多くの証言によれば、チャウシェスク自身、ルーマニア国民からの人望や強い支持を最後まで信じていたという[95]。しかし、ルーマニアの経済危機が深刻化するにつれて、チャウシェスクに対する不信感が募り、ルーマニア社会では緊張感が高まりつつあった[5]。
政権への抗議
1977年6月30日、法令第三号(Legea nr. 3)が制定された。この法律では、鉱山労働者の定年が引き上げられ、障害者年金が廃止された[5]。トランスィルヴァニアの南西部、ジウルイ渓谷(Valea Jiului)にあるルペニ(Lupeni)で働く90000人の鉱山労働者のうち、35000人が1977年8月1日の深夜に操業停止を決定し、労働争議を展開した。もともと安い給料であったことに加え、労働時間がさらに延長され、3月からは残業代は支払われず、休日問わず働くよう義務付けられ、「生産目標を達成できなければ給料から天引き」とされた。労働者たちの貧しい生活環境や、彼らの苦境に対して経営陣がまるで無関心であったことも手伝った。労働者たちは労働時間の短縮や労働環境の改善を要求した。8月2日、労働者たちは、ブクレシュティからやって来た党の代表団を捕らえ、チャウシェスクを連れてくるよう要求した。8月3日に現場に到着したチャウシェスクは労働者たちの怒りを鎮めようとしたが、何千人もの群衆はチャウシェスクの言い分には耳を傾けず、強い抗議で答えた[74]。群衆の中からは「Lupeni '29!」との叫び声の唱和も起こったが、これは1929年8月にも同地で発生した労働争議について言及している。この労働争議の主導者であるコンスタンティン・ドブレ(Constantin Dobre)は、チャウシェスクの目の前で、労働日程、就業規則、年金、物資の供給、住居、投資に関する要求を読み上げた。チャウシェスクは鉱山労働者たちの労働条件と生活状況の改善を約束し、現場から去っていった。1977年12月31日まで、就労障害年金受給者は給料と年金の両方を受け取れるよう決定され、労働時間を8時間から6時間に短縮し、供給を改善するという約束は履行されたが、他の要求に関しては受け入れられなかった。この労働争議に参加した労働者たちの一部は、のちにセクリターテから殴る蹴るの暴行を受けたり、懲役刑を宣告されたりした。また、およそ4000人の労働者が解雇されたという[74]。懲役刑が終わった者たちの多くは治安当局の厳格な監視下に置かれ、何年にもわたって嫌がらせを受けた。
1981年、鉱山労働者たちが再び蜂起し、1982年にはマラムレシュ(Maramureș)で暴動が発生した。1986年から1987年にかけては、クルージ(Cluj)の重工業、冷蔵庫工場で、1987年にはヤーシ(Iași)にある自動車工場、ルーマニア国内の産業の中心地で、大規模な労働争議が続発した。1987年11月15日、並ぶのに疲れ、慢性的な食糧不足に悩まされていた工業都市、ブラショヴ(Brașov)の労働者たちは、給料削減に加えて大規模な人員削減が行われることを知り、市内の中心部に移動した。当初、彼らは「我々は食料と暖房を要求する!」「我々は金を要求する!」「我々の子供たちに食料が要る!」「我々には灯りと暖房が要る!」「配給券無しでパンを買えるようにせよ!」と唱和していた[96]。ブラショヴの市長(ブラショヴ郡党委員会の書記でもある)が姿を現わし、「あと一カ月もすれば、諸君らは諸君らの子供たちと一緒に藁を喜んで食べるようになるだろう」と言った[41]。抗議者たちは市長を殴り、党委員会の建物や市庁舎に闖入した。そこにはさまざまな種類の食べ物でいっぱいの宴席があった[41]。群衆は「この泥棒め!」「チャウシェスクを倒せ!」「共産党を叩き潰せ!」と唱和し、1848年の国歌『Deşteaptă-te, române!』(『目覚めよ、ルーマニア人!』)を歌った[5]。労働者たちは、建物内の壁からチャウシェスクの肖像画を引き剥がし、これを建物の前の広場で燃やした[41]。この暴動は治安部隊と軍隊に鎮圧されたが、死者が出たという報告は無い。逮捕された者たちは殴る蹴るの暴行を受け、裁判では有罪判決を受け、国内の別の場所に強制送還され、その後も治安当局の監視下に置かれた。
1989年3月10日、ゲオルゲ・アポストルが起草し、アレクサンドル・ブーラダーノ、コルネリウ・マネスク、グリゴーレ・イオン・ラチャーノ、コンスタンティン・プルヴォレスク、スィルヴィオ・ブルカンが署名した文書が発表された。これはチャウシェスクによる一連の政策を非難する内容であった[97]。この書簡は「Scrisoarea celor şase」(「六人による手紙」)と呼ばれ、1989年3月11日にBBCテレビとラジオ・フリー・ヨーロッパ(Radio Free Europe)でも取り上げられ、放送された。1989年3月13日、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議の場でこの書簡が議題に上がった。チャウシェスクは、ルーマニア国民が外国人との関係を維持できる条件をより厳格にするよう決定したうえで、これに署名した者たちを「国家に対する裏切り者」と認定した。ゲオルゲ・アポストルをはじめ、書簡の作者たちは逮捕され、尋問され、自宅軟禁下に置かれた。
ルーマニア生まれの歴史学者、ヴラディミール・ティスマナーノによれば、この書簡はルーマニア国民に幅広く支持されたわけではないが、チャウシェスク政権の抑圧体制の暴露とその崩壊につながった、という[98]。また、ティスマナーノは「『六人による手紙』は、反全体主義の宣誓書というわけではなく、チャウシェスクの独裁の濫用に対する党の旧親衛隊による反乱の叫びであった。これは遅きに失した反乱であり、イデオロギーに関連するものに限定され、政治との関連は無かった」と書いた。署名者の1人であるスィルヴィオ・ブルカンについて、「彼はチャウシェスクを公に批判することは無かった。ブラショヴで蜂起が起こるまで、ブルカンはこれを遵守した。その後も党の指導的役割に対して反対の姿勢は見せなかった。彼はチャウシェスクの個人崇拝の行き過ぎと、『レーニン主義の規範』からの逸脱が見られた時にだけ、異議を唱えた」「決して反体制派というわけではなく、ルーマニア共産党内では派閥主義者に過ぎなかった。彼は自由民主主義を信じてはいなかったし、多元主義を大切にする人物でもなかった」と書いた[99]。
ルーマニア共産党14回党大会
1989年10月ごろから、チャウシェスクによる権力の濫用について書かれた内容の書簡が国中に出回るようになっていた。学者、作家、共産党の幹部が署名しており、その中には、のちの救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salvării Naţionale)の議長を務めることになるイオン・イリエスク(Ion Iliescu)の名前もあった[100]。それには、「11月に開催される第14回党大会で、チャウシェスクを再選させてはならない」「この狂人夫婦に抗議の声を上げよ」との趣旨が書かれていた。1989年11月20日から11月24日にかけて、ルーマニア共産党第14回党大会が開催され、チャウシェスクが共産党書記長を含めたすべての役職に再選された。会場にいた者たちは、チャウシェスクに対してその場で総立ちして一斉に拍手喝采を送った[100]。また、チャウシェスクはこの第14回党大会の場で、ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Горбачев)が推進するペレストロイカ(Перестройка)について、「社会主義を崩壊させ、ひいては共産党の崩壊につながる」と公然と批判した[7]。これ以降、ソ連はチャウシェスクのことを「独裁者」「スターリニスト」と呼び始めるようになった。さらに、1988年以降、アメリカとイギリスの報道機関が「チャウシェスクの存在は、西側にとってもゴルバチョフにとっても問題になりつつある」「ルーマニアが『ペレストロイカ』に反対するすべての社会主義国を結集させる可能性がある」と報じるようになった[7]。チャウシェスクは、ペレストロイカに賛同しない国々(アルバニア、キューバ、ヴェトナム、中国、北朝鮮)による経済共同体を創設する計画を打ち出した。1988年10月、チャウシェスクはモスクワでゴルバチョフと会談し、その会談で「ルーマニアは、社会主義の段階的な撤廃を意味する『ペレストロイカ』を拒否した」と報道された[7]。
チャウシェスクは、1989年の秋から冬にかけて、世界各地からの代表団に会い、取材に応じた。この間にルーマニア国内のさまざまな企業を訪問し、そのたびに称号を授与された。生産担当班から話を聞き、チャウシェスクは国内の情勢について多くのことを知っていたという[100]。
1989年12月
ティミショアラ
12月15日 - 12月17日
1989年12月15日、ルーマニア政府は、ティミショアラ(Timișoara)に住むハンガリー人の牧師、トゥーケーシュ・ラースローに対して教区から立ち退くよう命じた。12月16日、ハンガリー人の改革派教会の教区民が教会の前に集結し、トゥーケーシュへの立ち退き命令に対する抗議運動を開始した。共産党当局に忠実なトランスィルヴァニアの司教により、トゥーケーシュは、自分が住んでいた住宅に住む権利を剥奪され、別の場所への追放を命ぜられた。16日の日中までに、教会の前にプロテスタントの信者の集団ができあがり、ティミショアラでは通行人がこの集団に加わり、群衆は徐々に規模を増していった。ティミショアラの市長、ペトレ・モーツ(Petre Moț)がトゥーケーシュの立ち退き命令に反対する旨を文書で確認するのを拒否すると、群衆は反共主義の標語を唱和し始めた。聖マリア広場では路面電車が止められ、イオン・モノラン、ダニエル・ザガネスク(Daniel Zăgănescu)、ボールビー・ラースローらが、反共産党を訴える演説を行った。ダニエル・ザガネスクは路面電車に乗り、「Ma numesc Daniel Zăgănescu si nu mi-e frica de Securitate. Jos Ceausescu!」(「私はダニエル・ザガネスクと申します。私はセクリターテなぞ恐れてはいない。チャウシェスクを倒すのだ!」)と叫んだ[101]。
トゥーケーシュへの立ち退き命令に抗議する意味で、蝋燭を灯した人々が現われ、抗議は拡大を続けた。午後9時、セクリターテの長官、ユリアン・ヴラードはこの反乱を鎮圧するため、上級作戦部隊をティミショアラに派遣した[102]。抗議者たちはティミショアラ正教大聖堂(Catedrala Mitropolitană din Timişoara)の周辺を移動し、市内を行進し、治安部隊と再び対峙した。午後9時から午後11時30分にかけて、民兵、警備員、消防士、国境警備隊で構成された部隊が180人を逮捕した[102]。
12月17日午前9時、陸軍参謀本部の工作員の集団が市内に到着した。トゥーケーシュ・ラースローは、妻とともに夜中のうちに強制退去させられていた。午前11時、ティミショアラでの抗議運動の参加者は、いつしか数千人にまで膨れ上がっていた。中心部にある本屋の窓ガラスが割られ、チャウシェスクを賛美する本は酷く損壊していた。国防大臣で将軍のヴァスィーレ・ミーラ(Vasile Milea)は、ティミショアラ市内にあるルーマニア共産党本部の建物を、400人の兵士で守るよう命令を出した。午後1時30分、ミーラは「ティミショアラの状況は悪化の一途を辿っています。軍による介入命令をお願い致します。軍は戦闘状態に突入します。ティミショアラ郡にて非常事態が進行中です」と報告した[102]。軍隊に対して命令を出せるのは、法的にはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2回、ヴァスィーレ・ミーラに少なくとも6回電話し、ティミショアラでの暴動を腕ずくで迅速に鎮圧するよう指令を出した[103]。午後1時45分、ティミショアラの通りに戦車が現われた。午後4時頃、抗議者たちは郡の党委員会の建物に闖入し、党の文書、宣伝用の小冊子、チャウシェスクの著書、共産党の権力の象徴であるこれらを窓から次々に投げ捨てた。彼らは建物に火を付けようとしたが、これは軍の部隊に阻止された。午後4時30分、チャウシェスクは、首都・ブクレシュティにてルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時会議を招集し、ティミショアラでの出来事について、国防大臣たちと議論を始めた。チャウシェスクは、反乱の鎮圧を躊躇したトゥドール・ポステルニク、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難した[104]。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラに対し、「ミーラよ、あなたの部下は何をしていたのか。なぜすぐに介入しなかった?なぜ撃たなかった?部下に足元を撃たれてもおかしくないはずだ」と質問した。ミーラは「私はいかなる種類の弾薬も与えませんでした」と答えた。チャウシェスクは、治安部隊に対して発砲命令を出さなかったユリアン・ヴラードに対し、怒りを込めて応酬した。「あなたのやったことは、国家の利益、人民の利益、社会主義の利益に対する裏切りだ。責任ある行動を取らなかったのだ」「あなたにいかなる処罰を与えるべきか、分かるか?銃殺刑だ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、敵と手を結んだも同然の行為だからだ!」[103]
ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議者を撃てとの指令を受けたが、ミーラはこれを陸軍部隊に伝令するのを拒否した。ミーラは「軍規を確認しましたが、人民軍は人民を撃ち殺せ、との記述がある項目はどこにも見当たりませんでした」と発言した[103][105]。
チャウシェスクは、反逆者を撃つよう命じた。この命令を出したチャウシェスクに対し、国防大臣、内務大臣、セクリターテの長官は初めて反対を表明した。チャウシェスクは、自分に対する彼らの忠誠と服従を疑い、3人に対して「役職を解任する」と発言したが、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対し、彼ら3人への支持を表明した。チャウシェスクは怒りを露わにし、「ならば私は書記長を辞任する。別の人物を書記長に選出するが良い!」と言い、会議室から出て行った。エミール・ボブとコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとを追いかけ、部屋に戻るよう懇願した[104]。数分後、チャウシェスクは会議室に戻り、会議を続けた。チャウシェスクは、ティミショアラの党代表と緊急の電話会議を実施し、民間人に対する発砲命令を出した[41]。チャウシェスクは将軍のイオン・コーマン(Ion Coman)を司令官に任命し[104]、12月17日午後3時30分、国防省と内務省の将官の代表団がティミショアラに派遣された。午後6時、ジロクルイ(Girocului)にて、参謀総長のシュテファン・グーシャ(Ştefan Guşă)の命令により、道を塞がれた戦車を回収する名目で、抗議者に対して発砲が始まった。午後6時45分ごろ、ティミショアラの部隊は、信号「Radu cel Frumos」を受けた。これは「軍隊に戦争弾薬を装備させ、戦闘態勢に切り替えよ」との指令であった[102]。ティミショアラでは、国防省の部隊による発砲がついに開始され、数時間で300人を超える人々が撃たれた。
トゥーケーシュ・ラースローは、1989年7月にハンガリーのテレビ局の取材訪問で「ルーマニア人は自分たちの人権さえも知らないのだ」と発言していた。2008年にトゥーケーシュが語ったところでは「これは、独裁者であるチャウシェスクを支持する必要は無いのだ、ということを伝えるものでした。チャウシェスクの仮面を剥ぎ取るためにどうしても必要だったのです」という[106]。
1989年12月22日、トゥーケーシュ・ラースローは救国戦線評議会の委員の1人に任命された。
12月18日
12月18日午前5時30分、ティミショアラの部隊の司令官、イオン・コーマンは、現地の状況について「取り締まりの最中にあります」とブクレシュティに報告した[102]。この24時間で、ティミショアラでは66人が死亡し、300人近くが負傷した。この日、チャウシェスクはイランを訪問する予定があった。午前8時、チャウシェスクは「イランへの訪問を取り消す必要は無い」と判断し、テヘランに出発した。午後3時から午後4時にかけて、抗議者が殺されたことに激怒した労働者の大規模な集団が、市内の中心部に移動していた。午後5時から午後7時にかけて、蝋燭を手にした者たちが大聖堂の階段に集結した。将軍のミハイ・チツァックは兵士たちに発砲を命じ、自らも民間人に向けて発砲した。7人が死亡し、98人が負傷した。
12月19日
12月17日から18日の夜にかけて、ティミショアラの郡病院にて、撃たれて死亡した者たちの遺体が安置された。12月19日、エレナ・チャウシェスクとイオン・コーマンの命令に基づき、遺体安置所に安置されていた58体の遺体のうち、43体が冷凍トラックに積まれ、ブクレシュティに移送された。彼らの遺体は火葬され、その遺灰は水路に投げ捨てられた。弾圧された痕跡を残さないようにするのが目的であった。エレナ・チャウシェスクはこれを「Operaţiunea Trandafirul」(「バラ作戦」)と名付けた[102]。午前7時から午後12時、数千人の労働者が街頭に繰り出していた。ティミショアラでの抗議運動ははもはや止めることが不可能になっていた。午後1時50分、シュテファン・グーシャは兵士たちに対し、兵舎への撤退を命じた。
12月20日
午前9時、抗議者の集団は数万人規模にまで膨らんでいた。ティミショアラの中心部にある劇場広場に集結した群衆は「独裁者を倒せ!」「自由を!」「神がおわします!」「軍隊は我々の味方だ!」と唱和した。午後12時、ティミショアラの中心部には、およそ15万人の抗議者がいた。彼らは兵士に差し入れを送った。午後12時30分、抗議者数人が劇場の桟敷を開放し、その直後に「主の祈り」の唱和が始まった。拡声器を通じて「ティミショアラは共産主義から解放されたルーマニアの最初の都市である」と宣言された。午後2時30分、閣僚評議会議長のコンスタンティン・ダスカレスクがティミショアラに到着した。抗議者たちは、国の指導者の立場にある者たち全員の辞任、自由選挙、ティミショアラでの殺害の責任者を裁判にかけるよう要求した。
イランを訪問中のチャウシェスクは、自国からの連絡を受けて急遽帰国するに至った。午後5時、イランから帰国し、状況がますます悪化していることを知ったチャウシェスクは、ヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクをティミショアラの司令官に任命するとともに、非常事態宣言を布告した。午後7時、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行った。チャウシェスクはティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。チャウシェスクはまた、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[8][9]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」とも訴えた[41]。12月20日の夜、チャウシェスクと治安部隊の幹部との間でテレビ会議が実施された。チャウシェスクは、「チャウシェスクを支持する、公認済みの無産階級50000人」で構成された特別自衛部隊を創設して首都に集め、暴徒に立ち向かうよう党指導部に指示を出した[9]。チャウシェスクは、21日にブクレシュティで「社会主義の利益を守る」ための「人民集会」(Adunare Populară)を開催し、国民に直接語りかけることにした。
12月21日の演説
1989年12月21日午前9時、首都・ブクレシュティの中心部、革命広場にて、抗議者の群衆がルーマニア共産党中央委員会の建物の前に集結した。チャウシェスクがこの集会を開こうと決めたのは、「自分はまだ国民から支持されている」との自信があったからである[104]。午前11時、集会が始まった。午後12時、チャウシェスクが建物の桟敷に姿を現わし、演説を始めた。
ところが、演説が始まってまもなく、群衆の中で突如爆竹が炸裂し、騒ぎが勃発したことで、チェウシェスクは演説を中断せざるを得なくなった。救国戦線評議会の委員の1人、カズィミール・イオネスクがのちに語ったところによれば、「ニコラエ・チャウシェスクの演説を妨害する目的で特別に編成された集団の存在があったのだ」という[8]。ルーマニアの日刊紙『România Liberă』(『自由ルーマニア』)は、「12月21日のチャウシェスクの演説を『台無しにした』のは誰だったのか?については、ティミショアラからブクレシュティに移動してきた集団の仕業である」と報道している[107]。
チャウシェスクは群衆に何度も「Hallo!」と呼びかけて静粛にするよう促し、群衆を落ち着かせようとした。エレナ・チャウシェスクやセクリターテの職員も「聞こえないのか?静かにせよ!」と群衆に向けて怒鳴った。群衆が一旦静かになると、チャウシェスクは再び演説を続けた。チャウシェスクはこの演説の中で「最低賃金200レイ、年金100レイ、社会扶助300レイ、児童手当30 - 50レイ、出産手当1000 - 2000レイの引き上げの実施を約束する」と発表した。これは前日招集したルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会でチャウシェスク本人が提案した内容であった[104]。しかし、騒ぎはますます大きくなり、チャウシェスクは混乱と戸惑いの表情を隠せずにいた。チャウシェスクは建物の中に引き戻された。チャウシェスクは郡党委員会の第一書記と電話会議を行い、「ここ数日の一連の出来事は、国を不安定にさせ、ルーマニアの独立と主権に対する組織的な策動の結果である」と宣言し、党と国家権力、民兵、治安部隊、軍隊を総動員するよう求めたうえで、「我々は、この出来事の正体を暴き、断固として拒否し、始末を付けねばならない」と述べた。革命広場から出た者たちは恐慌状態に陥り、革命広場周辺の通りに集まると、「独裁者を倒せ!」「チャウシェスクよ、お前は誰だ? - スコルニチェシュティ出身の極悪人だ!」との唱和を始めた。
午後4時、ホテル『Intercontinental』の前にいた群衆に、ルーマニア国防省のトラックが制御不能状態で突っ込んだ。これにより、7人が死亡し、8人が負傷した[102]。
午後6時、抗議者2000人が大学広場(Piața Universității)に障害物を設置した。午後8時、治安部隊が抗議者たちに発砲し始め、彼らを次々に逮捕していった。午後11時、ヴァスィーレ・ミーラが障害物を撤去するよう命じた。抗議者たちは地下鉄で逃げようとするも、治安部隊に捕らえられ、拷問された。その中には、子供、女性、老人も含まれ、駅の階段や乗降口には血が飛び散っていた。この過程で50人が殺され、462人が負傷し、1245人が逮捕され、ジラーヴァ刑務所に移送された。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党の建物の中で過ごした。午前1時ごろ、ヴァスィーレ・ミーラとユリアン・ヴラードは、ブクレシュティの中心部から抗議集団が一掃された趣旨を報告した[108]。
12月22日
1989年12月22日の午前3時から午前5時にかけて、消防車や清掃車が出動し、大学広場や地下鉄の階段、周辺の通路に付着した血痕を洗い流していた。ブクレシュティで抗議者たちが弾圧されたという知らせは瞬く間に拡がり、反チャウシェスクの気運はますます増幅していた。午前7時、労働者・抗議者の集団がルーマニア共産党中央委員会の建物に向かった。建物は約1000人の兵士が警護していた。午前9時、ニコラエ・チャシェスクは、ユリアン・ヴラードとヴァスィーレ・ミーラに対し、抗議の群衆がこの建物に接近するのを何としてでも阻止するよう指示を出した。午前9時30分ごろ、ヴァスィーレ・ミーラが心臓を銃で撃ち貫いて死んでいるのが発見された。ミーラの死を知らされたチャウシェスクは酷く動揺し、「ミーラ将軍は国家と国民を裏切った」と述べた。午前9時45分、ルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の会議が始まった。チャウシェスクは「ミーラ将軍が、私のもとを離れた2分後に自殺したことを知らされた」と述べた[108]。死ぬ直前のミーラと会話したコルネリウ・プルカラベスクによれば、ミーラは「私はニコラエ・チャウシェスクから国民を撃つよう命じられた。自国民への射殺命令は、私には出せない」と語っていたという[109]。チャウシェスクは「直ちにルーマニア全土に非常事態宣言を布告する。これは憲法に則ったものであり、大統領の権限でもある。国家評議会を招集するには及ばん」と述べた。コンスタンティン・ダスカレスクは「誠実な労働者を撃っていいものかどうか」と疑問を呈し、それに対してトゥドール・ポステルニクは「我々が発砲すべき相手は誠実な労働者ではなく、出来損ない連中やクズどもです」と述べた。チャウシェスクは、「もちろん、労働者に銃を向けるわけにはいかない。我々は労働者の代表なのであり、労働者を撃つことは無い。しかし、なかには卑怯者もいる。裏切り者のミーラに責任を負わせる。他にもいるかもしれんな」と答えた[108]。
チャウシェスクは、ルーマニア全土に非常事態宣言を布告した。この布告が国営テレビとラジオの放送で読み上げられたあとに「国防大臣が、ルーマニアの独立と主権に反する裏切り行為を働き、それが露見するのを悟って自殺したことをお知らせ致します」と報道された[110]。ヴァスィーレ・ミーラが死んだため、チャウシェスクは、ティミショアラから戻ってきたヴィクトル・アタナスィエ・スタンクレスクを新たな国防大臣に任命した。しかし、スタンクレスクはチャウシェスクに忠誠を示す一方で、他方では二重の駆け引きを始めた。午前10時7分、彼は軍隊に対して兵舎への引き揚げ、ならびに抗議者の群衆と「対話」するよう命じた。
チャウシェスク夫妻の逃亡
ヴァスィーレ・ミーラの死を発表してまもなく、チャウシェスクはルーマニア共産党中央委員会政治執行委員会の臨時集会を招集し、チャウシェスク自ら軍の指揮を執る趣旨を発表した。ルーマニア共産党中央委員会の建物の前には5万人の群衆が集まっていたが、その数はさらに増えていた。午前11時30分ごろ、チャウシェスクは桟敷に姿を現わし、拡声器を手に取り、群衆に向けて演説を行おうとしたが、彼らの怒りを買っただけであった。セクリターテの長官、マリン・ナゴエ(Marin Neagoe)はヘリコプターの手配を要請した。抗議者たちが建物内に侵入し始めた。午後12時6分、大群衆が見守る中、チャウシェスク夫妻と護衛の乗ったヘリコプターが、建物の屋上から離陸していった[111]。抗議者たちは、ニコラエとエレナの肖像画を窓から投げ捨てた。軍隊は群衆の側に付き、セクリターテとの対決姿勢に入っていた。12時30分ごろ、抗議者たちは軍隊とともに国営テレビ局を占拠した。午後1時、抗議者たちはチャウシェスク夫妻の逃亡を伝えるとともに、「チャウシェスクはもう終わりだ!」と宣言した。午後1時30分、ヴィクトル・スタンクレスクは軍隊に対して「国防大臣の命令に従うように」との指令を出した。この時点で、チャウシェスクを権力の座から引き摺り下ろす道筋は完了していた[112]。
午後2時45分、ルーマニア共産党の幹部の1人、イオン・イリエスク(Ion Iliescu)は演説を行い、「チャウシェスクのやったことは、共産主義を汚しただけに留まらないのだ」と語りかけた。午後3時ごろ、ブクレシュティ工科大学(Universitatea Tehnică din București)の講師でのちに首相となるペトレ・ロマン(Petre Roman)がルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、「Frontului Unităţii Poporului」(「人民統一戦線」)の声明を読み上げた[113]。午後4時、イオン・イリエスクとペトレ・ロマンが陸軍および治安維持の責任者と会談した。午後5時、イオン・イリエスクがルーマニア共産党中央委員会の建物の桟敷に登場し、その際に「同志諸君!」と呼びかけたことで群衆から非難され、表現の仕方を直した[102]。
救国戦線評議会の議長に就任したイオン・イリエスクは、午後10時30分に宣誓書を読み上げ、チャウシェスクの権力からの追放、民主主義、政治における多元主義、経済回復のための措置の導入を宣言した[102]。イリエスクはまた、「混乱と内戦、無政府状態を避けるため、総選挙が行われるまでは、救国戦線評議会が国家権力を引き継ぐ」と発表した[111]。
チャウシェスク夫妻は、ブクレシュティの北部にあるスナゴヴ(Snagov)に向かった。ここにはヴィクトル・スタンクレスクが約束した予備隊が待機していた。チャウシェスクはスナゴヴから軍管区の司令官に電話をかけていた。電話からは、チャウシェスクへの忠誠を誓う言葉が届いた[112]。夫妻はヘリコプターに乗って現地へ向かおうとしたが、スタンクレスクが領空を閉鎖した。彼はチャウシェスクの乗ったヘリコプターを撃墜するつもりでいたが、スタンクレスクの部下の一人がそれを止めるよう進言し、トゥルゴヴィシュテ(Târgoviște)の近くの野原に着陸させた[112]。着陸後、ヘリコプターの操縦士は反乱軍に亡命した。チャウシェスク夫妻は、護衛とともに、通りかかった車の運転手に対して自分たちを乗せるよう要求し、ピテシュティ(Piteşti)に向かおうとした。チャウシェスク夫妻は二台目の車を拾った。エレナは「森に隠れよう」と提案し、ニコラエは「労働者の助けを借りよう」と答えた。二人はルーマニア共産党地方委員会の建物に避難しようとしたが、入ることは許されなかった。12月22日午後3時30分、チャウシェスク夫妻は軍隊に捕らえられ、身柄を拘束された[112]。
チャウシェスクの略式裁判の参加者の一人、ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスクによれば、チャウシェスク夫妻は自分たちが「捕らえられた」とは認識しておらず、トゥルゴヴィシュテの軍隊に保護されていると信じていた、という[41]。その後2日間、夫婦は基地内にある独房と装甲兵員輸送車の中で過ごした。この間に、夫婦は簡易な健康診断を受けた[114]。
12月24日、アメリカ合衆国の国務長官、ジェイムス・ベイカー(James Baker)はソ連の外務省に対し、「チャウシェスク政権の危機に関係する形での流血の事態を防ぐために、ソ連やワルシャワ条約機構がルーマニアに介入した場合、アメリカは反対しない」と通告した。ソ連は、「ルーマニア人の運命はルーマニア人自身に委ねる」と決定したという[80]。
糖尿病治療とインスリン注射
ニコラエ・チャウシェスクは糖尿病を患っていた[115][116][117]。
1989年4月、チャウシェスクを診察した医師、ユリアン・ミンクは、チャウシェスクの静脈にインスリンを注射しないと命の危険につながる、と説得したが、チャウシェスクはこれを拒否した。チャウシェスクの弟の一人、ニコラエ・アンドゥルーツァ・チャウシェスク(Nicolae Andruţă Ceauşescu, 1924 - 2000)も糖尿病であり、ミンクはアンドゥルーツァにインスリンを投与した。チャウシェスクによれば、「弟にインスリンを投与したら、インスリンに依存する身体になってしまった」という。ミンクによれば、チャウシェスクの身体はインスリン抵抗性が認められ、血糖値は390を超えていたという。チャウシェスクは酒はほとんど飲まず、炭水化物が多いものを食べていた。食事療法が変更され、果物の糖質量にも注意しつつ、肉とチーズの摂取については制限されなかった[118]。
インスリン(Insulin)とは、膵臓のランゲルハンス島にあるβ細胞(Beta Cell)から分泌されるペプチドホルモンである。細胞によるブドウ糖の取り込みを促進し、炭水化物、脂質、タンパク質の代謝を調節し、分裂を促進する効果を通じて細胞分裂と成長を促し、正常な血糖値を維持する[119]。インスリン抵抗性(Insulin Resistance)とは、インスリンが肝臓、脂肪組織、骨格筋といった抹消標的組織において、インスリンの機能が損なわれたり、弱まったり、機能を発揮できない状態を指す。インスリン抵抗性は、2型糖尿病の発症にも関与する極めて重要な病因因子である[120]。
炭水化物が多い食事は高血糖症(Hyperglycemia)を有意に惹き起こす[121][122][123]。高血糖になると、膵臓は血糖値を正常な状態に戻そうとしてさらに多くのインスリンを分泌し、これは高インスリン血症(Hyperinsulinemia)の原因となる。炭水化物を食べて高血糖になり、そのたびにインスリンを注射する、というのを繰り返していると、さまざまな合併症や癌を患う危険性が上昇し、インスリンの強制的な注射やインスリンの強制分泌を促進する薬物の服用は、身体に深刻な不利益をもたらす[124]。インスリン療法を受けている患者は、インスリン療法を受けていない患者に比べて、心血管疾患(Cardiovascular Disease)で死亡する危険性が上昇する[125]。さらに、インスリンを注射して血糖値を下げようとすると、心血管疾患の発症率は低下せず、死亡率は上昇する。体重については、インスリンを注射していただけで10㎏以上も増加した[126]。インスリンは脂肪の蓄積を強力に促進し、空腹感を高め、体重と体脂肪を増やす作用が強いホルモンである。たとえカロリーを制限したところで、インスリンを注射された動物には過剰な量の体脂肪が蓄積する[122]。インスリン抵抗性に伴い、血糖値が慢性的に高い状態が続くと、高血糖症、高インスリン血症、および全身の細胞に酸化ストレス(Oxidative Stress)をもたらす[127]。高血糖は、体内でAGEs(Advanced Glycation End Products, 「最終糖化産物」と呼ばれる)の産生を促進する。これは身体の老化を強力に促進する物体で、タンパク質に糖が結合することでタンパク質が変性する。果糖はAGEsをブドウ糖以上に強力に生成し、ブドウ糖を摂取したときの10倍もできやすくなる[128]。インスリン抵抗性において、高血糖は、最終糖化産物の形成を促進する[129]。インスリンは全身の脂肪細胞に強く作用し、摂取した炭水化物を中性脂肪に合成して脂肪細胞内に閉じ込め、脂肪細胞は肥大していく。インスリンは脂肪細胞にエネルギーを貯蔵するにあたり、重要なホルモン信号を持つ。脂肪細胞は肝臓や骨格筋においてインスリン抵抗性に直面したとしても、インスリン感受性(インスリンの効き目の強さ)を維持する傾向が強く、インスリン抵抗性が強まれば強まるほど、脂肪組織の形成が促進され、体重の増加が加速し、肥満の原因となる[130]。
ユリアン・ミンクは「静脈内に大量のインスリンを投与するのは勇気が要る」「インスリンの投与は低血糖性昏睡に陥る危険を孕んでおり、責任問題になる」「400~500単位のインスリンが作られた。10単位のインスリンを投与した場合、低血糖性昏睡状態に陥る危険性があった」と語った。ミンクは「インスリン注射以外に方法は無い」との立場を崩さず、チャウシェスクにインスリンを投与した[118]。
インスリンの過剰分泌を促進する食事は、インスリンを注射した時と同様の作用をもたらす[122]。炭水化物を食べ続けることで慢性的な高血糖が常態化すると、身体はさらにインスリンの分泌量を増やそうとする。高血糖に伴う高インスリン血症およびインスリン抵抗性によって、筋肉細胞や脂肪細胞におけるインスリン感受性は低下し、血糖値は低下せず、インスリン抵抗性に対処するために膵臓のβ細胞は過剰な量のインスリンを分泌しようとする[131]。インスリンの大量分泌が常態化し、膵臓が疲弊すると、正常な血糖値を維持するのに必要な量のインスリンも分泌できなくなり(血糖値が制御不能状態に陥る)、糖尿病を発症する[120]。この状態でも炭水化物を食べるのを止めず、インスリンも注射しないと命の危険に直結する。
ユリアン・ミンクは「チャウシェスクへのインスリン注射はうまくいった」と語っている[118]が、高血糖、インスリン、高インスリン血症、インスリン抵抗性、糖尿病、心血管疾患、癌は密接に関係している[129][132]。血糖値を下げるためにインスリンを注射するだけで、身体はインスリン抵抗性を発症し、体重と体脂肪が有意に増加し、糖尿病、さらには癌をも患いやすくなる[133]。インスリンは癌を促進する。インスリンは強力な分裂促進因子(Mitogen)であり、あらゆる癌の発生にはインスリン、高インスリン血症、インスリン抵抗性が直接関与している証拠を提供する[133]。高インスリン血症は、癌による死亡率を2倍に増やす。体重やBMIの数値が正常であったとしても、血中のインスリン濃度が上昇するだけで、癌の発生率のみならず、その死亡率までもが上昇する[133]。慢性的な高インスリン血症は癌を促進する。インスリンは腫瘍の成長、増殖、転移を直接誘導する力を持つ[129][134][135]。
インスリンは身体の老化を強力に促進し、脳の認知機能を破壊し、寿命を縮める[136][132]。糖尿病患者がインスリン療法(インスリンを注射して血糖値を下げる)を受けるだけで、動脈疾患のみらず、アテローム性動脈硬化症(Atherosclerosis)の危険も上昇する[136]。また、糖尿病患者はインスリンを注射しているだけで死亡率が倍になる。高血糖においては、癌細胞は大量のブドウ糖をエサにして増殖していく[137]。
1989年12月24日の時点で、チャウシェスクはインスリンを携帯していなかった[138][139]。チャウシェスクの糖尿病は悪化しており、インスリンを注射しなければ命を落とす可能性が高い体質になっていた。チャウシェスクは、12月22日の朝にインスリンを注射していた。インスリンを3日間注射しないままでいると、糖尿病性昏睡に陥ることをチャウシェスクは自覚していた[139]。トゥルゴヴィシュテの駐屯地にいた大佐のアンドレイ・ケメニチ(Andrei Kemenici)は、12月24日の朝、エレナ・チャウシェスクから「夫のニコラエは糖尿病で、インスリンをもう3日間注射していない」と聞かされた。24日の深夜、陸軍諜報局の将校が封筒を持ってトゥルゴヴィシュテを訪れた。その封筒の中には、チャウシェスクのために手配されたインスリンの入った小瓶と注射針が同封されていた。ヴィクトル・スタンクレスクは封筒を開封し、中にはインスリンの小瓶と注射針が入っていることをケメニチに告げた。封筒には手書きによる覚書も同封されており、それには「チャウシェスクはインスリンを忘れて出て行ってしまったので、すぐに投与しなければ昏睡状態に陥る危険がある」との趣旨が書かれていた。ケメニチがチャウシェスクのもとへ向かい、インスリンを見せると、チャウシェスクは「確かに、これは私の身体に必要なものだが、注射するにはまだ早い。お茶を飲んだからね...。注射は明日にするかな」と答えたという[139]。
当初のケメニチは封筒の中身について、「爆弾でないのなら、毒に違いない」と自分に言い聞かせたという。ケメニチは、チャウシェスクが糖尿病患者であり、インスリンを注射していたことを知らなかったという。「私は、(チャウシェスクを)銃殺刑に処すことには同意しませんでした。薬殺刑にすべきだ、と考えていたのです」と述べた[139]。
略式裁判の終了後、空挺部隊の隊員がエレナ・チャウシェスクの両手を縛っていたとき、大佐のゲオルゲ・シュテファン(Gheorghe Ștefan)が、インスリンの入った封筒を没収したという。封筒と、未使用のインスリンが入った2本の小瓶は現存するが、その中身について専門的な調査が実施されたことは無い。3本目の小瓶に入っていたインスリンについては、チャウシェスクが注射したのか、途中で破損したのかどうかについては不明のままである[139]。
1989年4月の時点で、チャウシェスクは糖尿病の合併症で命を落としてもおかしくない状態にあった。ユリアン・ミンクは「インスリンを注射することでチャウシェスクの命を救えた」と語っている[118]が、前述のとおり、インスリンは毒性の強いホルモンであり、インスリンの投与量が過剰である場合、脳を損傷したり、失明したり、低血糖症(Hypoglycemia)を惹き起こして死亡することがあるため、インスリンを服用する行為自体が非常に危険である[140][141][142]。
最期
イオン・イリエスクは、チャウシェスク夫妻を裁判にかける「特別軍事法廷」を設立する命令に署名した[144][145][9]。
1989年12月25日、ヴィクトル・スタンクレスク、ヴィルジル・マグラーノ、ジェル・ヴォイカン・ヴォイコレスクの乗ったヘリコプターが、トゥルゴヴィシュテに到着した。
12月25日午後1時20分、トゥルゴヴィシュテの軍の駐屯地内の兵舎の中で、ニコラエとエレナに対する特別軍事法廷「Tribunal al Poporului」(「人民裁判」)が始まった。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告された[145]。1989年12月25日付の官報には、救国戦線評議会による署名とともに、以下の公式声明が掲載された。「歴史と法律を前に、独裁者とその手先たちの犯した罪は、国を破滅へと導こうとする行為に対するしかるべき制裁を厳正に決定する法廷の場で立証されるであろう」[145]
この公式声明が発表された時点で、チャウシェスクはすでに処刑されていた。
チャウシェスクの弁護人を務めたニコラエ・テオドレスク(Nicolae Teodorescu)が、刑法第162条、第163条、第165条、第357条に規定されている行為に基づいて起訴された趣旨を告げると、チャウシェスクは、ルーマニア大国民議会の承認が無い限り、この裁判は無効であり、自分たちを裁いている軍人たちの言い分には何の根拠も無い、と反論した。「私は起訴などされていない。私はルーマニアの大統領であり、最高司令官であり、大国民議会と労働者階級の代表者の前でのみ答えよう。それだけだ。このクーデターを起こした者たちの行為は、国民に対する裏切りであり、ルーマニアの独立を崩壊に追い込んだのだ。最初から最後に至るまで、全てが欺瞞なのだ!」[146]
この裁判は、テレビ映像を通じて世界中に放映された。テレビに映し出された映像では、エレナは少数の質問に答えたのみで、喚いたり叫んだりする様子が目立ち、ニコラエがエレナに対して落ち着くよう宥める様子も見られた。チャウシェスクは、当初から法的な観点に基づいて論議していた。裁判開始から絶命の瞬間まで、チャウシェスクは明晰であった。
午後2時40分、裁判は終わり、午後2時45分にニコラエとエレナに対して死刑が宣告された。その後まもなく、夫婦は両手を紐で後ろ手に縛られた状態で建物から連行されていった。連行されていく途中、ニコラエは「自由なる独立国・ルーマニア社会主義共和国万歳!」と叫んだ[9]。ニコラエは、銃殺される少し前に、共産革命の歌「インターナショナル」を口ずさみ、「裏切り者を殺せ!」と叫んだ[147]。エレナは「夫と一緒に死なせて欲しい」「私と夫は一緒に戦った。一緒に死ぬわ」「殺すのなら、拘束を解いた状態で殺してちょうだい」「私たちはいつでも一緒よ。法律がそう言っているわ」と要求し、自分の両手を紐で縛ろうとする軍人たちに対して「これは何なの?これで何をするつもりなの?触るな!縛るな!私たちを怒らせるつもり!?私はお前たちの母親であり続けてきたのよ!私の手が折れる!手を放せ、その手を放すのよ!恥を知りなさい!」と叫んで抵抗しようとした[146]。エレナはまた、銃殺隊を前に、以下のように絶叫した。「よく考えなさい。私はこの20年間、お前たちの母親であり続けてきたのよ!」[100]
1989年12月25日午後2時50分、ニコラエ・チャウシェスクとエレナ・チャウシェスクの二人は銃殺刑に処せられた[147]。夫婦の処刑は判決が出てから10分以内に執行された。夫婦が銃殺される前後の映像もテレビ中継を通じて世界中に放映された。夫婦の遺骸はゲンチャ墓地(Cimitirul Ghencea)に埋葬された。
ルーマニア国内のテレビでチャウシェスク夫妻が銃殺された映像が公開され、その際にアナウンサーは「反キリスト者が、クリスマスの日に殺されました」と伝えた[52][105]。
チャウシェスク夫妻の処刑を指揮したイオネル・ボエロ(Ionel Boeru)は、「二人には何の同情も湧かなかった。視線を交わすことも無かった。動物を殺すようなものだ」と語っている[148]。
この裁判は、犯罪捜査が実施されなかった点、起訴状が無い点、起訴状を被告人に通知しなかった点、精神医学に基づく専門的な検査を実施しなかった点、裁判の期限を設定しなかった点、弁護人を選定しなかった点、上訴の提出期限を守らずに裁定しなかった点が法律違反である。軍事検察官であったミハイ・ポポヴ(Mihai Popov)によれば、ルーマニアの法律では判決から10日が経過して初めて判決が確定するが、その規定にも違反しており、その10日間のうちに、被告が「上訴しない」と最初に宣言していたとしても、考えを変える権利が被告人にはある。当時の手続きでは、控訴期間が終了した時点で、有罪判決を受けた者は恩赦を申請するか、もしくは恩赦を申請しない旨を書面で表明する必要があった。その恩赦の申請が却下されて初めて、刑の執行が可能になったのだという[149]。
ミハイ・ポポヴは、「チャウシェスク夫妻に対する『告訴』の内容は、どこまでも常軌を逸したものだった。チャウシェスク夫妻は、死刑になる可能性のある殺人罪で裁かれるべきであった。12月22日以前のティミショアラでの出来事を考慮するなら、この判決は妥当だと言えるかもしれない。しかし、殺人の扇動に対する有罪判決は、大量殺戮に対する有罪判決とは異なり、全財産の没収を伴うものではないし、それを実施する権利も無いのだ」と述べた[149]。また、ポポヴは「チャウシェスク夫妻に対する裁判は、ルーマニアの恥を世界中に晒した」とも明言している[149]。
歴史家のゾエ・ペトレ(Zoe Petre)は、「俗に言うトゥルゴヴィシュテ裁判は、法律違反も甚だしく、噴飯物の告訴に基づいており、ルーマニアの最近の歴史において恥ずべき節目であり続けている、あの裁判には何ら法的価値は無く、強盗を劇的に演出し、いかにも法に則って進めたかのように見せかけただけの失敗作である。ルーマニアの新たな指導者となる人物について、チャウシェスクは確かに多くのことを知っていた。だからこそ、チャウシェスクは死なねばならなかったのだ」と述べた[149]。
検事を担当した人物はチャウシェスクに対し、「『精神疾患を抱えている』と認めるなら、被告人に責任を負わせるつもりは無い」とする妥協案を提示した。しかし、チャウシェスク夫妻はそれを強く拒否した[8]。
夫婦の全財産没収と死刑が宣告されたのち、チャウシェスクが「いかなる判決であれ、私は認めるつもりは無い!」と叫ぶと、弁護人のニコラエ・テオドレスクは、「この判決を認めないということは、被告人は控訴する権利を行使しない、という意味です。今この場において、この判決は最終決定である点に気を付けて下さい」と発言した[146]。
イオン・イリエスクは、2009年12月に以下のように述べた。「私はチャウシェスクの処刑を悔やんではいない。彼は悪事の主犯格であり、然るべき報いを受けただけだ」[27]
ソ連共産党中央委員会政治局委員の一人であったミハイル・サロメンツェフ(Михаи́л Соло́менцев)はチャウシェスクの処刑について、「私はチャウシェスクに対して拒否反応を覚えたことは無い。彼の処刑については、まったくもって不愉快であり、残酷だ。裁判も捜査も、起訴状も無いではないか。彼らのやったことは、ただ評決を読み上げ、二人を外へ連れていき、撃ち殺した。どこからどう見たって法律違反じゃないのか?」と述べている[150]。
ルーマニア国立銀行の元総裁で、財務省で30年以上勤務し、チャウシェスクと一緒に働いた経験があり、チャウシェスクの良い面も悪い面も知っているデチェバル・ウルダ(Decebal Urdea)は、「経済学者としての観点から言うと、チャウシェスクが国民経済を弱体化させた、というのは無理がある。弱体化というのは、自分の個人的な目的のために何らかの害をなし、何らかの利益を得るという意図的な行為のことだ」としたうえで、「チャウシェスクが国民経済を弱体化させた」というのはバカげた主張だ」と断言している[149]。
1989年12月16日から22日にかけて、1104人が死亡し、3352人が負傷した。12月22日以降に登録された犠牲者の内訳は、805人が兵士(260人が死亡、545人が負傷)、138人が警察官(65人が死亡、73人が負傷)であった。法廷に送られた約100件の起訴状に加えて、検察官は別の5395件の事件を捜査し、そのうち4881件は不起訴処分とした。1990年3月、身体的危害を加える暴力行為は恩赦となった。不起訴処分となった理由の1つとして、この革命で発砲した兵士たちの多くが、「自分たちは敵と戦っている」、もしくは「自衛のために戦っている」と信じていた点にあった[104]。また、抗議者の群衆に発砲するよう命じたのはチャウシェスクではなく、ヴィクトル・スタンクレスクであったことが判明したという[40]。
共産政権が滅びたのち、ルーマニアでは1990年1月7日に死刑を廃止した[151]。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニアで死刑が執行された最後の存在となった。また、共産主義体制下のルーマニアで死刑が導入されたのは、1957年9月30日のことであった[152]。
略式裁判の際、チャウシェスクは「外国の銀行に秘密口座を開設した」と言われたが、そのような口座は実際には存在しないことが分かった[153]。国会特別委員会の議長、サビネ・クタス(Sabine Kutas)は、「銀行家や中央銀行総裁、ジャーナリストに話を聞き、証言を聞いた結果、『ニコラエ・チャウシェスクが外国の銀行に秘密の口座を持ち、お金を不正に移していた』ことを示す証拠は見付からなかった」と結論付けている[6]。
世論調査
2009年にルーマニアで実施された「CURS」による世論調査の結果によれば、ニコラエ・チャウシェスクについて、回答者の31%が「ルーマニアに利益をもたらした人物として歴史の教科書に載せるべきだ」と考えており、13%は「国に不利益をもたらした」と考えており、52%は「良いことも悪いこともした」と考えている。56歳以上の回答者の多くは、「チャウシェスクは悪いことよりも良いことをした」と考えている。農村部においては、「チャウシェスクは悪いことをした」と考えているのは9%であり、40%はチャウシェスクのことを高く評価している。その理由は、「農村は20年前と同じか、それ以上に悲惨なことになっている。道路の状態は悪く、下水道は無く、ガス管が無いゆえに薪を燃やして火を起こしている。しかし、チャウシェスクの時代には、少なくとも雇用があったのだ」という[154]。
『Marsh Copsey Associates』とルーマニア社会調査局が共同で実施した世論調査では、回答者の60%以上が「1989年以前に比べると、現在の政治家は腐敗しており、チャウシェスク政権のころのほうが公序良俗を守っていた」と回答した。回答者の55.8%が、「共産党独裁政権による政治は、現在の政治に比べて、国民を大切にしていた」と回答した。さらに、回答者の35%が「チャウシェスク政権の崩壊は、ルーマニアにとって不利益」であり、22%が「チャウシェスクが統治していたころに戻りたい」と回答した。「これは『現在の政治体制に不満があり、政治家全員が、自分たちの直面している問題の解決に対して無関心を決め込んでいるだけでなく、無能な存在である』と考えている人たちの比率である」という。さらに、18歳から29歳までの回答者のあいだで、18.5%が共産主義への回帰を望んでおり、25.6%は「どちらとも言えない」と回答した。48.4%が「1989年12月当時、何が起こっていたのかを知っておく必要がある」と回答し、33.6%は「知りたくない」と回答し、18.1%は「分からない」と回答した。1989年12月の出来事で、セクリターテの関与とその役割については、42.6%が「分からない」と回答し、30.2%が「好ましくない役割を果たした」と回答し、19.5%が「有益な役割を果たした」と回答し、7.8%が「何の役割も果たさなかった」と回答した。そして、回答者の73.4%は、「チャウシェスク夫妻は処刑されるべきではなかった」と回答し、「処刑されて当然だ」と回答したのは12%であった。「1989年の出来事から20年経った今、ルーマニアは共産主義から脱却したかどうか」の設問では、回答者の41.8%が「多少なりとも脱却した」と回答し、30%は「ある程度脱却した」と回答し、「完全に脱却した」と回答したのは8.3%であった。自分と自分の家族の生活状況については、ルーマニア国民の42.2%が「1989年以前よりも悪くなっている」と回答し、30.7%は「楽になった」と回答し、27.1%は「何も変わっていない」と回答した。この調査は、2009年10月15日から10月19日にかけて、18歳以上の1222人を対象に実施され、誤差は±2.9%であった[155]。
ルーマニア評価戦略研究所は、2010年7月21日から7月23日にかけて、18歳以上のルーマニア人1460人を対象に世論調査を実施し、7月26日に結果を公表した。それによれば、回答者の63%が「1989年以前のほうが生活は良かった」と回答し、23%が「今の生活のほうが良い」と回答した。ニコラエ・チャウシェスクの政治については、49%が「良い指導者だった」と回答し、15%が「悪い指導者だった」と回答し、30%が「良くも悪くもない」と回答した。「共産党の存在を法的に禁止すべきか」に賛成の回答を示したのは13%で、57%はそれに反対であった。ロシアの通信社『Регнум Новости』(「リェグノム・ノヴォスチェ」)は、「もしも現在のルーマニアで、チャウシェスクが大統領選挙に出馬した場合、ルーマニア国民の41%が彼に投票しようとするだろう」と書いた[156]。
ルーマニア評価戦略研究所は、2010年12月19日から12月21日にかけて世論調査を実施した。回答者の45%が「1989年の出来事が無ければ、自分の生活はもっと良くなった」と考えており、25%以上は「生活はより悪くなった」と考えている。チャウシェスクの裁判と死刑について、回答者の84%は「あれは公正な裁判ではないし、チャウシェスクを処刑したのは間違っていた」と考えており、50%が「チャウシェスク夫妻を死刑にした裁判の評決に反対する」と回答した。1989年12月の出来事については、ルーマニア人のあいだでは意見が分かれている。45%は「革命」で、45%は「クーデター」と考えている。また、回答者の64%は「あの出来事には外部の勢力が関わっていた」と確信しており、回答者の51%は「ソ連が関与していた」と考えている[157]。
心理学者のジョルジェ・ヴシュチェラーノ(George Vîșceleanu)は、「ルーマニアの『黄金時代』(チャウシェスクによる共産主義体制)を悔やんでいるのは、物質面で恩恵を得られた人か、受けた教育水準が平均以下の人だけである」という。「当時は自由な表現が許されず、あらゆる面で抑圧的な体制だった」と述べた。歴史学者のヴァスィーレ・レチンツァン(Vasile Lechințan)によれば、「共産主義時代に対する郷愁の念がある背景には、青春時代が過ぎ去ってしまったことへの後悔がある」という。「彼らが共産主義を懐かしむのは、そのころの彼らが全盛期で、若く、両親も生きていて、家族が揃っていたからだ」「学校を卒業したあとは就職し、現在は入手が困難な住居に住める。当時は誰もがそう信じていた」と述べた。社会学者のマリウス・マティチェスク(Marius Matichescu)によれば、過去に対する懐古の情は、現在満たされていない中で生じるものだという。「仕事も住まいも、当時は国から提供されていたのに、今では手に入れるのが困難だ」「共産主義体制に対する郷愁の念は、現時点で困難に直面している人々に見られる点に注目すべきだ」と述べた[158]。
勲章
ニコラエ・チャウシェスクは、「ルーマニア社会主義共和国英雄」(Erou Al Republicii Socialiste România)[159][160][161]、「『社会主義の勝利』勲章」(Ordinul "Victoria Socialismului")[159][160][161]をはじめ、数々の勲章を受勲している。1988年には、東ドイツのエーリッヒ・ホーネッカー(Erich Honecker)から「カール・マルクス勲章」を授与された[162]。
家族
長男のヴァレンティン・チャウシェスク(Valentin Ceauşescu)は物理学者。政治には一切関わらなかった。「長男は養子」との噂が長年広まっていた[163][164]ものの、この噂を裏付ける具体的な証拠が示されたことはなく[163]、ヴァレンティン本人も養子説を繰り返し否定している[163][165]。ニコラエとエレナが1947年12月に結婚した時点で、エレナは妊娠7ヶ月であった[22]。エレナはその2か月後にヴァレンティンを産んだ。
長女のゾヤ・チャウシェスク(Zoia Ceaușescu)は数学者であり、複数の論文を発表している[166]。政治にはほとんど関わらなかった。2006年11月20日、肺癌で死んだ[167][168]。
次男のニク・チャウシェスク(Nicu Ceaușescu)は、ブカレスト大学の物理学部を卒業後、政治の道を歩む。1989年12月の革命で、殺人を扇動した容疑で逮捕され、20年の懲役刑を言い渡された。肝硬変と糖尿病を患っており、1996年9月16日にブカレスト大学病院に緊急入院し、手術を受けた。9月18日にルーマニアを離れ、ヴィーンに向かい、手術を受けた。1996年9月26日に同地で死んだ。その3日後、両親と同じくゲンチャ墓地に埋葬された[169]。
映画
- Autobiografia lui Nicolae Ceausescu (『ニコラエ・チャウシェスク自伝』) - チャウシェスクの書記長就任から、89年の革命後の裁判までの記録映像を編集、構成。2010年公開。監督はアンドレイ・ウージカ(Andrei Ujica)。
- 4ヶ月、3週と2日(原題:『4 luni, 3 săptămâni și 2 zile』) - 2007年に公開されたルーマニア映画。監督はクリスティアン・ムンジウ(Cristian Mungiu)、主演はアナマリア・マリンカ(Anamaria Marinca)。チャウシェスク政権の時代、中絶が違法だった1987年のルーマニアを舞台に、望まぬ形で妊娠した同室者の堕胎に向けて奔走する女学生の一日。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。ニューヨーク・タイムス(The New York Times)の映画評論家、マノーラ・ダルギス(Manohla Dargis)は、「アカデミー賞まで受賞するなんてのはバカげているが、可能な限り、沢山の人々が視聴するに値する映画だ」と評価した[170]。
ニコラエ・チャウシェスクによる自伝・演説・報告
- Report during the joint solemn session of the CC of the Romanian Communist Party, the National Council of the Socialist Unity Front and the Grand National Assembly: Marking the 60th anniversary of the creation of a Unitary Romanian National State, 1978
- Major problems of our time: Eliminating underdevelopment, bridging gaps between states, building a new international economic order, 1980
- The solving of the national question in Romania (Socio-political thought of Romania's President), 1980
- Ceaușescu: Builder of Modern Romania and International Statesman, 1983
- The nation and co-habiting nationalities in the contemporary epoch (Philosophical thought of Romania's president), 1983
- The history of the Romanian people in the view of the President (Istoria poporului român în concepția președintelui), 1988
日本語翻訳版
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会主義建設の旗手』恒文社、1971年
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 平和と国際協力の政策』恒文社、1971年
- (草野悟一編訳)『ニコラエ・チャウシェスク 国際平和への道』恒文社、1978年
- (鈴木四郎訳)『ニコラエ・チャウシェスク 社会・政治思想』恒文社、1981年
参考資料
- Ion Mihai Pacepa : Red Horizons: Chronicles of a Communist Spy Chief, Regnery Gateway, 1987 ISBN 978-0895265708
- Stelian Tănase, "Societatea civilă românească și violența" ("Romanian Civil Society and Violence"), in Agora, issue 3/IV, July–September 1991
- Silviu Brucan : The Wasted Generation: Memoirs Of The Romanian Journey From Capitalism To Socialism And Back, Westview Press, 1993. ISBN 978-0-8133-1833-2
- Dennis Deletant (1995), Ceaușescu and the Securitate: Coercion and Dissent in Romania, 1965–1989, ISBN 978-1563246333 pub. M. E. Sharpe. p. 351
- Dumitru Burlan, Dupa 14 ani – Sosia lui Ceaușescu se destăinuie ("After 14 Years: The Double of Ceaușescu confesses"). Editura Ergorom. 31 July 2003.
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外部リンク
- Stenograma procesului Ceaușescu --- 1989年12月25日、ニコラエとエレナに対する略式裁判の記録(ルーマニア語)
- Nicolae Ceausescu LAST SPEECH (english subtitles) 1/2 - 1989年12月21日、ニコラエ・チャウシェスクによる最後の演説・その1(英語字幕付き)
- Nicolae Ceausescu LAST SPEECH english subtitles 2/2 - 1989年12月21日、ニコラエ・チャウシェスクによる最後の演説・その2(英語字幕付き)