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2022年10月19日 (水) 20:24時点における版
かわしま きよし 川島 淸 | |
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本名 | 河島 淸三郎 (かわしま せいざぶろう) |
別名義 | 鵜沼 三四郎 (うぬま さんしろう) |
生年月日 | 1905年11月14日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 岡山県苫田郡奥津村(現在の同県同郡鏡野町) |
身長 | 163.9cm |
職業 | 俳優、殺陣師 |
ジャンル | 演劇、劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1923年 - 1937年 |
主な作品 | |
『銀蛇』 『隼六剣士』 |
川島 清(かわしま きよし、1905年11月14日 - 没年不詳)は、日本の俳優、殺陣師である[1][2][3][4][5][6]。川島 淸と表記されることもある。本名は河島 淸三郎(かわしま せいざぶろう)[1][2][3][6]。旧芸名は鵜沼 三四郎(うぬま さんしろう)[6]。マキノ・プロダクションの主要人物の一人である[2][3]。
来歴・人物
1905年(明治38年)11月14日、岡山県苫田郡奥津村(現在の同郡鏡野町)に生まれる[1][2][3][4][5][6]。
大阪府立高津中学校(現在の大阪府立高津高等学校)を卒業後、天地キネマに入社[1][2][3]。ただし、同社の出演歴は不明である[1]。2004年(平成16年)10月15日に発行された『日本映画人改名・改称事典』(国書刊行会)によれば、同社在籍当時は鵜沼三四郎という芸名で活動していたという[6]。その後、舞台を経てマキノ・プロダクションに入社し、それと同時に川島清と改名[1][2][3][6]。1927年(昭和2年)4月22日に公開された賀古残夢監督映画『銀蛇』で映画デビューを果たす[1][2][3][5]。以後、マキノの中堅悪役俳優として多数の時代劇に出演[1]。また、殺陣師としても活躍していた時期もある[5]。翌々年1929年(昭和4年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』によれば、京都府葛野郡花園村斎宮町(現在の同府京都市右京区龍安寺斎宮町)、奈良県生駒郡生駒町(現在の同県生駒市)と転々と住み、身長は5尺4寸1分(約163.9センチメートル)、趣味は散歩と読書で、甘味の物とバナナが嗜好であり、好きな俳優はロン・チェイニー(1883年 - 1930年)と大河内傳次郎(1898年 - 1962年)であるという[2][3]。
マキノ・プロダクション解消後、東活映画を経て1933年(昭和8年)1月15日、市川右太衛門プロダクションに入社[3][5][6]。1937年(昭和12年)には松竹下加茂撮影所に移籍した[5]が、同年8月14日に公開された犬塚稔監督映画『元禄快挙余譚 土屋主税 雪解篇』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明である[1][4][5][6]。没年不詳。川島の来歴について記載されている資料はほとんど存在しない。また、キネマ旬報映画データベースにおいても川島の項目は確認できない。
出演作品
マキノ・プロダクション御室撮影所
特筆以外、全て製作は「マキノ・プロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、全てサイレント映画である。
- 『銀蛇』:監督賀古残夢、製作賀古プロダクション、1927年4月22日公開
- 『万花地獄 第四篇』:監督中島宝三、1927年9月23日公開 - よひどれの浪人
- 『旅の者心中 よ組の源蔵』:総指揮マキノ省三、監督中島宝三、1927年10月21日公開
- 『忠魂義烈 実録忠臣蔵』:総指揮・監督マキノ省三、1928年3月14日公開 - 杉野十平次次房
- 『娘天晴れ好う惚れた』:監督中島宝三、1928年3月28日公開
- 『裏切る跫音』:監督城戸四郎、1928年4月3日公開
- 『娘天晴れよう惚れた』:監督中島宝三、1928年4月9日公開
- 『伊達男』:監督押本七之輔、1928年6月8日公開
- 『捕吏』:総指揮マキノ省三、監督中島宝三、1928年7月6日公開 - 尻馬権三
- 『傴僂の兄貴』:監督稲葉蛟児、1928年8月15日公開
- 『旗本五人男 前篇』:監督吉野二郎、1928年8月30日公開
- 『旗本五人男 後篇』:監督吉野二郎、1928年9月13日公開
- 『崇禅寺馬場』:監督マキノ正博、1928年11月14日公開 - 遠城惣左衛門
- 『森の石松』:監督押本七之輔、1928年11月20日公開
- 『隼六剣士 前篇』:監督金森万象、1929年1月5日公開
- 『隼六剣士 前篇』:監督金森万象、1929年1月10日公開
- 『水戸黄門 東海道篇』(『水戸黄門』):監督中島宝三、1929年2月1日公開
- 『血吹雪 誉の陣太鼓』(『誉の陣太鼓』):監督押本七之輔、1929年2月15日公開
- 『正伝 高山彦九郎』(『高山彦九郎』):監督押本七之輔、1929年2月22日公開 - 権三の乾分雁九郎
- 『嘘』:監督人見吉之助、1929年3月15日公開
- 『異説 清水一角』:監督二川文太郎、1929年3月31日公開 - 鯵阪平八
- 『め組の喧嘩』:監督押本七之輔、1929年7月14日公開
- 『松平外記』:監督押本七之輔、1929年10月11日公開
- 『剣士弥源太』:監督人見吉之助、1929年10月17日公開 - 最上源八郎
- 『怪談道中双六』:監督押本七之輔、1929年10月24日公開 - 役者尾上
- 『神田の火祭 江戸の華』:監督押本七之輔、1929年11月8日公開 - 前田候供頭役 名越重三郎
- 『怪談 狐と狸』:監督吉野二郎、1929年11月8日公開
- 『彦左漫遊記』:監督吉野二郎、1929年11月28日公開 - 泥亀伝吉
- 『天保水滸伝』:監督押本七之輔、1930年1月5日公開 - 清滝の左吉
- 『人斬伊太郎』(『人斬り伊太郎』):監督並木鏡太郎、1930年2月28日公開 - 八百鉄
- 『変幻女六部』:監督吉野二郎、1930年3月7日公開 - 臣山川伝六
- 『煉獄二道』:監督吉野二郎、1930年6月13日公開 - 息盛広
- 『藤馬は強い』:監督勝見正義、1930年6月20日公開 - 佐々木剣之助
- 『恋寝刃 伊勢音頭』:監督勝見正義、1930年8月29日公開 - 徳島岩次
- 『浜松屋 弁天小僧』:監督吉野二郎、1930年10月3日公開 - 鳶頭清吉
- 『続お洒落狂女』:監督吉野二郎、1930年12月19日公開 - 道中師虎丸
- 『里見八剣伝』:監督吉野二郎、1931年1月5日公開 - 箙上宮六
- 『紅蝙蝠』:監督勝見正義、1931年3月13日公開 - 三田一角
東活映画社
全て製作・配給は「東活映画社」、全てサイレント映画である。
- 『三千世界膝栗毛 へそ取り天上の巻』:監督後藤岱山、1932年8月14日公開 - 旅の武士
市川右太衛門プロダクション
全て製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。
- 『放浪の名君』:監督古野英治、1933年10月5日公開 -
- 『疾風正雪』:監督志波西果、1933年11月16日公開 - 三の用心棒
- 『伊井大老斬奸第一声 安政大獄篇』:監督志波西果、1934年5月4日公開 - 頼三樹三郎 ※サウンド版
- 『伊井大老斬奸第一声 稲田重蔵篇』:監督志波西果、1934年5月11日公開 - 頼三樹三郎 ※サウンド版
- 『中仙道を行く退屈男 前篇』:監督古野英治、1935年1月7日公開 - 旗本子母沢右膳
- 『中仙道を行く退屈男 後篇 十万石を裁く退屈男』:監督古野英治、1935年2月8日公開 - 旗本子母沢右膳
- 『晴れる木曾路』:監督滝沢英輔、1935年4月11日公開 - 南條七五郎 ※サウンド版
- 『海内無双』:監督滝沢英輔、1936年1月5日公開 - ヒモノ久太 ※サウンド版
松竹下加茂撮影所
特筆以外、全て製作は「松竹下加茂撮影所」、配給は「松竹」、全てトーキーである。
- 『富士に立つ退屈男』:監督並木鏡太郎、製作松竹太秦撮影所、1937年1月5日公開 - 加藤市郎右衛門
- 『元禄快挙余譚 土屋主税 落花の巻』:監督犬塚稔、1937年7月14日公開 - 吉良家の侍
- 『元禄快挙余譚 土屋主税 雪解篇』:監督犬塚稔、1937年8月14日公開 - 吉良家の侍
脚注
- ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、172頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、54-55頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1933年、64頁。
- ^ a b c 『日本人物レファレンス事典 芸能篇1 (映画・演劇・タレント)』日外アソシエーツ、2014年。
- ^ a b c d e f g 『日本映画興亡史 マキノ一家』ワイズ出版、2000年、24頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本映画人改名・改称事典』国書刊行会、2004年。