「ニセ「左翼」暴力集団」の版間の差分
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Songsteasea (会話 | 投稿記録) 「ニセ「左翼」暴力集団」は、日本共産党が51年綱領で掲げた暴力革命唯一論からの転換に反発した「新左翼」に対する日本共産党関係者の1980年代以降の呼び方で、冒頭を短く編集するのならまだしも概要以降で「新左翼」に触れないと。日本共産党にとって「新左翼」=「ニセ「左翼」暴力集団」なのにに「新左翼」の日本共産党からの発生を削除し、完全無出展記述が残されいる編集はおかしいです。あと、確かに「新左翼」にも「トロキツスト」を含んだ呼称用いた時代ありましたが、戦前に日本共産党側が「トロキツスト」と批判していた人々を「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んでません。逆に無関係の冒頭に書くのは不適切だと思います。「トロキツスト」の項目に書くべき内容です。 タグ: 手動差し戻し ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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'''ニセ「左翼」暴力集団'''(ニセさよくぼうりょくしゅうだん)とは、 |
'''ニセ「左翼」暴力集団'''(ニセさよくぼうりょくしゅうだん)とは、1955年7月の[[日本共産党第6回全国協議会]](6全協)における[[51年綱領]]による[[暴力革命唯一論]]からの転換への反発で、'''日本共産党支持から分派して暴力革命路線継続した[[日本の新左翼]]・新左翼党派'''を指す日本共産党による独自用語。日本共産党派の人々に使用されている<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-09-21/20060921faq12_01_0.html 2006年9月21日(木)「しんぶん赤旗」- ニセ「左翼」への「泳がせ政策」とは?]</ref><ref name=":0" />。逆に「新左翼」とそのまま呼称することもあるが<ref>{{Cite web |title=全共闘ヒストリー 学生反乱の風景をたどる(写真=共同) |url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQODK308JV0Q2A830C2000000/ |website=日本経済新聞 |date=2022-09-04 |access-date=2022-09-06 |language=ja}}</ref>、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]では「[[極左]][[過激派]]」、[[日本の警察|警察]]では「[[極左暴力集団]]」との呼称もされている<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite web |title=日本共産党と「暴力革命」――政府が警戒を解かない理由 |url=https://www.d3b.jp/npcolumn/12901 |website=WEB第三文明 |access-date=2022-09-06 |last=web-daisanbunmei}}</ref>。 |
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[[1930年代]]以降は'''日本共産党と対立する共産主義者'''は「'''[[トロツキズム|トロツキスト]]'''」または「'''トロツキスト暴力集団'''」などが使用されていたが、[[スターリン批判]]以降は「トロツキー」への批判が弱まった。そのため、1980年代後半以降から日本共産党は「'''ニセ『左翼』暴力集団'''」や「'''ニセ『左翼』集団'''」という表現を主に使用している<ref>「前衛」第 502~505 巻、1984年、日本共產党出版部、p74-75</ref>。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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日本共産党を含む[[コミンテルン]]系譜の各国の[[共産党]]は、共産党と対立する共産主義者に対し、「トロツキスト」・「[[修正主義]]」<ref>[http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/papers/1960/19650814.htm 現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判 - 赤旗(1965年)]</ref>・「左翼日和見主義者」<ref>[http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/papers/1960/19670429.htm 極左日和見主義者の中傷と挑発 - 赤旗(1967年)]</ref>などの用語で批判していた。 |
日本共産党を含む[[コミンテルン]]系譜の各国の[[共産党]]は、ソ連([[ヨシフ・スターリン|スターリン]])の指導を受ける共産党と対立する共産主義者に対し、「トロツキスト」・「[[修正主義]]」<ref>[http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/papers/1960/19650814.htm 現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判 - 赤旗(1965年)]</ref>・「左翼日和見主義者」<ref>[http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/papers/1960/19670429.htm 極左日和見主義者の中傷と挑発 - 赤旗(1967年)]</ref>などの用語で批判していた。 |
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1951年に[[51年綱領]]で暴力革命唯一論を取った日本共産党は1952年10月の衆院選、1953年4月の参院選で公認候補が全員落選する事態になった。そのため、党内主流派が入れ代わり、国際派が主導権を握った日本共産党は、1955年の第6回全国協議会で、武装闘争路線を「誤りのうちもっとも大きなものは[[極左冒険主義]]である」と自己批判した。しかし、1955年以降も'''暴力革命路線継続'''を訴える人々が日本共産党から離脱し、新左翼となった<ref name=":0" /><ref name=":1" />。1955年の日本共産党の暴力革命唯一路線からの方針転換で、日本共産党影響下から離れて暴力革命継続を主張した新左翼系人々と日本共産党系人々の間で激しい争いが起こった<ref>{{Cite web |title=野党共闘の鍵をにぎる日本共産党 その歴史を振り返る |url=https://www.huffingtonpost.jp/yuki-murohashi/history-of-jcp_b_9137468.html |website=ハフポスト |date=2016-02-03 |access-date=2022-09-06 |language=ja}}</ref><ref name=":0" /><ref name=":1" />。 |
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⚫ | [[1980年代]]以降の日本共産党は、 |
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⚫ | [[1980年代]]以降の日本共産党は、以前まで「トロツキスト」と呼んで批判していた'''新左翼の党派や集団'''(例えば[[革命的共産主義者同盟全国委員会]](中核派)や[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派]](革マル派)、[[革命的労働者協会]](革労協))に対して、「ニセ「左翼」暴力集団」との用語を使用するようになった。日本共産党は、これらは日本共産党に打撃を与える目的で「共産主義」を偽装する暴力集団であり、権力が影で支援している('''「ニセ『左翼』泳がせ論」''')、と主張している<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-20/ftp20081120faq12_01_0.html 2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」- 「連合赤軍」事件とは?]</ref>。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 1930年代以降の「トロツキスト」 === |
=== 1930年代以降の非スターリン派に対する「トロツキスト」のレッテル === |
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[[1934年]]に発生した、[[ソビエト連邦共産党政治局|ソ連共産党政治局員]][[セルゲイ・キーロフ]]の[[暗殺]]事件を「[[レフ・トロツキー|トロツキー]]一派の仕業」とでっち上げ、[[1936年]]に[[大粛清]]を開始した[[ヨシフ・スターリン]]は、敵対者、あるいは潜在的な反対派とみなした人物に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。<!--ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」あるいは「革命派を装ったファシストの第五列」と定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいはトロツキーが指導した「左翼反対派」の組織とは無関係であった。また、トロツキー派が実際に、ソ連国内で要人暗殺やテロを行ったことはなく、その計画すらなかった。むしろ、スターリンは、この「トロツキスト」のレッテルをもって、スペイン内戦時の非スターリニスト左翼活動家(主にアナルコ・サンディカリズムのCNT急進派、非トロツキスト政党POUM)を抹殺し、ソ連国外のトロツキー派活動家たちを潜入させた秘密警察やテロリストによって暗殺していく。1940年には、スターリンは、メキシコに亡命していたトロツキーをスペイン人テロリスト、ラモン・メルカデルを使って暗殺した。メルカデルはメキシコで20年間服役した後、ソ連で1961年にレーニン勲章を受けた。 |
[[1934年]]に発生した、[[ソビエト連邦共産党政治局|ソ連共産党政治局員]][[セルゲイ・キーロフ]]の[[暗殺]]事件を「[[レフ・トロツキー|トロツキー]]一派の仕業」とでっち上げ、[[1936年]]に[[大粛清]]を開始した[[ヨシフ・スターリン]]は、敵対者、あるいは潜在的な反対派とみなした人物に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。<!--ここで言う「トロツキスト」とは「ソ連邦の破壊を目論むトロツキーを頭目とする反革命分子で帝国主義の手先の群れ」あるいは「革命派を装ったファシストの第五列」と定義されたが、実際は粛清された多くの者はトロツキーあるいはトロツキーが指導した「左翼反対派」の組織とは無関係であった。また、トロツキー派が実際に、ソ連国内で要人暗殺やテロを行ったことはなく、その計画すらなかった。むしろ、スターリンは、この「トロツキスト」のレッテルをもって、スペイン内戦時の非スターリニスト左翼活動家(主にアナルコ・サンディカリズムのCNT急進派、非トロツキスト政党POUM)を抹殺し、ソ連国外のトロツキー派活動家たちを潜入させた秘密警察やテロリストによって暗殺していく。1940年には、スターリンは、メキシコに亡命していたトロツキーをスペイン人テロリスト、ラモン・メルカデルを使って暗殺した。メルカデルはメキシコで20年間服役した後、ソ連で1961年にレーニン勲章を受けた。 |
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世界各国の共産党は、自ら以外の共産主義組織および共産主義者、あるいは指導部の指導に従わない党員、党を離れたものに対する蔑称としてスターリンの定義を踏襲して「トロツキスト」を多用してきた。その場合は、「階級敵の側に転じた裏切り者」「[[左翼]]を装った挑発者」「スパイ反革命(集団)」を意味していた。 |
世界各国の共産党は、自ら以外の共産主義組織および共産主義者、あるいは指導部の指導に従わない党員、党を離れたものに対する蔑称としてスターリンの定義を踏襲して「トロツキスト」を多用してきた。その場合は、「階級敵の側に転じた裏切り者」「[[左翼]]を装った挑発者」「スパイ反革命(集団)」を意味していた。 |
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[[コミンフォルム]]は、ソ連政府およびスターリンの指導を拒否した[[ユーゴスラビア]]の[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]に対して、大々的な「チトー=トロツキスト・キャンペーン」を行った。 |
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=== 日本共産党の51年綱領による暴力革命唯一論路線転換以降の「新左翼」への批判的呼称 === |
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⚫ | [[1980年代]]日本共産党は[[不破哲三]]の著作『スターリンと大国主義』([[新日本出版社]]、 1982年)でレフ・トロツキーの「[[十月革命|ロシア革命]]への一定の貢献を認めるようになったため、新左翼党派を指す「トロツキスト暴力集団」から新たに「'''ニセ「左翼」暴力集団'''」と呼称するようになった、。日本共産党が「ニセ『左翼』暴力集団」と名指しするのは、現在でも暴力的な活動を肯定・あるいは行っている中核派、革マル派、[[革命的労働者協会|革労協]]各派なと新左翼と呼ばれているグループで、現在は暴力を放棄し穏健な活動をしている[[日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)|第四インターナショナル統一書記局]]系各派に対しては、「暴力」の語を外して「ニセ『左翼』集団」としている<ref>2000年10月20日付『[[しんぶん赤旗]]』</ref>。 |
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=== 泳がせ作戦論 === |
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日本共産党は新左翼による赤色テロの検挙率の低さを指摘しており、公安警察が意図的に破壊活動を見逃すことで反共感情の扇動を行っていると主張している。これは[[浜田幸一]]など共産党外の者も存在を指摘している。 |
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=== 1980年代以降の「ニセ『左翼』暴力集団」 === |
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[[1980年代]]に入ると、日本共産党は[[不破哲三]]の著作『スターリンと大国主義』([[新日本出版社]]、 1982年)でレフ・トロツキーの「[[十月革命|ロシア革命]]への一定の貢献を認めるようになったため、公式には新左翼党派を指す「トロツキスト暴力集団」は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼称するようになった。 |
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このように、日本共産党といわゆる新左翼勢力との関係は、敵対関係が続いており、お互いが「権力の手先」「修正主義」「反革命」などと非難しあっている。 |
このように、日本共産党といわゆる新左翼勢力との関係は、敵対関係が続いており、お互いが「権力の手先」「修正主義」「反革命」などと非難しあっている。 |
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* [[新左翼]]-従来は所属や支持していた日本共産党が1955年に[[51年綱領]]による[[暴力革命|暴力革命唯一論]]からの転換したことを批判し、以後に分裂して対立している。 |
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2022年9月6日 (火) 16:31時点における版
ニセ「左翼」暴力集団(ニセさよくぼうりょくしゅうだん)とは、1955年7月の日本共産党第6回全国協議会(6全協)における51年綱領による暴力革命唯一論からの転換への反発で、日本共産党支持から分派して暴力革命路線継続した日本の新左翼・新左翼党派を指す日本共産党による独自用語。日本共産党派の人々に使用されている[1][2]。逆に「新左翼」とそのまま呼称することもあるが[3]、マスコミでは「極左過激派」、警察では「極左暴力集団」との呼称もされている[2][4]。
1930年代以降は日本共産党と対立する共産主義者は「トロツキスト」または「トロツキスト暴力集団」などが使用されていたが、スターリン批判以降は「トロツキー」への批判が弱まった。そのため、1980年代後半以降から日本共産党は「ニセ『左翼』暴力集団」や「ニセ『左翼』集団」という表現を主に使用している[5]。
概要
日本共産党を含むコミンテルン系譜の各国の共産党は、ソ連(スターリン)の指導を受ける共産党と対立する共産主義者に対し、「トロツキスト」・「修正主義」[6]・「左翼日和見主義者」[7]などの用語で批判していた。
1951年に51年綱領で暴力革命唯一論を取った日本共産党は1952年10月の衆院選、1953年4月の参院選で公認候補が全員落選する事態になった。そのため、党内主流派が入れ代わり、国際派が主導権を握った日本共産党は、1955年の第6回全国協議会で、武装闘争路線を「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」と自己批判した。しかし、1955年以降も暴力革命路線継続を訴える人々が日本共産党から離脱し、新左翼となった[2][4]。1955年の日本共産党の暴力革命唯一路線からの方針転換で、日本共産党影響下から離れて暴力革命継続を主張した新左翼系人々と日本共産党系人々の間で激しい争いが起こった[8][2][4]。
1980年代以降の日本共産党は、以前まで「トロツキスト」と呼んで批判していた新左翼の党派や集団(例えば革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)や日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)、革命的労働者協会(革労協))に対して、「ニセ「左翼」暴力集団」との用語を使用するようになった。日本共産党は、これらは日本共産党に打撃を与える目的で「共産主義」を偽装する暴力集団であり、権力が影で支援している(「ニセ『左翼』泳がせ論」)、と主張している[9]。
歴史
1930年代以降の非スターリン派に対する「トロツキスト」のレッテル
1934年に発生した、ソ連共産党政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺事件を「トロツキー一派の仕業」とでっち上げ、1936年に大粛清を開始したヨシフ・スターリンは、敵対者、あるいは潜在的な反対派とみなした人物に対して「トロツキスト」というレッテルを多用した。 世界各国の共産党は、自ら以外の共産主義組織および共産主義者、あるいは指導部の指導に従わない党員、党を離れたものに対する蔑称としてスターリンの定義を踏襲して「トロツキスト」を多用してきた。その場合は、「階級敵の側に転じた裏切り者」「左翼を装った挑発者」「スパイ反革命(集団)」を意味していた。
コミンフォルムは、ソ連政府およびスターリンの指導を拒否したユーゴスラビアのチトーに対して、大々的な「チトー=トロツキスト・キャンペーン」を行った。
日本共産党の51年綱領による暴力革命唯一論路線転換以降の「新左翼」への批判的呼称
1950年に日本共産党内部で分裂した「所感派」と「国際派」が互いを「トロツキスト」と罵り合っていた。所感派が党の主導権を獲得し、1951年に51年綱領を掲げ、日本共産党は暴力革命唯一論路線を取ることを決定し、各地でテロを行った。これは従来の投票層を含めた世論の支持を大幅に減らし、選挙で公認候補が全員落選する事態となった。そのため、昭和30年(1955年)7月の第6回全国協議会(6全協)で日本共産党が武装闘争方針の放棄を決議した。しかし、日本共産党の路線転換に反発し、暴力革命唯一論を支持する人々は新左翼と呼ばれるようになった[2]。60年安保闘争時は、決してトロツキーの思想の影響下にあったわけではなかった共産主義者同盟および全学連を「極左冒険主義のトロツキスト集団」と非難していた。また、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義」を標榜する革マル派、中核派、さらにトロツキズムのみならずレーニン主義すら否定する解放派まで、一括りに「トロツキスト」と規定していた。「トロツキスト」は、口語では(新左翼党派構成員を指して)「トロ」と略されて、下部党員や民主青年同盟員の間で一般的に使用されていた。
1980年代日本共産党は不破哲三の著作『スターリンと大国主義』(新日本出版社、 1982年)でレフ・トロツキーの「ロシア革命への一定の貢献を認めるようになったため、新左翼党派を指す「トロツキスト暴力集団」から新たに「ニセ「左翼」暴力集団」と呼称するようになった、。日本共産党が「ニセ『左翼』暴力集団」と名指しするのは、現在でも暴力的な活動を肯定・あるいは行っている中核派、革マル派、革労協各派なと新左翼と呼ばれているグループで、現在は暴力を放棄し穏健な活動をしている第四インターナショナル統一書記局系各派に対しては、「暴力」の語を外して「ニセ『左翼』集団」としている[10]。
類似用語
日本共産党による類似用語には、「反党脱党者(グループ)」(「日中友好協会脱走派」など)や、共産党に批判的な市民運動に対する「反共市民主義」もしくは「反共市民運動」、「中国盲従反党集団」「毛沢東盲従集団」(毛沢東主義派)、「反党修正主義集団」(親ソ連派、構造改革派など)、「金日成盲従集団」(親朝鮮労働党派)などがあるが、これらの用語は現在ではほとんど使用されることはなくなった。
他方、新左翼側も「反革命日共」「スターリニスト日共」「日共スターリン主義」(反スターリン主義党派)、「修正主義・日『共』集団」「宮修(宮本修正主義)」(毛沢東主義党派)などの蔑称を用いている。『共』及び『共産』に括弧(原文では鉤括弧)を付けるのは、「日本共産党は共産主義党派ではない」という意味を込めてのものである。
また他党派間による類似の用語には、コミンテルンによる社会ファシズム論、革マル派による「権力謀略論」や「権力の走狗論」、中核派による「ファシスト・カクマル」[11]や「KK連合」、革労協による「社会帝国主義」論、労働の解放をめざす労働者党による「国家資本主義」論などがある。
新左翼側の対応
日本共産党からひとまとめに「ニセモノ」とされている新左翼党派の日本共産党への態度はまちまちである。中核派、革マル派は全面対決姿勢を採っている。革マル派は機関紙「解放」で毎号のごとく日本共産党を激しく攻撃、批判の急先鋒である。中核派も極めて批判的である(ただ、革マル派と異なり、近年は機関紙上での日本共産党への言及はあまりない)。第四インターナショナルにシンパ組織として加盟している日本革命的共産主義者同盟は国政選挙や各種地方選挙の際には日本共産党への投票を呼び掛けることが多い。これは、いわゆる「批判的支持」の戦術であり、革労協に至っては、日本共産党にターゲットを絞って批判するということはしないが、総選挙の際には白票を投じるよう呼びかけており、日本共産党のみならず支持すべき対象がひとつもないという立場である。しかし、これは左翼共産主義の反議会主義とは異なり、選挙・議会への参加をあらゆる場合に無条件に否定するものではない。日本共産党への接近を試みた党派(ブント系・毛沢東主義系の「マルクス主義青年同盟」や反スターリン主義の「政治グループ稲妻」など)もあるが、逆に「赤旗」で批判され、門前払いされた。
このように、日本共産党といわゆる新左翼勢力との関係は、敵対関係が続いており、お互いが「権力の手先」「修正主義」「反革命」などと非難しあっている。
関連項目
出典
- ^ 2006年9月21日(木)「しんぶん赤旗」- ニセ「左翼」への「泳がせ政策」とは?
- ^ a b c d e f “暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁)”. www.npa.go.jp. 2022年9月6日閲覧。
- ^ “全共闘ヒストリー 学生反乱の風景をたどる(写真=共同)”. 日本経済新聞 (2022年9月4日). 2022年9月6日閲覧。
- ^ a b c web-daisanbunmei. “日本共産党と「暴力革命」――政府が警戒を解かない理由”. WEB第三文明. 2022年9月6日閲覧。
- ^ 「前衛」第 502~505 巻、1984年、日本共產党出版部、p74-75
- ^ 現代修正主義者の戦争と平和の理論と、これに対する歴史の審判 - 赤旗(1965年)
- ^ 極左日和見主義者の中傷と挑発 - 赤旗(1967年)
- ^ “野党共闘の鍵をにぎる日本共産党 その歴史を振り返る”. ハフポスト (2016年2月3日). 2022年9月6日閲覧。
- ^ 2008年11月20日(木)「しんぶん赤旗」- 「連合赤軍」事件とは?
- ^ 2000年10月20日付『しんぶん赤旗』
- ^ 公調の手先となった反革命 カクマルのデマ攻撃許すな - 前進 2029号(2001年)