コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「阿藤伯海」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Cewbot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反
2行目: 2行目:


==人物==
==人物==
[[1894年]](明治27年)2月17日、[[岡山県]][[浅口郡]]六条院村相部(現・[[浅口市]][[鴨方町六条院東]])に生まれる。旧制矢掛中学校(現・[[岡山県立矢掛高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業し、[[京都大学|京都帝国大学]][[大学院]]で[[狩野直喜]]に師事する。その後、[[法政大学]]、第一高等学校で[[教授]]を務める。[[1949年]](昭和24年)に[[岡山大学]]の創設に尽くすが、教授にはならず詩作、読書にふける。[[1965年]](昭和40年)4月4日に死去、71歳<ref>追悼特集に『[[同時代]] 第21号 阿藤伯海追悼』(「黒の会」編集、1966年11月)</br> 遺稿の漢詩八編に、高木友之助、[[山内義雄]]、[[齋藤磯雄]]、清岡卓行、高山峻、金丸摩耶子(親族)が寄稿。</ref>。弟子の[[高木友之助 (哲学者)|高木友之助]]<ref>後年に講演会冊子が発行「阿藤伯海先生の思い出」(浅口市教育委員会、2016年)</ref>等により、漢詩集『大簡詩草』が編・刊行された。
[[1894年]](明治27年)2月17日、[[岡山県]][[浅口郡]]六条院村相部(現・[[浅口市]][[鴨方町六条院東]])に生まれる。旧制矢掛中学校(現・[[岡山県立矢掛高等学校]])、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業し、[[京都大学|京都帝国大学]][[大学院]]で[[狩野直喜]]に師事する。その後、[[法政大学]]、第一高等学校で[[教授]]を務める。[[1949年]](昭和24年)に[[岡山大学]]の創設に尽くすが、教授にはならず詩作、読書にふける。[[1965年]](昭和40年)4月4日に死去、71歳<ref>追悼特集に『[[同時代]] 第21号 阿藤伯海追悼』(「黒の会」編集、1966年11月)<br /> 遺稿の漢詩八編に、高木友之助、[[山内義雄]]、[[齋藤磯雄]]、清岡卓行、高山峻、金丸摩耶子(親族)が寄稿。</ref>。弟子の[[高木友之助 (哲学者)|高木友之助]]<ref>後年に講演会冊子が発行「阿藤伯海先生の思い出」(浅口市教育委員会、2016年)</ref>等により、漢詩集『大簡詩草』が編・刊行された。


[[2006年]]、岡山県[[浅口市]][[鴨方町]]に阿藤伯海を顕彰する[[公園]]が開園された<ref>{{Cite web|title=浅口市/阿藤伯海記念公園|url=http://www.city.asakuchi.lg.jp/shisetsu/bunshin/ato.html|website=www.city.asakuchi.lg.jp|accessdate=2020-05-08}}</ref>。生家を修復した「阿藤伯海旧居」を中心に、[[吉備真備]]を顕彰した絶筆の詩碑等を有する「記念広場」、[[遙照山|遙照山系]]を望む梅園「流芳の丘」が整備されている。
[[2006年]]、岡山県[[浅口市]][[鴨方町]]に阿藤伯海を顕彰する[[公園]]が開園された<ref>{{Cite web|title=浅口市/阿藤伯海記念公園|url=http://www.city.asakuchi.lg.jp/shisetsu/bunshin/ato.html|website=www.city.asakuchi.lg.jp|accessdate=2020-05-08}}</ref>。生家を修復した「阿藤伯海旧居」を中心に、[[吉備真備]]を顕彰した絶筆の詩碑等を有する「記念広場」、[[遙照山|遙照山系]]を望む梅園「流芳の丘」が整備されている。

2022年8月29日 (月) 00:05時点における版

阿藤 伯海(あとう はくみ、1894年明治27年)2月17日 - 1965年昭和40年)4月4日)は、日本中国文学者漢詩人。本名は簡。

人物

1894年(明治27年)2月17日、岡山県浅口郡六条院村相部(現・浅口市鴨方町六条院東)に生まれる。旧制矢掛中学校(現・岡山県立矢掛高等学校)、第一高等学校東京帝国大学を卒業し、京都帝国大学大学院狩野直喜に師事する。その後、法政大学、第一高等学校で教授を務める。1949年(昭和24年)に岡山大学の創設に尽くすが、教授にはならず詩作、読書にふける。1965年(昭和40年)4月4日に死去、71歳[1]。弟子の高木友之助[2]等により、漢詩集『大簡詩草』が編・刊行された。

2006年、岡山県浅口市鴨方町に阿藤伯海を顕彰する公園が開園された[3]。生家を修復した「阿藤伯海旧居」を中心に、吉備真備を顕彰した絶筆の詩碑等を有する「記念広場」、遙照山系を望む梅園「流芳の丘」が整備されている。

著書

  • 『大簡詩草』1970年。復刻版 吉備路文学館、2010年。関係者の私家版。狩野直喜・鈴木虎雄序文

関連文献

出典

  • 『日本人名大辞典』
  • 石川忠久「第二十二章 最後の漢詩人・阿藤伯海」-『日本人の漢詩 風雅の過去へ』(大修館書店、2003年)

脚注

  1. ^ 追悼特集に『同時代 第21号 阿藤伯海追悼』(「黒の会」編集、1966年11月)
    遺稿の漢詩八編に、高木友之助、山内義雄齋藤磯雄、清岡卓行、高山峻、金丸摩耶子(親族)が寄稿。
  2. ^ 後年に講演会冊子が発行「阿藤伯海先生の思い出」(浅口市教育委員会、2016年)
  3. ^ 浅口市/阿藤伯海記念公園”. www.city.asakuchi.lg.jp. 2020年5月8日閲覧。
  4. ^ 清岡卓行『窓の緑』(小沢書店、1977年)にも回想がある。
  5. ^ 文庫解説は高橋英夫。のち『清岡卓行論集成』(勉誠出版、2008年)に収録。
  6. ^ 阿藤からの書簡も収録。解説宇佐見英治

外部リンク