「内藤正勝 (安房勝山藩主)」の版間の差分
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[[慶長]]13年([[1608年]])、[[三河国|三河]][[譜代]]であり関東総奉行を務めた[[内藤清成]]の |
[[慶長]]13年([[1608年]])、[[三河国|三河]][[譜代]]であり関東総奉行を務めた[[内藤清成]]の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男・[[内藤清次|清次]]が、清次の死後は次男・[[内藤清政|清政]]が継ぐ。清政の代に[[安房国]][[安房勝山藩|勝山]]に移封され、3万石の大名となっていた。 |
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[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、正勝は[[上総国]]内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年([[1623年]])に兄の清政が21歳で死去し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は[[改易]]された。3年後の[[寛永]]3年([[1626年]])、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。寛永6年([[1629年]])8月3日に22歳で死去した。葬儀は江戸の[[太宗寺]]で営まれ、後にこの寺が内藤家の[[菩提寺]]となった。 |
[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、正勝は[[上総国]]内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年([[1623年]])に兄の清政が21歳で死去し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は[[改易]]された。3年後の[[寛永]]3年([[1626年]])、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。寛永6年([[1629年]])8月3日に22歳で死去した。葬儀は江戸の[[太宗寺]]で営まれ、後にこの寺が内藤家の[[菩提寺]]となった。 |
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正勝の死後、長男・[[内藤重頼|重頼]]が3歳と幼少のため、母方の叔父[[板倉重宗]]より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は[[減封]]・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの[[旗本]]となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、[[大坂城代]]や[[京都所司代]]を歴任する。正勝の孫[[内藤清枚|清枚]]の時に[[信濃国]][[高遠藩|高遠]]に転封され、高遠藩内藤家は[[明治維新]]まで続いた。 |
正勝の死後、長男・[[内藤重頼|重頼]]が3歳と幼少のため、母方の叔父・[[板倉重宗]]より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は[[減封]]・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの[[旗本]]となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、[[大坂城代]]や[[京都所司代]]を歴任する。正勝の孫[[内藤清枚|清枚]]の時に[[信濃国]][[高遠藩|高遠]]に転封され、高遠藩内藤家は[[明治維新]]まで続いた。 |
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== 系譜 == |
== 系譜 == |
2022年8月10日 (水) 15:10時点における版
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 慶長13年(1608年) |
死没 | 寛永6年8月3日(1629年9月19日) |
別名 | 百介(通称) |
墓所 | 東京都新宿区新宿の太宗寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光 |
藩 | 安房勝山藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 | 父:内藤清成、母:不詳 |
兄弟 | 清次、清政、正勝、木造某室、伊沢政信正室、日向政成室、小浜光隆正室、松平親良室 |
妻 | 正室:板倉重宗の娘 |
子 | 重頼、娘(水野守政正室) |
内藤 正勝(ないとう まさかつ)は、内藤家安房国勝山藩の第2代藩主。高遠藩内藤家4代(5代とする説あり)。
生涯
慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男・清次が、清次の死後は次男・清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。
元和8年(1622年)、正勝は上総国内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年(1623年)に兄の清政が21歳で死去し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は改易された。3年後の寛永3年(1626年)、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。寛永6年(1629年)8月3日に22歳で死去した。葬儀は江戸の太宗寺で営まれ、後にこの寺が内藤家の菩提寺となった。
正勝の死後、長男・重頼が3歳と幼少のため、母方の叔父・板倉重宗より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は減封・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの旗本となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、大坂城代や京都所司代を歴任する。正勝の孫清枚の時に信濃国高遠に転封され、高遠藩内藤家は明治維新まで続いた。
系譜
参考文献
- 新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年