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「内藤正勝 (安房勝山藩主)」の版間の差分

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'''内藤 正勝'''(ないとう まさかつ)は、[[内藤氏|内藤家]][[安房国]][[安房勝山藩|勝山藩]]の第2代[[藩主]]。[[高遠藩]]内藤家4代(5代とする説あり)。

'''内藤 正勝'''(ないとう まさかつ)は、[[内藤氏|内藤家]][[安房国]][[安房勝山藩|勝山藩]]2代藩主。[[高遠藩]]内藤家4代(5代とする説あり)。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[慶長]]13年([[1608年]])、[[三河国|三河]][[譜代]]であり関東総奉行を務めた[[内藤清成]]の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男[[内藤清次|清次]]が、清次の死後は次男[[内藤清政|清政]]が継ぐ。清政の代に[[安房国]][[安房勝山藩|勝山]]に移封され、3万石の大名となっていた。


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正勝の死後、長男・[[内藤重頼|重頼]]が3歳と幼少のため、母方の叔父[[板倉重宗]]より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は[[減封]]・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの[[旗本]]となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、[[大坂城代]]や[[京都所司代]]を歴任する。正勝の孫[[内藤清枚|清枚]]の時に[[信濃国]][[高遠藩|高遠]]に転封され、高遠藩内藤家は[[明治維新]]まで続いた。
正勝の死後、長男・[[内藤重頼|重頼]]が3歳と幼少のため、母方の叔父[[板倉重宗]]より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は[[減封]]・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの[[旗本]]となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、[[大坂城代]]や[[京都所司代]]を歴任する。正勝の孫[[内藤清枚|清枚]]の時に[[信濃国]][[高遠藩|高遠]]に転封され、高遠藩内藤家は[[明治維新]]まで続いた。


== 系譜 ==
== 系譜 ==

2022年8月10日 (水) 15:10時点における版

 
内藤正勝
時代 江戸時代前期
生誕 慶長13年(1608年
死没 寛永6年8月3日1629年9月19日
別名 百介(通称
墓所 東京都新宿区新宿の太宗寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光
安房勝山藩
氏族 内藤氏
父母 内藤清成:不詳
兄弟 清次清政正勝、木造某室、伊沢政信正室、日向政成室、小浜光隆正室、松平親良室
正室板倉重宗の娘
重頼、娘(水野守政正室)
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内藤 正勝(ないとう まさかつ)は、内藤家安房国勝山藩の第2代藩主高遠藩内藤家4代(5代とする説あり)。

生涯

慶長13年(1608年)、三河譜代であり関東総奉行を務めた内藤清成の3男として誕生する。清成の死去と同年の生まれであった。清成の死後、内藤家の家督は長男・清次が、清次の死後は次男・清政が継ぐ。清政の代に安房国勝山に移封され、3万石の大名となっていた。

元和8年(1622年)、正勝は上総国内で2000石の所領を与えられた。翌元和9年(1623年)に兄の清政が21歳で死去し、後継者が問題となる。清政に子がなく、弟正勝は幼少であることを理由に家督相続が認められず、内藤家は改易された。3年後の寛永3年(1626年)、安房国内で兄の遺領のうち2万石を与えられ、安房勝山藩主として復帰する。このとき上総の所領2000石は幕府に返上している。寛永6年(1629年)8月3日に22歳で死去した。葬儀は江戸の太宗寺で営まれ、後にこの寺が内藤家の菩提寺となった。

正勝の死後、長男・重頼が3歳と幼少のため、母方の叔父・板倉重宗より幕府に1万5000石を返還する旨の願いが出される。勝山藩は減封・廃藩となり、内藤家は5000石を領するのみの旗本となった。重頼は後に大名に復帰して3万3000石を領し、大坂城代京都所司代を歴任する。正勝の孫清枚の時に信濃国高遠に転封され、高遠藩内藤家は明治維新まで続いた。

系譜

参考文献

  • 新宿歴史博物館編集『内藤清成と高遠内藤家展』(財)新宿区生涯学習財団 2008年