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「ミャンマーの歴史」の版間の差分

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この記事では'''[[ミャンマー]]の[[歴史]]'''について解説する。ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。[[遺跡]]からビルマ民族の存在が確実視されるのは[[パガン朝]]([[11世紀]] - [[13世紀]])以降である。[[ビルマ族]]は10世紀以前にはまだ[[エーヤワディー川]](イラワジ川)流域に姿を現していなかった。[[ビルマ族]]の起源は中国[[青海省]]付近に住んでいた[[チベット系民族|チベット系]]の[[氐]]族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である[[仇池]]が[[隋]]の初代皇帝[[楊堅]]に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国[[雲南省]][[大理市|大理]]にあった{{仮リンク|烏蕃|zh|乌蛮}}氏の{{仮リンク|六詔|zh|六诏}}の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて[[南詔]]となった。
#REDIRECT[[ミャンマー#歴史]]

== 驃国・タトゥン王国 ==
[[ファイル:Bagan%2C_Burma.jpg|thumb|[[パガン王朝]]の都、[[バガン]]。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である]]
ミャンマー南部の地は古くから[[モン族 (Mon)|モン族]]が住み、[[都市国家]]を形成して海上交易も行っていた。北部では[[7世紀]]に[[ピュー人]]が[[ピュー]](驃)を建国した。[[832年]]、驃国は[[南詔]]に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。[[9世紀]]頃、[[下ビルマ]]でモン族の{{仮リンク|タトゥン王国|en|Thaton Kingdom}}(9世紀 - [[1057年]])が建国された。

== ビルマ族の南下 ==
[[File:Map_of_Taungoo_Empire_(1580).png|thumb|220px|[[タウングー王朝]]の支配領域(1572年)]]

[[1044年]]、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入して[[パガン王朝]]を樹立した。[[パガン]]は最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」の[[アノーヤター|アノーヤター王]](在位[[1044年]] - [[1077年]])が初代国王とされる。[[1057年]]、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は[[13世紀]]に[[モンゴルのビルマ侵攻|モンゴルの侵攻]]を受け、[[1287年]]の[[パガンの戦い]]で敗北し、1314年に滅びた。[[下ビルマ]]には、モン族が[[ペグー王朝]] ([[1287年]] - [[1539年]])を建国し、[[上ビルマ]]には、ミャンマー東北部に住む[[タイ族|タイ系]]の[[シャン族]]が[[ピンヤ朝]]([[1312年]] - [[1364年]])と[[アヴァ王朝]]([[1364年]] - [[1555年]])を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。

[[1385年]]から{{仮リンク|40年戦争|en|Forty Years' War}}が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。[[1486年]]、[[タウングー]]に流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によって[[タウングー王朝]]が建国された。タウングー王朝は[[ポルトガル]]の傭兵を雇い入れ、[[タビンシュエーティー]]の治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次の[[バインナウン]]の治世には1559年には現東インドの[[マニプール]]を併合し、[[アユタヤ王朝]]や[[ラーンナー|ラーンナー王朝]]などタイ族小邦や、{{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}}が住む[[雲南省|雲南]]の[[シップソーンパンナー]]を支配した。

しかし[[1612年]]にはムガル皇帝[[ジャハーンギール]]のもとで、{{仮リンク|プラターパーディティヤ|en|Pratapaditya}}が支配していた[[チッタゴン]]を除く現[[バングラデシュ]]地域が[[ムガル帝国]]の統治下に入り、[[1666年]]にはさらにムガル皇帝[[アウラングゼーブ]]が現[[ラカイン州]]に存在した[[アラカン王国]]支配下の[[チッタゴン]]を奪った。

[[17世紀]]にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が{{仮リンク|再興ペグー王朝|en|Restored Hanthawaddy Kingdom}}を興した。[[1752年]]3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、[[アラウンパヤー]]が王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。[[1754年]]にビルマを再統一した。これが[[コンバウン王朝]]である。[[清]]に助けを求めたシャン族が[[乾隆帝]]とともに興した国土回復戦争が[[清緬戦争]]{{Efn2|[[乾隆帝]]による[[十全武功]]のひとつ。}}([[1765年]] - [[1769年]])である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年の[[アユタヤ王朝]]滅亡以来ビルマの属国だったが、[[1769年]]に[[タークシン]]率いる[[トンブリー王朝]]([[1768年]] - [[1782年]])が独立し、その後に続く[[チャクリー王朝]]([[1782年]]-)は、ビルマと異なった親イギリスの[[外交政策]]をとって独立を維持することに成功した。

== イギリス統治時代 ==
{{main|英緬戦争|イギリス統治下のビルマ}}
[[File:Shwedagon_pagoda.jpg|thumb|220px|イギリス人が見た[[シュエダゴン・パゴダ]](1825年)]]
[[File:Battle_of_rangoon.jpg|thumb|220px|[[英緬戦争]]、19世紀に起こったイギリスとビルマ王国の戦争]]
[[ファイル:British Burma 1937 flag.svg|thumb|160px|left|[[イギリス統治下のビルマ|植民地時代]]の旗(1937年 - 1948年)]]

一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する[[武力]][[侵略]]を発端とする3度に渡る[[英緬戦争]]を起こした。国王{{仮リンク|バジードー|en|Bagyidaw|label=ザガイン・ミン}}(在位:[[1819年]]–[[1837年]])治下の初期には、英緬間に緩衝国家として[[アーホーム王国]]([[1228年]]–[[1826年]])が存在していたが、{{仮リンク|ビルマのアッサム侵攻|en|Burmese invasions of Assam}}([[1817年]]–[[1826年]])によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、[[インド]]を支配する[[イギリス]]に対して[[ベンガル地方]]{{Efn2|当時、{{仮リンク|ベンガル管区|en|Bengal Presidency}}([[1765年]]-[[1919年]])には[[ベンガル地方]]・[[メーガーラヤ州]]・[[ビハール州]]・[[オリッサ州]]が含まれていた。}}の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて{{仮リンク|第一次英緬戦争|en|First Anglo-Burmese War}}([[1824年]]-[[1826年]])が勃発した。ビルマが敗れ、1826年[[2月24日]]に{{仮リンク|ヤンダボ条約|en|Treaty of Yandabo}}が締結され、[[アッサム州|アッサム]]{{Efn2|当時の[[アッサム州|アッサム]]には現在の[[メーガーラヤ州]]、[[ナガランド州]]、[[ミゾラム州]]、[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]が含まれていた。後に各州は分離され、北東部は[[マクマホンライン]]で知られる[[北京政府|中国(北京政府)]]との係争地となり、[[1954年]]に{{仮リンク|東北辺境地区|en|North-East_Frontier_Agency}}として分離され、[[1987年]]に[[アルナーチャル・プラデーシュ州]]となった。}}、[[マニプル州|マニプール]]、[[ラカイン州|アラカン]]、[[タニンダーリ地方域|テナセリム]]をイギリスに割譲した。

イギリスの挑発で引き起こされた[[1852年]]の{{仮リンク|第二次英緬戦争|en|Second Anglo-Burmese War}}で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王{{仮リンク|パガン・ミン|en|Pagan Min}}(在位:[[1846年]]–[[1853年]])が廃されて新国王に{{仮リンク|ミンドン・ミン|en|Mindon Min}}(在位:[[1853年]]–[[1878年]])が据えられた。[[イスラム教]]徒の[[インド人]]・[[華僑]]を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族([[カレン族]]など)を[[キリスト教]]に[[改宗]]させて[[下ビルマ]]の統治に利用し、民族による[[分割統治]]政策を行なった。インド人が[[金融]]を、華僑が[[商売]]を、山岳民族が[[軍隊|軍]]と[[警察]]を握り、ビルマ人は最下層の[[農奴]]にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族([[カレン族]]など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは[[穀倉地帯]]を喪失したために、[[清]]から[[米]]を[[輸入]]し、ビルマは[[綿花]]を[[雲南省|雲南]]経由で清へ[[輸出]]することになった。

[[1856年]]から[[1873年]]にかけて中国の雲南省・[[シップソーンパンナー]]で{{仮リンク|パンゼー|en|Panthays}}と呼ばれる雲南[[回民蜂起|回民]]({{仮リンク|チン・ホー族|en|Chin Haw}})による[[パンゼーの乱]]が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。[[1858年]]から[[1861年]]にかけて新首都[[マンダレー]]を建設して遷都。イギリス領インドと[[印僑]]の反対で[[雲南問題]]は遅れていたが、[[1885年]]7月にイギリス側も[[芝罘条約]]を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。[[1885年]]11月の{{仮リンク|第三次英緬戦争|en|Third Anglo-Burmese War}}で王朝は滅亡。[[1886年]]6月、{{仮リンク|英清ビルマ条約|zh|中英缅甸条款}}でイギリスは清にビルマの[[宗主権]]を認めさせると、ビルマは[[インド帝国|イギリス領インド]]に併合されて、その1州となる。国王[[ティーボー|ティーボー・ミン]](在位:[[1878年]]–[[1885年]])と王の家族はインドの[[ゴア州]][[ムンバイ|ボンベイ]]の南に近い{{仮リンク|ラトナーギリー|en|Ratnagiri}}に配流され、その地で死亡した。

[[File:Aung San color portrait.jpg|thumb|180px|建国の父[[アウンサン]](1940年代)]]

ビルマ人の対英[[独立運動]]は[[第一次世界大戦]]中に始まり、[[1929年]]の[[世界恐慌]]以後若い知識層の間に広まった。[[1930年]]には、{{仮リンク|タキン党|en|Thakins}}が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、[[:en:Saya San|Saya San rebellion]]と呼ばれる反植民地運動が[[下ビルマ]]全域に広がったが、[[1931年]]半ばに鎮圧された。[[1937年]]、インドから独立して[[イギリス連邦]]内の自治領となり、[[ラカイン州|アラカン]]は返還されたが、[[アッサム州|アッサム]]・[[マニプル州|マニプル]]はインド領(インド独立後に分割され、[[7姉妹州]]と呼ばれる)となった。[[1939年]]、{{仮リンク|タキン・ソー|en|Thakin Soe}}が[[ビルマ共産党]] (CPB)を結成した。

[[日中戦争]]の激化に伴い、ビルマは[[蔣介石政権]]をイギリスなどが支援する「[[援蔣ルート]]」の一つとしても使われた。[[1941年]]12月、日本はイギリスや[[アメリカ合衆国]]などに対して開戦([[太平洋戦争]])。[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は[[南方作戦]]の一環として、[[タイ王国]]進駐に続いて英領ビルマに進撃した([[ビルマの戦い]])。

[[1942年]]、[[アウンサン]]が[[ビルマ独立義勇軍]]を率い、日本軍と共に戦い[[イギリス軍]]を駆逐し、[[1943年]]に日本の後押しで[[バー・モウ]]を元首とする[[ビルマ国]]が建国された。

しかし[[1944年]]の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。
[[1944年]]の[[インパール作戦]]の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、[[1944年]]8月に秘密会議で[[反ファシスト人民自由連盟]](AFPFL、[[1945年]]-[[1962年]])が結成され、タキン・ソー率いるビルマ共産党、アウンサン率いる[[ビルマ国民軍]]、[[ウー・ヌ]]率いる[[the People's Revolutionary Party]] (PRP){{Efn2|後に[[:en:Burma Socialist Party|Burma Socialist Party]]になった。}}が三派合同した。[[1945年]]3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。[[連合国軍]]がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に[[亡命]]した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。[[1946年]]2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、{{仮リンク|タキン・タントゥン|en|Thakin Than Tun}}の率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる{{仮リンク|共産党 (ビルマ)|en|Communist Party (Burma)|label=赤旗共産党}}が分裂した。

== 独立と内戦 ==
{{main|ミャンマー内戦}}
[[1947年]][[7月19日]]にアウンサンが[[ウー・ソオ|ウー・ソー]]の傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。[[1948年]]に[[イギリス連邦]]を離脱して'''{{仮リンク|ビルマ連邦 (1948年-1962年)|en|Post-independence Burma (1948–1962)|label=ビルマ連邦}}'''として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国を'''ビルマ連邦'''が成立した[[1948年]]としており、'''ビルマ国'''との連続性を認めていない一方で、[[ミャンマー軍|ミャンマー国軍]]については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。

[[1949年]]、[[国共内戦]]に敗れた[[中国国民党]]軍の{{仮リンク|ビルマ遠征軍 (国民革命軍)|en|Chinese Expeditionary Force (Burma)|label=残余部隊}}(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、[[雲南省]]反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。[[中央情報局|CIA]]が物資や[[軍事顧問|軍事顧問団]]を援助し、タイへの[[アヘン]]の運び出しも行った。ヌ政権は[[国際連合]]で[[中華民国]]と米国の策動に抗議した。一方で政権は[[中華人民共和国]]と連携し、シャン州の一部に[[中国人民解放軍]]および国軍部隊を展開し、[[1950年代]]半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した([[:en:Campaign at the China–Burma border|中緬国境作戦]])。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高い[[ワ族]]や[[シャン族]]、[[コーカン族]]など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が[[黄金の三角地帯]]の[[麻薬]]産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、{{仮リンク|ロー・シンハン|en|Lo Hsing Han}}(羅星漢)の''Ka Kwe Ye'' (KKY){{Efn2|''Ka Kwe Ye'' means "defence" in [[ビルマ語|Burmese]], and is used as the name for regional defence forces.<ref>{{cite book|last=Smith|first=Martin|year=1991|title=''Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity''|publisher=Zed Books|location=London|page= 221}}</ref>}}が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つ[[ネ・ウィン]]の後押しで結成された<ref name="bt">{{cite web|url=http://www.asiapacificms.com/papers/pdf/gt_opium_trade.pdf|author=Bertil Lintner|title=The Golden Triangle Opium Trade: An Overview|publisher=Asia Pacific Media Services|month=March|year=2000|accessdate=2009-01-06}}</ref>。また、中国国民党残党から独立した[[クン・サ]]率いる{{仮リンク|モン・タイ軍|en|Mong Tai Army}}も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。

ヌ首相の[[仏教]]優遇政策は、[[キリスト教徒]]の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

== 軍事政権時代 ==
[[File:David Ben Gurion - General Ne Win PM of Burma 1959.jpg|thumb|180px|[[ネ・ウィン]]将軍(1959年6月8日)]]

[[1958年]][[10月27日]]、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで{{仮リンク|暫定内閣|en|Caretaker government}}([[1958年]]-[[1960年]])が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、[[4月4日]]に[[連立政権|連立内閣]]を組閣した。[[1960年]]12月、[[ベトナム戦争]]([[1960年]]-[[1975年]])が勃発。

[[1962年]][[3月2日]]にネ・ウィン将軍が{{仮リンク|ビルマ・クーデター (1962年)|en|1962 Burmese coup d'état|label=軍事クーデター}}を起こし、[[ビルマ社会主義計画党]](BSPP、マ・サ・ラ)を結成して[[ミャンマーの大統領|大統領]]([[1962年]][[3月2日]]–[[1981年]][[11月9日]])となり、[[ビルマ式社会主義]]を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ[[瀬戸際外交]]を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。[[1966年]]から始まった中国の[[文化大革命]]の影響がビルマに及び、[[1968年]][[9月24日]]にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。

[[1973年]]8月、ロー・シンハンが、{{仮リンク|シャン州軍|en|Shan State Army}}(SSA)に協力した容疑で[[タイ王国|タイ]]に拘束された。<ref name="bt"/>この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。[[1974年]]に'''ビルマ連邦社会主義共和国憲法'''が制定され、ネ・ウィンは[[大統領]]二期目に就任([[ビルマ連邦社会主義共和国]])。[[1976年]]に中国の最高権力者である[[毛沢東]]が死去すると、支援が減らされた[[ビルマ共産党]] (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。[[1980年]]、ロー・シンハンは[[恩赦]]で[[釈放]]された。[[1981年]]にネ・ウィンが大統領職を辞した後も[[1988年]]までは軍事[[独裁体制]]を維持したが、[[経済政策]]の失敗から深刻な[[インフレ]]を招く等、ミャンマーの[[経済]]状況を悪化させた。

[[1988年]]には[[ネ・ウィン]]退陣と[[民主化]]を求める大衆運動が高揚し、[[ネ・ウィン]]は7月に[[BSPP]]議長を退く([[8888民主化運動]])。同年9月18日に[[政権]]を離反した[[ソウ・マウン]]国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度'''ビルマ連邦'''へ改名した。総選挙の実施を[[公約]]したため、全国で数百の[[政党]]が結成される。軍部は[[国民統一党 (ミャンマー)|国民統一党]]を結党し体制維持を図った。民主化指導者[[アウンサンスーチー]]らは[[国民民主連盟]] (NLD) を結党するが、[[アウンサンスーチー]]は選挙前の[[1989年]]に[[自宅]][[軟禁]]された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。[[1988年]]1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部と[[ワ族]]・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、[[1989年]]に{{仮リンク|ワ州連合軍|en|United_Wa_State_Army}}が結成された。この時、[[キン・ニュン]]が、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。

[[1989年]][[6月18日]]に軍政側は'''ミャンマー連邦'''へ国名の改名を行った。[[1990年]][[5月27日]]に実施された{{仮リンク|1990年ミャンマー総選挙|en|Myanmar general election, 1990|label=総選挙}}ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は[[海外|国外]]に逃れ、亡命政権として[[ビルマ連邦国民連合政府]] (NCGUB) を樹立した。

[[1992年]][[4月23日]]に[[タン・シュエ]]将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は[[1994年]]以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が{{仮リンク|ココ諸島 (ビルマ)|en|Coco Islands|label=大ココ島}}を賃借し、中国は[[レーダー]]基地と[[軍港]]を[[建設]]した。こうした中国の海洋戦略は、[[バングラデシュ]]や[[スリランカ]]、[[モルディブ]]、[[パキスタン]]などへの進出と合わせてインドを包囲する「[[真珠の首飾り作戦]]」と呼ばれている。[[1997年]]11月、国家法秩序回復評議会({{lang-en-short|State Law and Order Restoration Council}}、略称:SLORC)が[[国家平和発展評議会]]({{lang-en-short|State Peace and Development Council}}、略称:SPDC)に名称変更した。[[2000年]]9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。[[2002年]]12月、ネ・ウィンが死去。

[[2003年]]8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に[[:en:Roadmap to democracy|民主化へのロードマップ]]を発表し、保守派と対立。[[2004年]]10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。

[[File:2007_Myanmar_protests_7.jpg|thumb|180px|[[2007年ミャンマー反政府デモ]]]]

後任の首相には、[[保守]]派の[[ソー・ウィン]]が就任。同年、{{仮リンク|中国・ビルマ・パイプライン|en|Sino-Burma pipelines}}の協議が中国との間で開始され、翌2005年に[[中国石油天然気]](PetroChina)との間で[[契約]]が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下で[[ホテル]]経営を行っていた{{仮リンク|ロー・シンハン|en|Lo Hsing Han}}(羅星漢)率いる{{仮リンク|アジア・ワールド|en|Asia World}}社が独占的な契約を結んでいった。[[2005年]]11月、政府機関がヤンゴンから中部[[ピンマナ]]近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、[[2006年]][[10月]]に行政首都[[ネピドー]]への遷都を公表。[[2007年]][[9月27日]]、[[APF通信社]]の[[長井健司]]が[[2007年ミャンマー反政府デモ|反政府デモ(サフラン革命)]]の取材中に射殺された。

[[2007年]][[10月12日]]に[[ソー・ウィン]]首相が死去したことに伴い、軍出身の[[テイン・セイン]]が[[2007年]][[10月]]に首相へ就任すると、軍政主導の[[政治]]体制の改革が開始される。[[2008年]]5月、[[ミャンマー連邦共和国憲法|新憲法案]]についての{{仮リンク|2008年ミャンマー憲法国民投票|en|Myanmar constitutional referendum, 2008|label=国民投票}}が実施・可決され[[民主化]]が計られるようになる。[[2008年]][[5月2日]]、[[サイクロン・ナルギス]]がエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。

[[2010年]][[10月]]、国旗の新しいデザインを発表<ref>{{Cite web|date=2010-10-22|url=http://sankei.jp.msn.com/world/asia/101022/asi1010220110001-n1.htm|title=ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え|publisher=[[産経新聞|MSN産経ニュース]]|accessdate=2011-01-09}}</ref>。

== 選挙と民主化 ==
{{main|{{仮リンク|ミャンマー民主改革|en|2011–2015 Myanmar political reforms}}}}
2010年[[11月]]には新憲法に基づく[[2010年ミャンマー総選挙|総選挙]]が実施される。また、政府は[[アウンサンスーチー]]の自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。[[2011年]][[3月30日]]、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された[[連邦議会 (ミャンマー)|連邦議会]]の議決を経て[[ミャンマーの大統領|大統領]]に就任。同月[[国家平和発展評議会]] (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。[[11月]]、アウンサンスーチー率いる[[国民民主連盟]] (NLD) は政党として再登録された。

ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されることなどによって裏から政治権力を維持し続けた<ref name="bbc">{{cite web|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-55885314|title=【解説】 ミャンマー国軍のクーデター、なぜ今? これからどうなる?|website=『[[BBC]]』|date=2021-2-2|accessdate=2021-2-2}}</ref>。

2015年11月8日、[[2015年ミャンマー総選挙|民政復帰後では初めてとなる総選挙]]が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、[[ミャンマー連邦共和国憲法|憲法]]の規定と[[ミャンマー軍|国軍]]の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近の[[ティンチョー|テイン・チョー]]を自党の大統領候補に擁立した。[[ティンチョー]]は2016年3月10日に[[連邦議会 (ミャンマー)|連邦議会]]で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した<ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/world/20160330-OYT1T50102.html|title=ティン・チョー氏、ミャンマー大統領に正式就任|publisher=『[[読売新聞]]』|accessdate=2016-03-30}}</ref>。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが[[ミャンマーの国家顧問|国家顧問]]、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。

== 宗教上の対立 ==
[[File:Conflict_zones_in_Myanmar.png|thumb|180px|ミャンマーの紛争地域(1995年 - 現在)]]
ミャンマーの[[ムスリム]]([[イスラム教徒]])の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における[[戦争]][[捕虜]]、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した[[労働者]]など、その事由は様々である<ref name="test">{{cite book|url=https://badauk.com/nitijou/sinjiru/bamarmuslim/muslimhistory/|title=『黄金色の光を放つ宗教』|publisher=ミャンマー政府・情報省|year=1997}}</ref>。

[[宗教]]上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけ[[ラカイン州]]における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。

長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、[[2012年]][[6月8日]]にはラカイン州でムスリムの[[ロヒンギャ]]と仏教徒との対立が激化({{仮リンク|ラカイン州暴動 (2012年)|label=ラカイン州暴動|en|2012 Rakhine State riots}})。2013年3月20日には[[メイッティーラ]]でも死者が多数出る[[暴動]]や[[放火]]が発生、政府により[[非常事態宣言]]が出されている<ref>{{Cite news
|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2935184/10478177
|title=ミャンマー中部で仏教徒とイスラム教徒が衝突、非常事態を宣言
|work=AFPBB News
|publisher=[[フランス通信社]]
|date=2013-03-22
|accessdate=2013-03-24
}}</ref>。

== ロヒンギャ問題 ==
2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、[[国連難民高等弁務官事務所]](UNHCR)により非難されている<ref>{{cite web|url=http://www.bbc.com/japanese/38101105|title=ミャンマーは民族浄化をしようとしている=国連当局者|website=[[BBC|BBC NEWS JAPAN]]|date=2016-11-25|accessdate=2017-2-26}}</ref>。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/articles/-/3155415|title=ミャンマー軍のロヒンギャ掃討、1か月で6700人殺害 多数の子どもも|date=2017-12-14|website=AFPBB News|Publisher=[[フランス通信社]]|accessdate=2017-12-14}}</ref>。

2017年8月25日には、反政府武装組織[[アラカン・ロヒンギャ救世軍]]がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した<ref>[https://jp.reuters.com/article/rohingya-island-idJPKCN1BV0SZ アングル:膨張するロヒンギャ難民、無人島計画に救いはあるか] [[ロイター通信]](2017年9月20日)2017年10月4日閲覧</ref>。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/international/reuters/CRWKCN1BO0D7.html|title=スー・チー氏は国連総会欠席へ ロヒンギャ問題で批判強まる|publisher=『[[朝日新聞]]』|date=2017年9月13日|accessdate=2017年10月4日}}</ref>

== 軍部クーデターで再び軍事政権に ==
{{main|2021年ミャンマークーデター}}
[[2020年ミャンマー総選挙|2020年11月に総選挙]]が実施され、スー・チー率いるNLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得し、ミャンマー国軍系の最大野党[[連邦団結発展党]](USDP)は33議席の獲得に留まった<ref name="JIJI">{{cite web|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2021020100178&g=int|title=ミャンマーでクーデター スー・チー氏や大統領拘束―国軍が全権掌握、非常事態宣言|website=JIJI.COM|agency=『[[時事通信]]』|date=2021年2月2日|accessdate=2021年2月2日}}</ref>。ミャンマー国軍によるムスリム系少数派ロヒンギャの虐殺疑惑に直面する中でもスー・チー率いるNLDが高い人気を維持した形となった<ref name="bbc"/>。しかし軍部はこの選挙結果を不服とし、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙が行われた」と主張した<ref name="JIJI"/>。

総選挙後の初の議会が開かれるはずだった[[2021年]][[2月1日]]、軍部は[[2021年ミャンマークーデター|軍事クーデター]]を起こし、[[ウィンミン]]大統領やスー・チー国家顧問を拘束。[[ミン・アウン・フライン]]国軍総司令官が全権を掌握したと宣言した<ref name="bbc"/>。翌2日には軍事政権として[[国家行政評議会]]が設置されたが<ref>{{cite web|url=http://burmese.dvb.no/archives/438760|title=ဗိုလ်ချုပ်မှူးကြီး မင်းအောင်လှိုင်ခေါင်းဆောင်သည့် ၁၁ ဦးပါ စီမံအုပ်ချုပ်ရေးကောင်စီဖွဲ့စည်း|website=DVB|date=2 February 2021|accessdate=2 February 2021}}</ref><ref>{{cite web|url=http://dsinfo.org/node/957|title=ပြည်ထောင်စုသမ္မတမြန်မာနိုင်ငံတော် တပ်မတော်ကာကွယ်ရေးဦးစီးချုပ်ရုံး အမိန့်အမှတ်(၉/၂၀၂၁) ၁၃၈၂ ခုနှစ်၊ ပြာသိုလပြည့်ကျော် ၆ ရက် ၂၀၂၁ ခုနှစ်၊ ဖေဖော်ဝါရီလ ၂ ရက်|website=[[ミャンマー軍|Tatmadaw]]|date=2 February 2021|accessdate=2 February 2021}}</ref>、その閣僚にはUSDPの主導で旧軍政下の2011年に発足した[[テイン・セイン]]政権での元閣僚の登用が目立つ<ref>{{cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO68736080S1A200C2MM0000|title=ミャンマー軍、旧軍政から閣僚指名 実務重視か|websit=nikkei.com|publisher=『[[日本経済新聞]]』|date=2021年2月2日|accessdate=2021年2月2日}}</ref>。

国内ではクーデター直後から[[民主化]]を求める[[デモ活動]]([[2021年ミャンマークーデター抗議デモ]])が行われている他<ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3330462 ミャンマーでクーデター抗議デモ、ネット遮断中でも規模は最大]『[[AFP通信]]』(2021年2月6日)2021年3月25日閲覧</ref>、クーデターの正当性を認めない連邦議会議員が[[連邦議会代表委員会]](CRPH)を通じて事実上の[[臨時政府]]を設置しようと試みた<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM061730W1A300C2000000/|title=ミャンマー国軍、スー・チー派は「反逆罪」 国民けん制|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2021-3-6|accessdate=2021-3-25}}</ref>。これに対し、軍事政権は力によってクーデターに反対する活動を弾圧しようとしており、[[治安部隊]]の[[発砲]]によって[[非武装]]の[[民間人]]に死者が多数出ている<ref>[https://www.bbc.com/japanese/56410962 ミャンマー国軍、戒厳令の対象地域拡大 1日の死者はクーデター以降最悪の50人に]『[[BBC]]』(2021年3月16日)2021年3月25日閲覧</ref>。だが、反クーデター勢力は[[4月16日]]に[[国民統一政府 (ミャンマー)|国民統一政府]](NUG)、次いで[[5月5日]]に{{仮リンク|国民防衛隊|en|People's Defence Force (Myanmar)}}(PDF)を設立して軍事政権に対抗する姿勢を崩しておらず、[[ミャンマー内戦]]の激化が懸念されている<ref>[https://www.sankei.com/article/20210622-TPVCLB4QVFJLLITSXEHR3HJ23Y/ ミャンマー内戦の危機 親軍派殺害相次ぐ]『[[産経新聞]]』(2021年6月22日)2021年6月24日閲覧</ref>。

クーデターを受け、国外では[[アメリカ合衆国]]、[[ヨーロッパ]]諸国、[[日本]]、[[インド]]、[[国際連合]]、[[欧州連合]](EU)が軍部に対しスー・チーらの解放と民政復帰を求める声明を発表した<ref name="reuters">{{Cite web|url=https://jp.reuters.com/article/myanmar-politics-idJPKBN2A13VN|title=ミャンマーのクーデターに非難相次ぐ、国民はネットに怒りの声|date=2021-02-02|accessdate=2021年2月2日|publisher=ロイター}}</ref>。その後、軍部の弾圧により抗議デモへ参加した市民が大勢死傷したことを受け、アメリカとEUはミャンマー軍関係者に対する[[経済制裁|制裁]]を開始。これに対し軍政の報道官は[[記者会見]]で、今後ミャンマーは中国等の近隣5か国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した<ref name="NHK20210323">{{cite news|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210323/k10012932031000.html|title=ミャンマー軍「中国や近隣国と関係強化」 欧米に屈しない姿勢|publisher=NHKNEWSWEB|date=2021年3月23日|accessdate=2021年3月28日|archiveurl=https://archive.ph/HQKso|archivedate=2021-3-28}}</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}

== 外部リンク ==
* [https://www.britannica.com/place/Myanmar/History History of Myanmar] - [[ブリタニカ百科事典]]{{Languageicon|en}}
{{DEFAULTSORT:みやんまあのれきし}}
[[Category:ミャンマーの歴史|*]]

2022年5月21日 (土) 05:51時点における版

この記事ではミャンマー歴史について解説する。ビルマでは10世紀以前にいくつかの民族文化が栄えていたことがうかがえるが、ビルマ民族の存在を示す証拠は現在のところ見つかっていない。遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系族と考えられている。580年、氐族の最後の王朝である仇池の初代皇帝楊堅に攻められ滅亡。四散した氐族は、中国雲南省大理にあった烏蕃中国語版氏の六詔中国語版の傘下に入ったと考えられている。のちに六詔が統一されて南詔となった。

驃国・タトゥン王国

パガン王朝の都、バガン。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀ピュー人ピュー(驃)を建国した。832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間にわたって王朝がなかった。9世紀頃、下ビルマでモン族のタトゥン王国英語版(9世紀 - 1057年)が建国された。

ビルマ族の南下

タウングー王朝の支配領域(1572年)

1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。王統史のいう「44代目」のアノーヤター王(在位1044年 - 1077年)が初代国王とされる。1057年、パガン王朝はタトゥン王国を滅ぼした。パガン王朝は13世紀モンゴルの侵攻を受け、1287年パガンの戦いで敗北し、1314年に滅びた。下ビルマには、モン族がペグー王朝1287年 - 1539年)を建国し、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系シャン族ピンヤ朝1312年 - 1364年)とアヴァ王朝1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。

1385年から40年戦争英語版が起こり、今日のミャンマー全土を巻き込む内戦となった。1486年タウングーに流れ込んでいたパガン王朝のビルマ族遺民によってタウングー王朝が建国された。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、タビンシュエーティーの治世にペグーとアヴァ王朝を併合し、次のバインナウンの治世には1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝ラーンナー王朝などタイ族小邦や、チン・ホー族英語版が住む雲南シップソーンパンナーを支配した。

しかし1612年にはムガル皇帝ジャハーンギールのもとで、プラターパーディティヤ英語版が支配していたチッタゴンを除く現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入り、1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国支配下のチッタゴンを奪った。

17世紀にタウングー王朝が衰亡し、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝英語版を興した。1752年3月、再興ペグー王朝によって復興タウングー王朝が滅ぼされたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退。1754年にビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。に助けを求めたシャン族が乾隆帝とともに興した国土回復戦争が清緬戦争[注 1]1765年 - 1769年)である。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになる。タイは1767年のアユタヤ王朝滅亡以来ビルマの属国だったが、1769年タークシン率いるトンブリー王朝1768年 - 1782年)が独立し、その後に続くチャクリー王朝1782年-)は、ビルマと異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功した。

イギリス統治時代

イギリス人が見たシュエダゴン・パゴダ(1825年)
英緬戦争、19世紀に起こったイギリスとビルマ王国の戦争
植民地時代の旗(1937年 - 1948年)

一方、コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こした。国王ザガイン・ミン英語版(在位:1819年1837年)治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国1228年1826年)が存在していたが、ビルマのアッサム侵攻英語版1817年1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになっていた。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方[注 2]の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争1824年-1826年)が勃発した。ビルマが敗れ、1826年2月24日ヤンダボ条約英語版が締結され、アッサム[注 3]マニプールアラカンテナセリムをイギリスに割譲した。

イギリスの挑発で引き起こされた1852年第二次英緬戦争で敗れると、ビルマは国土の半分を失い、国王パガン・ミン英語版(在位:1846年1853年)が廃されて新国王にミンドン・ミン英語版(在位:1853年1878年)が据えられた。イスラム教徒のインド人華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行なった。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされた。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となった。下ビルマを割譲した結果、ビルマは穀倉地帯を喪失したために、から輸入し、ビルマは綿花雲南経由で清へ輸出することになった。

1856年から1873年にかけて中国の雲南省・シップソーンパンナーパンゼーと呼ばれる雲南回民チン・ホー族英語版)によるパンゼーの乱が起こり、雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なくなった。1858年から1861年にかけて新首都マンダレーを建設して遷都。イギリス領インドと印僑の反対で雲南問題は遅れていたが、1885年7月にイギリス側も芝罘条約を締結して解決し、雲南・ビルマ間の国境貿易が再び許可された。1885年11月の第三次英緬戦争で王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約中国語版でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となる。国王ティーボー・ミン(在位:1878年1885年)と王の家族はインドのゴア州ボンベイの南に近いラトナーギリー英語版に配流され、その地で死亡した。

建国の父アウンサン(1940年代)

ビルマ人の対英独立運動第一次世界大戦中に始まり、1929年世界恐慌以後若い知識層の間に広まった。1930年には、タキン党が結成された。また、タヤワディ地方では農民が武装蜂起を行い、Saya San rebellionと呼ばれる反植民地運動が下ビルマ全域に広がったが、1931年半ばに鎮圧された。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となり、アラカンは返還されたが、アッサムマニプルはインド領(インド独立後に分割され、7姉妹州と呼ばれる)となった。1939年タキン・ソー英語版ビルマ共産党 (CPB)を結成した。

日中戦争の激化に伴い、ビルマは蔣介石政権をイギリスなどが支援する「援蔣ルート」の一つとしても使われた。1941年12月、日本はイギリスやアメリカ合衆国などに対して開戦(太平洋戦争)。日本陸軍南方作戦の一環として、タイ王国進駐に続いて英領ビルマに進撃した(ビルマの戦い)。

1942年アウンサンビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

しかし1944年の独立一周年記念の席上でアウンサンは「ビルマの独立はまやかしだ」と発言。 1944年インパール作戦の失敗など日本の敗色が濃厚と見るや、1944年8月に秘密会議で反ファシスト人民自由連盟(AFPFL、1945年-1962年)が結成され、タキン・ソー率いるビルマ共産党、アウンサン率いるビルマ国民軍ウー・ヌ率いるthe People's Revolutionary Party (PRP)[注 4]が三派合同した。1945年3月27日、アウンサンが指揮するビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返った。連合国軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命した。日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。1946年2月、ビルマ共産党が、内部抗争の末にAFPFLを離脱し、タキン・タントゥンの率いるビルマ共産党(CPB)から、タキン・ソーの率いる赤旗共産党英語版が分裂した。

独立と内戦

1947年7月19日にアウンサンがウー・ソーの傭兵によって暗殺された後、AFPFL(パサパラ)をウー・ヌが継いだ。1948年イギリス連邦を離脱してビルマ連邦英語版として独立。初代首相には、ウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行うなど、政権は当初から不安定な状態にあった。現ミャンマー連邦共和国政府はその建国をビルマ連邦が成立した1948年としており、ビルマ国との連続性を認めていない一方で、ミャンマー国軍については、1945年3月27日のビルマ国および日本への蜂起をもって建軍とし、この日をミャンマー国軍記念日としている。

1949年国共内戦に敗れた中国国民党軍の残余部隊英語版(KMT/NRA)がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を行った。CIAが物資や軍事顧問団を援助し、タイへのアヘンの運び出しも行った。ヌ政権は国際連合中華民国と米国の策動に抗議した。一方で政権は中華人民共和国と連携し、シャン州の一部に中国人民解放軍および国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍(KMT)勢力を一掃した(中緬国境作戦)。しかし、シャン州は依然として半独立状態が続き、独立意識の高いワ族シャン族コーカン族など諸民族を下地として、都市部から排除されたビルマ共産党(CPB)が黄金の三角地帯麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。一方、ロー・シンハン(羅星漢)のKa Kwe Ye (KKY)[注 5]が、ビルマ共産党(CPB)に対抗させる狙いを持つネ・ウィンの後押しで結成された[2]。また、中国国民党残党から独立したクン・サ率いるモン・タイ軍も独自に麻薬ビジネスを行なった他、ビルマ共産党に対する攻撃も行なった。

ヌ首相の仏教優遇政策は、キリスト教徒の割合が多い、またはキリスト教徒が支配的な立場を占めるカチン、チン、カレンなどの民族の強い反発を招いた。独立を求める民族勢力(麻薬産業を背景にする北部シャン州と、独立志向の強いカレンなど南部諸州と概ね2つに分けられる)、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

軍事政権時代

ネ・ウィン将軍(1959年6月8日)

1958年10月27日、ウー・ヌからの打診を受けたネ・ウィン将軍のもとで暫定内閣英語版1958年-1960年)が組閣された。1960年2月、総選挙でウー・ヌが地滑り的な勝利を収め、4月4日連立内閣を組閣した。1960年12月、ベトナム戦争1960年-1975年)が勃発。

1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデター英語版を起こし、ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)を結成して大統領1962年3月2日1981年11月9日)となり、ビルマ式社会主義を掲げた。ネ・ウィンは、中立を標榜しつつ瀬戸際外交を行ない、アメリカとのMAP協定を破棄し、アメリカの国民党軍(KMT)への支援をやめさせ解散させる代りに、ビルマ共産党 (CPB) の麻薬ルートに対する軍事行動を約束し、軍事支援を取り付けた。1966年から始まった中国の文化大革命の影響がビルマに及び、1968年9月24日にビルマ共産党 (CPB) は、タキン・タントゥンら幹部が暗殺され、中国の影響下に入った。

1973年8月、ロー・シンハンが、シャン州軍(SSA)に協力した容疑でタイに拘束された。[2]この時のロー・シンハンとクン・サの闘争を「アヘン大戦争」と呼び、完全に掌握したクン・サは「麻薬王」と呼ばれた。1974年ビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領二期目に就任(ビルマ連邦社会主義共和国)。1976年に中国の最高権力者である毛沢東が死去すると、支援が減らされたビルマ共産党 (CPB) は、シャン州のアヘンが最大の資金源となった為、コーカン族・ワ族の発言力が増大した。1980年、ロー・シンハンは恩赦釈放された。1981年にネ・ウィンが大統領職を辞した後も1988年までは軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させた。

1988年にはネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退く(8888民主化運動)。同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成される。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウンサンスーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の1989年自宅軟禁された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。1988年1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部とワ族・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、1989年ワ州連合軍が結成された。この時、キン・ニュンが、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。

1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦へ国名の改名を行った。1990年5月27日に実施された総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府 (NCGUB) を樹立した。

1992年4月23日タン・シュエ将軍が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任。軍事政権は1994年以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から中国が大ココ島英語版を賃借し、中国はレーダー基地と軍港建設した。こうした中国の海洋戦略は、バングラデシュスリランカモルディブパキスタンなどへの進出と合わせてインドを包囲する「真珠の首飾り作戦」と呼ばれている。1997年11月、国家法秩序回復評議会(: State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が国家平和発展評議会: State Peace and Development Council、略称:SPDC)に名称変更した。2000年9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。2002年12月、ネ・ウィンが死去。

2003年8月、キン・ニュンが首相に就任。キン・ニュンは就任直後に民主化へのロードマップを発表し、保守派と対立。2004年10月、和平推進派のキン・ニュン首相が失脚して自宅軟禁された。

2007年ミャンマー反政府デモ

後任の首相には、保守派のソー・ウィンが就任。同年、中国・ビルマ・パイプラインの協議が中国との間で開始され、翌2005年に中国石油天然気(PetroChina)との間で契約が成立し、中国のミャンマー進出が加速した。この緬中関係では、キン・ニュンの庇護の下でホテル経営を行っていたロー・シンハン(羅星漢)率いるアジア・ワールド英語版社が独占的な契約を結んでいった。2005年11月、政府機関がヤンゴンから中部ピンマナ近郊に建設中の行政首都への移転を開始し、2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。2007年9月27日APF通信社長井健司反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺された。

2007年10月12日ソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セイン2007年10月に首相へ就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。2008年5月、新憲法案についての国民投票英語版が実施・可決され民主化が計られるようになる。2008年5月2日サイクロン・ナルギスがエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。

2010年10月、国旗の新しいデザインを発表[3]

選挙と民主化

2010年11月には新憲法に基づく総選挙が実施される。また、政府はアウンサンスーチーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウンサンスーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。

ただしミャンマー国軍は、2011年の民政移管後も連邦議会の4分の1の議席をあらかじめ国軍に割り当てられることや、同国で最も権力のある省庁を支配する権限を憲法で保障されることなどによって裏から政治権力を維持し続けた[4]

2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スー・チーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定と国軍の反対によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。ティンチョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した[5]。さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されている。

宗教上の対立

ミャンマーの紛争地域(1995年 - 現在)

ミャンマーのムスリムイスラム教徒)の起源は一様ではなく、古くは1000年ほど前に遡るところからのインド(現在のバングラデシュを含む)人漂流民、あるいは16世紀以降の諸王朝における戦争捕虜、新しいところでは19世紀から20世紀前半のイギリス植民地時代にインドから流入した労働者など、その事由は様々である[6]

宗教上の比率としては4%程度と低いものの、独自のコミュニティ形成などにより、実際の存在感はこの数字以上、というのがミャンマーにおける一般的な見方である。また地域的には、とりわけラカイン州における比率が高く、同州内にはムスリムが多数派という町もある。

長らく続いた軍事政権下では、宗教上の対立は表面化してこなかったが、2012年6月8日にはラカイン州でムスリムのロヒンギャと仏教徒との対立が激化(ラカイン州暴動英語版)。2013年3月20日にはメイッティーラでも死者が多数出る暴動放火が発生、政府により非常事態宣言が出されている[7]

ロヒンギャ問題

2016年のミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている[8]。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6千人以上の月もあったことが報道されている[9]

2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した[10]。同年9月、アウンサンスーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたることとなった[11]

軍部クーデターで再び軍事政権に

2020年11月に総選挙が実施され、スー・チー率いるNLDが改選476議席の8割を超す396議席を獲得し、ミャンマー国軍系の最大野党連邦団結発展党(USDP)は33議席の獲得に留まった[12]。ミャンマー国軍によるムスリム系少数派ロヒンギャの虐殺疑惑に直面する中でもスー・チー率いるNLDが高い人気を維持した形となった[4]。しかし軍部はこの選挙結果を不服とし、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙が行われた」と主張した[12]

総選挙後の初の議会が開かれるはずだった2021年2月1日、軍部は軍事クーデターを起こし、ウィンミン大統領やスー・チー国家顧問を拘束。ミン・アウン・フライン国軍総司令官が全権を掌握したと宣言した[4]。翌2日には軍事政権として国家行政評議会が設置されたが[13][14]、その閣僚にはUSDPの主導で旧軍政下の2011年に発足したテイン・セイン政権での元閣僚の登用が目立つ[15]

国内ではクーデター直後から民主化を求めるデモ活動2021年ミャンマークーデター抗議デモ)が行われている他[16]、クーデターの正当性を認めない連邦議会議員が連邦議会代表委員会(CRPH)を通じて事実上の臨時政府を設置しようと試みた[17]。これに対し、軍事政権は力によってクーデターに反対する活動を弾圧しようとしており、治安部隊発砲によって非武装民間人に死者が多数出ている[18]。だが、反クーデター勢力は4月16日国民統一政府(NUG)、次いで5月5日国民防衛隊(PDF)を設立して軍事政権に対抗する姿勢を崩しておらず、ミャンマー内戦の激化が懸念されている[19]

クーデターを受け、国外ではアメリカ合衆国ヨーロッパ諸国、日本インド国際連合欧州連合(EU)が軍部に対しスー・チーらの解放と民政復帰を求める声明を発表した[20]。その後、軍部の弾圧により抗議デモへ参加した市民が大勢死傷したことを受け、アメリカとEUはミャンマー軍関係者に対する制裁を開始。これに対し軍政の報道官は記者会見で、今後ミャンマーは中国等の近隣5か国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しないとする決意を表明した[21]

脚注

注釈

  1. ^ 乾隆帝による十全武功のひとつ。
  2. ^ 当時、ベンガル管区英語版1765年-1919年)にはベンガル地方メーガーラヤ州ビハール州オリッサ州が含まれていた。
  3. ^ 当時のアッサムには現在のメーガーラヤ州ナガランド州ミゾラム州アルナーチャル・プラデーシュ州が含まれていた。後に各州は分離され、北東部はマクマホンラインで知られる中国(北京政府)との係争地となり、1954年東北辺境地区英語版として分離され、1987年アルナーチャル・プラデーシュ州となった。
  4. ^ 後にBurma Socialist Partyになった。
  5. ^ Ka Kwe Ye means "defence" in Burmese, and is used as the name for regional defence forces.[1]

出典

  1. ^ Smith, Martin (1991). Burma - Insurgency and the Politics of Ethnicity. London: Zed Books. p. 221 
  2. ^ a b Bertil Lintner (2000年3月). “The Golden Triangle Opium Trade: An Overview”. Asia Pacific Media Services. 2009年1月6日閲覧。
  3. ^ ミャンマー新国旗を公表 市庁舎などで一斉付け替え”. MSN産経ニュース (2010年10月22日). 2011年1月9日閲覧。
  4. ^ a b c 【解説】 ミャンマー国軍のクーデター、なぜ今? これからどうなる?”. BBC (2021年2月2日). 2021年2月2日閲覧。
  5. ^ ティン・チョー氏、ミャンマー大統領に正式就任”. 『読売新聞』. 2016年3月30日閲覧。
  6. ^ 『黄金色の光を放つ宗教』. ミャンマー政府・情報省. (1997). https://badauk.com/nitijou/sinjiru/bamarmuslim/muslimhistory/ 
  7. ^ “ミャンマー中部で仏教徒とイスラム教徒が衝突、非常事態を宣言”. AFPBB News (フランス通信社). (2013年3月22日). http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2935184/10478177 2013年3月24日閲覧。 
  8. ^ ミャンマーは民族浄化をしようとしている=国連当局者”. BBC NEWS JAPAN (2016年11月25日). 2017年2月26日閲覧。
  9. ^ ミャンマー軍のロヒンギャ掃討、1か月で6700人殺害 多数の子どもも”. AFPBB News (2017年12月14日). 2017年12月14日閲覧。
  10. ^ アングル:膨張するロヒンギャ難民、無人島計画に救いはあるか ロイター通信(2017年9月20日)2017年10月4日閲覧
  11. ^ スー・チー氏は国連総会欠席へ ロヒンギャ問題で批判強まる”. 『朝日新聞』 (2017年9月13日). 2017年10月4日閲覧。
  12. ^ a b ミャンマーでクーデター スー・チー氏や大統領拘束―国軍が全権掌握、非常事態宣言”. JIJI.COM (2021年2月2日). 2021年2月2日閲覧。
  13. ^ ဗိုလ်ချုပ်မှူးကြီး မင်းအောင်လှိုင်ခေါင်းဆောင်သည့် ၁၁ ဦးပါ စီမံအုပ်ချုပ်ရေးကောင်စီဖွဲ့စည်း”. DVB (2 February 2021). 2 February 2021閲覧。
  14. ^ ပြည်ထောင်စုသမ္မတမြန်မာနိုင်ငံတော် တပ်မတော်ကာကွယ်ရေးဦးစီးချုပ်ရုံး အမိန့်အမှတ်(၉/၂၀၂၁) ၁၃၈၂ ခုနှစ်၊ ပြာသိုလပြည့်ကျော် ၆ ရက် ၂၀၂၁ ခုနှစ်၊ ဖေဖော်ဝါရီလ ၂ ရက်”. Tatmadaw (2 February 2021). 2 February 2021閲覧。
  15. ^ ミャンマー軍、旧軍政から閣僚指名 実務重視か”. 『日本経済新聞』 (2021年2月2日). 2021年2月2日閲覧。
  16. ^ ミャンマーでクーデター抗議デモ、ネット遮断中でも規模は最大AFP通信』(2021年2月6日)2021年3月25日閲覧
  17. ^ “ミャンマー国軍、スー・チー派は「反逆罪」 国民けん制”. 日本経済新聞. (2021年3月6日). https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM061730W1A300C2000000/ 2021年3月25日閲覧。 
  18. ^ ミャンマー国軍、戒厳令の対象地域拡大 1日の死者はクーデター以降最悪の50人にBBC』(2021年3月16日)2021年3月25日閲覧
  19. ^ ミャンマー内戦の危機 親軍派殺害相次ぐ産経新聞』(2021年6月22日)2021年6月24日閲覧
  20. ^ ミャンマーのクーデターに非難相次ぐ、国民はネットに怒りの声”. ロイター (2021年2月2日). 2021年2月2日閲覧。
  21. ^ “ミャンマー軍「中国や近隣国と関係強化」 欧米に屈しない姿勢”. NHKNEWSWEB. (2021年3月23日). オリジナルの2021年3月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.ph/HQKso 2021年3月28日閲覧。 

外部リンク