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「青森県新和村一家7人殺害事件」の版間の差分

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|原因=火災の原因 - 未解明<ref name="読売新聞1953-12-24"/>(就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に着火した可能性が指摘されている){{Efn2|name="火災原因"|加害者Mは警察の取り調べに対し、「発砲した際に銃口から火が出た」と供述している{{Sfn|高刑|1958|pp=174-175}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=2}}。}}{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}
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|対処=国家地方警察が[[逮捕 (日本法)|逮捕]]・青森地検弘前支部が[[起訴]]<ref name="陸奥新報1953-12-30">『陸奥新報』1953年12月30日朝刊一面1頁「Mは尊族殺人罪 新和村一家八人殺し起訴」(陸奥新報社)</ref>
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|刑事訴訟=住居侵入で[[懲役]]6月・[[執行猶予]]2年の[[判決 (日本法)|判決]]([[責任能力#心神喪失と心神耗弱|心神喪失]]のため、殺人および尊属殺人は[[無罪]]){{Sfn|高刑|1958|pp=180-181}}
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* 本事件後、小友集落では農家の不良が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した{{Sfn|石川清|2015|pp=46-51}}。
* 本事件後、小友集落では農家の素行不良が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した{{Sfn|石川清|2015|pp=46-51}}。
* 本事件は[[都市伝説]]「[[杉沢村伝説]]」のルーツになったとされる<ref group="注" name="杉沢村"/>{{Sfn|斎藤充功|2014|p=93}}{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。
* 本事件は[[都市伝説]]「[[杉沢村伝説]]」のルーツになったとされる{{Sfn|斎藤充功|2014|p=93}}{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。
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* [[国家地方警察]]{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}([[国家地方警察青森県本部|青森県本部]])・[[弘前警察]]
* [[国家地方警察]][[国家地方警察青森県本部|青森県本部]][[弘前警察署|弘前地区警察署]]{{Efn2|name="弘前署"}}{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}
* [[青森地方検察庁]]弘前支部<ref name="読売1953-12-14"/><ref name="新聞1953-12-15"/>
* [[青森地方検察庁]]弘前支部<ref name="陸奥1953-12-15"/><ref name="東奥1953-12-15"/>
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'''青森県新和村一家7人殺害事件'''(あおもりけんにいなむら いっかしちにんさつがいじけん)とは、[[1953年]]([[昭和]]28年)[[12月12日]]の深夜に[[青森県]][[中津軽郡]][[新和村 (青森県)|新和村]]<ref group="注" name="合併"/>(現:[[弘前市]]大字小友字宇田野496番地){{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}で発生した[[大量殺人]]事件{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=93-95}}<ref name="朝日1953-12-12">『[[朝日]]』1953年12月12東京夕第3版第社会3頁「【弘前発】兄射殺放火 焼ら八人の死体」([[朝日聞東京本]])</ref>。
'''青森県新和村一家7人殺害事件'''(あおもりけんにいなむら いっかしちにんさつがいじけん)とは、[[1953年]]([[昭和]]28年)[[12月12日]]の深夜に[[青森県]][[中津軽郡]][[新和村 (青森県)|新和村]]{{Efn2|name="合併"}}小友(現:[[弘前市]]大字小友字宇田野496番地){{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}で発生した[[大量殺人]]事件{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=93-95}}<ref name="陸奥1953-12-13">『[[陸奥]]』1953年12月13刊一面1頁「らを射殺放火 一家八人がけ死ぬ 新和村で惨事 別居中の三男が自首」「惨状眼を覆う現場 助った○○(使用の実名)君談 気づいたときは火の海」「涙をそそる幼児の死体」「Mの部屋に謎の文句」「耐えなかった不和 家を追い出されたM」(陸奥社)</ref>。


[[リンゴ]]園農家の三男であるM(当時24歳){{Sfn|斎藤充功|2014|pp=93-95}}が実家に侵入し[[銃|猟銃]]<ref group="注" name="猟銃"/>で父親・長兄ら一家7人を射殺した{{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}。その後、Mの実家は[[火災]]によ全焼し、子供1人が焼死した計8人が死亡{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=94-95}}。
[[リンゴ]]園農家の三男であるM(当時24歳)<ref name="陸奥新報1953-12-13"/>が実家に侵入し[[銃|猟銃]]{{Efn2|name="猟銃"}}で父親X(当時57歳)・長兄A1(当時35歳)ら一家7人を射殺した<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>。その後、現場となったMの実家は原因不明の[[火災]]によって全焼し、子供1人が焼死した<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>。計8人が死亡したことから、「8人殺し事件」と称される場合もある{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。刑事裁判では、犯人Mは[[殺人罪 (日本)|殺人]]行為におよんだ時点では[[責任能力#心神喪失と心神耗弱|心神喪失]]状態だったことが[[事実認定|認定]]され<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>、殺人に関しては[[無罪]]が[[確定判決|確定]]した<ref name="陸奥新報1958-04-11"/>


== 概要 ==
== 概要 ==
加害者である三男Mは、被害者である父親や長兄たちから邪険な扱い(家督を相続させてもらえないなどを受け、実家を追われて貧しい暮らしを強いられていたところ{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}、実家へ盗みに入った際に猟銃を見て「父たちに殺される」と錯乱し犯行およんだ{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Mは[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[尊属殺|尊属殺人罪]]・[[住居侵入罪]]で[[起訴]]されたが[[裁判|刑事裁判]]では「におよんだ際、[[被告人]]Mは[[責任能力|刑事責任能力]]を問えない心神喪失状態だった」と[[事実認定|認定]]され、殺人・尊属殺人は[[無罪]]、住居侵入罪のみ有罪とする[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡され{{Sfn|高刑|1958|pp=180-181}}、[[確定判決|確定]]{{Sfn|斎藤充功|2014|p=99}}。判決後、釈放されたMは地元で次兄とともにリンゴ栽培を営んでいたが、事件から48年後の[[2001年]]([[平成]]13年)12月に[[交通事故]]死した{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。
犯人である三男Mは事件前、被害者である父親Xや長兄A1たちから家督を相続させてもらえないなど邪険な扱いを受け、実家を追われて貧しい暮らしを強いられていた{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。1953年12月12日の深夜Mは実家に隣接する物置小屋へ盗みに入ったが、その際に小屋の中にあった猟銃を見て「父たちに殺される」と錯乱、小屋に隣接ていた住宅に侵入XやA1夫婦ら7人を射する犯行におよんだ{{Sfn|高刑|1958|p=171}}。


Mは物置小屋へ盗みに入った[[住居侵入罪]]と、被害者一家の住む実家(住宅)へ侵入した住居侵入罪、そして被害者7人に対する[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[尊属殺|尊属殺人罪]]で[[起訴]]されたが、[[裁判|刑事裁判]]の[[審級|第一審]]([[青森地方裁判所|青森地裁]]弘前支部)では、「[[被告人]]Mは殺人行為におよんだ際、[[責任能力|刑事責任能力]]を問えない[[責任能力#心神喪失と心神耗弱|心神喪失]]状態だった」とする[[精神鑑定]]の結果が2件出た<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>。青森地裁弘前支部は1956年(昭和31年)4月、それらの鑑定結果を採用した上で、「Mは物置小屋への住居侵入行為の時点では責任能力を問えたが、住宅に侵入し、殺人におよんだ時点では心神喪失状態だった」と認定し、住宅への住居侵入および殺人・尊属殺人は無罪、物置小屋への住居侵入罪のみ有罪([[懲役]]6月・[[執行猶予]]2年)とする[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した{{Sfn|高刑|1958|pp=181, 187}}。検察官は殺人を無罪とした同判決を不服として[[仙台高等裁判所秋田支部|仙台高裁秋田支部]]に[[控訴]]したが、同高裁支部も1958年(昭和33年)3月、控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="陸奥新報1958-03-27"/>。検察官が[[上告]]しなかったため、Mは同年4月に無罪が確定<ref name="陸奥新報1958-04-11"/>。Mは第一審判決後に釈放され<ref name="東奥日報1956-04-06"/>、地元で次兄とともにリンゴ栽培を営んでいたが、事件から48年後の[[2001年]]([[平成]]13年)12月に[[交通事故]]死した(72歳没){{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。
小友集落では本事件後、[[1954年]](昭和29年)から[[1956年]](昭和31年)にかけて農家の不良が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した{{Sfn|石川清|2015|pp=46-51}}。また、[[杉沢村伝説]](「青森県のある村で発狂した1人の男が村民を皆殺しにした」という[[都市伝説]])の由来は本事件(およびその舞台となった小友地区)とされている{{Efn2|name="杉沢村"|[[斎藤充功]] (2014) は「事件現場は『杉沢』という地域ではないが、すぐ近隣に『杉』の付く集落が多いため、杉沢村伝説につながった」と述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}。また[[並木伸一郎]]は自著『最強の都市伝説1』(2007年)で「『杉沢村伝説』は本事件以外に、1938年(昭和13年)に[[岡山県]]で30人が殺害された[[津山事件]]とも似ている。本事件はこの地方では稀に見る大量殺人事件で、人々は津山事件を連想したことだろう。やがてこの2つの事件が人々の意識の中で混同され、『青森県で起きた大量殺人事件=杉沢村伝説』の下地になったのだろう。」と考察している<ref>{{Cite book|和書|title=最強の都市伝説|publisher=[[経済界 (出版社)|経済界]]|date=2007-05-01|author=[[並木伸一郎]]|edition=[[電子書籍]]版|isbn=978-4766783988|chapter=杉沢村はどこにある|volume=1}}</ref>。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=93}}{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。


本事件は地元紙『[[陸奥新報]]』により、「'''本県の犯罪史上最も凶悪な殺人事件'''」と報じられ{{Efn2|なお、同じく青森県の県紙である『東奥日報』は、後年(2001年)に発生した[[武富士弘前支店強盗殺人・放火事件]]を「県警犯罪史上例をみない凶悪事件」<ref>{{Cite news|title=社説 放火殺人事件の徹底解明を|newspaper=[[東奥日報]]|date=2002-03-05|url=http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2002/sha20020305.html|publisher=東奥日報社|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20020312155234/http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2002/sha20020305.html|archive-date=2002年3月12日}}</ref>「県警史上かつてない凶悪事件」と表現している<ref>{{Cite news|title=天地人|newspaper=東奥日報|date=2007-03-28|url=https://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2007/ten20070328.html|publisher=東奥日報社|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20110320171326/https://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2007/ten20070328.html|archive-date=2011年3月20日}}</ref>。}}<ref name="陸奥新報1958-03-27"/>、[[津軽地方|津軽]]に根強く残っていた封建性や次男・三男問題、戦後の道徳低下など、多くの社会問題を含んだものとして注目された<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。小友集落では本事件後、[[1954年]](昭和29年)から[[1956年]](昭和31年)にかけ、農家の素行不良者が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した{{Sfn|石川清|2015|pp=46-51}}。また、本事件(およびその舞台となった小友地区)は、[[杉沢村伝説]](「青森県のある村で発狂した1人の男が村民を皆殺しにした」という[[都市伝説]])の由来とされている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=93}}{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。
== 事件発生 ==
{{Main|#事件後}}
事件現場は青森県弘前市大字小友字宇田野496番地・男性X宅{{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}。集落の密集地から数十&nbsp;[[メートル|m]]離れたリンゴ農園の中にある住宅(約100&nbsp;[[平方メートル|㎡]])で{{Sfn|石川清|2015|p=41}}、本事件の加害者であるXの三男'''M・T'''(当時24歳・桶職人/以下「M」と表記)<ref name="朝日新聞1953-12-12"/> は事件前年の1952年(昭和27年)に{{Sfn|石川清|2015|p=44}}、父X・兄A1{{Sfn|石川清|2015|p=42}}によって無一文で家を追い出され、それ以降は日々の食べ物にも困る生活を強いられていた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。


== 事件の経緯 ==
Mは事件の前日(12月11日)午後に桶の修理へ出掛け{{Efn2|Mは同日15時ごろ、中津軽郡[[裾野村]]鬼沢(現:弘前市[[鬼沢 (弘前市)|鬼沢]])へ仕事に行っていた<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}、19時ごろに帰宅してから自室で酒を約7合飲んだ{{Efn2|name="酩酊"|石川清 (2015) は「酒を7, 8合ほど飲んで泥酔した」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=43}}が、Mは事件当時の酩酊度に関し、警察・検察による取り調べおよび公判で一貫して「当夜は飲酒したが、本心がなくなるほど酔ってはいなかった」と供述している{{Sfn|高刑|1958|p=175}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=2}}。}}<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。Mは[[肴|酒のつまみ]]として[[味噌]]を食べようと思ったが、味噌が切れていたため{{Sfn|石川清|2015|p=43}}、事件当日(12日)1時過ぎごろ{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、Xの住む実家へ味噌を盗みに入った{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。しかし、実家に隣接する物置小屋へ入ったところ、猟銃{{Efn2|name="猟銃"|[[中折式|中折]]単発式猟銃1挺{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}(口径16&nbsp;[[ミリメートル|mm]]のグリナー型[[散弾銃]]){{Sfn|石川清|2015|p=41}}。}}と実弾十数発を装備した弾帯が置いてあるのを見つけ、「万が一味噌を盗んだことをXやA1に知られれば、彼らに猟銃で撃ち殺されるかもしれない」と考え{{Efn2|Mは事件以前から「自分は出来が悪いから父親に憎まれている」と感じていた{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}、機先を制して彼らやその家族を射殺することを決意した{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。
本事件の犯人である男'''M・T'''(当時24歳:桶職人、以下「M」と表記)は<ref name="朝日新聞1953-12-12">『[[朝日新聞]]』1953年12月12日東京夕刊第3版第一社会面3頁「【弘前発】父や兄射殺、放火 焼跡から八人の死体」([[朝日新聞東京本社]])</ref>、1929年(昭和4年)11月10日<ref name="東奥日報1954-02-02">『東奥日報』1954年2月2日朝刊第2版3頁「八人殺しの第一回公判 父への殺意認む M供述 “ほかは全く無我夢中”」(東奥日報社)</ref>、本事件の被害者である男性Xと、その妻の間に8人兄弟(3男4女:兄2人・姉3人・妹1人)の三男(第7子)として生まれた{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。


本事件でMによって射殺された被害者は、Mの父親X(当時57歳)、Xの長男A1(同35歳)とその妻A2(同33歳)、A1・A2夫婦の長男A3(同7歳:Mの甥){{Efn2|name="A3"}}、長女A4(同5歳:Mの姪){{Efn2|A4は事件当日(12月12日)が誕生日だった<ref name="東奥日報1953-12-14"/>。}}、Mの祖母Y(同80歳:Xの母親)、伯母Z(当時61歳:Xの姉)の計7人である<ref name="東奥日報1953-12-13"/>。Zは[[青森市]]在住で<ref name="東奥日報1953-12-13"/>、事件当夜、偶然X宅へ遊びに来ていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。事件発生当時、Xは孫A3とともに茶の間<ref name="陸奥新報1953-12-14"/>(六畳間<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>:Mが犯行時、最初に侵入した部屋)で、A1は妻A2や娘2人 (A4・A5) とともに次の間<ref name="陸奥新報1953-12-14"/>(四畳半)で、Yは八畳間でそれぞれ就寝していた<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>。
Mは弾帯を腰に帯び、猟銃を持って隣接する実家(住宅)へ侵入{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。就寝中のX(当時57歳){{Efn2|XはMが最初に侵入した部屋で、孫(A1の長男)A3とともに就寝していたところを襲われた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。事件直後に現場を目撃した親戚(Mが出頭する際に同行した男性)は、Xの[[脳漿]]が3間(約10&nbsp;m)にわたり飛散した痕跡を目撃していた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}、A夫婦(A1は当時35歳/妻A2は当時33歳){{Efn2|A1・A2夫妻は子供2人(長女A4・次女A5)とともに、就寝していたところを襲われた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}と彼らの子供2人(Mの甥A3および姪A4){{Efn2|長男A3(当時7歳)および長女A4(同5歳){{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。A3の頭部からは弾丸が20発以上(射殺された被害者7人で最多)摘出された{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。}}、祖母Y(同80歳){{Efn2|MはYを殺害した際の状況を覚えていなかったが、Yの遺体は射殺された被害者7人の中でも特に損傷が著しく、頭部・顔面が粉砕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}と伯母Z(当時61歳){{Efn2|Z(Xの姉)は[[青森市]]在住で<ref name="読売新聞1953-12-13 青森"/>、事件当夜、偶然X宅へ遊びに来ていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}の計7人を相次いで猟銃で射殺{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。Mはまず、就寝していたXの頭部を布団から約2, 3尺離れた距離から狙撃し、Xを殺害{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。A1・A2・A3・A4・Yの5人{{Efn2|Mは祖母Y・伯母Zの2人を殺害したことについては「よく覚えていない」と供述した<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/> 一方、この2人を除く被害者5人への射撃について、「ただ漠然と射撃した記憶がある」と供述した{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。}}はいずれも銃声を聞いて布団に潜り込んだが、Mは布団の中に銃口を挿入し、彼らの頭部・肩付近を至近距離から撃ち抜いた{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。そして、Zは道路に面した南西隅の縁側へ逃げ込んだが、縁側の隅で腰部を撃たれて射殺されたとされる{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。


=== 小友の集落事情 ===
犯行後、Mは実家の玄関脇に凶器の猟銃を捨て、弾帯を締めたまま{{Efn2|Mは自首した当時、実包1つと薬莢2つを入れた弾帯を締めていた<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}、勝手口から家を出た<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。その後、近くに住む親類の家の前で「親父を殺してきた」と叫び、これを聞いた親類が1時30分ごろに現場(X宅)の様子を見に行ったが、その際には物音はなく、異常な点も見られなかった<ref name="読売新聞1953-12-13 青森">『読売新聞』1953年12月13日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「新和村の殺人事件 血なまぐさい年の瀬 いつも争ってた一家 犯人は壁に遺書を書く」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。しかし、X宅はそれから約1時間後に出火して全焼{{Efn2|出火時間について、『[[読売新聞]]』 (1953) は「被疑者Mを取り調べていた途中の2時30分ごろ」と<ref name="読売新聞1953-12-12"/>、村野薫 (2002) は「Mが2時10分ごろに自首した後で、Mが殺害行為におよんでから相当な時間の開きがある」と述べている{{Sfn|村野薫|2002|p=49}}。一方、石川清 (2015) は「Mは犯行後、燃え盛る実家を見て我に返り、親戚宅を訪ねて『自首したい』と申し出た」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。}}<ref name="読売新聞1953-12-13 青森"/>。A1の次女A5(当時3歳/Mの姪)が家の中で焼死した{{Efn2|A1の次女A5は焼死と判明したため、MはA5への殺人罪では起訴されていない{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=95-96}}。A5は出火時点ではまだ生存しており、家が燃えている最中に現場を目撃した近隣住民が炎の中から子供の泣き声を聞いていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=95-96}}{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。この火災についてはMによる放火のほか、こたつの掛け布団からの発火や、猟銃発射時の火炎からの着火が疑われたが<ref>『読売新聞』1953年12月21日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺し 出火にコタツ説有力 悠然と調べうけるM」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>、警察による捜査では出火原因は解明されなかった<ref name="読売新聞1953-12-24">『読売新聞』1953年12月24日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺し事件 捜査本部解散 犯人近く起訴」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。しかし、仙台高裁秋田支部 (1958) は[[判決理由]]で「Mが就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に引火したことで火災が発生し、実家が全焼したものと思われる」と指摘している<ref group="注" name="火災原因"/>{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。一方、死亡した家族8人とは別に使用人の男性(当時23歳)もこの家に住んでいたが、彼は2階の窓から飛び降り無事だった<ref name="読売新聞1953-12-12"/>。
事件現場となった男性X宅は、現在の青森県弘前市大字小友字宇田野496番地({{ウィキ座標|40|42|33.04|N|140|24|8.8|E||座標}})に所在していた{{Sfn|高刑|1958|pp=170-171}}。この家は、集落の密集地から数十&nbsp;[[メートル|m]]離れたリンゴ農園の中にある住宅(約100&nbsp;[[平方メートル|m{{sup|2}}]])であった{{Sfn|石川清|2015|p=41}}。小友は、[[岩木山]]の裾野の平地に位置する、リンゴ栽培が盛んな集落で{{Sfn|石川清|2015|pp=48-49}}、事件当時は人口数百人、約300戸を有し{{Sfn|石川清|2015|p=49}}、青森県内でも屈指の豊かな農村であった{{Sfn|石川清|2015|p=49}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。しかし、集落内の貧富の格差も激しく、村の8割は極めて裕福だった一方、残る2割は極度の貧困に苛まれており、特に家督を継げなかった次男・三男は最底辺に位置していた{{Sfn|石川清|2015|pp=51-52}}。当時の小友は、新[[民法 (日本)|民法]]で「家族平等の原則」が導入されて以降も、家の財産はすべて長男が継ぐ習慣が残っていたのである{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。


Mは集落では中流程度の家庭で生育し、[[弘前市立小友小学校|新和村立小友小学校]]{{Efn2|name="A3"|Mは高等小学校卒で、在学中の成績は劣等だった{{Sfn|加藤伸勝|1959|p=35}}。被害者の1人であるA3(Mの甥)は事件当時、叔父Mの母校である小友小学校に在学していた<ref name="東奥日報1953-12-14"/>。}}を卒業してから家業(農業)を1年ほど手伝った{{Sfn|高刑|1958|p=171}}。その後、一時は他家に奉公に出たが、間もなく病を得て{{Efn2|name="麻疹"|Mは幼少期(母親によれば2歳のころ<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>)に麻疹で右目を[[失明]]しており、義眼を入れていた<ref name="東奥日報1953-12-14">『東奥日報』1953年12月14日朝刊第2版2頁「Mの單獨犯行濃厚 次男のアリバイ成立 新和村の八人殺し 放火にアイマイな態度」「鬼氣漂う殺人現場 淚誘う罪ない幼兒の死」(東奥日報社)</ref>。Mの母親は、「あと2、3日遅れていたら脳膜炎に罹るところだった」と診断された旨を述べている<ref name="東奥日報1954-03-05"/>。}}帰宅し{{Sfn|高刑|1958|p=171}}、自宅で農業に従事する傍ら、桶職の見習いなどをしていた{{Efn2|Mは18歳のころから桶屋で働き、23歳だった1952年に独立した{{Sfn|加藤伸勝|1959|p=35}}。}}{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Mについて、彼の次兄は「おとなしくよい若者」、母親は「真面目で親思いの感心な若者だと村の評判であった」<ref name="陸奥新報1953-12-14"/>「[[トビ|鳶]]撃ちが上手だとXによく褒められていた」と、妹は「Mは優しい兄で、実家を出てからも2、3千円をくれて世話してくれていた。(兄弟の中で)一番好き」と証言している<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>。一方、Mは事件以前から、「自分は出来が悪いから父親に憎まれている」と感じていた{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。
一方、Mは同集落の親類宅(現場から約1&nbsp;km離れた場所)を訪れ、親類の男性を起こして「[[自首]]したいので、一緒に来てほしい」と申し出<ref name="読売新聞1953-12-14 青森">『読売新聞』1953年12月14日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「一家八人殺し 出火の点は疑問視 飲酒のうえ凶行」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>、集落の[[駐在所]]へ自首<ref name="読売新聞1956-04-06"/>。[[国家地方警察]](国警)[[弘前市警察|弘前地区警察署]]{{Efn2|現:[[弘前警察署]]([[青森県警察]])。}}へ移送された{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。弘前地区署および[[国家地方警察青森県本部|青森県警察]][[捜査本部|特捜本部]]{{Efn2|捜査本部はMの取り調べや、現場操作を終えた12月22日に解散した<ref name="読売新聞1953-12-24"/>。}}は事件後、Mを殺人・[[放火罪|放火]]容疑で取り調べた<ref name="読売新聞1953-12-13"/> が、現場検証ではMによる放火の証拠が得られなかった{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。また、被害者8人のうちA5の遺体からは[[弾丸|散弾]]が摘出されず{{Efn2|[[弘前大学]]で被害者8人の遺体を[[司法解剖]]した結果、A5を除く7人の遺体の首から散弾が摘出された<ref name="読売新聞1953-12-14"/>。}}<ref name="読売新聞1953-12-14"/>、火災で死亡したA5は殺人とは無関係とされた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。結局、放火については立件は見送られ、[[被疑者]]Mは残る被害者7人への[[尊属殺|尊属殺人罪]]および[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[住居侵入罪]]で{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}、事件翌日(12月13日午後)に[[青森地方検察庁]]弘前支部へ[[送致|送検]]された<ref name="読売新聞1953-12-14">『読売新聞』1953年12月14日東京朝刊第14版第一社会面7頁「【青森発】青森八人殺し三男送検 次男は釈放」(読売新聞東京本社)</ref><ref name="朝日新聞1953-12-15">『朝日新聞』1953年12月15日東京朝刊第12版第一社会面7頁「【弘前発】青森の一家殺し送検」(朝日新聞東京本社)</ref>。


== 事件背景 ==
=== 一家家庭事情 ===
一家の主であるX(Mの父親)は広大な農地{{Efn2|リンゴ農園1町3反(約1.3&nbsp;[[ヘクタール|ha]])を有していたほか、小作で0.7&nbsp;haの水田も耕作していた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。X一家の財産は時価数百万円(2015年時点では1億円以上に相当)の価値を有していた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。}}を有してい農家だった{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。MX夫婦下に8人兄弟(3男4女/兄2人・姉3人・妹1人)の三男(第7子)として生まれ{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}集落では中流程度の家庭で生育し、[[弘前市立小友小学校|新和村立小友小学校]]卒業してから家業(農業)を1年ほど手伝った{{Sfn|高刑|1958|p=171}}。その後、一時は他家に奉公に出たが、間もなく病を得て{{Efn2|石川清 (2015) によれば、Mは幼少期に病気で右目を[[失明]]している{{Sfn|石川清|2015|p=46}}。}}帰宅し{{Sfn|高刑|1958|p=171}}、自宅農業に従事する傍ら、桶職の見習いなどしていた{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}
Mの父親であり、被害者一家の主であった男性X(犯人Mの父親:当時57歳)は<ref name="陸奥新報1953-12-13"/>、1[[町 (単位)#面積の単位|]]3[[#土地の面積の単位|反]](約1.3&nbsp;[[ヘクタール|ha]])の広大なリンゴ農園を有し、小作で0.7&nbsp;haの水田も耕作していた{{Efn2|『東奥日報』 (1953) は、Xが所有していた農地を「2町歩」と報じている<ref name="東奥日報1953-12-13"/>。}}農家で{{Sfn|石川清|2015|p=45}}、1953年のリンゴの収穫は、早生リンゴから[[紅玉 (リンゴ)|紅玉]]、[[国光 (リンゴ)|国光]]などを併せて2,000箱余りだった<ref name="東奥日報1953-12-14"/>当時、X一家の財産は時価数百万円(2015年時点では1億円以上に相当)の価値を有していた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。、X顔役として、消防団長務めたこともあった<ref name="東奥日報1953-12-13">『[[東奥日報]]』1953年12月13日朝刊第2版3頁「新和村で八人殺 猟銃射ち火放つ 追出され三男の兇行」(東奥日報社)</ref>


しかし、Xは生来、[[けち|吝嗇]]怠惰{{Efn2|「吝嗇」(りんしょく)とはむやみに金品を惜しむこと、すなわち「ケチ」という意味<ref>{{Cite Kotobank|吝嗇|デジタル大辞泉|accessdate=2020-09-02}}</ref>。}}で酒癖が悪く、[[妾]]を蓄えて家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は風波が絶えなかった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。また、Xは自身の非を決して認めない頑固な性格で、「気に食わない」という理由で一方的に妻を追い出した{{Efn2|仙台高裁秋田支部 (1957) は、「Xの[[虐待]]耐え母親(X妻)は、1951年(昭和26年)11月ごろに単身実へ帰り、事実上夫婦別た」と述べている{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。また、Mの母親の代理人弁護士「こんな常軌を逸した酷い家庭の争いを見たことはない。Xは長男A1が生まれてから2, 3経ったころ、隣家の未亡人と関係していることを妻に見つかって以降、妻に対し[[ドメスティックバイオレンス|殴る蹴るなどの暴力]]を振るうなどしていた」と<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>、石川清 (2015) は「MはXから日常的に非間的な扱を受けながら生育し事件前年には母親(X妻)離縁反対したところ、それ理由に次男(次兄)とともに実家から無一文出され述べている{{Sfn|石川清|2015|p=45}}}}{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。家督を相続た長男A1も、財産全の独占を図り弟たち(次男三男M)ことあるごとに嫌忌して別居を迫っ{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。そのため、Mは事件前年の1952年7月ごろ家を出て{{Efn2|この時は裸同然の姿で、わずかに布団・鍋・米一斗をもら受けたのみだった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、集落の端にあ民家{{Efn2|雨もほとんど凌げない粗末な小屋{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=42-43}}一間間借りして別居するようになった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}結果、Xの妻子たちはA1を除き財産分与・生活保障をまもに受けられいまま実家を追い出されてい{{Efn2|当時の集落では新[[民法 (日本)|民法]]で「家族平等の原則が導入されて以降、家の財産はすべて長男が継ぐ習慣が残っていた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。Mや彼の次兄だけでなく、彼らの妹(A1の四女{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}/事件当時16歳<ref name="読売聞1953-12-14 青森"/>)もA1から虐待を受け、1953年秋ごろ以降は実母の実家に引き取られた{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。『読売新聞』 (1953) は「(A1を除く)7人子どもXを憎み、家を出た母に同情ていた」と報道している<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。
しかし、Xは生来、[[けち|吝嗇]]怠惰{{Efn2|「吝嗇」(りんしょく)とはむやみに金品を惜しむこと、すなわち「ケチ」という意味<ref>{{Cite Kotobank|吝嗇|デジタル大辞泉|accessdate=2020-09-02}}</ref>。}}で酒癖が悪く、[[妾]]を蓄えて家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は風波が絶えなかった{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。また、Xは自身の非を決して認めない頑固な性格で、「気に食わない」という理由で一方的に妻を追い出していた{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。Xの妻(Mの母親:1954年時点で57歳)は、第一審の公判で「Xとは自分が17歳ころ結婚し、子供を13人産んだ仲だったが、若い頃ら女遊びに夢中だっ」<ref name="東奥日報1954-03-05"/>「Xとは38年間一緒に暮らしていたが、兵隊から帰ってきてからは仕事をせず、娘が嫁ぐときにも1つも世話してくれなかった{{Efn2|Mは、事を手伝うため、1か月で20日間学校を休むこともあり、父はPTAや校友会費以外の学費(学用品代)は一切くず、母からもらい、衣類なども母から買ってもらっていた」と証言している<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>。}}。そのため、自分が手間取りなどをして生計を立て、娘の結婚資金も稼いでいた。また、Xは女癖や酒癖が悪く、自分が28歳の時に[[姦通|近所の未亡人と関係していた]]ところを見たのを見つけられ、『お前を焼き殺してやる』と脅されたり、酒に酔っては[[ドメスティックバイオレンス|火箸を持ったり、焼けた木を振り回して自分を叩いたりした]]こともあった{{Efn2|Mの母親の代理人弁護士「こんな常軌を逸した酷い家庭の争いを見たことはない。Xは長男A1が生まれてから23経ったころ、隣家の未亡人と関係していることを妻に見つかって以降、妻に対し殴る蹴るなどの暴力を振るうなどしていた」と<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}。あまりの恐ろしさに着の身着のまま長男A1や娘(Mの姉の1)を抱近所軒下敷いて朝までいたもあった1951年(昭和26年)の秋、Xが飲酒して暴れ火箸振り回してきたりしたため、我慢できずに家を出た」と証言している<ref name="陸奥新報1954-03-05">『陸奥新報』1954年3月5日朝刊4頁「新和八人殺し第二回公判 Xの非道證言」(陸奥新報社)</ref>一方彼女は「Xたちに対しては、殴るようなこは全然しかった」証言してい<ref name="陸奥報1954-03-05"/>仙台高裁秋田支部 (1957) はX[[虐待]]に耐えかね母親(Xの妻)は、1951年(昭和26年)11月ごろに単身実へ帰り、事上夫婦別れした」と認定している{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。


=== 事件前の動向 ===
Mは実家を追い出されて以降、桶屋を職として生活していたが{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、日々の食べ物にも困る暮らしを強いられた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。その間、母親がXを相手に[[離婚]]訴訟を提起{{Efn2|Mの母親は夫Xを相手取り、1952年2月に青森地裁五所川原支部へ離婚を請求し、慰謝料100万円の調停申し立てを行ったが、Xが調停委員の勧告を受けようとしなかったため、同年9月1日には同地裁支部に提訴<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。訴訟は1953年12月22日に結審する予定だった<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}したが、そのためにMたちとXの関係はさらに感情的な溝を深めていった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Mは祖母Yの好意に甘え、わずかに米・味噌などをもらい受けに実家を訪れていたが、それ以外の時にはめったに実家に出入りすることはなかった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。1953年10月ごろ、Mは別の家に間借りを頼んだが、断られたため、その家の物置小屋の庇{{Efn2|実家から約150&nbsp;m離れた場所{{Sfn|村野薫|2002|p=48}}。}}を借り受け、藁を敷いて生活していたが、雨風の強い夜・吹雪が吹く夜はそれらを凌げず、寒さに震えながら一晩中寝ないで身の不幸を泣き明かすこともあった{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。しかし、そのような極貧生活に呻吟するMに対し、XやA夫婦は極めて冷淡で、恵むようなことは全くせず{{Efn2|Mは事件数日前、食うに困ってA1の許を訪ね、「食べ物を分けてくれ」と懇願したが、A1から「乞食みたいな格好でうちの敷居をまたぐな」と罵倒され、追い払われた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。}}、Mは彼らの仕打ちに強く憤っていた{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。そのため、Mは1950年(昭和25年)秋ごろ、A1から唆されたことで「[[シアン化カリウム|青酸カリ]]でXを毒殺しよう」と考えたほか、1953年秋ごろには村の駐在巡査に対し「親の家から物を持って来ても罪になるか」「[[正当防衛]]とは何か」と聞いていた{{Sfn|高刑|1958|p=186}}。また、A2(A1の妻)は1953年[[お盆|旧盆]]の15日ごろ、実家へ遊びに来た際に家人に対し「Mが家の人を全部焼き殺してしまうという話を聞いたので、小友の家へ帰るのが怖い」と話していたことなどから、計画的犯行も疑われたが、青森地裁弘前支部 (1956) は「犯行当夜、Mは一緒に酒を飲んだ者に対し『今晩、実家へ味噌を取りに行く』と話していた点や、現場の物置小屋にあった味噌樽から味噌が詰まった甕が発見された事実などから、本犯行が計画的なものだった(Mが事件当時、心神喪失でなかった)ことを認めるに足る証拠ではない」と認定している{{Sfn|高刑|1958|pp=186-187}}。
その間、Mの母親がXを相手に[[離婚]]訴訟を提起{{Efn2|Mの母親は夫Xを相手取り、1952年2月に青森地裁五所川原支部へ離婚を請求し、慰謝料100万円の調停申し立てを行ったが、Xが調停委員の勧告を受けようとしなかったため、同年9月1日には同地裁支部に提訴<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。訴訟は1953年12月22日に結審する予定だった<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}したが、そのためにMたちとXの関係はさらに感情的な溝を深めていった{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Xの長男(Mの長兄)で、Xから家督を相続したA1は{{Sfn|石川清|2015|p=44}}、両親の離婚訴訟の法廷で宣誓した際、平然と「Mと一緒にXを毒殺{{Efn2|name="青酸カリ"}}する用意をしたことがある」と証言するほどXを憎んでいたが<ref>『読売新聞』1953年12月15日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「解説 一家射殺事件の背後には からんだ財産問題 農家の二、三男にも深刻な影響」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>、その後はX側につくようになった<ref name="東奥日報1954-03-05"/>。母が家を出て以降、A1は財産全ての独占を図り、弟たち(次男や三男M)をことあるごとに嫌忌して別居を迫っていた{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。


のよ犯行背景から、事件当時はMだけでなく、Mの次兄(Xの次男){{Efn2|次兄は弟Mと同様に実家を追い出されたが、1952年秋ごろに父Xから「忙しいから家を手伝え」と呼び戻され、仕事が終わると無一文で再び追い出され<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。『読売新聞』 (1953) は、「次兄(次男)は事件発生の2日前に本家(実家)を訪ね、兄(長男)A1に『財産を俺にもよこせ』と言い、財産相続のことで大喧嘩をしており、日ごろからMとともに父X・兄A1を恨んでいた」と報道している<ref name="読売新聞1953-12-13">『読売新聞』1953年12月13日東京朝刊第14版第一社会面7頁「【弘前発】青森八人殺し 次兄も共犯? 財産争いの惨劇」(読売新聞東京本社)</ref>。}}・母親も共犯者として嫌疑を掛けれたが{{Sfn|石川清|2015|p=45}}、彼らはアリバイ{{Efn2|次男は事件当時、[[南津軽郡]][[大鰐町]]の旅館に宿泊していた<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}証明され解放されている{{Sfn|石川清|2015|p=46}}。ま、事件当時の集落は貧富の格差が激しく{{Efn2|小友集落は当時リンゴ栽培が盛んで{{Sfn|石川清|2015|p=48}}、人口約300人を有し{{Sfn|石川清|2015|p=49}}、青森県内でも屈指の豊かな農村だった{{Sfn|石川清|2015|p=49}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。しかし村8割極めて裕福だが2割放逐され次男・三男を含むは極度の貧困苛まれてい{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。}}家督を継げなかた次男・三男が最底辺に位置していたため、石川 (2015) は財産へ強い執着を生む風潮が集落で蔓延し家族内で財産めぐり日常的な争いが生じた。しかしその後無一文放逐された農家の次男・三男の受け皿として村の近くに[[弘前駐屯地|自衛隊基地]]が誘致され、次男・三男の貧困問題は解決されていった」と述べている{{Sfn|石川清|2015|pp=51-52}}
事件前年1952年7月ごろ{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、Mは父X・兄A1にって家を追い出され{{Sfn|石川清|2015|pp=42, 44}}、裸同然の姿(布団・鍋・米一斗をもらい受けたのみ)で実家を出た{{Sfn|高刑|1958|p=171}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。それ以降、Mは集落の端にある民家{{Efn2|雨もほとんど凌げい粗末な小屋{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=42-43}}一間を間借りして家族と別居し、桶屋を職として生活していたが{{Sfn|高刑|1958|pp=171-172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}、日々の食べ物にも困る暮らしを強いられていた{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。石川清 (2015) は「MはXから日常的に非人間的な扱いを受けながら生育し、事件前年に母親(Xの妻)の離縁に反対したところ、それを理由に次男(次兄)とともに、実家から無一文で追い出された」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。Mの母親は、Mたちが家を追い出された理由について、「Xが後妻を家に連れてくるために邪魔だと感じたからだと思う」と述べている<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>。Mだけでなく、Xの妻子たちは長男A1を除き、財産分与・生活保障をまともに受けられないまま実家を追い出されていた{{Efn2|『読売新聞』 (1953) は「(A1を除く)7人の子どもたちはXを憎み、家を出た実母に同情していた」と報道している<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}{{Sfn|石川清|2015|pp=44-45}}。Mの次兄(Xの次男:当時31歳<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>ないし32歳<ref name="陸奥新報1953-12-14"/>)は弟Mと同様に実家を追い出されたが、1952年秋ごろに父Xから「忙しいから家を手伝え」と呼び戻された<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。その後、仕事が終わると再び無一文で家を追い出され<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>、1953年春ごろには裏の家屋に引き移っている{{Sfn|高刑|1958|p=172}}。『読売新聞』 (1953) は、「次兄(次男)は事件発生の2日前に本家(実家)を訪ね、兄(長男)A1に『財産を俺にもよこせ』と言い、財産相続のことで大喧嘩をしており、日ごろからMとともに父X・兄A1を恨んでいた」と報ている<ref name="読売新聞1953-12-13">『読売新聞』1953年12月13日東京朝刊第14版第一社会面7頁「【弘前発】青森八人殺し 次兄も共犯? 財産争いの惨劇」(読売新聞東京本社)</ref>。また、彼の妹(A1の四女{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}:事件当時16歳<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>)もA1から虐待受け1953年秋ごろ以降は実母の実家に引き取られていた{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。Mは、長兄であA1について「兄弟ちで一番私辛く当嫁のA2も同様辛く当たっていた1952年(昭和27年)旧8月A1は私に『香典書け』と言われ2階書こうとしていたら突然訳もわからず殴る蹴るなどされ、Mに助けを求め、最終的に家を出た」と証言している<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>

Mは祖母Yの好意に甘え、わずかに米・味噌などをもらい受けに実家を訪れていたが、それ以外の時にはめったに実家に出入りすることはなかった{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。1953年10月ごろ、Mは別の家{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}(親戚宅<ref name="東奥日報1953-12-13"/>)に間借りを頼んだが、断られたため、その家の物置小屋の庇{{Efn2|実家から約150&nbsp;m離れた場所{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}{{Sfn|村野薫|2002|p=48}}。}}を借り受けて生活していた{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。しかし、この小屋は畳がなく、犬小屋のように汚い場所で<ref name="東奥日報1954-02-21">『東奥日報』1954年2月21日朝刊第2版3頁「八人殺し実地検証 「許して下さい」と合掌 M、肉親の霊前で」(東奥日報社)</ref>、藁を敷いて雨露を凌いでいたが、雨風の強い夜や、吹雪が吹く夜はそれらを凌ぐことはできず、Mは寒さに震えながら一晩中寝ないで身の不幸を泣き明かすこともあった{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。また、この小屋では炊事もできなかったため、Mは桶の修理の仕事に出掛けては、その礼として食事をさせてもらっていた<ref name="東奥日報1954-02-21"/>。

しかし、そのような極貧生活に呻吟するMに対し、XやA夫婦は極めて冷淡で、恵むようなことは全くせず{{Efn2|Mは事件数日前、食うに困ってA1の許を訪ね、「食べ物を分けてくれ」と懇願したが、A1から「乞食みたいな格好でうちの敷居をまたぐな」と罵倒され、追い払われた{{Sfn|石川清|2015|p=45}}。}}、Mは彼らの仕打ちに強く憤っていた{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。そのため、Mは1950年(昭和25年)秋ごろ、A1から唆されたことで「[[シアン化カリウム|青酸カリ]]でXを毒殺しよう」と考えたが{{Efn2|name="青酸カリ"|検察官は第一審初公判の冒頭陳述で、青酸カリ様のものでXを毒殺するようMを唆したのは次兄である旨を述べているが<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>、母親はA1が唆した旨を述べている<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>。仙台高裁秋田支部 (1958) は、A1が唆した旨を認定している{{Sfn|高刑|1958|p=186}}。}}{{Sfn|高刑|1958|p=186}}、母親にそのことを相談したところ、「そんなことをしても私も生きておれないし、お前も生きてはおれないから私に任せて我慢しなさい」と止められていた<ref name="陸奥新報1954-03-05"/>。また、1953年秋ごろには村の駐在巡査に対し「親の家から物を持って来ても罪になるか」「[[正当防衛]]とは何か」と聞いていた{{Sfn|高刑|1958|p=186}}。また、A1の妻A2は1953年[[お盆|旧盆]]の15日ごろ、実家へ遊びに来た際に家人に対し「Mが家の人を全部焼き殺してしまうという話を聞いたので、小友の家へ帰るのが怖い」と話していたこと、そしてMが仕事場に使っていた小屋の棚の上に置いてあった道具箱の中から散弾1個が発見されたことから、殺人に関しては計画的犯行も疑われた{{Sfn|高刑|1958|pp=186-187}}。しかし、青森地裁弘前支部 (1956) は事件当夜、Mが一緒に酒を飲んだ者に対し「今晩、実家へ味噌を取りに行く」と話していた点や、実際に現場の物置小屋にあった味噌樽から味噌の詰まった甕が発見された事実などから、「殺人が計画的なものだった(Mが事件当時、心神喪失でなかった)ことを認めるに足る証拠ではない」と認定している([[#無罪確定|後述]]){{Sfn|高刑|1958|p=187}}。

=== 事件前日 ===
Mは事件の前日(12月11日)8時30分ごろ、小友集落にある家屋へ餅臼の修繕の仕事に行き、11時ごろにその仕事を終えると、その礼金を密造酒に替え、仕事を依頼した住民とともに15時30分頃までに1升の酒を飲んだ{{Sfn|高刑|1958|p=172}}。その後、中津軽郡[[裾野村]]貝沢(現:弘前市[[鬼沢 (弘前市)|貝沢]]){{Efn2|『読売新聞』 (1953) は「裾野村鬼沢」(現:弘前市[[鬼沢 (弘前市)|鬼沢]])と報じている<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}の民家へ修理材料の竹を置きに行き、17時ごろに夕食を馳走になった{{Sfn|高刑|1958|p=172}}。その家を辞去した後、別の家にリンゴの代金2,000円を請求しにいったが、断られ、19時ごろに小友に帰った{{Sfn|高刑|1958|p=172}}。その後、朝仕事を依頼した住民の家で酒を飲んだり、[[パチンコ]]店でしばらく遊んだりした後、帰宅後にもさらに飲酒したが、24時(12月12日0時)ごろに家路につくまでに飲んだ酒の総量は約1升6合程度に達していた{{Sfn|高刑|1958|pp=172-173}}。最終的に、Mはいささか酩酊を意識する状態にあったが、いつもと変わることなく帰宅していた{{Sfn|高刑|1958|p=173}}。石川清 (2015) は「酒を7、8合ほど飲んで泥酔した」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=43}}が、Mは事件当時の酩酊度に関し、警察・検察による取り調べおよび公判で一貫して「当夜は飲酒したが、本心がなくなるほど酔ってはいなかった」と供述している{{Sfn|高刑|1958|p=175}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=2}}。

== 事件当日 ==
帰宅後、Mは自宅で寝場所を作っていた際、[[味噌]]甕に味噌がないことに気づいたため、実家から味噌を盗んでこようと思い立った{{Efn2|石川清 (2015) は、Mが[[肴|酒のつまみ]]として味噌を食べていた旨を述べている{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。}}{{Sfn|高刑|1958|p=173}}。Mは懐中電灯を照らしながら、ねぐらから約300&nbsp;m離れた実家まで雪道を歩き{{Sfn|高刑|1958|p=173}}、12月12日1時過ぎごろ、Xが所有する物置小屋{{Sfn|高刑|1958|p=181}}(実家に隣接){{Sfn|高刑|1958|p=171}}に侵入した{{Sfn|高刑|1958|p=181}}。そして、味噌樽に入っていた味噌を持参した甕に移し取ったが、Mはこのころまでは自分の行動を逐一鮮明に意識し、犯行後にも正確に記憶を思い出している{{Sfn|高刑|1958|p=173}}。しかし、物置小屋の中にあった[[中折式|中折]]単発式猟銃{{Efn2|name="猟銃"|凶器として用いられた猟銃は、中折単発式猟銃1挺{{Sfn|高刑|1958|p=187}}(口径16&nbsp;[[ミリメートル|mm]]のグリナー型[[散弾銃]]){{Sfn|石川清|2015|p=41}}。}}と実弾十数発を装備した弾帯が置いてあるのを見つけ、「万が一味噌を盗んだことをXやA1に知られれば、彼らに猟銃で撃ち殺されるかもしれない」と考え、機先を制して彼らやその家族を射殺することを決意した{{Sfn|高刑|1958|p=187}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。

1時過ぎごろ{{Sfn|高刑|1958|p=187}}、Mは弾帯を腰に帯び、猟銃を持って、物置小屋に隣接する実家(住宅)へ侵入した{{Sfn|高刑|1958|p=172}}{{Sfn|高刑|1958|p=187}}。そして、まず就寝していたXの頭部を、布団から約2、3尺離れた距離から狙撃し、Xを殺害した{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。次いで、一緒に寝ていたA3も射殺した<ref name="陸奥新報1953-12-14">『陸奥新報』1953年12月14日朝刊1頁「新和村一家惨殺事件 幼児ら死体から散弾 Mの単独犯行」(陸奥新報社)</ref>。A3の頭部からは、弾丸が20発以上(射殺された被害者7人で最多)摘出されている{{Sfn|石川清|2015|p=44}}。さらにMは次の間で銃を片っ端から撃ち、A1・A2夫婦と長女A4を相次いで射殺した{{Sfn|石川清|2015|p=43}}。Mは残る2人 (Y・Z) を射殺した際の状況は覚えていなかったが<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>{{Sfn|石川清|2015|p=44}}、それ以外の5人については「ただ漠然と射撃した記憶がある」と供述している{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。また、逮捕直後には「最初は(幼い子供たちは)殺す気はなかったが、兄 (A1) が憎いのでその子供たちにも憎しみが重なり、いっそ殺してしまえと思って射殺した」と供述している<ref name="東奥日報1953-12-13 2"/>。

A1・A2・A3・A4・Yの5人は、いずれも銃声を聞いて布団に潜り込んだが、Mによって布団の中に銃口を挿入され、頭部・肩付近を至近距離から撃ち抜かれていた{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。また、Yの遺体は射殺された被害者7人の中でも特に損傷が著しく、頭部・顔面が粉砕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。Z{{Efn2|name="Zの死因"}}は道路に面した南西隅の縁側へ逃げ込んだが、縁側の隅で腰部を撃たれて射殺されたと推測されている{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。XはZが射殺されたと思われる際の行動について、「道路に面した奥の方の部屋{{Sfn|高刑|1958|p=176}}(仏壇のある方の部屋){{Sfn|高刑|1958|p=183}}で、女の『あーっ』という叫び声が聞こえ、射撃したことを覚えている」と供述している{{Sfn|高刑|1958|p=176}}。Mは犯行後、頭部から血を流し、仰向けに倒れているXの前に、自分が猟銃を持って立っていることに気づき、そのころから次第に意識を回復した{{Sfn|高刑|1958|p=177}}。検察官の控訴趣意によれば、Mが猟銃を見て精神障害に陥り、Xの前で意識を回復するまでの時間は1分33秒 - 1分43秒(いかに多く見ても2分未満)と指摘されており、そこから犯行前後の時間を除けば、純粋に犯行に要した時間は72 - 80秒程度とされている{{Sfn|高刑|1958|p=178}}。

犯行後、Mは自分が父を撃ったことを知って非常に驚き{{Sfn|高刑|1958|p=177}}、凶器の猟銃を捨て、勝手口から家を出た<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。事件直後(1時30分ごろ)、現場(X宅)の前を通った男性は、現場付近で会ったMが「おやじを殺してきた」と叫んでおり、それを聞いて現場の様子を見に行ったが、その際には物音はなく、異常な点も見られなかったという旨を証言している<ref name="読売新聞1953-12-13 青森">『読売新聞』1953年12月13日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「新和村の殺人事件 血なまぐさい年の瀬 いつも争ってた一家 犯人は壁に遺書を書く」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。Mはすぐに自宅に戻ると、自宅で残っていた酒を煽り、メモ板に書き置きを残した{{Sfn|高刑|1958|p=177}}。その内容は、以下のものである。
{{Quotation|「〔M〕ノバカ、クルタ〔=狂った〕サク十二ジ二〇ブンニカエリウツイ〔家へ〕ミソノシム〔盗み〕ニイキマシタ。ツミアツタラタノム」|Mが残した書き置き|『読売新聞』 (1953) <ref name="読売新聞1953-12-13 青森"/>}}
そして、弾帯を締めたまま{{Efn2|name="弾帯"|Mは自首した当時、実包1つと薬莢2つを入れた弾帯を締めていた<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。}}、現場から約1&nbsp;km離れた同集落の親類男性・甲宅を訪れた<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>。Mは甲を起こし<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>、身を悶えて泣き叫びながら「鉄砲で父に殺されると思ったので、父を撃った」という旨を訴え{{Sfn|高刑|1958|p=177}}、[[自首]]に付き添うよう申し出た<ref name="読売新聞1953-12-14 青森">『読売新聞』1953年12月14日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「一家八人殺し 出火の点は疑問視 飲酒のうえ凶行」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。駐在所へ向かう途中、Mは別の近隣住民に対しても同じように犯行を打ち明けている{{Sfn|高刑|1958|p=177}}。

しかし、X宅はMが自首して巡査の取り調べを受けていたころに出火し、全焼した{{Efn2|出火時間について、『[[読売新聞]]』 (1953) は「Mを取り調べていた途中の2時30分ごろ」と報じている<ref name="読売新聞1953-12-12"/>。}}{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。この火事により、A1の次女であり、Mの姪でもある女児A5(当時3歳)が家の中で焼死した{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=95-96}}{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。一方、死亡した家族8人とは別に使用人の男性(当時23歳)もこの家に住んでいたが、彼は2階の窓から飛び降り、手足などに全治1か月の火傷を負いつつも一命を取り留めた<ref name="陸奥新報1953-12-13"/>。Mは、この使用人についても「殺すつもりでいたが見当たらなかった」と供述している<ref name="東奥日報1953-12-13 2"/>。

== 捜査 ==
Mは犯行後の12日2時10分ごろ、甲に付き添われて、事件現場から約5&nbsp;km離れた[[国家地方警察]](国警)[[弘前市警察|弘前地区警察署]]{{Efn2|name="弘前署"|新和村は事件当時、国家地方警察青森県本部弘前地区警察署(1951年〈昭和26年〉10月1日発足)の管轄だった{{Sfn|青森県警察史|1977|p=827}}。その後、1954年7月1日に新警察法が施行され、新たに[[青森県警察]]が発足{{Sfn|青森県警察史|1977|p=1174}}、これに伴って弘前市・中津軽郡などを管轄する弘前警察署が発足している{{Sfn|青森県警察史|1977|pp=1177-1178}}。}}新和巡査[[駐在所]]に自首した{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。Mは自首した当時、毛皮の胴着の下に弾帯([[弾丸|散弾]]5発入り){{Efn2|name="弾帯"}}を着装し、ポケットにも散弾3発を入れており、駐在所の巡査に対し「父親を猟銃で殺してきた。早く[[板柳町|板柳]]の医者を呼んで診てもらってくれ」と供述した{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。巡査からの報告を受け、弘前地区署の所長・捜査係長・刑事係長・捜査主任ら捜査員が急行し、Mを[[緊急逮捕]]するとともに、小友集落の村消防団長宅に捜査本部を設置し、現場観察を行った{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。その結果、焼け跡から8人の遺体と、凶器の猟銃が発見された{{Sfn|青森県警察史|1977|p=966}}。甲は出火後、まだ家が燃え盛っている現場で、Xの[[脳漿]]が3間(約10&nbsp;m)にわたって飛散した痕跡を目撃している{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。

弘前地区署および[[国家地方警察青森県本部|青森県警察]][[捜査本部|特捜本部]]は事件後、Mを殺人・[[放火罪|放火]]容疑で取り調べたが<ref name="読売新聞1953-12-13"/>、Mは[[司法警察員]]や検察官による取り調べに対し、父X・A1・A2夫婦、甥姪に猟銃を撃ったことは認めた一方、動機などについては「猟銃を見て、味噌を盗みに来たことが見つかれば殺されると思い、XやA1が恐ろしくなった」「約10発くらい発砲した。その後、2発くらい弾丸を込めるとすぐ、銃口を人の方に向けないで発砲した」「銃口から相当大きな火が出た」などと供述したものの、それらの供述内容については想像によるものか、記憶がないという趣旨の説明もしていた{{Sfn|高刑|1958|p=184}}。一方、放火については「覚えがない」と否認した{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}。また、13日から14日にかけ{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}、赤石英{{Sfn|高刑|1958|p=176}}([[弘前大学]]医学部教授)の執刀により、8人の遺体が[[司法解剖]]された結果、A5を除く7人の遺体の首から散弾が摘出され、射殺された人数は7人と断定された{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}。一方、唯一散弾が摘出されなかったA5については{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}、死因は焼死と判明{{Sfn|斎藤充功|2014|p=95}}。Mが7人を射殺した後で駆けつけた近隣住民たちから「A5が布団の中で目を覚まし、見回していた」という証言が寄せられたほか{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}、家が燃えている最中に現場を目撃した近隣住民から「炎の中から子供の泣き声がした」という証言もされていた{{Sfn|石川清|2015|p=42}}。

火災原因については、射殺後にMもしくは第三者が放火した可能性や{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}、こたつの掛け布団からの発火、猟銃発射時に生じた火炎からの着火が疑われた<ref>『読売新聞』1953年12月21日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺し 出火にコタツ説有力 悠然と調べうけるM」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。しかし、Mは沖中検事{{Efn2|name="沖中"|第一審の初公判から審理を担当していた沖中検事は、後に[[神戸地方検察庁|神戸地検]]尼崎支部長へ異動した<ref>『陸奥新報』1955年12月22日朝刊4頁「八人殺し きょう注目の公判 重點は法廷の解釋」(陸奥新報社)</ref>。}}の取り調べに対し、「犯行後、家を出る時は火は認められなかった」と供述している<ref name="陸奥新報1953-12-15">『陸奥新報』1953年12月15日朝刊2頁「Mを送検」(陸奥新報社)</ref>。Mを取り調べた巡査が、自首に付き添った甲に対し「人手がないので現場を確認してくれ」と頼み、それを受けた甲が別の親類(元[[警視庁]]巡査)に現場を見てもらったところ、当時の現場は猟銃の硝煙がもやもやしていただけで火は点いておらず、それから約20 - 30分後(巡査がMを取り調べていたころ)に家が燃えていたことや、M自身も放火の事実については一切語らなかったことから、「Mが犯行直後に放火した」という仮説には懐疑的な見方もされていた<ref name="東奥日報1953-12-13 2">『東奥日報』1953年12月13日朝刊第2版3頁「八人殺しに新事実? 放火をMは語らず 火は取調中に燃上つた」「射つた彈数は不明」「一人一人の頭を射つ M自供」(東奥日報社)</ref>。放火を裏付ける証拠は得られず{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}、M自身は警察の取り調べに対し、「発砲した際に銃口から火が出た」と供述した{{Sfn|高刑|1958|pp=174-175}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=2}}ものの、こたつ火元説、猟銃の火花説もそれぞれ決め手を欠いたため<ref>『陸奥新報』1953年12月24日朝刊B版2頁「一家八人慘殺事件 放火はあくまで否認 出火原因は依然不明」(陸奥新報社)</ref>、出火原因は解明されなかった<ref name="読売新聞1953-12-24">『読売新聞』1953年12月24日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺し事件 捜査本部解散 犯人近く起訴」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。ただし、第一審の公判中には出火前に事件直後の現場を目撃した男性から、「2階付近から煙が出ていたようだ」という旨の証言が寄せられており<ref name="東奥日報1954-02-21"/>、仙台高裁秋田支部 (1958) は[[判決理由]]で「Mが就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に引火したことで火災が発生し、実家が全焼したものと思われる」と指摘している{{Sfn|高刑|1958|p=176}}{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=3}}。

結局、放火については立件は見送られ、[[被疑者]]Mは残る被害者7人への[[尊属殺|尊属殺人罪]]および[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[住居侵入罪]]で{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}、事件翌日(12月13日20時30分)<ref name="陸奥新報1953-12-15"/>、[[青森地方検察庁]]弘前支部へ[[送致|送検]]された<ref name="陸奥新報1953-12-15"/><ref name="東奥日報1953-12-15">『東奥日報』1953年12月15日朝刊第2版3頁「Mを送檢 尊属殺人罪で」(東奥日報社)</ref><ref>『読売新聞』1953年12月14日東京朝刊第14版第一社会面7頁「【青森発】青森八人殺し三男送検 次男は釈放」(読売新聞東京本社)</ref><ref>『朝日新聞』1953年12月15日東京朝刊第12版第一社会面7頁「【弘前発】青森の一家殺し送検」(朝日新聞東京本社)</ref>。この時点では司法解剖がすべて完了していなかったため、殺害人数は8人とされていたが、前述のようにA5については散弾が摘出されなかったため、起訴段階では殺害人数は7人に訂正されている{{Sfn|青森県警察史|1977|p=967}}。捜査本部はMの取り調べや、現場捜査を終えた12月22日に解散した<ref name="読売新聞1953-12-24"/>。

犯行の背景から、事件当時はMだけでなく、Mの次兄(Xの次男)や母親(Xの妻)も共犯者として嫌疑を掛けられたが{{Sfn|石川清|2015|p=45}}、彼らはアリバイ{{Efn2|次兄は事件当時、[[南津軽郡]][[大鰐町]]の旅館に宿泊しており<ref name="読売新聞1953-12-14 青森"/>、母親も西津軽郡[[柏村 (青森県)|柏村]]桑野木田(現:[[つがる市]]柏桑野木田)にいた<ref name="陸奥新報1953-12-14"/>。}}を証明され、解放されている{{Sfn|石川清|2015|p=46}}。


== 刑事裁判 ==
== 刑事裁判 ==
[[被告人]]M尊属殺人・殺人・住居侵入の各で[[起訴]]された{{Efn2|本事件の公判は新[[刑事訴訟法]][1949年(昭和24年)1月に旧刑事訴訟法から改正]下で進められた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}。[[公判]]では被告人Mの事件当時の精神状態([[責任能力]])が争点となり、裁判所の職権で4回の[[精神鑑定]]が実施された{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。
青森地検弘前支部は1953年12月29日、M尊属殺人・殺人・住居侵入罪で[[青森地方裁判所]]弘前支部に[[起訴]]た{{Efn2|本事件の公判は新[[刑事訴訟法]][1949年(昭和24年)1月に旧刑事訴訟法から改正]下で進められた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}。}}<ref name="陸奥新報1953-12-30"/>。[[公判]]では、[[被告人]]Mの事件当時の精神状態([[責任能力]])が争点となり、裁判所の職権で4回の[[精神鑑定]]が実施された{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。


[[審級|第一審]]の公判は、初公判および判決公判を含めて計11回開かれた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}が、Mは捜査段階での「『殺される』と思って侵入した」という供述を翻し、「銃を見て『殺される』と思い、夢中で銃を握ったが、気がついた時には父が足元に倒れており、初めて殺したと分かった。その間の出来事は覚えていない」と、殺意・殺害行為とも否認する旨を供述した<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。
=== 公判 ===
第一審の初公判は1954年(昭和29年)2月1日に[[青森地方裁判所]]弘前支部で開かれた<ref name="読売新聞1954-02-02">『読売新聞』1954年2月2日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「肉親八人殺し初公判 M・殺意を否認 法廷、傍聴人で鈴ナリ」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。罪状認否で、被告人Mは「父 (X) や兄 (A1) への恨みは持っていたが、初めから殺すつもりはなかった。猟銃を見て『父に殺される』と思い、先に殺してしまおうと決意して侵入した」と述べ、殺意を一部否認<ref name="読売新聞1954-02-02"/>。また、Mの[[弁護人]]も「父と兄への尊属殺人は認めるが、他5人(1人は死因不明)に対する殺意はない。彼らがMの銃弾により死亡していた場合でも、[[過失致死傷罪|過失致死罪]]が成立する」と主張した<ref name="読売新聞1954-02-02"/>。


=== 初公判 ===
この初公判および判決公判を含め、第一審の公判は計11回にわたり開かれた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}が、Mは捜査段階での「『殺される』と思って侵入した」という供述を翻し、「銃を見て『殺される』と思い、夢中で銃を握ったが、気がついた時には父が足元に倒れており、初めて殺したと分かった。その間の出来事は覚えていない」と、殺意・殺害行為とも否認する旨を供述した<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。
第一審の初公判は1954年(昭和29年)2月1日10時30分より、青森地裁弘前支部で開かれた<ref name="東奥日報1954-02-02"/><ref name="陸奥新報1954-02-02"/>。[[裁判長]]は猪瀬一郎{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}、陪席裁判官は平川・野口の両名がそれぞれ担当した<ref name="東奥日報1954-02-02"/><ref name="陸奥新報1954-02-02"/>。同日の公判に立ち会った検察官(検事)は沖中{{Efn2|name="沖中"}}、[[弁護人]]は丸岡<ref name="東奥日報1954-02-02"/><ref name="陸奥新報1954-02-02"/>(丸岡奥松{{Sfn|高刑|1958|p=169}})で、傍聴人は約300人に上った<ref name="陸奥新報1954-02-02">『陸奥新報』1954年2月2日朝刊2頁「新和村八人殺し初公判 殺す氣はなかつた M被告、罪状一部否認」「證據物件35点受理 沖中検事 被告に同情的陳述」「公訴事實」(陸奥新報社)</ref>。特に、事件の舞台となった小友からは一番のバスで約100人が傍聴に訪れた<ref name="東奥日報1954-02-02"/>。


[[罪状認否]]で、被告人Mは「父 (X) や兄 (A1) への恨みは持っていたが、初めから殺すつもりはなかった。猟銃を見て『父に殺される』と思い、先に殺してしまおうと決意して侵入した」と述べた<ref name="読売新聞1954-02-02">『読売新聞』1954年2月2日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「肉親八人殺し初公判 M・殺意を否認 法廷、傍聴人で鈴ナリ」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。また、祖母Yや子供たちに対する殺意はなく、彼らを殺したということも知らないと主張し、「Xに猟銃を撃ったことは覚えているが、その他は何発撃ったかなどは覚えていない。しかし、後で弾帯に弾丸が残っていなかったので、10発くらいは撃ったらしい」という旨を述べた<ref name="東奥日報1954-02-02"/>。
青森地裁弘前支部は1955年(昭和30年)6月<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>、安斎精一{{Sfn|高刑|1958|p=182}}(弘前大学医学部精神科の医師{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}})に[[精神鑑定]]を依頼<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。安斎は「Mは犯行当時、[[責任能力#心神喪失と心神耗弱|心神喪失]]状態だった」と診断{{Efn2|安斎の鑑定書は「Mの犯行当時における精神状態は、異常環境にあったところの[[知的障害|精神薄弱症]]を合併した[[精神病質]]者に、酩酊時に発した突発的感動性朦朧状態があった」とする旨を述べている{{Sfn|高刑|1958|p=182}}。}}したが、これに異を唱えた検察側は再度の精神鑑定を申請した{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。その精神鑑定は林暲{{Sfn|高刑|1958|p=182}}([[東京都立松沢病院]]の院長<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>)が担当し、同年8月から実施された<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。しかし、1956年(昭和31年)2月に提出された林鑑定書は<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>「Mは強度の心神喪失、または心神耗弱」とする鑑定結果を示していた{{Efn2|林は鑑定書で「Mはある程度、癇癪性の遺伝的素質を潜在的に有していた。またアルコールへの反応が異常となる素質を有しており、それに加えて犯行前から家庭的環境に起因する不快・憤懣の感情的緊張があった。さらに被告人の住居に絡んでそれが高まっていたため、犯行当夜は甚だしく多量に飲酒したため、実家の味噌小屋に入るころから病的なある程度の意識障害を発していたが、その状態で鉄砲を発見したことが契機となり、被害妄想的思考(およびそれによる恐怖的感情の興奮)により、さらに意識障害の程度も深くなり、理性的の判断抑制を失った。これにより、平素の鬱積した激情の爆発した憤怒的状態に陥り、原始的・動物的の凶暴な攻撃的行動に陥ったものと判断される可能性が非常に大きく、そのような異常な意識障害を発したものとすれば、その意識障害の状態は単なる心因性の意識障害とは違い、純然たる癇癪性朦朧状態とほとんど同様の状態にあったと判断される。そのような状態においては、事態の正しい認識判断や、それに従って行動することは全く不可能か、少なくとも非常に困難である。」と述べている{{Sfn|高刑|1958|p=182}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。


弁護人の丸岡も冒頭陳述で、父Xへの尊属殺人・兄A1への殺人は認めたが<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>、他5人に対する殺意はなく、彼らがMの銃弾により死亡していた場合でも、[[過失致死傷罪|過失致死罪]]が成立するという旨を主張した<ref name="読売新聞1954-02-02"/>。検事の沖中は冒頭陳述で、Mの母親がXとの間で離婚訴訟を起こしていたことや、MがXやA1から冷酷な仕打ちを受け、彼らを恨んでいたこと、兄から青酸カリ様のものでXを毒殺するよう勧められたが、母の制止で思いとどまったこと{{Efn2|name="青酸カリ"}}、出火は放火とは認められず発砲によるものと思われること、Mが犯行後に自首したことなど、Mに有利と見られる陳述も行った<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>。沖中は証人申請後、追加陳述で「本事件は殺人(の事実)は既に決定しているのであって、問題は[[量刑]]だけだ。被告人の置かれていた環境などを十二分に調査するよう希望する」と述べ、Mに同情的な見解を示した<ref name="陸奥新報1954-02-02"/>。
1956年3月15日に[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、青森地検弘前支部の検察官は被告人Mに[[懲役#無期懲役|無期懲役]]を求刑した<ref name="読売新聞1956-03-16">『読売新聞』1956年3月16日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺しのM公判 無期懲役を求刑」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。検察官は論告で、「焼死したと思われるA5(A1の次女)と、死因が不明な伯母Z{{Efn2|仙台高裁秋田支部 (1958) は、Zについても「Mに射殺された」と認定している{{Sfn|高刑|1958|p=176}}。}}の2人はMの直接犯行とはいえないが、結果的には8人全員がMに殺されたと言える。犯行当時、Mは多少精神障害を起こしていたが、犯行はあくまで完全な自己意識の下に行われた。本事件以来、小友地区では3件の肉親殺しが相次ぎ([[#事件後]])、さらに今後2件の発生が予想されるという噂もあり、社会的影響は大きい。幼児や逃げようとする伯母・祖母まで追い撃ちした犯行は残忍極まりなく、情状酌量の余地はない」として、「人道上、許しがたい凶悪犯罪を犯したMには[[日本における死刑|死刑]]を適用すべきである」と指摘<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。その上で、林鑑定の「Mは[[てんかん]]性朦朧状態で、事犯の正しい認識は不可能だった」とする鑑定書{{Efn2|検察官は論告で「精神鑑定は、犯行から相当時日を経てMが『生き延びたい』と考えるようになってから行われたものだ。また、Mは犯行の一部を認識してもいるため、心神喪失とは断定できない」と主張していたが、青森地裁弘前支部 (1956) はこの主張を「Mの供述にはほとんど偽りはない」として退けた<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。}}を採用して心神耗弱を適用し、罪一等を減じて無期懲役を求刑した<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。一方、弁護人は同日の最終弁論で、「安斎鑑定・林鑑定ともに『Mは心神喪失かそれに近い状態だった』との結論を出している以上、Mは刑事上の責任を免れるべきだ」と無罪を主張した<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。

同月20日、裁判官3人や沖中・丸岡の立ち会いのもと、事件現場で実地検証が行われたが、この時には沖中の計らいにより、Mの寝起きしていた劣悪な環境の小屋などの検証も行われた<ref name="東奥日報1954-02-21"/>。検証に引き続いて証人尋問も行われ、Mの母親や次兄(弁護人側の証人)、居候先の家主(検事側の証人)らが、MとXらの折り合い、家出の原因、事件現場の状況などについて証言した<ref name="陸奥新報1954-02-21">『陸奥新報』1954年2月21日朝刊4頁「新和村八人殺し実地檢証 現場は村民二千名の人出で大騷ぎ」「その日のM まつたく申譯ない 母の御馳走に舌づゝみ」「部落で減刑嘆願運動 既に八百名が同情署名」(陸奥新報社)</ref>。

=== 精神鑑定 ===
青森地裁弘前支部は1954年4月26日の第4回公判で、弁護人側からの申請を受け、安斎精一(弘前大学医学部精神科講師)にMの[[精神鑑定]]を委嘱することを決定<ref>『東奥日報』1954年4月27日朝刊第2版3頁「新和村八人殺し公判 Mの精神鑑定委嘱」(東奥日報社)</ref>。当時、公判は鑑定結果の提出(同年6月下旬ごろ)を待ち<ref name="東奥日報1954-06-04"/>、同年7月1日の第6回公判で[[論告]][[求刑]]を行い<ref name="東奥日報1954-07-02"/>、結審することが見込まれていた<ref name="東奥日報1954-06-04">『東奥日報』1954年6月4日朝刊第2版3頁「新和八人殺し公判 証拠調べ終る」(東奥日報社)</ref>。

しかし、同公判で明かされた安斎鑑定書{{Efn2|安斎の鑑定書は「Mの犯行当時における精神状態は、異常環境にあったところの[[知的障害|精神薄弱症]]を合併した[[精神病質]]者に、酩酊時に発した突発的感動性朦朧状態があった」とする旨を述べている{{Sfn|高刑|1958|p=182}}。}}は、「実父Xの凶暴・残虐性、長兄A1の低能(数字を数えることもできなかったなど)と学業成績から考え合わせると、Mは手のつけられない低能」と評した上で<ref name="陸奥新報1954-07-02"/>、「犯行時は飲酒して酔っていたため、味噌を盗みに入った時点で心神耗弱状態にあり、かつて自分を虐待したXやA1の姿が頭に浮かんだことで、『Xを殺さなければ自分が殺される』と思いついて犯行に至ったが、この時点では突発的な感情性朦朧状態にあり、[[責任能力#心神喪失と心神耗弱|心神喪失]]状態だった」とするものだった<ref name="東奥日報1954-07-02"/>。これに対し、沖中{{Efn2|name="沖中"}}は鑑定人の安斎が、鑑定にあたって通常の病人と犯罪人の心理を混同していることや、Mに対し「お前さんは気が変じゃないか」などと誘導尋問していること、判定を鑑定人の尋問だけに依存しており、警察の捜査記録・公判記録などが一切無視されている点を指摘<ref name="東奥日報1954-07-02">『東奥日報』1954年7月2日朝刊3頁「新和の八人殺し求刑延期 安斎鑑定は「心神喪失」 檢察側、再鑑定を申請」(東奥日報社)</ref>。また、「Mは学業成績は悪かったが、落第は一度もしておらず、[[高等小学校]]{{Efn2|name="A3"}}2年の時は可3、良10とだいぶ成績が向上している。また、A1も低能ではあるが、金銭の取引関係はしっかりしている。Xは『非道』とされているが、Mが[[麻疹]]{{Efn2|name="麻疹"}}で右目を失明した際、自分が片目のウサギを撃ち殺した祟りであるとの風評が立ったため、好きな猟をやめ、猟銃をA1に譲ったことがある」などとも指摘し、作成者の経験不足も理由に、「安斎鑑定書は信憑性を欠くため、[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東大]]精神科か[[東京都立松沢病院|松沢精神病院]]の権威ある医師に再鑑定をしてもらいたい」と申請した<ref name="陸奥新報1954-07-02">『陸奥新報』1954年7月2日朝刊2頁「M再度精神鑑定 検事、安斎鑑定に疑義 八人殺し結審に至らず」(陸奥新報社)</ref>。これに対し、丸岡は「安斎鑑定は非常に詳しく、別に不足の点はない」と主張したが、裁判官による[[合議審|合議]]の結果、沖中の再鑑定申請が採用された<ref name="東奥日報1954-07-02"/>。

同年8月5日{{Sfn|青森県警察史|1977|p=968}}、松沢病院の院長<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>・林暲{{Sfn|高刑|1958|p=182}}に再度の精神鑑定が依頼された{{Sfn|青森県警察史|1977|p=968}}。同月から林による精神鑑定が始まり、鑑定書は依頼から約1年4か月後の1955年(昭和30年)11月28日に提出されたが<ref>『陸奥新報』1955年11月29日朝刊4頁「Mの再鑑定書届く 「心神喪失」にふれず」(陸奥新報社)</ref>、安斎鑑定と違って心神喪失とは断定していないものの、強度の心神耗弱または心神喪失と判断した内容だった{{Sfn|青森県警察史|1977|p=968}}。林は鑑定書で「Mはある程度、[[てんかん|癲癇]]性の遺伝的素質を潜在的に有していたか、明らかに癲癇と認められる{{Efn2|name="従兄弟"|Mの父方の従兄弟に精神薄弱者がおり、従兄弟の子に癲癇患者がいる{{Sfn|加藤伸勝|1959|p=35}}。}}。また、アルコールへの反応が異常となる素質を有しており、それに加えて犯行前から家庭的環境に起因する不快・憤懣の感情的緊張があり、被告人の住居に絡んでそれが一層高まっていた」という背景を説明した上で、「犯行当夜、Mは多量に飲酒したことにより、実家の味噌小屋に入るころから病的なある程度の意識障害を生じていたが、その状態で鉄砲を発見したことが契機となり、被害妄想的思考および、それによる恐怖的感情の興奮により、突然意識に著しい障害を生じた」として、Mの犯行時の不完全な記憶は、その一過性の発作的精神障害による朦朧状態に陥った結果であると位置づけた{{Sfn|高刑|1958|p=182}}。そして、「Mはこのような意識障害のもとに理性的な判断抑制を喪失し、平素の鬱積した激情の爆発した憤怒的状態から、原始的動物的の凶暴な攻撃行動におよんだと判断される可能性が非常に大きい。このような異常な意識障害を起こしたものとすれば、その意識障害の状態は、単なる心因性の意識障害とは違い、純然たる癲癇性朦朧状態とほとんど同様の状態にあったと判断される。その状態では、事態の正しい認識判断や、それに従って行動することは全く不可能〔心神喪失状態〕であるか、少なくとも非常に困難〔心神耗弱状態〕である」と結論づけた{{Sfn|高刑|1958|p=182}}。

鑑定書が提出されたことを受け、公判は12月8日の第7回公判で<ref name="陸奥新報1955-12-09">『陸奥新報』1955年12月9日朝刊4頁「八人殺し公判 求刑に至らず閉廷 次回は22日に決定」(東奥日報社)</ref>、1年3か月ぶりに再開された<ref name="東奥日報1955-11-30">『東奥日報』1955年11月30日朝刊3頁「八人殺しM 八日に公判再開」(東奥日報社)</ref>。同日、林鑑定書に対する異論がなければ検事の論告求刑まで進むと見られていたが<ref name="東奥日報1955-11-30"/>、山本検事から「林鑑定書は非常に難解であり、安斎鑑定書と比較する余地もあるので、10日ほど後に公判を再開してほしい」との申立があり、弁護人も鑑定中に担当検事が交代していた{{Efn2|name="沖中"}}ことを理由に「(審理の続行に)異存はない」と意見表明したため、審理は続行されることとなった<ref name="陸奥新報1955-12-09"/>。続く第8回公判(12月22日)では、犯行直後から送検までMを取り調べた相馬長三郎(弘前署捜査係長)が証人として出廷し、当時のMの精神状態などについて証言したほか、山本が「Mは1954年1月、弘前拘置支所で次兄と接見した際、『[[日本における死刑|死刑]]を免れられれば良い』と発言しており、鑑定人はこの点を考慮したかどうか疑問だ」と指摘した<ref name="陸奥新報1955-12-23">『陸奥新報』1955年12月23日朝刊4頁「八人殺し公判 “死刑免れればよい” Mの談話を指摘」(陸奥新報社)</ref>。その上で、鑑定書の信憑性を問うため、林・安斎の両鑑定人を証人尋問するよう申請した<ref name="陸奥新報1955-12-23"/>。

そして、1956年(昭和31年)1月26日に開かれた第9回公判では、安斎が山本から被告人Mの血族関係に関する尋問を受け、「母方に生来性高度の精神薄弱者や、痙攣発作症状を起こす者がいる。また、父方の従兄弟に神経性疾患を有する人物もいるが、うち1人は高度の精神薄弱者であり{{Efn2|name="従兄弟"}}、もう1人は[[髄膜炎|脳膜炎]]{{Efn2|name="麻疹"}}で死亡している。父も精神病質者であるなど、Mは高度の精神障害を有する血統を有している」と証言した<ref name="陸奥新報1956-01-27">『陸奥新報』1956年1月27日朝刊4頁「八人殺し公判 安齊講師が證言 “知能年令がひくい”」(陸奥新報社)</ref>。また、Mの犯行時の精神状態については、「猟銃を見て『殺される』と恐怖して犯行におよんだが、気がついたら死んだXの前に立っていて、何人殺したかわからない」というMの陳述内容から、「部分的に刺激の強い場面を記憶しているところから、Mは複雑な関係から自己意識がなく、精神朦朧状態にあって犯行に至った」と説明し、自身が行った臨床的問答検査法により、Mの[[知能指数]] (IQ) は27(普通人は80点以上)で、知能年齢は9年6月であるという旨も証言した<ref name="陸奥新報1956-01-27"/>。

林は、3月1日に開かれた第10回公判{{Efn2|当初は2月23日に開廷予定だったが、証人として出廷する林の都合がつかなかったため延期された<ref>『陸奥新報』1956年2月24日朝刊4頁「Mの公判を延期」(陸奥新報社)</ref>。}}で、「事件当時のMの精神状態は、心神喪失と断言することはできないが、ある程度それに近い状態だった。Mが朦朧状態に陥った原因は、癲癇性による病的なものが主因で、それに加えて平素の不快、飲酒などが蓄積してさらに強度なものになったと思われる。鑑定時には様々な質問をしたが、Mの性質は割合単純で、『死刑を免れたい一念』からくる作為的な供述は本当の意味では少ない」という見解を示している<ref>『陸奥新報』1956年3月2日朝刊3頁「八人殺し公判 心神喪失に近い狀態 林證人、微妙な證言」(陸奥新報社)</ref>。

=== 無期懲役の求刑 ===
1956年3月15日、猪瀬裁判長(陪席裁判官は野口・駿河の両名)、山本検事・丸岡弁護人の立会で、論告求刑公判が開かれた<ref name="陸奥新報1956-03-16"/><ref name="東奥日報1956-03-16"/>。担当検事の山本稜威雄(いつお)は{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}、被告人Mに[[懲役#無期懲役|無期懲役]]を求刑した<ref name="陸奥新報1956-03-16">『陸奥新報』1956年3月16日朝刊3頁「Mに無期を求刑 八人殺し事件 理由は心神こう弱」「酌量の余地なし 山本検事の論告要旨」(陸奥新報社)</ref><ref name="東奥日報1956-03-16">『東奥日報』1956年3月16日朝刊3頁「小友の一家八人殺しに求刑 Mに無期懲役 犯行時は心神こう弱の状態」(東奥日報社)</ref><ref name="読売新聞1956-03-16">『読売新聞』1956年3月16日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「八人殺しのM公判 無期懲役を求刑」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。

検察官は論告で、本事件の特色として以下の点を挙げた<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。
# 犯人Mは自首したが、原因不明の火災で現場が無惨に焼け出されてしまっている。
# Mは犯行時、ボーッとしていて前後を記憶していない。
# 事件の舞台となった小友集落では、本事件を皮切りに1956年2月までに肉親殺害事件(実弟殺し、実子殺し、実兄殺し:[[#集落で相次いだ家族間殺人|後述]])が相次いでおり<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>、さらに今後2件の発生も噂されている<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。そのような点などで、社会に重大な関心を与えた事件である<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。本事件の処理は治安維持・社会風紀上、重大なものと認められる<ref name="東奥日報1956-03-16"/>。
その上で、焼死したと思われるA5(A1の次女)と、死因が不明な伯母Z{{Efn2|name="Zの死因"|検察官の論告では「Zの死因は不明」とされているが<ref name="読売新聞1956-03-16"/>、検察官(山本)は「前後の事情から推して、犯人 (M) に発見され、逃げ切れずに射殺されたのに間違いない」という見解を示している<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。仙台高裁秋田支部 (1958) はZについても「Mに射殺された」と認定している{{Sfn|高刑|1958|p=176}}。}}の2人については「Mの直接犯行とはいえない」としながらも、「結果的には8人全員がMに殺されたと言える」と指摘<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。2度の精神鑑定結果についても、地裁に対し「双方とも精神医学上のものであって、法律上の判断ではない。精神医学者はいかに細かい精神障害でも発見し、誇張して判断することも有り得るから、その点に十分留意してほしい」と要望した上で<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>、「鑑定書は、犯行から相当時日を経てMが生き延びたいと考えるようになってから行われた鑑定である」<ref name="読売新聞1956-04-06 青森">『読売新聞』1956年4月6日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「“正気”の確証がない 八人殺しは無罪となったM」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>「Mは捜査段階で『計2回、10発くらい撃った』などと供述している一方、『その後は全然記憶がない』と言っているが、撃った回数などは記憶がなければ言えないはずだ。Mは祖母Y・伯母Zまで殺した責任があまりにも大きいので、自分の刑を軽くしたいという思いから、『頭がボーッとした』などと述べている」と指摘、「安斎鑑定の『心神喪失』という結論は推測に過ぎず、林鑑定でも心神喪失を認めることは困難であり、心神耗弱に該当すると認められる」と主張した<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。そして、犯行については「幼児や逃げようとする伯母・祖母まで追い撃ちした犯行は残忍極まりなく、情状酌量の余地はない」「人道上、許しがたい凶悪犯罪」と主張し<ref name="読売新聞1956-03-16"/>、量刑については死刑を選択した上で、心神耗弱を認めて罪一等を減じ、無期懲役が相当と結論づけた<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。

一方、弁護人は同日の最終弁論で、「安斎鑑定・林鑑定ともに『Mは心神喪失かそれに近い状態だった』との結論を出している以上、Mは刑事上の責任を免れるべきだ」と主張した<ref name="読売新聞1956-03-16"/>。「住居侵入は有罪かもしれないが、殺人を犯した当時は心神喪失状態である」として、無罪を主張した<ref name="陸奥新報1956-03-16"/>。


=== 殺人につき無罪判決 ===
=== 殺人につき無罪判決 ===
1956年4月5日13時より、青森地裁弘前支部で猪瀬裁判長係、山本検事・丸岡弁護人の立ち会いのもと、判決公判が開かれた<ref name="陸奥新報1956-04-06">『陸奥新報』1956年4月6日朝刊3頁「小友(弘前)の八人殺しに判決 無罪を云渡し 住居侵入で六ヵ月(執行猶豫)」「心神喪失を確認 判決理由要旨」「法廷にあふれる傍聴者 被告は顔を伏せて動かず」(陸奥新報社)</ref>。猪瀬裁判長は被告人Mに対し、住宅への住居侵入罪・尊属殺人罪・殺人罪は[[無罪]]{{Sfn|高刑|1958|p=181}}、物置小屋へ侵入した住居侵入罪は[[懲役]]6月([[執行猶予]]2年)とする[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>。
1956年4月5日に判決公判が開かれ、青森地裁弘前支部(猪瀬裁判長)は被告人Mに対し<ref name="朝日新聞1956-04-06">『朝日新聞』1956年4月6日東京朝刊第12版第一社会面9頁「【弘前発】肉親七人殺しに無罪 心神喪失を認められる」(朝日新聞東京本社)</ref>、尊属殺人・殺人は[[無罪]]、物置小屋へ侵入した住居侵入は[[懲役]]6月([[執行猶予]]2年)とする[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="読売新聞1956-04-06">『読売新聞』1956年4月6日東京朝刊第14版第一社会面7頁「【弘前発】肉親八人殺しに無罪」(読売新聞東京本社)</ref>。[[判決理由]]で、同地裁支部は「Mは先天的てんかんであるところ、事件前日には偶然大量に飲酒して<ref group="注" name="酩酊"/>盗みに入ったが、猟銃を発見して『見つかったら殺される』と[[被害妄想]]的思考を起こし、恐怖的感情の興奮により意識障害も深くなった。そのため理性的判断・抑制力を失って犯行におよんだ」として、殺害行為におよんだ時点では心神喪失状態にあった旨を[[事実認定|認定]]{{Efn2|同地裁支部 (1956) は「心神喪失であったことを確認することはできないが、(2回にわたる精神鑑定の結果から)その疑いは非常に強く、『心神喪失ではなかった』とする点を証明することができない。『[[疑わしきは罰せず|刑事訴訟法第336条]]による罪を言い渡すほかない」と指摘した<ref name="読売新聞1956-04-06 青森">『読売新聞』1956年4月6日東京朝刊第5版青森県版地方面8頁「“正気”の確証がない 八人殺しは無罪となったM」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>。}}{{Sfn|高刑|1958|pp=182-183}}。尊属殺人および殺人については無罪とした一方、それ以前の住居侵入行為については「心神喪失状態に陥る以前の犯行である」として有罪とした{{Efn2|弁護人は「Mは物置小屋に侵入した(住居侵入の)時点で心神喪失または心神耗弱の状態だった」と主張したが、青森地裁弘前支部 (1956) はその主張を退けた{{Sfn|高刑|1958|p=181}}。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。


[[判決理由]]で、同地裁支部は安斎・林の両鑑定人による鑑定結果を踏まえ、「Mは先天的てんかんであるところ、事件前日には偶然大量に飲酒して盗みに入ったが、猟銃を発見して『見つかったら殺される』と[[被害妄想]]的思考を起こし、恐怖的感情の興奮により意識障害も深くなった。そのため理性的判断・抑制力を失って犯行におよんだ」として、殺害行為におよんだ時点で心神喪失状態にあったということについては「犯行後相当の時を経てから過去の事実を判定したのであるから右鑑定の結果のとおりであると確認することはできないけれども心神喪失の状態にあった疑いが非常に強いと認めるのが相当であるという趣旨に帰着するようである。かように'''[[疑わしきは罰せず|心神喪失の事実の存否について非常に強い疑いがあるときは心神喪失の事実の不存在が証明されない限り右犯行当時心神喪失の状態にあったものと認める外ない。]]'''」と指摘した{{Sfn|高刑|1958|pp=182-183}}。
無罪判決を受け、Mは弘前拘置支所{{Efn2|弘前拘置支所(弘前市)は2021年時点で[[青森刑務所]]の下部組織である<ref>{{Cite book|和書|title=法務年鑑 令和元年|publisher=[[法務省]]大臣官房司法法制部|date=2020-11|url=http://www.moj.go.jp/content/001334399.pdf#page=301|format=PDF|accessdate=2021-02-04|page=281|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210204141005/http://www.moj.go.jp/content/001334399.pdf|archivedate=2021-02-04}}</ref>。}}から釈放されたが、その際に地元紙の記者から取材を受け「自分はもう満足だ」と答えていた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}。石川清 (2015) は「Mは事件前の境遇から、集落の人々の同情を集め、その同情が刑事裁判・取り調べでMにとって有利な証言を引き出す結果となった。判決もかなりの温情判決だった」と述べているが{{Sfn|石川清|2015|p=46}}、当時の『[[朝日新聞]]』は「本事件後、(後述のように)集落で肉親間の殺人事件が多発しており、この判決には大多数の傍聴者から『無罪は軽すぎる』との声も出ている」と報道している<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>。


その上で、心神喪失ではなかったと証明するに足る証拠の有無について検討し{{Sfn|高刑|1958|p=183}}、Mの捜査官に対する供述内容が極めて断片的であることについて言及し、「検察官が論告の際指摘したように右のうち記憶になければ到底述べられないと思料される供述部分があるけれども、'''心神喪失とは高度の精神機能の障碍によって是非善悪を弁別できないか又は弁別してもそれによって行動することができない状態をいい、全然意識のない状態のみを指すものではない'''」と指摘した上で、安西・林両鑑定人の鑑定書や、彼らの公判での供述などを検討し、「前記記憶に基く供述部分は病的異常な体験に基くものではないかとの疑いが強いものと認めるのが相当であるから被告人が犯行当時前示程度の意識があったからといって直ちに被告人の別紙記載の犯行時における心神喪失の疑いを覆し、被告人に当時是非弁別の能力がいくらかあったものと認めることは困難である。」という見解を示した{{Sfn|高刑|1958|pp=183-185}}。また、Mが犯行時の酩酊度については一貫して「本心がわからなくなるほど酔ってはいなかった」という旨を述べている{{Sfn|高刑|1958|p=185}}ことも併せ考え、以下のように指摘した。
青森地検弘前支部は判決を不服として、同月18日付で[[仙台高等裁判所秋田支部]]に[[控訴]]したが<ref>『[[東奥日報]]』1956年4月19日朝刊3頁(第22976号)「八人殺しのMを控訴」(東奥日報社)</ref>、控訴審の精神鑑定{{Efn2|控訴審では塩入円祐が精神鑑定を担当{{Sfn|高刑|1958|p=177}}。}}でもMの心神喪失が認められた{{Sfn|高刑|1958|pp=177-178}}{{Sfn|村野薫|2002|p=50}}。1958年(昭和33年)3月26日に控訴審判決公判が開かれ<ref name="読売新聞1958-03-27">『読売新聞』1958年3月27日東京朝刊第5版青森県版地方面10頁「一家殺しまた無罪 “心神喪失”で検事控訴棄却」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>、仙台高裁秋田支部(松村美佐男裁判長){{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958}}は「心神喪失状態だったか否かを争う場合、[[疑わしきは罰せず|たとえ疑わしい点があっても、それを積極的に否定する確証が必要である]]」と指摘し<ref name="読売新聞1958-03-27"/>、第一審判決を支持して検察官の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した{{Sfn|仙台高裁秋田支部|1958|p=1}}。検察は[[上告]]期限となる4月9日までに上告しなかったため、Mは同月10日付で無罪が[[確定判決|確定]]した<ref>『[[陸奥新報]]』1958年4月11日金曜日3頁(第3840号)「新和の七人殺し Mの無罪確定」(陸奥新報社)</ref>。
{{Quotation|以上の各事情は被告人が犯行時心神喪失の状態になかったことを証明するというよりもむしろ逆に被告人が別紙記載の犯行時安斎、林両鑑定人の各鑑定書記載のような素因の複合に基く一過性の心神喪失の状態に陥ったのではないかとの疑いを更に強めるものとさえいうことができるのではなかろうか。そしてこれと共に被告人の捜査官及び安斎、林両鑑定人の問診の際は勿論のこと、起訴前における捜査官の取り調べに対しても酔っていて全く何も分らなかった旨を強調したであろうし、強調するには絶好の状況にあったわけである。しかるに事実はこれに反し被告人はむしろ逆に本心のなくなる程は酔っていなかった旨を大体一貫して述べていることは前記のとおりである。


以上のとおりであるから前示のように'''被告人が記憶している部分があるからといって、これが心神喪失の状態の不存在を証明するに足ると認めることはできない'''のである。|青森地裁弘前支部|『[[判例集|高等裁判所刑事判例集]]』(高刑)第11巻4号{{Sfn|高刑|1958|pp=185-186}}}}
== 加害者のその後 ==
そして、Mが事件前から計画的に、XやA1を殺害する機会を窺っていた可能性を示唆する言動など([[#事件前の動向|前述]])についても検討した結果、それらの事情をもって「被告人が右犯行時心神喪失の状態になかったことを認めるに足るものとすることはできないし、他にこれを認めるに足る証拠はない。」と[[事実認定|認定]]した{{Sfn|高刑|1958|p=187}}。以上より、「被告人は〔殺人行為の〕犯行当時心神喪失の状態にあったものと認めるを相当とすることに帰するからして〔殺人行為の〕公訴事実については[[:b:刑事訴訟法第336条|刑事訴訟法第336条]]を適用して被告人に対し無罪の言い渡しをするほかはない。」と結論づけ{{Sfn|高刑|1958|p=187}}、[[:b:刑法第39条|刑法第39条]]の規定により{{Sfn|高刑|1958|p=170}}、(Xらが住んでいた住宅への)住居侵入・尊属殺人・殺人の各罪状は無罪とした{{Sfn|高刑|1958|p=181}}。一方、犯行前に物置小屋へ侵入した行為(住居侵入罪)については、弁護人の「心神喪失または心神耗弱状態だった」との主張を退けて有罪とし、懲役6月・執行猶予2年の刑を言い渡した{{Sfn|高刑|1958|p=181}}。
Mは釈放後、出迎えた次兄・妹{{Efn2|Mに無罪判決が言い渡された際、公判を傍聴していたMの次兄と妹は安堵の表情を見せていた<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。}}とともに帰郷して被害者の墓参りをし{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}、次兄とともにリンゴ栽培を始め、32歳で[[結婚]]した{{Sfn|斎藤充功|2014|p=99}}。その後、家業は順当に発展し、晩年は3人の孫に恵まれ、地区の自治会長・[[農業協同組合]]の顔役などを務めていた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=99}}。


無罪判決を受け、Mは2年4か月間にわたって拘置されていた弘前拘置支所{{Efn2|弘前拘置支所(弘前市)は2021年時点で[[青森刑務所]]の下部組織である<ref>{{Cite book|和書|title=法務年鑑 令和元年|publisher=[[法務省]]大臣官房司法法制部|date=2020-11|url=http://www.moj.go.jp/content/001334399.pdf#page=301|format=PDF|accessdate=2021-02-04|page=281|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210204141005/http://www.moj.go.jp/content/001334399.pdf|archivedate=2021-02-04}}</ref>。}}から釈放されたが<ref name="東奥日報1956-04-06">『東奥日報』1956年4月6日朝刊3頁「八人殺しのMに無罪 一瞬ざわめく法廷 判決「心神そう失と認む」「“墓前におわびしたい”兄妹につきそわれ釈放」「鑑定書に“絶対性”持たす 八人殺し事件の解說」(東奥日報社)</ref>、その際に地元紙の記者から取材を受け「自分はもう満足だ」<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}「家に帰ったら早速墓前にお詫びしたい」と話していた<ref name="東奥日報1956-04-06"/>。裁判長を務めた猪瀬は、退官後に『[[週刊新潮]]』の記者からの取材に対し、以下のように述べている{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}。
[[2001年]]([[平成]]13年)[[12月20日]]<ref name="朝日新聞2001-12-21"/><ref name="読売新聞2001-12-21"/>、M(当時72歳)は[[西津軽郡]][[鰺ヶ沢町]]北浮田町外馬屋の県道<ref name="読売新聞2001-12-21">『[[読売新聞]]』2001年12月21日東京朝刊青森地方版32頁「鯵ヶ沢で乗用車と軽トラックが正面衝突、2人死傷=青森」([[読売新聞東京本社]]・青森支局)</ref>([[青森県道31号弘前鯵ケ沢線]])で自動車を運転中に[[交通事故]]死した{{Efn2|斎藤充功 (2014) は事故状況について「2001年12月12日・14時ごろ発生。8トントラックの無理な追い越してMの運転する軽自動車が追突され、Mは車ごとリンゴ畑に転落して即死した」と述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。一方、『[[朝日新聞]]』『[[読売新聞]]』(いずれも2001年12月21日朝刊)は「2001年12月20日・6時55分ごろに発生。当時路面はシャーベット状態だった。対向車線を走っていた乗用車がスリップして道路左側のガードレールに衝突し、対向車線にはみ出して男性M(当時72歳)の運転する軽トラックと正面衝突。Mは死亡し、同乗していた女性(鰺ヶ沢町在住)も左手首を骨折する重傷を負った」と報道している<ref name="朝日新聞2001-12-21">『[[朝日新聞]]』2001年12月21日東京朝刊青森第一地方版31頁「スリップした車と正面衝突、男性死亡 鯵ケ沢町 /青森」(朝日新聞東京本社・青森総局)</ref><ref name="読売新聞2001-12-21"/>。なお、同事故で死亡した男性Mの姓名は事件当時の新聞に掲載された加害者Mの姓名<ref name="読売新聞1953-12-12"/><ref name="朝日新聞1953-12-12"/> と同一である。}}{{Sfn|斎藤充功|2014|p=96}}。
{{Quotation|「[[トラ]]を野に放つ結果にならんかといっても、[[刑法 (日本)|刑法]]の解釈を曲げることはできない。しかし、実際には、こういう場合の収容施設がない。困ることはあり得る。裁判所としても困る。裁判官は板ばさみですね。あの事件もそうだった。最初は、ちょっと見たところ、本人は異常ないし、責任能力の問題になるとは考えていなかった。ところが、親戚に精神異常のいることがわかってさ、鑑定ということになって、無罪にするよりほかないと思ったんです。もちろん、われわれとしても、出したらどうなるか、心配したどころじゃありません。合議もずいぶんもめたんですよ」|猪瀬一郎|『週刊新潮』 (1971) {{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}}}
猪瀬は同年9月、県紙である『[[東奥日報]]』紙上で行われた対談で、本事件の判決について以下のように述べている一方、遺体の司法解剖を担当した赤石英(弘前大学医学部教授)は「一般に(同判決は)『軽すぎる』という反応が多いようだ」という旨を述べている<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。
{{Quotation|「僕の判決言渡しが軽すぎるという話を聞く。だが、どうして刑が軽いというかぼく自身に判らないんだがね。」

「ぼくのこれまでの経験でモウロウはこんどの〔M〕が初めてだったので、この判断に大分日時を要した。大分あの判決では軽いという非難があったようだ。あんなに何発も、人を殺すために鉄砲をうっていて、それでモウロウという話は納得ができんというのだナ。」
|猪瀬一郎|『東奥日報』 (1956) <ref name="東奥日報1956-09-15">『東奥日報』1956年9月15日夕刊3頁「肉親犯罪は何故おこる?(下) 環境の反応も… 社会の健全性が必要」(東奥日報社)</ref>}}
弁護人の丸岡は判決を受け、「事件が大きいだけに有期刑以上を覚悟していた。無期懲役以上なら控訴するつもりだったが、無罪判決は(満足ではあるが)意外だった」と述べている<ref name="陸奥新報1956-04-06"/>。

=== 控訴審 ===
青森地検弘前支部は判決を不服として、同月18日付で[[仙台高等裁判所秋田支部]]に[[控訴]]した<ref name="陸奥新報1956-04-19">『陸奥新報』1956年4月19日朝刊3頁「Mを檢事控訴す 仙台高裁秋田支部に」(陸奥新報社)</ref><ref>『東奥日報』1956年4月19日朝刊3頁(第22976号)「八人殺しのMを控訴」(東奥日報社)</ref>。当時、本事件の担当検事だった山本は、本判決が常識から著しく逸脱したものとして控訴に踏み切ったことや、「仮に無罪でも、予防拘禁的にしばらく隔離しておくのが妥当だった。無罪判決は社会的影響に照らして妥当ではない」という旨を述べている{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}。ただし、控訴された分は無罪とされた殺人行為についてのみで、有罪とされた物置小屋への住居侵入については控訴されず、公判中に執行猶予期間(2年)が経過したため、刑は消滅した<ref name="陸奥新報1958-03-27"/>。控訴審の裁判長は、松村美佐男が担当した{{Sfn|高刑|1958|p=180}}。

1956年8月14日に控訴審初公判が開かれ、検察官は控訴趣意で<ref>『陸奥新報』1956年8月15日朝刊(第3241号)3頁「Mの控訴公判開く 現場検證を申請」(陸奥新報社)</ref>、「Mの事件当時の精神状態に関する認定および、その論拠となった精神鑑定結果は、Mの供述だけに頼っている感があり、不確実である。さらに精密な科学的立証を必要とする」と主張した<ref name="東奥日報1956-08-15"/>。また、現場検証を申請した上で、調書を作成した巡査部長や、遺体を見た男性2人、そして遺体を解剖した赤石教授の計4人を立会人および証人として申請した<ref name="東奥日報1956-08-15">『東奥日報』1956年8月15日朝刊3頁「【秋田にて楠見本社特派員発】八人殺し 控訴審第1回公判 四人の証人を採用」(東奥日報社)</ref>。弁護人の丸岡は「本事件は第一審に置いて十分現場検証など調べ尽くしており、その必要は認められない」と反対意見を述べたが、裁判官の合議によって検察官の申請は認められた<ref name="東奥日報1956-08-15"/>。同年10月6日、松村裁判長や松本判事、長井検事、丸岡弁護人や巡査部長、Mの次兄や母親の立会により、現場検証が行われた<ref>『陸奥新報』1956年10月7日朝刊3頁「Mの控訴審 犯行の足どり調査 七人殺し実地検證」(陸奥新報社)</ref><ref>『東奥日報』1956年10月7日朝刊3頁「八人殺し実地檢証 ハキハキ答えるM 燒跡に咲乱れる菊」(東奥日報社)</ref>。

1956年10月16日に開かれた第2回公判で、検察官は「Mは犯行時、心神喪失状態にあったかどうか疑わしい」と再度の精神鑑定を申請<ref name="東奥日報1956-10-17"/>。丸岡は「(原審の鑑定人)林は日本の精神医療の最高権威である」として、申請に異議を唱えたが、裁判官の合議により、検察官の申請が認められた<ref name="東奥日報1956-10-17">『東奥日報』1956年10月17日朝刊3頁「【秋田にて 越後本社 特派員発】八人殺し 再び精神鑑定 Mの第二回控訴審」(東奥日報社)</ref>。続く第3回公判(11月13日)で、検察官からの推薦を受け、鑑定人として塩入円祐([[慶應義塾大学]]助教授)が選任された<ref>『東奥日報』1956年11月14日朝刊3頁「【秋田発】八人殺し控訴審 鑑定人に塩入慶大助教授」(東奥日報社)</ref>。このように、1人の被告人に対し、一・二審で3度にわたる精神鑑定がなされたことは珍しいことであったが<ref>『東奥日報』1957年11月20日朝刊3頁「新和の七人殺し被吿 近く控訴審 注目される塩入鑑定書 心神喪失か耗弱か」(東奥日報社)</ref>、1957年(昭和32年)11月に提出された塩入鑑定書も、Mの心神喪失を認めた内容だった{{Sfn|青森県警察史|1958|p=969}}。

=== 無罪確定 ===
1958年(昭和33年)3月26日に控訴審判決公判が開かれ<ref name="陸奥新報1958-03-27"/><ref name="読売新聞1958-03-27">『読売新聞』1958年3月27日東京朝刊第5版青森県版地方面10頁「一家殺しまた無罪 “心神喪失”で検事控訴棄却」(読売新聞東京本社・青森支局弘前通信部)</ref>、仙台高裁秋田支部(松村美佐男裁判長)は原判決を支持し、検察官による控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="陸奥新報1958-03-27">『陸奥新報』1958年3月27日朝刊3頁「新和の七人殺し事件 Mに無罪の判決 交際秋田支部の控訴審 “心神喪失”を認む」「異常な反響を呼ぶ カギは“塩入鑑定書”」(陸奥新報社)</ref>。担当裁判官は裁判長の松村と、小田倉勝衛・三浦克己の両陪席裁判官だった{{Sfn|高刑|1958|p=180}}。

同高裁支部は、被告人Mの犯行時の行動に対する記憶が極めて断片的で、意識に著明な障害があることを推認せしめるに足ることを指摘した上で、「各供述は、被告人が犯した罪の重大さに驚き、極刑を免れんがために意識的に忘却を装ったのではないかとの疑念も抱かれるが、もし被告人にそのような意図があったとするならば、捜査官の取り調べに対し『酒に酔っていて何もわからなかった』ということを強調しただろう。しかし、被告人はむしろ取り調べで『犯行直前に飲酒したが、''本心がなくなるほど酔っていたわけではない''』と一貫して供述している。その点や、事件当夜、被告人が一緒に酒を飲んでいた人物に対し『今晩、父の家に味噌を取りに行く』と喋っており、実際に物置小屋の味噌樽の中から味噌甕が発見されている事実などから、計画的な犯行ではないことを十分に肯認しうる状況にあることが認められる」と指摘した{{Sfn|高刑|1958|pp=175-176}}。

その上で、MがY・Zの二人を除く他の被害者5人を射撃した際の状況について、具体的な方法を説明することなく、「ただ漠然と射撃した記憶がある」とだけ供述していることや、Zは縁側の隅に逃げ込んだところを射殺されたことを窺わせる状況証拠があり、Mの「道路に面した奥の方の部屋で、女の『あーっ』という叫び声を聞いて射撃した」という供述がその状況と合致していることを指摘し、「もし他の家人に対する射殺の方法を故意に秘匿しているなら、Zに対する射殺の記憶も当然忘却を装うはずだが、MはZを射殺した際の記憶についてはかなり真に迫った供述をしている。このことから、被告人の犯行当時の行動に対する追想は、決して作為的な健忘を装ったものではなく、記憶するところを偽りなく正直に供述していると認めるに十分である」と判示した{{Sfn|高刑|1958|pp=176-177}}。そして、Mの犯行後の行動や、原審でなされた2回の鑑定(安斎・林の両鑑定)および、控訴審でなされた塩入鑑定の結果を踏まえ、Mは犯行時、意識障害のために理性的な判断抑制を喪失しており、事態を正しく認識・判断し、それに従って行動することが全く不可能な状態にあったことを認定した{{Sfn|高刑|1958|pp=177-179}}。また、検察官が「被告人による原審各鑑定人(安斎・林)の鑑定の際における問答や、原審の公判での供述には、捜査官に対し供述していた犯行当時の記憶と(かなり重要な部分が)修正されている。これは犯行時、Mに自己意識が存在したことを証明するもので、精神障害の程度は心神喪失ではなく、心神耗弱にすぎない」と主張していた点については、「林の供述によれば、被告人の記憶が後日修正変更されたのは、もとから記憶が不確実だったためであって、故意になされたものではない」として退けた{{Sfn|高刑|1958|pp=179-180}}。

そして、原判決が「心神喪失の事実の存否について非常に強い疑いがあるときは心神喪失の事実の不存在が証明されない限り右犯行当時心神喪失の状態にあったものと認める外ない」と判示した上で、判決文の随所に疑問を止めるがような認定の方法を用いていたことについては、以下のように指摘した{{Sfn|高刑|1958|p=180}}。
{{Quotation|所論の指摘するとおりでその部分のみにこだわるならば些か論理の飛躍を冒し或は判旨明確を欠く憾なしとしないのであるが'''判文を全体として精読するならば原審は結局犯行当時被告人が心神喪失の状況にあつたことを認定している趣旨であることを優に肯認できる'''のであるからこの点の所論も採るをえない。|仙台高裁秋田支部|『高等裁判所刑事判例集』(高刑)第11巻4号{{Sfn|高刑|1958|p=180}}}}
原判決(第一審)と同じく心神喪失を認定した同判決であるが、[[安村和雄]] (1959) は、原判決が謙抑的な認定であった一方、控訴審判決は積極果敢に認定したと評している{{Sfn|安村和雄|1959|p=21}}。検察は[[上告]]期限となる4月9日までに上告しなかったため、Mは同月10日付で無罪が[[確定判決|確定]]した<ref name="陸奥新報1958-04-11">『陸奥新報』1958年4月11日金曜日3頁(第3840号)「新和の七人殺し Mの無罪確定」(陸奥新報社)</ref>{{Sfn|青森県警察史|1958|p=969}}。

== 犯人のその後 ==
事件後、Xの遺産は次男(Mの次兄)が相続した{{Sfn|週刊新潮|1971|p=145}}。Mが釈放された時点では、次兄夫婦とその子供3人、母・妹の7人が実家に住み、1丁6反歩の田畑を耕作していた<ref name="陸奥新報1956-04-19"/>。Mは第一審で無罪判決を受けて釈放された後、出迎えた次兄・妹{{Efn2|Mに無罪判決が言い渡された際、公判を傍聴していたMの次兄と妹は安堵の表情を見せていた<ref name="読売新聞1956-04-06 青森"/>。}}とともに帰郷して被害者の墓参りをし{{Sfn|斎藤充功|2014|p=98}}、小友の実家に落ち着いた<ref name="陸奥新報1956-04-19"/>。判決翌日(1956年4月6日)、Mは無罪釈放を嘆願した近親者や、集落の住民にお礼の挨拶回りをし、その後は[[北海道]]に住む親戚筋にも挨拶に行った後、家業手伝いをするようになった<ref name="陸奥新報1956-04-19"/>。釈放から約4か月後に開かれた控訴審初公判(1956年8月)の時点では、次兄とともに9反歩の畑でリンゴ栽培をしていることを語っている<ref name="東奥日報1956-08-15"/>。

その後、Mは母方の親戚から嫁を迎えて分家し{{Sfn|週刊新潮|1971|p=145}}、32歳で[[結婚]]{{Sfn|斎藤充功|2014|p=99}}。41歳になった1971年(昭和46年)時点で、3児の父親になっていた{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}。家業は順当に発展し、晩年のMは3人の孫に恵まれ、地区の自治会長・[[農業協同組合]]の顔役などを務めていた{{Sfn|斎藤充功|2014|p=99}}。一方、地元の駐在所員は『週刊新潮』の記者からの取材に対し、Mが1970年(昭和45年)に猟銃の許可を取ろうとしたものの、医師から診断書を出すことを断られたという旨を述べている{{Sfn|週刊新潮|1971|p=146}}。

[[2001年]]([[平成]]13年)[[12月20日]]、Mは[[西津軽郡]][[鰺ヶ沢町]]北浮田町外馬屋の[[青森県道31号弘前鯵ケ沢線|県道]]で、自動車を運転中に[[交通事故]]死した({{没年齢|1929|11|10|2001|12|20}})<ref>『東奥日報』2001年12月20日夕刊社会面3頁「正面衝突で男性死亡 鰺ケ沢」(東奥日報社)</ref>。[[斎藤充功]]はMの死後(事件発生から約60年後)、事件の取材のために小友地区を訪れ、Mの家族からは取材を拒否されたが、集落の住民(当時70歳代の女性)から、Mの生前の人物像(人望があり、釈放後にリンゴ栽培で成功したこと)や、彼が2001年12月に72歳で交通事故死したことなどを訊き出すことに成功している{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=94-96}}。


== 事件後 ==
== 事件後 ==
本事件について取材した[[斎藤充功]]は、自著 (2014) で「当時の精神鑑定はまだ信憑性・精度が低く、専門家の知識も今一つで、法律の世界で客観的証拠として採用されるには不透明感をぬぐえない。被告人Mが無罪となったのは弁護人の弁護活動より、当時の精神鑑定の未熟さの方が大きいかもしれない{{Efn2|実際、第一審判決後に弁護人は「事件が大きいだけに有期刑以上を覚悟していた。無罪判決は(満足ではあるが)意外だった」と述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=100-101}}。}}」と述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=100-101}}。その後、本事件は[[精神医学]]界でも「稀に見る特異な事件」として研究対象になり、日本精神病理・精神療法学会(現:[[日本精神病理学会]])のテキストにも実証例として掲載されている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=101}}。
本事件について取材した斎藤は、自著 (2014) で「当時の精神鑑定はまだ信憑性・精度が低く、専門家の知識も今一つで、法律の世界で客観的証拠として採用されるには不透明感をぬぐえない。被告人Mが無罪となったのは弁護人の弁護活動より、当時の精神鑑定の未熟さの方が大きいかもしれない」と述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|pp=100-101}}。その後、本事件は[[精神医学]]界でも「稀に見る特異な事件」として研究対象になり、日本精神病理・精神療法学会(現:[[日本精神病理学会]])のテキストにも実証例として掲載されている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=101}}。


=== 地元住民の反応 ===
なお事件後、本事件の舞台となった弘前市小友地区では肉親の殺人事件が3回にわたり発生した<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>。
事件の背景から、村民たちの間では犯人であるMに同情する声も多く、第一審の公判中にMの次兄や友人らが減刑嘆願運動を起こしたところ、開始から1週間で村民800人の署名が集まった<ref name="陸奥新報1954-02-21"/>。また、Mの母親や妹は公判で、それぞれ「事件はXが悪い」「Mは良い兄だった」などと証言している<ref name="東奥日報1954-03-05">『東奥日報』1954年3月5日朝刊第2版3頁「新和八人殺し事件第2回公判 “夫は冷酷だった” 母親証言」(東奥日報社)</ref>。
# 本事件
# 1954年(昭和29年)10月、農家の三男{{Efn2|被害者(三男)は地元で有名な不良で、[[メタンフェタミン|ヒロポン]]中毒で精神病院へ入院していたが、事件の約2週間前に病院を脱走して自宅に逃げていた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。また事件1か月前には父親に対し「[[東京]]へ行くから金を出せ」と迫り、暴力をふるって警察に逮捕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}が母親に小遣いをせびり、母親をかばおうとした次男{{Efn2|加害者の次男は被害者(三男)とは対照的に、地元では「働き者な孝行息子」として知られており、事件後には集落の人々から同情の声・次男にとって有利な証言が集まった{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}に追い払われた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。これに逆上した三男は[[匕首]]を持って家に戻り、次男を切りつけたが、逆に次男に取り押さえられ、首を絞められ死亡した{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。次男は同事件前にも不良の弟(三男)に制裁を加えようと、[[出刃包丁]]・草刈り[[鎌]]で三男を切りつけ軽傷を負わせていたため、殺人容疑で逮捕されたが{{Efn2|次男は事件後、警察の取り調べに対し「殺意はなかった」と供述していた{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}、後に正当防衛が認められ釈放された{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。
# 1955年(昭和30年)10月、集落の裕福なリンゴ農家の次男が父親に「[[北海道]]へ出稼ぎに行くから金を出せ」と迫り、断られると逆上して父親の首を絞めた{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。これに対し父親が咄嗟に鉄[[鍬]]を持って抵抗し、その鍬で次男の顎・首を何度も殴り、次男は失血死した{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。同事件は被害者(次男)の日ごろの素行の悪さから、本事件と同様に加害者(父親)への同情が集まり、情状酌量により懲役4年の判決が言い渡された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。
# 1956年(昭和31年)3月、農家の長男(無職){{Efn2|この被害者は過去に強盗・窃盗などを繰り返して[[前科]]5犯の経歴で、3か月前に強盗罪による服役から刑務所を出所したばかりだった{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。また家の金を使い込んで遊び、家財を売り払った金でヒロポンを常用していた{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。}}が遊ぶ金欲しさに自宅から種籾を盗み出したが、母親と弟{{Efn2|加害者の弟は被害者(長男)とは対照的に、集落では模範的な好青年として知られ、約1.2&nbsp;ha(リンゴ園+水田)を耕す一家の大黒柱を担っていた{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。}}に見つかって家を追い出された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。これに対し、長男は出刃包丁を持ち出して弟を刺し殺そうとしたが、咄嗟に薪割り(長さ30&nbsp;cm)を手にして抵抗した弟に頭を何度も殴られ、頭蓋骨を粉砕されて死亡した{{Sfn|石川清|2015|pp=49-50}}。同事件も集落から加害者への同情が集まり、[[正当防衛]]が考慮される結果となった{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。
それらの事件は(本事件を含め)いずれも農閑期に裕福な農家で発生したもので、「一家の不良を真面目な家族が殺害した」というものだったが{{Sfn|石川清|2015|p=50}}、その(集落で殺人が連続して発生した)事実はほとんど知られていない{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。その背景について、石川清は「事件の舞台となった小友集落が帰属していたS村(新和村)は、2件目の殺人と3件目の殺人の間にH市(弘前市)と合併した<ref group="注" name="合併"/>ため、地元の人間以外から見れば『S村で2件、H市で2件の事件が起きた』ように見えるようになった。同じ小さな集落で連続して4件も肉親殺人が起きたようには見えにくい」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=52}}。また、石川の取材に答えた地元の住民は「本事件と2回目の事件では、殺人を犯したにも拘らず加害者が情状酌量により軽い罪で済み、誰も加害者を非難しなかった。そこで『一家の鼻つまみ者など、いざという時は殺せる』という風潮が生まれ、親の言うことを聞かない不良家族に対し『殺されるぞ』という脅しの言葉が家庭内で日常的に口にされるようになった」と証言している{{Efn2|これを受け、石川は「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための一種の“[[私刑]]”(リンチ)という側面があったのかもしれない」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。


石川清 (2015) は、[[#小友の集落事情|家督を継げなかった次男・三男が最底辺に位置していた当時の集落事情]]を踏まえ、「財産への強い執着を生む風潮が集落で蔓延し、家族内で財産をめぐって日常的な争いが生じていた」と述べた上で{{Sfn|石川清|2015|p=51}}、無一文で放逐された農家の次男・三男の受け皿として、村の近くに[[弘前駐屯地|自衛隊基地]]が誘致されたことで、次男・三男の貧困問題は解決されていったという旨を述べている{{Sfn|石川清|2015|p=52}}。また、判決についてはMが事件前の境遇から集落の人々から同情を集め、それが裁判や取り調べで彼にとって有利な証言を引き出す結果となり、心神喪失が認定されたこともあって「“超”温情判決」が言い渡されたという旨を述べている{{Sfn|石川清|2015|p=46}}。一方、当時の『[[朝日新聞]]』は本事件後、集落で肉親間の殺人事件が多発していた事情から([[#集落で相次いだ家族間殺人|後述]])、第一審判決に対し、大多数の傍聴者から「無罪は軽すぎる」との声も出ているという旨を報じている<ref name="朝日新聞1956-04-06">『朝日新聞』1956年4月6日東京朝刊第12版第一社会面9頁「【弘前発】肉親七人殺しに無罪 心神喪失を認められる」(朝日新聞東京本社)</ref>。
また、石川は「[[杉沢村伝説]]」成立の背景<ref group="注" name="杉沢村"/>について、「(このように相次いで猟奇的な肉親殺人が同じ集落で相次いだことは)まさに『呪われた村』を想起させる。やがて事件の話題はタブーになり{{Efn2|小友集落は事件から60年近くが経過した2010年代時点でも、加害者M(および被害者一家)と同じ姓を名乗る一族が多い{{Sfn|斎藤充功|2014|p=101}}。}}、『呪われた村』の漠然とした記憶だけが[[都市伝説]](杉沢村伝説)の残渣として町や人々の記憶に残ったのだろう」と述べている{{Sfn|石川清|2015|pp=40-41}}。

『週刊新潮』 (1971) は、集落の住民たちが「口をそろえて、「あの事件は父親〔X〕が悪い」というのである。」として、「Mが帰ってきた時、誰も警戒しなかった。彼はおっちょこちょいな男だが、悪人ではない」「Mは父親から酷い仕打ちを受けていたから、彼のやったことを誰も悪く言わない」という証言を取り上げ、彼らは本事件の裁判を「[[大岡忠相|大岡裁き]]にも似た“人情裁判”だったと解釈しているようにも見受けられる。」と報じている{{Sfn|週刊新潮|1971|p=145}}。

=== 集落で相次いだ家族間殺人 ===
事件後、本事件の舞台となった弘前市小友地区では肉親の殺人事件が3回にわたり発生した<ref name="朝日新聞1956-04-06"/>。
# 1954年10月、農家の三男(当時25歳){{Efn2|同事件の被害者(三男)は地元で有名な不良で、[[メタンフェタミン|ヒロポン]]中毒で精神病院へ入院していたが、事件の約2週間前に病院を脱走して自宅に逃げていた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。また、事件1か月前には村議会議員を努めていた村の顔役である父親に対し「[[東京]]へ行くから金を出せ」と迫り、暴力をふるって警察に逮捕されていた{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}が母親(当時49歳)に小遣いをせびり、母親をかばおうとした次男(当時25歳){{Efn2|同事件の加害者である次男は、被害者(三男)とは対照的に、地元では「働き者な孝行息子」として知られており、事件後には集落の人々から次男にとって有利な証言が集まった{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。}}に追い払われた{{Sfn|石川清|2015|pp=46-47}}。これに逆上した三男は[[匕首]]を持って家に戻り、次男を切りつけたが、逆に次男に取り押さえられ、首を絞められ死亡した{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。次男は同事件前にも不良の弟(三男)に制裁を加えようと、[[出刃包丁]]・草刈り[[鎌]]で三男を切りつけ、軽傷を負わせていたため、殺人容疑で逮捕されたが、殺意を否定し、後に正当防衛が認められ釈放された{{Sfn|石川清|2015|p=47}}。
# 1955年10月、集落の裕福なリンゴ農家の次男(当時21歳)が、父親(当時48歳)に対し「北海道へ出稼ぎに行くから金を出せ」と迫り、断られると逆上して父親の首を絞めた{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。これに対し父親が咄嗟に鉄[[鍬]]を持って抵抗し、その鍬で次男の顎・首を何度も殴ったところ、次男は失血死した{{Sfn|石川清|2015|p=48}}。同事件は被害者(次男)の日ごろの素行の悪さから、本事件や1. と同様に加害者(父親)への同情が集まり、情状酌量により懲役4年の判決が言い渡された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。
# 1956年3月、農家の長男(当時29歳:無職){{Efn2|この被害者は過去に強盗・窃盗などを繰り返し、[[前科]]5犯の経歴で、3か月前に強盗罪による服役から刑務所を出所したばかりだった{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。また家の金を使い込んで遊び、家財を売り払った金でヒロポンを常用していた{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。}}が遊ぶ金欲しさに自宅から種籾を盗み出したが、母親(当時63歳)と弟(当時26歳){{Efn2|加害者の弟は被害者(長男)とは対照的に、集落では模範的な好青年として知られ、約1.2&nbsp;ha(リンゴ園+水田)を耕す一家の大黒柱を担っていた{{Sfn|石川清|2015|p=50}}。}}に見つかって家を追い出された{{Sfn|石川清|2015|p=49}}。これに対し、長男は出刃包丁を持ち出して弟を刺し殺そうとしたが、咄嗟に薪割り(長さ30&nbsp;cm)を手にして抵抗した弟に頭を何度も殴られ、頭蓋骨を粉砕されて死亡した{{Sfn|石川清|2015|pp=49-50}}。同事件も集落から加害者への同情が集まり{{Sfn|石川清|2015|p=50}}、結果的に加害者は傷害致死罪で在宅起訴された<ref>『東奥日報』1956年8月15日朝刊3頁「小友の兄殺しを起訴」(東奥日報社)</ref>。
それらの事件は(本事件を含め)、いずれも農閑期に裕福な農家で発生したもので、かつ被害者は一家の素行不良者、加害者は真面目な家族というものだったが{{Sfn|石川清|2015|p=50}}、その(集落で殺人が連続して発生した)事実はほとんど知られていない{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。その背景について、石川清 (2015) は「事件の舞台となった小友集落が帰属していたS村(新和村)は、2件目の殺人と3件目の殺人の間にH市(弘前市)と合併した{{Efn2|name="合併"}}ため、地元の人間以外から見れば『S村で2件、H市で2件の事件が起きた』ように見えるようになった。同じ小さな集落で連続して4件も肉親殺人が起きたようには見えにくい」という旨を述べている{{Sfn|石川清|2015|p=52}}。また、石川の取材に答えた地元の住民は「本事件と2回目の事件では、殺人を犯したにも拘らず、加害者が情状酌量により軽い罪で済み、誰も加害者を非難しなかった。そこで『一家の鼻つまみ者など、いざという時は殺せる』という風潮が生まれ、親の言うことを聞かない不良家族に対し『殺されるぞ』という脅しの言葉が家庭内で日常的に口にされるようになった」という旨を証言している{{Efn2|これを受け、石川は「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための一種の“[[私刑]]”(リンチ)という側面があったのかもしれない」と述べている{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。}}{{Sfn|石川清|2015|p=51}}。

青森県は1956年当時、尊属殺人が[[長野県]]・[[秋田県]]と並んで「三大県」と呼ばれるほど頻発していたが{{Efn2|赤石によれば、青森県における殺人事件の件数に対する尊属殺人の割合は、1953年が26%、1954年が29%、1955年が20%となっていた<ref name="東奥日報1956-09-14"/>。}}、『東奥日報』紙上で行われた座談会では、東北人の気質(自分の思ったことを発表できない)や、長年の間に蓄積された不満・肉親のもつれなどが、同県における家族間殺人多発の背景として指摘されている<ref name="東奥日報1956-09-14">『東奥日報』1956年9月14日夕刊3頁「肉親犯罪は何故おこる?(上) 薄弱者が半数 親の金の使い方にも難」(東奥日報社)</ref>。小友集落で相次いだ事件について、[[佐々木直亮]](弘前大学医学部衛生学教授)は4事件とも冬から春先にかけて発生している一方、(過去15年間続いていた)一般的統計では6月の犯罪発生率が低くなっている点を指摘し、農繁期や梅雨などの季節的変化が関連している可能性を指摘している<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。

また、古川忠次郎(弘前大学教育学部心理学教授)は新和村の人から「ここから見える岩木山は鋭角的で刺々しい感じだから、岩木山を崩して丸くしないことには事件が後を絶たない」という話を聞いたことがある旨を述べ{{Efn2|これに対し、赤石は「事件の多い長野県も[[日本アルプス]]に囲まれた環境だ」という旨を指摘している<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。}}、赤石英も自身の所有している諸国の風俗気質を記した古文書に、[[陸奥国]]の人の気質について「この国辺鄙、人の気息詰り片寄りて尖りなり」「子供を生みてもブツカえして父母これを殺すことあり」とあることを挙げており、それに対して『東奥日報』の記者は「遠い昔から伝わっているそのような気質が犯罪とつながりを持つ機会が多いとでもいうわけかな。」と指摘している<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。その上で、同種事件の対策として、佐々木は広い意味の生活改善、古川は家庭教育・社会教育の改善{{Efn2|具体的には財産争いなど、争いの要素を含んでいるものに対し、民生委員や近親者らが積極的に解決に当たることや、親子間にある考えの違いの解消(互いに理解し合うこと)<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。}}、和田は「因襲と迷信打倒」や学校教育・社会教育の推進をそれぞれ挙げている<ref name="東奥日報1956-09-15"/>。

=== 杉沢村伝説との関連 ===
青森県には、「(2007年時点から遡って)50年ほど前、精神に異常を来たした1人の青年が村人全員を惨殺し、廃村に追い込まれた『杉沢村』という村がある」という[[都市伝説]]([[杉沢村伝説]])があるが<ref name="並木伸一郎"/>、本事件および、事件の舞台となった小友地区は、それぞれ「杉沢村伝説」の由来とされている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=93}}{{Sfn|石川清|2015|p=40}}。

石川清 (2015) は、「杉沢村伝説」成立の背景について、先述のように同じ集落で猟奇的な肉親殺人が相次いで発生したことが「呪われた村」を想起させ、事件の話題がタブーになった{{Efn2|小友集落は事件から60年近くが経過した2010年代時点でも、犯人M(および被害者一家)と同じ「M」姓を名乗る一族が多い{{Sfn|斎藤充功|2014|p=101}}。}}こともあって、「呪われた村」の漠然とした記憶だけが都市伝説として語り継がれるようになったという旨を述べている{{Sfn|石川清|2015|pp=40-41}}。また、[[並木伸一郎]]は自著『最強の都市伝説』 (2007) で、「杉沢村伝説」の内容が本事件や、1938年(昭和13年)に[[岡山県]]で30人が殺害された[[津山事件]]と類似していることを挙げた上で、本事件はこの地方では稀に見る大量殺人事件であったことから、人々に津山事件を連想させ、やがてこの2つの事件が人々の意識の中で混同されたことで「青森県で起きた大量殺人事件=杉沢村伝説」の下地になったと考察している<ref name="並木伸一郎">{{Cite book|和書|title=最強の都市伝説|publisher=[[経済界 (出版社)|経済界]](発行人:佐藤有美)|date=2007-06-06|pages=38-41|author=[[並木伸一郎]]|editor=編集人:渡部周|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4766783988|NCID=BA82980185|chapter=第一章 奇妙な噂 > 杉沢村はどこにある|id={{国立国会図書館書誌ID|000008564927}}・{{全国書誌番号|21249163}}}}</ref>。

小友の集落を訪れて本事件の取材を試みた[[斎藤充功]] (2014) は、同集落の近隣に「杉」のつく集落が多かったことが、「杉沢村伝説」につながった旨を述べている{{Sfn|斎藤充功|2014|p=97}}。

== 関連文献 ==
* {{Cite book|和書|title=東奥年鑑 昭和29年版|publisher=[[東奥日報|東奥日報社]]|date=1954-09-01|page=165|ref={{SfnRef|東奥日報|1954}}|editor=下山富吉|NCID=BN09968291|chapter=社会――主なる殺人|quote=新和村の八人殺し事件|doi=10.11501/2982752|id={{NDLJP|2982752/105}}}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 裁判関連資料 ===
* {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和31年(う)第92号|裁判年月日=1958年(昭和33年)3月26日|裁判所=[[仙台高等裁判所秋田支部]]|裁判形式=判決|判例集=『[[判例集|高等裁判所刑事判例集]]』(高刑)第11巻4号169頁、『週刊法律新聞』第110号11頁、『[[判例タイムズ]]』第83号56頁、裁判所ウェブサイト掲載判例||url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail3?id=24835|事件名=尊属殺人、殺人、住居侵入被告事件|判示事項=鉄砲で父、兄夫婦等七名を順次射殺した殺人事件を犯行時だけ一過性の精神障碍の状態にあつたとして無罪とした事例|裁判要旨=一過性のの発作的精神障碍による朦朧状態に陥つた場合は、人間の意識は理性的な上層の精神的意識作用が特に障碍されているため、後日断片的な追想がなされえたとしても、それは人間の正常な意識と同日に論じえない全く別人格の病的意識の作用であつて、事態の正しい認識判断それに従つて行動することは全く不可能な心神の状況にあるものというべく、右は刑法にいわゆる心神喪失の状況にあるものと認定するのが相当である。|ref={{SfnRef|仙台高裁秋田支部|1958}}}} - {{Cite web|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/835/024835_hanrei.pdf|title=昭和31年(う)第92号 判決文|accessdate=2020-09-02|publisher=仙台高等裁判所秋田支部|date=1958-03-26|format=PDF|language=ja}}
* 控訴審判決 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和31年(う)第92号|裁判年月日=1958年(昭和33年)3月26日|裁判所=[[仙台高等裁判所秋田支部]]刑事部<!--「刑事部」の記述は『法律新聞』第110号11頁にあり。-->|裁判形式=[[判決 (日本法)|判決]]|判例集=『[[判例集|高等裁判所刑事判例集]]』(高刑)第11巻4号169頁、『週刊法律新聞』第110号11頁、『[[判例タイムズ]]』第83号56頁、『[[TKC]]ローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25504117(第一審判決:25407861)、『D1-Law.com』([[第一法規]]法情報総合データベース)判例ID:28234422、裁判所ウェブサイト掲載判例||url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail3?id=24835|事件名=尊属殺人、殺人、住居侵入被告事件|判示事項=鉄砲で父、兄夫婦等七名を順次射殺した殺人事件を犯行時だけ一過性の精神障碍の状態にあつたとして無罪とした事例|裁判要旨=一過性のの発作的精神障碍による朦朧状態に陥つた場合は、人間の意識は理性的な上層の精神的意識作用が特に障碍されているため、後日断片的な追想がなされえたとしても、それは人間の正常な意識と同日に論じえない全く別人格の病的意識の作用であつて、事態の正しい認識判断それに従つて行動することは全く不可能な心神の状況にあるものというべく、右は刑法にいわゆる心神喪失の状況にあるものと認定するのが相当である。|ref={{SfnRef|仙台高裁秋田支部|1958}}}} - {{Cite web|url=https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/835/024835_hanrei.pdf|title=昭和31年(う)第92号 判決文|accessdate=2020-09-02|publisher=仙台高等裁判所秋田支部|date=1958-03-26|format=PDF|language=ja}}
** {{Cite journal|和書|journal=高等裁判所刑事判例集|publisher=最高裁判所事務総局|author=最高裁判所事務総局判例調査会|year=1958|pages=169-187|title=|volume=11|issue=4|ref={{SfnRef|高刑|1958}}}} - 原文。169 - 180頁に控訴審判決が、180 - 187頁に原判決(1956年4月5日:[[青森地方裁判所]]弘前支部判決)が掲載されている。
** {{Cite journal|和書|journal=高等裁判所刑事判例集|publisher=最高裁判所事務総局|author=最高裁判所事務総局判例調査会|year=1958|pages=169-187|title=|volume=11|issue=4|ref={{SfnRef|高刑|1958}}}} - 原文。169 - 180頁に控訴審判決が、180 - 187頁に原判決(1956年4月5日:[[青森地方裁判所]]弘前支部判決)が掲載されている。
** [[裁判官]]:松村美佐男・小田倉勝衛・三浦克己
*** [[裁判官]]:松村美佐男・小田倉勝衛・三浦克己
** 判決内容検察官の控訴棄却(原判決:無罪を支持) / 心神喪失を認定
*** 判決[[主文]]本件控訴棄却する。
** 検察官:山本稜威雄(控訴趣意書を作成) / 柏木忠(控訴趣意を陳述)
*** [[検察官]]:山本稜威雄(控訴趣意書を作成)柏木忠(控訴趣意を陳述)・長井省吾(関与)<!--長井の名前は『法律新聞』第110号14頁にあり。-->
** 弁護人:丸岡奥松
*** [[弁護人]]:丸岡奥松
** 『週刊法律新聞』第110号(1958年9月12日発行)11-14頁 - [[最高裁判所図書館]]に蔵書。
* {{Cite book|和書|title=日本の大量殺人総覧|publisher=[[新潮社]]|date=2002-12-20|ref={{SfnRef|村野薫|2002}}|author=村野薫|editor=|edition=発行|series=ラッコブックス|isbn=978-4104552153|pages=48-50|chapter=第三部 八人殺し【青森・新和村の実父一家8人殺害事件】実家に味噌を盗みに入り一家を射殺、しかし「無罪」}}
** {{Cite journal|和書|journal=判例タイムズ|title=鉄砲で父、兄夫婦等7名を順次射殺した殺人事件を犯行時だけ一過性の精神障碍の状態にあったとして無罪とした事例|volume=9|date=1958-08-15|issue=8|pages=56-60|publisher=判例タイムズ社|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1958}}}} - 通巻:第83号(1958年8月15日号)。
* {{Cite book|和書|title=<small>ザ・歴史ノンフィクション</small> 戦後日本の大量猟奇殺人 <small>教科書には載せられない悪魔の事件簿 その”黒い霧”に隠されたタブーの正体</small>|publisher=[[ミリオン出版]](発行所)・[[大洋図書]](発売元)|date=2014-12-10|ref={{SfnRef|斎藤充功|2014}}|author=[[斎藤充功]]|editor=中園努(編集人)|edition=初版第1刷発行|series=X-BOOK ミリオンムック|isbn=978-4813071419|pages=92-101|chapter=【第二章】一族殺し 青森「8人放火殺人事件」1953 「リンゴ園8人殺し」の犯人が無罪放免の不思議|issue=41}}
** {{Cite journal|和書|journal=判例タイムズ|author=[[安村和雄]]|title=〔高裁判例研究〕…………(18)………高等裁判所判例研究会 〔刑事編〕[63]鉄砲で父、兄夫婦等7名を順次射殺した殺人事件を犯行時だけ一過性の精神障碍の状態にあったとして無罪とした事例|volume=15|date=1959-10-15|issue=10|pages=18-25|publisher=判例タイムズ社|ref={{SfnRef|安村和雄|1959}}}} - 通巻:第96号(1959年10月15日号)。控訴審判決に関する評釈。
* {{Cite book|和書|title=元報道記者が見た昭和事件史 <small>歴史から抹消された惨劇の記録</small>|publisher=[[洋泉社]]|date=2015-11-30|ref={{SfnRef|石川清|2015}}|author=石川清|edition=初版発行|isbn=978-4800307965|pages=39-53|chapter=連続“肉親”殺人 青森某所に存在した「呪われた村」}} - 同文中では人名・地名などはすべて仮名である。
* {{Cite journal|和書|journal=精神神経学雑誌|author=加藤伸勝|title=酩酊犯罪者の精神鑑定における飲酒試験と血中アルコール測定の意義|date=1959-01-25|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3358656/17|issue=1|pages=24-46|publisher=[[日本精神神経学会]]|DOI=10.11501/3358656|ref={{SfnRef|加藤伸勝|1959}}|id={{NDLJP|3358656/17}}}} - [[東京都立松沢病院]]に勤めていた筆者が、酩酊状態で事件を起こした被告人の精神鑑定に当たり、飲酒試験を行うと同時に血中アルコール濃度を測定し、事件当時の酔度を推定するための資料を得るべく、松沢病院に鑑定留置された酩酊犯罪者11人と、慢性アルコール中毒のため傷害事件を起こして措置入院となった患者1人(計12人)の飲酒試験を行い、その結果をまとめた論文。本事件の犯人Mは35 - 36頁に「症例10 M某、26歳、男、尊属殺人事件被告」として掲載されている。また、Mの精神鑑定を行った院長の林暲が指導・校閲を手掛けている。

=== その他 ===
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=スナップ 12 家族八人を射殺して無罪になった男の十五年|volume=16|date=1971-02-13|issue=6|pages=144-146|publisher=[[新潮社]]|DOI=10.11501/3377648|ref={{SfnRef|週刊新潮|1971}}|id={{NDLJP|3377648/74}}}} - 通巻:第778号(1971年2月13日特大号)。
* {{Cite book|和書|title=青森県警察史|publisher=[[青森県警察]]本部|date=1977-04-20|pages=966-969|ref={{SfnRef|青森県警察史|1977}}|editor=青森県警察史編纂委員会|NCID=BN06088371|chapter=第二編 戦後混乱期の警察 > 第四章 戦後混乱期の警察活動 > 第二節 主なる刑事事件 > 新和村の猟銃七人殺人事件|volume=下巻|doi=10.11501/9774196|id={{NDLJP|9774196/500}}・{{国立国会図書館書誌ID|000001582882}}・{{全国書誌番号|82090816}}}}
* {{Cite book|和書|title=日本の大量殺人総覧|publisher=[[新潮社]]|date=2002-12-20|ref={{SfnRef|村野薫|2002}}|author=村野薫|editor=|edition=発行|series=ラッコブックス|isbn=978-4104552153|NCID=BA61864222|pages=48-50|chapter=第三部 八人殺し【青森・新和村の実父一家8人殺害事件】実家に味噌を盗みに入り一家を射殺、しかし「無罪」|id={{国立国会図書館書誌ID|000004067875}}・{{全国書誌番号|20383046}}}}
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== 関連項目 ==
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2022年6月25日 (土) 10:40時点における版

青森県新和村一家7人殺害事件
地図
場所 日本の旗 日本青森県中津軽郡新和村小友[注 1][3][4](現:弘前市大字小友字宇田野496番地)[5]
座標
北緯40度42分33.04秒 東経140度24分8.8秒 / 北緯40.7091778度 東経140.402444度 / 40.7091778; 140.402444座標: 北緯40度42分33.04秒 東経140度24分8.8秒 / 北緯40.7091778度 東経140.402444度 / 40.7091778; 140.402444
標的 実家に住む父親X(リンゴ農家)[6]・長兄A1ら[7][8]
日付 1953年昭和28年)12月12日[9][8]
1時過ぎごろ[9][8] (UTC+9)
概要 実家へ味噌を盗みに入った男(三男)が、物置で猟銃[注 2]を見つけて「盗みに入ったことが知れれば父・兄に殺される」と考え、父や兄ら一家7人を猟銃で射殺した[7][8]。そして実家は全焼し、兄夫婦の娘1人が焼死した[10][11]
原因 火災の原因 - 未解明[12](就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に着火した可能性が指摘されている)[13][14]
攻撃手段 猟銃で一家7人を射殺[5]
攻撃側人数 1人
武器 猟銃[注 2][7][8]
死亡者 8人(7人は射殺+1人は焼死)[10] - 起訴状における被害者数は7人[15]
負傷者 1人(使用人の男性)[3]
被害者 男性X(犯人Mの父親:当時57歳)[16]
犯人 被害者Xの三男M・T(当時24歳:桶職人)[3][17]
容疑 尊属殺人罪殺人罪住居侵入罪[18]
動機
  • (間接的な動機)父親X・兄A1たちから冷淡な扱いを受けたこと[19][8]
  • (直接の動機)物置にあった猟銃を目撃して「父や兄に殺される」と思い込み[7][8]、異常な興奮・被害妄想的強迫観念の交錯した精神錯乱状態に陥ったこと[20][21][14]
対処 国家地方警察が逮捕・青森地検弘前支部が起訴[22]
刑事訴訟 物置小屋への住居侵入罪で懲役6月・執行猶予2年の判決心神喪失のため、殺人および尊属殺人は無罪[23]
影響
  • 本事件後、小友集落では農家の素行不良者が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した[24]
  • 本事件は都市伝説杉沢村伝説」のルーツになったとされる[2][25]
管轄
  • 国家地方警察青森県本部弘前地区警察署[注 3][26]
  • 青森地方検察庁弘前支部[27][28]
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    青森県新和村一家7人殺害事件(あおもりけんにいなむら いっかしちにんさつがいじけん)とは、1953年昭和28年)12月12日の深夜に青森県中津軽郡新和村[注 1]小友(現:弘前市大字小友字宇田野496番地)[5]で発生した大量殺人事件[6][3]

    リンゴ園農家の三男であるM(当時24歳)[3]が実家に侵入し、猟銃[注 2]で父親X(当時57歳)・長兄A1(当時35歳)ら一家7人を射殺した[16]。その後、現場となったMの実家は原因不明の火災によって全焼し、子供1人が焼死した[16]。計8人が死亡したことから、「8人殺し事件」と称される場合もある[26]。刑事裁判では、犯人Mは殺人行為におよんだ時点では心神喪失状態だったことが認定され[16]、殺人に関しては無罪確定した[29]

    概要

    犯人である三男Mは事件前、被害者である父親Xや長兄A1たちから家督を相続させてもらえないなど邪険な扱いを受け、実家を追われて貧しい暮らしを強いられていた[30]。1953年12月12日の深夜、Mは実家に隣接する物置小屋へ盗みに入ったが、その際に小屋の中にあった猟銃を見て「父たちに殺される」と錯乱、小屋に隣接していた住宅に侵入し、XやA1夫婦ら7人を射殺する犯行におよんだ[7]

    Mは物置小屋へ盗みに入った住居侵入罪と、被害者一家の住む実家(住宅)へ侵入した住居侵入罪、そして被害者7人に対する殺人罪尊属殺人罪起訴されたが、刑事裁判第一審青森地裁弘前支部)では、「被告人Mは殺人行為におよんだ際、刑事責任能力を問えない心神喪失状態だった」とする精神鑑定の結果が2件出た[16]。青森地裁弘前支部は1956年(昭和31年)4月、それらの鑑定結果を採用した上で、「Mは物置小屋への住居侵入行為の時点では責任能力を問えたが、住宅に侵入し、殺人におよんだ時点では心神喪失状態だった」と認定し、住宅への住居侵入および殺人・尊属殺人は無罪、物置小屋への住居侵入罪のみ有罪(懲役6月・執行猶予2年)とする判決を言い渡した[31]。検察官は殺人を無罪とした同判決を不服として仙台高裁秋田支部控訴したが、同高裁支部も1958年(昭和33年)3月、控訴を棄却する判決を言い渡した[32]。検察官が上告しなかったため、Mは同年4月に無罪が確定[29]。Mは第一審判決後に釈放され[33]、地元で次兄とともにリンゴ栽培を営んでいたが、事件から48年後の2001年平成13年)12月に交通事故死した(72歳没)[34]

    本事件は地元紙『陸奥新報』により、「本県の犯罪史上最も凶悪な殺人事件」と報じられ[注 4][32]津軽に根強く残っていた封建性や次男・三男問題、戦後の道徳低下など、多くの社会問題を含んだものとして注目された[37]。小友集落では本事件後、1954年(昭和29年)から1956年(昭和31年)にかけ、農家の素行不良者が真面目な家族に殺害される殺人事件が相次いで発生した[24]。また、本事件(およびその舞台となった小友地区)は、杉沢村伝説(「青森県のある村で発狂した1人の男が村民を皆殺しにした」という都市伝説)の由来とされている[2][25]

    事件の経緯

    本事件の犯人である男M・T(当時24歳:桶職人、以下「M」と表記)は[38]、1929年(昭和4年)11月10日[39]、本事件の被害者である男性Xと、その妻の間に8人兄弟(3男4女:兄2人・姉3人・妹1人)の三男(第7子)として生まれた[7][8]

    本事件でMによって射殺された被害者は、Mの父親X(当時57歳)、Xの長男A1(同35歳)とその妻A2(同33歳)、A1・A2夫婦の長男A3(同7歳:Mの甥)[注 5]、長女A4(同5歳:Mの姪)[注 6]、Mの祖母Y(同80歳:Xの母親)、伯母Z(当時61歳:Xの姉)の計7人である[17]。Zは青森市在住で[17]、事件当夜、偶然X宅へ遊びに来ていた[41]。事件発生当時、Xは孫A3とともに茶の間[42](六畳間[43]:Mが犯行時、最初に侵入した部屋)で、A1は妻A2や娘2人 (A4・A5) とともに次の間[42](四畳半)で、Yは八畳間でそれぞれ就寝していた[43]

    小友の集落事情

    事件現場となった男性X宅は、現在の青森県弘前市大字小友字宇田野496番地(座標)に所在していた[5]。この家は、集落の密集地から数十 m離れたリンゴ農園の中にある住宅(約100 m2)であった[44]。小友は、岩木山の裾野の平地に位置する、リンゴ栽培が盛んな集落で[45]、事件当時は人口数百人、約300戸を有し[46]、青森県内でも屈指の豊かな農村であった[46][47]。しかし、集落内の貧富の格差も激しく、村の8割は極めて裕福だった一方、残る2割は極度の貧困に苛まれており、特に家督を継げなかった次男・三男は最底辺に位置していた[48]。当時の小友は、新民法で「家族平等の原則」が導入されて以降も、家の財産はすべて長男が継ぐ習慣が残っていたのである[11]

    Mは集落では中流程度の家庭で生育し、新和村立小友小学校[注 5]を卒業してから家業(農業)を1年ほど手伝った[7]。その後、一時は他家に奉公に出たが、間もなく病を得て[注 7]帰宅し[7]、自宅で農業に従事する傍ら、桶職の見習いなどをしていた[注 8][7][8]。Mについて、彼の次兄は「おとなしくよい若者」、母親は「真面目で親思いの感心な若者だと村の評判であった」[42]撃ちが上手だとXによく褒められていた」と、妹は「Mは優しい兄で、実家を出てからも2、3千円をくれて世話してくれていた。(兄弟の中で)一番好き」と証言している[50]。一方、Mは事件以前から、「自分は出来が悪いから父親に憎まれている」と感じていた[52]

    一家の家庭事情

    Mの父親であり、被害者一家の主であった男性X(犯人Mの父親:当時57歳)は[3]、13(約1.3 ha)の広大なリンゴ農園を有し、小作で0.7 haの水田も耕作していた[注 9]農家で[11]、1953年のリンゴの収穫は、早生リンゴから紅玉国光などを併せて2,000箱余りだった[40]。当時、X一家の財産は時価数百万円(2015年時点では1億円以上に相当)の価値を有していた[11]。また、Xは村の顔役として、消防団長を務めたこともあった[17]

    しかし、Xは生来、吝嗇怠惰[注 10]で酒癖が悪く、を蓄えて家庭を顧みないことが多かったため、家庭内は風波が絶えなかった[7][8]。また、Xは自身の非を決して認めない頑固な性格で、「気に食わない」という理由で一方的に妻を追い出していた[30]。Xの妻(Mの母親:1954年時点で57歳)は、第一審の公判で「Xとは自分が17歳のころに結婚し、子供を13人産んだ仲だったが、若い頃から女遊びに夢中だった」[51]「Xとは38年間一緒に暮らしていたが、兵隊から帰ってきてからは仕事をせず、娘が嫁ぐときにも1つも世話してくれなかった[注 11]。そのため、自分が手間取りなどをして生計を立て、娘の結婚資金も稼いでいた。また、Xは女癖や酒癖が悪く、自分が28歳の時に近所の未亡人と関係していたところを見たのを見つけられ、『お前を焼き殺してやる』と脅されたり、酒に酔っては火箸を持ったり、焼けた木を振り回して自分を叩いたりしたこともあった[注 12]。あまりの恐ろしさに、着の身着のまま長男A1や娘(Mの姉の1人)を抱いて、近所の家の軒下に筵を敷いて、朝までいたこともあった。1951年(昭和26年)の秋、Xが飲酒して暴れ、鋸や火箸を振り回してきたりしたため、我慢できずに家を出た」と証言している[50]。一方、彼女は「Xは子供たちに対しては、殴るようなことは全然しなかった」とも証言している[50]。仙台高裁秋田支部 (1957) は、「Xの虐待に耐えかねた母親(Xの妻)は、1951年(昭和26年)11月ごろに単身実家へ帰り、事実上夫婦別れした」と認定している[7][8]

    事件前の動向

    その間、Mの母親がXを相手に離婚訴訟を提起[注 13]したが、そのためにMたちとXの関係はさらに感情的な溝を深めていった[55][8]。Xの長男(Mの長兄)で、Xから家督を相続したA1は[56]、両親の離婚訴訟の法廷で宣誓した際、平然と「Mと一緒にXを毒殺[注 14]する用意をしたことがある」と証言するほどXを憎んでいたが[57]、その後はX側につくようになった[51]。母が家を出て以降、A1は財産全ての独占を図り、弟たち(次男や三男M)をことあるごとに嫌忌して別居を迫っていた[7][8]

    事件前年の1952年7月ごろ[7][8]、Mは父X・兄A1によって家を追い出され[58]、裸同然の姿(布団・鍋・米一斗をもらい受けたのみ)で実家を出た[7][8]。それ以降、Mは集落の端にある民家[注 15][59]の一間を間借りして家族と別居し、桶屋を職として生活していたが[19][8]、日々の食べ物にも困る暮らしを強いられていた[56]。石川清 (2015) は「MはXから日常的に非人間的な扱いを受けながら生育し、事件前年には母親(Xの妻)の離縁に反対したところ、それを理由に次男(次兄)とともに、実家から無一文で追い出された」と述べている[11]。Mの母親は、Mたちが家を追い出された理由について、「Xが後妻を家に連れてくるために邪魔だと感じたからだと思う」と述べている[50]。Mだけでなく、Xの妻子たちは長男A1を除き、財産分与・生活保障をまともに受けられないまま実家を追い出されていた[注 16][30]。Mの次兄(Xの次男:当時31歳[54]ないし32歳[42])は、弟Mと同様に実家を追い出されたが、1952年秋ごろに父Xから「忙しいから家を手伝え」と呼び戻された[54]。その後、仕事が終わると再び無一文で家を追い出され[54]、1953年春ごろには裏の家屋に引き移っている[55]。『読売新聞』 (1953) は、「次兄(次男)は事件発生の2日前に本家(実家)を訪ね、兄(長男)A1に『財産を俺にもよこせ』と言い、財産相続のことで大喧嘩をしており、日ごろからMとともに父X・兄A1を恨んでいた」と報じている[60]。また、彼らの妹(A1の四女[55][8]:事件当時16歳[54])もA1から虐待を受け、1953年秋ごろ以降は実母の実家に引き取られていた[55][8]。Mの妹は、長兄であるA1について「(兄弟たちで)一番私に辛く当たり、嫁のA2も同様に辛く当たっていた」「1952年(昭和27年)の旧8月、A1は私に『香典を書け』と言われ、2階で書こうとしていたら突然訳もわからず殴る蹴るなどされ、Mに助けを求め、最終的に家を出た」と証言している[50]

    Mは祖母Yの好意に甘え、わずかに米・味噌などをもらい受けに実家を訪れていたが、それ以外の時にはめったに実家に出入りすることはなかった[55][8]。1953年10月ごろ、Mは別の家[55][8](親戚宅[17])に間借りを頼んだが、断られたため、その家の物置小屋の庇[注 17]を借り受けて生活していた[55][8]。しかし、この小屋は畳がなく、犬小屋のように汚い場所で[63]、藁を敷いて雨露を凌いでいたが、雨風の強い夜や、吹雪が吹く夜はそれらを凌ぐことはできず、Mは寒さに震えながら一晩中寝ないで身の不幸を泣き明かすこともあった[55][8]。また、この小屋では炊事もできなかったため、Mは桶の修理の仕事に出掛けては、その礼として食事をさせてもらっていた[63]

    しかし、そのような極貧生活に呻吟するMに対し、XやA夫婦は極めて冷淡で、恵むようなことは全くせず[注 18]、Mは彼らの仕打ちに強く憤っていた[55][8]。そのため、Mは1950年(昭和25年)秋ごろ、A1から唆されたことで「青酸カリでXを毒殺しよう」と考えたが[注 14][64]、母親にそのことを相談したところ、「そんなことをしても私も生きておれないし、お前も生きてはおれないから私に任せて我慢しなさい」と止められていた[50]。また、1953年秋ごろには村の駐在巡査に対し「親の家から物を持って来ても罪になるか」「正当防衛とは何か」と聞いていた[64]。また、A1の妻A2は1953年旧盆の15日ごろ、実家へ遊びに来た際に家人に対し「Mが家の人を全部焼き殺してしまうという話を聞いたので、小友の家へ帰るのが怖い」と話していたこと、そしてMが仕事場に使っていた小屋の棚の上に置いてあった道具箱の中から散弾1個が発見されたことから、殺人に関しては計画的犯行も疑われた[65]。しかし、青森地裁弘前支部 (1956) は事件当夜、Mが一緒に酒を飲んだ者に対し「今晩、実家へ味噌を取りに行く」と話していた点や、実際に現場の物置小屋にあった味噌樽から味噌の詰まった甕が発見された事実などから、「殺人が計画的なものだった(Mが事件当時、心神喪失でなかった)ことを認めるに足る証拠ではない」と認定している(後述[66]

    事件前日

    Mは事件の前日(12月11日)8時30分ごろ、小友集落にある家屋へ餅臼の修繕の仕事に行き、11時ごろにその仕事を終えると、その礼金を密造酒に替え、仕事を依頼した住民とともに15時30分頃までに1升の酒を飲んだ[55]。その後、中津軽郡裾野村貝沢(現:弘前市貝沢[注 19]の民家へ修理材料の竹を置きに行き、17時ごろに夕食を馳走になった[55]。その家を辞去した後、別の家にリンゴの代金2,000円を請求しにいったが、断られ、19時ごろに小友に帰った[55]。その後、朝仕事を依頼した住民の家で酒を飲んだり、パチンコ店でしばらく遊んだりした後、帰宅後にもさらに飲酒したが、24時(12月12日0時)ごろに家路につくまでに飲んだ酒の総量は約1升6合程度に達していた[67]。最終的に、Mはいささか酩酊を意識する状態にあったが、いつもと変わることなく帰宅していた[68]。石川清 (2015) は「酒を7、8合ほど飲んで泥酔した」と述べている[52]が、Mは事件当時の酩酊度に関し、警察・検察による取り調べおよび公判で一貫して「当夜は飲酒したが、本心がなくなるほど酔ってはいなかった」と供述している[69][70]

    事件当日

    帰宅後、Mは自宅で寝場所を作っていた際、味噌甕に味噌がないことに気づいたため、実家から味噌を盗んでこようと思い立った[注 20][68]。Mは懐中電灯を照らしながら、ねぐらから約300 m離れた実家まで雪道を歩き[68]、12月12日1時過ぎごろ、Xが所有する物置小屋[71](実家に隣接)[7]に侵入した[71]。そして、味噌樽に入っていた味噌を持参した甕に移し取ったが、Mはこのころまでは自分の行動を逐一鮮明に意識し、犯行後にも正確に記憶を思い出している[68]。しかし、物置小屋の中にあった中折単発式猟銃[注 2]と実弾十数発を装備した弾帯が置いてあるのを見つけ、「万が一味噌を盗んだことをXやA1に知られれば、彼らに猟銃で撃ち殺されるかもしれない」と考え、機先を制して彼らやその家族を射殺することを決意した[66][8]

    1時過ぎごろ[66]、Mは弾帯を腰に帯び、猟銃を持って、物置小屋に隣接する実家(住宅)へ侵入した[55][66]。そして、まず就寝していたXの頭部を、布団から約2、3尺離れた距離から狙撃し、Xを殺害した[13][14]。次いで、一緒に寝ていたA3も射殺した[42]。A3の頭部からは、弾丸が20発以上(射殺された被害者7人で最多)摘出されている[56]。さらにMは次の間で銃を片っ端から撃ち、A1・A2夫婦と長女A4を相次いで射殺した[52]。Mは残る2人 (Y・Z) を射殺した際の状況は覚えていなかったが[54][56]、それ以外の5人については「ただ漠然と射撃した記憶がある」と供述している[13][14]。また、逮捕直後には「最初は(幼い子供たちは)殺す気はなかったが、兄 (A1) が憎いのでその子供たちにも憎しみが重なり、いっそ殺してしまえと思って射殺した」と供述している[72]

    A1・A2・A3・A4・Yの5人は、いずれも銃声を聞いて布団に潜り込んだが、Mによって布団の中に銃口を挿入され、頭部・肩付近を至近距離から撃ち抜かれていた[13][14]。また、Yの遺体は射殺された被害者7人の中でも特に損傷が著しく、頭部・顔面が粉砕されていた[41]。Z[注 21]は道路に面した南西隅の縁側へ逃げ込んだが、縁側の隅で腰部を撃たれて射殺されたと推測されている[13][14]。XはZが射殺されたと思われる際の行動について、「道路に面した奥の方の部屋[13](仏壇のある方の部屋)[73]で、女の『あーっ』という叫び声が聞こえ、射撃したことを覚えている」と供述している[13]。Mは犯行後、頭部から血を流し、仰向けに倒れているXの前に、自分が猟銃を持って立っていることに気づき、そのころから次第に意識を回復した[20]。検察官の控訴趣意によれば、Mが猟銃を見て精神障害に陥り、Xの前で意識を回復するまでの時間は1分33秒 - 1分43秒(いかに多く見ても2分未満)と指摘されており、そこから犯行前後の時間を除けば、純粋に犯行に要した時間は72 - 80秒程度とされている[74]

    犯行後、Mは自分が父を撃ったことを知って非常に驚き[20]、凶器の猟銃を捨て、勝手口から家を出た[54]。事件直後(1時30分ごろ)、現場(X宅)の前を通った男性は、現場付近で会ったMが「おやじを殺してきた」と叫んでおり、それを聞いて現場の様子を見に行ったが、その際には物音はなく、異常な点も見られなかったという旨を証言している[75]。Mはすぐに自宅に戻ると、自宅で残っていた酒を煽り、メモ板に書き置きを残した[20]。その内容は、以下のものである。

    「〔M〕ノバカ、クルタ〔=狂った〕サク十二ジ二〇ブンニカエリウツイ〔家へ〕ミソノシム〔盗み〕ニイキマシタ。ツミアツタラタノム」 — Mが残した書き置き、『読売新聞』 (1953) [75]

    そして、弾帯を締めたまま[注 22]、現場から約1 km離れた同集落の親類男性・甲宅を訪れた[54]。Mは甲を起こし[54]、身を悶えて泣き叫びながら「鉄砲で父に殺されると思ったので、父を撃った」という旨を訴え[20]自首に付き添うよう申し出た[54]。駐在所へ向かう途中、Mは別の近隣住民に対しても同じように犯行を打ち明けている[20]

    しかし、X宅はMが自首して巡査の取り調べを受けていたころに出火し、全焼した[注 23][26]。この火事により、A1の次女であり、Mの姪でもある女児A5(当時3歳)が家の中で焼死した[10][41]。一方、死亡した家族8人とは別に使用人の男性(当時23歳)もこの家に住んでいたが、彼は2階の窓から飛び降り、手足などに全治1か月の火傷を負いつつも一命を取り留めた[3]。Mは、この使用人についても「殺すつもりでいたが見当たらなかった」と供述している[72]

    捜査

    Mは犯行後の12日2時10分ごろ、甲に付き添われて、事件現場から約5 km離れた国家地方警察(国警)弘前地区警察署[注 3]新和巡査駐在所に自首した[26]。Mは自首した当時、毛皮の胴着の下に弾帯(散弾5発入り)[注 22]を着装し、ポケットにも散弾3発を入れており、駐在所の巡査に対し「父親を猟銃で殺してきた。早く板柳の医者を呼んで診てもらってくれ」と供述した[26]。巡査からの報告を受け、弘前地区署の所長・捜査係長・刑事係長・捜査主任ら捜査員が急行し、Mを緊急逮捕するとともに、小友集落の村消防団長宅に捜査本部を設置し、現場観察を行った[26]。その結果、焼け跡から8人の遺体と、凶器の猟銃が発見された[26]。甲は出火後、まだ家が燃え盛っている現場で、Xの脳漿が3間(約10 m)にわたって飛散した痕跡を目撃している[41]

    弘前地区署および青森県警察特捜本部は事件後、Mを殺人・放火容疑で取り調べたが[60]、Mは司法警察員や検察官による取り調べに対し、父X・A1・A2夫婦、甥姪に猟銃を撃ったことは認めた一方、動機などについては「猟銃を見て、味噌を盗みに来たことが見つかれば殺されると思い、XやA1が恐ろしくなった」「約10発くらい発砲した。その後、2発くらい弾丸を込めるとすぐ、銃口を人の方に向けないで発砲した」「銃口から相当大きな火が出た」などと供述したものの、それらの供述内容については想像によるものか、記憶がないという趣旨の説明もしていた[79]。一方、放火については「覚えがない」と否認した[61]。また、13日から14日にかけ[61]、赤石英[13]弘前大学医学部教授)の執刀により、8人の遺体が司法解剖された結果、A5を除く7人の遺体の首から散弾が摘出され、射殺された人数は7人と断定された[61]。一方、唯一散弾が摘出されなかったA5については[61]、死因は焼死と判明[80]。Mが7人を射殺した後で駆けつけた近隣住民たちから「A5が布団の中で目を覚まし、見回していた」という証言が寄せられたほか[61]、家が燃えている最中に現場を目撃した近隣住民から「炎の中から子供の泣き声がした」という証言もされていた[41]

    火災原因については、射殺後にMもしくは第三者が放火した可能性や[61]、こたつの掛け布団からの発火、猟銃発射時に生じた火炎からの着火が疑われた[81]。しかし、Mは沖中検事[注 24]の取り調べに対し、「犯行後、家を出る時は火は認められなかった」と供述している[27]。Mを取り調べた巡査が、自首に付き添った甲に対し「人手がないので現場を確認してくれ」と頼み、それを受けた甲が別の親類(元警視庁巡査)に現場を見てもらったところ、当時の現場は猟銃の硝煙がもやもやしていただけで火は点いておらず、それから約20 - 30分後(巡査がMを取り調べていたころ)に家が燃えていたことや、M自身も放火の事実については一切語らなかったことから、「Mが犯行直後に放火した」という仮説には懐疑的な見方もされていた[72]。放火を裏付ける証拠は得られず[61]、M自身は警察の取り調べに対し、「発砲した際に銃口から火が出た」と供述した[83][70]ものの、こたつ火元説、猟銃の火花説もそれぞれ決め手を欠いたため[84]、出火原因は解明されなかった[12]。ただし、第一審の公判中には出火前に事件直後の現場を目撃した男性から、「2階付近から煙が出ていたようだ」という旨の証言が寄せられており[63]、仙台高裁秋田支部 (1958) は判決理由で「Mが就寝中の家人を至近距離から射殺した際、銃口より発された火炎が布団に引火したことで火災が発生し、実家が全焼したものと思われる」と指摘している[13][14]

    結局、放火については立件は見送られ、被疑者Mは残る被害者7人への尊属殺人罪および殺人罪住居侵入罪[34]、事件翌日(12月13日20時30分)[27]青森地方検察庁弘前支部へ送検された[27][28][85][86]。この時点では司法解剖がすべて完了していなかったため、殺害人数は8人とされていたが、前述のようにA5については散弾が摘出されなかったため、起訴段階では殺害人数は7人に訂正されている[61]。捜査本部はMの取り調べや、現場捜査を終えた12月22日に解散した[12]

    犯行の背景から、事件当時はMだけでなく、Mの次兄(Xの次男)や母親(Xの妻)も共犯者として嫌疑を掛けられたが[11]、彼らはアリバイ[注 25]を証明され、解放されている[87]

    刑事裁判

    青森地検弘前支部は1953年12月29日、Mを尊属殺人罪・殺人罪・住居侵入罪で青森地方裁判所弘前支部に起訴した[注 26][22]公判では、被告人Mの事件当時の精神状態(責任能力)が争点となり、裁判所の職権で4回の精神鑑定が実施された[89]

    第一審の公判は、初公判および判決公判を含めて計11回開かれた[88]が、Mは捜査段階での「『殺される』と思って侵入した」という供述を翻し、「銃を見て『殺される』と思い、夢中で銃を握ったが、気がついた時には父が足元に倒れており、初めて殺したと分かった。その間の出来事は覚えていない」と、殺意・殺害行為とも否認する旨を供述した[90]

    初公判

    第一審の初公判は1954年(昭和29年)2月1日10時30分より、青森地裁弘前支部で開かれた[39][43]裁判長は猪瀬一郎[91]、陪席裁判官は平川・野口の両名がそれぞれ担当した[39][43]。同日の公判に立ち会った検察官(検事)は沖中[注 24]弁護人は丸岡[39][43](丸岡奥松[18])で、傍聴人は約300人に上った[43]。特に、事件の舞台となった小友からは一番のバスで約100人が傍聴に訪れた[39]

    罪状認否で、被告人Mは「父 (X) や兄 (A1) への恨みは持っていたが、初めから殺すつもりはなかった。猟銃を見て『父に殺される』と思い、先に殺してしまおうと決意して侵入した」と述べた[92]。また、祖母Yや子供たちに対する殺意はなく、彼らを殺したということも知らないと主張し、「Xに猟銃を撃ったことは覚えているが、その他は何発撃ったかなどは覚えていない。しかし、後で弾帯に弾丸が残っていなかったので、10発くらいは撃ったらしい」という旨を述べた[39]

    弁護人の丸岡も冒頭陳述で、父Xへの尊属殺人・兄A1への殺人は認めたが[43]、他5人に対する殺意はなく、彼らがMの銃弾により死亡していた場合でも、過失致死罪が成立するという旨を主張した[92]。検事の沖中は冒頭陳述で、Mの母親がXとの間で離婚訴訟を起こしていたことや、MがXやA1から冷酷な仕打ちを受け、彼らを恨んでいたこと、兄から青酸カリ様のものでXを毒殺するよう勧められたが、母の制止で思いとどまったこと[注 14]、出火は放火とは認められず発砲によるものと思われること、Mが犯行後に自首したことなど、Mに有利と見られる陳述も行った[43]。沖中は証人申請後、追加陳述で「本事件は殺人(の事実)は既に決定しているのであって、問題は量刑だけだ。被告人の置かれていた環境などを十二分に調査するよう希望する」と述べ、Mに同情的な見解を示した[43]

    同月20日、裁判官3人や沖中・丸岡の立ち会いのもと、事件現場で実地検証が行われたが、この時には沖中の計らいにより、Mの寝起きしていた劣悪な環境の小屋などの検証も行われた[63]。検証に引き続いて証人尋問も行われ、Mの母親や次兄(弁護人側の証人)、居候先の家主(検事側の証人)らが、MとXらの折り合い、家出の原因、事件現場の状況などについて証言した[93]

    精神鑑定

    青森地裁弘前支部は1954年4月26日の第4回公判で、弁護人側からの申請を受け、安斎精一(弘前大学医学部精神科講師)にMの精神鑑定を委嘱することを決定[94]。当時、公判は鑑定結果の提出(同年6月下旬ごろ)を待ち[95]、同年7月1日の第6回公判で論告求刑を行い[96]、結審することが見込まれていた[95]

    しかし、同公判で明かされた安斎鑑定書[注 27]は、「実父Xの凶暴・残虐性、長兄A1の低能(数字を数えることもできなかったなど)と学業成績から考え合わせると、Mは手のつけられない低能」と評した上で[98]、「犯行時は飲酒して酔っていたため、味噌を盗みに入った時点で心神耗弱状態にあり、かつて自分を虐待したXやA1の姿が頭に浮かんだことで、『Xを殺さなければ自分が殺される』と思いついて犯行に至ったが、この時点では突発的な感情性朦朧状態にあり、心神喪失状態だった」とするものだった[96]。これに対し、沖中[注 24]は鑑定人の安斎が、鑑定にあたって通常の病人と犯罪人の心理を混同していることや、Mに対し「お前さんは気が変じゃないか」などと誘導尋問していること、判定を鑑定人の尋問だけに依存しており、警察の捜査記録・公判記録などが一切無視されている点を指摘[96]。また、「Mは学業成績は悪かったが、落第は一度もしておらず、高等小学校[注 5]2年の時は可3、良10とだいぶ成績が向上している。また、A1も低能ではあるが、金銭の取引関係はしっかりしている。Xは『非道』とされているが、Mが麻疹[注 7]で右目を失明した際、自分が片目のウサギを撃ち殺した祟りであるとの風評が立ったため、好きな猟をやめ、猟銃をA1に譲ったことがある」などとも指摘し、作成者の経験不足も理由に、「安斎鑑定書は信憑性を欠くため、東大精神科か松沢精神病院の権威ある医師に再鑑定をしてもらいたい」と申請した[98]。これに対し、丸岡は「安斎鑑定は非常に詳しく、別に不足の点はない」と主張したが、裁判官による合議の結果、沖中の再鑑定申請が採用された[96]

    同年8月5日[99]、松沢病院の院長[100]・林暲[97]に再度の精神鑑定が依頼された[99]。同月から林による精神鑑定が始まり、鑑定書は依頼から約1年4か月後の1955年(昭和30年)11月28日に提出されたが[101]、安斎鑑定と違って心神喪失とは断定していないものの、強度の心神耗弱または心神喪失と判断した内容だった[99]。林は鑑定書で「Mはある程度、癲癇性の遺伝的素質を潜在的に有していたか、明らかに癲癇と認められる[注 28]。また、アルコールへの反応が異常となる素質を有しており、それに加えて犯行前から家庭的環境に起因する不快・憤懣の感情的緊張があり、被告人の住居に絡んでそれが一層高まっていた」という背景を説明した上で、「犯行当夜、Mは多量に飲酒したことにより、実家の味噌小屋に入るころから病的なある程度の意識障害を生じていたが、その状態で鉄砲を発見したことが契機となり、被害妄想的思考および、それによる恐怖的感情の興奮により、突然意識に著しい障害を生じた」として、Mの犯行時の不完全な記憶は、その一過性の発作的精神障害による朦朧状態に陥った結果であると位置づけた[97]。そして、「Mはこのような意識障害のもとに理性的な判断抑制を喪失し、平素の鬱積した激情の爆発した憤怒的状態から、原始的動物的の凶暴な攻撃行動におよんだと判断される可能性が非常に大きい。このような異常な意識障害を起こしたものとすれば、その意識障害の状態は、単なる心因性の意識障害とは違い、純然たる癲癇性朦朧状態とほとんど同様の状態にあったと判断される。その状態では、事態の正しい認識判断や、それに従って行動することは全く不可能〔心神喪失状態〕であるか、少なくとも非常に困難〔心神耗弱状態〕である」と結論づけた[97]

    鑑定書が提出されたことを受け、公判は12月8日の第7回公判で[102]、1年3か月ぶりに再開された[103]。同日、林鑑定書に対する異論がなければ検事の論告求刑まで進むと見られていたが[103]、山本検事から「林鑑定書は非常に難解であり、安斎鑑定書と比較する余地もあるので、10日ほど後に公判を再開してほしい」との申立があり、弁護人も鑑定中に担当検事が交代していた[注 24]ことを理由に「(審理の続行に)異存はない」と意見表明したため、審理は続行されることとなった[102]。続く第8回公判(12月22日)では、犯行直後から送検までMを取り調べた相馬長三郎(弘前署捜査係長)が証人として出廷し、当時のMの精神状態などについて証言したほか、山本が「Mは1954年1月、弘前拘置支所で次兄と接見した際、『死刑を免れられれば良い』と発言しており、鑑定人はこの点を考慮したかどうか疑問だ」と指摘した[104]。その上で、鑑定書の信憑性を問うため、林・安斎の両鑑定人を証人尋問するよう申請した[104]

    そして、1956年(昭和31年)1月26日に開かれた第9回公判では、安斎が山本から被告人Mの血族関係に関する尋問を受け、「母方に生来性高度の精神薄弱者や、痙攣発作症状を起こす者がいる。また、父方の従兄弟に神経性疾患を有する人物もいるが、うち1人は高度の精神薄弱者であり[注 28]、もう1人は脳膜炎[注 7]で死亡している。父も精神病質者であるなど、Mは高度の精神障害を有する血統を有している」と証言した[105]。また、Mの犯行時の精神状態については、「猟銃を見て『殺される』と恐怖して犯行におよんだが、気がついたら死んだXの前に立っていて、何人殺したかわからない」というMの陳述内容から、「部分的に刺激の強い場面を記憶しているところから、Mは複雑な関係から自己意識がなく、精神朦朧状態にあって犯行に至った」と説明し、自身が行った臨床的問答検査法により、Mの知能指数 (IQ) は27(普通人は80点以上)で、知能年齢は9年6月であるという旨も証言した[105]

    林は、3月1日に開かれた第10回公判[注 29]で、「事件当時のMの精神状態は、心神喪失と断言することはできないが、ある程度それに近い状態だった。Mが朦朧状態に陥った原因は、癲癇性による病的なものが主因で、それに加えて平素の不快、飲酒などが蓄積してさらに強度なものになったと思われる。鑑定時には様々な質問をしたが、Mの性質は割合単純で、『死刑を免れたい一念』からくる作為的な供述は本当の意味では少ない」という見解を示している[107]

    無期懲役の求刑

    1956年3月15日、猪瀬裁判長(陪席裁判官は野口・駿河の両名)、山本検事・丸岡弁護人の立会で、論告求刑公判が開かれた[108][109]。担当検事の山本稜威雄(いつお)は[91]、被告人Mに無期懲役を求刑した[108][109][90]

    検察官は論告で、本事件の特色として以下の点を挙げた[108]

    1. 犯人Mは自首したが、原因不明の火災で現場が無惨に焼け出されてしまっている。
    2. Mは犯行時、ボーッとしていて前後を記憶していない。
    3. 事件の舞台となった小友集落では、本事件を皮切りに1956年2月までに肉親殺害事件(実弟殺し、実子殺し、実兄殺し:後述)が相次いでおり[108]、さらに今後2件の発生も噂されている[90]。そのような点などで、社会に重大な関心を与えた事件である[108]。本事件の処理は治安維持・社会風紀上、重大なものと認められる[109]

    その上で、焼死したと思われるA5(A1の次女)と、死因が不明な伯母Z[注 21]の2人については「Mの直接犯行とはいえない」としながらも、「結果的には8人全員がMに殺されたと言える」と指摘[90]。2度の精神鑑定結果についても、地裁に対し「双方とも精神医学上のものであって、法律上の判断ではない。精神医学者はいかに細かい精神障害でも発見し、誇張して判断することも有り得るから、その点に十分留意してほしい」と要望した上で[108]、「鑑定書は、犯行から相当時日を経てMが生き延びたいと考えるようになってから行われた鑑定である」[37]「Mは捜査段階で『計2回、10発くらい撃った』などと供述している一方、『その後は全然記憶がない』と言っているが、撃った回数などは記憶がなければ言えないはずだ。Mは祖母Y・伯母Zまで殺した責任があまりにも大きいので、自分の刑を軽くしたいという思いから、『頭がボーッとした』などと述べている」と指摘、「安斎鑑定の『心神喪失』という結論は推測に過ぎず、林鑑定でも心神喪失を認めることは困難であり、心神耗弱に該当すると認められる」と主張した[108]。そして、犯行については「幼児や逃げようとする伯母・祖母まで追い撃ちした犯行は残忍極まりなく、情状酌量の余地はない」「人道上、許しがたい凶悪犯罪」と主張し[90]、量刑については死刑を選択した上で、心神耗弱を認めて罪一等を減じ、無期懲役が相当と結論づけた[108]

    一方、弁護人は同日の最終弁論で、「安斎鑑定・林鑑定ともに『Mは心神喪失かそれに近い状態だった』との結論を出している以上、Mは刑事上の責任を免れるべきだ」と主張した[90]。「住居侵入は有罪かもしれないが、殺人を犯した当時は心神喪失状態である」として、無罪を主張した[108]

    殺人につき無罪判決

    1956年4月5日13時より、青森地裁弘前支部で猪瀬裁判長係、山本検事・丸岡弁護人の立ち会いのもと、判決公判が開かれた[16]。猪瀬裁判長は被告人Mに対し、住宅への住居侵入罪・尊属殺人罪・殺人罪は無罪[71]、物置小屋へ侵入した住居侵入罪は懲役6月(執行猶予2年)とする判決を言い渡した[16]

    判決理由で、同地裁支部は安斎・林の両鑑定人による鑑定結果を踏まえ、「Mは先天的てんかんであるところ、事件前日には偶然大量に飲酒して盗みに入ったが、猟銃を発見して『見つかったら殺される』と被害妄想的思考を起こし、恐怖的感情の興奮により意識障害も深くなった。そのため理性的判断・抑制力を失って犯行におよんだ」として、殺害行為におよんだ時点で心神喪失状態にあったということについては「犯行後相当の時を経てから過去の事実を判定したのであるから右鑑定の結果のとおりであると確認することはできないけれども心神喪失の状態にあった疑いが非常に強いと認めるのが相当であるという趣旨に帰着するようである。かように心神喪失の事実の存否について非常に強い疑いがあるときは心神喪失の事実の不存在が証明されない限り右犯行当時心神喪失の状態にあったものと認める外ない。」と指摘した[21]

    その上で、心神喪失ではなかったと証明するに足る証拠の有無について検討し[73]、Mの捜査官に対する供述内容が極めて断片的であることについて言及し、「検察官が論告の際指摘したように右のうち記憶になければ到底述べられないと思料される供述部分があるけれども、心神喪失とは高度の精神機能の障碍によって是非善悪を弁別できないか又は弁別してもそれによって行動することができない状態をいい、全然意識のない状態のみを指すものではない」と指摘した上で、安西・林両鑑定人の鑑定書や、彼らの公判での供述などを検討し、「前記記憶に基く供述部分は病的異常な体験に基くものではないかとの疑いが強いものと認めるのが相当であるから被告人が犯行当時前示程度の意識があったからといって直ちに被告人の別紙記載の犯行時における心神喪失の疑いを覆し、被告人に当時是非弁別の能力がいくらかあったものと認めることは困難である。」という見解を示した[110]。また、Mが犯行時の酩酊度については一貫して「本心がわからなくなるほど酔ってはいなかった」という旨を述べている[111]ことも併せ考え、以下のように指摘した。

    以上の各事情は被告人が犯行時心神喪失の状態になかったことを証明するというよりもむしろ逆に被告人が別紙記載の犯行時安斎、林両鑑定人の各鑑定書記載のような素因の複合に基く一過性の心神喪失の状態に陥ったのではないかとの疑いを更に強めるものとさえいうことができるのではなかろうか。そしてこれと共に被告人の捜査官及び安斎、林両鑑定人の問診の際は勿論のこと、起訴前における捜査官の取り調べに対しても酔っていて全く何も分らなかった旨を強調したであろうし、強調するには絶好の状況にあったわけである。しかるに事実はこれに反し被告人はむしろ逆に本心のなくなる程は酔っていなかった旨を大体一貫して述べていることは前記のとおりである。 以上のとおりであるから前示のように被告人が記憶している部分があるからといって、これが心神喪失の状態の不存在を証明するに足ると認めることはできないのである。 — 青森地裁弘前支部、『高等裁判所刑事判例集』(高刑)第11巻4号[112]

    そして、Mが事件前から計画的に、XやA1を殺害する機会を窺っていた可能性を示唆する言動など(前述)についても検討した結果、それらの事情をもって「被告人が右犯行時心神喪失の状態になかったことを認めるに足るものとすることはできないし、他にこれを認めるに足る証拠はない。」と認定した[66]。以上より、「被告人は〔殺人行為の〕犯行当時心神喪失の状態にあったものと認めるを相当とすることに帰するからして〔殺人行為の〕公訴事実については刑事訴訟法第336条を適用して被告人に対し無罪の言い渡しをするほかはない。」と結論づけ[66]刑法第39条の規定により[9]、(Xらが住んでいた住宅への)住居侵入・尊属殺人・殺人の各罪状は無罪とした[71]。一方、犯行前に物置小屋へ侵入した行為(住居侵入罪)については、弁護人の「心神喪失または心神耗弱状態だった」との主張を退けて有罪とし、懲役6月・執行猶予2年の刑を言い渡した[71]

    無罪判決を受け、Mは2年4か月間にわたって拘置されていた弘前拘置支所[注 30]から釈放されたが[33]、その際に地元紙の記者から取材を受け「自分はもう満足だ」[16][89]「家に帰ったら早速墓前にお詫びしたい」と話していた[33]。裁判長を務めた猪瀬は、退官後に『週刊新潮』の記者からの取材に対し、以下のように述べている[91]

    トラを野に放つ結果にならんかといっても、刑法の解釈を曲げることはできない。しかし、実際には、こういう場合の収容施設がない。困ることはあり得る。裁判所としても困る。裁判官は板ばさみですね。あの事件もそうだった。最初は、ちょっと見たところ、本人は異常ないし、責任能力の問題になるとは考えていなかった。ところが、親戚に精神異常のいることがわかってさ、鑑定ということになって、無罪にするよりほかないと思ったんです。もちろん、われわれとしても、出したらどうなるか、心配したどころじゃありません。合議もずいぶんもめたんですよ」 — 猪瀬一郎、『週刊新潮』 (1971) [91]

    猪瀬は同年9月、県紙である『東奥日報』紙上で行われた対談で、本事件の判決について以下のように述べている一方、遺体の司法解剖を担当した赤石英(弘前大学医学部教授)は「一般に(同判決は)『軽すぎる』という反応が多いようだ」という旨を述べている[114]

    「僕の判決言渡しが軽すぎるという話を聞く。だが、どうして刑が軽いというかぼく自身に判らないんだがね。」

    「ぼくのこれまでの経験でモウロウはこんどの〔M〕が初めてだったので、この判断に大分日時を要した。大分あの判決では軽いという非難があったようだ。あんなに何発も、人を殺すために鉄砲をうっていて、それでモウロウという話は納得ができんというのだナ。」

    — 猪瀬一郎、『東奥日報』 (1956) [114]

    弁護人の丸岡は判決を受け、「事件が大きいだけに有期刑以上を覚悟していた。無期懲役以上なら控訴するつもりだったが、無罪判決は(満足ではあるが)意外だった」と述べている[16]

    控訴審

    青森地検弘前支部は判決を不服として、同月18日付で仙台高等裁判所秋田支部控訴した[115][116]。当時、本事件の担当検事だった山本は、本判決が常識から著しく逸脱したものとして控訴に踏み切ったことや、「仮に無罪でも、予防拘禁的にしばらく隔離しておくのが妥当だった。無罪判決は社会的影響に照らして妥当ではない」という旨を述べている[91]。ただし、控訴された分は無罪とされた殺人行為についてのみで、有罪とされた物置小屋への住居侵入については控訴されず、公判中に執行猶予期間(2年)が経過したため、刑は消滅した[32]。控訴審の裁判長は、松村美佐男が担当した[117]

    1956年8月14日に控訴審初公判が開かれ、検察官は控訴趣意で[118]、「Mの事件当時の精神状態に関する認定および、その論拠となった精神鑑定結果は、Mの供述だけに頼っている感があり、不確実である。さらに精密な科学的立証を必要とする」と主張した[119]。また、現場検証を申請した上で、調書を作成した巡査部長や、遺体を見た男性2人、そして遺体を解剖した赤石教授の計4人を立会人および証人として申請した[119]。弁護人の丸岡は「本事件は第一審に置いて十分現場検証など調べ尽くしており、その必要は認められない」と反対意見を述べたが、裁判官の合議によって検察官の申請は認められた[119]。同年10月6日、松村裁判長や松本判事、長井検事、丸岡弁護人や巡査部長、Mの次兄や母親の立会により、現場検証が行われた[120][121]

    1956年10月16日に開かれた第2回公判で、検察官は「Mは犯行時、心神喪失状態にあったかどうか疑わしい」と再度の精神鑑定を申請[122]。丸岡は「(原審の鑑定人)林は日本の精神医療の最高権威である」として、申請に異議を唱えたが、裁判官の合議により、検察官の申請が認められた[122]。続く第3回公判(11月13日)で、検察官からの推薦を受け、鑑定人として塩入円祐(慶應義塾大学助教授)が選任された[123]。このように、1人の被告人に対し、一・二審で3度にわたる精神鑑定がなされたことは珍しいことであったが[124]、1957年(昭和32年)11月に提出された塩入鑑定書も、Mの心神喪失を認めた内容だった[125]

    無罪確定

    1958年(昭和33年)3月26日に控訴審判決公判が開かれ[32][126]、仙台高裁秋田支部(松村美佐男裁判長)は原判決を支持し、検察官による控訴を棄却する判決を言い渡した[32]。担当裁判官は裁判長の松村と、小田倉勝衛・三浦克己の両陪席裁判官だった[117]

    同高裁支部は、被告人Mの犯行時の行動に対する記憶が極めて断片的で、意識に著明な障害があることを推認せしめるに足ることを指摘した上で、「各供述は、被告人が犯した罪の重大さに驚き、極刑を免れんがために意識的に忘却を装ったのではないかとの疑念も抱かれるが、もし被告人にそのような意図があったとするならば、捜査官の取り調べに対し『酒に酔っていて何もわからなかった』ということを強調しただろう。しかし、被告人はむしろ取り調べで『犯行直前に飲酒したが、本心がなくなるほど酔っていたわけではない』と一貫して供述している。その点や、事件当夜、被告人が一緒に酒を飲んでいた人物に対し『今晩、父の家に味噌を取りに行く』と喋っており、実際に物置小屋の味噌樽の中から味噌甕が発見されている事実などから、計画的な犯行ではないことを十分に肯認しうる状況にあることが認められる」と指摘した[127]

    その上で、MがY・Zの二人を除く他の被害者5人を射撃した際の状況について、具体的な方法を説明することなく、「ただ漠然と射撃した記憶がある」とだけ供述していることや、Zは縁側の隅に逃げ込んだところを射殺されたことを窺わせる状況証拠があり、Mの「道路に面した奥の方の部屋で、女の『あーっ』という叫び声を聞いて射撃した」という供述がその状況と合致していることを指摘し、「もし他の家人に対する射殺の方法を故意に秘匿しているなら、Zに対する射殺の記憶も当然忘却を装うはずだが、MはZを射殺した際の記憶についてはかなり真に迫った供述をしている。このことから、被告人の犯行当時の行動に対する追想は、決して作為的な健忘を装ったものではなく、記憶するところを偽りなく正直に供述していると認めるに十分である」と判示した[128]。そして、Mの犯行後の行動や、原審でなされた2回の鑑定(安斎・林の両鑑定)および、控訴審でなされた塩入鑑定の結果を踏まえ、Mは犯行時、意識障害のために理性的な判断抑制を喪失しており、事態を正しく認識・判断し、それに従って行動することが全く不可能な状態にあったことを認定した[129]。また、検察官が「被告人による原審各鑑定人(安斎・林)の鑑定の際における問答や、原審の公判での供述には、捜査官に対し供述していた犯行当時の記憶と(かなり重要な部分が)修正されている。これは犯行時、Mに自己意識が存在したことを証明するもので、精神障害の程度は心神喪失ではなく、心神耗弱にすぎない」と主張していた点については、「林の供述によれば、被告人の記憶が後日修正変更されたのは、もとから記憶が不確実だったためであって、故意になされたものではない」として退けた[130]

    そして、原判決が「心神喪失の事実の存否について非常に強い疑いがあるときは心神喪失の事実の不存在が証明されない限り右犯行当時心神喪失の状態にあったものと認める外ない」と判示した上で、判決文の随所に疑問を止めるがような認定の方法を用いていたことについては、以下のように指摘した[117]

    所論の指摘するとおりでその部分のみにこだわるならば些か論理の飛躍を冒し或は判旨明確を欠く憾なしとしないのであるが判文を全体として精読するならば原審は結局犯行当時被告人が心神喪失の状況にあつたことを認定している趣旨であることを優に肯認できるのであるからこの点の所論も採るをえない。 — 仙台高裁秋田支部、『高等裁判所刑事判例集』(高刑)第11巻4号[117]

    原判決(第一審)と同じく心神喪失を認定した同判決であるが、安村和雄 (1959) は、原判決が謙抑的な認定であった一方、控訴審判決は積極果敢に認定したと評している[131]。検察は上告期限となる4月9日までに上告しなかったため、Mは同月10日付で無罪が確定した[29][125]

    犯人のその後

    事件後、Xの遺産は次男(Mの次兄)が相続した[132]。Mが釈放された時点では、次兄夫婦とその子供3人、母・妹の7人が実家に住み、1丁6反歩の田畑を耕作していた[115]。Mは第一審で無罪判決を受けて釈放された後、出迎えた次兄・妹[注 31]とともに帰郷して被害者の墓参りをし[89]、小友の実家に落ち着いた[115]。判決翌日(1956年4月6日)、Mは無罪釈放を嘆願した近親者や、集落の住民にお礼の挨拶回りをし、その後は北海道に住む親戚筋にも挨拶に行った後、家業手伝いをするようになった[115]。釈放から約4か月後に開かれた控訴審初公判(1956年8月)の時点では、次兄とともに9反歩の畑でリンゴ栽培をしていることを語っている[119]

    その後、Mは母方の親戚から嫁を迎えて分家し[132]、32歳で結婚[133]。41歳になった1971年(昭和46年)時点で、3児の父親になっていた[91]。家業は順当に発展し、晩年のMは3人の孫に恵まれ、地区の自治会長・農業協同組合の顔役などを務めていた[133]。一方、地元の駐在所員は『週刊新潮』の記者からの取材に対し、Mが1970年(昭和45年)に猟銃の許可を取ろうとしたものの、医師から診断書を出すことを断られたという旨を述べている[91]

    2001年平成13年)12月20日、Mは西津軽郡鰺ヶ沢町北浮田町外馬屋の県道で、自動車を運転中に交通事故死した(72歳没)[134]斎藤充功はMの死後(事件発生から約60年後)、事件の取材のために小友地区を訪れ、Mの家族からは取材を拒否されたが、集落の住民(当時70歳代の女性)から、Mの生前の人物像(人望があり、釈放後にリンゴ栽培で成功したこと)や、彼が2001年12月に72歳で交通事故死したことなどを訊き出すことに成功している[135]

    事件後

    本事件について取材した斎藤は、自著 (2014) で「当時の精神鑑定はまだ信憑性・精度が低く、専門家の知識も今一つで、法律の世界で客観的証拠として採用されるには不透明感をぬぐえない。被告人Mが無罪となったのは弁護人の弁護活動より、当時の精神鑑定の未熟さの方が大きいかもしれない」と述べている[136]。その後、本事件は精神医学界でも「稀に見る特異な事件」として研究対象になり、日本精神病理・精神療法学会(現:日本精神病理学会)のテキストにも実証例として掲載されている[137]

    地元住民の反応

    事件の背景から、村民たちの間では犯人であるMに同情する声も多く、第一審の公判中にMの次兄や友人らが減刑嘆願運動を起こしたところ、開始から1週間で村民800人の署名が集まった[93]。また、Mの母親や妹は公判で、それぞれ「事件はXが悪い」「Mは良い兄だった」などと証言している[51]

    石川清 (2015) は、家督を継げなかった次男・三男が最底辺に位置していた当時の集落事情を踏まえ、「財産への強い執着を生む風潮が集落で蔓延し、家族内で財産をめぐって日常的な争いが生じていた」と述べた上で[47]、無一文で放逐された農家の次男・三男の受け皿として、村の近くに自衛隊基地が誘致されたことで、次男・三男の貧困問題は解決されていったという旨を述べている[138]。また、判決についてはMが事件前の境遇から集落の人々から同情を集め、それが裁判や取り調べで彼にとって有利な証言を引き出す結果となり、心神喪失が認定されたこともあって「“超”温情判決」が言い渡されたという旨を述べている[87]。一方、当時の『朝日新聞』は本事件後、集落で肉親間の殺人事件が多発していた事情から(後述)、第一審判決に対し、大多数の傍聴者から「無罪は軽すぎる」との声も出ているという旨を報じている[100]

    『週刊新潮』 (1971) は、集落の住民たちが「口をそろえて、「あの事件は父親〔X〕が悪い」というのである。」として、「Mが帰ってきた時、誰も警戒しなかった。彼はおっちょこちょいな男だが、悪人ではない」「Mは父親から酷い仕打ちを受けていたから、彼のやったことを誰も悪く言わない」という証言を取り上げ、彼らは本事件の裁判を「大岡裁きにも似た“人情裁判”だったと解釈しているようにも見受けられる。」と報じている[132]

    集落で相次いだ家族間殺人

    事件後、本事件の舞台となった弘前市小友地区では肉親の殺人事件が3回にわたり発生した[100]

    1. 1954年10月、農家の三男(当時25歳)[注 32]が母親(当時49歳)に小遣いをせびり、母親をかばおうとした次男(当時25歳)[注 33]に追い払われた[139]。これに逆上した三男は匕首を持って家に戻り、次男を切りつけたが、逆に次男に取り押さえられ、首を絞められ死亡した[140]。次男は同事件前にも不良の弟(三男)に制裁を加えようと、出刃包丁・草刈りで三男を切りつけ、軽傷を負わせていたため、殺人容疑で逮捕されたが、殺意を否定し、後に正当防衛が認められ釈放された[140]
    2. 1955年10月、集落の裕福なリンゴ農家の次男(当時21歳)が、父親(当時48歳)に対し「北海道へ出稼ぎに行くから金を出せ」と迫り、断られると逆上して父親の首を絞めた[141]。これに対し父親が咄嗟に鉄を持って抵抗し、その鍬で次男の顎・首を何度も殴ったところ、次男は失血死した[141]。同事件は被害者(次男)の日ごろの素行の悪さから、本事件や1. と同様に加害者(父親)への同情が集まり、情状酌量により懲役4年の判決が言い渡された[46]
    3. 1956年3月、農家の長男(当時29歳:無職)[注 34]が遊ぶ金欲しさに自宅から種籾を盗み出したが、母親(当時63歳)と弟(当時26歳)[注 35]に見つかって家を追い出された[46]。これに対し、長男は出刃包丁を持ち出して弟を刺し殺そうとしたが、咄嗟に薪割り(長さ30 cm)を手にして抵抗した弟に頭を何度も殴られ、頭蓋骨を粉砕されて死亡した[143]。同事件も集落から加害者への同情が集まり[142]、結果的に加害者は傷害致死罪で在宅起訴された[144]

    それらの事件は(本事件を含め)、いずれも農閑期に裕福な農家で発生したもので、かつ被害者は一家の素行不良者、加害者は真面目な家族というものだったが[142]、その(集落で殺人が連続して発生した)事実はほとんど知られていない[25]。その背景について、石川清 (2015) は「事件の舞台となった小友集落が帰属していたS村(新和村)は、2件目の殺人と3件目の殺人の間にH市(弘前市)と合併した[注 1]ため、地元の人間以外から見れば『S村で2件、H市で2件の事件が起きた』ように見えるようになった。同じ小さな集落で連続して4件も肉親殺人が起きたようには見えにくい」という旨を述べている[138]。また、石川の取材に答えた地元の住民は「本事件と2回目の事件では、殺人を犯したにも拘らず、加害者が情状酌量により軽い罪で済み、誰も加害者を非難しなかった。そこで『一家の鼻つまみ者など、いざという時は殺せる』という風潮が生まれ、親の言うことを聞かない不良家族に対し『殺されるぞ』という脅しの言葉が家庭内で日常的に口にされるようになった」という旨を証言している[注 36][47]

    青森県は1956年当時、尊属殺人が長野県秋田県と並んで「三大県」と呼ばれるほど頻発していたが[注 37]、『東奥日報』紙上で行われた座談会では、東北人の気質(自分の思ったことを発表できない)や、長年の間に蓄積された不満・肉親のもつれなどが、同県における家族間殺人多発の背景として指摘されている[145]。小友集落で相次いだ事件について、佐々木直亮(弘前大学医学部衛生学教授)は4事件とも冬から春先にかけて発生している一方、(過去15年間続いていた)一般的統計では6月の犯罪発生率が低くなっている点を指摘し、農繁期や梅雨などの季節的変化が関連している可能性を指摘している[114]

    また、古川忠次郎(弘前大学教育学部心理学教授)は新和村の人から「ここから見える岩木山は鋭角的で刺々しい感じだから、岩木山を崩して丸くしないことには事件が後を絶たない」という話を聞いたことがある旨を述べ[注 38]、赤石英も自身の所有している諸国の風俗気質を記した古文書に、陸奥国の人の気質について「この国辺鄙、人の気息詰り片寄りて尖りなり」「子供を生みてもブツカえして父母これを殺すことあり」とあることを挙げており、それに対して『東奥日報』の記者は「遠い昔から伝わっているそのような気質が犯罪とつながりを持つ機会が多いとでもいうわけかな。」と指摘している[114]。その上で、同種事件の対策として、佐々木は広い意味の生活改善、古川は家庭教育・社会教育の改善[注 39]、和田は「因襲と迷信打倒」や学校教育・社会教育の推進をそれぞれ挙げている[114]

    杉沢村伝説との関連

    青森県には、「(2007年時点から遡って)50年ほど前、精神に異常を来たした1人の青年が村人全員を惨殺し、廃村に追い込まれた『杉沢村』という村がある」という都市伝説杉沢村伝説)があるが[146]、本事件および、事件の舞台となった小友地区は、それぞれ「杉沢村伝説」の由来とされている[2][25]

    石川清 (2015) は、「杉沢村伝説」成立の背景について、先述のように同じ集落で猟奇的な肉親殺人が相次いで発生したことが「呪われた村」を想起させ、事件の話題がタブーになった[注 40]こともあって、「呪われた村」の漠然とした記憶だけが都市伝説として語り継がれるようになったという旨を述べている[147]。また、並木伸一郎は自著『最強の都市伝説』 (2007) で、「杉沢村伝説」の内容が本事件や、1938年(昭和13年)に岡山県で30人が殺害された津山事件と類似していることを挙げた上で、本事件はこの地方では稀に見る大量殺人事件であったことから、人々に津山事件を連想させ、やがてこの2つの事件が人々の意識の中で混同されたことで「青森県で起きた大量殺人事件=杉沢村伝説」の下地になったと考察している[146]

    小友の集落を訪れて本事件の取材を試みた斎藤充功 (2014) は、同集落の近隣に「杉」のつく集落が多かったことが、「杉沢村伝説」につながった旨を述べている[88]

    関連文献

    • 下山富吉 編「社会――主なる殺人」『東奥年鑑 昭和29年版』東奥日報社、1954年9月1日、165頁。doi:10.11501/2982752NCID BN09968291NDLJP:2982752/105。「新和村の八人殺し事件」 

    脚注

    注釈

    1. ^ a b c 中津軽郡新和村は、事件後の1955年(昭和30年)3月1日付で、周辺11町村とともに弘前市と合併した[1][2]
    2. ^ a b c d 凶器として用いられた猟銃は、中折単発式猟銃1挺[66](口径16 mmのグリナー型散弾銃[44]
    3. ^ a b 新和村は事件当時、国家地方警察青森県本部弘前地区警察署(1951年〈昭和26年〉10月1日発足)の管轄だった[76]。その後、1954年7月1日に新警察法が施行され、新たに青森県警察が発足[77]、これに伴って弘前市・中津軽郡などを管轄する弘前警察署が発足している[78]
    4. ^ なお、同じく青森県の県紙である『東奥日報』は、後年(2001年)に発生した武富士弘前支店強盗殺人・放火事件を「県警犯罪史上例をみない凶悪事件」[35]「県警史上かつてない凶悪事件」と表現している[36]
    5. ^ a b c Mは高等小学校卒で、在学中の成績は劣等だった[49]。被害者の1人であるA3(Mの甥)は事件当時、叔父Mの母校である小友小学校に在学していた[40]
    6. ^ A4は事件当日(12月12日)が誕生日だった[40]
    7. ^ a b c Mは幼少期(母親によれば2歳のころ[50])に麻疹で右目を失明しており、義眼を入れていた[40]。Mの母親は、「あと2、3日遅れていたら脳膜炎に罹るところだった」と診断された旨を述べている[51]
    8. ^ Mは18歳のころから桶屋で働き、23歳だった1952年に独立した[49]
    9. ^ 『東奥日報』 (1953) は、Xが所有していた農地を「2町歩」と報じている[17]
    10. ^ 「吝嗇」(りんしょく)とはむやみに金品を惜しむこと、すなわち「ケチ」という意味[53]
    11. ^ Mの妹は、「家事を手伝うため、1か月で20日間学校を休むこともあり、父はPTAや校友会費以外の学費(学用品代)は一切くれず、母からもらい、衣類なども母から買ってもらっていた」と証言している[50]
    12. ^ Mの母親の代理人弁護士も「こんな常軌を逸した酷い家庭の争いを見たことはない。Xは長男A1が生まれてから2、3年経ったころ、隣家の未亡人と関係していることを妻に見つかって以降、妻に対し殴る蹴るなどの暴力を振るうなどしていた」と[54]
    13. ^ Mの母親は夫Xを相手取り、1952年2月に青森地裁五所川原支部へ離婚を請求し、慰謝料100万円の調停申し立てを行ったが、Xが調停委員の勧告を受けようとしなかったため、同年9月1日には同地裁支部に提訴[54]。訴訟は1953年12月22日に結審する予定だった[54]
    14. ^ a b c 検察官は第一審初公判の冒頭陳述で、青酸カリ様のものでXを毒殺するようMを唆したのは次兄である旨を述べているが[43]、母親はA1が唆した旨を述べている[50]。仙台高裁秋田支部 (1958) は、A1が唆した旨を認定している[64]
    15. ^ 雨もほとんど凌げない粗末な小屋[52]
    16. ^ 『読売新聞』 (1953) は「(A1を除く)7人の子どもたちはXを憎み、家を出た実母に同情していた」と報道している[54]
    17. ^ 実家から約150 m離れた場所[61][62]
    18. ^ Mは事件数日前、食うに困ってA1の許を訪ね、「食べ物を分けてくれ」と懇願したが、A1から「乞食みたいな格好でうちの敷居をまたぐな」と罵倒され、追い払われた[11]
    19. ^ 『読売新聞』 (1953) は「裾野村鬼沢」(現:弘前市鬼沢)と報じている[54]
    20. ^ 石川清 (2015) は、Mが酒のつまみとして味噌を食べていた旨を述べている[52]
    21. ^ a b 検察官の論告では「Zの死因は不明」とされているが[90]、検察官(山本)は「前後の事情から推して、犯人 (M) に発見され、逃げ切れずに射殺されたのに間違いない」という見解を示している[108]。仙台高裁秋田支部 (1958) はZについても「Mに射殺された」と認定している[13]
    22. ^ a b Mは自首した当時、実包1つと薬莢2つを入れた弾帯を締めていた[54]
    23. ^ 出火時間について、『読売新聞』 (1953) は「Mを取り調べていた途中の2時30分ごろ」と報じている[4]
    24. ^ a b c d 第一審の初公判から審理を担当していた沖中検事は、後に神戸地検尼崎支部長へ異動した[82]
    25. ^ 次兄は事件当時、南津軽郡大鰐町の旅館に宿泊しており[54]、母親も西津軽郡柏村桑野木田(現:つがる市柏桑野木田)にいた[42]
    26. ^ 本事件の公判は新刑事訴訟法[1949年(昭和24年)1月に旧刑事訴訟法から改正]下で進められた[88]
    27. ^ 安斎の鑑定書は「Mの犯行当時における精神状態は、異常環境にあったところの精神薄弱症を合併した精神病質者に、酩酊時に発した突発的感動性朦朧状態があった」とする旨を述べている[97]
    28. ^ a b Mの父方の従兄弟に精神薄弱者がおり、従兄弟の子に癲癇患者がいる[49]
    29. ^ 当初は2月23日に開廷予定だったが、証人として出廷する林の都合がつかなかったため延期された[106]
    30. ^ 弘前拘置支所(弘前市)は2021年時点で青森刑務所の下部組織である[113]
    31. ^ Mに無罪判決が言い渡された際、公判を傍聴していたMの次兄と妹は安堵の表情を見せていた[37]
    32. ^ 同事件の被害者(三男)は地元で有名な不良で、ヒロポン中毒で精神病院へ入院していたが、事件の約2週間前に病院を脱走して自宅に逃げていた[139]。また、事件1か月前には村議会議員を努めていた村の顔役である父親に対し「東京へ行くから金を出せ」と迫り、暴力をふるって警察に逮捕されていた[140]
    33. ^ 同事件の加害者である次男は、被害者(三男)とは対照的に、地元では「働き者な孝行息子」として知られており、事件後には集落の人々から次男にとって有利な証言が集まった[140]
    34. ^ この被害者は過去に強盗・窃盗などを繰り返し、前科5犯の経歴で、3か月前に強盗罪による服役から刑務所を出所したばかりだった[142]。また家の金を使い込んで遊び、家財を売り払った金でヒロポンを常用していた[46]
    35. ^ 加害者の弟は被害者(長男)とは対照的に、集落では模範的な好青年として知られ、約1.2 ha(リンゴ園+水田)を耕す一家の大黒柱を担っていた[142]
    36. ^ これを受け、石川は「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための一種の“私刑”(リンチ)という側面があったのかもしれない」と述べている[47]
    37. ^ 赤石によれば、青森県における殺人事件の件数に対する尊属殺人の割合は、1953年が26%、1954年が29%、1955年が20%となっていた[145]
    38. ^ これに対し、赤石は「事件の多い長野県も日本アルプスに囲まれた環境だ」という旨を指摘している[114]
    39. ^ 具体的には財産争いなど、争いの要素を含んでいるものに対し、民生委員や近親者らが積極的に解決に当たることや、親子間にある考えの違いの解消(互いに理解し合うこと)[114]
    40. ^ 小友集落は事件から60年近くが経過した2010年代時点でも、犯人M(および被害者一家)と同じ「M」姓を名乗る一族が多い[137]

    出典

    1. ^ 弘前市歴史的風致維持向上計画”. 弘前市 公式ウェブサイト. 弘前市 (2017年12月9日). 2020年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月6日閲覧。⇒)第1章 弘前市の歴史的風致形成の背景” (PDF). 弘前市 公式ウェブサイト. 弘前市. 2020年9月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月6日閲覧。
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    3. ^ a b c d e f g 陸奥新報』1953年12月13日朝刊一面1頁「実父、兄らを射殺放火 一家八人が焼け死ぬ 新和村で惨事 別居中の三男が自首」「惨状眼を覆う現場 助かった○○(使用人の実名)君談 気づいたときは火の海」「涙をそそる幼児の死体」「Mの部屋に謎の文句」「耐えなかった不和 家を追い出されたM」(陸奥新報社)
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        • 検察官:山本稜威雄(控訴趣意書を作成)・柏木忠(控訴趣意を陳述)・長井省吾(関与)
        • 弁護人:丸岡奥松
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    • 加藤伸勝「酩酊犯罪者の精神鑑定における飲酒試験と血中アルコール測定の意義」『精神神経学雑誌』第1号、日本精神神経学会、1959年1月25日、24-46頁、doi:10.11501/3358656NDLJP:3358656/17  - 東京都立松沢病院に勤めていた筆者が、酩酊状態で事件を起こした被告人の精神鑑定に当たり、飲酒試験を行うと同時に血中アルコール濃度を測定し、事件当時の酔度を推定するための資料を得るべく、松沢病院に鑑定留置された酩酊犯罪者11人と、慢性アルコール中毒のため傷害事件を起こして措置入院となった患者1人(計12人)の飲酒試験を行い、その結果をまとめた論文。本事件の犯人Mは35 - 36頁に「症例10 M某、26歳、男、尊属殺人事件被告」として掲載されている。また、Mの精神鑑定を行った院長の林暲が指導・校閲を手掛けている。

    その他

    関連項目