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'''日本史詳説'''(にほんししょうせつ)は[[日本史]]を年代に沿って詳しく解説する。簡略な記述は[[日本の歴史]]にある。また、各時代の項目も参照。 |
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==マンモス・ハンターの時代== |
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2004年10月13日 (水) 19:52時点における版
日本史詳説(にほんししょうせつ)は日本史を年代に沿って詳しく解説する。簡略な記述は日本の歴史にある。また、各時代の項目も参照。
マンモス・ハンターの時代
人類が日本列島に足跡を残したのはいつごろからだろうか。
日本列島は、今からおよそ500万年前に、不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあった。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の日本列島ができあがった。
人類はこうした厳しい時代を、環境の変化に耐え、適応しながら生き抜いてきたのである。ところで、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石が各地で見つかっている。そうした動物を追って大陸の旧石器時代人も日本列島へ渡ってきた可能性は充分考えられる。(→地質時代・石器時代・日本の旧石器時代)
最近、長崎県平戸市中山町の入り口遺跡から約10万年前の石器が見つかっている。これで、日本列島に足跡を残した人類を10万年昔に遡る可能性が出てきた。つまり、日本列島の人類の歴史は、約10万年前に遡り、旧人が活躍した中期旧石器時代に始まる可能性が出てきたということである。(→ヒト)
旧石器時代人の食料を得るための植物採取活動や漁労活動は、どんなものであっただろうか。
旧石器時代人は、ナイフ形石器、槍先形尖頭器、細石刃、有茎尖頭器、石槍というような狩猟具は発達させてきたが、生産活動に使う用具の発明・発見がほとんどなかったといってよい。用具の発明・発見は、縄文時代に入ってからであって、旧石器時代人の食料を得るための中心活動は狩猟活動であった。野尻湖湖底の発掘では、ナウマン象やシカを集団で狩ったことがわかる。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たち、いわゆる“マンモス・ハンター”であったと思われる。だから、竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人はキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたと推定されている。
旧石器時代の終末に、大陸から渡来の磨製石器などとともに、九州では豆粒文土器、本州では無文土器が出現している。北海道では本州よりも少し遅れた。土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、この頃の土器の役割はまだ十分解明されていない。しかし、豆粒文土器の内側に炭化物が残っていたことから煮炊きに使われたと考えられている。これらの石器や土器が食生活に及ぼした影響は大きく、縄文時代へと移行していくのである。
旧石器時代の遺跡
縄文(発明・発見、共同社会)の日本
- (詳細は縄文時代の項を参照。)
この時代に氷河期が終わり環境は急速に温暖化した。関東地方で群馬県地方まで貝塚がみられるのはこのためである。縄文時代の人々は、竪穴式住居に住み、弓矢での狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに縄文式土器を用い、様々な用途に打製石器・磨製石器と骨角器をあてた。土器として、縄文土器が歴史的に最も古くその起源については十分解明されていない(中央アジアでもほぼ同時代のものがあるという)。人々の交流は広い範囲にわたり、環状石籬 (環状列石) のような大人数の動員と世代間の継承を要する事業を起こし、山内丸山遺跡のように巨木工事もおこなうことができた。これが信仰のものか、建造物かは議論がある(日本海沿岸には巨木の伝統がみられ、時代は繋がらないが出雲大社でも巨大な柱穴が発掘されている)。また船を作る技術を持ち、遥か太平洋に繰り出している形跡も見られる。
縄文時代といえば、縄文式土器・貝塚・土偶・竪穴式住居を想像し、まだ野蛮で未開な段階にあり、それぞれの集落が境界・領域を主張して、その中で自給自足の生活をする閉鎖的な社会であると、考えられてきた。ところが、縄文の社会は、共同生産、共同交易、共同祭祀など、共同の社会であった。それを支えた共同組織も出来上がっていたと考えられている。
石器づくり 石器は、縄文人の生活する上で、なくてはならないものである。石器をつくる石材は集落の周辺にあるとは限らない。特に黒曜石やサヌカイトが何処にでもある石材ではない。良質な黒曜石は、北海道から近畿地方にまで分布している。集落間の物々交換だけではこのような広範囲にまで広がらない。そこには専門の石器製作の集団が存在し、日本各地に供給する組織が存在したと思われる。
土器づくり 縄文土器は、各集落で自給自足していたと思われてきたが、土器づくりはそう簡単ではなく、専門技術を持った集団が組織的に行わなければ出来ない仕事であることが分かってきている。土器づくりの専門集団が大量に生産し、各地に供給する組織があったのでであろう。
環状石籬(かんじょうせきり) 縄文時代の大型遺構の一つに配石遺構がある。ヨーロッパのストーン・サークルに因んで環状石籬と名づけられた。共同墓地で、共同祭祀が行われた。北海道から中国・四国地方まで分布し、発見例が増えてきている。ここでも、既述の石器づくりや土器づくりで考えたように、集落をこえる村落規模の社会が出来上がっていたのではないかと考えられている。
縄文時代の終わり頃には、雑穀類に混じってイネ(陸稲)の栽培が行われていた。そこへ、縄文時代の社会を一変させる水稲農耕と金属器の技術が中国南部あるいは朝鮮半島の南部から北部九州へもたらされた。弥生時代の始まりである。
弥生の日本
- (詳細は弥生時代の項を参照。)
やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に奴国の王が後漢に、3世紀にあったと言われる邪馬台国の女王が魏に、倭の王であることを意味する金印を授けられている。この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれた。
中国南部あるいは朝鮮半島南部から渡ってきた水稲農耕は、たいした時間を経ずに本州の最北端まで伝播したと考えられている。この弥生時代には、水田による米作が始まり、地域的な文化の違いが大きくなるとともに、集落間の争いが頻繁になった。そのなかから多数の集落を統合する政治組織も登場したと考えられる。土器の作り方など、東西の文化の性格の違いが指摘されている。弥生時代には農業によって定住が可能になったことから村ができ、技術を持つもの、富を蓄えるものなど貧富や上下関係が出来つつあった。また土地を巡って戦いが絶えず、人々は防護された環濠集落の中に住んだ。
1世紀頃の日本は百余国に分かれていた。北部九州の奴国という小国が、中国皇帝から「漢委奴国王」の印を授けられた。3世紀に邪馬台国があり、中国皇帝から「親魏倭王」の金印を授けられた。この頃は、弥生時代の中頃から終末に当たり、列島的規模で厳しい戦争が行われ、外敵からの攻撃を防ぐために環濠集落や高地性集落がつくられた時代であった。邪馬台国の卑弥呼が、首長連合勢力から女王に共立されて、「倭国乱」が収まったが、反対勢力も残っていた。倭・倭国・倭人のことが中国の史書にみえる。特に、3世紀の倭人社会について『魏志』倭人伝が詳しい。
この時代には、いろいろな形で階層が出来上がり、墳墓のつくりにそれが現れ、日本各地でさまざまな形の墳墓が造られるようになった。
ヤマト政権の日本
- (詳細は古墳時代の項を参照。)
3世紀の終わり頃から6世紀の終わりまでの約300年間にわたって身分を表すものとして前方後円墳が造り続けられた。それぞれの豪族の墓であり、過程と時期に諸説あるものの、奈良県桜井市の箸墓古墳が初期のものとされることから、前方後円墳はこの時代大和王権が倭の統一政権として確立してゆくなかで、各地の豪族に許可した形式であると考えられている。3世紀の後半から奈良盆地に大王稜クラスの前方後円墳が出現し、4世紀の初めには大坂平野に巨大古墳が築造され、この世紀の終わり頃には畿内の一部に先進的な群集墳が現れる。つづく5世紀の半ばには、各地に巨大古墳が築造されるようになる。それが、6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった。強力な政権が形成されたものと考えられる。ヤマト政権であろう。ただ、この後しばらくの間、方墳や円墳は造り続けられる。
4世紀後半から5世紀にかけて、倭軍が朝鮮半島の百済・新羅や高句麗と戦ったことが「高句麗広開土王碑(こうかいどおうひ)」文にみえる。この時、筑紫の国造磐井が新羅と通じ、周辺諸国を動員して倭軍の侵攻を阻もうとしたと日本書紀にみえ、磐井の反乱(527年)として扱っている。これは、度重なる朝鮮半島への出兵の軍事的・経済的負担が重くのしかかって反乱となったと考えられる。
5世紀の初めから6世紀の終わり頃まで活躍した「倭の五王」のことが中国史料にみえる。その倭王武は、国内の東西を服属させたと文書に書いていているほか、朝鮮半島の支配権も主張している。稲荷山古墳出土の鉄剣銘文から王権が関東まで及んでいたことが分かる。朝鮮半島の鉄生産や先進的な文物の取得を求めて侵攻したと思われる。倭人が朝鮮半島で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた(鳥取県の遺跡で鉄の板が多量に発掘され、この形で輸入されたらしい)。
倭は、大和地方を本拠に本州中部から九州北部までを支配したと考えられている(→大和王権)。倭は6世紀後半には、東北地方南部から九州のほぼ全域までを支配していた。領土拡大の過程では大小の国や種族との和戦があったが、『古事記』『日本書紀』には伝説的な物語しか伝わっておらず、その実態は定まらない。古墳に収められた品物に武具が多くなることから、大和王権は騎馬民族だという説がある(近年、あまり理論に補強がない)。この時代を古墳時代と呼んでいる。
飛鳥時代の日本
- (詳細は飛鳥時代の項を参照。)
この時代には、朝廷を中心とした政治体制が確立されてくる。6世紀終わりから7世紀初めにかけて、推古天皇の摂政であった聖徳太子が604年(推古12年)官位十二階を制定し、憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築いた時代であった。この頃、蘇我氏のような豪族の力も大きく、天皇や皇族の存在はまだまだ小さなものであったため、聖徳太子は中国の官制を参考に制度改革を行い、朝廷の仕組みを作り上げようとして、天皇を中心とした法治国家体制を築き上げていく。645年中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺する。乙巳の変という。翌年に改新の詔を宣して、天皇中心国家への改新を始める。世にいう大化の改新である。この年、薄葬の制も定められた。薄葬とは、墳を造らないことである。
7世紀まで、倭は歴史的に任那・加羅の領有権を主張して、また朝鮮半島の諸国との政治的関係から、しばしば半島に出兵していた。しかし663年(天智2年)白村江の戦いに敗れてからは、対馬までを日本領として西方は防衛に専念した。水城を造る。この後、都を近江に移し、官位を制定し、全国的に戸籍(庚午年籍)を造るなど内政に力を入れた。天智天皇が亡くなるとたちまち672年壬申の乱が起こった。勝者になった天武天皇は、この年の冬(天武元年)都を飛鳥浄御原宮に移し、689年浄御原令(きよみがはらちょう)を制定し、官制を整え、庚寅年籍を作成するなど、国内の各種の制度を確立していった。その後唐の律令制度を基本に701年に大宝律令が制定され、公地公民制、班田収授法による税制の仕組みの確立や、二官八省の設置によって大蔵省など今日に至るまでその名称が使用される中央官庁の組織編成など、天皇を中心とした中央集権国家が確立され、今日に通じる日本の政治体制の基礎が築き上げられたと言える。
この間、都は、難波宮や694年藤原宮に移るなど宮や都が幾度もあちこちに遷りあわただしかった。しかし、天皇中心の国家(中央集権国家)が段々と出来上がっていった時代でもあった。
この時代を一般に飛鳥時代と呼んでいる。この頃、倭は「日本」と改称し、王号も「大王」又は「治天下大王」から天皇となった。
この頃日本に仏教が伝来し、法隆寺や四天王寺等各地で寺院が建立され仏教を中心とした飛鳥文化が構築され、中国大陸の文化を取り入れるため遣隋使、遣唐使の派遣も行われた。朝鮮半島との交流も深く、6世紀に存在した百済とは同盟関係も結んでいた。
律令国家の日本
- (詳細は奈良時代の項を参照。)
倭は、8世紀の初めに、国号を「日本」と改めたと中国史書にみえる。710年、平城京に遷都した。この時代は仏教が盛んになり、唐風の天平文化が栄えた。遣唐使が盛んに行われ唐の文化や芸術品が多数持ち込まれ、鎮護国家のためにと東大寺の大仏が建立された。各地に国分寺という寺院が建立され仏教は日本国中に広まっていくことになり、鑑真和上が大陸から来日し仏教の発展にも努めた。
東北の蝦夷に度々遠征軍を派遣して、国境を北に押し上げた。この時期以降、日本は唐の文物を導入して、702年律令(702年大宝律令、718年養老律令)にもとづく政治制度を整備した。貴族が高位を占める官僚制国家が、土地と人民を直接掌握し、税と労役・軍役を各戸に直接課すものである。律令が中央・地方の社会を強く規定した8世紀は、律令国家の時代とされる。これは奈良時代をすっぽり包み込む時期である。文化面では唐の影響がもっとも強く、官人貴族の服装も唐にならった。天皇を賛美し、天皇中心の理想国家を目指した712年『古事記』、720年『日本書紀』を編纂する。またわが国最古の歌集として万葉集が完成した。律令国家は、5世紀に入ってきた仏教をやはり唐から取り入れて全国に広め、それと並行して神道も整備された。
急速な法令・社会制度の改革に伴い、財政需要が急増し税収確保が課題となっていた。そこで生産増加を喚起するため、723年の三世一身の法が制定され、さらに743年に墾田の私有化を認めた墾田永年私財法が制定された。これは荘園の形成につながっていった。
平安時代の日本
- (詳細は平安時代の項を参照。)
律令制度は、貴族と寺社が国家の支配を受けない荘園を拡大し、地方支配が弱まっていくなかで、次第に有名無実化していった。10世紀には唐の影響は弱まり、京都の貴族が日本独特の洗練された文化を開花させた。律令政治の解体後に生まれた11世紀から12世紀の新しい体制を、歴史学者は王朝国家と呼んでいる。王朝国家の時代には、中央の体制は安定していたが、地方行政の弛緩が顕著になり、武士が地方の行政・治安の真空を侵食した。武士は互いに戦い、あるいは反乱を起こして鎮圧される中で、次第に存在感を増していった。宗教では、それまで国家護持を期待されていた仏教に、個人救済の傾向が強まった。
平安時代初期
桓武天皇が794年に都を平安京に遷し、ここに明治時代までの約千年もの長い間、京は日本の首都となる。桓武天皇は前時代の政争を一掃するため、長岡京、平安京と遷都した。また坂上田村麿を征夷大将軍に任じ何度も陸奥国を北方へ拡張させ、概ね岩手県中部まで勢力圏とする。しかし社会的に余裕がなくなり、天皇の晩年自ら命じて、造都と蝦夷征服を中断させる。貴族は京の政治的・文化的生活に意を注いだ。勅撰の漢詩集を編纂するなど、思想的にも充実する。醍醐天皇前後の時代は「延喜天暦の治」と呼ばれ後の時代から繁栄した時代とあがめられる。時代の風潮は、最澄、空海が中国から新しい仏教を導入し、学問ではなく、救済の仏教を創設したことでも特徴ずけられる。
平安時代中期
中央では藤原氏が政争により、実権を握って他の貴族を寄せ付けない摂関政治を行ない、地方では私有地である荘園が全国に広がって、荘園と国衙領が混在する荘園公領制が出現した。このことで公地公民制が崩壊し有力貴族の力が蓄えられることとなり、有力貴族が大きな力を持ち、政治が天皇から離れ貴族によって左右されるものへと変化していく。文化面では、唐風の弘仁貞観文化から、日本的な国風文化に移り変わった。
平安時代後期
平安時代の後半には武士が政治的に実力を持つようになった。その典型が平将門の乱とされる。11世紀末には藤原氏を外戚としない天皇が現れ、摂政の制約を無くし、次いで自らが幼い天皇の父として政治を行う上皇に権力を集め院政を行った。
平安時代末期
末期には武士は朝廷の政争に関与し、最終的に全面的内戦の主役になる。この時期、政治経済の混乱を背景に、世界は「末法」の時代になったと宣伝され、仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期には、日本の支配は奥州藤原氏の手により本州北端まで及んだ。
設立当初より制度的破綻を内包していた律令体制はいわゆる武士台頭を招き、12世紀には源氏と平氏の2大勢力が中央政権の実権を奪い合う状態となった。この権力闘争は平清盛を筆頭とする平氏の勝利に終わり、いわゆる平家の全盛時代が始まる。平清盛は太政大臣にまでなった。
しかし、平家は律令体制に代わる現実的な新しい統治理論を打ち出すことをせず、旧式の太政官制度内での栄達にひたって公家化し、当の平家を含む全国の地主層である新興階級の武士たちとの間に次第に溝が出来てきた。
平清盛の最晩年、過去の権力闘争時に唯一殺害されずに伊豆に流刑にされ、北条家預かりになっていた源頼朝が平氏である北条家を抱きこみ反乱に踏み切り、各地で連敗しつつも、次第に関東一円の武士の支持を勝ち取り大勢力となる。
鎮圧のための大軍を送り込んできた平家の軍勢を富士川近辺で敗走させ、自身は鎌倉に身を置いたまま、頼朝にわずかに先立って反乱に立ち上がった木曽の源氏「木曽義仲」の軍勢と平行したかたちで全軍を西進させ、ついには平家を京の都から追い落とした。その後都を破壊した木曽義仲を撃破し、平家の大軍が立てこもる福原の都(現神戸)を強襲してこれを破り、続く屋島(現香川県)、壇ノ浦(現山口県)の戦いで掃蕩し、ここに平家の時代は終焉を迎えた。
中世の日本
天皇家の内乱である保元・平治の乱で活躍した武士は、源氏と平氏に分かれて武士の頂点に立つ地位を争った。12世紀末に最終的に勝利した源氏の源頼朝は、征夷大将軍となり、鎌倉に全国の武士を支配する幕府を開いた。この鎌倉幕府は朝廷の権威を否定しなかったが、武士を支配することを通じて地方の警察力を独占した。武士は、荘園や国衙領の存在を否定しなかったが、さまざまな理由をつけて年貢を奪い、みずからのものにした。荘園・国衙領の減少は、鎌倉時代から室町時代まで徐々に進行し、最終的に戦国時代に完了した。鎌倉時代には、二度にわたってモンゴル軍が日本を征服するために来襲した(元寇)が、幕府は武士を動員して二度とも撃退した。
鎌倉幕府は、1333年に後醍醐天皇の討幕運動によって滅んだ。後醍醐天皇は朝廷による建武の新政を行なったが、武士の不満を招いた。武士の期待を集めた足利尊氏が1336年に別の天皇を立てると、全国に長期の内戦が広がった。南北の朝廷は1392年に北朝優位のもとに統一されたが、1467年に始まる応仁の乱をきっかけに、日本はふたたび全面的内戦の時代に突入した。戦乱の中で、朝廷をはじめ荘園領主など軍事力を持たない権力は没落した。空白を埋めるものとして、畿内とその周辺で、村や町の自検断や、国一揆、一向一揆などに自治の動きが現れた。中央から離れたところでは、戦国大名が現れた。またこの時代、瀬戸内海や九州の水軍は、倭寇となって海上交易の覇権を争った。
戦国大名は、領国内の軍事力と経済力の総力を動員する体制を整え、隣国を侵略・併呑して強大化した。戦国大名の強大化を前に、自治的権力は敗れた。国内の領土拡大戦がはみ出るような形で、日本の武士は北辺で現在の北海道の南部に進出してアイヌ人を支配し、南方では琉球を事実上支配するようになった。
鎌倉時代
- (詳細は鎌倉時代の項を参照。)
源頼朝は、1192年征夷大将軍の宣下をそのまま受け、鎌倉幕府を開いた。ここに日本初の軍事政権である幕府を創始することとなる。
源頼朝は現実的な施策として全国に守護を置いて、地方の荘園・公領を名義はそのままで管理させる一方、全国各地方に地頭を置き武士が実効支配するという二元の支配構造を敷いた。 実際には守護は地頭を管理・監督するのみで公家層は荘園・公領に対する実効支配力を失っていった。
最大の改革点は「問注所」(後に評定所)と呼ばれる訴訟受付機関を設置したことで、これまでは地所の支配権をめぐる争いは当事者同士の武力闘争に容易に発展していたものをこれにより実質的に禁止することになった。武士の、つまり全国各地の騒乱のほぼ全ての原因が土地支配に関するものであり、頼朝の新統治理論はこの後永く幕藩体制の根幹を成すものになった。
源頼朝の死後、将軍の輔弼制度として北条家による執政制度も創設され、例え頼朝の血統が絶えても鎌倉幕府体制は永続するように制度整備がなされ、その裏打ちとして御成敗式目という初の武家法が制定され、その後の中世社会の基本法典となった。
後鳥羽上皇らが幕府討伐のため起こした承久の乱は、結果としては幕府が朝廷に勝利し、朝廷に対する幕府の政治的優位性の確立という画期的な事件となった。(それでも幕府は朝廷を滅ぼさなかった点に日本独特の政権意識が垣間見られる。)
経済的には、地方の在地領主である武士の土地所有制度が法的に安定したため、全国的に開墾がすすみ、質実剛健な鎌倉文化が栄えた。文化芸術的にもこのような社会情勢を背景に新風が巻き起こり、それまでの公家社会文化と異なり、仏教や美術も武士や庶民に分かりやすい新しいものが好まれた。政局の安定は西日本を中心に商品経済の拡がりをもたらし、各地に定期的な市が立つようになった。
13世紀には二度にわたる元寇があった。この戦いでは辛うじて元の侵攻を阻止出来た。これにより「日本は神国」との意識が生まれ、後世の歴史意識に深く刻み込まれていくこととなった。また、対元戦争による物理的な獲得は何も無く、そのため出征した御家人への恩賞が支払われず、武士の心は幕府から離れていったとする説もあるが、その後約50年間も幕府が存続したことを考えると、幕府衰退に直接の関係はないとする見方もある。
南北朝時代
建武の新政
- (詳細は建武の新政の項を参照。)
在地領主層であった武士の複雑な利害調整を負託されていた北条得宗家による執政体制の鎌倉幕府は、元寇以来の政局不安によりその武士層からの支持を失い、1333年に後醍醐天皇を担ぐ討幕勢力によって倒された。
しかし後醍醐天皇は新たな総合調整能力を持つ政権の誕生を待望していた守護大名を筆頭とする新興武士層の期待を裏切り、当時の日本の実情に合わない「建武新政」といわれる大陸の皇帝的な天皇親政を目指し、ほぼ全ての武士の不満を買って政権は安定せず、ついには源氏の嫡流を汲む足利尊氏の反乱を招くに至る。
南北朝
- (詳細は南北朝時代の項を参照。)
後醍醐天皇は一旦は光明天皇に譲位するものの吉野に逃れて南朝を建てる。足利尊氏は光明天皇を押し立て(北朝)、征夷大将軍の宣下を受け1336年に室町幕府を開いた。二つの朝廷がそれぞれ正統を主張し対立する南北朝時代は1392年まで続き、様々な曲折を経て最終的に三代将軍足利義満により北朝に統一された。これによって鎌倉幕府末期からの日本を治める政治体制をめぐる争いが決着したが、室町幕府の政権基盤は決して強固とはいえず、各地では様々な権利関係をめぐる争いが絶えなかった。
室町時代
- (詳細は室町時代の項を参照。)
京都に本拠地を置く室町幕府は3代将軍足利義満の時に全盛を迎えるが、その後様々な将軍職相続問題を機に、有力大名達の争いを生じさせる。もともと独自の財政軍事基盤に乏しく、管領・四職家没落後はこれらの軍事的・非軍事的な紛争を調停するだけの力しか持ちあわせてなかった。将軍家歴代は政治力を徐々に失っていき、いわゆる北山文化、東山文化といわれる禅宗などの影響を受け、「侘び・寂び」を基調とした文化的活動に没頭していった。
この間、各地の勢力争いは結果的に割拠勢力の相互努力による「国力増強策」を誘発し、それまでは一般庶民(農民)が購入するには高価過ぎた「鉄製農具」が安価に普及し始めたことに伴い、広い地域を灌漑する「治水」の技術が発展。農業生産を中心とする経済は急成長をはじめ、全国的に余剰生産を生むに至り、それまでの非支配者階層が実力を持つようになる。
慢性的な騒乱状態はついには京都にも伝染し、8代将軍足利義政の跡つぎ争いが生じ、これ端を発した有力大名の権力闘争応仁の乱を引き起こすに至る。この乱で軍事的に中心的な役割を果たしたのは西軍・東軍双方とも「足軽」と呼ばれる無名の兵士群であり、それまで武家の独占であった「軍事」が下級市民に取って代わられていった象徴的な事件でもあった。 この事件をきっかけに平安時代以来の京の都は灰塵に帰し、室町幕府は全く実態を失った。京都が「首都」の実態を取り戻すのは約百年後の織田信長の出現を待たねばならなかった。
また明に朝貢する形での勘合貿易を行い、大陸との貿易も盛んに行われるようになっていた。一時それが取りやめられると西日本、特に九州方面では一部の漁民が海賊化し倭寇として朝鮮半島や支那大陸の明の沿岸を襲った。
戦国時代
- (詳細は戦国時代の項を参照。)
応仁の乱以降を戦国時代と言う。慢性的な紛争状態が続いた時代だが、毎日が「戦争状態」にあったことではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。これを下克上という。様々な経歴の戦国大名が登場する。
それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われた。そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で「成功」を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えていた。荘園制度に立脚した律令制が在地領主層である「武士」の台頭で消滅したのと同じく、経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代でもあった。(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある。)
近世の日本
国内の分裂は豊臣秀吉が1590年に国内を統一しておさまったが、秀吉はすぐに明に対する戦争(文禄・慶長の役)を起こし、朝鮮半島に侵攻した。秀吉の死により日本の軍勢は撤退しこの戦争は終結した。徳川家康が武家を二分して争った関ヶ原の戦いに勝利し征夷大将軍に就くと江戸幕府を開いて天下を取った。その後大阪の陣により豊臣氏は滅亡し、長く続いた戦乱は終わった。
内戦終了後の日本は、多数の大名に分割して領有され、そのなかでも最大の領主たる徳川氏が幕府を開いて日本全体の支配者になる、という幕藩体制をとった。この江戸時代は、対外的には、長崎出島以外で外国との交流を禁止する海禁政策を採り、この期間を鎖国の時代と呼ぶ。海禁政策は、この時期における多くの東アジア諸国に共通して見られる対外政策であった。この時期、日本は二百数十年の平和によって経済的に繁栄し、とくにその後半には、各種の学問が興り、都市の世俗・大衆文化が隆盛を極めた。
安土桃山時代
- (詳細は安土桃山時代の項を参照。)
戦国大名と言われる新興勢力の中で、織田信長が「天下布武」のスローガンを掲げ、勝利を続けてその勢力を爆発的に拡大し、ついには当時「天下のことは定まりたり」と言われるほどに至る。この理由としては、他の大名に見られない実力本位による家臣団編成によるところが大きいと考えられている。
天下統一を目前に信長が明智光秀により殺害された後、実力で後継者の地位に就いた豊臣秀吉が権力闘争に勝ち抜き1590年に全国を統一した。
織田信長の方針だった重要な平和施策である検地と刀狩りを全国規模で行い、全日本規模での課税台帳の整備により国民経済の実態を把握し、農民・商人(一般庶民)の武装を禁じて非合法武装決起を未然に防ぐ治安対策を徹底した。
この時代は圧倒的な経済成長と織田信長治下の安定のもと、豪奢絢爛な桃山文化が栄えた。
豊臣秀吉は織田信長の理想を彼なりの方法で具現化し、日本に百数十年ぶりの「平和」を実現した。その後、明の征服を目論んで文禄・慶長の役を起こしたが、朝鮮の抵抗に敗れた。この朝鮮出兵は、結果的に豊臣政権の諸大名・有力商人(財界)の支持を失い、豊臣秀吉の亡き後には、権力を巡って有力大名同士の衝突を生じさせる結果となった。1600年に生じた関ヶ原の戦いにおいて徳川家康が大勝利を収め、次の時代の後継者として名乗りを上げる。
江戸時代
- (詳細は江戸時代の項を参照。)
室町時代と並び、現代の日本を形作る原型となった時代。現在の日本の問題点を考える上でも見習うべき点が驚くほど多くあり、再評価が待たれる。
江戸時代初期
徳川家康は征夷大将軍に就くと自領である江戸の地に幕府を開き、ここに徳川幕府が誕生する。豊臣政権崩壊後の政局の混乱を収め、産業・教育の振興その他の施策に力を入れるとともに、大阪の陣により豊臣氏とそれを担いで騒乱を期待する勢力を一掃。長く続いた政局不安は終わった。
徳川幕府は徹底的な政局安定策をとり、武家諸法度の制定や禁中並びに公家諸法度など諸大名や朝廷に対し、徹底した法治体制を敷いた。大名の多くが「所領没収」で姿を消し、全国の要所は直轄領として大名を置かず、多数の親藩大名に大領を持たせ、その合間に外様大名を配置し、譜代大名には小領と中央政治に関与する権利を与えるという絶妙の分割統治策を実施した。
「自家優先主義」との批判もあるが、これにより結果的には260年以上続く世界史的にも驚異的な長期安定政権の基盤を確立し、「天下泰平」という日本語が生まれるほどの相対的平和状態を日本にもたらした。
また、農本主義的に思われている家康だが、実際には信長、秀吉と同時代の人間であり、また信長の徹底的な規制緩和による経済振興策をその目で見てきていることからも、成長重視の経済振興派であった可能性が指摘されている。平和が招来されたことにより、大量の兵士(武士)が非生産的な軍事活動から生産活動へ転じたため、戦国時代から安土・桃山時代へと長い成長を続けていた経済は爆発的に発展し、高度成長時代が始まった。
また江戸時代には、対外的には長崎出島以外で外国との交流を禁止する海禁政策を採ったが(この期間を鎖国の時代と呼ぶ)、これも家康の基本方針には無く、家康死後数十年後、3代将軍家光の時代からである。 当時の国際状況に過敏に反応した政府首脳が拙速な外交方針としてこの海禁政策を打ち出したものであり、確かにこの時期における多くの東アジア諸国に共通して見られる対外政策であったが、当時の日本の国力、政権の基盤、国内の安定度からみても、日本独自の外交策を堅持することは可能であったと思われるが、この点も現代日本に深い示唆を与えるものであろう。
江戸時代中期
いわゆる江戸時代の暗い停滞イメージのもとになるのは18世紀終盤であり、有名な8代将軍「徳川吉宗」の享保の改革以降である。土地資本を基盤とする(土地所有者ではない)支配者層である武士の生活の安定と、安定成長政策とを上手く融合できずに、金融引締め的な経済圧迫政策のみを打ち出した結果であり、その結果の出口の見えない不況が社会停滞の原因である。また、増えすぎた人口を農業のみでは養っていけない東北地方等では不作が発生した際に「飢饉」にまで事態が悪化してしまうという不幸が、特に江戸時代後半には多くなったことも、続く明治時代から見たこの時代の印象と評価を不当に下げているものと思われる。
実際には、超長期の安定政権は、特に前半の百数十年は成長経済基調のもと、日本に空前の繁栄をもたらし、その後の日本の誇りとなるような学問・文化・芸術・商法等あらゆるジャンルで様々な才能が花開き、確立され、現在へと引き継がれているのである。
ただ一点、「武家政権」と言いながら、それまで数世紀に渡って蓄積された軍事的ノウハウは全く失われ、人口の1割にもなろうとする膨大な人数の「武士」とその家族は、すでに軍人でも土地資本家でも無くなり、行政官としてのみ存在することになった。特に失策により経済成長の止まった江戸時代後半にはその雇用問題自体が大きな政治課題となった。
また失われた軍事能力は、嘉永年間のペリーの黒船騒動以降の騒乱のなかで、「武士」の存在意義そのものを疑われる遠因になると同時に、明治以降現在に至るまで、日本にいびつな「軍事観」と「平和観」をもたらしているものとも無縁ではないであろう。
だが実際の江戸時代は町人文化や伝統芸能、娯楽、芸術、経済、物流と言った物が非常に活発になった時代でもあり、日本のルネッサンス期に相当する。 また非常に環境に配慮された社会構造や整った教育制度が出来上がっており、現代日本にとっても参考に出来る時代で江戸時代への評価は高まっている。
江戸時代末期
発展する経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも「太平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。
加えて18世紀後半の近代産業革命とその果実を得た西洋諸国は急速に「近代化」し、それぞれの政治経済的事情から前時代の「冒険」ではなく、みずからの産業のために資源と市場を求めて世界各地に「進出」をはじめた。
遠い極東の地に彼らが到達するに従い、当然日本近海にも西洋船が出没する回数が多くなっていったが幕府はこれら外国船や日本との外交ルートを模索する使節の接触に対し、異国船打ち払い令として知られる拒絶政策により「鎖国政策」を再確認しており、在野の世論もこれに同意していた。
しかし1854年、長崎の出島への折衝のみを前提としてきた幕府のこれまでの方針に反して、江戸湾の目と鼻の先である浦賀に強行上陸した米国のペリーとやむなく交渉した幕府は、翌年の来航時には江戸湾への強行突入の構えをみせたペリー艦隊の威力に屈し日米和親条約を締結、その後米国の例にならって高圧的に接触してきた西欧諸国ともなし崩し的に同様の条約を締結、事実上「開国」してしまった。
下級武士や知識人階級を中心に、「鎖国は日本開闢以来の祖法」であるという説に反したとされた、その外交政策に猛烈に反発する世論が沸き起こり、「攘夷」運動として朝野を圧した。 「世論」が沸き起こること自体、幕藩体制が堅牢なころには起こり得ないことであったが、この「世論」の精神的支柱として、京都の帝(みかど)の存在が500年ぶりにクローズアップされる。 このため永い間、幕府の方針もあり政治的には静かな都として過ごしてきた京都がにわかに騒然となり、有名な「幕末の騒乱」が巻き起こる。
一時は井伊大老の強行弾圧路線(安政の大獄)もあり不満「世論」も沈静化するかに思われたが、井伊の横死後、将軍後継問題で幕府がゆれる間に事態は急速に変化する。
藩内改革派と保守派が藩政の主導権を争っていた長州藩では、馬関海峡を航行中の外国船を自藩製の大砲で攻撃して「攘夷」を決行し、翌年相手国4ヶ国艦隊の反撃に遭い、上陸され砲台を占拠されたり、京都における主導権争いから薩摩藩らとの間に市街戦(禁門の変)を演じたりするなど、エポックメイキングな事件を連発し、一躍幕末政局の中心的存在に躍り出る。
列強各国から強烈に苦情を申し入れられた幕府は長州藩を罰するため「長州征伐」を行うが高杉晋作らの組織した奇兵隊などの庶民軍の活躍に阻まれ2度にわたって失敗してしまう。折から幕法に反して京都に藩邸を置く諸大名を制御できず、京都の治安維持さえ独力でおぼつかない幕府と、幕藩体制の根幹である「武士」の武力に対する信頼とその権威はこの敗北によって急速に無くなっていった。
薩摩、長州ら政争を繰り返していた西国雄藩はこの機を逃さず一転同盟を締結(薩長同盟)、土佐藩、肥前藩をも巻き込み、反政策キャンペーンであった「攘夷」を、折から巻き起こっていた国家元首問題としての尊王(勤皇)運動と融合させ、「尊皇攘夷運動」へと巧妙にすり替え、これを更に「倒幕」の世論へと誘導していく。
新将軍徳川慶喜は起死回生で大政奉還を実行する。武力によって完全に幕府を倒そうとしていた倒幕勢力は攻撃の名目を失ったため先手を取られた形となったが、薩長倒幕派は太政官制度を復活させ、天皇を中心とした新政府を樹立し政権の交代を宣言する。この体制変革と制度改革から明治維新へと続いていく。
戊辰戦争
新政府は、徳川将軍家を一藩に降格させ天領は政府直轄領とすることを決定。徳川慶喜には天領の返還と3世紀前の旧領である駿河(静岡)への立ち退きを要求した。しかし応諾の回答は無かったため、板垣退助を総司令官とする官軍を江戸へ東征させることを決定。戊辰戦争と呼ばれるこの内戦は、越後長岡藩や会津藩等各地で大規模な戦闘が行われたものの、江戸城は無血開城されるなど、大都市を巻き込んだ大きな戦争とはならなかった。最後は榎本武揚等が函館に立てこもって抗戦したが短期間で終結した。
江戸幕藩体制は黒船騒動以降急速に衰え、いわゆる幕末の動乱を経て終焉を迎え、明治近代化に至るが、明治以降現在に至るまで、その真価が不当に低く評価されている傾向がある。また江戸幕府崩壊後に出来た明治政府は、その正当性を民衆に主張する為「江戸時代は暗黒時代であった」と喧伝する。その為、日本史において江戸時代はしばらく暴虐と圧制の暗黒時代ととらえられ、否定的な評価を受けてきた。
近代の日本
1854年に欧米列強の脅威に屈して幕府が開国すると、その政策に対する反発から尊皇攘夷運動が起こった。西国の諸藩の反乱を鎮圧できなかった江戸幕府は、1867年に天皇に政権を返還すると宣言した。この体制変革と直後の改革を明治維新と呼ぶ。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、天皇と官僚を頂点にする中央集権国家を打ち立て、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。日清戦争に勝利して台湾を、日露戦争で樺太南部を、さらに1910年に韓国を併合した。日露戦争は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。産業面では軽工業が発展し、20世紀に入ると重工業も伸びた。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。しかしその一方で、西欧の君主制にならった天皇の絶対化が教育と政治の正統思想とされ、これらはやがて一人歩きし、過激な民族主義的思想を醸成していった。また明治憲法の不備(統帥権の独立)を利用して、1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。
対外的には中国市場、南方資源地帯の利権を巡り欧米諸国との対立を深めていく。1937年、日中戦争がはじまると、アメリカは通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はドイツ・イタリアと同盟することで対処しようとしたが、かえって米の石油禁輸を招くにいたった。米・英・中・蘭の対日強硬策は、それぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ばれる。日本政府及び大本営は、一方で対米戦争を準備しつつも、日米交渉は1941年晩秋まで続けられたが、コーデル・ハル国務長官の提案(いわゆるハル・ノート)を最後通牒に準ずるものと考えた日本は、
12月8日(現地時間12月7日)、ハワイの真珠湾を攻撃した。同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃し、ここに太平洋戦争が始まった。中国大陸での戦争も含め、日本政府はこの戦争を大東亜戦争と呼称した。
日本軍は開戦当初、連戦連勝であったが、ミッドウェイ海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。米英は大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日独伊の枢軸国と対抗した。日本はアジアにおける勢力の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表したが、実態は日本軍の圧倒的な武力を背景とした支配がなされていた。
翌1944年7月にはサイパンが陥落、日本本土も連日の空襲にさらされるようになると、物資は窮乏し、ようやく各種和平工作が企図されるようになる。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、核の被害実験、ロシアへの軍事力の誇示、戦争早期終結など様々な理由から比較的被害の少ない広島と長崎に原子爆弾が投下される、受諾やむなしとの結論に達した日本政府は8月14日宣言を受諾し、日本は降伏した。この事実は翌8月15日正午、天皇自らのラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。
現代の日本
敗戦後、日本は台湾・朝鮮・樺太南部、南洋諸島・千島列島を失った。1952年まで連合国総司令部の軍事占領下におかれたが、軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄と小笠原諸島を除き日本の国家機構が行なう間接統治が行われた。沖縄ではアメリカの軍政が布かれた。1946年に発布された日本国憲法は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、平等権・自由権・社会権・参政権・請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政への関与は禁じられた。農地改革、財閥解体、労働改革、教育基本法制定などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、復興の後、1960年から1970年代初めまで高度経済成長を遂げ、1980年代にはアメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。農地改革によってかつては貧しい農村が大市場として開放されたことも一因となっているが、また一方、産業の高い技術開発力も大きく作用し、家電、自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達した。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだが、後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1950年から事実上の再軍備を行ない、冷戦期には米国と同盟してソビエト連邦に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。