「チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー (初代カーリングフォード男爵)」の版間の差分
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|国旗5 = UK |
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2022年2月15日 (火) 20:57時点における版
初代カーリングフォード男爵 チチェスター・パーキンソン=フォーテスキュー Chichester Parkinson-Fortescue 1st Baron Carlingford | |
---|---|
| |
生年月日 | 1823年1月18日 |
出生地 | イギリス、アイルランド・ラウス県・グリド |
没年月日 | 1898年1月30日(75歳没) |
死没地 | フランス、マルセイユ |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 自由党→自由統一党 |
称号 | 初代カーリングフォード男爵、第2代クレアモント男爵、聖パトリック勲章士(KP)、枢密顧問官(PC) |
内閣 |
第2次ラッセル伯爵内閣 第一次グラッドストン内閣 |
在任期間 |
1865年11月 - 1866年7月 1868年12月 - 1871年1月[1] |
内閣 | 第1次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1871年1月14日 - 1874年2月16日[2] |
内閣 | 第2次グラッドストン内閣 |
在任期間 | 1881年5月2日 - 1885年6月[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 | カウンティ・ラウス選挙区[3] |
在任期間 | 1847年7月29日 - 1874年1月31日[3] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1874年2月28日 - 1898年1月30日[3] |
初代カーリングフォード男爵・第2代クラーモント男爵チチェスター・サミュエル・パーキンソン=フォーテスキュー(英語: Chichester Samuel Parkinson-Fortescue, 1st Baron Carlingford and 2nd Baron Clermont, KP, PC、1823年1月18日 - 1898年1月30日)は、アイルランド出身のイギリスの政治家、貴族。
経歴
1823年1月18日、チチェスター・フォーテスキュー中佐の次男としてアイルランドのラウス県グリドに生まれる。母はマーサ・フォーテスキュー(法廷弁護士サミュエル・ホブハウスの娘)[1]
オックスフォード大学クライスト・チャーチで学び、1845年にバチェラー・オブ・アーツ(BA)、1847年にマスター・オブ・アーツ(MA)の学位を取得した[4][1]
1847年から1874年までアイルランドのカウンティ・ラウス選挙区から選出されて自由党の庶民院議員を務める[1][4]。1848年の処女演説はユダヤ人への差別的取り扱いの除去することを求める物だった[1]。
第1次パーマストン子爵内閣期の1857年から1858年、第2次パーマストン子爵内閣期の1859年から1865年に副植民地大臣を務めた[1]。
1863年に姓をパーキンソン=フォーテスキューに変更した[4]。
第2次ラッセル伯爵内閣期の1865年11月から1866年7月にかけてアイルランド担当大臣を務めた[1]。
第1次グラッドストン内閣でも1868年12月から1871年1月までアイルランド担当大臣を務め、1869年のアイルランド教会法の制定を主導した[1]。1871年1月から商務庁長官に転任し、鉄道の安全性の強化に尽力した[1]。多くのアイルランドの選挙区から選出された庶民院議員と同様に1874年1月から2月の総選挙で落選したが、落選とともにカーリングフォード男爵に叙され、貴族院議員となった[1]。
第2次グラッドストン内閣期の1881年5月から1885年6月まで王璽尚書を務めた[1]。1883年3月からは枢密院議長も兼務した[1]。
1886年1月に第3次グラッドストン内閣が成立した際には海外にあり、またアイルランド自治反対の信念を持っていたため、入閣を求められなかった。アイルランド自治反対の立場を貫いて自由統一党へ移籍し、同党のサマセットにおける指導者となった[1]
1887年7月29日に兄である初代クラーモント男爵トマス・フォーテスキューが死去し、クレアモント男爵位を継承した[1]
1898年1月30日にインフルエンザによりフランス・マルセイユにおいて死去した[1]。
栄典
爵位
勲章
名誉職その他
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Matthew, H. C. G.. “Fortescue, Chichester Samuel Parkinson” (英語). Oxford University Press. 2014年6月14日閲覧。
- ^ 秦(2001) p.510
- ^ a b c UK Parliament. “Mr Chichester Fortescue” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Chichester Samuel Parkinson-Fortescue, 1st and last Baron Carlingford” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。
参考文献
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Chichester Parkinson-Fortescue
公職 | ||
---|---|---|
先代 ジョン・ボール |
副植民地大臣 1857年 - 1858年 |
次代 第4代カーナーヴォン伯爵 |
先代 第4代カーナーヴォン伯爵 |
副植民地大臣 1859年 - 1865年 |
次代 ウィリアム・エドワード・フォースター |
先代 サー・ロバート・ピール准男爵 |
アイルランド担当大臣 1865年 - 1866年 |
次代 ネース卿 |
先代 ジョン・ウィルソン=パッテン |
アイルランド担当大臣 1868年 - 1871年 |
次代 ハーティントン侯爵 |
先代 ジョン・ブライト |
商務庁長官 1871年 - 1874年 |
次代 サー・チャールズ・アダレイ |
先代 第8代アーガイル公爵 |
王璽尚書 1881年 - 1885年 |
次代 第5代ローズベリー伯爵 |
先代 第5代スペンサー伯爵 |
枢密院議長 1883年 - 1885年 |
次代 初代クランブルック子爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 トマス・ヴィージー・ドーソン リチャード・モンテスキュー・ベリュー |
カウンティ・ラウス選挙区選出庶民院議員 1847年 - 1874年 同一選挙区同時当選者 リチャード・モンテスキュー・ベリュー(-1852) トリストラム・ケネディー(1852–1857) ジョン・マクリントック(1857–1859) リチャード・モンテスキュー・ベリュー(1859–1865) トリストラム・ケネディー(1865–1868) マシュー・オライリー・ディーズ(1868–1874) |
次代 アレクサンダー・マーティン・サリバン and フィリップ・カラン |
名誉職 | ||
先代 サー・トマス・ウェスタン准男爵 |
エセックス知事 1873年 - 1892年 |
次代 第3代レイリー男爵 |
イギリスの爵位 | ||
新設 | 初代カーリングフォード男爵 1874年 - 1898年 |
廃絶 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 トマス・フォーテスキュー |
第2代クラーモント男爵 1887年 - 1898年 |
廃絶 |