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2022年2月14日 (月) 00:40時点における版

第5代スペンサー伯爵
ジョン・スペンサー
John Spencer
5th Earl Spencer
生年月日 1835年10月27日
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドンスペンサーハウス
没年月日 (1910-08-13) 1910年8月13日(74歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリスオルソープ
出身校 ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
所属政党 自由党
称号 ガーター勲章(KG)
枢密顧問官(PC)
スペンサー伯爵
配偶者 シャーロット英語版

内閣 第1次グラッドストン内閣
第2次グラッドストン内閣
在任期間 1868年12月18日 - 1874年2月17日
1882年5月4日 - 1885年6月9日

内閣 第2次グラッドストン内閣
第3次グラッドストン内閣
在任期間 1880年4月28日 - 1883年3月19日
1886年2月6日 - 1886年8月3日

内閣 第4次グラッドストン内閣
ローズベリー伯爵内閣
在任期間 1892年 - 1895年

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1857年12月27日 - 1910年8月13日[1]

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 南ノーザンプトンシャー選挙区英語版[1]
在任期間 1857年3月27日 - 1857年12月27日[1]
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第5代スペンサー伯爵ジョン・ポインツ・スペンサー: John Poyntz Spencer, 5th Earl Spencer, KG, PC1835年10月27日 - 1910年8月13日)はイギリスの政治家、貴族。

1845年から1857年までオールトラップ子爵(Viscount Althorp)の儀礼称号を使用した[2]

経歴

1835年に第4代スペンサー伯爵フレデリック・スペンサーの長男としてロンドンで誕生[3]。母はその妻ジョージアナ・ポインツ[2]

ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ[3][2]

1857年3月に南ノーザンプトンシャー選挙区英語版自由党庶民院議員に当選するも、同年12月にスペンサー伯爵位を継承し、貴族院議員に転じる[1][2]

1858年にフレデリック・チャールズ・ウィリアム・シーモア(Frederick Charles William Seymour)の娘であるシャーロット英語版と結婚した[3]

ストール宮内官英語版として1859年から1861年までヴィクトリア女王の王配アルバートに仕え、ついで1862年から1866年まで皇太子エドワードに仕えた。1865年にガーター勲章を受勲する[3]

1869年から1874年まで第1次グラッドストン内閣アイルランド総督を務める。第2次グラッドストン内閣では1880年から1883年まで枢密院議長を務め、1882年から1885年までアイルランド総督に再任する[3]

この後の短期間の野党時代に自由党党首ウィリアム・グラッドストンはアイルランド自治の方針を固めた。これに党内ホイッグ貴族派の領袖ハーティントン侯爵が強く反発し、彼は1886年1月末に成立した第3次グラッドストン内閣への入閣を拒否した。スペンサー卿もホイッグ派だが、彼はグラッドストンを支持して入閣を了承した[4]

第3次グラッドストン内閣には枢密院議長として入閣した[3]。自由党はアイルランド自治法案をめぐって自治賛成派と反対派に分裂したが、スペンサー卿は「総督としての経験から言って、アイルランドには自治を与える以外に解決策がない」として法案を支持した[5]。しかし自由党議員が多く造反した結果、法案は否決され、解散総選挙にも敗れた結果、第3次グラッドストン内閣は短命政権に終わった[6]

1892年6月末に成立した第4次グラッドストン内閣には海軍大臣英語版として入閣した。グラッドストンはスペンサー卿に第2代グランヴィル伯爵のような穏健派としての役割を期待していたが、この時期に閣内で起こった海軍軍拡論争では軍拡に反対するグラッドストンに協力しなかった。孤立したグラッドストンは1893年3月に辞職した。退任にあたってグラッドストンはスペンサー卿を後任の首相に推そうと考えていたというが、女王は慣例に反して退任する首相への次期首相への下問をせず、独断で外相第5代ローズベリー伯爵に組閣の大命を下したため、スペンサー卿の首相就任は沙汰やみとなった[7]

ローズベリー伯爵内閣でも引き続き海軍大臣に在職した。中国分割をめぐってロシアフランスが極東における海軍力を急速に増強していることを念頭に、極東にも二国基準(露仏両国の海軍力よりも上の海軍力を目指す)を導入することを決定した。これについてスペンサー卿は「イギリスは極東でも露仏の海軍共同を恐れる理由はない。イギリス駐中国艦隊は露仏両国の海軍力の合計よりも相対的に強力である」と自負した[8]

1901年から1907年までコーンウォール公領会議議員、コーンウォール公璽尚書(Keeper of the Privy Seal of the Duke of Cornwall)を務める[3]

1910年に死去。子がなかったため、異母弟のチャールズが爵位と家督を相続した。

栄典

ガーター勲章のローブを纏うスペンサー卿

爵位

勲章

その他

出典

  1. ^ a b c d HANSARD 1803–2005
  2. ^ a b c d e f g h i j Lundy, Darryl. “John Poyntz Spencer, 5th Earl Spencer” (英語). thepeerage.com. 2013年12月3日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g "Spencer, the Hon. Charles Robert, Viscount Althorp (SPNR877CR)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
  4. ^ 神川(2011) p.386
  5. ^ 海保(1999) p.22
  6. ^ 神川(2011) p.392-403
  7. ^ 神川(2011) p.426-429
  8. ^ 坂井(1967) p.233

参考文献

関連項目

外部リンク

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
リチャード・ヘンリー・ホワード・ヴァイス英語版
ライナルド・ナイトレイ英語版
南ノーザンプトンシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1857年3月 - 1857年12月
同一選挙区当選者
ライナルド・ナイトレイ英語版
次代
ヘンリー・カートライト英語版
ライナルド・ナイトレイ英語版
公職
先代
初代アバコーン公爵
イギリスの旗 アイルランド総督
1868年 - 1874年
次代
初代アバコーン公爵
先代
第6代リッチモンド公爵
イギリスの旗 枢密院議長
1880年 - 1883年
次代
初代カーリングフォード男爵
先代
第7代クーパー伯爵
イギリスの旗 アイルランド総督
1882年 - 1885年
次代
第4代カーナーヴォン伯爵
先代
初代クランブルック子爵
イギリスの旗 枢密院議長
1886年
次代
初代クランブルック子爵
先代
ジョージ・ハミルトン卿
イギリスの旗 海軍大臣英語版
1892年-1895年
次代
初代ゴッシェン子爵
党職
先代
初代キンバリー伯爵
自由党貴族院院内総務英語版
1902年-1905年
次代
初代リポン侯爵
名誉職
先代
第3代サウスハンプトン男爵英語版
ノーザンプトンシャー州総督英語版
1872年-1908年
次代
オールトラップ子爵
グレートブリテンの爵位
先代
フレデリック
第5代スペンサー伯爵
1857年-1910年
次代
チャールズ