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[[イートン・カレッジ]]を経て[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]へ進学。[[リンカーン法曹院]]でも学び、1932年に[[法廷弁護士]]資格を取得した<ref name="thepeerage.com" />。 |
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[[1938年]]から[[1958年]]にかけて{{仮リンク|オックスフォード選挙区|en|Oxford (UK Parliament constituency)}}から選出され、[[保守党 (イギリス)|保守党]]の[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員を務めた。[[第二次世界大戦]]中は[[国防義勇軍]]に従軍し、少佐階級まで昇進した。1945年には[[第1次チャーチル内閣]]で{{仮リンク|航空副大臣 (イギリス)|label=航空副大臣|en|Under-Secretary of State for Air}}を務める<ref name="thepeerage.com" />。[[1950年]][[8月16日]]に父が死去し、第2代ヘイルシャム子爵位を継承し、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]議員に列した<ref name="HANSARD">{{Cite web |url= https://api.parliament.uk/historic-hansard//people/mr-quintin-hogg/|title= Mr Quintin Hogg |accessdate= 2015-08-10 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [https://api.parliament.uk/historic-hansard//index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref>。[[1953年]]には{{仮リンク|勅選弁護士 (イギリス)|label=勅選弁護士|en|Queen's Counsel}}(QC)となる。1956年には[[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)に列する<ref name="thepeerage.com" />。 |
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2022年2月14日 (月) 00:29時点における版
ヘイルシャム男爵 クィンティン・ホッグ Quintin Hogg Baron Hailsham | |
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1990年のヘイルシャム卿 | |
生年月日 | 1907年10月9日 |
没年月日 | 2001年10月12日(94歳没) |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | 保守党 |
称号 | 第2代ヘイルシャム子爵(1963年返上)、メリルボーンのヘイルシャム男爵、ガーター勲章勲爵士(KG)、枢密顧問官(PC) |
セント・メリルボーンのヘイルシャム男爵クィンティン・ホッグ(英語: Quintin Hogg, Baron Hailsham of St Marylebone, KG, CH, PC, QC, FRS、1907年10月9日 - 2001年10月12日)は、イギリスの政治家、貴族。
保守党に所属し、保守党政権下で閣僚職を歴任した。1950年に第2代ヘイルシャム子爵を継承したが、庶民院議員になるために1963年に爵位を一代放棄した。1970年に一代貴族メリルボーンのヘイルシャム男爵に叙され、再び貴族院議員となっている。
経歴
1907年10月9日、保守党の政治家ダグラス・ホッグ(1929年にヘイルシャム子爵に叙される)とその妻エリザベス(旧姓ブラウン)の間の長男として生まれた[1]。
イートン・カレッジを経てオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。リンカーン法曹院でも学び、1932年に法廷弁護士資格を取得した[1]。
1938年から1958年にかけてオックスフォード選挙区から選出され、保守党の庶民院議員を務めた。第二次世界大戦中は国防義勇軍に従軍し、少佐階級まで昇進した。1945年には第1次チャーチル内閣で航空副大臣を務める[1]。1950年8月16日に父が死去し、第2代ヘイルシャム子爵位を継承し、貴族院議員に列した[2]。1953年には勅選弁護士(QC)となる。1956年には枢密顧問官(PC)に列する[1]。
イーデン内閣で1956年から1957年にかけて海軍大臣、マクミラン内閣とダグラス=ヒューム内閣で文部大臣(在職1957年1月-9月、1964年4月-10月)、枢密院議長(在職1957年-1959年、1960年-1964年)、王璽尚書(1959年-1960年)、貴族院院内総務(在職1960年-1963年)などを歴任した[1][3]。1963年7月に貴族法が制定されて爵位の一代放棄が可能となると、彼は庶民院議員になることを希望してヘイルシャム子爵の爵位を返上した[4]。そしてセント・マリルボーン選挙区から庶民院議員に選出された[1]。
1970年6月に保守党が政権を奪還してヒース内閣が成立。この際に一代貴族爵位サセックス州におけるハーストモンスーのメリルボーンのヘイルシャム男爵に叙され、再び貴族院議員に列する[1]。そしてヒース内閣に大法官(貴族院議長)として入閣した。その後労働党政権を挟んで、1979年にサッチャー内閣が成立すると再び大法官として入閣した。比較的サッチャーに従順な閣僚だったが、政権末の1987年にはサッチャーから離反して辞職している[5]。
2001年10月12日に死去した。ヘイルシャム子爵位は長男のダグラス・ホッグに継承された[1]。
脚注
出典
- ^ a b c d e f g h i Lundy, Darryl. “Quintin McGarel Hogg, Baron Hailsham of St. Marylebone” (英語). thepeerage.com. 2015年8月10日閲覧。
- ^ UK Parliament. “Mr Quintin Hogg” (英語). HANSARD 1803–2005. 2015年8月10日閲覧。
- ^ 秦郁彦編 2001, p. 221-222.
- ^ 前田英昭 1976, p. 58.
- ^ 小川晃一 2005, p. 249.
参考文献
- 小川晃一『サッチャー主義』木鐸社、2005年。ISBN 978-4833223690。
- 前田英昭『イギリスの上院改革』木鐸社、1976年。ASIN B000J9IN6U。
- 秦郁彦編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Hailsham of St Marylebone
- The Papers of Quintin Hogg, Baron Hailsham of St Marylebone are held at the Churchill Archives Centre in Cambridge and are accessible to the public.
- Obituary – Lord Hailsham of St Marylebone from The Independent.
グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ロバート・ボーン |
オックスフォード選挙区 選出庶民院議員 1938年 – 1950年 |
次代 ローレンス・ターナー |
先代 ウェーヴェル・ウェークフィールド |
セント・マリルボーン選挙区 選出庶民院議員 1963年 – 1970年 |
次代 ケネス・ベイカー |
公職 | ||
先代 初代シャーウッド男爵 |
航空副大臣 1945年 |
次代 ジョン・ストレイチー |
先代 初代キルクンニン子爵 |
海軍大臣 1956年 – 1957年 |
次代 第10代セルカーク伯爵 |
先代 デイヴィッド・エクルズ |
文部大臣 1957年 |
次代 ジェフリー・ロイド |
先代 第14代ヒューム伯爵 |
枢密院議長 1957年 – 1959年 |
次代 第14代ヒューム伯爵 |
先代 ラブ・バトラー |
王璽尚書 1959年 – 1960年 |
次代 エドワード・ヒース |
先代 第14代ヒューム伯爵 |
貴族院院内総務 1960年 – 1963年 |
次代 第6代キャリントン男爵 |
先代 第14代ヒューム伯爵 |
枢密院議長 1960年 – 1964年 |
次代 ハーバート・ボーデン |
先代 エドワード・ボイル |
文部科学大臣 1964年 |
次代 マイケル・スチュワート |
先代 ガーディナー男爵 |
大法官 1970年 – 1974年 |
次代 エルウィン=ジョーンズ男爵 |
先代 エルウィン=ジョーンズ男爵 |
大法官 1979年 – 1987年 |
次代 ヘイヴァーズ男爵 |
党職 | ||
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保守党幹事長 1957年 – 1959年 |
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保守党貴族院院内総務 1960年 – 1963年 |
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学職 | ||
先代 ラブ・バトラー |
グラスゴー大学学長 1959年 – 1962年 |
次代 アルバート・ルツーリ |
イギリスの爵位 | ||
先代 ダグラス・ホッグ |
第2代ヘイルシャム子爵 1950年 – 1963年 爵位一代放棄 |
次代 ダグラス・ホッグ |