「シドニー・ハーバート (初代ハーバート・オブ・リー男爵)」の版間の差分
m bot: 解消済み仮リンクブライト病を内部リンクに置き換えます |
|||
32行目: | 32行目: | ||
|職名3 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
|職名3 = [[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員 |
||
|就任日3 = [[1832年]][[12月10日]] |
|就任日3 = [[1832年]][[12月10日]] |
||
|退任日3 = [[1861年]][[1月15日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url= |
|退任日3 = [[1861年]][[1月15日]]<ref name="hansard">{{Cite web |url=https://api.parliament.uk/historic-hansard//people/hon-sidney-herbert-1/|title= Hon. Sidney Herbert|accessdate= 2014-6-13 |author= [[イギリス議会|UK Parliament]] |work= [https://api.parliament.uk/historic-hansard//index.html HANSARD 1803–2005] |language= 英語 }}</ref> |
||
|選挙区3 ={{仮リンク|南ウィルトシャー選挙区|en|South Wiltshire (UK Parliament constituency)}}<ref name="hansard"/> |
|選挙区3 ={{仮リンク|南ウィルトシャー選挙区|en|South Wiltshire (UK Parliament constituency)}}<ref name="hansard"/> |
||
|国旗4 = UK |
|国旗4 = UK |
2022年2月14日 (月) 00:25時点における版
リーの初代ハーバート男爵 シドニー・ハーバート Sidney Herbert 1st Baron Herbert of Lea | |
---|---|
1847年に描かれたシドニー・ハーバートの肖像画(サー・フランシス・グラント画) | |
生年月日 | 1810年9月16日 |
出生地 | イギリス・イングランド・サリー・リッチモンド |
没年月日 | 1861年8月2日(50歳没) |
死没地 | イギリス・イングランド・ウィルトシャー・ウィルトン |
出身校 | オックスフォード大学オリオル・カレッジ |
所属政党 | 保守党→ピール派→自由党 |
称号 | 初代ハーバート・オブ・リー男爵、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | エリザベス |
内閣 | 第一次パーマストン子爵内閣 |
在任期間 | 1855年2月8日 - 1855年2月23日 |
内閣 | 第二次パーマストン子爵内閣 |
在任期間 | 1859年6月18日 - 1861年7月22日[1] |
庶民院議員 | |
選挙区 | 南ウィルトシャー選挙区[2] |
在任期間 | 1832年12月10日 - 1861年1月15日[2] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1861年 - 1861年[2] |
リーの初代ハーバート男爵シドニー・ハーバート(英語: Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea, PC、1810年9月16日 - 1861年8月2日)は、イギリスの政治家、貴族。
保守党、ピール派、自由党と党派を移しながら、閣僚職を歴任した。
経歴
1810年9月16日、第11代ペンブルック伯爵ジョージ・ハーバートの四男としてイングランド・サリー・リッチモンドに生まれる[3][4]。母は父の後妻キャサリン・ヴォロントソフ(ロシア貴族の娘)。異母兄にロバート・ハーバート(第12代ペンブルック伯爵)がいる[4]。
ハーロー校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジへ進学した[3]。
1832年から1861年まで南ウィルトシャー選挙区から選出されて庶民院議員を務める[2][3]。
当初は保守党に所属し、第一次ピール内閣においてインド監督庁副長官を務めた。第二次ピール内閣においては1841年から副海軍大臣、1845年からは戦時大臣を務めた[3]。穀物法廃止をめぐる閣内論争では穀物法廃止を目指すピール首相を支持した[5]。
保守党が穀物自由貿易派と保護貿易派に分裂すると自由貿易派のピール派に属した。1852年12月に成立したピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣にはピール派からの閣僚の一人として戦時大臣として入閣した[6]。クリミア戦争をめぐっては他のピール派閣僚とともに平和派に属したが、ホイッグ党閣僚たちに押し切られた結果、参戦することになった[7]
1855年1月にはクリミア戦争の泥沼化の中で調査委員会の設置の動議が決議され、アバディーン伯爵内閣は退陣。代わってホイッグ党首班の第一次パーマストン子爵内閣が発足した[8]。ハーバートは植民地大臣として同内閣に入閣したが[3]、パーマストン子爵が調査委員会の設置に応じる構えであったため、他のピール派閣僚のグラッドストン、サー・ジェームズ・グラハム準男爵とともに二週間のうちに下野した[9]。
1858年に第一次パーマストン子爵内閣が倒閣され、保守党党首ダービー伯爵が組閣の大命を受けると、ダービー伯爵から協力要請を受けたが、拒否した[10]。ピール派の長老政治家グラハムが病気で第一線を退くと、グラッドストンやニューカッスル公爵とともに同派の指導的存在となった[11]。
1859年6月、ホイッグ党とピール派の合同で自由党が結成され、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が発足し、ハーバートは陸軍大臣[要リンク修正]として入閣した[12][3]。中国との戦争の指導にあたっていたが、1860年秋頃から糖尿病、腎臓病、ブライト病などを罹患して体調を崩した[3]。
病気の療養のため、1861年1月1日にリーのハーバート男爵に叙されて貴族院に移籍することで庶民院から離れた。この段階では陸軍大臣には在職したものの、結局同年7月22日に陸軍大臣も辞することになり、8月2日にイングランド・ウィルトシャー・ウィルトンのウィルトン・ハウスにおいて死去した[3]。
リーのハーバート男爵の爵位は彼の長男ジョージが継承した。また翌1862年にシドニーの兄ロバートが子供無く死去するとジョージがペンブルック伯爵位も継承している[3]。
家族
1846年にエリザベス・コート・レピントンと結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けている[13]。
- 第1子(長男)第13代ペンブルック伯爵ジョージ・ロバート・チャールズ・ハーバート(1850-1895)
- 第2子(次男)第14代ペンブルック伯爵シドニー・ハーバート(1853-1913)
- 第3子(長女)グウラディス・ハーバート(1859-1917):第2代リポン侯爵フレデリック・ロビンソン夫人
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.510
- ^ a b c d UK Parliament. “Hon. Sidney Herbert” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年6月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Matthew, H. C. G.. “Herbert, Sidney, first Baron Herbert of Lea” (英語). Oxford Dictionary of National Biography. 2014年6月13日閲覧。
- ^ a b Lundy, Darryl. “George Augustus Herbert, 11th Earl of Pembroke” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。
- ^ 君塚(1999) p.77
- ^ バトラー(1980) p.17
- ^ バトラー(1980) p.23
- ^ バトラー(1980) p.24-25
- ^ バトラー(1980) p.25-26
- ^ 君塚(1999) p.141
- ^ 君塚(1999) p.152
- ^ バトラー(1980) p.26-27
- ^ Lundy, Darryl. “Sidney Herbert, 1st Baron Herbert of Lea” (英語). thepeerage.com. 2014年6月13日閲覧。
参考文献
- 君塚直隆『イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」』有斐閣、1999年(平成11年)。ISBN 978-4641049697。
- デヴィッド・バトラー編 編、飯坂良明、岡沢憲芙、福岡政行、川野秀之 訳『イギリス連合政治への潮流』東京大学出版会〈UP選書205〉、1980年(昭和55年)。ASIN B000J8AD6E。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Lord Herbert of Lea
公職 | ||
---|---|---|
先代 ロバート・ゴードン ジェームズ・アレクサンダー・ステュアート=マッケンジー |
インド監督庁副長官 1834年 - 1835年 |
次代 ロバート・ゴードン ロバート・ヴァーノン・スミス |
先代 ジョン・パーカー |
副海軍大臣 1841年 - 1845年 |
次代 ヘンリー・ローリー・コーリー閣下 |
先代 サー・トマス・フレマントル准男爵 |
戦時大臣 1845年 - 1846年 |
次代 フォックス・モール閣下 |
先代 ウィリアム・ベレスフォード |
戦時大臣 1852年 - 1854年 |
次代 第5代ニューカッスル公爵 |
先代 サー・ジョージ・グレイ准男爵 |
植民地大臣 1855年 |
次代 ジョン・ラッセル卿 |
先代 ジョナサン・ピール |
陸軍大臣[要リンク修正] 1859年 - 1861年 |
次代 サー・ジョージ・コーンウォール・ルイス準男爵 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
新設 | 南ウィルトシャー選挙区選出庶民院議員 1832年 - 1861年 同一選挙区同時当選者 ジョン・ベネット[要リンク修正](-1852) ウィリアム・ウィンダム(1852-1859) ヘンリー・シン卿(-1859) |
次代 フレデリック・ハーヴィ―=バサースト ヘンリー・シン卿 |
イギリスの爵位 | ||
爵位創設 | 初代リーのハーバート男爵 1861年 |
次代 ジョージ・ハーバート |