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2022年2月14日 (月) 00:23時点における版
ペンズハースの初代ハーディング男爵 チャールズ・ハーディング Charles Hardinge 1st Baron Hardinge of Penshurst | |
---|---|
| |
生年月日 | 1858年6月20日 |
没年月日 | 1944年8月2日(86歳没) |
出身校 | ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ |
称号 | 初代ペンズハーストのハーディング男爵、ガーター勲章士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)、ロイヤル・ヴィクトリア頸飾、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス(GCVO)、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)、帝国忠勤勲章(ISO)、枢密顧問官(PC) |
配偶者 | ウィニフレッド・セリナ |
親族 | 初代ハーディング子爵(祖父) |
在任期間 | 1910年11月23日 - 1916年4月4日[1] |
皇帝 | ジョージ5世 |
在任期間 | 1904年4月28日 - 1906年2月10日[2] |
在任期間 |
1906年2月1日 - 1910年11月23日 1916年6月20日 - 1920年11月27日[3] |
在任期間 | 1920年11月27日 - 1922年12月31日[4] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1910年7月21日 - 1944年8月2日[5] |
ペンズハーストの初代ハーディング男爵チャールズ・ハーディング(英: Charles Hardinge, 1st Baron Hardinge of Penshurst, KG, GCB, GCSI, GCMG, GCIE, GCVO, ISO, PC、1858年6月20日 - 1944年8月2日)は、イギリスの外交官、政治家、貴族。
1910年から1916年にかけてインド総督を務め、宥和的な統治を行った。またデリーへの遷都を行った。
経歴
インド総督就任まで
保守党の政治家である第2代ハーディング子爵チャールズ・ハーディングとその妻ラヴィニア(第3代ルーカン伯爵ジョージ・ビンガムの娘)の間の次男として生まれる[6]。祖父に当たる初代ハーディング子爵ヘンリー・ハーディングもインド総督だった[7]。
ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学した[8]。1880年から外交官となる。駐ロシア大使館に書記官として勤務。一等書記官だった頃の1901年11月から12月にかけては日本の伊藤博文の訪露に関する情報を英国本国の外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスに送っている。伊藤とロシア外相ウラジーミル・ラムスドルフの会見の後には「ラムズドルフ伯によると伊藤侯は日本の長老政治家を代表する大した人物であったとの印象を受けたようです。ただ伊藤侯は英語しか話せず、ラムズドルフ伯は英語があまり得意ではないので会見は困難だったようですが。伯爵は伊藤侯の訪問が単なる私的な物であると断言しておりますが、日本の政治家とつながりを持てたのは極めて有益であったとも述べております」と報告している[9]。
外務事務次官補だった1903年4月から5月にかけては国王エドワード7世のポルトガル、イタリア、バチカン歴訪に同行した[10]。
1904年から1906年にかけては在ロシア大使を務めた[8]。
1905年12月に自由党への政権交代があり、第3代準男爵エドワード・グレイが外相に就任すると、1906年1月にロンドンに呼び戻され、グレイの補佐役として外務省事務次官に就任した[11]。1906年から1910年まで在職した[6][8]。グレイからもエドワード7世からも厚く信頼され、手元に置いときたがられる人材だった[12]。
1910年7月21日には連合王国貴族爵位ペンズハーストのハーディング男爵に叙され、貴族院議員に列した[6][8]。
インド総督
1910年11月にインド副王兼総督ミントー卿の辞職に伴ってその後任の総督に就任した。この人選は首相アスキスの推挙によるものであり、国王ジョージ5世がハーディングを手元に置きたがっていたのをアスキスが説得したという経緯だった[7]。
彼の統治はインド・ナショナリズムに対して宥和的であり、就任早々にインド・ナショナリズムの評判が悪い前々総督カーゾン卿のベンガル分割計画を中止させた。また英露協商によりロシアの脅威がなくなったことを受けて軍事費の一部を教育など国内政治に回し、アリーガル・ムスリム大学やバナーラス・ヒンズー大学の創設を行った。また以前から首都として不向きと言われていたカルカッタからデリーへの遷都を行った[13]。デリーが夏用の首都シムラ―に近いからだったが、反政府活動家の拠点となっているカルカッタから離れる意図もあった[14]。
1911年には本国のインド担当大臣エドウィン・サミュエル・モンタギューに宛てて「インドで唯一可能な解決策は、帝国関係事項を管轄する英領インド帝国政府の下位に各州を置き、それに大幅に自治権を与える」ことであると提案し、本国の保守派の強い批判を招いた[15]。
1911年には新英国王・インド皇帝ジョージ5世を招いてのダルバール(インド皇帝戴冠式)を挙行した(これが英国王の最初にして最後の訪印となった)[14]。
1912年に新首都デリーに入った際にテロリストに爆弾を投げつけられた。破片が身体に食い込み、また爆発音で鼓膜が破れる重傷を負った。彼の妻はこの事件のショックが原因で後に死去してしまった。しかしハーディングは報復処置を取らず、むしろこれを機にインド国民会議などインド・ナショナリズム勢力への接近を図った。1913年には大英帝国自治領南アフリカ連邦が導入しようとしたインド移民法を「反インド的」と批判して、同法を改正に追い込んだ。この件はガンジーからも高く評価された[16]。
1914年に第一次世界大戦が勃発したため、任期が6カ月延長された[17]。開戦から最初の2年ほどはインド・ナショナリズム勢力(ヒンドゥー教徒)も戦争協力に前向きな態度だったので(見返りが得られると踏んでいた)、基本的に彼の在任中にはインドの治安が不安定になることはなかった[18]。しかしムスリムはベンガル分割取り消しやオスマン=トルコ帝国との開戦に不満を抱いており、汎イスラム勢力はしばしばトルコやドイツ帝国と連携を図ろうと目論んだ。ハーディング卿はこうした戦時中の反政府活動には徹底弾圧の姿勢で臨み、1915年3月にはインド防衛法を制定して、インド臣民の様々な基本的人権を停止した[19]。
総督退任後
1916年4月にイギリスに帰国すると外務省事務次官に復帰し[20]、1920年11月まで務めた[3]。大戦で長男や元副官3人を失う悲劇に見舞われた[20]。
1920年11月から1922年12月まで在フランス大使を務めた[4]。
1944年8月2日に死去。長男は子供のないまま第一次世界大戦で戦死していたため、爵位は次男のアレクサンダー・ハーディングが継承した[6]。
栄典
爵位
1910年7月21日に以下の爵位を新規に叙される[6][8]。
- ケント州におけるペンズハーストのペンズハーストの初代ハーディング男爵(1st Baron Hardinge of Penshurst, of Penshurst in the County of Kent)
勲章
- 1895年、バス勲章コンパニオン(CB)[21]
- 1903年、ロイヤル・ヴィクトリア勲章コマンダー(CVO)[22]
- 1904年3月、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー(KCMG)[23]
- 1904年5月、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・コマンダー(KCVO)[24]
- 1905年1月、聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・グランド・クロス(GCMG)[25]
- 1905年、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス(GCVO)[6][8]
- 1906年6月、帝国忠勤勲章(ISO)[26]
- 1910年6月、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)[27]
- 1910年、インドの星勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCSI)[8]
- 1910年、インド帝国勲章ナイト・グランド・コマンダー(GCIE)[8]
- 1912年2月、ロイヤル・ヴィクトリア頸飾[28]
- 1916年3月、ガーター勲章勲章士(KG)[29]
- 聖オーラヴ勲章(ノルウェー王国勲章)[6]
- ヴァーサ勲章(スウェーデン王国勲章)[6]
- 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章(ロシア帝国勲章)[6]
- レオポルト勲章(オーストリア帝国勲章)[6]
- ダンネブロ勲章(デンマーク勲章)[6]
- 我らが貴婦人ヴィラ・ヴィコサ勲章(ポルトガル王国勲章)[6]
- 王冠勲章
- カルロス3世勲章(スペイン勲章)[6]
その他
家族
1890年に初代アーリントン男爵ヘンリー・スタートの娘ウィニフレッド・セリナと結婚し、彼女との間に以下の3子を儲ける。
- 第1子(長男)エドワード・チャールズ閣下(1892-1914):第一次世界大戦で戦死
- 第2子(次男)第2代ペンズハーストのハーディング男爵アレクサンダー・ヘンリー・ルイス(1894-1960)
- 第3子(長女)ダイアモンド・イヴェリン・ヴァイオレット閣下(1900-1927)
脚注
注釈
出典
- ^ 秦(2001) p.101
- ^ 秦(2001) p.524
- ^ a b 秦(2001) p.519
- ^ a b 秦(2001) p.523
- ^ UK Parliament. “Mr Charles Hardinge” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年2月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n Lundy, Darryl. “Charles Hardinge, 1st Baron Hardinge of Penhurst” (英語). thepeerage.com. 2014年3月4日閲覧。
- ^ a b 浜渦(1999) p.163
- ^ a b c d e f g h "Hardinge, the Hon. Charles (HRDN876C)". A Cambridge Alumni Database (英語). University of Cambridge.
- ^ 君塚直隆 2012, p. 142-143.
- ^ 君塚直隆 2012, p. 101-102.
- ^ 君塚直隆 2012, p. 200-201.
- ^ 君塚直隆 2012, p. 218-219.
- ^ 浜渦(1999) p.163-164
- ^ a b メトカーフ(2006) p.231
- ^ 坂井(1988) p.5-6
- ^ 浜渦(1999) p.164-165
- ^ 浜渦(1999) p.226
- ^ 浜渦(1999) p.165-166
- ^ メトカーフ(2006) p.235
- ^ a b 浜渦(1999) p.165
- ^ London Gazette, 2 July 1895
- ^ London Gazette, 2 June 1903
- ^ London Gazette, 29 March 1904
- ^ London Gazette, 10 May 1904
- ^ London Gazette, 3 January 1905
- ^ London Gazette, 29 June 1906
- ^ London Gazette, 24 June 1910
- ^ "No. 28580". The London Gazette (英語). 13 February 1912. p. 1047.
- ^ London Gazette, 24 March 1916
- ^ London Gazette, 8 March 1904
参考文献
- 君塚直隆『ベル・エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代』中央公論新社、2012年。ISBN 978-4120044298。
- 坂井秀夫『イギリス・インド統治終焉史 1910年~1947年』創文社、1988年。ISBN 978-4423710401。
- 浜渦哲雄『大英帝国インド総督列伝 イギリスはいかにインドを統治したか』中央公論新社、1999年。ISBN 978-4120029370。
- バーバラ・D. メトカーフ,トーマス・R. メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創土社、2006年。ISBN 978-4789300483。
- 秦郁彦編 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
外部リンク
- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Charles Hardinge
官職 | ||
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先代 第4代ミントー伯爵 |
インド副王兼総督 1910年 - 1916年 |
次代 第3代チェルムスフォード男爵 |
外交職 | ||
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先代 サー・アーサー・ニコルソン |
外務省事務次官 1916年 - 1920年 |
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