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「勘解由小路在富」の版間の差分

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[[永正]]4年([[1507年]])に[[従五位|従五位下]]・[[兵部省|兵部少輔]]に叙任される。永正9年([[1512年]])に[[暦博士]]、永正11年([[1514年]])に兼任して[[陰陽寮|陰陽頭]]に任命された。以後、[[馬寮|左馬頭]]や[[宮内省#律令制度下|宮内卿]]なども兼務しながら、陰陽頭を[[大永]]2年([[1522年]])、暦博士を[[天文 (日本)|天文]]2年([[1533年]])まで務めた。この間の[[享禄]]4年([[1531年]])には[[従三位]]に昇る。また、大永2年より天文6年([[1537年]])まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく[[後奈良天皇]]の側近としても活躍した。この功績によって天文5年([[1536年]])には[[従二位]]、更に天文20年([[1551年]])にはこの家系では初めて[[正二位]]に昇進した。なお、この時期に[[北条氏綱]]を頼って[[相模国]]に下ったものの、天文11年([[1542年]])に所領の[[若狭国]][[名田庄村|名田庄]]に退いて陰陽頭としての職務を行わない[[土御門有脩]]に代わって陰陽頭の職務を代行するために呼び戻された。
[[永正]]4年([[1507年]])に[[従五位|従五位下]]・[[兵部省|兵部少輔]]に叙任される。永正9年([[1512年]])に[[暦博士]]、永正11年([[1514年]])に兼任して[[陰陽寮|陰陽頭]]に任命された。以後、[[馬寮|左馬頭]]や[[宮内省#律令制度下|宮内卿]]なども兼務しながら、陰陽頭を[[大永]]2年([[1522年]])、暦博士を[[天文 (日本)|天文]]2年([[1533年]])まで務めた。この間の[[享禄]]4年([[1531年]])には[[従三位]]に昇る。また、大永2年より天文6年([[1537年]])まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく[[後奈良天皇]]の側近としても活躍した。この功績によって天文5年([[1536年]])には[[従二位]]、更に天文20年([[1551年]])にはこの家系では初めて[[正二位]]に昇進した。なお、この時期に[[北条氏綱]]を頼って[[相模国]]に下ったものの、天文11年([[1542年]])に所領の[[若狭国]][[名田庄村|名田庄]]に退いて陰陽頭としての職務を行わない[[土御門有脩]]に代わって陰陽頭の職務を代行するために呼び戻された。


恐らく[[天文 (元号)|天文]]8年([[1539年]])頃(在種はこの年に[[従五位|従五位下]]に叙されている)、弟・[[勘解由小路在康|在康]]の子である[[勘解由小路在種|在種]]を養子としたが、天文20年([[1551年]])[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]、在種は在富によって「横死」させられた{{efn2|『[[尊卑分脈]]』にある「父卿殺害之」という記述{{Sfn|木場|1985|p=166}}の「父」とは、養父在富ではなく、実父[[勘解由小路在康|在種]]を指す可能性も指摘されている{{Sfn|村山|1981|pp=363f}}。}}。天文22年([[1553年]])[[旧暦9月22日|9月22日]]には、在富の妻が[[山科言継]]の三男・鶴松丸(のちの[[薄諸光]])を養子にしたいと要請したが、断られている{{Sfn|村山|1981|p=364}}。但し、その前後には山科言継との関係は良好であり、親密な関係があった。
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唯一の息子である[[賀茂在昌]]は、[[永禄]]2年([[1559年]])、[[ガスパル・ヴィレラ]]らの上洛の折に[[キリシタン]]となり{{Sfn|海老沢|1965|p=38}}、永禄7年([[1564年]])には妻子を連れて京を出奔して、西洋[[天文学]]を学ぶため[[府内 (豊後国)|豊後府内]]に留学した{{Sfn|海老沢|1965|pp=39f}}。在富は後継者が不在のまま、翌永禄8年([[1565年]])[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]死去。


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没後には嗣子がなかなか決まらず、[[阿倍氏#陰陽道安倍氏|安倍氏]][[嫡流]][[土御門家#土御門家(安倍氏)|土御門家]]から[[土御門有春]]の子である[[勘解由小路在高|在高]]を<ref name="tajima-akitaka">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%b9%e2 勘解由小路在高]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>、さらにその没後は続いて[[土御門有脩]]の子である[[土御門久脩]](勘解由小路在綱として改姓改名)を養子に入れて<ref name="tajima-akitsuna">[[#tajima|但馬荒人]] - [https://seesaawiki.jp/consume_mind/d/%b4%aa%b2%f2%cd%b3%be%ae%cf%a9%ba%df%b9%cb 勘解由小路在綱]{{信頼性要検証|date=2022-1}}</ref>辛うじて存続したものの衰退。[[キリシタン]]となって[[府内 (豊後国)|豊後府内]]に留学していた在富の息子[[賀茂在昌]]が[[安土桃山時代]][[天正]]5年([[1577年]])に帰洛して[[陰陽頭]]を嗣いだことによって一旦は相続問題解消したと思われたが、[[江戸時代]]初期、[[賀茂在昌]]の息子と思われる[[勘解由小路在信]]<ref name="tajima-akinobu">[[#tajima|
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在富の息子と孫に当たると思われる[[賀茂在昌]]、[[勘解由小路在信]]については不明な点が多く、在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い。
在富の息子と孫に当たると思われる[[賀茂在昌]]、[[勘解由小路在信]]については不明な点が多く、在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い。
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2022年1月25日 (火) 17:34時点における版

 
勘解由小路在富
時代 戦国時代
生誕 延徳2年2月5日1490年2月24日
死没 永禄8年8月10日1565年9月4日
改名 在秀(初名)→在富
官位 正二位非参議陰陽頭宮内卿
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族 賀茂朝臣氏嫡流勘解由小路家
父母 父:勘解由小路在重、母:町顕郷
兄弟 在富在康
在昌、養子:在種、養嗣子:在高
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勘解由小路 在富(かでのこうじ/かげゆのこうじ あきとみ/ありとみ[注 1])は、戦国時代公卿陰陽師従三位非参議勘解由小路在重の子。官位正二位非参議賀茂朝臣氏嫡流勘解由小路家の事実上の最後の当主。

経歴

勘解由小路在重の子として誕生。母は町顕郷の娘。初名は在秀。

永正4年(1507年)に従五位下兵部少輔に叙任される。永正9年(1512年)に暦博士、永正11年(1514年)に兼任して陰陽頭に任命された。以後、左馬頭宮内卿なども兼務しながら、陰陽頭を大永2年(1522年)、暦博士を天文2年(1533年)まで務めた。この間の享禄4年(1531年)には従三位に昇る。また、大永2年より天文6年(1537年)まで宮内卿を務め、陰陽師としてだけでなく後奈良天皇の側近としても活躍した。この功績によって天文5年(1536年)には従二位、更に天文20年(1551年)にはこの家系では初めて正二位に昇進した。なお、この時期に北条氏綱を頼って相模国に下ったものの、天文11年(1542年)に所領の若狭国名田庄に退いて陰陽頭としての職務を行わない土御門有脩に代わって陰陽頭の職務を代行するために呼び戻された。

恐らく天文8年(1539年)頃(在種はこの年に従五位下に叙されている[2])、弟・在康の子である在種を養子としたが、天文20年(1551年3月14日、在種は在富によって「横死」させられた[2][注 2]。天文22年(1553年9月22日には、在富の妻が山科言継の三男・鶴松丸(のちの薄諸光)を養子にしたいと要請したが、断られている[5][2]。但し、その前後には山科言継との関係は良好であり、親密な関係があった[6]

唯一の息子である賀茂在昌は、永禄2年(1559年)、ガスパル・ヴィレラらの上洛の折にキリシタンとなり[7]、永禄7年(1564年)には妻子を連れて京を出奔して、西洋天文学を学ぶため豊後府内に留学した[8]。在富は後継者が不在のまま、翌永禄8年(1565年8月10日死去。

没後には嗣子がなかなか決まらず、安倍氏嫡流土御門家から土御門有春の子である在高[9]、さらにその没後は続いて土御門有脩の子である土御門久脩(勘解由小路在綱として改姓改名)を養子に入れて[10]辛うじて存続したものの衰退。キリシタンとなって豊後府内に留学していた在富の息子賀茂在昌安土桃山時代天正5年(1577年)に帰洛して陰陽頭を嗣いだことによって一旦は相続問題解消したと思われたが、江戸時代初期、賀茂在昌の息子と思われる勘解由小路在信[11]の代に至って消息不明となり断絶した。

在富の息子と孫に当たると思われる賀茂在昌勘解由小路在信については不明な点が多く、在富の代で賀茂氏勘解由小路家は実質絶家したものと見なされることが多い。

脚注

注釈

  1. ^ 勘解由小路家通字「在」は「あき」と読むのが正しいとされる[1]
  2. ^ 尊卑分脈』にある「父卿殺害之」という記述[3]の「父」とは、養父在富ではなく、実父在種を指す可能性も指摘されている[4]

出典

参考文献

  • オープンアクセス海老沢有道マノエル・アキマサと賀茂在昌」『史苑 25(3)』、立教大学、1965年。doi:10.14992/00001009NAID 110009393982https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1009&item_no=1&page_id=13&block_id=49 
  • 木場明志 著、北西弘先生還暦記念会 編「暦道賀茂家断絶の事―永禄~文禄期 宮廷陰陽道の動向」『中世社会と一向一揆』、吉川弘文館、1985年。ISBN 4642026126 (所載:村山修一他 編『陰陽道叢書2中世』名著出版、1993。ISBN 4626017983 
  • 但馬荒人. “戦国時代の陰陽師:賀茂在昌”. 2019年10月6日閲覧。[信頼性要検証]
  • 村山修一『日本陰陽道史総説』塙書房、1981年。ISBN 4827310572