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薄諸光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
薄諸光
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文16年11月28日1548年1月8日
死没 天正13年10月5日1585年11月26日
改名 鶴松丸(幼名)→以継(初名)→諸光
官位 正五位下左兵衛権佐
主君 正親町天皇
氏族 山科家薄家
父母 父:山科言継、母:葉室頼継
養父:薄以緒
兄弟 阿茶、阿子、山科教明山科言経
女子、諸光、女子、福禅庵尼
深井定基
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薄 諸光(すすき もろみつ)は、戦国時代から安土桃山時代公家。初名は以継権大納言山科言継の次男。参議薄以緒の養子。官位正五位下左兵衛権佐堂上家薄家の最後の当主。

経歴

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権大納言・山科言継の次男で幼名は鶴松丸(つるまつまる)。当初は勘解由小路在富などから養子の話があったが立ち消えとなり、弘治3年(1557年)頃に参議薄以緒の養子となり[1]橘氏唯一の堂上家であった薄家を継ぐ。

弘治3年(1557年従五位下叙爵する。翌弘治4年(1558年元服し、昇殿を許され、美乃守次いで左兵衛佐に任官し、永禄4年(1561年)従五位上に叙せられた。

永禄6年(1563年位記を止められ、改めて六位蔵人に補せられて左近衛将監式部大丞を兼ねる。その後、10年以上に亘って六位蔵人を務め、この間の天正6年(1578年)には以継から諸光に改名している。

天正8年(1580年従五位下叙爵し、天正9年(1581年)従五位上、天正10年(1582年正五位下・左兵衛権佐に叙任される。

しかし、同年6月に発生した本能寺の変から清洲会議を経て山城国河内国丹波国を支配下に置いた羽柴秀吉が、9月には牛への役銭賦課を禁じる。このあおりを受けて、諸光は牛役銭徴集を咎められて幽閉されたのち、同年10月5日に秀吉の命令で自殺させられた。享年39。諸光の横死と共に薄家は断絶した。

薄家は紅粉屋公事・牛公事・長坂口黒木公事・青花公事などの権益を保持する公家であったことから[2]、秀吉によって処罰されたとも考えられる[3]

人物

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篳篥の名手としても有名であった[3]

官歴

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注記のないものは『歴名土代』による。

系譜

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参考文献

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 山田邦明「山科言継とその子女」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P359-362
  2. ^ 『言継卿記』
  3. ^ a b 大日本史料 第十一編之二十一」『東京大学史料編纂所報』第31号、16頁
  4. ^ a b c d e 『諸家伝』
  5. ^ 『言継卿記』
  6. ^ 『地下家伝』
  7. ^ 言継卿記』天文22年11月24日条、天文23年3月19日条、弘治2年9月条