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「ルイーザ・メイ・オルコット」の版間の差分

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'''ルイーザ・メイ・オルコット'''(ルイザとの表記もあり、Louisa May Alcott、1832年11月29日- 1888年3月6日)は、アメリカの小説家、短編小説の作家、そして『若草物語』(1868)とその続編『続・若草物語』(1869)『第三若草物語』(1871)『第四若草物語』(1886)の著者として最もよく知られている詩人.<ref name="Cullen-ugly">{{cite book|author=Cullen-DuPont, Kathryn|title=Encyclopedia of women's history in America|url=https://books.google.com/books?id=oIro7MtiFuYC&pg=PA374|year= 2000|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-0-8160-4100-8|pages=8–9}}</ref> 。
'''ルイーザ・メイ・オルコット'''(ルイザ<ref>{{コトバンク|オルコット}}</ref>、オールコット<ref>{{コトバンク|オールコット}}</ref>との表記もあり、{{lang-en-short|Louisa May Alcott}} {{IPA-en|ˈɔːlkɒt, ˈɔːlkət|}}<ref>[https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/alcott Alcott] [[コリンズ英語辞典|Collins English Dictionary]]</ref><ref>[https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/Alcott/ Alcott] [[小学館]] プログレッシブ英和中辞典</ref>、1832年11月29日- 1888年3月6日)は、アメリカの小説家。[[家庭小説]]・[[少女小説]]の作家で{{sfn|杉山|2016|p=646}}、『[[若草物語]](''Little Women'')』(1868)とその続編(1869年1871年1886年)の著者として最もよく知られている<ref name="Cullen-ugly">{{cite book|author=Cullen-DuPont, Kathryn|title=Encyclopedia of women's history in America|url=https://books.google.com/books?id=oIro7MtiFuYC&pg=PA374|year= 2000|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-0-8160-4100-8|pages=8–9}}</ref> 。大人向けの短編小説、[[スリラー]]小説、{{仮リンク|扇情小説|en|Sensation novel}}の作家でもある
ルイーザ・メイ・オルコットは、著名な[[超主義|超主義者]]([[w:Transcendentalism|Transcendentalist]])ある{{仮リンク|エイモス・ブロンソン・オルコット|en|Amos Bronson Alcott}}と{{仮リンク|アビ・メイ|en|Abby May}}の娘であり、現在の[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の一部である{{仮リンク|ジャーマンタウン|en|Germantown, Philadelphia, Pennsylvania}}に生まれた。一家は[[1844年]]に[[ボストン]]へ移住し、そこで彼女の父は実験学校を設立し、ま[[ラルフ・ワルド・エマーソン|ラルフ・ウォルドー・エマソン]]や[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]らと共に超越主義者クラブに参加している<ref>{{cite web |title=Louisa May Alcott: The Woman Behind 'Little Women' |url=https://www.pbs.org/wnet/americanmasters/masters/louisa-may-alcott/ |website=American Masters |publisher=PBS |access-date=2 May 2020 |date=December 2009}}</ref>。
オルコットは、著名な[[超主義|超主義者]]で教育者の{{仮リンク|エイモス・ブロンソン・オルコット|en|Amos Bronson Alcott}}と主婦で[[ソーシャルワーカー]]([[民生委員]])の{{仮リンク|アビゲイル・メイ・オルコット|en|Abby May}}の娘であり、現在の[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の一部である{{仮リンク|ジャーマンタウン|en|Germantown, Philadelphia, Pennsylvania}}に生まれた。一家は[[1844年]]に[[ボストン]]へ移住し、そこで彼女の父は実験的な学校を設立した<ref>{{cite web |title=Louisa May Alcott: The Woman Behind 'Little Women' |url=https://www.pbs.org/wnet/americanmasters/masters/louisa-may-alcott/ |website=American Masters |publisher=PBS |access-date=2 May 2020 |date=December 2009}}</ref>。


父は理想主義的な哲学の実践者・教育者であったが、生活力がなく、経済的にも家庭を守っていたのは母だった<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC">{{cite web|url=http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/natgeo/world/natgeo-0000AhHP?page=1|title=『若草物語』の著者オルコットの生涯、その葛藤と意外な作品|work=NATIONAL GEOGRAPHIC|date=2021.12.16|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。一家は父の挑戦と挫折に従い、また生活苦から転居を繰り返し(30年間で22回)、経済的困難に苦しんだ。オルコットは幼い頃から家族を支えるために働きながら、執筆の仕事を試み続け、1860年代に作家として成功を収めるようになった。彼女はキャリアの早い段階で、A・M・バーナードなどのペンネームを使用し、その名でスリラー短編や情熱と復讐に焦点を当てた大衆向けの扇情小説を書いていた<ref name="ualib">{{Cite web |date=2005 |title=Louisa May Alcott |url=https://bindings.lib.ua.edu/gallery/alcott.html |access-date=2020-09-03 |website=Publishers' Bindings Online, University of Alabama}}</ref>。この事実は20世紀半ばまで知られていなかったが{{sfn|大串|2021|p=246}}、現在では「素朴で真実味のある」小説や、彼女自身が「血と雷の物語」と呼ぶ「ぞっとするような」物語を執筆するといった多彩なスタイルを持つ小説家だったことが分かっている{{sfn|大串|2021|p=264}}。30冊以上の本、300篇を超える作品を残した{{sfn|宮木|2008|p=539}}<ref name="Sattelmeyer">{{Cite web|title=Louisa May Alcott-Information and Articles About Louisa May Alcott, a notable woman of the civil war|url=https://www.historynet.com/louisa-may-alcott| access-date=2022-02-13|website=HistoryNet|author= Robert Sattelmeyer}}</ref>。


1868年に発表された『若草物語』は、[[南北戦争]]時代のアメリカ北部に暮らした4人姉妹、長女メグ、次女ジョー、三女べス、四女エイミーの1年間を描いた物語で、[[マサチューセッツ州]][[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]にあるオルコットと家族の家、[[オーチャード・ハウス]]を舞台にし、彼女の三人の姉妹、{{仮リンク|アンナ・オルコット・プラット|en|Anna Alcott Pratt}}、{{仮リンク|エリザベス・スーワル・オルコット|en|Elizabeth Sewall Alcott}}と{{仮リンク|アビゲイル・メイ・オルコット・ニアーリカー|en|Abigail May Alcott Nieriker}}との子ども時代の経験に基づいている。この小説は当時好評で、今でも子供から大人まで人気があり、
オルコット家族は経済的困難に苦しんでおり、幼い頃から家族を支援するために働いている間、ルイーザは執筆でも解決の糸口を探した。彼女は1860年代に彼女の執筆で決定的な成功を収めるようになった。彼女はキャリアの早い段階で、A・M・バーナードなどのペンネームを使用し、その名で、情熱と復讐に焦点を当てた大人向けのばかげた短編小説やセンセーション小説を書いていた<ref name="ualib">{{Cite web |date=2005 |title=Louisa May Alcott |url=https://bindings.lib.ua.edu/gallery/alcott.html |access-date=2020-09-03 |website=Publishers' Bindings Online, University of Alabama}}</ref>。
150年以上にわたり非常に愛され続けている。舞台、映画、テレビに何度も上演され、映像化されている。


作家として成功したオルコットは一家の稼ぎ頭として家族を支え、『若草物語』と続編の印税で家の借金を返し、両親の面倒をみ、姉アンナの家族の面倒をみ、妹メイの留学費用まで捻出し、メイ亡き後は残された姪を引き取って育てた{{sfn|大串|2021|p=264}}。
1868年に公開された『若草物語』は、[[マサチューセッツ州]][[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]にあるオルコットと家族の家、[[オーチャード・ハウス]]を舞台にし、彼女の三人の姉妹、[['''アンナ'''・オルコット・プラット]]、[['''エリザベス'''・スーワル・オルコット]]と[[アビゲール・'''メイ'''・オルコット・ニアーリカー]]、との子ども時代の経験に基づいている。この小説は当時好評で、今でも子供から大人まで人気がある。舞台、映画、テレビに何度も上演され、映像化されている。


オルコットは「一生を父親への強い愛憎のなかで過ごしたといってもいいほどに父の存在が大きかった」と言われ{{sfn|小松原|2021}}、伝記作家たちは、オルコットの進歩的な考えと独立心が、先進的な理想を持つ父ブロンソンによって育まれたと考え、彼女の珍しい成功は父の影響によると考えてきた<ref name="ClassBrain"/>。近年では、母アッバの困難で献身的な結婚生活と自由への夢、母娘の関係性が、オルコットの知的・感情的世界の形成に大きな影響を与えたと注目されている<ref name="Marmee & Louisa">{{Cite web|title=Marmee & Louisa: The Untold Story of Louisa May Alcott and Her Mother|url=https://www.evelaplante.com/marmee--louisa.html| access-date=2022-02-13|website=Eve LaPlante|author=}}</ref>。一家は奴隷制廃止運動に関わり、母は女性の権利の活動家であり、娘たちに自活の大切さを教えた<ref name="UUHHS">{{cite web|url=https://uudb.org/articles/bronsonalcott.html|title=Marmee & Louisa: The Untold Story of Louisa May Alcott and Her Mother|work=Unitarian Universalist History & Heritage Society (UUHHS)|date=|access-date=2021.01.11|quote=}}</ref><ref name="ELP">{{cite web|url=https://www.evelaplante.com/my-heart-is-boundless.html|title=My Heart Is Boundless: Writings of Abigail May Alcott, Louisa’s Mother|work=Eve LaPlante|date=|access-date=2021.01.12|quote=}}</ref>。オルコットは[[奴隷制]]廃止論者、[[フェミニスト]]であり、一生独身で通した。彼女は生涯を通じて、[[禁酒運動]]や[[女性参政権]]などの改革運動に積極的に取り組んだ<ref>{{Cite book|last=Norwich|first=John Julius|title=Oxford Illustrated Encyclopedia Of The Arts|publisher=Oxford University Press|year=1990|isbn=978-0198691372|location=USA|pages=11}}</ref>。女性の権利と教育改革は、彼女の小説の主要なテーマであった<ref name="ClassBrain">{{cite web|url=https://web.archive.org/web/20070203111222/http://www.classbrain.com/artbiographies/publish/louisa_may_alcott.shtml|title=Alcott, Louisa May
ルイーザは、成長するにつれて[[奴隷制]]廃止論者、[[フェミニスト]]となり、一生未婚で通した。彼女は生涯を通じて、[[禁酒運動]]や[[女性参政権]]などの改革運動に積極的に取り組んだ<ref>{{Cite book|last=Norwich|first=John Julius|title=Oxford Illustrated Encyclopedia Of The Arts|publisher=Oxford University Press|year=1990|isbn=978-0198691372|location=USA|pages=11}}</ref>。彼女は、父親の死の2日後、1888年3月6日にボストンで脳卒中で亡くなった。
By Sarah Lane |work=ClassBrain.com |date=2006.03.17|access-date=2021.01.11|quote=}}</ref>。アメリカ文学史に埋もれていたが、フェミニストとしてのオルコット研究が進み、現在では19世紀中葉の文学の収穫期{{仮リンク|アメリカン・ルネッサンス|en|American Renaissance}}の一員として位置付けられている{{sfn|島|2005|p=129}}。
近年では、彼女の小説は女性の自立を描いたものであるという評価もされるようになった{{sfn|杉山|2016|p=646}}。


彼女は、父親の死の2日後、1888年3月6日にボストンで脳卒中で亡くなった。
==幼少期~若年期==


(以下、邦訳のない作品タイトルはすべて仮訳である。)
ルイーザ・メイ・オルコットは1832年11月29日、父の33歳の誕生日にペンシルバニア州ジャーマンタウン(現在はフィラデルフィアの一部)<ref name="Cullen-ugly"/>で、,<ref name="Cullen-ugly">{{cite book|author=Cullen-DuPont, Kathryn|title=Encyclopedia of women's history in America|url=https://books.google.com/books?id=oIro7MtiFuYC&pg=PA374|year= 2000|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-0-8160-4100-8|pages=8–9}}</ref>に生まれた。
父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はソーシャルワーカーのアビー・メイであり、ルイーザは4人娘の次女だった。他の子どもには長女アンナ・ブロンソン・オルコット、三女エリザベス・セウォール・オルコット、四女アビゲイル・メイ・オルコットがいる。
ルイーザは子どもの頃、男の子のゲームを好むおてんば娘だった<ref>[https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2015/04/23/louisa-may-alcott-is-a-better-spinster-than-kate-bolick-seems-to-be/?outputType=amp Washington Post]</ref>。
家族は1834年にボストンに引っ越し<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1129.html|title=Louisa M. Alcott Dead|work=The New York Times|date=March 7, 1888|access-date=April 2, 2018|quote=The parents of the authoress removed to Boston when their daughter was 2 years old, and in Boston and its immediate vicinity she made her home ever after.}}</ref>、ここで父ブロンソンは実験学校を設立して[[ラルフ・ワルド・エマーソン]]と[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]とともに超越クラブに加わわっている。
父ブロンソンの教育に関する意見と子育てに関する厳しい見解、そして精神的な不安定さは、超絶主義者の目標である完璧を達成するという願望を若いルイーザの心の中に形作った<ref name=showalter>{{cite book|author=Louisa May Alcott|editor-last=Showalter|editor-first=Elaine|title=Alternative Alcott|year=1988|publisher=Rutgers University Press|url=https://archive.org/details/alternativealcot0000alco|url-access=registration|quote=Alternative Alcott By Louisa May Alcott by Elaine Showalter.|isbn=978-0813512723}}</ref>。
ルイーザの野蛮で独立的な行動に対して父は理解を示さず、さらに父は家族を十分に養うことができなかったため、父と妻・娘の間には対立が発生した<ref name=showalter/><ref>{{cite news|url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=121831612|title=Alcott: 'Not the Little Woman You Thought She Was'|work=Morning Edition|date=December 28, 2009|publisher=[[NPR]]|access-date=April 2, 2018}}</ref> 。


== 人生 ==
母アビーは、夫が自分の犠牲を認識できないことに憤慨し、それを性の不平等というより大きな問題に関連付けた。彼女はこの問題認識と、女性に犯された過ちを是正したいという願望をルイーザに伝えている。
===幼少期~若年期===
[[File:Amos Bronson Alcott.jpg|thumb|right|150 px|エイモス・ブロンソン・オルコット]]
[[File:Abby May Alcott.jpg|thumb|right|150 px|アビゲイル・メイ・オルコット]]
父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はニューイングランドの由緒ある家柄出身のアビゲイル・メイ・オルコット(愛称アッバ)であり、ルイーザ・メイ・オルコットは四人姉妹の次女である{{sfn|大串|2021|p=243}}。


父ブロンソンはさほどしっかりした教育を受けなかったが、読書が好きで、天の都市を目指すクリスチャンの旅を描く[[ジョン・バニヤン]]の寓話物語『[[天路歴程]]』(原題:この世から来るべき世に向かう巡礼者の旅路―夢の中の物語)に決定的な影響を受け、生涯を通して繰り返し読み直して内面化し、生き方の指針にし、後には徳の需要さ、すばらしさを娘たちに伝えるためにいつも読んで聞かせた<ref name="UUHHS"/>{{sfn|吉田|2004|p=156}}{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=67}}。教師になりたかったが叶わず、様々な仕事に就き、[[クェーカー]]教徒と接して「内なる光」の教義に影響を受け、それは神と直接対話するという彼の信念の萌芽となった<ref name="UUHHS"/>。その後教師となって革新的なやり方が注目を集め、彼に感銘を受けた[[ユニテリアン]]で奴隷制度廃止論者の牧師サミュエル・J・メイが、ボストンのチャリティーの幼児学校に彼のポストを用意し、牧師の妹だったアッバと出会った<ref name="UUHHS"/>。アッバは、敬虔なユニテリアンで、富の追求が精神の幸福に有害だと考える父のジョセフ・メイ大佐に強い改革と慈善の精神を教えられ、勉強、教育、執筆に熱心なアッバと興味を共有し、彼女の改革への情熱を支えた母ドロシーを持ち、自分の周りの社会の改善と道徳的な行動に熱心な信仰深い家庭で育った<ref name="MP">{{cite web|url=https://louisamayalcottismypassion.com/2019/02/27/marmee-and-louisa-book-discussion-chapter-one-a-good-child-but-willful/|title=Marmee and Louisa Book Discussion: Chapter One “A good child, but willful”|work=Louisa May Alcott is My Passion|date=|access-date=2021.01.12|quote=}}</ref>。こうした家庭に育ち、情熱的で寛大な心を持ち、世の不公平に敏感だったアッバは、ブロンソンに出会った時27歳で、婚約相手の不実で破談になったこともあり、当時としてはかなり適齢期を過ぎていた{{sfn|吉田|2004|pp=162-163}}。革新的な思想を持った背の高いハンサムな青年だったブロンソンに魅了され、助手の職に応募し、彼と婚約し、彼と恋人であるだけでなく、彼の生徒であり仲間であることを喜んだ<ref name="Orchard House"/><ref name="UUHHS"/><ref name="UUHHS2">{{cite web|url=https://uudb.org/articles/louisamayalcott.html|title=Louisa May Alcott|work=Unitarian Universalist History & Heritage Society (UUHHS)|date=|access-date=2021.01.11|quote=}}</ref>。メイ家の面々は、家族を養うという考えがほとんどないブロンソンとアッバの結婚を危ぶんだが、アッバが押し切る形で1830年に結婚した<ref name="UUHHS2"/>{{sfn|吉田|2004|pp=162-163}}。ブロンソンは彼の生来の宗教である[[カルヴァン主義]]から離れ、メイ家のユニテリアンの教えに魅了され、またアッバとメイ家の影響で奴隷制廃止運動に積極的に参加するようになった<ref name="UUHHS"/>。ブロンソンの幼児教育に関する冊子に感銘を受けた裕福なクェーカー教徒の招きで、1830年に進歩的な私立学校を設立するためにペンシルベニア州ジャーマンタウン(現在はフィラデルフィアの一部)<ref name="Cullen-ugly">{{cite book|author=Cullen-DuPont, Kathryn|title=Encyclopedia of women's history in America|url=https://books.google.com/books?id=oIro7MtiFuYC&pg=PA374|year= 2000|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-0-8160-4100-8|pages=8–9}}</ref>に引っ越した。1931年に長女アンナ・ブロンソン・オルコットが、1832年11月29日、父の33歳の誕生日にルイーザ・メイ・オルコットが生まれた。ジャーマンタウンの学校がパトロンの死で頓挫し、またアッバが流産したことで、家族は1834年に[[ニューイングランド]]の[[ボストン]]に戻った<ref>{{cite web|url=https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1129.html|title=Louisa M. Alcott Dead|work=The New York Times|date=March 7, 1888|access-date=April 2, 2018|quote=The parents of the authoress removed to Boston when their daughter was 2 years old, and in Boston and its immediate vicinity she made her home ever after.}}</ref>。
1840年に、学校でのいくつかの挫折の後、彼女の家族は[[マサチューセッツ州]][[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]の{{仮リンク|コンコード川|en|Concord River}}沿いにある広さ2エーカーの土地に建つ小屋に移り住んだ。彼らが借りたホスマーコテージで過ごした3年間は、のどかなものと表現された<ref>{{cite book|last=Cheever|first=Susan|title=Louisa May Alcott: A Personal Biography|year= 2011|orig-year=2010|edition=1st|publisher=Simon and Schuster|pages=45|url=https://books.google.com/books?id=-4PYzxTQVAcC&q=Louisa+May+Alcott:+A+Personal+Biography+by+Susan+Cheever|isbn=978-1416569923 }}</ref>。
1843年までにオルコット家はコンソシエイト家の他の6人と一緒に<ref name=showalter/> 、1843年から1844年にかけてユートピアの フルーツランズコミュニティに短期間移動した。
ユートピアのフルーツランズが崩壊した後は賃貸部屋に移り、その後四女アビゲイルの相続とエマーソンからの財政的支援を受けて、コンコードの家屋を購入している。
一家は1845年4月1日に「ヒルサイド」と名付けた家に引っ越したが、これは1852年にナサニエル・ホーソーンに売却され、ホーソーンは家を「ウェイサイド」と改名している。


ボストンで父ブロンソンは、[[ラルフ・ワルド・エマーソン]]と[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]]ととも{{仮リンク|超絶クラブ|en|Transcendental Club}}を創設した<ref>{{cite web |title=Louisa May Alcott: The Woman Behind 'Little Women' |url=https://www.pbs.org/wnet/americanmasters/masters/louisa-may-alcott/ |website=American Masters |publisher=PBS |access-date=2 May 2020 |date=December 2009}}</ref>。19世紀半ばのニューイングランドの知識人たちは、超絶クラブを端緒に始まった哲学の潮流、“個人”を絶対的に尊重し、自己修養や普遍的な兄弟愛を信じ、自然との融合を目指す超絶主義に魅了されていた<ref name="The Guardian"/><ref name="MOVIE WALKER"/><ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。ブロンソンは、超絶主義とスイスの教育改革者[[ヨハン・ペスタロッチ]]の理論を組み合わせ、[[無政府主義]]、[[菜食主義]]、[[不淫]]、[[霊性]]といった系統を含む奇妙な哲学を作り上げた<ref name="The Guardian"/>。彼はエマーソンの親しい友人であり、理想を追い求める教育者で、詰め込み教育や[[学校内における体罰]]に反対しており、子供たちの学ぶ意欲を引き出す教育を目指していたが、経済的なことには疎く、学校経営はうまくいかなかった{{sfn|大串|2021|p=243}}。宗教的宇宙観により理想生活を追求する超絶主義の実行者であり、生きるのに必要な金銭に頓着せず、どれほど非現実的でも妥協を許さず、理想に生きる浮世離れした人生観を持っていた{{sfn|松原|1958|p=386}}<ref name="fruitlands">{{cite web|url=https://www.massmoments.org/moment-details/alcott-family-arrives-at-fruitlands.html|title=Alcott Family Arrives at Fruitlands|work=Mass Moments|date=|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。食べるために生き物を殺してはならないとし、社会制度を人間の真の善を堕落させるものと見なし、金銭や商売は卑劣なものと考え、必要以上に金銭を蓄えてはならないとし、産業の仕事は魂を殺すものだと考えた{{sfn|松原|1958|p=386}}<ref name="fruitlands"/>。奴隷制は罪であると考えたが、さらにほかの動物の労働力を搾取することも罪であるとみなした<ref name="fruitlands"/>。オルコット一家は南北戦争前の[[ヒッピー]]であると表現することもでき、1960年代の[[カウンターカルチャー]]と同様に、東洋の精神性、[[ホメオパシー]]、代替的なライフスタイル、人種、性別によらない社会的な平等に関心があった<ref name="umw"/>。ブロンソンはすべての人間は同胞であるため平等に働いて分かち合うべきであると考え、どんな人間の助けも拒まなかった{{sfn|松原|1958|p=386}}。よって一家は、現実離れしたライフスタイルを実践し、総出で助けを求める人に奉仕することになり、筆舌に尽くしがたい苦労と困窮を味わうこととなった{{sfn|松原|1958|p=386}}<ref name="fruitlands"/>。オルコット家は文字通りパンと水だけで生きることもあったが、ブロンソンはその現実を無視することができ<ref name="Sattelmeyer"/>、また彼は自分が罪を犯したことは一度もないと話しており、現代の研究者のひとりは、彼は自分の気まぐれの思いつきと天啓を混同していたと指摘している<ref name="The Guardian"/><ref name="Orion"/>。父の教育に関する意見と子育てに関する厳しい見解、そして精神的な不安定さに接することで、若いオルコットの心の中に、超絶主義者の目標である「完璧を達成する」という願望が形成された<ref name=showalter>{{cite book|author=Louisa May Alcott|editor-last=Showalter|editor-first=Elaine|title=Alternative Alcott|year=1988|publisher=Rutgers University Press|url=https://archive.org/details/alternativealcot0000alco|url-access=registration|quote=Alternative Alcott By Louisa May Alcott by Elaine Showalter.|isbn=978-0813512723}}</ref>。
30年間で22回移動したオルコット家は、1857年に再びコンコードに戻り、1858年の春に2階建ての下見板張りの農家である[[オーチャード・ハウス]]に引っ越した。


オルコットは幼い頃からいわゆる癇の強い子だったようであり{{sfn|平石|2009|pp=156-157}}、子どもの頃、活発で冒険心にあふれ{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=31}}、男の子のゲームを好むおてんば娘だった<ref>[https://www.washingtonpost.com/posteverything/wp/2015/04/23/louisa-may-alcott-is-a-better-spinster-than-kate-bolick-seems-to-be/?outputType=amp Washington Post]</ref>。父ブロンソンは、独特の教育家で強烈に家父長制的人物で、第一の道徳信条として自己放棄を掲げており、幼児としては特に異常とは言えないオルコットの性質を恥ずべきものとみなし、長い間、オルコットを娘の中で最も利己的であると考えていた{{sfn|平石|2009|pp=156-157}}。ブロンソンとオルコットの確執は相当深かったと思われ、伝記作家のジョン・マットソン(John Matteson)は、ブロンソンは自覚的にキリストを模倣した人生を送ろうとしており、家を司るキリストである父に反抗することは、「事実上自分を悪魔と定義するに等しかった」と述べている{{sfn|平石|2009|pp=156-157}}。ブロンソンはオルコットの荒々しく独立的な行動に対して理解を示さず、さらに父は家族を十分に養うことができなかったため、父と妻・娘の間には緊張関係が生じた<ref name=showalter/><ref>{{cite news|url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=121831612|title=Alcott: 'Not the Little Woman You Thought She Was'|work=Morning Edition|date=December 28, 2009|publisher=[[NPR]]|access-date=April 2, 2018}}</ref> 。
[[File:Louisa May Alcott.jpg|thumb|left|200px|ルイーザ・メイ・オルコット]]
ルイーザの初期の教育では、[[ウォールデン池]]での時間に基づいてソローのフルートを書くインスピレーションを与えた、自然主義者[[ヘンリー・デイビッド・ソロー]]からのレッスンが含まれていた。しかし、彼女が受けた教育のほとんどは、厳格で「自己否定の甘さ」を信じていた父親からのものだった<ref name=showalter/>。
彼女はまた、ラルフ・ワルド・エマーソン、ナサニエル・ホーソーン、マーガレット・フラー、ジュリア・ウォード・ハウなどの作家や教育者からいくつかの指導を受けている。(これらはすべて家族の友人である)
彼女は後に、「超越的な野生のオート麦」と題された新聞のスケッチでこれらの初期の年月を説明した。


オルコットは少女時代、「欲望する自己の否定」という父の教えと、それと同趣旨の、当時の女性の自己否定の道徳を内面化することに、多くの努力を費やし、苦労しながらも、彼女の中に根付いていった{{sfn|平石|2009|pp=156-158}}。
スケッチは、『銀の水さし』(1876年)という短編集に収録されており。これはフルーツランズでの「素朴な生活と高邁な思想」([[ワーズワース]]が1802年にコウルリッジに当てた十四行詩の中にある言葉)という家族の実験に関連している<ref name="EB1911">{{cite EB1911|wstitle=Alcott, Louisa May|volume=1|page=529|last=Richardson|first=Charles F.}}</ref>。


====テンプルスクール====
貧困のため、ルイーザは幼い頃から教師、お針子、知事、家事手伝い、作家として働いており、彼女の姉妹もまた、母親がアイルランド移民の間で社会福祉を引き受けている間、お針子として働いて家族を支えた。
1835年にボストンでブロンソンは、革新的な教育家である[[エリザベス・ピーボディ]]の援助で、一般に{{仮リンク|テンプルスクール|en|Temple School (Massachusetts)}}として知られる人間文化学校を創設し、規律と相互を尊重する空気の中で開放性と自己表現を重んじ、子供の内なる神性を目覚めさせる教育を行おうとした<ref name="UUHHS"/>。1835年に三女が生まれ、後援者の名前から三女の名前はエリザベスとなった<ref name="UUHHS"/>。オルコットはこの学校に通い、教育を受けている{{sfn|山本|2021|p=2}}。ディベート風の「会話」という生徒が考えて答える授業があり、現在でもその先進性を賞賛する人のある教育法だが、これは「知性」ではなく「徳性」の育成を目的とするもので、生徒が出した様々な答えのうち、ブロンソンの考えに合った答えを正しいと認めるもので、質問や自由な会話は禁止されていた。協働者のピーボディは、この教育法が一見生徒が考えているように見えて、教師に暗に操られ、教師が求める答えを探しているだけという危険性を懸念しており、吉田のぶ子は彼の教育法の洗脳的側面を指摘している{{sfn|吉田|2004|pp=168-169}}。この頃はブロンソンが忙しく、娘たちは母アッバとの結びつきが強かった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=31}}。ブロンソンは娘たちに、良心の大切さと、良心とはいつも「いい人」でいられるよう仕向けてくださる神であり、良心に従わない限り幸せにはなれないと教えた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=31}}。
最年少のアビゲイルだけが公立学校に通うことができており、これらすべてのプレッシャーにより、執筆はルイーザにとって創造的で感情的な捌け口だった<ref name=showalter/>。彼女の最初の本は、ラルフ・ワルド・エマーソンの娘であるエレン・エマーソンのために最初に書かれた物語のセレクションである『花のおとぎ話』(1849)であり、オルコットは「私が金持ちで良かった、そして今日一日みんな幸せな家族だったらいいのに」と発言したと言われている<ref name="EB1911"/> Alcott is quoted as saying "I wish I was rich, I was good, and we were all a happy family this day"<ref>{{cite news|url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=121831612|title=Alcott: 'Not The Little Woman You Thought She Was'|last=Reisen|first=Harriet|date=December 29, 2009|publisher=NPR|access-date=April 2, 2018}}</ref>。


テンプルスクールでの先進的な試みは賞賛されたが、その栄光は短命でだった<ref name="UUHHS"/>。独自の宗教教育を行ったが、教会がタブーとする「マリアの出産」に触れる性的な内容が含まれるようになり、ブロンソンはピーボディの忠告に反してその教えを1836年末に出版し、新聞や多くの説教壇で非難の嵐が吹き荒れ批判された<ref name="UUHHS"/>{{sfn|吉田|2004|pp=166-167}}。また、当時の徳育の拠り所は宗教であり、学校には様々なキリスト教の宗派の子供がいたため、本来徳育を行うのは家庭とその教会であり、ブロンソンの自分の宗教観に基づいた徳育は保護者にとっては越権と感じられた{{sfn|吉田|2004|pp=168-169}}。怒った父兄が学校に押し寄せ、父の首を絞め校舎を焼き払おうとし、5歳のオルコットはこぶしを振り上げて懸命に暴徒を追い払おうとしたという{{sfn|松原|1958|pp=386-387}}。同時期にオルコット夫妻は、奴隷制廃止運動に参加し始めたばかりの女性社会学者の{{仮リンク|ハリエット・マルティノー|en|Harriet Martineau}}とトラブルになって学校についての激しい批判を受け、これによりほとんどの裕福な生徒が退学し、黒人の少女を入学させたことが決定打となり学校は終焉した<ref name="UUHHS"/>。1840年に四女アビゲイル・メイ(以下メイ)が生まれたが、上の3人と異なり、父親の綿密な監督なしに育った<ref name="UUHHS"/>。
1847年、彼女と彼女の家族は地下鉄道の駅長を務め、逃亡奴隷を1週間匿い、フレデリック・ダグラスと話し合った<ref>{{cite web |url=http://www.alcottfilm.com/louisa-may-alcott/life/|title=Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women, The Alcotts|publisher=Nancy Porter Productions, Inc.|year=2015}}</ref>
ルイーザは、1848年[[女性の権利]]について討議するために開催されたセネカ・フォールズ大会で出された、女性独立宣言とも言われる{{仮リンク|所感の宣言|en|Declaration of Sentiments}}を読み、[[マサチューセッツ州]]、[[コンコード]]で教育委員会の選挙に登録した最初の女性となっている<ref>{{cite web|url=http://historyofmassachusetts.org/louisa-may-alcott-the-first-woman-registered-to-vote-in-concord/|title=Louisa May Alcott: The First Woman Registered to Vote in Concord|work=History of Massachusetts|author=Brooks, Rebecca Beatrice|date=September 19, 2011|access-date=April 2, 2018}}</ref>。


====ホスマーコテージ====
1850年代はオルコット家にとって困難な時期であり、1854年にルイーザはボストン劇場で慰めを見いだして、その劇場を舞台に誰がどの訳を演じるかで二人の女優がしのぎを削るという『ライバルの女優たち』(The Rival Prima Donnas)を執筆した。これは作家としてのキャリアの中で初期の彼女が書いた扇情小説の一つである。
1840年に、学校経営に失敗したオルコット一家は、[[マサチューセッツ州]][[コンコード (マサチューセッツ州)|コンコード]]の{{仮リンク|コンコード川|en|Concord River}}沿いにある広さ2エーカーの土地に建つ小屋に移り住んだ。彼らが借りたホスマーコテージで過ごした3年間は、のどかななものだったといわれる<ref>{{cite book|last=Cheever|first=Susan|title=Louisa May Alcott: A Personal Biography|year= 2011|orig-year=2010|edition=1st|publisher=Simon and Schuster|pages=45|url=https://books.google.com/books?id=-4PYzxTQVAcC&q=Louisa+May+Alcott:+A+Personal+Biography+by+Susan+Cheever|isbn=978-1416569923 }}</ref>。オルコットは、「一生のうちで最も幸せな時期」だったとしており、エマソンの子供たちと遊び、野山を駆け回り、自然の美しさに「聖なるものを感じる」体験をした{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=32}}。


1841年にアッバの父が亡くなったが、アルコット家の債権者の申し立てがあり、そのわずかな遺産を手に入れることはできなかった<ref name="UUHHS"/>。失敗した学校の借金が膨らんで貧困状態となり、ブロンソンは深く落胆し、アッバは夫の哲学に幻滅していた<ref name="UUHHS"/>。アッバはのちに、「私にとっては、あなたの哲学や理論よりも、あなたの人生の方が大切だったのです」と書いている<ref name="UUHHS"/>。ブロンソンはアッバと金銭的な苦労を分かち合うことがなく、超絶主義の雑誌「ザ・ダイアル」に寄稿することに熱中した{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=33}}。
1857年頃のルイーザは仕事を見つけることができず、絶望に満ちて自殺を考えるまでに追い詰められた。その当時に、彼女はエリザベス・ギャスケルの[[シャーロット・ブロンテ]]の伝記を読み、彼女自身の人生と多くの類似点を見つけた。<ref>{{Cite web|url=https://slate.com/culture/2004/03/the-beguiling-bronte-sisters.html|title=The beguiling Bronte sisters.|last=Showalter|first=Elaine|date=2004-03-01|website=Slate Magazine|language=en|access-date=2020-02-07}}</ref><ref>{{Cite book|last=Doyle|first=Christine|title=Louisa May Alcott and Charlotte Bronte: Transatlantic Translations|publisher=Univ. of Tennessee Press|year=2003|isbn=1572332417|pages=3}}</ref>


====フルートランズ====
1858年、妹のエリザベスが亡くなり、姉のアンナはジョン・プラットという男と結婚した。これはルイーザにとって、彼らの姉妹関係の崩壊であると感じられた<ref name=showalter/>。
[[File:Fruitlands in 1915.jpg|thumb|right|250 px|フルートランズのメインの建物]]
1842年にブロンソンは、失意の彼に成功体験を与えたいと考えたエマーソンの援助で渡英し、テンプルスクールを真似て作られた「オルコット・ハウス」を見学し、彼の支持者のグループに会って自信を深め、弟子の神秘思想主義者チャールズ・レーンを伴って帰国し、オルコット一家に加わった{{sfn|島|2005|p=132}}<ref name="UUHHS"/>。1843年、父ブロンソンはエマーソンを理事に、レーンを後援に、妻の兄の資金援助を受けて、自らの「新しいエデン」であるユートピア的農業共同体{{仮リンク|フルートランズ|en|Fruitlands (transcendental center)}}(Fruitlands、フルーツランド)を設立した<ref name="The Guardian"/>{{sfn|島|2005|p=132}}。この時期アメリカ東部を中心に、同様の理想主義的共同体がいくつも建設されたが、理想と現実の落差に打ちのめされて次々消滅した{{sfn|島|2005|p=132}}。


オルコット一家は、他の6人のコミュニティ参加者の家族と一緒に移り住んだ<ref name=showalter/>。ブロンソンは家族の枠を広げることで、互いの精神を高尚にすることが促進されると考えていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=36}}。イギリスで新規メンバーを探すための旅行は、エマーソンの資金提供に頼っており、農場経営の資金はレーンが負担した<ref name="The Guardian"/>。自給自足を目指し、市場や金銭との接触を可能な限り断つことを目指していたが、農園の名前と裏腹に土地は痩せており果樹は少なく、農業の経験者はメンバーの中に1人しかおらず、無計画に始まったそのコミュニティは悲惨な結果に終わり、1843年から1844年の短い期間で解散した<ref name="fruitlands"/>{{sfn|大串|2021|p=219}}。父ブロンソンは肉食やセックスを避けることで[[エデンの園]]を再現できると考え、フルートランズでは、菜食を推奨し、彼らは肉、魚、牛乳、卵、バター、チーズを食べず、食事は全粒粉パン(ブロンソン自身が作ったもの)、果物、野菜、そして冷水に限られていた<ref name="The Guardian"/><ref name="fruitlands"/>。彼らは調理で野菜の「生命の力」が失われると考え、生食を実践した<ref>{{cite web|url=https://www.tjapan.jp/food/17198192|title=“切っただけ”の生野菜が食の最先端になった理由|work=The New York Times Style Magazine|date=|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。綿と砂糖は奴隷労働の産物であり、羊毛は羊を、絹は蚕を、革は牛を、蜂蜜は蜜蜂を犠牲にしているとして拒否し、甘いものはなかった<ref name="fruitlands"/>。また、肥料を使った農作物などを「汚染物質」と考え肥料の使用を拒み、当時農業に必要だった動物労働を否定し、牛の助けを借りずに人力で畑を耕した<ref name="fruitlands"/>。多くの本を所有していたが、動物製品に由来するランプやろうそくを使用できないため、夜に読書することはできなかった。アルコール、カフェイン、温水、セックスなどを刺激物とみなして拒否し、体を浄化しようとし、道徳的に生き、いかなる形の搾取も避けることによって精神を浄化しようと考えた<ref name="fruitlands"/>。清らかな農業の実践と哲学的な議論により、より深い魂の目覚めをもたらす理想の生活は、非現実的であり、柱となるリーダーも欠けており、すぐに問題だらけとなった<ref name="fruitlands"/>{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=36}}。食べ物も足りず、不健康な生活の中、アッバは娘たちを空腹や寒さから守るためにたびたび違反行為をしたため、レーンはアッバの精神性の欠如を批判した{{sfn|島|2005|pp=140-141}}。レーンは近くの[[シェーカー (キリスト教)|シェーカー]]教徒の共同体のように家族を理想の生活から切り離すべきと主張し、アッバが共同体全体よりも家族への愛情を優先させていると非難し、アッバは悩むブロンソンに強く意見し、ブロンソンとレーン、アッバの人間関係は悪化した<ref name="Orion"/>{{sfn|島|2005|pp=134-134}}。
==青年期~文学的な成功==


ブロンソンは娘たちに日記をつけることを教育の手段として奨励しており、家族は互いの日記を読み、書き込む習慣であった。フルートランズでも教育としての日記は推奨されており、オルコットはしきりに「いらいらした感情」と、両親の理想に達しない駄目な自分に対する自己嫌悪を書いており、また疲れ切った母親を鋭く観察している{{sfn|島|2005|p=133}}。チャールズ・レーンはほとんどの勉強を見ていたが、オルコットはそれを苦痛に思っていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=36}}。まだ思春期前の10歳の少女だったオルコットは、父の理想郷建設の中で、経済的逼迫、両親の不和、家族崩壊の危機的状況を体験した{{sfn|吉田|2021}}。姉アンナとオルコットは、母の苦労、父がうまくいかない共同体にかかりきりで他を顧みないこと、小さな家で他人と暮らす不便さなどに心を痛め{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=35}}、父がいなくなってしまうのではないかと心配し、「前の夜に父と母とアンナと私は長い話をしました。私はとても不幸でした、そして私たちは皆泣きました。」「私は神様に、私たちみんなを一緒にいさせてくださるように祈りました。」と日記に書いている<ref name="Orion">{{cite web|url=https://orionmagazine.org/review/fruitlands-the-alcott-family-and-their-search-for-utopia/|title=Fruitlands: The Alcott Family and Their Search for Utopia|work=Orion Magazine|date=|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。
[[File:Alcott-L.jpg|thumb|right|ルイーザ・メイ・オルコット]]


労働の割り当ては公平なものではなく、ブロンソンとレーンは新しいメンバーを勧誘するために各地を駆け回り、他のメンバー、特に恒常的な唯一の女性メンバーであったアッバに重労働を任せ、彼女は他人ばかりのコミュニティに残され「ガレー船の奴隷のように」働きづめた<ref name="UUHHS"/><ref name="Orion"/>。ブロンソンとレーンは収穫シーズンに講演旅行に出かけ、コミュニティのメンバーはブロンソンが旅行と哲学に多くの時間を費やし、農業に十分時間を使っていないことに不満を抱いた<ref name="UUHHS"/><ref name="fruitlands"/>。母アッバは、女性メンバーの一人がルールを破って追放されコミュニティ唯一の大人の女性になると、すべての女性の労働を背負うことになり、訪問者の「ここには労役を担う動物はいないのですか?」という質問に「ただ一人女がおります」と答えている<ref name="fruitlands"/>。アッバはただ一人の女性労働者として寒さや飢え、身体的痛みに苦しみ、それを娘たちに訴え{{sfn|島|2005|p=133}}、「この生活が、わたしの心まで奪い取らないことを望みたい」と書いていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=35}}。
成長したルイーザは奴隷制度廃止論者でありフェミニストとなり、1860年に、オルコットはアトランティック・マンスリーに寄稿をするようになった。
南北戦争が勃発した時はワシントンDCのジョージタウンにあるユニオン病院で、1862年~1863年、6週間看護師として働いている<ref name="EB1911"/>。彼女は看護師として3ヶ月間奉仕するつもりだったが、途中で腸チフスにかかり瀕死の症状を経験した。
彼女の手紙は、ボストンの奴隷制反対紙「コモンウェルス」で改訂および公開され、『病院のスケッチ』(1863、1869年に追加で再公開)<ref name="EB1911"/>として著作に収められ、彼女の観察とユーモアに対する最初の批判的な認識をもたらした<ref>{{cite book |last=Peck |first=Garrett |title=Walt Whitman in Washington, D.C.: The Civil War and America's Great Poet |year=2015 |publisher=The History Press |location=Charleston, SC |isbn=978-1626199736 |pages=73–76}}</ref>。これはルイーザ著作の最初の本であり、彼女の軍隊の経験に着想を与えられたものであった。<ref name="BDA1906" />彼女は、病院の管理ミス、遭遇した外科医の無関心と冷淡さ、そして戦争を直接見たいという自身の情熱について書いている。<ref>{{cite book |last1=Dromi |first1=Shai M. |title=Above the fray: The Red Cross and the making of the humanitarian NGO sector |date=2020 |publisher=Univ. of Chicago Press |location=Chicago |isbn=9780226680101 |page=26 |url=https://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/A/bo46479924.html}}</ref>
<ref name=showalter/> また、彼女自身の経験に基づく彼女の小説『ムーズ』(1864)も前途有望な結果を残した。<ref>Elbert 1984)</ref>
看護師としての奉仕の後、ルイーザの父親は彼女に「ルイーザ・メイ・オルコットへ。父親から」という心からの詩を書いており、<ref>{{Cite book | url=https://americanliterature.com/author/louisa-may-alcott/poem/to-louisa-may-alcott-by-her-father |title = To Louisa May Alcott. By Her Father}}</ref> ルイーザが看護師として働き、負傷した兵士を助け、オルコット家に歓声と愛をもたらしたことをどれほど誇りに思っているかを語った。一方、詩の中ではルイーザが無私の忠実な娘であるために自分の心の中にいると伝え、父親は詩を終えた。この詩は、『ルイーザ・メイ・オルコット:彼女の人生、手紙、日記』(1889)と、彼女の子供時代と父親との親密な関係について語っている『ルイーザ・メイ・オルコット、こどもたちの友人』に取り上げられている。<ref>[http://www.oxfordartonline.com/ Oxford Art]</ref>
1863年から1872年の間に、オルコットは、「ザ・フラッグ・オブ・アワーユニオン」などの人気のある雑誌や論文に少なくとも33編の「ゴシックスリラー」を匿名で書いた。これらの作品は1975年になってようやく再発見されるようになった。<ref>Rosemary F. Franklin, "Louisa May Alcott's Father(s) and "The Marble Woman"" in ''ATQ (The American Transcendental Quarterly)'' Vol. 13, No. 4 (1999).</ref>
1860年代半ばに、彼女は英語の作家ウィルキー・コリンズやメアリー・エリザベス・ブラッドンのものに似た情熱的で、燃えるような小説や扇情的な物語をA・M・バーナードという匿名で執筆した。
これらの中には、『長い致命的な愛の追跡』や『ポーリンの情熱と罰』がある。<ref>{{cite web | title=A Brief History of Summer Reading | website=The New York Times | date=July 31, 2021 | url=https://www.nytimes.com/2021/07/31/books/a-brief-history-of-summer-reading.html | access-date=August 3, 2021}}</ref>
彼女のこれらの本の主人公は、コリンズやブラッドン(フェミニストの登場人物も書いている)の本のように、強く、賢く、そして毅然としている。彼女は子ども向けの物語も執筆し、人気が出てからは、大人向けの執筆に戻ることはなかった。


組合のストで野菜の出荷が止まり、家計の苦しさを痛感することもあった{{sfn|松原|1958|pp=386-387}}。冬が近づくにつれ、食料も薪も少なく、リネンの薄い服ではとてもやっていけないことが明白になった<ref name="fruitlands"/>。母アッバは真冬になると兄の助けで近くの農家を借りて娘たちと避難し、父ブロンソンは一人フルートランズに残されたが、数週間後に妻の説得に応じ、家族に合流した<ref name="fruitlands"/>。エマーソンは冷たく、「彼らの教義自体は精神的だが、彼らは結局いつも私たちに、『たくさんの土地とお金をください』と言うだけで終わる。」と述べている<ref name="The Guardian">{{cite web|url=https://www.theguardian.com/books/2011/mar/06/fruitlands-utopia-richard-francis-review|title=Fruitlands: The Alcott Family and Their Search for Utopia by Richard Francis – review|work=The Guardian|date=|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。オルコットは現実的な人間だったため、超絶主義の浮世離れした高尚さを目指す哲学を完全に支持することはなかったが、超絶主義者たちの自立と個性を重視する考え方には影響を受けた<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。また、フルートランズでの苦しい経験、耐え忍びあくまで父を立てる母の姿が、母の重荷を軽くし喜びを与えたい、家族を豊かにしたいというオルコットの激しい野心に火をつけた<ref name="life"/>{{sfn|吉田|2004|pp=166-167}}。オルコットは子供のころ、「私がお金持ちで、いい子で、そして今日一日みんな幸せな家族だったらいいのに("I wish I was rich, I was good, and we were all a happy family this day."<ref>{{cite news|url=https://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=121831612|title=Alcott: 'Not The Little Woman You Thought She Was'|last=Reisen|first=Harriet|date=December 29, 2009|publisher=NPR|access-date=April 2, 2018}}</ref>)」と日記に書いており、貧困から抜け出そうと駆り立てられていた。
彼女が書いたその他の本に、ジュリアン・ホーソーンが書いたのではないかと言われている{{要出典|date=2021-05}}中編小説『現代のメフィストフェレス』(1875)と半自叙伝的な作品がある(1873)。
キャサリン・ロス・ニッカーソンは、[[エドガー・アラン・ポー]]の「モルグ街の殺人」や他のオーギュスト・デュパンの物語に次ぐ、アメリカ文学における[[探偵小説]]の最も初期の作品の1つを、1865年のスリラー『V,V.,あるいはプロットとカウンタープロット』で作ったとしてオルコットの功績を認めている。


11歳のオルコットに、母アッバは「わたしはあなたが、こんなに良く働く娘になるであろうとは思いましたし、またわたしは、からだが弱くて、あなたをかわいがるお母さんにはなれるけれど、毎日のパンは、あなたに稼いでもらうことになろうとも思っていました」と語っていた{{sfn|松原|1958|pp=386-387}}。のちに父への手紙で、作家としての目標は「オルコット家に生まれながらも自分を養うことができる」と証明することだと書いている<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。
ルイーザによって匿名で発表されたこの短編小説は、謎の女性が彼の婚約者といとこを殺したことを証明しようとするスコットランドの貴族を主人公にしたものである。事件を担当する刑事、アントワーヌ・デュプレは、犯罪を解決することよりも、華々しい大団円で解決策を明らかにすることの方に関心がある[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]の[[C・オーギュスト・デュパン|デュパン]]のパロディーになっている<ref name="Nickerson2010">{{cite book|last=Ross Nickerson|first=Catherine|editor=Catherine Ross Nickerson|title=The Cambridge Companion to American Crime Fiction|url=https://books.google.com/books?id=HlkUqB7wYpsC|date=8 July 2010|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-13606-8|page=31|chapter=4: Women Writers Before 1960}}</ref>。


====ヒルサイド====
ルイーザは『若草物語』(1868)の最初の部分を発表してさらに多くの文学的成功を勝ち取っており、これはコンコードで彼女が姉妹たちと過ごした子ども時代を元にした半ば自叙伝的な物語で、ロバーツ・ブラザーズから出版された。
[[File:Hillside in 1845.jpg|thumb|right|250 px|ヒルサイド]]
その後、ヨーロッパ旅行からボストンに戻ったときに彼女は雑誌「メリーズミュージアム」の編集者になっており、ここでトーマス・ナイルズに出会い、特に女の子向けの本を作ることと、小説のパートIの執筆を奨励された<ref>{{Cite web|title=Louisa May Alcott|url=https://bwht.org/louisa-may-alcott/|access-date=2020-11-17|website=bwht.org}}</ref>。
フルートランズが崩壊した後は賃貸部屋に移り、娘たちはまた学校に通うようになった。アッバは家族を養うためにお金を稼ぐことを考えたが、ブロンソンは精神的な向上発達だけに価値があると考え、肉体労働は堕落だと考えていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=35}}。ブロンソンは超絶主義者たちの共同体の夢を捨てていなかったが、参加者を集めることができず、理想的な共同体があれば参加したいと考えていたが、希望に合うものは見つけられなかった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=39}}。その後母アッバの父の遺産1,000ドルの相続がようやく可能になり、エマーソンからの500ドルの財政的支援を受けて、コンコードの家屋を購入している{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=41}}<ref name="UUHHS"/>。一家は1845年4月1日に「ヒルサイド」と名付けた家に引っ越した。(これは1852年に[[ナサニエル・ホーソーン]]に売却され、ホーソーンは家を「ウェイサイド」と改名している。)

フルートランズの失敗で打ちのめされていたブロンソンは、ここで快復していったが、家族を養う役割は完全に放棄してしまった{{sfn|吉田|2004|p=158}}。ブロンソンは農業を営み、ウォールデン池の有名な小屋を頻繁に訪れ、自然主義者[[ヘンリー・デイビッド・ソロー]]と永遠の友情をはぐくんだ<ref name="UUHHS"/>。

アッバと姉妹たちはここで生き生きと活動し、オルコットはここで初めて自分の部屋を手に入れ、エマーソンから[[ゲーテ]]の『[[ヴィルヘルム・マイスターの修行時代]]』を紹介され、ゲーテに傾倒し、詩作や物語作りに熱中し、文章力を磨いた{{sfn|島|2005|p=135}}<ref name="UUHHS"/>。オルコットはセンチメンタルな年頃で、隣家の[[ラルフ・ワルド・エマーソン]]を自分にとってのゲーテと考えて憧れ、年若い恋人になる空想をし、渡すことのない手紙を書いていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=43}}。

オルコットはアンナと共に、14 歳の冬にコンコードの町でソローの学校に通い<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>、その経験に触発され、ウォールデン池での生活をもとに『ソローの横笛』を書いた。テンプルスクールと1年のコンコードの学校が、オルコットの数少ない学校教育の経験となった{{sfn|山本|2021|p=2}}。また、エマーソンは自宅の書庫を開放し、本を読ませてくれた<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。しかし、彼女が受けた教育のほとんどは、厳格で「自己犠牲の甘美さ」を信条とする父親からのものだった<ref name=showalter/>。彼女はまた、家族の友人であるエマーソン、ホーソーン、[[マーガレット・フラー]]、[[ジュリア・ウォード・ハウ]]などの作家や教育者からいくつかの指導を受けている。

コンコードでオルコットは、自分の作品を姉妹で演劇を上演したり、エマーソン家で[[ダンテ]]、[[シェイクスピア]]、[[コールリッジ]]の作品に親しんだ{{sfn|大串|2021|p=220}}。ここでの暮らしが少女時代で最も幸福な時期だったとしており、ヒルサイドでの経験が部分的に『若草物語』に取り入れられた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=41}}<ref name="UUHHS"/>。

12歳の時には、母の友人であった[[リディア・マリア・チャイルド]]の古代ギリシャを舞台とする『フィロシア』(1836年)を読んだ{{sfn|大串|2021|pp=255-256}}。本書は作者が「自由奔放な想像力を展開した作品」と語るように、ファンタジックでロマンチックなシーンが印象的な小説で、少女時代のオルコットは本書の悪女キャラクターのアスパジアを気に入り、この作品を芝居にしてアスパジアを演じていたという{{sfn|大串|2021|pp=255-256}}。

1847年に一家は、奴隷解放に取り組む秘密組織「[[地下鉄道 (秘密結社)|地下鉄道]]」の隠れ家を引き受けて逃亡奴隷を1週間匿い、アフリカ系アメリカ人の奴隷廃止論者[[フレデリック・ダグラス]]と議論した<ref name="life">{{cite web |url=http://www.louisamayalcott.net/louisa_may_alcott/life/index.html|title=Life The Alcotts|publisher=Nancy Porter Productions, Inc.|year=2018|access-date=2021.01.11}}</ref>。

====ボストン====
アッバはヒルサイドで人に部屋を貸したり勉強を教えたりしてお金を稼いでいたが、再び借金が膨らんで転居を余儀なくされ、オルコット家は1848年にボストンに転居した{{sfn|大串|2021|p=220}}<ref name="NPS">{{cite web |url=https://www.nps.gov/people/abigail-may-alcott.htm|title=Abigail May Alcott|publisher=National Park Service|year=|access-date=2021.01.12}}</ref>。アッバはユニテリアン教会の「貧しい人々への宣教師(貧民救済使節)」となり、アメリカで初めての[[ソーシャルワーカー]](民生委員)として働き、若い女性が就職するのを助ける組織を運営した{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=45}}<ref name="UUHHS"/><ref name="NPS"/>。アッバの福祉の仕事は、家族に自分たちより恵まれない人々への思いやりの気持ちを育てたが、同時にオルコットは、ボストンの裕福な人々、贅沢な品物が売られる商店街と接することで、「目の前のすばらしいものを何も買えない」もどかしい気持ちにを味わい、それを長く忘れることはなかった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=45}}。

オルコットは若い頃から、成人の黒人への読み書き教育、裕福な家の娘の話し相手、メイド、お針子、家庭教師、女優、作家等、売春以外の女性が就けるあらゆる仕事をし、彼女の姉妹もまた、母親がアイルランド移民の間で社会福祉を引き受けている間、お針子や家政婦として働いて家族を支えた。オルコットが仕事で体験した不条理や差別は、のちに『仕事―経験物語』という作品に反映された{{sfn|島|2005|p=135}}。オルコットは、低賃金、劣悪な環境、そして幼少期の栄養失調などの影響で体を壊していった<ref name="umw"/>。父ブロンソンは、オルコットが作家として成功し有名になるまで、西部で哲学的座談会、講演を行い、ほとんどお金を稼ぐことはなかった<ref name="NPS"/>。最年少のメイだけが公立学校に通うことができており、これらすべての重圧により、執筆はオルコットにとって創造的で感情的な捌け口となっていた<ref name=showalter/>。オルコットは「オリーブの葉」という家族新聞を発行し、「荒野の娘の誓い」「盗賊の花嫁」「カスティリャのとりこ」などの劇を書き、姉妹で上演した{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=45}}。オルコットは作家を夢見るだけでなく、姉アンナと共に女優になることも目指していた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=45}}。

1848年、オルコットは[[女性の権利]]のために開かれた{{仮リンク|セネカフォールズ大会|en|Seneca Falls Convention}}で女性解放論者によって起草された「{{仮リンク|所感の宣言|en|Declaration of Sentiments}}」を読んで賞賛し、[[女性参政権]]を擁護した。オルコットは、マサチューセッツ州コンコードの教育委員会選挙で、女性として初めて投票登録を行った<ref>{{cite web|url=http://historyofmassachusetts.org/louisa-may-alcott-the-first-woman-registered-to-vote-in-concord/|title=Louisa May Alcott: The First Woman Registered to Vote in Concord|work=History of Massachusetts|author=Brooks, Rebecca Beatrice|date=September 19, 2011|access-date=April 2, 2018}}</ref>。

1949年に、イギリスのジェントリー階級のある家庭を舞台に階級差のある恋愛を描いた恋愛小説『相続』を若干17歳で執筆した{{sfn|大串|2021|p=222}}{{sfn|衣川|2008|p=189}}。(死後発見された原稿には「わたしの最初の小説」というメモが残されており、1997年に出版された{{sfn|衣川|2008|p=189}}。)

1850年代はオルコット家にとって困難な時期であった。1950年には、外国から逃げてきた男が庭に逃げ込み、この男は天然痘に罹っていたため、一家で[[天然痘]]に罹患しているが、貧しさから医者を呼ぶことができなかった{{sfn|松原|1958|p=386}}{{sfn|大串|2021|p=223}}。オルコットは姉アンナが開校した小さな学校で教鞭を取ったが、この学校はオルコットの心に染まないものだった{{sfn|松原|1958|p=390}}。またこの時期、隣人だった[[ナサニエル・ホーソーン]]の『[[緋文字]]』を読んだ{{sfn|大串|2021|p=223}}{{sfn|大串|2021|p=254}}。1951年には「ピーターソン・マガジン」にフローラ・フェアフィールド名義で初めて「日光」という詩が掲載された{{sfn|大串|2021|p=223}}。とある家庭の使用人となるが、ひどい扱いを受け1か月で辞めている{{sfn|大串|2021|p=223}}。1852年には、短編「恋敵の画家たち―ローマの物語」を家庭新聞「オリーブ・ブランチ」に初めて掲載した{{sfn|大串|2021|p=224}}。1853年、母アッバはマサチューセッツ州憲法を改正し女性に政治的権利を与えるよう求める嘆願書を書いている<ref name="NPS"/>。
[[File:Flower Fables (Alcott), frontispiece.png|thumb|right|180 px|『花のおとぎ話』口絵]]
1854年にオルコットはボストン劇場で慰めを見いだして、役をめぐって二人の女優がしのぎを削るという短編「競い合うプリマドンナ」(''The Rival Prima Donnas'')を書いたが、誰がどの役をやるかで女優たちが喧嘩になり、後に燃やしてしまったという。彼女の最初の本は、ラルフ・ワルド・エマーソンの娘であるエレン・エマーソンのために書かれた妖精物語のセレクションである『花のおとぎ話』(''[[:en:Flower Fables|Flower Fables]]''、1854年)である{{sfn|大串|2021|p=224}}。

ボストンでの暮らしは生活費がかさみ、1855年、オルコット家はニューハンプシャー州ウォルポールに一時的に引っ越した。ウォルポールでの生活はオルコットには退屈で息苦しい面があり、自立を目指してボストンに出て<ref name="Sattelmeyer"/>、1956年には針仕事や家庭教師で家計を助けながら、詩や短編が新聞や雑誌に掲載されるようになった{{sfn|大串|2021|p=225}}。これ以降、家族と一緒に暮らす時期と、ボストンでの自活を交互に繰り返して生活するようになった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=45}}。
[[File:Louisa May Alcott headshot.jpg|thumb|right|150 px|オルコット(1857年、20歳)]]

====オーチャード・ハウス====
1856年に妹のエリザベスとメイが[[猩紅熱]]に罹患した<ref name="Sattelmeyer"/>。ウォルポールの人々からの支援がなくなり、オルコット家は1857年に再びコンコードに戻り、ブロンソンは一家が以前住んでいたヒルサイド・ハウスのすぐ近くにある2階建ての下見板張りの農家だったボロ家[[オーチャード・ハウス]]を選び、エマーソンや友人たちの援助もあり購入し、一家は1858年の春に引っ越した<ref name="Sattelmeyer"/>。

エリザベスの健康は回復せず、この頃のオルコットは仕事を見つけることができず、絶望に満ちて自殺を考えるまでに追い詰められた。その当時に、彼女はエリザベス・ギャスケルの[[シャーロット・ブロンテ]]の伝記を読み、彼女自身の人生と多くの類似点を見つけた<ref>{{Cite web|url=https://slate.com/culture/2004/03/the-beguiling-bronte-sisters.html|title=The beguiling Bronte sisters.|last=Showalter|first=Elaine|date=2004-03-01|website=Slate Magazine|language=en|access-date=2020-02-07}}</ref><ref>{{Cite book|last=Doyle|first=Christine|title=Louisa May Alcott and Charlotte Bronte: Transatlantic Translations|publisher=Univ. of Tennessee Press|year=2003|isbn=1572332417|pages=3}}</ref>。オルコットは、後に自らスリラー小説と呼ぶような小説を次々に書いていったが、これはエリザベスと自身の治療費のために多くのお金が必要だったことが理由にあるといわれる{{sfn|島|2005|p=137}}。
[[File:May Alcott Nieriker - Orchard House - watercolor - before 1879.jpg|thumb|right|250 px|妹メイによるオーチャードハウスの水彩画]]
1858年、エリザベスは猩紅熱の影響で、消耗性疾患で23歳で死去した。姉のアンナは、ボストン郊外にあった超絶主義者の共同体ブルック農場に参加していたジョン・プラットという男と結婚した(『若草物語』のメグの夫の名はこの農場からとられている){{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=69}}。これはオルコットにとって、姉妹関係の断絶のように感じられた<ref name=showalter/>。オルコットは娘2人を死と結婚で失った母アッバを慰めるために、ボストンから実家に戻った<ref name="Sattelmeyer"/>。一家はここに20年定住した<ref name="UUHHS2"/>。

ブロンソンはオーチャード・ハウスを、斬新で構造にも優れ、文学的趣味を反映した見事な家に改築して評判になり、一目置かれるようになった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|pp=49-52}}。誰でも暖かく受け入れる家として有名になり、姉妹は毎週月曜に家を開放して劇を上演し、アッバは客にお菓子をふるまい、ブロンソンは人を捉まえては哲学の話をしていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|pp=49-52}}。ブロンソンは徐々に教育者としも認められ、1960年には、60歳でコンコードの学校教育長になり、給料はわずかであったが、その教育理念を実現できるようになった{{sfn|島|2005|p=136}}{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=52}}。芸術教育、野外活動、体育、自然観察、学校新聞、写真の勉強、音楽、ダンスなどが行われ、コンコードの学校全てを訪問して人気者になった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=52}}。

===青年期~文学的な成功===
オルコットは若い頃から奴隷制度廃止論者であったが、成長して活動に参加し、フェミニストとして女性の権利のためにも活動した。1860年に一流文芸誌の「{{仮リンク|アトランティック・マンスリー|en|The Atlantic}}」に「愛と自己愛」(''Love and Self-Love'')が掲載され、本誌に寄稿をするようになった。南北戦争が勃発した時はワシントンDCのジョージタウンにあるユニオン病院で、1862年~1863年、6週間看護師として働いている<ref name="EB1911"/>。彼女は看護師として3ヶ月間奉仕するつもりだったが、途中で[[腸チフス]]にかかり瀕死の症状を経験した。水銀により治療を受け、回復してからも、水銀治療の後遺症が痛みや衰弱、幻覚などを引き起こし、元の健康な体に戻ることはなかった{{sfn|松原|1958|p=391}}<ref name="Sattelmeyer"/>。オルコットがこの苦しみから逃れようと、薬物を使ったことが分かっている{{sfn|島|2005|p=137}}。
[[File:Hospital Sketches by LMA.jpg|thumb|left|180 px|「病院のスケッチ」挿絵。オルコットが世話をした兵士。彼女に手を取られて息を引き取った。{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=60}}]]
ワシントンの軍病院から母や妹たちに送った手紙は、ボストンの奴隷制反対紙「コモンウェルス」に、名前などを少し変え再構成し掲載され、『病院のスケッチ』(1863、1869年に追加で再公開)<ref name="EB1911"/>として著作に収められた。出会った勇敢な兵士たちの生き生きした描写や、ユーモアと思いやりにあふれた筆致は好評を博し、彼女の観察力とユーモアが初めて世間に知られるようになった<ref>{{cite book |last=Peck |first=Garrett |title=Walt Whitman in Washington, D.C.: The Civil War and America's Great Poet |year=2015 |publisher=The History Press |location=Charleston, SC |isbn=978-1626199736 |pages=73–76}}</ref>{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=60}}。これはオルコット名義の最初の本であり、彼女はこの本で自分の文章のスタイルが決まったと言っている<ref name="BDA1906" />{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=60}}。

看護師としての奉仕の後、父ブロンソンは彼女に「ルイーザ・メイ・オルコットへ。父親から」という心からの詩を書いており<ref>{{Cite book | url=https://americanliterature.com/author/louisa-may-alcott/poem/to-louisa-may-alcott-by-her-father |title = To Louisa May Alcott. By Her Father}}</ref>、オルコットが看護師として働き、負傷した兵士を助け、オルコット家に喜びと愛をもたらしたことをどれほど誇りに思っているかを語った。そして、無私の忠実な娘である彼女のことが心の中にあると伝え、詩を締めくくっている。(この詩は、『ルイーザ・メイ・オルコット:彼女の人生、手紙、日記』(1889年)と、彼女の子供時代と父親との親密な関係について語っている『ルイーザ・メイ・オルコット、こどもたちの友人』に取り上げられている。<ref>[http://www.oxfordartonline.com/ Oxford Art]</ref>)

1863年には「アトランティック・マンスリー」に、白人士官と逃亡奴隷の憎みあう腹違いの兄弟と、そのいさかいに巻き込まれ言葉の力で復讐殺人を思いとどまらせる看護師の女性の物語を描いた「わたしの逃亡奴隷兵」を発表した{{sfn|大串|2021|pp=260-262}}。
[[File:Moods - Facing page 108.png|thumb|right|180 px|『気まぐれ』挿絵]]
また、自身の経験に基づく小説『気まぐれ(''Moods'')』を4年もかけて推敲を重ねて完成させ、1864年に発表し、前途有望な結果を残した<ref>Elbert 1984)</ref>。

[[File:Enigmas 7.png|thumb|right|180 px|「フランク・レスリー挿絵入り新聞」掲載「謎」挿絵]]
1863年から1872年の間に、オルコットは、「{{仮リンク|ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン|en|The Flag of Our Union}}」などの人気のある雑誌や論文に、少なくとも33編の「ゴシックスリラー」を匿名で書いた。1860年代半ばに、彼女は英語の作家[[ウィルキー・コリンズ]]や{{仮リンク|メアリー・エリザベス・ブラッドン|en|Mary Elizabeth Braddon}}の作品にも似た、情熱的で、燃えるような小説や{{仮リンク|扇情小説|en|Sensation novel}}をA・M・バーナードという筆名で執筆した。

1865年に探偵小説「V.V.-あるいは策略には策略を」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。A・M・バーナード名義のスリラー小説「大理石の女、あるいは神秘的なモデル」も掲載された。ウィリアム・F・ウォルドの病弱な娘の介護人兼付き添いとしてヨーロッパ旅行に同行し、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダ、スイス、フランスを回った。彼女は家族の束縛から離れて自由になり、新し友人を作って旅行を満喫し、スイスで若いポーランド人男性のラディラス・ヴィシニェフスキと出会って親しくなり、英語とフランス語を交換で教え合った{{sfn|大串|2021|p=230}}{{sfn|大串|2021|p=249}}{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=60}}。
[[File:Louisa May Alcott.jpg|thumb|left|200px|オルコット]]
1年のヨーロッパ旅行から帰国し、家計が思わしくないことを知る{{sfn|大串|2021|p=231}}。長編小説「現代のメフィストフェレス」を執筆するが、センセーショナルすぎると出版を断られる{{sfn|大串|2021|p=231}}。A・M・バーナード名義のスリラー小説「仮面の陰に あるいは女の力」を掲載し、他にも懸命に執筆に取り組んだ{{sfn|大串|2021|p=231}}。1967年にA・M・バーナード名義のスリラー小説「修道院長の幽霊―あるいはモーリス・トレハーンの誘惑」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された{{sfn|大串|2021|p=231}}。男性が主人公のスリラー小説「不思議な鍵」(1867年)年がオルコット名義で出版された{{sfn|大串|2021|p=264}}。

ホラス・フラーの依頼で雑誌「メリーズ・ミュージアム」の編集者になり、年俸500ドルの固定の収入を得るようになり、ここで{{仮リンク|ロバーツ・ブラザーズ|en|Roberts Brothers}}社のトーマス・ナイルズに出会った{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=66}}。ナイルズは『病院のスケッチ』を高く評価しており、彼女に女の子向けの本を作ること、その第一部の執筆を依頼した<ref>{{Cite web|title=Louisa May Alcott|url=https://bwht.org/louisa-may-alcott/|access-date=2020-11-17|website=bwht.org}}</ref><ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。オルコットは日記に「女の子が好きではないし、(姉妹以外に)知っている女の子も少ない」と書いており、この時は少女向けの本を書くのに自分は向いていないと感じていた<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。

オルコットは1868年に『若草物語』(''Little Women'')の執筆を開始し、9月に出版され、それまで以上の文学的成功を勝ち取った。この作品は、コンコードで彼女が姉妹たちと過ごした子ども時代を基にした半ば自叙伝的な物語で、ロバーツ・ブラザーズ社から出版された。挿絵は妹のメイが担当したが、後に物語に合わないとして差し替えられた{{sfn|大串|2021|p=232}}{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=66}}。

『若草物語』は好評を博し、批評家や読者に、日常生活の新鮮で自然な描写が広い年齢層に合うと受け入れられた。道徳的ではあるが、当時の家庭小説特有の説教臭い文体はなく<ref name="Sattelmeyer"/>、リアルな少女の日常が描かれた本書は読者に好評を得て大ヒットとなり、2週間で2000部が売り切れ、出版社はオルコットに続きの執筆を依頼した<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>{{sfn|丸山|2010}}。第2部が刊行されると、印税で家の借金をすべて返済した{{sfn|大串|2021|p=233}}。第1部と第2部がまとめられて、現在の1冊の本になっている<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。『若草物語』の成功で、世間の目を避けるために、ファンが彼女の家に押しかけてくると時々家の召使いのふりをすることもあった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=68}}。初期のパパラッチとも言える新聞記者や挿絵画家たちも、この有名な作家の姿を一目見ようと家の近くに現れ、体調の優れないオルコットを困らせ、気が散って執筆が進まないこともあった<ref name="Kelly">{{cite web|url=https://president.jp/articles/-/33386|author= Kate Kelly|title=Louisa May Alcott’s Home: Orchard House|work=America Comes Alive|date=|access-date=2022.02.13}}</ref>。オルコットは名声を嫌ったが、著名な作家という役割は生涯彼女に付きまとった{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=68}}。

[[File:Rose in Bloom (Alcott) - Frontispiece.png|thumb|right|180 px|『花ざかりのローズ』口絵]]

子ども向けの物語で人気が出て以降は、生活費のためにセンセーショナルな小説を書く必要もなくなり、あまり大人向けの作品を執筆することはなかった。もっと本格的な大人向けの作品を書きたいと望んでいたが、彼女の筆には家族の生活が懸かっており、実現しなかった<ref name="UUHHS2"/>。作家業が安定してからは、子供のころから願っていたように母アッバに落ち着いた平和な暮らしをさせることができ{{sfn|松原|1958|p=391}}、父ブロンソンは、好きなだけ哲学を研究したり論文を書いたりして過ごした{{sfn|吉田|2004|p=151}}。

オルコットは、{{仮リンク|エリザベス・ストッダード|en|Elizabeth Drew Stoddard}}、{{仮リンク|レベッカ・ハーディング・デイビス|en|Rebecca Harding Davis}}、{{仮リンク|アン・モンキュア・クレーン|en|Anne Moncure Crane}}らと共に、[[金ぴか時代]]の女流作家グループの1人で、女性の問題を現代的かつ率直に取り上げた。彼女たちの作品は、当時の新聞コラムニストが「決定的な『時代のしるし』のひとつ」と評したように、その時代を感じさせるものであった<ref>{{cite journal |title=Review 2 – No Title |journal=The Radical |date=May 1868}}</ref>。

===後年===
[[File:Aunt Jo's Scrap-Bag, Volume 5 What Katy Did Advert.png|thumb|right|180 px|『ジョーおばさんのお話かご』挿絵]]
[[File:Alcott-L.jpg|thumb|right|150 px|オルコット(1881年)]]
1872年の日記に、「20年前、私はできることなら一家を、他に頼らず自立していられるようにしようと決心した。借金はすべて返した。非合法な借金も含めて。健康は損なわれたかもしれない。でも、まだ生きているのだから、もっとやるべきことがあるはずだ」と書いていた<ref name="UUHHS2"/>。1877年、母が死去し、オルコットはボストンの女性教育産業連合の創設者の1人になった。<ref name="Sander">{{cite book |last1=Sander |first1=Kathleen Waters |title=The business of charity: the woman's exchange movement, 1832–1900 |date=1998 |publisher=University of Illinois Press |isbn=0252067037 |pages=66}}</ref>。同年、作家名を明らかにしない匿名シリーズで、ゴシック・スリラー『現代のメフィストフェレス』を出版した{{sfn|大串|2021|p=264}}。その際に、「子供だましの訓話には飽きあきしていたので、今度の作品は楽しかった」と語っている{{sfn|大串|2021|p=264}}。

1878年には、オルコットの資金援助で外国で絵の勉強をしていた、姉妹の中でも特に仲の良かった妹のメイから、スイス人男性と結婚したという知らせが届いた{{sfn|大串|2021|p=237}}。1879年に、娘を出産したメイが産後6週間で死去し{{sfn|大串|2021|p=237}}、オルコットはメイの娘ルイーザこと小さな「ルル」を引き取り、その後の8年間はルルの世話をしている<ref>{{cite book |last=Stern |first=Madeleine B. |title=Louisa May Alcott: A Biography: with an Introduction to the New Edition |year=1999 |publisher=UPNE |url=https://books.google.com/books?id=R8HA-TMdWG8C&q=Louisa+May+Alcott|isbn=978-1555534172 }}</ref>。オルコットはルルの成長を喜び、姪の話を本として出版した<ref name="UUHHS2"/>。

1879年に父ブロンソンのために家の隣に小屋を建ててやり、父はそこで[[コンコード哲学学校]]という哲学セミナーをすることを余生の楽しみにした{{sfn|吉田|2004|p=151}}。

1879年、オルコットは女性の投票権を求めるコンコードの女性たちの活動に参加し、条件付きではあるが投票権が認められ、初めて選挙権を行使した<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。

[[File:Grave of Louisa May Alcott.jpg|thumbnail|オルコットの墓]]
元々幼少期の栄養失調もあり健康ではなかったが、特に南北戦争に参加して以降、めまいなどの慢性的な健康問題に苦しんだ<ref name="119y">{{cite news|first=Maura|last=Lerner|url=http://www.startribune.com/lifestyle/health/11345301.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20080517160545/http://www.startribune.com/lifestyle/health/11345301.html|archive-date=May 17, 2008|title=A diagnosis, 119 years after death|work=Star Tribune|date=August 12, 2007}}</ref><ref name="donaldson">{{cite book|first=Norman and Betty|last=Donaldson|title=How Did They Die?|year=1980|publisher=Greenwich House|isbn=0-517-40302-1}}</ref>。
南北戦争中に腸チフスに罹り、水銀を含む化合物で治療を受けており<ref name=Hill/><ref name="119y"/>、彼女と彼女の初期の伝記作家<ref name=Hirschhorn>{{cite journal|last1=Hirschhorn|first1=Norbert|last2=Greaves|first2=Ian|title=Louisa May Alcott: Her Mysterious Illness|journal=Perspectives in Biology and Medicine|volume=50|issue=2|date=Spring 2007|pages=243–259|doi=10.1353/pbm.2007.0019|pmid=17468541|s2cid=26383085}}</ref>は、彼女の病気と死は水銀中毒のせいであると結論付けた。(水銀は自己免疫疾患の引き金としても知られており、最近の分析は、彼女の慢性的な健康問題は自己免疫疾患に関連している可能性があることを示唆している。オルコットの1870年の肖像画は、彼女の頬を横切って鼻にかけて赤い紅斑、おそらく「蝶の発疹」(蝶形紅斑)があるように見える。これは、しばしば狼瘡(lupus)、今で言う全身性エリテマトーデスの特徴とされるものである。<ref name="119y" /><ref name=Hirschhorn/>なお、診断に使えるようなはっきりした証拠があるわけではない。

1888年に3月に入ると父ブロンソンの衰弱がみられるようになり、オルコットは父の見舞い行き、「わたしは上(天国)に行く」「一緒に行こう」と言われ、「ああ、そうできたらいいのに」と答えた<ref name="UUHHS2"/>。そして見舞いの帰りに悪寒を覚えて倒れ、1888年3月6日ボストンで、55歳で脳卒中で亡くなった<ref name=donaldson/> 。「髄膜炎じゃなかった?」が最後の言葉として知られる<ref>{{cite journal|last=McGuire|first=Michael S.|editor1-first=Mary G|editor1-last=Turner|url=http://www.vu.union.edu/~mcguirem/lastwords.html|publisher=Union College|title=Famous Last Words| journal=<!-- block bot errors --> |series=Tribute to William Wolfe|year=2012|volume=8483|pages=84830F|doi=10.1117/12.2011228|bibcode=2012SPIE.8483E..0FW|s2cid=121188632|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120303204115/http://www.vu.union.edu/~mcguirem/lastwords.html|archive-date=March 3, 2012}}</ref>。彼女の死は父親の死から2日後だったが、オルコットが父の死を知ることはなかったという{{sfn|松原|1958|p=392}}。人々は「ブロンソンは天国でも彼女を必要として連れて行った」と言った{{sfn|吉田|2004|p=192}}。

彼女はコンコードにある「オーサーズリッジ」として知られる丘の中腹にあるスリーピーホロー墓地の、エマーソン、ホーソーン、ソローの近くに埋葬されており<ref>{{cite book|editor1=Isenberg, Nancy|editor2=Andrew Burstein|title=Mortal Remains: Death in Early America|publisher=University of Pennsylvania Press|year=2003|page=244 n42}}</ref>、彼女の墓には南北戦争の退役軍人の標識が立っている<ref name="UUHHS2"/>。


『続・若草物語』のパートⅡ、または第二部、別名「良き妻たち」(1869)は、マーチ家の姉妹のお話に続いて成人期と結婚のエピソードに入っていく。『第三若草物語』(Little Men、1871)は、『若草物語』の第二部の結末で、ジョーが夫のバール教授と設立したプラムフィールドスクールでの生活について詳しく物語る。最後に、『第四若草物語』(Jo's Boys、1886)が「マーチサーガ」を完成させた。
[[File:Louisa May Alcott 5c 1940 issue.JPG|thumb|left|250 px|ルイーザ・メイ・オルコット記念切手、1940年]]
[[File:Louisa May Alcott 5c 1940 issue.JPG|thumb|left|250 px|ルイーザ・メイ・オルコット記念切手、1940年]]
オルコットが亡くなった際、姪のルルはまだ8歳で、姉のアンナ・オルコット・プラットによって世話をされ、その後ヨーロッパで父親と再会し、1976年に亡くなるまで海外に住んだ。


===レガシー===
『若草物語』(Little Women)で、ルイーザは自身をもとにして主人公のジョーを描いたが、ジョーが物語の終わりに結婚するのに対して、ルイーザは生涯を通して独身のままであった。


オルコットは長い散歩やランニングをしていることを日記に頻繁に書いており、彼女は若い女性の読者にも走ることを奨励することによって、ジェンダーに関する一般的な社会的規範に挑戦した。<ref>{{Cite book|title=Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women|last=Reisen|first=Harriet|publisher=Henry Holt & CO|year=2009|isbn=978-0312658878|location=New York City|pages=188}}</ref><ref>{{Cite book|title=Louisa May Alcott|last=Allen|first=Amy Ruth|publisher=Lerner Publishing Group|year=1998|isbn=978-0822549383|location=Minneapolis|pages=[https://archive.org/details/louisamayalcott00ruth/page/22 22]|url=https://archive.org/details/louisamayalcott00ruth/page/22}}</ref>
彼女は、ルイーズ・チャンドラーモールトンとのインタビューで、自分の未婚の理由をこう説明している。「私は、自然のいたずらで女性の体に、男性の心が入ってしまっているみたいなものだと、自分では半ば納得しているのです。....というのも、私は多くのかわいい女の子は好きになったことがあるのに、男性とはこれまで一度もそんなことはなかったので。」<ref>{{cite book |author1=Louise Chandler Moulton |author-link1=Louise Chandler Moulton |title=Our Famous Women: An Authorized Record of the Lives and Deeds of Distinguished American Women of Our Times |date=1884 |publisher=A. D. Worthington & Company |page=49 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=eNUYAAAAMAAJ&q=louise%20chandler%20moulton%20louisa%20may%20alcott&pg=PA49 |chapter=Louisa May Alcott}}</ref><ref>{{cite web |last1=Martin |first1=Lauren |title=Louisa May Alcott's Quotes That Lived 184 Years |url=http://wordsofwomen.com/louisa-may-alcotts-quotes-that-will-hit-your-soul/ |website=Words of Women |publisher=Words of Women |access-date=June 3, 2019|date=November 29, 2016 }}</ref>
しかし、ヨーロッパ滞在中、若いポーランド人男性のラディスラス「ラディー」ウィスニエフスキーとのロマンスはルイーザの日記に詳述されており、死の前にルイーザ自身によって削除された。<ref>{{cite book |chapter-url=https://books.google.com/books?id=6KyE2i0aM3AC&q=Ladislas+Wisniewski&pg=PR22 |title=The Lost Stories of Louisa May Alcott |editor1=Stern, Madeleine B. |editor2=Daniel Shealy |year=1993 |publisher=Citadel Press |location=New York |isbn=0-8065-1654-2 |chapter=Introduction |access-date=September 14, 2015 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/loststoriesoflou0000alco }}</ref><ref name=Hill>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/books/2008/mar/01/featuresreviews.guardianreview27 |title=From little acorns, nuts: Review of 'Eden's Outcasts: The Story of Louisa May Alcott and Her Father' by John Matteson |author=Hill, Rosemary |date=February 29, 2008 |newspaper=The Guardian |quote=Louisa succumbed to typhoid pneumonia within a month and had to be taken home. Although she narrowly survived the illness she did not recover from the cure. The large doses of calomel—mercurous chloride—she was given poisoned her and she was never well again.}}</ref>
なおルイーザは、このラディーが『若草物語』のローリーのモデルであることは否定している<ref>{{cite journal |last=Sands-O'Connor |first=Karen |title=Why Jo Didn't Marry Laurie: Louisa May Alcott and The Heir of Redclyffe |volume=15 |issue=1 |page=23 |url=https://www.questia.com/read/1G1-72961016 |journal=American Transcendental Quarterly |date=March 1, 2001 |access-date=}}{{dead link|date=July 2021}}</ref>。


オルコット一家が25年間暮らしたマサチューセッツ州コンコードの家、[[オーチャード・ハウス]](1650年頃)は、1868年に『若草物語』が執筆され舞台となった場所だが、1912年から歴史的家屋博物館として公教育と歴史保存に力を注ぎ、オルコット一家に敬意を示す活動を行っている。彼女のボストンの家は、ボストン女性の歴史的遺産トレイルのコースに加えられている<ref>{{cite web|url=http://bwht.org/louisa-may-alcott/|title=Louisa May Alcott|website=Boston Women's Heritage Trail|access-date=2021.01.10}}</ref>。その人気から、映画の舞台として使われるオーチャード・ハウスは観光客が多く、オルコットはコンコードの観光業の柱となっている{{sfn|吉田|2004|p=150}}。
上記同様に、若草物語のすべてのキャラクターはオルコットの生涯の人々とある程度類似している。ベスの死はリジーのことを反映しており、ジョーと末っ子エイミーとのライバル関係は、オルコットが時々アビゲイルとのライバル関係を感じていたためである。<ref name="behind">{{cite book |title=Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women |author=Reisen, Harriet |year=2009 |isbn=978-0805082999 |publisher=John MacRae Books |url=https://archive.org/details/louisamayalcottw00reis }}</ref><ref>{{cite book |title=Little Women |chapter=Introduction |publisher=Penguin Classics |year=1989 |isbn=0-14-039069-3}}</ref>
この他、1879年のメイの早すぎる死の後に、ルイーザはメイの娘ルイザを受け入れ、その後の8年間は小さな「ルル」の世話をしている<ref>{{cite book |last=Stern |first=Madeleine B. |title=Louisa May Alcott: A Biography: with an Introduction to the New Edition |year=1999 |publisher=UPNE |url=https://books.google.com/books?id=R8HA-TMdWG8C&q=Louisa+May+Alcott|isbn=978-1555534172 }}</ref>。


===死後===
『若草物語』は彼女自身の人生からエピソードを拾ってくるのに加えて、「姉妹の試練」、「現代のシンデレラ」、「ギャレットで」を含む彼女の初期の作品のいくつかからも影響を受けている。
1888年のエドナ・チェイニィの伝記には『ルイザ・メイ・オルコット 子供の友』というタイトルが付けられており、オルコットは「子供の友」といえる子供向け物語作家というイメージが一般的だった{{sfn|大串|2021|p=246}}。
これらの短編小説や詩の中の登場人物は、ルイーザ自身の家族と人間関係に加えて、『若草物語』やその後の小説の中の様々な登場人物のための一般的なコンセプトや土台のヒントを与えている。<ref>{{Cite book|last=Madeleine|first=Stern|title=Louisa May Alcott|publisher=[[Northeastern University Press]]|year=1999|isbn=978-1555534172|location=Boston|pages=168–182}}</ref>
『若草物語』は好評を博し、批評家や読者は、それが、日常生活の新鮮で自然な描写で、多くの年齢層に合うと受け入れられた。


1943年に、オルコット関連の資料を調査していたレオナ・ロステンバーグとマデレイン・B・スターンが、オルコットが扇情小説を執筆していたことを示す編集者の手紙を発見し、これを契機に扇情小説作家、スリラー小説作家として彼女が執筆した作品名、掲載誌、A・M・バーナードという男性を思わせる筆名が明らかになった{{sfn|大串|2021|p=246}}。1975年から『仮面の陰に―ルイザ・メイ・オルコットの知られざる恐怖小説』等の出版が始まり、A・M・バーナード名義の作品や扇情小説が再発見されていき、1990年代末まで「本当のオルコット」の全体像解明のために、著作の掘り起こし作業が続けられた{{sfn|島|2005|pp=129-130}}<ref>Rosemary F. Franklin, "Louisa May Alcott's Father(s) and "The Marble Woman"" in ''ATQ (The American Transcendental Quarterly)'' Vol. 13, No. 4 (1999).</ref>。
「Eclectic Magazine」の書評誌は、それを「6歳から60歳までのあらゆる年齢の若者の心に届く最良の本」と呼んだ。<ref>{{cite book |last=Clark |first=Beverly Lyon |title=Louisa May Alcott: The Contemporary Reviews |year=2004 |publisher=Cambridge University Press |url=https://books.google.com/books?id=czzIm4FT-DkC&q=Louisa+May+Alcott:+The+Contemporary+Reviews+by+Beverly+Lyon+Clark|isbn=978-0521827805}}</ref>。『若草物語』の成功で、世間の目を避けるために、ファンが彼女の家に押しかけてくると時々家の召使いのふりをすることもあった。


オルコットが1866年に執筆した扇情小説『愛の果ての物語(''A Long Fatal Love Chase'')』が1995年にようやく出版され、ベストセラーとなった<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。この、ストーリーの最初でヒロインが悪魔と契約を交わす愛と執着の物語によって、オルコットの作家としてのもう一つの側面が広く知られるようになった<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。
[[File:Grave of Louisa May Alcott.jpg|thumbnail|マサチューセッツ州コンコードのスリーピー・ホロー墓地にあるルイザ・メイ・オルコットの墓。]]
エリザベス・ストッダード、レベッカ・ハーディング・デイヴィス、アン・モンキュア・クレーンなどと並んで、ルイーザは[[金ぴか時代]]の女流作家グループの1人で、近代的で気取らない仕方で女性たちの問題を取り上げた。彼女たちの作品は、当時のある新聞のコラムニストがコメントしたように、「ハッキリとした『時代のしるし』の中に」あった。<ref>{{cite journal |title=Review 2 – No Title |journal=The Radical |date=May 1868}}</ref>


ハリエット・レイセン(Harriet Reisen)は、『''Louisa May Alcott: The Woman Behind "Little Women,"''(ルイーザ・メイ・オルコット:『若草物語』の背後にいる女性)』を書いた。これは後にナンシー・ポーター(Nancy Porter)監督のPBSドキュメンタリーとなった。ジョン・マットソン(John Matteson)は2008年に、ブロンソンの事業失敗による一家の困窮や苦悩を中心に、オルコットと父の葛藤を含めた屈折した父娘関係を描いた『''Edenʼs Outcasts: The Story of Louisa May Alcott and Her Father''(エデンの追放者:ルイザ・メイ・オルコットと彼女の父)』を執筆し、[[ピューリッツァー賞]]の伝記部門に輝いた{{sfn|吉田|2021}}。また、フルートランズ成立の経緯の資料と当時のオルコットの日記を含む『''Bronson Alcottʼs Fruitlands''(ブロンソンン・オルコットのフルートランズ)」が出版され、過酷な経験に苦しんだ少女時代の生の声が読まれるようになった{{sfn|吉田|2021}}。
==晩年==
1877年、ルイーザはボストンの女性教育産業連合の創設者の1人になった。<ref name="Sander">{{cite book |last1=Sander |first1=Kathleen Waters |title=The business of charity: the woman's exchange movement, 1832–1900 |date=1998 |publisher=University of Illinois Press |isbn=0252067037 |pages=66}}</ref>
晩年は慢性的な健康問題に苦しみ<ref name="119y">{{cite news|first=Maura|last=Lerner|url=http://www.startribune.com/lifestyle/health/11345301.html|archive-url=https://web.archive.org/web/20080517160545/http://www.startribune.com/lifestyle/health/11345301.html|archive-date=May 17, 2008|title=A diagnosis, 119 years after death|work=Star Tribune|date=August 12, 2007}}</ref>、これにはめまいも含まれている<ref name="donaldson">{{cite book|first=Norman and Betty|last=Donaldson|title=How Did They Die?|year=1980|publisher=Greenwich House|isbn=0-517-40302-1}}</ref>。
彼女と彼女の初期の伝記作家<ref name=Hirschhorn>{{cite journal|last1=Hirschhorn|first1=Norbert|last2=Greaves|first2=Ian|title=Louisa May Alcott: Her Mysterious Illness|journal=Perspectives in Biology and Medicine|volume=50|issue=2|date=Spring 2007|pages=243–259|doi=10.1353/pbm.2007.0019|pmid=17468541|s2cid=26383085}}</ref>は、彼女の病気と死を水銀中毒に帰した。
南北戦争中に腸チフスに罹り、水銀を含む化合物で治療を受けたことから<ref name=Hill/><ref name="119y"/>、最近の分析は、彼女の慢性的な健康問題が水銀曝露ではなく自己免疫疾患に関連している可能性があることを示唆している。(水銀は自己免疫疾患の引き金としても知られている)


ルイーザ・メイ・オルコットは、1996年に[[アメリカ女性殿堂]]入りをした<ref>[https://www.womenofthehall.org/inductee/louisa-may-alcott/ National Women's Hall of Fame, Louisa May Alcott]</ref>。
ルイーザの1870年の肖像画は、彼女の頬を横切って鼻にかけて赤い紅斑、おそらく「蝶の発疹」(蝶形紅斑)があるのを示している。これはしばしば狼瘡(lupus)、今で言う全身性エリテマトーデスの特徴とされるものである。<ref name="119y" /><ref name=Hirschhorn/>なお、しっかり診断に利用できる決定的な証拠があるわけではない。
ルイーザは父親の死から2日後の1888年3月6日、ボストンで55歳のときに脳卒中で亡くなった<ref name=donaldson/> 。[17]最後の既知の言葉は、「それは髄膜炎ではないか?」だった。<ref>{{cite journal|last=McGuire|first=Michael S.|editor1-first=Mary G|editor1-last=Turner|url=http://www.vu.union.edu/~mcguirem/lastwords.html|publisher=Union College|title=Famous Last Words| journal=<!-- block bot errors --> |series=Tribute to William Wolfe|year=2012|volume=8483|pages=84830F|doi=10.1117/12.2011228|bibcode=2012SPIE.8483E..0FW|s2cid=121188632|archive-url=https://web.archive.org/web/20120303204115/http://www.vu.union.edu/~mcguirem/lastwords.html|archive-date=March 3, 2012}}</ref>
彼女は、現在「オーサーズリッジ」として知られている丘の中腹にある、エマーソン、ホーソーン、ソローの近くのコンコードにあるスリーピーホロー墓地に埋葬されている。<ref>{{cite book|editor1=Isenberg, Nancy|editor2=Andrew Burstein|title=Mortal Remains: Death in Early America|publisher=University of Pennsylvania Press|year=2003|page=244 n42}}</ref>


2020年には[[グレタ・ガーウィグ]]監督の映画「[[ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語]]」が公開され、[[アカデミー賞]]6部門にノミネートされるなど話題となり、「『女子は家庭におさまるべし』という、ジェンダーにまつわる固定観念に一石を投じる先駆的な小説」(斎藤)、「『女性の仕事』『結婚と経済」』という現代女性が抱えるテーマに正面から斬り込む内容」(谷口)等と、『若草物語』とオルコットへの注目が再び集まった<ref>{{cite web|url=https://toyokeizai.net/articles/-/445336/|author= [[斎藤美奈子]]|title=「若草物語」次女ジョーの苦闘に描かれた深い意味 150年前「男の子になりたい」と願った少女の人生|work=東洋経済|date=|access-date=2021.01.24|quote=}}</ref><ref name="谷口">{{cite web|url=https://president.jp/articles/-/33386|author= [[谷口由美子]]|title=なぜ著者は独身主義を貫いたのか 150年前に書かれた『若草物語』が、現代女性たちの共感を得る理由|work=PRESIDENT WOMAN Online|date=|access-date=2020.03.06}}</ref>。
ルイーザが亡くなった際、姪のルルはまだ8歳で、アンナ・オルコット・プラットによって世話をされ、その後ヨーロッパで父親と再会し、1976年に亡くなるまで海外に住んだ。


==人物==
ルイーザは長い散歩やランニングをすることについて日記に頻繁に書いており、彼女は若い女性の読者にも走ることを奨励することによって、ジェンダーに関する一般的な社会的規範に挑戦した。<ref>{{Cite book|title=Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women|last=Reisen|first=Harriet|publisher=Henry Holt & CO|year=2009|isbn=978-0312658878|location=New York City|pages=188}}</ref><ref>{{Cite book|title=Louisa May Alcott|last=Allen|first=Amy Ruth|publisher=Lerner Publishing Group|year=1998|isbn=978-0822549383|location=Minneapolis|pages=[https://archive.org/details/louisamayalcott00ruth/page/22 22]|url=https://archive.org/details/louisamayalcott00ruth/page/22}}</ref>
===作風についての言及===
作家のラサール・コルベル・ピケットが知己の著名人のついての回想録『わたしの道を横切って-知り合えた人々との思い出』で、オルコットとの思い出を語っている。オルコットとの会話で、『若草物語』に見られる生き生きした自然な描写がオルコットの作家としての真のスタイルなのですね、とビケットがいうと、オルコットはこう返したという。{{sfn|大串|2021|pp=252-253}}


{{Quotation|「そうともいえないのよ」と彼女は答えた。「わたしが生まれつき心を駆り立てられるのは、ぞっとするようなスタイルなの。目も醒めるような空想にふけりながら、原稿にそれを書いて出版したいなぁ、なんて思うのよ」<br>
マサチューセッツ州コンコードの自宅オーチャードハウス(C。1650)は、彼女が家族と共に25年間そこに住み、『若草物語』が執筆され、1868年に完成された場所であるが、1912年から歴史的な博物館となり、公教育と歴史的保存に焦点を当て、オルコットに敬意を表している
「そうなさればいいのに」とわたし〔ビケット〕は言った。「そうなさりたいなら、派手やかな物語をお書きになっていけない理由はないように思われますわ。」<br>「昔からよく知るコンコードの、折り目のついた陽気さを台無しにするなんてできないわ…それにわたしの善良な父がどう思うことか。〔…〕だめね、私はいつだってコンコードのお行儀のよい伝統の犠牲者なのでしょうね」||仮面の陰に あるいは女の力 解題}}
彼女のボストンの家は、ボストン女性の歴史的遺産トレイルのコースに加えられている。<ref>{{cite web|url=http://bwht.org/louisa-may-alcott/|title=Louisa May Alcott|website=Boston Women's Heritage Trail}}</ref>


===生前の評価・作家としての自己評価===
ハリエット・レイセンは、『ルイーザ・メイ・オルコット:「リトル・ウーマン」の背後にいる女性』を書いた。これは後にナンシー・ポーター監督のPBSドキュメンタリーとなった。2008年に、ジョン・マットソンは『エデンの追放者:ルイザ・メイ・オルコットと彼女の父』の物語を執筆した。これは、ピューリッツァー賞の伝記部門に輝いた。ルイーザ・メイ・オルコットは、1996年にナショナル・ウーマンズ・ホール・オブ・フェイム(女性の栄誉殿堂)入りをしている。<ref>[https://www.womenofthehall.org/inductee/louisa-may-alcott/ National Women's Hall of Fame, Louisa May Alcott]</ref>
ノースカロライナ大学ダニエル・シーリーは「彼女は常に偉大な小説を書くことを熱望し、自分が成功したとは思っていなかった」と述べており、作家としての自分に満足していなかった<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。父やエマーソンの超越主義は、人間の「善性」すなわち「徳性」を信じることで成り立っており、超越主義者たちは人間解放を標榜してはいたが、女性の解放は考えておらず、「女性の徳性」を賞賛し逸脱を認めず、女性に対して保守的であった{{sfn|吉田|2004|pp=194-195}}。オルコットはエマーソンやボストンの文芸界に認められたいと願ったが叶わず、彼女に経済的成功をもたらした作品が『若草物語』シリーズであることを悔しく思い、すでに『若草物語』という名作を書いているにもかかわらず、いつか素晴らしい作品を書ければと語っていた<ref name="umw"/>。


===結婚・セクシュアリティ===
== 主な作品 ==
オルコットは仕事をして自立して生きることを好んでおり、常々「自分の力で生きていく」のが性に合っていると語っていた{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=54}}。
* 花のおとぎ話(''Flower Fables'', 1855年)

* 病院スケッチ (1863年)
『若草物語』で、オルコットは自身を基にして主人公のジョーを描いており、ジョーを自分と同じように独身にしたいと考えていたが、出版社や読者は金持ちのローリー・ローレンスと結婚することを強く望んでいた<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。オルコットは第2部で結婚は譲歩したものの、ジョーとローリーの「対等な男女の友達」という関係は変えず、ローリーは妹のエイミーと結婚し、ジョーは年上のベア教授と結婚する展開とした<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/><ref name="谷口"/>。結婚したジョーに対して、オルコットは生涯を通して独身のままであった。オルコットが結婚生活に否定的だったのには、経済的な問題に苦しむ両親の困難な結婚生活も影響しているかもしれない<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。
* ローズ一家 (''The Rose Family: A Fairy Tale'', 1864年)

* ムーズ (''Moods'', 1865年、再編集版1882年)
彼女は、ルイーズ・チャンドラーモールトンとのインタビューで、自分の未婚の理由をこう説明している。「私は、自然のいたずらで女性の体に、男性の心が入ってしまっているみたいなものだと、自分では半ば納得しているのです。....というのも、私は多くのかわいい女の子は好きになったことがあるのに、男性とはこれまで一度もそんなことはなかったので。」<ref>{{cite book |author1=Louise Chandler Moulton |author-link1=Louise Chandler Moulton |title=Our Famous Women: An Authorized Record of the Lives and Deeds of Distinguished American Women of Our Times |date=1884 |publisher=A. D. Worthington & Company |page=49 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=eNUYAAAAMAAJ&q=louise%20chandler%20moulton%20louisa%20may%20alcott&pg=PA49 |chapter=Louisa May Alcott}}</ref><ref>{{cite web |last1=Martin |first1=Lauren |title=Louisa May Alcott's Quotes That Lived 184 Years |url=http://wordsofwomen.com/louisa-may-alcotts-quotes-that-will-hit-your-soul/ |website¥=Words of Women |publisher=Words of Women |access-date=June 3, 2019|date=November 29, 2016 }}</ref>
* 3つの教訓物語 (1868年)
しかし、ヨーロッパ滞在中、若いポーランド人男性のラディラス「ラディー」ヴィシニェフスキとのロマンスはオルコットの日記に詳述されており、死の前にオルコット自身によって削除された。<ref>{{cite book |chapter-url=https://books.google.com/books?id=6KyE2i0aM3AC&q=Ladislas+Wisniewski&pg=PR22 |title=The Lost Stories of Louisa May Alcott |editor1=Stern, Madeleine B. |editor2=Daniel Shealy |year=1993 |publisher=Citadel Press |location=New York |isbn=0-8065-1654-2 |chapter=Introduction |access-date=September 14, 2015 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/loststoriesoflou0000alco }}</ref><ref name=Hill>{{cite news |url=https://www.theguardian.com/books/2008/mar/01/featuresreviews.guardianreview27 |title=From little acorns, nuts: Review of 'Eden's Outcasts: The Story of Louisa May Alcott and Her Father' by John Matteson |author=Hill, Rosemary |date=February 29, 2008 |newspaper=The Guardian |quote=Louisa succumbed to typhoid pneumonia within a month and had to be taken home. Although she narrowly survived the illness she did not recover from the cure. The large doses of calomel—mercurous chloride—she was given poisoned her and she was never well again.}}</ref>
* [[若草物語]] (''Little Women'', 1868年)
このラディーは『若草物語』のローリーのモデルの一人といわれ{{sfn|大串|2021|p=249}}、オルコット自身、ラディーをローリーのモデルとして挙げている<ref>{{cite journal |last=Sands-O'Connor |first=Karen |title=Why Jo Didn't Marry Laurie: Louisa May Alcott and The Heir of Redclyffe |volume=15 |issue=1 |page=23 |url=https://www.questia.com/read/1G1-72961016 |journal=American Transcendental Quarterly |date=March 1, 2001 |access-date=}}{{dead link|date=July 2021}}</ref>。
** 続・若草物語 (''Little Women Married, or Good Wives'', 1869年)

** 第三若草物語 (''Little Men'', 1871年)
少女時代には、エマーソンにあこがれて年若い恋人になる空想をしており、「エマーソンは生きているかぎり、わたしにとって"あの方"だった。彼が考えている以上に、私にいろいろなものを与えてくれた人だった。その簡素な美に満ちた生活、本に著された真実と知恵・・・。」とも書いている{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=43}}。また、ウィリアム・T・アンダーソンは、ソローにほのかな思いを抱いていたと述べている{{sfn|アンダーソン、谷口|1992|p=60}}。
** 第四若草物語 (''Jo's Boys'', 1886年)

* 昔気質の一少女 (''An Old-fashioned Girl'', 1870年)
オルコットが同性愛者であったという証拠はなく、女性への手紙に男性への手紙よりも性的な意味で親密なものはなかった<ref name="umw"/>。オルコットは、自身のプライバシーに関わると思われる手紙をたくさん燃やしており、事実は今のところ不明である<ref name="umw"/>。
* ジョーおばさんのお話かご (''Aunt Jo's Scrap-Bag'', 1872年 - 1882年)

* 労働:経験物語 (''Work: A Story of Experience'', 1873年)
==家族関係==
* 8人のいとこ(ローズの季節) (''Eight cousins'', 1875年)

** 花ざかりのローズ(ローズの幸福) (''Rose in Bloom: A Sequel to "Eight Cousins"'', 1876年)
アッバは忍耐強い聖人のような印象が強いが、その結婚生活は飢えや寒さにも苦しむ過酷なものであり、気分の浮き沈みが激しく短気なところもあった<ref name="umw"/>。アッバはそんな自分の性格を認めて、それを浄化し、成長しようと試みていた{{sfn|島|2005|p=133}}。先進的な夫に対する母アッバの愛は、平穏な時も嵐の時も家族の大黒柱のようなものであり、彼女は家族を養うことができない夫にしばしば不満を抱きながらも、たとえ世間に受け入れられなくても、夫とその理想を信じていた<ref name="Orchard House">{{cite web|url=https://louisamayalcott.org/abigail-may-alcott|title=Abigail May Alcott|work=Louisa May Alcott's Orchard House|date=|access-date=2021.01.11|quote=}}</ref>。
* 現代のメフィストフェレス (''A Modern Mephistopheles'', 1877年)

* ライラックの花の下 (''Under the Lilacs'', 1877年)
オルコットの伝記の著者ハリエット・レイセンは、アッバが夫の理想を支持したのは、彼と結婚して一緒にいることを選択した自分自身を守るためでもあったと述べている<ref name="umw">{{cite web|url=https://www.umw.edu/greatlives/2012/03/05/louisa-may-alcott-tuesday-march-13/|title=Louisa May Alcott—With Clips from the Documentary— Tuesday, March 13|work=University of Mary Washington|date=|access-date=2021.01.12|quote=}}</ref>。吉田とよ子は、アッバが不平を言うこともなく経済的困難を一身に背負ったのは、家族を理想で振り回し、後に家族を養う責任を放棄したブロンソンが結婚の失敗者だと認めれば、彼との結婚を選んだ自分も失敗者になり、結婚に反対していた実家に対しても、結婚の失敗を見せることができなかったからで、オルコットだけは「プライドをかけた母の必死の戦い」を見抜いていたと解説している{{sfn|吉田|2004|pp=164-165}}。
* ジャックとジル (''Jack and Jill: A Village Story'', 1880年)

* ルルのお話集 (''Lulu's Library'', 1886年 - 1889年)
アッバは、夫が自分の犠牲と献身をわかっていないことに憤り、それを男女の不平等というより大きな問題と関係あるものと考えた。彼女はこの問題認識と、女性に対する過ちを正したいという思いをオルコットに伝えている。アッバは、結婚というものが女性自身を傷つけるもので、危険なものであるとさえ考えており、娘たちに自活の大切さを教え、女性が男性と同じように家庭とキャリアの両方を楽しむことができる日を夢見た<ref name="ELP"/>。
* 花物語 (''A Garland for Girls'', 1888年)

* 喜悲劇 (''Comic Tragedies Written by Jo and Meg and Acted by the 'Little Women' '', 1893年)
アッバは福祉関係の仕事についたり、親戚に借金をしたりと、経済的に苦労を重ね、オルコットはそんな母の姿を見て育った{{sfn|大串|2021|p=244}}。オルコットは姉妹の中で一番母アッバに似ていたといわれ、姉妹の誰より家族に献身的で、父母のために心を砕いた{{sfn|松原|1958|pp=386-387}}。父ブロンソンはオルコット家の苦労の原因と言えるが、オルコットは父を聖人ぶった気取った人間だとは見ておらず、エマーソンやソローが彼の知性を高く評価していることに共感していた<ref name="umw"/>。父が子供たちに深い関心と敬意、愛情を注いでいると感じており、父を無力な存在だと思ってはいたが、メディアの根拠のない父への風評には惑わされず、怠け者でも、思いやりのない人でもないと考えていた<ref name="umw"/>。
* 愛の果ての物語 (''A Long Fatal Love Chase'',1995年)広津倫子(ひろづ ともこ)訳 徳間書店 ISBN4-19-860376-6 1995年

オルコットは、父ブロンソンの教えである自己否定の道徳を内面化しようと努力し続けたが、彼女の生来の性格のためだけでなく、父の社会性も経済観念もないある種異様な性格のために、「こんな家に生まれなくてよかった」と伝記作家の誰もが思うような、非常な困難を伴うものとなった{{sfn|平石|2009|p=158}}。父が満たすことのできない心を埋めるように、父に性格や思想は似ているが、父よりも優れた人物に惹かれていたようである{{sfn|平石|2009|p=158}}。

教育者を自負していたブロンソンにとって、学校の生徒がいなくなっても、4人の娘たちは決して失うことのない生徒だった。エレン・ショワルターは「ルイザの少女時代、両親のあいだには子供たちの心を支配する権威者となり、彼女らの忠誠心を勝ち取ろうとする競争があった……。アンナは弱弱しく父の手に落ちた。しかしルイザは母のお気に入りとなって、父に抵抗した」と、父が暗に娘たちを操ろうとしていることにオルコットが気づき、ひそかに反抗していたと述べている{{sfn|吉田|2004|pp=169-170}}。

オルコットの作品に父への反抗心を見る意見もある。『若草物語』の翌年の1869年にA・M・バーナード名義で、父のいかさま賭博の片棒を担がされて死ぬ娘の物語「扇の運命」(''Fate in a Fan'')を発表しているが、オルコット研究者は、ひそかな父への反抗を示す作品と見なしている{{sfn|吉田|2004|pp=170-171}}。

オルコットは姉妹の中で、また家族の中で主導権を握ることに執心し、同時に家族に尽くし、裕福になると両親・家族間の決め事も取り仕切るようになった<ref name="umw"/>。三女が亡くなると家政婦となり、稼ぎ手となり、長女の夫が亡くなると父親代わりとなり、母が亡くなると父の介護を行い、四女が亡くなると姪の母親代わりになり、家族の隙間を埋め続けた<ref name="umw"/>。自分の運命は「空っぽの隙間」を埋めることだと語っている<ref name="umw"/>。

==作品==
オルコットは親しみやすい色彩豊かな女性キャラクターを生み出し、教育を受けた強いヒロイン像は、アメリカ文学に大きな影響を与えた<ref name="Norwood">{{Cite web|title=Louisa May Alcott|url=https://www.womenshistory.org/education-resources/biographies/louisa-may-alcott|access-date=2022-02-13|website=The National Women's History Museum (NWHM)|author= Arlisha R. Norwood}}</ref>。20世紀前半には、家庭生活・少女小説として書かれたオルコットの作品は、ジャンルへのレッテルから、しばしば教訓的で中身がないものとして否定され、彼女の作品は道徳的な高慢さや慎重さを指す略語として使われるようになっていた<ref name="Campbell"/>。また、作品における奴隷制度への反対、女性参政権、人種平等などへの政治的言及は、近代主義者によって芸術性に欠けると考えられ、低く評価されてきた<ref name="Campbell"/>。しかし、フェミニスト批評の発展とともに、この30年間、オルコットに対する真剣な批評的関心が高まっている<ref name="Campbell">{{Cite web|title=Louisa May Alcott's Work: Reading and Discussion Questionst|url=https://public.wsu.edu/~campbelld/amlit/alcottworkques.htm|access-date=2022-02-13|website=Washington State University|author= Donna Campbell}}</ref>。

オルコットの作品は少女小説、ジュブナイル小説、スリラー小説といったジャンル小説として、本格的な文学史議論、アメリカの近代リアリズム小説の誕生の研究からは無視されてきたが、近代小説の成立の過渡期にあたる作品であり、アメリカ文学者の[[平石貴樹]]は、『''Moods''(気まぐれ)』においてひとまず、「近代小説はやや特殊な形で成立した、とみることも可能であるだろう」と評価している{{sfn|平石|2009|pp=162-163}}。本作の主題は道徳であり、この「情熱ではなく徳義」という自己否定的主張は、ブロンソンを父とするオルコットにとって、幼少期から極めて重要で切実な問題であるため、前近代的テーマの小説のようにも見えるが、彼女の個人主義的な主題の追求となっているともいえる{{sfn|平石|2009|pp=155-156}}。平石貴樹は「オールコットの個人的、伝記的な要因を率直に反映しながら、彼女の苦心の自己表現として書かれた、その意味では個人主義的な、一人前の近代小説であることは、最終的には否定できないだろう。」「オールコットは逆説的なことに、自己否定の願望を自己表現しようとする作家だった。これが、彼女が(近代小説への)過渡期的な作家であることの深層の意味であり…彼女が『気まぐれ』を、「書かないわけにはいかなかった」理由、第二版まで二十年以上にわたって抱え込んでいた理由だったとも考えられる。」と分析している{{sfn|平石|2009|pp=155-159}}。

オルコットは父ブロンソンの意に適う娘、エマソンやソローの教えを受けた、従順で道徳的な娘であり、そうあろうとし、そうした女性でありたかった{{sfn|平石|2009|pp=157-159}}。父の教えである自己否定の道徳の重要性を小説に書き、『若草物語』のジョーのように、反抗しながら、なかなか自己否定の道徳を内面化できない心の過程が面白い作品を生んだが、最後にはヒロインは従順であり、道徳の内面化を踏み越えて自己解放に向かうといった発想はなく、あくまで道徳の獲得への努力について書いた{{sfn|平石|2009|pp=157-159}}。スリラー小説は勧善懲悪で、道徳の約束事が保証されたジャンルであり、そこで道徳に縛られない悪人を自由に描くことは、オルコットにとって発散になっていた{{sfn|平石|2009|pp=157-159}}。

オルコットはA・M・バーナード名義や匿名を中心に、男女間の性的情熱やロマンチックな愛を説得力を持って書き、また、麻薬、犯罪、スパイ活動、異なる人種間の結婚、革命、結婚生活における権力闘争など、彼女の少女向け小説からは想像できないようなことが書かれている<ref name="umw"/>。これらの中には、『愛の果ての物語』(当時は出版されず)や『ポーリーンの激情と罰』があり<ref>{{cite web | title=A Brief History of Summer Reading | website=The New York Times | date=July 31, 2021 | url=https://www.nytimes.com/2021/07/31/books/a-brief-history-of-summer-reading.html | access-date=August 3, 2021}}</ref>、一部は邦訳されている。彼女のこれらの扇情小説の主人公は、コリンズやブラッドン(フェミニストの登場人物も書いている)の本のように、強く、賢く、そして毅然としている。女らしさを自分の利益のために利用することを辞さない強い女性キャラクターを創り出し、その登場人物の多くは、ルールを破り、社会が与えた役割にうまく合致しない人たちだった。オルコットのテーマは、女性の権利や階級的不平等など、当時注目されていた問題に触れることが多かった。彼女の作品の中には、女装した人が登場するものもあった<ref name="Harri"/>。

当時出版社は女性の作家には男性の作家とは別の役割を期待しており、もし女性として本名でこれらの作品を出版すれば、おそらくオルコットの人間性は疑われたと思われる<ref name="Harri">{{Cite web|title=“Little Women” Author’s Sensational Early Workss|url=https://historydaily.org/little-women-authors-sensational-early-works| access-date=2022-02-13|website=History Daily|author= Karen Harri}}</ref>。センセーショナルな小説全てでオルコット名義が避けられたわけではなく、男性主人公ではなく、情熱的で怒りに満ちた女性が描かれるときに、匿名または筆名を使っていた可能性が指摘されている{{sfn|大串|2021|p=264}}。

平石貴樹は、オルコットのスリラー小説発掘の時期がちょうどフェミニスト批評が盛り上がった時期であったことから、オルコットの実情以上にフェミニズムの視点での批評がなされ、彼女をフェミニストとして一面的に評価し(その結果、しばしば『若草物語』の保守的な物語の展開に失望する)という流れが生じたことを指摘している{{sfn|平石|2009|pp=144-145}}。アルフレッド・ハベガー(Alfred Habegger)は「オールコットが筆名で書いたスリラー小説に関してショッキングなのは、筆者がラディカルな生まれと育ちで、男女平等を主張していたにもかかわらず、いかにそれらの作品が男性の優位や支配を受け入れているか、程度の差こそあれ政治的に反動ではあるか、という点にこそあるのだ」と評しており、平石は、これが「最終的には妥当な判断であるようにも思われる。」と述べている{{sfn|平石|2009|pp=144-145}}。オルコットは最初ジュブナイル小説家として、のちにフェミニズム小説家として扱われたが、そうした特定の切り口から離れ、フェミニスト的側面と政治的反動のバランスも含めた、彼女のスリラー小説全体が「どのような内的動機を抱えていたのか」の綿密な検討作業はまだ十分行われていない{{sfn|平石|2009|pp=144-145}}。

===''Moods''===
『''Moods''(気まぐれ)』は、オルコットが真剣に書き、愛着を持っていた特別な作品であり、経済的理由ではなく、内発的な理由によって執筆された作品であると考えられ、第二版の序文で「その後のどんな作品にもない愛と苦心と熱狂がこの本には込められた」と語っている{{sfn|平石|2009|pp=146-147}}。初版と約20年後の第二版で大幅な変更が行われた。現在では両方の版が出版されている{{sfn|平石|2009|pp=146-147}}(邦訳なし)。タイトルはエマソンのエッセイ「経験」から取られた{{sfn|平石|2009|pp=152}}。

『若草物語』のマーチ家のジョーにも似た活発な少女シルヴィアは、野性的で夢想的なアダム・ウォリックに恋する{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。(ウォリックのモデルは、ソローであると言われる{{sfn|平石|2009|pp=152}}。)シルヴィアはウォリックへの恋を叶わぬものとあきらめ、彼女に求婚したウォリックの親友で温和なジェフリー・ムアと結婚する(ムアの一面は、エマーソンがモデルとされれていると言われる){{sfn|平石|2009|pp=147-148}}{{sfn|平石|2009|p=158}}。その後久しぶりに再会したウォリックに、かつて自分もシルヴィアを愛していたが、ムアのために身を引いたと告げられ、ウォリックへの恋が再熱し、ムアへの愛が友愛以上でなかったことに気が付き、苦しむ{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。ムアは沈み込むシルヴィアを問い詰め、彼女はウォリックへの愛ゆえに苦しんでいることを告白する。ムアのシルヴィアへの愛は変わらないが、一時的に二人は別居する{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。

シルヴィアは信頼する年長の友人フェイス(「私の逃亡奴隷兵」の語り手と同じ人物)に、結婚するならロマンティックで観念的なウォリックより、安定したムアの方が望ましいと忠告される{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}{{sfn|平石|2009|pp=153-154}}。ウォリックとムアはヨーロッパへの旅で友情の危機を乗り越えるが、帰路の事故でウォリックは死に、ムアだけがシルヴィアの元に戻る{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。

初版では、シルヴィアは帰ってきたムアを心から受け入れることができず、苦しみ、衰弱して死んでしまう{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。第二版では、さらにフェイスとの道徳的な対話が行われ、シルヴィアは自分の情熱的な気質、「気まぐれ」を戒めて、「徳義」に従い、義務に従ったムアとの平和な暮らしを望むようになり、帰ってきたムアを受け入れハッピーエンドになる{{sfn|平石|2009|pp=147-148}}。

初版の出版当時、一般の読者から出版社に、妻となった後に夫以外への愛に目覚めるヒロインは不謹慎、不道徳だという非難が多く寄せられたが、このエピソードは、本作の時代に先駆けた近代性を示唆しているともいえる{{sfn|平石|2009|pp=150-153}}。平石貴樹によると、雑誌等に掲載された書評はおおむね好意的だった{{sfn|平石|2009|pp=150-153}}。雑誌「ハーパーズ」の書評では、「高潔な人物像の中で相克する情熱を、非常に繊細にまた巧妙に描いた」作品であり、「ホーソーンの作品以外にこれほど強力な愛の物語を思い出せない」と称賛された{{sfn|平石|2009|pp=162-163}}。この書評の筆者が、本作においてアメリカ特有のロマンス的なリアリズム小説が成立していると考えていたことがうかがえる{{sfn|平石|2009|pp=162-163}}。しかし、その後の『若草物語』の爆発的な成功で、『気まぐれ』の功績は忘れられてしまった{{sfn|平石|2009|pp=162-163}}。

フェイスの思想に注目し、本作を「超絶主義的小説」と形容して評価する書評もあった{{sfn|平石|2009|pp=152}}。

例外的な酷評が、まだ作家として本格的にデビューしていない若い[[ヘンリー・ジェイムズ]]であり、オルコットは道徳や形而上学を尊重しているが、それらはリアリズムと両立しないと判断し、厳しく批判した。彼は女性作家に対して否定的で、多くの女性作家は共通の特徴(=欠陥)を持つと考えていたが、オルコットもそのひとりとして扱い、女性作家は一般に現実を知らない、リアリズムを知らない、といった論調で本作を批評した{{sfn|平石|2009|pp=150-153}}。

===病院のスケッチ===
看護婦として南北戦争に従軍した経験に着想を得た作品である<ref name="BDA1906" />。彼女は、病院の管理ミス、遭遇した外科医の無関心と冷淡さ、そして戦争を直接見たいという自身の情熱について書いている<ref>{{cite book |last1=Dromi |first1=Shai M. |title=Above the fray: The Red Cross and the making of the humanitarian NGO sector |date=2020 |publisher=Univ. of Chicago Press |location=Chicago |isbn=9780226680101 |page=26 |url=https://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/A/bo46479924.html}}</ref><ref name=showalter/>。

===''Pauline's Passion and Punishment''===
『Pauline's Passion and Punishment(ポーリーンの激情と罰)』は、扇情小説作家としての初作品であり{{sfn|大串|2021|p=228}}、南北戦争中に人気週刊新聞紙「フランク・レスリー挿絵入り新聞」の賞金100万ドルの短編小説に応募し賞金を勝ち取った作品で、恋人に裏切られたポーリーンが、自分を慕う年下の男性と共謀し復讐を企てる物語である{{sfn|大串|2021|pp=246-247}}。

===''V. V.: or, Plots and counterplots''===
『''V. V.: or, Plots and counterplots''(V.V.-あるいは策略には策略を)』は、1865年に「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。この短編小説は、謎の女性が彼の婚約者といとこを殺したことを証明しようとするスコットランドの貴族を主人公にしたものである。事件を担当する刑事、アントワーヌ・デュプレは、犯罪を解決することよりも、華々しい大団円で解決策を明らかにすることの方に関心がある[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]の[[C・オーギュスト・デュパン|デュパン]]のパロディーになっている<ref name="Nickerson2010">{{cite book|last=Ross Nickerson|first=Catherine|editor=Catherine Ross Nickerson|title=The Cambridge Companion to American Crime Fiction|url=https://books.google.com/books?id=HlkUqB7wYpsC|date=8 July 2010|publisher=Cambridge University Press|isbn=978-0-521-13606-8|page=31|chapter=4: Women Writers Before 1960}}</ref>。

キャサリン・ロス・ニッカーソンは本作について、オルコットは[[エドガー・アラン・ポー]]の「モルグ街の殺人」や他のオーギュスト・デュパンの物語に次ぐアメリカ文学における[[探偵小説]]の最初期の作品の1つを作ったとして、その功績を評価した<ref name="Nickerson2010"/>。

===仮面の陰に あるいは女の力===
A・M・バーナード名義の1868年のスリラー小説で、1970年代以降の発掘・復刊で注目を集めた代表作である{{sfn|平石|2009|pp=142-144}}。すさまじい野心に燃える元女優のヒロインのジーンが玉の輿に乗るべく、美貌と演技力を武器に、年齢を偽って若い家庭教師としてイギリス貴族の館に入りむ{{sfn|平石|2009|pp=142-144}}。彼女の真のターゲットが誰なのか、その野望は成就するのか、それとも秘められた過去が先に暴かれるのか、緊迫した心理ドラマを描いた{{sfn|平石|2009|pp=142-144}}。物語やドラマの推進力はジーンの並外れた野心だが、その理由や、その野心に対する彼女の心の葛藤などは描かれず、スリラー小説というジャンル小説の枠に合った悪女として表現されている{{sfn|平石|2009|pp=142-144}}。

===若草物語シリーズ===
{{main|若草物語}}
[[File:Little Women - frontispiece.png|thumb|right|180 px|妹メイによる『若草物語』挿絵]]
『若草物語(''Little Women'')』は、コンコードでオルコットが姉妹たちと過ごした子ども時代を元にした、半ば自叙伝的な物語である。タイトルは、「小さなご婦人(Little Women)たちになるように」という父親の指導から来ている{{sfn|島|2005|p=144}}。『若草物語』の執筆について、オルコットは「こつこつ書いてはいるけど、こういう作品は楽しくない」と日記に書いているが、その後「少女向けの生き生きした飾り気のない作品が大いに必要とされている」ので頑張ってみようと述べている{{sfn|大串|2021|p=232}}。完成しゲラを読んだ際に「案外いい作品だと思う。全然センセーショナルではなくて、素朴で真実味がある。なぜなら、私たちはそのほとんどを実際に体験したから」と語っている{{sfn|大串|2021|p=264}}<ref name="NATIONAL GEOGRAPHIC"/>。

物語冒頭から父は[[南北戦争]]に従軍し不在であり、母の導きによって、父の希望どおり、家族や隣人たちとの交流の中で、姉妹がそれぞれ欠点を克服し、自らの生き方を探し、見極めようとする過程が描かれている{{sfn|丸山|2010}}。姉妹と母、隣家のかなり女性的な感性を持つ男性たちとの交流のエピソードの連続で物語は進み、とりとめのないエピソードの連続のように見えるが、章のタイトルや姉妹の遊びは、本書が[[ジョン・バンヤン]]の『[[天路歴程]]』に依拠していることを示している{{sfn|丸山|2010}}。

『若草物語』の第二部、別名「良き妻たち」(1869年)は、マーチ家の姉妹のお話に続いて成人期と結婚のエピソードに入っていく。『第三若草物語』(''Little Men''、1871年)は、『若草物語』の第二部の結末で、ジョーが夫のバール教授と設立したプラムフィールドスクールでの生活について詳しく物語る。最後に、『第四若草物語』(''Jo's Boys''、1886年)で若草物語シリーズ(マーチ一家のサーガ)を完成させた。

『若草物語』で、オルコットは自分の家族、母や姉妹のことをかなり忠実に描こうとしており、自身をもとにして主人公のジョーを描いた。同様に、若草物語のすべてのキャラクターはオルコットの生涯の人々とある程度類似している。ベスの死はリジーのことを反映しており、ジョーと末っ子エイミーとのライバル関係は、オルコットが時々メイとのライバル関係を感じていたためである<ref name="behind">{{cite book |title=Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women |author=Reisen, Harriet |year=2009 |isbn=978-0805082999 |publisher=John MacRae Books |url=https://archive.org/details/louisamayalcottw00reis }}</ref><ref>{{cite book |title=Little Women |chapter=Introduction |publisher=Penguin Classics |year=1989 |isbn=0-14-039069-3}}</ref>。一方、家庭において重要な存在であり[[南北戦争]]に参加したことのない父をあえて従軍中で不在にし、父の存在は物語の背景に退いている{{sfn|丸山|2010}}。『若草物語』には19世紀アメリカ東部における女子の家庭教育の理想像があるとよく言われるが、父が家庭に君臨していた当時の家庭小説の中で、父不在の設定は異色であり、[[丸山美知代]]は「この点が読者に好評を得た理由でもある」と評している{{sfn|丸山|2010}}。現実で一家の貧乏の理由は、テンプルスクールとフルートランズの失敗、父が働かないことだが、物語では父が友人を救おうとして財産を失ったと変えられており、現実の過去の貧困、挫折、死は取り除かれている{{sfn|島|2005|p=139}}。また、現実でオルコットは身体的苦痛に苦しめられていたが、物語でジョーは健康な少女であり、病気は妹のベスに全て転化されている{{sfn|島|2005|p=144}}。

『若草物語』は彼女自身の人生からエピソードを拾ってくるのに加えて、「姉妹の試練」(''The Sisters' Trial'')、「現代のシンデレラ」(''A Modern Cinderella'')、「ギャレットにて」('' In the Garret'')を含む彼女の初期作品のいくつかの影響もみられる。こうした過去の短編小説や詩の中の登場人物は、オルコットの家族と人間関係に加えて、『若草物語』やその後の小説の中の様々な登場人物の全体的なコンセプトや土台にインスピレーションを与えた<ref>{{Cite book|last=Madeleine|first=Stern|title=Louisa May Alcott|publisher=[[:en:Northeastern University Press|Northeastern University Press]]|year=1999|isbn=978-1555534172|location=Boston|pages=168–182}}</ref>。

「Eclectic Magazine」の書評誌は、本作品を「6歳から60歳までのあらゆる年齢の若者の心に届く最良の本」と呼んだ。<ref>{{cite book |last=Clark |first=Beverly Lyon |title=Louisa May Alcott: The Contemporary Reviews |year=2004 |publisher=Cambridge University Press |url=https://books.google.com/books?id=czzIm4FT-DkC&q=Louisa+May+Alcott:+The+Contemporary+Reviews+by+Beverly+Lyon+Clark|isbn=978-0521827805}}</ref>。150年以上にわたって一般に読み続けられる本は珍しいが、現在も強い人気を誇り、21世紀のアメリカのリーダー的立場・クリエーターの女性たちが、必ずと言っていいほど幼少期の愛読書として挙げるといわる<ref name="MOVIE WALKER">{{cite web|url=https://moviewalker.jp/news/article/225585/|title=“闘う女性クリエーター”の先駆け「若草物語」ルイーザ・メイ・オルコットの革新性|work=MOVIE WALKER PRESS|date=2020.03.06|access-date=2021.01.10|quote=}}</ref>。

ハリエット・レイセンは、「『若草物語』の魅力のひとつは、それぞれ興味や性格の違う姉妹、そして普通の少女の人間関係が描かれていることだ。ほとんどの少女は、社会的な人間関係の裏表に何より魅力があると思っている。オルコットは、近年までヤングアダルト文学では稀だった、少女の人間関係を真剣に扱った。」「現代では少なくなったが、社会は一般的に、少女の情熱を抑え、従順な妻になるための準備として言うことを聞かせようとする。オルコットは思春期の少女の情熱を大切にし、それを擁護した。オルコットの声はウィットに富み、人間的で、感情豊かで、他の作家にはない読者とのつながりを感じさせてくれる。」と述べている<ref name="umw"/>。

映画監督のグレタ・ガーウィグは、あらためて読み返した際に「そのまま現代の物語になっても全く違和感がない」ほど、とても現代的な物語であったことに驚いたと述べており、1作目が有名だが、2作目以降の、成人した姉妹が社会に出て自分らしく生きようと奮闘する姿、「姉妹・芸術家・母親・労働者という役割を持ち、さらに友人や妻として奮闘する姿が描かれていて、いま読むとその姿に強い魅力を感じた」と語っている<ref name="MOVIE WALKER"/>。

マリベス・シェイファーは、A・M・バーナード名義の作品を含めた一連の作品群から、物質主義の進行による少女や女性の地位の転落への懸念、「真の女性らしさの理想」への賛同を読み取り、『若草物語』シリーズに、女性の地位の転落の問題を解決する、女性が自給自足する母系制の女性的ユートピアを読み取っている<ref name="Shaffer"/>。

ジョーが夫と学校を経営する『第三若草物語』は、オルコットも学んだ父ブロンソンのテンプルスクールの再現であると考えられる{{sfn|島|2005|p=132}}。彼女は父の思想、特に教育についての考えに賛同しており、それを作品の中に表した<ref name="umw"/>。

===トランセンデンタル・ワイルド・オーツ===
オルコットは幼少期のフルートランズでの生活をテーマとする文章を、「トランセンデンタル・ワイルド・オーツ」(''[[:en:Transcendental Wild Oats|Transcendental Wild Oats]]''、1973年)のタイトルで新聞に掲載した。これはフルートランズでの「素朴な生活と高邁な思想」([[ワーズワース]]が1802年にコウルリッジに当てた十四行詩の中にある言葉)という家族的共同体の実験が風刺的に描かれており、父ブロンソンと共に農場を率いたレーンを横暴な王者として描くことで、父の弱さを隠しているが、共同体を運営する男性たちが掲げる高い理想と、みじめな現実の間でやりきれない怒りに燃えた少女時代の記憶を窺うことができる{{sfn|島|2005|p=132}}。のちに『銀の水さし』(1876年)という短編集に収録された<ref name="EB1911">{{cite EB1911|wstitle=Alcott, Louisa May|volume=1|page=529|last=Richardson|first=Charles F.}}</ref>。

===''A Modern Mephistopheles''===
「''A Modern Mephistopheles''(現代のメフィストフェレス)」は、ゲーテの『ファウスト』をベースにした作品で、原作では悪魔の力で若返ったファウストに恋され、未婚でファウストの子を出産し嬰児殺しで投獄される少女マーガレットを、原作とは異なり、主人公を死の前に救済する「真の女」として再創造している<ref name="Shaffer">{{Cite web|title=Meg Goes to Vanity Fair|url=https://rucore.libraries.rutgers.edu/rutgers-lib/40311/|access-date=2021-12-13|website=ラトガー大学図書館|author= Maribeth Shaffer}}</ref>

== 主な作品タイトル ==
;小説
*''The Inheritance'',1849年執筆、死後出版(相続、遺産){{sfn|大串|2021|p=222}}
* ''Moods'', 1865年、再編集版1882年(気まぐれ)
* ''Kitty's Class Day and Other Stories (Three Proverb Stories)'' , 1868年, ("Kitty's Class Day", "Aunt Kipp" "Psyche's Art"収録)(3つの教訓物語)
【若草物語シリーズ】
* ''Little Women, or Meg, Jo, Beth and Amy'', 1868年([[若草物語]])邦訳が膨大であるため、リストは小松原宏子の論文の付録1を参考のこと。
**{{Cite book|和書|ref=|author= 北田秋圃 訳 |series=||title=小婦人|year=1906|publisher=彩雲閣}}最初の邦訳。
* ''Little Women''第二部 または、''Little Women Married, or Good Wives'', 1869年(続・若草物語)
* ''[[:en:Little Men|Little Men: Life at Plumfield with Jo's Boys]]'', 1871年(小さな紳士たち、第三若草物語)
* ''[[:en:Jo's Boys|Jo's Boys and How They Turned Out: A Sequel to "Little Men"]]'', 1886年(ジョーの子供たち、第四若草物語)
【その他の家庭小説・少女小説】
* ''[[:en:An Old Fashioned Girl|An Old-fashioned Girl]]'', 1870年(昔気質の一少女)
* ''[[:en:Work: A Story of Experience |Work: A Story of Experience]]'', 1873年(労働:経験物語)
* ''[[:en:Eight Cousins|Eight Cousins or The Aunt-Hill]]'',1875年
** {{Cite book|和書|ref=|author= [[村岡花子]] 訳 |series=若草文庫||title=八人のいとこたち|year=1958|publisher=三笠書房}}
** {{Cite book|和書|ref=|author= 村岡花子 訳 |series=角川文庫||title=八人のいとこ|year=1960|publisher=角川書店}}
** {{Cite book|和書|ref=|author= [[村岡みどり]] 訳 |series=世界少女名作全集 ||title=ローズの季節|year=1973|publisher=岩崎書店}}挿絵 山中冬児
** {{Cite book|和書|ref=|author= [[谷口由美子]] 訳 |series=講談社青い鳥文庫 ||title=8人のいとこ|year=2019|publisher=講談社}}挿絵 ほおのきソラ
* ''[[:en:Rose in Bloom|Rose in Bloom: A Sequel to "Eight Cousins"]]'', 1876年(''Eight Cousins or The Aunt-Hill''の続編)
** {{Cite book|和書|ref=|author= 村岡花子・佐川和子 訳 |series=若草文庫||title=花ざかりのローズ|year=1958|publisher=三笠書房}}
** {{Cite book|和書|ref=|author= 村岡花子・佐川和子 訳 |series=角川文庫||title=花ざかりのローズ|year=1961|publisher=角川書店}}
** {{Cite book|和書|ref=|author= 村岡みどり 訳 |series=世界少女名作全集 ||title=ローズの季節|year=1973|publisher=岩崎書店}}挿絵 桜井誠
** {{Cite book|和書|ref=|author= 谷口由美子 訳 |series=講談社青い鳥文庫 ||title=8人のいとこ ローズの恋 2|year=2021|publisher=講談社}}挿絵 ほおのきソラ
* ''[[:en:Under the Lilacs|Under the Lilacs]]'', 1877年(ライラックの花の下)
** {{Cite book|和書|ref=|translator=松原至大 |series=角川文庫 ||title=ライラックの花の下|year=1958|publisher=角川書店}}
* ''[[:en:Jack and Jill: A Village Story |Jack and Jill: A Village Story]]'', 1880年(ジャックとジル)
* ''A Garland for Girls'', 1888年(花物語)

;子供向け
*''[[:en:Flower Fables|Flower Fables]]'',1854年(花のおとぎ話、花物語){{sfn|大串|2021|p=224}}
* ''The Rose Family: A Fairy Tale'', 1864年(ローズ・ファミリー、妖精物語{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''Aunt Jo's Scrap-Bag'', 1871年 - 1882年(ジョーおばさんのお話集{{sfn|宮木|2008|p=547}})
* ''Lulu's Library'', 1886年 - 1889年(ルルの本棚{{sfn|宮木|2008|p=544}})

;その他短編小説
* ''The Rival Painters'', 1842年(恋敵の画家たち―ローマの物語{{sfn|宮木|2008|p=550}}。初めて雑誌掲載された短編){{sfn|大串|2021|p=222}}
* ''Masked Marriage'', 1851年(仮面結婚{{sfn|宮木|2008|p=550}})
* ''The Sisters' Trial'', 1856年(姉妹の試練{{sfn|宮木|2008|p=550}})
* ''Agatha's Confession'', 1857年(アガサの告白{{sfn|宮木|2008|p=550}})
* ''Love & Self Love'', 1859年(愛と自己愛{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''Modern Cinderella; or, The Little Old Shoe'', 1860年(現代のシンデレラ―古い小さな靴{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''[[:en:Hospital Sketches|Hospital Sketches]]'', 1863年(病院のスケッチ)
* ''My Contraband'', 1863年(わたしの逃亡奴隷兵)
* ''Pauline's Passion and Punishment'', 1863年(ポーリーンの激情と罰。新聞掲載時は匿名{{sfn|大串|2021|p=247}})
* ''Thoreau's Flute'',1863年(ソローの横笛{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''Enigma'',1863年(謎{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''Succecc'',1863年(成功。後に解題して雑誌に掲載、さらに''Work, A Story of Experience''『仕事-体験談』として単行本化{{sfn|宮木|2008|p=549}})
* ''Doctor Dorn's Revenge'' ,1868年(ドクタードーンの復讐)
* ''La Jeune; or, Actress and Woman'',1868年(若い女性-女優であり女であること{{sfn|宮木|2008|p=547}})
* ''Countess Varazoff'',1868年(バラゾフ伯爵夫人)
* ''The Romance of a Bouquet'',1868年(花束に秘められたロマンス{{sfn|宮木|2008|p=547}})
* ''A Laugh and A Look'',1868年(笑いと一見)
* ''Perilous Play'',1869年(危険な遊び)
* ''[[:en:Lost in a Pyramid, or the Mummy's Curse|Lost in a Pyramid, or the Mummy's Curse]]'',1869年(ピラミッドの中で道に迷う―ミイラの呪い{{sfn|宮木|2008|p=547}})
* ''[[:en:Transcendental Wild Oats|Transcendental Wild Oats]]'' (1873) (トランセンデンタル・ワイルド・オーツ):フルートランズでの生活を描いた短編。1995年『ルイザ・メイ・オルコット―「若草物語」への道』に邦訳収録{{sfn|高田|2006|p=16}}。
* ''The Autobiography of an Omnibus'',1874年(ある売春婦の自伝{{sfn|宮木|2008|p=545}})
* ''Silver Pitchers, and Independence: A Centennial Love Story'',1876年(銀の水さし)
* ''A Vsit to the Tombs'',1876年(トゥーム刑務所を訪ねて{{sfn|宮木|2008|p=545}})
* ''A Whisper in the Dark'',1877年(暗闇のささやき。新聞掲載時は匿名{{sfn|大串|2021|p=247}})

;A・M・バーナード名義
*''V. V.: or, Plots and counterplots'' ,1862年連載(V.V.-あるいは策略には策略を。のちにA・M・バーナード名義で出版)
*''A Marble Woman ; or , The Mysterious Model'',1865年(大理石の女、あるいは神秘的なモデル。初めてA・M・バーナード名義を使用{{sfn|大串|2021|p=249}})
*''[[:en:Behind a Mask|Behind a Mask, or a Woman's Power]]'', 1866年
** {{Cite book|和書|ref=|author=大串尚代 訳 |series=ルリユール叢書 ||title=仮面の陰に あるいは女の力|year=2021|publisher=幻戯書房}}
*''The Abbot's Ghost, or Maurice Treherne's Temptation'' ,1867年(修道院長の幽霊―あるいはモーリス・トレハーンの誘惑)
*''[[:en:A Long Fatal Love Chase|A Long Fatal Love Chase]]'',1866年
** {{Cite book|和書|ref=|author=広津倫子 訳 |series= ||title=愛の果ての物語|year=1995 |publisher=徳間書店|isbn=4-19-860376-6}}
* ''Fate in a Fan'' ,1869年(扇の運命)

; 匿名で公開
* ''A Modern Mephistopheles'',1877年(現代のメフィストフェレス)

;戯曲
* ''Comic Tragedies'',1893年(喜悲劇。姉アンナとの共作、死後出版)

== 派性作品 ==
*[[:en:Geraldine Brooks (writer)|Geraldine Brooks]] 著 ''[[:en:March (novel)|March]]'', 2005年
** {{Cite book|和書|ref=|author=[[ジェラルディン・ブルックス]] 著, 高山真由美 訳 |series= ||title=マーチ家の父 もうひとつの若草物語|year=2010 |publisher=武田ランダムハウスジャパン|isbn=978-4270005828}}: 2006年度[[ピューリッツァー賞 フィクション部門]]受賞


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist|2|refs=<ref name="BDA1906">{{cite dictionary | editor-last = Johnson | editor-first = Rossiter | editor-link = :en:Rossiter Johnson | title = Alcott, ouisa May | dictionary = [[:en:The Biographical Dictionary of America|The Biographical Dictionary of America]] | year = 1906 | volume = 1 | pages = 68–69 | location = Boston, Mass. | publisher = American Biographical Society | language = en | via = en.wikisource.org | url = https://en.wikisource.org/wiki/The_Biographical_Dictionary_of_America/Alcott,_Louisa_May | access-date = November 8, 2020}} {{PD-notice}}</ref>}}
{{reflist|2|refs=
<ref name="BDA1906">{{cite dictionary
| editor-last = Johnson
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| dictionary = [[:en:The Biographical Dictionary of America|The Biographical Dictionary of America]]
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}} {{PD-notice}}</ref>
}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年3月6日 (水) 07:04 (UTC)|section=1}}
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* Shealy, Daniel, Editor. ''"Alcott in Her Own Time: A Biographical Chronicle of Her Life, Drawn from Recollections, Interviews, and Memoirs by Family, Friends and Associates."'' University of Iowa Press, Iowa City, Iowa, 2005. ISBN 0-87745-938-X.
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|松原|1958}}|author=ルイザ・メイ・オルコット 著|translator= 松原至大 |series=角川文庫 マイディア ストーリーズ ||title=ライラックの花の下|year=1958|publisher=角川書店}}
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|アンダーソン、谷口|1992アンダーソン、谷口|1992}}|author=ウィリアム・T・アンダーソン |others=デイヴィッド・ウェイド |translator= 谷口由美子 |chapter= |series=求龍堂グラフィックス 世界の文学写真紀行シリーズ|title=若草物語 ―ルイザ・メイ・オルコットの世界|year=1992|publisher=求龍堂}}
* {{Cite book|和書|ref=|author= |editor=師岡愛子 編 |chapter= |series= ||title=ルイザ・メイ・オルコット―「若草物語」への道|year=1995|publisher=表現社}}
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|吉田|2004}}|author=吉田とよ子 |editor= |chapter= |series=智慧の海叢書|title=エマソンと三人の魔女|year=2004|publisher=勉誠出版}}
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* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|高田|2006}}|author=[[高田賢一 (アメリカ文学者)|高田賢一]]|editor=高田賢一 編 |chapter=書くことが生きること ― ルイザ・メイ・オルコットの生涯と作品|series=シリーズもっと知りたい名作の世界 ||title=若草物語|year=2006|publisher=ミネルヴァ書房}}
* {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|宮木|2008}}|author=|editor=ジョーエル・マイヤースン、ダニエル・シーリー 編 |others=マデレイン・B・スターン 編集協力 |translator= 宮木陽子 |chapter=|series= ||title=ルイーザ・メイ・オールコットの日記 ―もうひとつの若草物語|year=2008|publisher=西村書店}}
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|volume = 13 |issue = |publisher = 多摩大学グローバルスタディーズ学部|date = 2021-03 |pages =31-52 |naid = 120007028300 |ref = {{SfnRef|小松原|2021}}}}
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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{{Wikisource|en:author:Louisa May Alcott|ルイーザ・メイ・オルコットの作品}}
{{Wikisource|en:author:Louisa May Alcott|ルイーザ・メイ・オルコットの作品}}
* {{青空文庫著作者|1090|オルコット ルイーザ・メイ}}
* {{青空文庫著作者|1090|オルコット ルイーザ・メイ}}
* [http://www.misheila.sakura.ne.jp/alcott-note.html 年譜] / [http://www.misheila.sakura.ne.jp/alcott-works.html 主要邦訳作品リスト] Midori's Room
* [https://web.archive.org/web/20040812150027/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/lwomen/lwomen-toc.html オールコット著 小さな大人達] - [[物語倶楽部]]の[[インターネットアーカイブ]]。
* [https://public.wsu.edu/~campbelld/amlit/alcottbib.htm 二次資料のリスト] Donna Campbell, Washington State University
* {{gutenberg author|id=Louisa_May_Alcott|name=Louisa May Alcott}}
* {{gutenberg author|id=Louisa_May_Alcott|name=Louisa May Alcott}}


{{Wikisource author}}
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{{commons}}
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'''ソース'''
'''ソース'''
* [http://gutenberg.net.au/plusfifty-a-m.html#alcott Works by Louisa May Alcott] at [[:en:Project Gutenberg Australia|Project Gutenberg Australia]]
* {{StandardEbooks|Standard Ebooks URL=https://standardebooks.org/ebooks/louisa-may-alcott}}
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* {{Internet Archive author |sname=Louisa May Alcott}}
* {{Librivox author |id=93}}
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* [http://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/book/search?author=Alcott%2C+Louisa&amode=start Works by Louisa May Alcott] at [[Online Books Page]]
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* [https://web.archive.org/web/20080108061938/http://www.womenwriters.net/domesticgoddess/alcottguide.htm Bibliography] (including primary works and information on secondary literature – critical essays, theses and dissertations)


'''アーカイブされた資料'''
'''アーカイブされた資料'''
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* [https://findingaid.lib.byu.edu/viewItem/Vault%20MSS%20503 Guide to Louisa May Alcott papers, MSS 503] at [https://sites.lib.byu.edu/sc/ L. Tom Perry Special Collections], Brigham Young University
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* [https://findingaid.lib.byu.edu/viewItem/MSS%203953/ Madeline B. Stern Papers on Louisa May Alcott, MSS 3953] at [https://sites.lib.byu.edu/sc/ L. Tom Perry Special Collections], Brigham Young University
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* [https://archives.lib.umd.edu/repositories/2/resources/140 Carolyn Davis collection of Louisa May Alcott] at the [[University of Maryland Libraries]]
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'''その他'''
* [https://www.pbs.org/wnet/americanmasters/masters/louisa-may-alcott/ Louisa May Alcott: The Woman Behind ‘Little Women’] – American Masters documentary (PBS)
* [http://www.louisamayalcottsociety.org/ The Louisa May Alcott Society] A scholarly organization devoted to her life and works.
* [https://web.archive.org/web/20071208021305/http://www.alcottfilm.com/ Louisa May Alcott, the real woman who wrote Little Women]. Documentary materials.
* [https://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/1129.html Obituary, ''New York Times'', March 7, 1888, ''Louisa M. Alcott Dead'']
* [https://web.archive.org/web/20080407143910/http://ww3.startribune.com/blogs/oldnews/archives/175 ''Minneapolis Tribune'', March 7, 1888, ''Obituary: Miss Louisa M. Alcott'']
* [http://www.britannica.com/EBchecked/topic/13467/Louisa-May-Alcott ''Encyclopædia Britannica'', Louisa May Alcott]
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* Norwood, Arlisha. [https://www.womenshistory.org/education-resources/biographies/louisa-may-alcott "Louisa Alcott"]. National Women's History Museum. 2017.
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2022年5月29日 (日) 08:11時点における版

ルイーザ・メイ・オルコット
誕生 (1832-11-29) 1832年11月29日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州フィラデルフィア市ジャーマンタウン
死没 (1888-03-06) 1888年3月6日(55歳没)
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ボストン
職業 小説家
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
代表作若草物語
ウィキポータル 文学
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ルイーザ・メイ・オルコット(ルイザ[1]、オールコット[2]との表記もあり、: Louisa May Alcott [ˈɔːlkɒt, ˈɔːlkət][3][4]、1832年11月29日- 1888年3月6日)は、アメリカの小説家。家庭小説少女小説の作家で[5]、『若草物語Little Women)』(1868)とその続編(1869年、1871年、1886年)の著者として最もよく知られている[6] 。大人向けの短編小説、スリラー小説、扇情小説英語版の作家でもある。 オルコットは、著名な超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット英語版と主婦でソーシャルワーカー民生委員)のアビゲイル・メイ・オルコット英語版の娘であり、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部であるジャーマンタウンに生まれた。一家は1844年ボストンへ移住し、そこで彼女の父は実験的な学校を設立した[7]

父は理想主義的な哲学の実践者・教育者であったが、生活力がなく、経済的にも家庭を守っていたのは母だった[8]。一家は父の挑戦と挫折に従い、また生活苦から転居を繰り返し(30年間で22回)、経済的困難に苦しんだ。オルコットは幼い頃から家族を支えるために働きながら、執筆の仕事を試み続け、1860年代に作家として成功を収めるようになった。彼女はキャリアの早い段階で、A・M・バーナードなどのペンネームを使用し、その名でスリラー短編や情熱と復讐に焦点を当てた大衆向けの扇情小説を書いていた[9]。この事実は20世紀半ばまで知られていなかったが[10]、現在では「素朴で真実味のある」小説や、彼女自身が「血と雷の物語」と呼ぶ「ぞっとするような」物語を執筆するといった多彩なスタイルを持つ小説家だったことが分かっている[11]。30冊以上の本、300篇を超える作品を残した[12][13]

1868年に発表された『若草物語』は、南北戦争時代のアメリカ北部に暮らした4人姉妹、長女メグ、次女ジョー、三女べス、四女エイミーの1年間を描いた物語で、マサチューセッツ州コンコードにあるオルコットと家族の家、オーチャード・ハウスを舞台にし、彼女の三人の姉妹、アンナ・オルコット・プラット英語版エリザベス・スーワル・オルコット英語版アビゲイル・メイ・オルコット・ニアーリカー英語版との子ども時代の経験に基づいている。この小説は当時好評で、今でも子供から大人まで人気があり、 150年以上にわたり非常に愛され続けている。舞台、映画、テレビに何度も上演され、映像化されている。

作家として成功したオルコットは一家の稼ぎ頭として家族を支え、『若草物語』と続編の印税で家の借金を返し、両親の面倒をみ、姉アンナの家族の面倒をみ、妹メイの留学費用まで捻出し、メイ亡き後は残された姪を引き取って育てた[11]

オルコットは「一生を父親への強い愛憎のなかで過ごしたといってもいいほどに父の存在が大きかった」と言われ[14]、伝記作家たちは、オルコットの進歩的な考えと独立心が、先進的な理想を持つ父ブロンソンによって育まれたと考え、彼女の珍しい成功は父の影響によると考えてきた[15]。近年では、母アッバの困難で献身的な結婚生活と自由への夢、母娘の関係性が、オルコットの知的・感情的世界の形成に大きな影響を与えたと注目されている[16]。一家は奴隷制廃止運動に関わり、母は女性の権利の活動家であり、娘たちに自活の大切さを教えた[17][18]。オルコットは奴隷制廃止論者、フェミニストであり、一生独身で通した。彼女は生涯を通じて、禁酒運動女性参政権などの改革運動に積極的に取り組んだ[19]。女性の権利と教育改革は、彼女の小説の主要なテーマであった[15]。アメリカ文学史に埋もれていたが、フェミニストとしてのオルコット研究が進み、現在では19世紀中葉の文学の収穫期アメリカン・ルネッサンス英語版の一員として位置付けられている[20]。 近年では、彼女の小説は女性の自立を描いたものであるという評価もされるようになった[5]

彼女は、父親の死の2日後、1888年3月6日にボストンで脳卒中で亡くなった。

(以下、邦訳のない作品タイトルはすべて仮訳である。)

人生

幼少期~若年期

エイモス・ブロンソン・オルコット
アビゲイル・メイ・オルコット

父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はニューイングランドの由緒ある家柄出身のアビゲイル・メイ・オルコット(愛称アッバ)であり、ルイーザ・メイ・オルコットは四人姉妹の次女である[21]

父ブロンソンはさほどしっかりした教育を受けなかったが、読書が好きで、天の都市を目指すクリスチャンの旅を描くジョン・バニヤンの寓話物語『天路歴程』(原題:この世から来るべき世に向かう巡礼者の旅路―夢の中の物語)に決定的な影響を受け、生涯を通して繰り返し読み直して内面化し、生き方の指針にし、後には徳の需要さ、すばらしさを娘たちに伝えるためにいつも読んで聞かせた[17][22][23]。教師になりたかったが叶わず、様々な仕事に就き、クェーカー教徒と接して「内なる光」の教義に影響を受け、それは神と直接対話するという彼の信念の萌芽となった[17]。その後教師となって革新的なやり方が注目を集め、彼に感銘を受けたユニテリアンで奴隷制度廃止論者の牧師サミュエル・J・メイが、ボストンのチャリティーの幼児学校に彼のポストを用意し、牧師の妹だったアッバと出会った[17]。アッバは、敬虔なユニテリアンで、富の追求が精神の幸福に有害だと考える父のジョセフ・メイ大佐に強い改革と慈善の精神を教えられ、勉強、教育、執筆に熱心なアッバと興味を共有し、彼女の改革への情熱を支えた母ドロシーを持ち、自分の周りの社会の改善と道徳的な行動に熱心な信仰深い家庭で育った[24]。こうした家庭に育ち、情熱的で寛大な心を持ち、世の不公平に敏感だったアッバは、ブロンソンに出会った時27歳で、婚約相手の不実で破談になったこともあり、当時としてはかなり適齢期を過ぎていた[25]。革新的な思想を持った背の高いハンサムな青年だったブロンソンに魅了され、助手の職に応募し、彼と婚約し、彼と恋人であるだけでなく、彼の生徒であり仲間であることを喜んだ[26][17][27]。メイ家の面々は、家族を養うという考えがほとんどないブロンソンとアッバの結婚を危ぶんだが、アッバが押し切る形で1830年に結婚した[27][25]。ブロンソンは彼の生来の宗教であるカルヴァン主義から離れ、メイ家のユニテリアンの教えに魅了され、またアッバとメイ家の影響で奴隷制廃止運動に積極的に参加するようになった[17]。ブロンソンの幼児教育に関する冊子に感銘を受けた裕福なクェーカー教徒の招きで、1830年に進歩的な私立学校を設立するためにペンシルベニア州ジャーマンタウン(現在はフィラデルフィアの一部)[6]に引っ越した。1931年に長女アンナ・ブロンソン・オルコットが、1832年11月29日、父の33歳の誕生日にルイーザ・メイ・オルコットが生まれた。ジャーマンタウンの学校がパトロンの死で頓挫し、またアッバが流産したことで、家族は1834年にニューイングランドボストンに戻った[28]

ボストンで父ブロンソンは、ラルフ・ワルド・エマーソンヘンリー・デイヴィッド・ソローととも超絶クラブ英語版を創設した[29]。19世紀半ばのニューイングランドの知識人たちは、超絶クラブを端緒に始まった哲学の潮流、“個人”を絶対的に尊重し、自己修養や普遍的な兄弟愛を信じ、自然との融合を目指す超絶主義に魅了されていた[30][31][8]。ブロンソンは、超絶主義とスイスの教育改革者ヨハン・ペスタロッチの理論を組み合わせ、無政府主義菜食主義不淫霊性といった系統を含む奇妙な哲学を作り上げた[30]。彼はエマーソンの親しい友人であり、理想を追い求める教育者で、詰め込み教育や学校内における体罰に反対しており、子供たちの学ぶ意欲を引き出す教育を目指していたが、経済的なことには疎く、学校経営はうまくいかなかった[21]。宗教的宇宙観により理想生活を追求する超絶主義の実行者であり、生きるのに必要な金銭に頓着せず、どれほど非現実的でも妥協を許さず、理想に生きる浮世離れした人生観を持っていた[32][33]。食べるために生き物を殺してはならないとし、社会制度を人間の真の善を堕落させるものと見なし、金銭や商売は卑劣なものと考え、必要以上に金銭を蓄えてはならないとし、産業の仕事は魂を殺すものだと考えた[32][33]。奴隷制は罪であると考えたが、さらにほかの動物の労働力を搾取することも罪であるとみなした[33]。オルコット一家は南北戦争前のヒッピーであると表現することもでき、1960年代のカウンターカルチャーと同様に、東洋の精神性、ホメオパシー、代替的なライフスタイル、人種、性別によらない社会的な平等に関心があった[34]。ブロンソンはすべての人間は同胞であるため平等に働いて分かち合うべきであると考え、どんな人間の助けも拒まなかった[32]。よって一家は、現実離れしたライフスタイルを実践し、総出で助けを求める人に奉仕することになり、筆舌に尽くしがたい苦労と困窮を味わうこととなった[32][33]。オルコット家は文字通りパンと水だけで生きることもあったが、ブロンソンはその現実を無視することができ[13]、また彼は自分が罪を犯したことは一度もないと話しており、現代の研究者のひとりは、彼は自分の気まぐれの思いつきと天啓を混同していたと指摘している[30][35]。父の教育に関する意見と子育てに関する厳しい見解、そして精神的な不安定さに接することで、若いオルコットの心の中に、超絶主義者の目標である「完璧を達成する」という願望が形成された[36]

オルコットは幼い頃からいわゆる癇の強い子だったようであり[37]、子どもの頃、活発で冒険心にあふれ[38]、男の子のゲームを好むおてんば娘だった[39]。父ブロンソンは、独特の教育家で強烈に家父長制的人物で、第一の道徳信条として自己放棄を掲げており、幼児としては特に異常とは言えないオルコットの性質を恥ずべきものとみなし、長い間、オルコットを娘の中で最も利己的であると考えていた[37]。ブロンソンとオルコットの確執は相当深かったと思われ、伝記作家のジョン・マットソン(John Matteson)は、ブロンソンは自覚的にキリストを模倣した人生を送ろうとしており、家を司るキリストである父に反抗することは、「事実上自分を悪魔と定義するに等しかった」と述べている[37]。ブロンソンはオルコットの荒々しく独立的な行動に対して理解を示さず、さらに父は家族を十分に養うことができなかったため、父と妻・娘の間には緊張関係が生じた[36][40]

オルコットは少女時代、「欲望する自己の否定」という父の教えと、それと同趣旨の、当時の女性の自己否定の道徳を内面化することに、多くの努力を費やし、苦労しながらも、彼女の中に根付いていった[41]

テンプルスクール

1835年にボストンでブロンソンは、革新的な教育家であるエリザベス・ピーボディの援助で、一般にテンプルスクール英語版として知られる人間文化学校を創設し、規律と相互を尊重する空気の中で開放性と自己表現を重んじ、子供の内なる神性を目覚めさせる教育を行おうとした[17]。1835年に三女が生まれ、後援者の名前から三女の名前はエリザベスとなった[17]。オルコットはこの学校に通い、教育を受けている[42]。ディベート風の「会話」という生徒が考えて答える授業があり、現在でもその先進性を賞賛する人のある教育法だが、これは「知性」ではなく「徳性」の育成を目的とするもので、生徒が出した様々な答えのうち、ブロンソンの考えに合った答えを正しいと認めるもので、質問や自由な会話は禁止されていた。協働者のピーボディは、この教育法が一見生徒が考えているように見えて、教師に暗に操られ、教師が求める答えを探しているだけという危険性を懸念しており、吉田のぶ子は彼の教育法の洗脳的側面を指摘している[43]。この頃はブロンソンが忙しく、娘たちは母アッバとの結びつきが強かった[38]。ブロンソンは娘たちに、良心の大切さと、良心とはいつも「いい人」でいられるよう仕向けてくださる神であり、良心に従わない限り幸せにはなれないと教えた[38]

テンプルスクールでの先進的な試みは賞賛されたが、その栄光は短命でだった[17]。独自の宗教教育を行ったが、教会がタブーとする「マリアの出産」に触れる性的な内容が含まれるようになり、ブロンソンはピーボディの忠告に反してその教えを1836年末に出版し、新聞や多くの説教壇で非難の嵐が吹き荒れ批判された[17][44]。また、当時の徳育の拠り所は宗教であり、学校には様々なキリスト教の宗派の子供がいたため、本来徳育を行うのは家庭とその教会であり、ブロンソンの自分の宗教観に基づいた徳育は保護者にとっては越権と感じられた[43]。怒った父兄が学校に押し寄せ、父の首を絞め校舎を焼き払おうとし、5歳のオルコットはこぶしを振り上げて懸命に暴徒を追い払おうとしたという[45]。同時期にオルコット夫妻は、奴隷制廃止運動に参加し始めたばかりの女性社会学者のハリエット・マルティノー英語版とトラブルになって学校についての激しい批判を受け、これによりほとんどの裕福な生徒が退学し、黒人の少女を入学させたことが決定打となり学校は終焉した[17]。1840年に四女アビゲイル・メイ(以下メイ)が生まれたが、上の3人と異なり、父親の綿密な監督なしに育った[17]

ホスマーコテージ

1840年に、学校経営に失敗したオルコット一家は、マサチューセッツ州コンコードコンコード川沿いにある広さ2エーカーの土地に建つ小屋に移り住んだ。彼らが借りたホスマーコテージで過ごした3年間は、のどかななものだったといわれる[46]。オルコットは、「一生のうちで最も幸せな時期」だったとしており、エマソンの子供たちと遊び、野山を駆け回り、自然の美しさに「聖なるものを感じる」体験をした[47]

1841年にアッバの父が亡くなったが、アルコット家の債権者の申し立てがあり、そのわずかな遺産を手に入れることはできなかった[17]。失敗した学校の借金が膨らんで貧困状態となり、ブロンソンは深く落胆し、アッバは夫の哲学に幻滅していた[17]。アッバはのちに、「私にとっては、あなたの哲学や理論よりも、あなたの人生の方が大切だったのです」と書いている[17]。ブロンソンはアッバと金銭的な苦労を分かち合うことがなく、超絶主義の雑誌「ザ・ダイアル」に寄稿することに熱中した[48]

フルートランズ

フルートランズのメインの建物

1842年にブロンソンは、失意の彼に成功体験を与えたいと考えたエマーソンの援助で渡英し、テンプルスクールを真似て作られた「オルコット・ハウス」を見学し、彼の支持者のグループに会って自信を深め、弟子の神秘思想主義者チャールズ・レーンを伴って帰国し、オルコット一家に加わった[49][17]。1843年、父ブロンソンはエマーソンを理事に、レーンを後援に、妻の兄の資金援助を受けて、自らの「新しいエデン」であるユートピア的農業共同体フルートランズ英語版(Fruitlands、フルーツランド)を設立した[30][49]。この時期アメリカ東部を中心に、同様の理想主義的共同体がいくつも建設されたが、理想と現実の落差に打ちのめされて次々消滅した[49]

オルコット一家は、他の6人のコミュニティ参加者の家族と一緒に移り住んだ[36]。ブロンソンは家族の枠を広げることで、互いの精神を高尚にすることが促進されると考えていた[50]。イギリスで新規メンバーを探すための旅行は、エマーソンの資金提供に頼っており、農場経営の資金はレーンが負担した[30]。自給自足を目指し、市場や金銭との接触を可能な限り断つことを目指していたが、農園の名前と裏腹に土地は痩せており果樹は少なく、農業の経験者はメンバーの中に1人しかおらず、無計画に始まったそのコミュニティは悲惨な結果に終わり、1843年から1844年の短い期間で解散した[33][51]。父ブロンソンは肉食やセックスを避けることでエデンの園を再現できると考え、フルートランズでは、菜食を推奨し、彼らは肉、魚、牛乳、卵、バター、チーズを食べず、食事は全粒粉パン(ブロンソン自身が作ったもの)、果物、野菜、そして冷水に限られていた[30][33]。彼らは調理で野菜の「生命の力」が失われると考え、生食を実践した[52]。綿と砂糖は奴隷労働の産物であり、羊毛は羊を、絹は蚕を、革は牛を、蜂蜜は蜜蜂を犠牲にしているとして拒否し、甘いものはなかった[33]。また、肥料を使った農作物などを「汚染物質」と考え肥料の使用を拒み、当時農業に必要だった動物労働を否定し、牛の助けを借りずに人力で畑を耕した[33]。多くの本を所有していたが、動物製品に由来するランプやろうそくを使用できないため、夜に読書することはできなかった。アルコール、カフェイン、温水、セックスなどを刺激物とみなして拒否し、体を浄化しようとし、道徳的に生き、いかなる形の搾取も避けることによって精神を浄化しようと考えた[33]。清らかな農業の実践と哲学的な議論により、より深い魂の目覚めをもたらす理想の生活は、非現実的であり、柱となるリーダーも欠けており、すぐに問題だらけとなった[33][50]。食べ物も足りず、不健康な生活の中、アッバは娘たちを空腹や寒さから守るためにたびたび違反行為をしたため、レーンはアッバの精神性の欠如を批判した[53]。レーンは近くのシェーカー教徒の共同体のように家族を理想の生活から切り離すべきと主張し、アッバが共同体全体よりも家族への愛情を優先させていると非難し、アッバは悩むブロンソンに強く意見し、ブロンソンとレーン、アッバの人間関係は悪化した[35][54]

ブロンソンは娘たちに日記をつけることを教育の手段として奨励しており、家族は互いの日記を読み、書き込む習慣であった。フルートランズでも教育としての日記は推奨されており、オルコットはしきりに「いらいらした感情」と、両親の理想に達しない駄目な自分に対する自己嫌悪を書いており、また疲れ切った母親を鋭く観察している[55]。チャールズ・レーンはほとんどの勉強を見ていたが、オルコットはそれを苦痛に思っていた[50]。まだ思春期前の10歳の少女だったオルコットは、父の理想郷建設の中で、経済的逼迫、両親の不和、家族崩壊の危機的状況を体験した[56]。姉アンナとオルコットは、母の苦労、父がうまくいかない共同体にかかりきりで他を顧みないこと、小さな家で他人と暮らす不便さなどに心を痛め[57]、父がいなくなってしまうのではないかと心配し、「前の夜に父と母とアンナと私は長い話をしました。私はとても不幸でした、そして私たちは皆泣きました。」「私は神様に、私たちみんなを一緒にいさせてくださるように祈りました。」と日記に書いている[35]

労働の割り当ては公平なものではなく、ブロンソンとレーンは新しいメンバーを勧誘するために各地を駆け回り、他のメンバー、特に恒常的な唯一の女性メンバーであったアッバに重労働を任せ、彼女は他人ばかりのコミュニティに残され「ガレー船の奴隷のように」働きづめた[17][35]。ブロンソンとレーンは収穫シーズンに講演旅行に出かけ、コミュニティのメンバーはブロンソンが旅行と哲学に多くの時間を費やし、農業に十分時間を使っていないことに不満を抱いた[17][33]。母アッバは、女性メンバーの一人がルールを破って追放されコミュニティ唯一の大人の女性になると、すべての女性の労働を背負うことになり、訪問者の「ここには労役を担う動物はいないのですか?」という質問に「ただ一人女がおります」と答えている[33]。アッバはただ一人の女性労働者として寒さや飢え、身体的痛みに苦しみ、それを娘たちに訴え[55]、「この生活が、わたしの心まで奪い取らないことを望みたい」と書いていた[57]

組合のストで野菜の出荷が止まり、家計の苦しさを痛感することもあった[45]。冬が近づくにつれ、食料も薪も少なく、リネンの薄い服ではとてもやっていけないことが明白になった[33]。母アッバは真冬になると兄の助けで近くの農家を借りて娘たちと避難し、父ブロンソンは一人フルートランズに残されたが、数週間後に妻の説得に応じ、家族に合流した[33]。エマーソンは冷たく、「彼らの教義自体は精神的だが、彼らは結局いつも私たちに、『たくさんの土地とお金をください』と言うだけで終わる。」と述べている[30]。オルコットは現実的な人間だったため、超絶主義の浮世離れした高尚さを目指す哲学を完全に支持することはなかったが、超絶主義者たちの自立と個性を重視する考え方には影響を受けた[8]。また、フルートランズでの苦しい経験、耐え忍びあくまで父を立てる母の姿が、母の重荷を軽くし喜びを与えたい、家族を豊かにしたいというオルコットの激しい野心に火をつけた[58][44]。オルコットは子供のころ、「私がお金持ちで、いい子で、そして今日一日みんな幸せな家族だったらいいのに("I wish I was rich, I was good, and we were all a happy family this day."[59])」と日記に書いており、貧困から抜け出そうと駆り立てられていた。

11歳のオルコットに、母アッバは「わたしはあなたが、こんなに良く働く娘になるであろうとは思いましたし、またわたしは、からだが弱くて、あなたをかわいがるお母さんにはなれるけれど、毎日のパンは、あなたに稼いでもらうことになろうとも思っていました」と語っていた[45]。のちに父への手紙で、作家としての目標は「オルコット家に生まれながらも自分を養うことができる」と証明することだと書いている[8]

ヒルサイド

ヒルサイド

フルートランズが崩壊した後は賃貸部屋に移り、娘たちはまた学校に通うようになった。アッバは家族を養うためにお金を稼ぐことを考えたが、ブロンソンは精神的な向上発達だけに価値があると考え、肉体労働は堕落だと考えていた[57]。ブロンソンは超絶主義者たちの共同体の夢を捨てていなかったが、参加者を集めることができず、理想的な共同体があれば参加したいと考えていたが、希望に合うものは見つけられなかった[60]。その後母アッバの父の遺産1,000ドルの相続がようやく可能になり、エマーソンからの500ドルの財政的支援を受けて、コンコードの家屋を購入している[61][17]。一家は1845年4月1日に「ヒルサイド」と名付けた家に引っ越した。(これは1852年にナサニエル・ホーソーンに売却され、ホーソーンは家を「ウェイサイド」と改名している。)

フルートランズの失敗で打ちのめされていたブロンソンは、ここで快復していったが、家族を養う役割は完全に放棄してしまった[62]。ブロンソンは農業を営み、ウォールデン池の有名な小屋を頻繁に訪れ、自然主義者ヘンリー・デイビッド・ソローと永遠の友情をはぐくんだ[17]

アッバと姉妹たちはここで生き生きと活動し、オルコットはここで初めて自分の部屋を手に入れ、エマーソンからゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を紹介され、ゲーテに傾倒し、詩作や物語作りに熱中し、文章力を磨いた[63][17]。オルコットはセンチメンタルな年頃で、隣家のラルフ・ワルド・エマーソンを自分にとってのゲーテと考えて憧れ、年若い恋人になる空想をし、渡すことのない手紙を書いていた[64]

オルコットはアンナと共に、14 歳の冬にコンコードの町でソローの学校に通い[8]、その経験に触発され、ウォールデン池での生活をもとに『ソローの横笛』を書いた。テンプルスクールと1年のコンコードの学校が、オルコットの数少ない学校教育の経験となった[42]。また、エマーソンは自宅の書庫を開放し、本を読ませてくれた[8]。しかし、彼女が受けた教育のほとんどは、厳格で「自己犠牲の甘美さ」を信条とする父親からのものだった[36]。彼女はまた、家族の友人であるエマーソン、ホーソーン、マーガレット・フラージュリア・ウォード・ハウなどの作家や教育者からいくつかの指導を受けている。

コンコードでオルコットは、自分の作品を姉妹で演劇を上演したり、エマーソン家でダンテシェイクスピアコールリッジの作品に親しんだ[65]。ここでの暮らしが少女時代で最も幸福な時期だったとしており、ヒルサイドでの経験が部分的に『若草物語』に取り入れられた[61][17]

12歳の時には、母の友人であったリディア・マリア・チャイルドの古代ギリシャを舞台とする『フィロシア』(1836年)を読んだ[66]。本書は作者が「自由奔放な想像力を展開した作品」と語るように、ファンタジックでロマンチックなシーンが印象的な小説で、少女時代のオルコットは本書の悪女キャラクターのアスパジアを気に入り、この作品を芝居にしてアスパジアを演じていたという[66]

1847年に一家は、奴隷解放に取り組む秘密組織「地下鉄道」の隠れ家を引き受けて逃亡奴隷を1週間匿い、アフリカ系アメリカ人の奴隷廃止論者フレデリック・ダグラスと議論した[58]

ボストン

アッバはヒルサイドで人に部屋を貸したり勉強を教えたりしてお金を稼いでいたが、再び借金が膨らんで転居を余儀なくされ、オルコット家は1848年にボストンに転居した[65][67]。アッバはユニテリアン教会の「貧しい人々への宣教師(貧民救済使節)」となり、アメリカで初めてのソーシャルワーカー(民生委員)として働き、若い女性が就職するのを助ける組織を運営した[68][17][67]。アッバの福祉の仕事は、家族に自分たちより恵まれない人々への思いやりの気持ちを育てたが、同時にオルコットは、ボストンの裕福な人々、贅沢な品物が売られる商店街と接することで、「目の前のすばらしいものを何も買えない」もどかしい気持ちにを味わい、それを長く忘れることはなかった[68]

オルコットは若い頃から、成人の黒人への読み書き教育、裕福な家の娘の話し相手、メイド、お針子、家庭教師、女優、作家等、売春以外の女性が就けるあらゆる仕事をし、彼女の姉妹もまた、母親がアイルランド移民の間で社会福祉を引き受けている間、お針子や家政婦として働いて家族を支えた。オルコットが仕事で体験した不条理や差別は、のちに『仕事―経験物語』という作品に反映された[63]。オルコットは、低賃金、劣悪な環境、そして幼少期の栄養失調などの影響で体を壊していった[34]。父ブロンソンは、オルコットが作家として成功し有名になるまで、西部で哲学的座談会、講演を行い、ほとんどお金を稼ぐことはなかった[67]。最年少のメイだけが公立学校に通うことができており、これらすべての重圧により、執筆はオルコットにとって創造的で感情的な捌け口となっていた[36]。オルコットは「オリーブの葉」という家族新聞を発行し、「荒野の娘の誓い」「盗賊の花嫁」「カスティリャのとりこ」などの劇を書き、姉妹で上演した[68]。オルコットは作家を夢見るだけでなく、姉アンナと共に女優になることも目指していた[68]

1848年、オルコットは女性の権利のために開かれたセネカフォールズ大会英語版で女性解放論者によって起草された「所感の宣言英語版」を読んで賞賛し、女性参政権を擁護した。オルコットは、マサチューセッツ州コンコードの教育委員会選挙で、女性として初めて投票登録を行った[69]

1949年に、イギリスのジェントリー階級のある家庭を舞台に階級差のある恋愛を描いた恋愛小説『相続』を若干17歳で執筆した[70][71]。(死後発見された原稿には「わたしの最初の小説」というメモが残されており、1997年に出版された[71]。)

1850年代はオルコット家にとって困難な時期であった。1950年には、外国から逃げてきた男が庭に逃げ込み、この男は天然痘に罹っていたため、一家で天然痘に罹患しているが、貧しさから医者を呼ぶことができなかった[32][72]。オルコットは姉アンナが開校した小さな学校で教鞭を取ったが、この学校はオルコットの心に染まないものだった[73]。またこの時期、隣人だったナサニエル・ホーソーンの『緋文字』を読んだ[72][74]。1951年には「ピーターソン・マガジン」にフローラ・フェアフィールド名義で初めて「日光」という詩が掲載された[72]。とある家庭の使用人となるが、ひどい扱いを受け1か月で辞めている[72]。1852年には、短編「恋敵の画家たち―ローマの物語」を家庭新聞「オリーブ・ブランチ」に初めて掲載した[75]。1853年、母アッバはマサチューセッツ州憲法を改正し女性に政治的権利を与えるよう求める嘆願書を書いている[67]

『花のおとぎ話』口絵

1854年にオルコットはボストン劇場で慰めを見いだして、役をめぐって二人の女優がしのぎを削るという短編「競い合うプリマドンナ」(The Rival Prima Donnas)を書いたが、誰がどの役をやるかで女優たちが喧嘩になり、後に燃やしてしまったという。彼女の最初の本は、ラルフ・ワルド・エマーソンの娘であるエレン・エマーソンのために書かれた妖精物語のセレクションである『花のおとぎ話』(Flower Fables、1854年)である[75]

ボストンでの暮らしは生活費がかさみ、1855年、オルコット家はニューハンプシャー州ウォルポールに一時的に引っ越した。ウォルポールでの生活はオルコットには退屈で息苦しい面があり、自立を目指してボストンに出て[13]、1956年には針仕事や家庭教師で家計を助けながら、詩や短編が新聞や雑誌に掲載されるようになった[76]。これ以降、家族と一緒に暮らす時期と、ボストンでの自活を交互に繰り返して生活するようになった[68]

オルコット(1857年、20歳)

オーチャード・ハウス

1856年に妹のエリザベスとメイが猩紅熱に罹患した[13]。ウォルポールの人々からの支援がなくなり、オルコット家は1857年に再びコンコードに戻り、ブロンソンは一家が以前住んでいたヒルサイド・ハウスのすぐ近くにある2階建ての下見板張りの農家だったボロ家オーチャード・ハウスを選び、エマーソンや友人たちの援助もあり購入し、一家は1858年の春に引っ越した[13]

エリザベスの健康は回復せず、この頃のオルコットは仕事を見つけることができず、絶望に満ちて自殺を考えるまでに追い詰められた。その当時に、彼女はエリザベス・ギャスケルのシャーロット・ブロンテの伝記を読み、彼女自身の人生と多くの類似点を見つけた[77][78]。オルコットは、後に自らスリラー小説と呼ぶような小説を次々に書いていったが、これはエリザベスと自身の治療費のために多くのお金が必要だったことが理由にあるといわれる[79]

妹メイによるオーチャードハウスの水彩画

1858年、エリザベスは猩紅熱の影響で、消耗性疾患で23歳で死去した。姉のアンナは、ボストン郊外にあった超絶主義者の共同体ブルック農場に参加していたジョン・プラットという男と結婚した(『若草物語』のメグの夫の名はこの農場からとられている)[80]。これはオルコットにとって、姉妹関係の断絶のように感じられた[36]。オルコットは娘2人を死と結婚で失った母アッバを慰めるために、ボストンから実家に戻った[13]。一家はここに20年定住した[27]

ブロンソンはオーチャード・ハウスを、斬新で構造にも優れ、文学的趣味を反映した見事な家に改築して評判になり、一目置かれるようになった[81]。誰でも暖かく受け入れる家として有名になり、姉妹は毎週月曜に家を開放して劇を上演し、アッバは客にお菓子をふるまい、ブロンソンは人を捉まえては哲学の話をしていた[81]。ブロンソンは徐々に教育者としも認められ、1960年には、60歳でコンコードの学校教育長になり、給料はわずかであったが、その教育理念を実現できるようになった[82][83]。芸術教育、野外活動、体育、自然観察、学校新聞、写真の勉強、音楽、ダンスなどが行われ、コンコードの学校全てを訪問して人気者になった[83]

青年期~文学的な成功

オルコットは若い頃から奴隷制度廃止論者であったが、成長して活動に参加し、フェミニストとして女性の権利のためにも活動した。1860年に一流文芸誌の「アトランティック・マンスリー英語版」に「愛と自己愛」(Love and Self-Love)が掲載され、本誌に寄稿をするようになった。南北戦争が勃発した時はワシントンDCのジョージタウンにあるユニオン病院で、1862年~1863年、6週間看護師として働いている[84]。彼女は看護師として3ヶ月間奉仕するつもりだったが、途中で腸チフスにかかり瀕死の症状を経験した。水銀により治療を受け、回復してからも、水銀治療の後遺症が痛みや衰弱、幻覚などを引き起こし、元の健康な体に戻ることはなかった[85][13]。オルコットがこの苦しみから逃れようと、薬物を使ったことが分かっている[79]

「病院のスケッチ」挿絵。オルコットが世話をした兵士。彼女に手を取られて息を引き取った。[86]

ワシントンの軍病院から母や妹たちに送った手紙は、ボストンの奴隷制反対紙「コモンウェルス」に、名前などを少し変え再構成し掲載され、『病院のスケッチ』(1863、1869年に追加で再公開)[84]として著作に収められた。出会った勇敢な兵士たちの生き生きした描写や、ユーモアと思いやりにあふれた筆致は好評を博し、彼女の観察力とユーモアが初めて世間に知られるようになった[87][86]。これはオルコット名義の最初の本であり、彼女はこの本で自分の文章のスタイルが決まったと言っている[88][86]

看護師としての奉仕の後、父ブロンソンは彼女に「ルイーザ・メイ・オルコットへ。父親から」という心からの詩を書いており[89]、オルコットが看護師として働き、負傷した兵士を助け、オルコット家に喜びと愛をもたらしたことをどれほど誇りに思っているかを語った。そして、無私の忠実な娘である彼女のことが心の中にあると伝え、詩を締めくくっている。(この詩は、『ルイーザ・メイ・オルコット:彼女の人生、手紙、日記』(1889年)と、彼女の子供時代と父親との親密な関係について語っている『ルイーザ・メイ・オルコット、こどもたちの友人』に取り上げられている。[90]

1863年には「アトランティック・マンスリー」に、白人士官と逃亡奴隷の憎みあう腹違いの兄弟と、そのいさかいに巻き込まれ言葉の力で復讐殺人を思いとどまらせる看護師の女性の物語を描いた「わたしの逃亡奴隷兵」を発表した[91]

『気まぐれ』挿絵

また、自身の経験に基づく小説『気まぐれ(Moods)』を4年もかけて推敲を重ねて完成させ、1864年に発表し、前途有望な結果を残した[92]

「フランク・レスリー挿絵入り新聞」掲載「謎」挿絵

1863年から1872年の間に、オルコットは、「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン英語版」などの人気のある雑誌や論文に、少なくとも33編の「ゴシックスリラー」を匿名で書いた。1860年代半ばに、彼女は英語の作家ウィルキー・コリンズメアリー・エリザベス・ブラッドン英語版の作品にも似た、情熱的で、燃えるような小説や扇情小説英語版をA・M・バーナードという筆名で執筆した。

1865年に探偵小説「V.V.-あるいは策略には策略を」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。A・M・バーナード名義のスリラー小説「大理石の女、あるいは神秘的なモデル」も掲載された。ウィリアム・F・ウォルドの病弱な娘の介護人兼付き添いとしてヨーロッパ旅行に同行し、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダ、スイス、フランスを回った。彼女は家族の束縛から離れて自由になり、新し友人を作って旅行を満喫し、スイスで若いポーランド人男性のラディラス・ヴィシニェフスキと出会って親しくなり、英語とフランス語を交換で教え合った[93][94][86]

オルコット

1年のヨーロッパ旅行から帰国し、家計が思わしくないことを知る[95]。長編小説「現代のメフィストフェレス」を執筆するが、センセーショナルすぎると出版を断られる[95]。A・M・バーナード名義のスリラー小説「仮面の陰に あるいは女の力」を掲載し、他にも懸命に執筆に取り組んだ[95]。1967年にA・M・バーナード名義のスリラー小説「修道院長の幽霊―あるいはモーリス・トレハーンの誘惑」が「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された[95]。男性が主人公のスリラー小説「不思議な鍵」(1867年)年がオルコット名義で出版された[11]

ホラス・フラーの依頼で雑誌「メリーズ・ミュージアム」の編集者になり、年俸500ドルの固定の収入を得るようになり、ここでロバーツ・ブラザーズ英語版社のトーマス・ナイルズに出会った[96]。ナイルズは『病院のスケッチ』を高く評価しており、彼女に女の子向けの本を作ること、その第一部の執筆を依頼した[97][8]。オルコットは日記に「女の子が好きではないし、(姉妹以外に)知っている女の子も少ない」と書いており、この時は少女向けの本を書くのに自分は向いていないと感じていた[8]

オルコットは1868年に『若草物語』(Little Women)の執筆を開始し、9月に出版され、それまで以上の文学的成功を勝ち取った。この作品は、コンコードで彼女が姉妹たちと過ごした子ども時代を基にした半ば自叙伝的な物語で、ロバーツ・ブラザーズ社から出版された。挿絵は妹のメイが担当したが、後に物語に合わないとして差し替えられた[98][96]

『若草物語』は好評を博し、批評家や読者に、日常生活の新鮮で自然な描写が広い年齢層に合うと受け入れられた。道徳的ではあるが、当時の家庭小説特有の説教臭い文体はなく[13]、リアルな少女の日常が描かれた本書は読者に好評を得て大ヒットとなり、2週間で2000部が売り切れ、出版社はオルコットに続きの執筆を依頼した[8][99]。第2部が刊行されると、印税で家の借金をすべて返済した[100]。第1部と第2部がまとめられて、現在の1冊の本になっている[8]。『若草物語』の成功で、世間の目を避けるために、ファンが彼女の家に押しかけてくると時々家の召使いのふりをすることもあった[101]。初期のパパラッチとも言える新聞記者や挿絵画家たちも、この有名な作家の姿を一目見ようと家の近くに現れ、体調の優れないオルコットを困らせ、気が散って執筆が進まないこともあった[102]。オルコットは名声を嫌ったが、著名な作家という役割は生涯彼女に付きまとった[101]

『花ざかりのローズ』口絵

子ども向けの物語で人気が出て以降は、生活費のためにセンセーショナルな小説を書く必要もなくなり、あまり大人向けの作品を執筆することはなかった。もっと本格的な大人向けの作品を書きたいと望んでいたが、彼女の筆には家族の生活が懸かっており、実現しなかった[27]。作家業が安定してからは、子供のころから願っていたように母アッバに落ち着いた平和な暮らしをさせることができ[85]、父ブロンソンは、好きなだけ哲学を研究したり論文を書いたりして過ごした[103]

オルコットは、エリザベス・ストッダード英語版レベッカ・ハーディング・デイビス英語版アン・モンキュア・クレーン英語版らと共に、金ぴか時代の女流作家グループの1人で、女性の問題を現代的かつ率直に取り上げた。彼女たちの作品は、当時の新聞コラムニストが「決定的な『時代のしるし』のひとつ」と評したように、その時代を感じさせるものであった[104]

後年

『ジョーおばさんのお話かご』挿絵
オルコット(1881年)

1872年の日記に、「20年前、私はできることなら一家を、他に頼らず自立していられるようにしようと決心した。借金はすべて返した。非合法な借金も含めて。健康は損なわれたかもしれない。でも、まだ生きているのだから、もっとやるべきことがあるはずだ」と書いていた[27]。1877年、母が死去し、オルコットはボストンの女性教育産業連合の創設者の1人になった。[105]。同年、作家名を明らかにしない匿名シリーズで、ゴシック・スリラー『現代のメフィストフェレス』を出版した[11]。その際に、「子供だましの訓話には飽きあきしていたので、今度の作品は楽しかった」と語っている[11]

1878年には、オルコットの資金援助で外国で絵の勉強をしていた、姉妹の中でも特に仲の良かった妹のメイから、スイス人男性と結婚したという知らせが届いた[106]。1879年に、娘を出産したメイが産後6週間で死去し[106]、オルコットはメイの娘ルイーザこと小さな「ルル」を引き取り、その後の8年間はルルの世話をしている[107]。オルコットはルルの成長を喜び、姪の話を本として出版した[27]

1879年に父ブロンソンのために家の隣に小屋を建ててやり、父はそこでコンコード哲学学校という哲学セミナーをすることを余生の楽しみにした[103]

1879年、オルコットは女性の投票権を求めるコンコードの女性たちの活動に参加し、条件付きではあるが投票権が認められ、初めて選挙権を行使した[8]

オルコットの墓

元々幼少期の栄養失調もあり健康ではなかったが、特に南北戦争に参加して以降、めまいなどの慢性的な健康問題に苦しんだ[108][109]。 南北戦争中に腸チフスに罹り、水銀を含む化合物で治療を受けており[110][108]、彼女と彼女の初期の伝記作家[111]は、彼女の病気と死は水銀中毒のせいであると結論付けた。(水銀は自己免疫疾患の引き金としても知られており、最近の分析は、彼女の慢性的な健康問題は自己免疫疾患に関連している可能性があることを示唆している。オルコットの1870年の肖像画は、彼女の頬を横切って鼻にかけて赤い紅斑、おそらく「蝶の発疹」(蝶形紅斑)があるように見える。これは、しばしば狼瘡(lupus)、今で言う全身性エリテマトーデスの特徴とされるものである。[108][111]なお、診断に使えるようなはっきりした証拠があるわけではない。

1888年に3月に入ると父ブロンソンの衰弱がみられるようになり、オルコットは父の見舞い行き、「わたしは上(天国)に行く」「一緒に行こう」と言われ、「ああ、そうできたらいいのに」と答えた[27]。そして見舞いの帰りに悪寒を覚えて倒れ、1888年3月6日ボストンで、55歳で脳卒中で亡くなった[109] 。「髄膜炎じゃなかった?」が最後の言葉として知られる[112]。彼女の死は父親の死から2日後だったが、オルコットが父の死を知ることはなかったという[113]。人々は「ブロンソンは天国でも彼女を必要として連れて行った」と言った[114]

彼女はコンコードにある「オーサーズリッジ」として知られる丘の中腹にあるスリーピーホロー墓地の、エマーソン、ホーソーン、ソローの近くに埋葬されており[115]、彼女の墓には南北戦争の退役軍人の標識が立っている[27]

ルイーザ・メイ・オルコット記念切手、1940年

オルコットが亡くなった際、姪のルルはまだ8歳で、姉のアンナ・オルコット・プラットによって世話をされ、その後ヨーロッパで父親と再会し、1976年に亡くなるまで海外に住んだ。

レガシー

オルコットは長い散歩やランニングをしていることを日記に頻繁に書いており、彼女は若い女性の読者にも走ることを奨励することによって、ジェンダーに関する一般的な社会的規範に挑戦した。[116][117]

オルコット一家が25年間暮らしたマサチューセッツ州コンコードの家、オーチャード・ハウス(1650年頃)は、1868年に『若草物語』が執筆され舞台となった場所だが、1912年から歴史的家屋博物館として公教育と歴史保存に力を注ぎ、オルコット一家に敬意を示す活動を行っている。彼女のボストンの家は、ボストン女性の歴史的遺産トレイルのコースに加えられている[118]。その人気から、映画の舞台として使われるオーチャード・ハウスは観光客が多く、オルコットはコンコードの観光業の柱となっている[119]

死後

1888年のエドナ・チェイニィの伝記には『ルイザ・メイ・オルコット 子供の友』というタイトルが付けられており、オルコットは「子供の友」といえる子供向け物語作家というイメージが一般的だった[10]

1943年に、オルコット関連の資料を調査していたレオナ・ロステンバーグとマデレイン・B・スターンが、オルコットが扇情小説を執筆していたことを示す編集者の手紙を発見し、これを契機に扇情小説作家、スリラー小説作家として彼女が執筆した作品名、掲載誌、A・M・バーナードという男性を思わせる筆名が明らかになった[10]。1975年から『仮面の陰に―ルイザ・メイ・オルコットの知られざる恐怖小説』等の出版が始まり、A・M・バーナード名義の作品や扇情小説が再発見されていき、1990年代末まで「本当のオルコット」の全体像解明のために、著作の掘り起こし作業が続けられた[120][121]

オルコットが1866年に執筆した扇情小説『愛の果ての物語(A Long Fatal Love Chase)』が1995年にようやく出版され、ベストセラーとなった[8]。この、ストーリーの最初でヒロインが悪魔と契約を交わす愛と執着の物語によって、オルコットの作家としてのもう一つの側面が広く知られるようになった[8]

ハリエット・レイセン(Harriet Reisen)は、『Louisa May Alcott: The Woman Behind "Little Women,"(ルイーザ・メイ・オルコット:『若草物語』の背後にいる女性)』を書いた。これは後にナンシー・ポーター(Nancy Porter)監督のPBSドキュメンタリーとなった。ジョン・マットソン(John Matteson)は2008年に、ブロンソンの事業失敗による一家の困窮や苦悩を中心に、オルコットと父の葛藤を含めた屈折した父娘関係を描いた『Edenʼs Outcasts: The Story of Louisa May Alcott and Her Father(エデンの追放者:ルイザ・メイ・オルコットと彼女の父)』を執筆し、ピューリッツァー賞の伝記部門に輝いた[56]。また、フルートランズ成立の経緯の資料と当時のオルコットの日記を含む『Bronson Alcottʼs Fruitlands(ブロンソンン・オルコットのフルートランズ)」が出版され、過酷な経験に苦しんだ少女時代の生の声が読まれるようになった[56]

ルイーザ・メイ・オルコットは、1996年にアメリカ女性殿堂入りをした[122]

2020年にはグレタ・ガーウィグ監督の映画「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」が公開され、アカデミー賞6部門にノミネートされるなど話題となり、「『女子は家庭におさまるべし』という、ジェンダーにまつわる固定観念に一石を投じる先駆的な小説」(斎藤)、「『女性の仕事』『結婚と経済」』という現代女性が抱えるテーマに正面から斬り込む内容」(谷口)等と、『若草物語』とオルコットへの注目が再び集まった[123][124]

人物

作風についての言及

作家のラサール・コルベル・ピケットが知己の著名人のついての回想録『わたしの道を横切って-知り合えた人々との思い出』で、オルコットとの思い出を語っている。オルコットとの会話で、『若草物語』に見られる生き生きした自然な描写がオルコットの作家としての真のスタイルなのですね、とビケットがいうと、オルコットはこう返したという。[125]

「そうともいえないのよ」と彼女は答えた。「わたしが生まれつき心を駆り立てられるのは、ぞっとするようなスタイルなの。目も醒めるような空想にふけりながら、原稿にそれを書いて出版したいなぁ、なんて思うのよ」
「そうなさればいいのに」とわたし〔ビケット〕は言った。「そうなさりたいなら、派手やかな物語をお書きになっていけない理由はないように思われますわ。」
「昔からよく知るコンコードの、折り目のついた陽気さを台無しにするなんてできないわ…それにわたしの善良な父がどう思うことか。〔…〕だめね、私はいつだってコンコードのお行儀のよい伝統の犠牲者なのでしょうね」

生前の評価・作家としての自己評価

ノースカロライナ大学ダニエル・シーリーは「彼女は常に偉大な小説を書くことを熱望し、自分が成功したとは思っていなかった」と述べており、作家としての自分に満足していなかった[8]。父やエマーソンの超越主義は、人間の「善性」すなわち「徳性」を信じることで成り立っており、超越主義者たちは人間解放を標榜してはいたが、女性の解放は考えておらず、「女性の徳性」を賞賛し逸脱を認めず、女性に対して保守的であった[126]。オルコットはエマーソンやボストンの文芸界に認められたいと願ったが叶わず、彼女に経済的成功をもたらした作品が『若草物語』シリーズであることを悔しく思い、すでに『若草物語』という名作を書いているにもかかわらず、いつか素晴らしい作品を書ければと語っていた[34]

結婚・セクシュアリティ

オルコットは仕事をして自立して生きることを好んでおり、常々「自分の力で生きていく」のが性に合っていると語っていた[127]

『若草物語』で、オルコットは自身を基にして主人公のジョーを描いており、ジョーを自分と同じように独身にしたいと考えていたが、出版社や読者は金持ちのローリー・ローレンスと結婚することを強く望んでいた[8]。オルコットは第2部で結婚は譲歩したものの、ジョーとローリーの「対等な男女の友達」という関係は変えず、ローリーは妹のエイミーと結婚し、ジョーは年上のベア教授と結婚する展開とした[8][124]。結婚したジョーに対して、オルコットは生涯を通して独身のままであった。オルコットが結婚生活に否定的だったのには、経済的な問題に苦しむ両親の困難な結婚生活も影響しているかもしれない[8]

彼女は、ルイーズ・チャンドラーモールトンとのインタビューで、自分の未婚の理由をこう説明している。「私は、自然のいたずらで女性の体に、男性の心が入ってしまっているみたいなものだと、自分では半ば納得しているのです。....というのも、私は多くのかわいい女の子は好きになったことがあるのに、男性とはこれまで一度もそんなことはなかったので。」[128][129] しかし、ヨーロッパ滞在中、若いポーランド人男性のラディラス「ラディー」ヴィシニェフスキとのロマンスはオルコットの日記に詳述されており、死の前にオルコット自身によって削除された。[130][110] このラディーは『若草物語』のローリーのモデルの一人といわれ[94]、オルコット自身、ラディーをローリーのモデルとして挙げている[131]

少女時代には、エマーソンにあこがれて年若い恋人になる空想をしており、「エマーソンは生きているかぎり、わたしにとって"あの方"だった。彼が考えている以上に、私にいろいろなものを与えてくれた人だった。その簡素な美に満ちた生活、本に著された真実と知恵・・・。」とも書いている[64]。また、ウィリアム・T・アンダーソンは、ソローにほのかな思いを抱いていたと述べている[86]

オルコットが同性愛者であったという証拠はなく、女性への手紙に男性への手紙よりも性的な意味で親密なものはなかった[34]。オルコットは、自身のプライバシーに関わると思われる手紙をたくさん燃やしており、事実は今のところ不明である[34]

家族関係

アッバは忍耐強い聖人のような印象が強いが、その結婚生活は飢えや寒さにも苦しむ過酷なものであり、気分の浮き沈みが激しく短気なところもあった[34]。アッバはそんな自分の性格を認めて、それを浄化し、成長しようと試みていた[55]。先進的な夫に対する母アッバの愛は、平穏な時も嵐の時も家族の大黒柱のようなものであり、彼女は家族を養うことができない夫にしばしば不満を抱きながらも、たとえ世間に受け入れられなくても、夫とその理想を信じていた[26]

オルコットの伝記の著者ハリエット・レイセンは、アッバが夫の理想を支持したのは、彼と結婚して一緒にいることを選択した自分自身を守るためでもあったと述べている[34]。吉田とよ子は、アッバが不平を言うこともなく経済的困難を一身に背負ったのは、家族を理想で振り回し、後に家族を養う責任を放棄したブロンソンが結婚の失敗者だと認めれば、彼との結婚を選んだ自分も失敗者になり、結婚に反対していた実家に対しても、結婚の失敗を見せることができなかったからで、オルコットだけは「プライドをかけた母の必死の戦い」を見抜いていたと解説している[132]

アッバは、夫が自分の犠牲と献身をわかっていないことに憤り、それを男女の不平等というより大きな問題と関係あるものと考えた。彼女はこの問題認識と、女性に対する過ちを正したいという思いをオルコットに伝えている。アッバは、結婚というものが女性自身を傷つけるもので、危険なものであるとさえ考えており、娘たちに自活の大切さを教え、女性が男性と同じように家庭とキャリアの両方を楽しむことができる日を夢見た[18]

アッバは福祉関係の仕事についたり、親戚に借金をしたりと、経済的に苦労を重ね、オルコットはそんな母の姿を見て育った[133]。オルコットは姉妹の中で一番母アッバに似ていたといわれ、姉妹の誰より家族に献身的で、父母のために心を砕いた[45]。父ブロンソンはオルコット家の苦労の原因と言えるが、オルコットは父を聖人ぶった気取った人間だとは見ておらず、エマーソンやソローが彼の知性を高く評価していることに共感していた[34]。父が子供たちに深い関心と敬意、愛情を注いでいると感じており、父を無力な存在だと思ってはいたが、メディアの根拠のない父への風評には惑わされず、怠け者でも、思いやりのない人でもないと考えていた[34]

オルコットは、父ブロンソンの教えである自己否定の道徳を内面化しようと努力し続けたが、彼女の生来の性格のためだけでなく、父の社会性も経済観念もないある種異様な性格のために、「こんな家に生まれなくてよかった」と伝記作家の誰もが思うような、非常な困難を伴うものとなった[134]。父が満たすことのできない心を埋めるように、父に性格や思想は似ているが、父よりも優れた人物に惹かれていたようである[134]

教育者を自負していたブロンソンにとって、学校の生徒がいなくなっても、4人の娘たちは決して失うことのない生徒だった。エレン・ショワルターは「ルイザの少女時代、両親のあいだには子供たちの心を支配する権威者となり、彼女らの忠誠心を勝ち取ろうとする競争があった……。アンナは弱弱しく父の手に落ちた。しかしルイザは母のお気に入りとなって、父に抵抗した」と、父が暗に娘たちを操ろうとしていることにオルコットが気づき、ひそかに反抗していたと述べている[135]

オルコットの作品に父への反抗心を見る意見もある。『若草物語』の翌年の1869年にA・M・バーナード名義で、父のいかさま賭博の片棒を担がされて死ぬ娘の物語「扇の運命」(Fate in a Fan)を発表しているが、オルコット研究者は、ひそかな父への反抗を示す作品と見なしている[136]

オルコットは姉妹の中で、また家族の中で主導権を握ることに執心し、同時に家族に尽くし、裕福になると両親・家族間の決め事も取り仕切るようになった[34]。三女が亡くなると家政婦となり、稼ぎ手となり、長女の夫が亡くなると父親代わりとなり、母が亡くなると父の介護を行い、四女が亡くなると姪の母親代わりになり、家族の隙間を埋め続けた[34]。自分の運命は「空っぽの隙間」を埋めることだと語っている[34]

作品

オルコットは親しみやすい色彩豊かな女性キャラクターを生み出し、教育を受けた強いヒロイン像は、アメリカ文学に大きな影響を与えた[137]。20世紀前半には、家庭生活・少女小説として書かれたオルコットの作品は、ジャンルへのレッテルから、しばしば教訓的で中身がないものとして否定され、彼女の作品は道徳的な高慢さや慎重さを指す略語として使われるようになっていた[138]。また、作品における奴隷制度への反対、女性参政権、人種平等などへの政治的言及は、近代主義者によって芸術性に欠けると考えられ、低く評価されてきた[138]。しかし、フェミニスト批評の発展とともに、この30年間、オルコットに対する真剣な批評的関心が高まっている[138]

オルコットの作品は少女小説、ジュブナイル小説、スリラー小説といったジャンル小説として、本格的な文学史議論、アメリカの近代リアリズム小説の誕生の研究からは無視されてきたが、近代小説の成立の過渡期にあたる作品であり、アメリカ文学者の平石貴樹は、『Moods(気まぐれ)』においてひとまず、「近代小説はやや特殊な形で成立した、とみることも可能であるだろう」と評価している[139]。本作の主題は道徳であり、この「情熱ではなく徳義」という自己否定的主張は、ブロンソンを父とするオルコットにとって、幼少期から極めて重要で切実な問題であるため、前近代的テーマの小説のようにも見えるが、彼女の個人主義的な主題の追求となっているともいえる[140]。平石貴樹は「オールコットの個人的、伝記的な要因を率直に反映しながら、彼女の苦心の自己表現として書かれた、その意味では個人主義的な、一人前の近代小説であることは、最終的には否定できないだろう。」「オールコットは逆説的なことに、自己否定の願望を自己表現しようとする作家だった。これが、彼女が(近代小説への)過渡期的な作家であることの深層の意味であり…彼女が『気まぐれ』を、「書かないわけにはいかなかった」理由、第二版まで二十年以上にわたって抱え込んでいた理由だったとも考えられる。」と分析している[141]

オルコットは父ブロンソンの意に適う娘、エマソンやソローの教えを受けた、従順で道徳的な娘であり、そうあろうとし、そうした女性でありたかった[142]。父の教えである自己否定の道徳の重要性を小説に書き、『若草物語』のジョーのように、反抗しながら、なかなか自己否定の道徳を内面化できない心の過程が面白い作品を生んだが、最後にはヒロインは従順であり、道徳の内面化を踏み越えて自己解放に向かうといった発想はなく、あくまで道徳の獲得への努力について書いた[142]。スリラー小説は勧善懲悪で、道徳の約束事が保証されたジャンルであり、そこで道徳に縛られない悪人を自由に描くことは、オルコットにとって発散になっていた[142]

オルコットはA・M・バーナード名義や匿名を中心に、男女間の性的情熱やロマンチックな愛を説得力を持って書き、また、麻薬、犯罪、スパイ活動、異なる人種間の結婚、革命、結婚生活における権力闘争など、彼女の少女向け小説からは想像できないようなことが書かれている[34]。これらの中には、『愛の果ての物語』(当時は出版されず)や『ポーリーンの激情と罰』があり[143]、一部は邦訳されている。彼女のこれらの扇情小説の主人公は、コリンズやブラッドン(フェミニストの登場人物も書いている)の本のように、強く、賢く、そして毅然としている。女らしさを自分の利益のために利用することを辞さない強い女性キャラクターを創り出し、その登場人物の多くは、ルールを破り、社会が与えた役割にうまく合致しない人たちだった。オルコットのテーマは、女性の権利や階級的不平等など、当時注目されていた問題に触れることが多かった。彼女の作品の中には、女装した人が登場するものもあった[144]

当時出版社は女性の作家には男性の作家とは別の役割を期待しており、もし女性として本名でこれらの作品を出版すれば、おそらくオルコットの人間性は疑われたと思われる[144]。センセーショナルな小説全てでオルコット名義が避けられたわけではなく、男性主人公ではなく、情熱的で怒りに満ちた女性が描かれるときに、匿名または筆名を使っていた可能性が指摘されている[11]

平石貴樹は、オルコットのスリラー小説発掘の時期がちょうどフェミニスト批評が盛り上がった時期であったことから、オルコットの実情以上にフェミニズムの視点での批評がなされ、彼女をフェミニストとして一面的に評価し(その結果、しばしば『若草物語』の保守的な物語の展開に失望する)という流れが生じたことを指摘している[145]。アルフレッド・ハベガー(Alfred Habegger)は「オールコットが筆名で書いたスリラー小説に関してショッキングなのは、筆者がラディカルな生まれと育ちで、男女平等を主張していたにもかかわらず、いかにそれらの作品が男性の優位や支配を受け入れているか、程度の差こそあれ政治的に反動ではあるか、という点にこそあるのだ」と評しており、平石は、これが「最終的には妥当な判断であるようにも思われる。」と述べている[145]。オルコットは最初ジュブナイル小説家として、のちにフェミニズム小説家として扱われたが、そうした特定の切り口から離れ、フェミニスト的側面と政治的反動のバランスも含めた、彼女のスリラー小説全体が「どのような内的動機を抱えていたのか」の綿密な検討作業はまだ十分行われていない[145]

Moods

Moods(気まぐれ)』は、オルコットが真剣に書き、愛着を持っていた特別な作品であり、経済的理由ではなく、内発的な理由によって執筆された作品であると考えられ、第二版の序文で「その後のどんな作品にもない愛と苦心と熱狂がこの本には込められた」と語っている[146]。初版と約20年後の第二版で大幅な変更が行われた。現在では両方の版が出版されている[146](邦訳なし)。タイトルはエマソンのエッセイ「経験」から取られた[147]

『若草物語』のマーチ家のジョーにも似た活発な少女シルヴィアは、野性的で夢想的なアダム・ウォリックに恋する[148]。(ウォリックのモデルは、ソローであると言われる[147]。)シルヴィアはウォリックへの恋を叶わぬものとあきらめ、彼女に求婚したウォリックの親友で温和なジェフリー・ムアと結婚する(ムアの一面は、エマーソンがモデルとされれていると言われる)[148][134]。その後久しぶりに再会したウォリックに、かつて自分もシルヴィアを愛していたが、ムアのために身を引いたと告げられ、ウォリックへの恋が再熱し、ムアへの愛が友愛以上でなかったことに気が付き、苦しむ[148]。ムアは沈み込むシルヴィアを問い詰め、彼女はウォリックへの愛ゆえに苦しんでいることを告白する。ムアのシルヴィアへの愛は変わらないが、一時的に二人は別居する[148]

シルヴィアは信頼する年長の友人フェイス(「私の逃亡奴隷兵」の語り手と同じ人物)に、結婚するならロマンティックで観念的なウォリックより、安定したムアの方が望ましいと忠告される[148][149]。ウォリックとムアはヨーロッパへの旅で友情の危機を乗り越えるが、帰路の事故でウォリックは死に、ムアだけがシルヴィアの元に戻る[148]

初版では、シルヴィアは帰ってきたムアを心から受け入れることができず、苦しみ、衰弱して死んでしまう[148]。第二版では、さらにフェイスとの道徳的な対話が行われ、シルヴィアは自分の情熱的な気質、「気まぐれ」を戒めて、「徳義」に従い、義務に従ったムアとの平和な暮らしを望むようになり、帰ってきたムアを受け入れハッピーエンドになる[148]

初版の出版当時、一般の読者から出版社に、妻となった後に夫以外への愛に目覚めるヒロインは不謹慎、不道徳だという非難が多く寄せられたが、このエピソードは、本作の時代に先駆けた近代性を示唆しているともいえる[150]。平石貴樹によると、雑誌等に掲載された書評はおおむね好意的だった[150]。雑誌「ハーパーズ」の書評では、「高潔な人物像の中で相克する情熱を、非常に繊細にまた巧妙に描いた」作品であり、「ホーソーンの作品以外にこれほど強力な愛の物語を思い出せない」と称賛された[139]。この書評の筆者が、本作においてアメリカ特有のロマンス的なリアリズム小説が成立していると考えていたことがうかがえる[139]。しかし、その後の『若草物語』の爆発的な成功で、『気まぐれ』の功績は忘れられてしまった[139]

フェイスの思想に注目し、本作を「超絶主義的小説」と形容して評価する書評もあった[147]

例外的な酷評が、まだ作家として本格的にデビューしていない若いヘンリー・ジェイムズであり、オルコットは道徳や形而上学を尊重しているが、それらはリアリズムと両立しないと判断し、厳しく批判した。彼は女性作家に対して否定的で、多くの女性作家は共通の特徴(=欠陥)を持つと考えていたが、オルコットもそのひとりとして扱い、女性作家は一般に現実を知らない、リアリズムを知らない、といった論調で本作を批評した[150]

病院のスケッチ

看護婦として南北戦争に従軍した経験に着想を得た作品である[88]。彼女は、病院の管理ミス、遭遇した外科医の無関心と冷淡さ、そして戦争を直接見たいという自身の情熱について書いている[151][36]

Pauline's Passion and Punishment

『Pauline's Passion and Punishment(ポーリーンの激情と罰)』は、扇情小説作家としての初作品であり[152]、南北戦争中に人気週刊新聞紙「フランク・レスリー挿絵入り新聞」の賞金100万ドルの短編小説に応募し賞金を勝ち取った作品で、恋人に裏切られたポーリーンが、自分を慕う年下の男性と共謀し復讐を企てる物語である[153]

V. V.: or, Plots and counterplots

V. V.: or, Plots and counterplots(V.V.-あるいは策略には策略を)』は、1865年に「ザ・フラッグ・オブ・アワー・ユニオン」に4回連載された。この短編小説は、謎の女性が彼の婚約者といとこを殺したことを証明しようとするスコットランドの貴族を主人公にしたものである。事件を担当する刑事、アントワーヌ・デュプレは、犯罪を解決することよりも、華々しい大団円で解決策を明らかにすることの方に関心があるポーデュパンのパロディーになっている[154]

キャサリン・ロス・ニッカーソンは本作について、オルコットはエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」や他のオーギュスト・デュパンの物語に次ぐアメリカ文学における探偵小説の最初期の作品の1つを作ったとして、その功績を評価した[154]

仮面の陰に あるいは女の力

A・M・バーナード名義の1868年のスリラー小説で、1970年代以降の発掘・復刊で注目を集めた代表作である[155]。すさまじい野心に燃える元女優のヒロインのジーンが玉の輿に乗るべく、美貌と演技力を武器に、年齢を偽って若い家庭教師としてイギリス貴族の館に入りむ[155]。彼女の真のターゲットが誰なのか、その野望は成就するのか、それとも秘められた過去が先に暴かれるのか、緊迫した心理ドラマを描いた[155]。物語やドラマの推進力はジーンの並外れた野心だが、その理由や、その野心に対する彼女の心の葛藤などは描かれず、スリラー小説というジャンル小説の枠に合った悪女として表現されている[155]

若草物語シリーズ

妹メイによる『若草物語』挿絵

『若草物語(Little Women)』は、コンコードでオルコットが姉妹たちと過ごした子ども時代を元にした、半ば自叙伝的な物語である。タイトルは、「小さなご婦人(Little Women)たちになるように」という父親の指導から来ている[156]。『若草物語』の執筆について、オルコットは「こつこつ書いてはいるけど、こういう作品は楽しくない」と日記に書いているが、その後「少女向けの生き生きした飾り気のない作品が大いに必要とされている」ので頑張ってみようと述べている[98]。完成しゲラを読んだ際に「案外いい作品だと思う。全然センセーショナルではなくて、素朴で真実味がある。なぜなら、私たちはそのほとんどを実際に体験したから」と語っている[11][8]

物語冒頭から父は南北戦争に従軍し不在であり、母の導きによって、父の希望どおり、家族や隣人たちとの交流の中で、姉妹がそれぞれ欠点を克服し、自らの生き方を探し、見極めようとする過程が描かれている[99]。姉妹と母、隣家のかなり女性的な感性を持つ男性たちとの交流のエピソードの連続で物語は進み、とりとめのないエピソードの連続のように見えるが、章のタイトルや姉妹の遊びは、本書がジョン・バンヤンの『天路歴程』に依拠していることを示している[99]

『若草物語』の第二部、別名「良き妻たち」(1869年)は、マーチ家の姉妹のお話に続いて成人期と結婚のエピソードに入っていく。『第三若草物語』(Little Men、1871年)は、『若草物語』の第二部の結末で、ジョーが夫のバール教授と設立したプラムフィールドスクールでの生活について詳しく物語る。最後に、『第四若草物語』(Jo's Boys、1886年)で若草物語シリーズ(マーチ一家のサーガ)を完成させた。

『若草物語』で、オルコットは自分の家族、母や姉妹のことをかなり忠実に描こうとしており、自身をもとにして主人公のジョーを描いた。同様に、若草物語のすべてのキャラクターはオルコットの生涯の人々とある程度類似している。ベスの死はリジーのことを反映しており、ジョーと末っ子エイミーとのライバル関係は、オルコットが時々メイとのライバル関係を感じていたためである[157][158]。一方、家庭において重要な存在であり南北戦争に参加したことのない父をあえて従軍中で不在にし、父の存在は物語の背景に退いている[99]。『若草物語』には19世紀アメリカ東部における女子の家庭教育の理想像があるとよく言われるが、父が家庭に君臨していた当時の家庭小説の中で、父不在の設定は異色であり、丸山美知代は「この点が読者に好評を得た理由でもある」と評している[99]。現実で一家の貧乏の理由は、テンプルスクールとフルートランズの失敗、父が働かないことだが、物語では父が友人を救おうとして財産を失ったと変えられており、現実の過去の貧困、挫折、死は取り除かれている[159]。また、現実でオルコットは身体的苦痛に苦しめられていたが、物語でジョーは健康な少女であり、病気は妹のベスに全て転化されている[156]

『若草物語』は彼女自身の人生からエピソードを拾ってくるのに加えて、「姉妹の試練」(The Sisters' Trial)、「現代のシンデレラ」(A Modern Cinderella)、「ギャレットにて」( In the Garret)を含む彼女の初期作品のいくつかの影響もみられる。こうした過去の短編小説や詩の中の登場人物は、オルコットの家族と人間関係に加えて、『若草物語』やその後の小説の中の様々な登場人物の全体的なコンセプトや土台にインスピレーションを与えた[160]

「Eclectic Magazine」の書評誌は、本作品を「6歳から60歳までのあらゆる年齢の若者の心に届く最良の本」と呼んだ。[161]。150年以上にわたって一般に読み続けられる本は珍しいが、現在も強い人気を誇り、21世紀のアメリカのリーダー的立場・クリエーターの女性たちが、必ずと言っていいほど幼少期の愛読書として挙げるといわる[31]

ハリエット・レイセンは、「『若草物語』の魅力のひとつは、それぞれ興味や性格の違う姉妹、そして普通の少女の人間関係が描かれていることだ。ほとんどの少女は、社会的な人間関係の裏表に何より魅力があると思っている。オルコットは、近年までヤングアダルト文学では稀だった、少女の人間関係を真剣に扱った。」「現代では少なくなったが、社会は一般的に、少女の情熱を抑え、従順な妻になるための準備として言うことを聞かせようとする。オルコットは思春期の少女の情熱を大切にし、それを擁護した。オルコットの声はウィットに富み、人間的で、感情豊かで、他の作家にはない読者とのつながりを感じさせてくれる。」と述べている[34]

映画監督のグレタ・ガーウィグは、あらためて読み返した際に「そのまま現代の物語になっても全く違和感がない」ほど、とても現代的な物語であったことに驚いたと述べており、1作目が有名だが、2作目以降の、成人した姉妹が社会に出て自分らしく生きようと奮闘する姿、「姉妹・芸術家・母親・労働者という役割を持ち、さらに友人や妻として奮闘する姿が描かれていて、いま読むとその姿に強い魅力を感じた」と語っている[31]

マリベス・シェイファーは、A・M・バーナード名義の作品を含めた一連の作品群から、物質主義の進行による少女や女性の地位の転落への懸念、「真の女性らしさの理想」への賛同を読み取り、『若草物語』シリーズに、女性の地位の転落の問題を解決する、女性が自給自足する母系制の女性的ユートピアを読み取っている[162]

ジョーが夫と学校を経営する『第三若草物語』は、オルコットも学んだ父ブロンソンのテンプルスクールの再現であると考えられる[49]。彼女は父の思想、特に教育についての考えに賛同しており、それを作品の中に表した[34]

トランセンデンタル・ワイルド・オーツ

オルコットは幼少期のフルートランズでの生活をテーマとする文章を、「トランセンデンタル・ワイルド・オーツ」(Transcendental Wild Oats、1973年)のタイトルで新聞に掲載した。これはフルートランズでの「素朴な生活と高邁な思想」(ワーズワースが1802年にコウルリッジに当てた十四行詩の中にある言葉)という家族的共同体の実験が風刺的に描かれており、父ブロンソンと共に農場を率いたレーンを横暴な王者として描くことで、父の弱さを隠しているが、共同体を運営する男性たちが掲げる高い理想と、みじめな現実の間でやりきれない怒りに燃えた少女時代の記憶を窺うことができる[49]。のちに『銀の水さし』(1876年)という短編集に収録された[84]

A Modern Mephistopheles

A Modern Mephistopheles(現代のメフィストフェレス)」は、ゲーテの『ファウスト』をベースにした作品で、原作では悪魔の力で若返ったファウストに恋され、未婚でファウストの子を出産し嬰児殺しで投獄される少女マーガレットを、原作とは異なり、主人公を死の前に救済する「真の女」として再創造している[162]

主な作品タイトル

小説
  • The Inheritance,1849年執筆、死後出版(相続、遺産)[70]
  • Moods, 1865年、再編集版1882年(気まぐれ)
  • Kitty's Class Day and Other Stories (Three Proverb Stories) , 1868年, ("Kitty's Class Day", "Aunt Kipp" "Psyche's Art"収録)(3つの教訓物語)

【若草物語シリーズ】

【その他の家庭小説・少女小説】

  • An Old-fashioned Girl, 1870年(昔気質の一少女)
  • Work: A Story of Experience, 1873年(労働:経験物語)
  • Eight Cousins or The Aunt-Hill,1875年
    • 村岡花子 訳『八人のいとこたち』三笠書房〈若草文庫〉、1958年。 
    • 村岡花子 訳『八人のいとこ』角川書店〈角川文庫〉、1960年。 
    • 村岡みどり 訳『ローズの季節』岩崎書店〈世界少女名作全集〉、1973年。 挿絵 山中冬児
    • 谷口由美子 訳『8人のいとこ』講談社〈講談社青い鳥文庫〉、2019年。 挿絵 ほおのきソラ
  • Rose in Bloom: A Sequel to "Eight Cousins", 1876年(Eight Cousins or The Aunt-Hillの続編)
    • 村岡花子・佐川和子 訳『花ざかりのローズ』三笠書房〈若草文庫〉、1958年。 
    • 村岡花子・佐川和子 訳『花ざかりのローズ』角川書店〈角川文庫〉、1961年。 
    • 村岡みどり 訳『ローズの季節』岩崎書店〈世界少女名作全集〉、1973年。 挿絵 桜井誠
    • 谷口由美子 訳『8人のいとこ ローズの恋 2』講談社〈講談社青い鳥文庫〉、2021年。 挿絵 ほおのきソラ
  • Under the Lilacs, 1877年(ライラックの花の下)
    • 松原至大 訳『ライラックの花の下』角川書店〈角川文庫〉、1958年。 
  • Jack and Jill: A Village Story, 1880年(ジャックとジル)
  • A Garland for Girls, 1888年(花物語)
子供向け
  • Flower Fables,1854年(花のおとぎ話、花物語)[75]
  • The Rose Family: A Fairy Tale, 1864年(ローズ・ファミリー、妖精物語[163]
  • Aunt Jo's Scrap-Bag, 1871年 - 1882年(ジョーおばさんのお話集[164]
  • Lulu's Library, 1886年 - 1889年(ルルの本棚[165]
その他短編小説
  • The Rival Painters, 1842年(恋敵の画家たち―ローマの物語[166]。初めて雑誌掲載された短編)[70]
  • Masked Marriage, 1851年(仮面結婚[166]
  • The Sisters' Trial, 1856年(姉妹の試練[166]
  • Agatha's Confession, 1857年(アガサの告白[166]
  • Love & Self Love, 1859年(愛と自己愛[163]
  • Modern Cinderella; or, The Little Old Shoe, 1860年(現代のシンデレラ―古い小さな靴[163]
  • Hospital Sketches, 1863年(病院のスケッチ)
  • My Contraband, 1863年(わたしの逃亡奴隷兵)
  • Pauline's Passion and Punishment, 1863年(ポーリーンの激情と罰。新聞掲載時は匿名[167]
  • Thoreau's Flute,1863年(ソローの横笛[163]
  • Enigma,1863年(謎[163]
  • Succecc,1863年(成功。後に解題して雑誌に掲載、さらにWork, A Story of Experience『仕事-体験談』として単行本化[163]
  • Doctor Dorn's Revenge ,1868年(ドクタードーンの復讐)
  • La Jeune; or, Actress and Woman,1868年(若い女性-女優であり女であること[164]
  • Countess Varazoff,1868年(バラゾフ伯爵夫人)
  • The Romance of a Bouquet,1868年(花束に秘められたロマンス[164]
  • A Laugh and A Look,1868年(笑いと一見)
  • Perilous Play,1869年(危険な遊び)
  • Lost in a Pyramid, or the Mummy's Curse,1869年(ピラミッドの中で道に迷う―ミイラの呪い[164]
  • Transcendental Wild Oats (1873) (トランセンデンタル・ワイルド・オーツ):フルートランズでの生活を描いた短編。1995年『ルイザ・メイ・オルコット―「若草物語」への道』に邦訳収録[168]
  • The Autobiography of an Omnibus,1874年(ある売春婦の自伝[169]
  • Silver Pitchers, and Independence: A Centennial Love Story,1876年(銀の水さし)
  • A Vsit to the Tombs,1876年(トゥーム刑務所を訪ねて[169]
  • A Whisper in the Dark,1877年(暗闇のささやき。新聞掲載時は匿名[167]
A・M・バーナード名義
  • V. V.: or, Plots and counterplots ,1862年連載(V.V.-あるいは策略には策略を。のちにA・M・バーナード名義で出版)
  • A Marble Woman ; or , The Mysterious Model,1865年(大理石の女、あるいは神秘的なモデル。初めてA・M・バーナード名義を使用[94]
  • Behind a Mask, or a Woman's Power, 1866年
    • 大串尚代 訳『仮面の陰に あるいは女の力』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2021年。 
  • The Abbot's Ghost, or Maurice Treherne's Temptation ,1867年(修道院長の幽霊―あるいはモーリス・トレハーンの誘惑)
  • A Long Fatal Love Chase,1866年
    • 広津倫子 訳『愛の果ての物語』徳間書店、1995年。ISBN 4-19-860376-6 
  • Fate in a Fan ,1869年(扇の運命)
匿名で公開
  • A Modern Mephistopheles,1877年(現代のメフィストフェレス)
戯曲
  • Comic Tragedies,1893年(喜悲劇。姉アンナとの共作、死後出版)

派性作品

脚注

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  2. ^ オールコット』 - コトバンク
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  • 高田賢一 著「書くことが生きること ― ルイザ・メイ・オルコットの生涯と作品」、高田賢一 編 編『若草物語』ミネルヴァ書房〈シリーズもっと知りたい名作の世界〉、2006年。 
  • ジョーエル・マイヤースン、ダニエル・シーリー 編 編、宮木陽子 訳『ルイーザ・メイ・オールコットの日記 ―もうひとつの若草物語』マデレイン・B・スターン 編集協力、西村書店、2008年。 
  • 衣川清子「17歳オルコット、幻のデビュー作-The Inheritance (『遺産』)(1849)を読む」『埼玉女子短期大学研究紀要』第19巻、埼玉女子短期大学、2008年3月、189-198頁、NAID 110006821475 
  • 平石貴樹 著「ルイーザ・メイ・オールコット アメリカ近代小説序説」、田中久男 監修、亀井俊介・平石貴樹 編著 編『アメリカ文学のニューフロンティア―資料・批評・歴史』南雲堂、2005年。 
  • 丸山美知代共生する文学の快楽 ―『若草物語』に応答する『マーチ』―」『立命館文學』第618巻、立命館大学、2010年10月、268-2551頁、NAID 110007885315 
  • 廉岡糸子 著『ルイザ・メイ・オルコットの秘密 ―煽情小説が好き』燃焼社、2016年。 
  • 杉山眞弓「Work: A Story of Experienceにおける「作家業」の不在が意味するもの」『人間生活文化研究』第26巻、大妻女子大学人間生活文化研究所、2016年、646-658頁、NAID 130005405023 
  • ルイザ・メイ・オルコット 著、大串尚代 訳・解題『仮面の陰に あるいは女の力』幻戯書房〈ルリユール叢書〉、2021年。 
  • 小松原宏子「『若草物語』はなぜ『若草物語』なのか:Little Women の邦題を考える」『紀要 Bulletin』第13巻、多摩大学グローバルスタディーズ学部、2021年3月、31-52頁、NAID 120007028300 
  • 山本孝司「ルイザ・メイ・オルコットの教育思想 ―アメリカ進歩主義教育へのプレリュード―」『岡山県立大学教育研究紀要』第5巻第1号、岡山県立大学 大学教育開発センター、2021年2月、1-10頁、NAID 120006960996 
  • 吉田純子「思春期文学の少女たちがトラウマを脱するとき : 『若草物語』と『ウィーツィー・バット』の場合」『立命館言語文化研究』第32巻第4号、立命館大学国際言語文化研究所、2021年3月、97-111頁、NAID 120007009016 

関連項目

外部リンク

映像外部リンク
Presentation by Harriet Reisen on Louisa May Alcott: The Woman Behind Little Women, November 12, 2009, C-SPAN

ソース

アーカイブされた資料