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プロ1年目の{{by|1989年}}は開幕一軍を勝ち取り、プロ初安打を高校の後輩でもある[[読売ジャイアンツ|巨人]]の桑田から放つ。以降は[[山田勝彦]]、[[関川浩一]]らの台頭でファーム暮らしとなる。 |
プロ1年目の{{by|1989年}}は開幕一軍を勝ち取り、プロ初安打を高校の後輩でもある[[読売ジャイアンツ|巨人]]の桑田から放つ。以降は[[山田勝彦]]、[[関川浩一]]らの台頭でファーム暮らしとなる。 |
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<br />晩年は代打、外野手での出場が多くなった。{{by|1998年}}オフに[[任意引退]]、{{by|1999年}}3月23日に[[自由契約]]公示。 |
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その後は、[[赤星憲広]]が設立した[[少年野球]]チーム「レッドスターベースボールクラブ」の監督も務めていたが、{{by|2014年}}2月に退団し、小学生・中学生を対象とした野球道場を開くなど、青少年育成の為、幅広く尽力している。また、[[履正社医療スポーツ専門学校]]にて講師を努める傍ら、{{by|2010年}}からは[[社会人野球]]に参戦している同校の硬式野球部でコーチを務めた<ref>{{Cite web |url=http://www.jaba.or.jp/team/touroku/2010.html |title=チーム情報 登録・変更情報 2010年 |publisher=日本野球連盟 |accessdate=2016-11-14}}</ref>。{{by|2022年}}1月より[[大阪偕星学園高等学校]]の監督に就任する<ref>[https://hochi.news/articles/20211004-OHT1T51212.html?page=1 大阪偕星学園高監督に元阪神の岩田徹氏が就任]</ref>。 |
その後は、[[赤星憲広]]が設立した[[少年野球]]チーム「レッドスターベースボールクラブ」の監督も務めていたが、{{by|2014年}}2月に退団し、小学生・中学生を対象とした野球道場を開くなど、青少年育成の為、幅広く尽力している。また、[[履正社医療スポーツ専門学校]]にて講師を努める傍ら、{{by|2010年}}からは[[社会人野球]]に参戦している同校の硬式野球部でコーチを務めた<ref>{{Cite web |url=http://www.jaba.or.jp/team/touroku/2010.html |title=チーム情報 登録・変更情報 2010年 |publisher=日本野球連盟 |accessdate=2016-11-14}}</ref>。{{by|2022年}}1月より[[大阪偕星学園高等学校]]の監督に就任する<ref>[https://hochi.news/articles/20211004-OHT1T51212.html?page=1 大阪偕星学園高監督に元阪神の岩田徹氏が就任]</ref>。 |
2021年11月29日 (月) 00:05時点における版
大阪偕星学園高等学校硬式野球部 監督 | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県那賀郡打田町(現:紀の川市) |
生年月日 | 1967年2月12日(57歳) |
身長 体重 |
178 cm 79 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手、外野手 |
プロ入り | 1988年 ドラフト4位 |
初出場 | 1989年4月9日 |
最終出場 | 1996年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
この表について
|
岩田 徹(いわた とおる、1967年2月12日 - )は、和歌山県[1]出身の元プロ野球選手(捕手)。
来歴・人物
PL学園高時代は外野手として、1984年に春・夏とも甲子園準優勝という快挙を成し遂げる[1]。1学年後輩に清原和博・桑田真澄がいた。
高校卒業後は、社会人野球の三菱自動車水島に所属した。社会人野球通算22試合、打率.333、6本塁打、13打点[1]。
1988年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受け入団[1]。高校・社会人通じて外野手であったが、強肩であったことから捕手として指名された。
プロ1年目の1989年は開幕一軍を勝ち取り、プロ初安打を高校の後輩でもある巨人の桑田から放つ。以降は山田勝彦、関川浩一らの台頭でファーム暮らしとなる。
晩年は代打、外野手での出場が多くなった。1998年オフに任意引退、1999年3月23日に自由契約公示。
その後は、赤星憲広が設立した少年野球チーム「レッドスターベースボールクラブ」の監督も務めていたが、2014年2月に退団し、小学生・中学生を対象とした野球道場を開くなど、青少年育成の為、幅広く尽力している。また、履正社医療スポーツ専門学校にて講師を努める傍ら、2010年からは社会人野球に参戦している同校の硬式野球部でコーチを務めた[2]。2022年1月より大阪偕星学園高等学校の監督に就任する[3]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | 阪神 | 25 | 23 | 23 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | .043 | .043 | .043 | .087 |
1990 | 2 | 4 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .333 | .333 | 1.333 | 1.667 | |
1991 | 3 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1994 | 1 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1995 | 15 | 26 | 24 | 4 | 6 | 2 | 0 | 0 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 4 | 1 | .250 | .308 | .333 | .641 | |
1996 | 12 | 12 | 11 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .273 | .333 | .364 | .697 | |
通算:6年 | 58 | 68 | 64 | 5 | 11 | 3 | 0 | 1 | 17 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 13 | 2 | .172 | .209 | .266 | .475 |
年度別守備成績
年度 | 試合 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1989 | 16 | 7 | 3 | .300 | |
1990 | 2 | 1 | 0 | .000 | |
1991 | 3 | 0 | 0 | .000 | |
1994 | 1 | 0 | 0 | 0 | ---- |
通算 | 22 | 8 | 3 | .273 |
記録
- 初出場:1989年4月9日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、8回裏に木戸克彦に代わり捕手として出場
- 初打席・初安打:1989年4月13日、対読売ジャイアンツ3回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に住友一哉の代打として出場、桑田真澄から単打
- 初先発出場:1989年5月5日、対横浜大洋ホエールズ4回戦(阪神甲子園球場)、1番・右翼手として先発出場
- 初本塁打・初打点:1990年5月24日、対広島東洋カープ8回戦(広島市民球場)、3回表に川口和久からソロ
背番号
- 38 (1989年 - 1998年)
脚注
- ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、71ページ
- ^ “チーム情報 登録・変更情報 2010年”. 日本野球連盟. 2016年11月14日閲覧。
- ^ 大阪偕星学園高監督に元阪神の岩田徹氏が就任
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 岩田徹 - NPB.jp 日本野球機構