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== 歴史 ==
== 歴史 ==
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* [[ホメロス]]『[[イリアス]](上)』松平千秋訳、岩波文庫(1992年)
* [[ホメロス]]『[[イリアス]](上)』松平千秋訳、岩波文庫(1992年)
* [[ストラボン]]『[[地理誌|ギリシア・ローマ世界地誌]]』飯尾都人訳、龍渓書舎(1994年)
* [[ストラボン]]『[[地理誌|ギリシア・ローマ世界地誌]]』飯尾都人訳、龍渓書舎(1994年)
* [[パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年)
* [[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年)
* [[ピンダロス]]『祝勝歌集/断片選』[[内田次信]]訳、[[京都大学学術出版会]](2001年)
* [[ピンダロス]]『祝勝歌集/断片選』[[内田次信]]訳、[[京都大学学術出版会]](2001年)
* {{仮リンク|リチャード・タルバート|en|Richard Talbert|label=Richard Talbert}}, ed. Barrington Atlas of the Greek and Roman World. [[Princeton University Press]] (2000)
* {{仮リンク|リチャード・タルバート|en|Richard Talbert|label=Richard Talbert}}, ed. Barrington Atlas of the Greek and Roman World. [[Princeton University Press]] (2000)

2021年11月15日 (月) 11:11時点における版

ステュムパロス
Στύμφαλος
ステュムパロスのアクロポリスの遺跡
近隣の湖はヘラクレス伝説で知られる
ステュムパロスの位置(ギリシャ内)
ステュムパロス
ステュムパロス
ステュムパロスの位置
ステュムパロスの位置(ペロポネソス半島内)
ステュムパロス
ステュムパロス
ステュムパロス (ペロポネソス半島)
所在地 ペロポネソス, コリンティア県
種類 アクロポリス(城壁、劇場、パライストラ、水浴室跡), トラヤヌス水道橋, ザラカ修道院跡
歴史
時代 古代ギリシャ, 古代ローマ, ビザンティン
追加情報
発掘期間 1924年-1930年:
アナスタシオス・オルランドス
1982年以降:
ヘクター・ウィリアムズ(Hector Williams)
ステュムパロスのコイン。表にヘラクレス、裏にステュムパロスの怪鳥が描かれている。
ハドリアヌス水道橋。

ステュムパロス古希: Στύμφαλος, Stymphalos, : Stymphalus)は、古代ギリシアアルカディア地方の都市である[注釈 1]ギリシア神話の英雄ヘラクレスステュムパロスの鳥と呼ばれる怪鳥を退治した伝説の舞台として知られる。日本語ではステュンパロススティンファロス長母音ステュムパーロスステュンパーロスなどと表記される。

地理

ステュムパロスの領土は長さ約10キロの平野で、北はアカイア地方、東はシキュオンプリウス英語版、南はマンティネイア、西はオルコメノスペネオスと接している。平野は四方を山に囲まれ、北にキュレネ山の巨大な山塊がそびえ立ち、そこからステュムパロス山(Στυμφαλος ὄρος, Mount Stymphalus)と呼ばれる尾根が平野に突き出ている[5][6][7]

キュレネ山の反対側の平野の南端の山はアペラウロン(τὸ Ἀπέλαυρον)と呼ばれ[8]、その足元にはステュムパロス湖英語版[注釈 2]地下水の湧出口がある。この湖の湖水は部分的にキュレネ山とアペラウロンから流れ落ちる雨水と、平野の異なる部分から流れ込む3つの小川によって形成される。西からはカスタニア(Kastania)付近のゲロンテイウム山(Geronteium)に水源を持つ小川が流れている。そして東からはドゥサ(Dusa)の近くに水源を持つ別の小川が流れている。しかし、3つの小川で最も重要なのは平野の北側に端を発する、豊富な地下水の湧出口から流れる小川である。この小川は古代人によってステュムパロス川と呼ばれていた。これらの小川は湖の主要な水源であり、200スタディオンの距離を地下水脈として流れたのちに、アルゴリス地方のエラシノス川(Erasinos)として再び地表に現れると一般に信じられていた[10][9][11][12][13]

アイリアノスによるとステュムパロス人はエラシノス川とメトペ川( Μετώπη, Metope)を崇拝した[14]。そこからメトペ川はステュムパロス川の別名と考えられる。メトペ川はカリマコスによってもポルステイオス(πολύστειος, 「小石の多い」)と言及されている[15]。ステュムパロス湖の源泉となった水はハドリアヌス帝によって建設された水道橋コリントスまで運ばれた。この水道橋の遺構は現在もその大部分をたどることが可能である。パウサニアスは夏になると湖は乾燥したと報告しているが、地下を除いて湖水の流れ出る場所がないため、石や砂などによって地下水路が閉塞すると洪水を引き起こした。パウサニアスの時代(2世紀頃)に、アルテミスの怒りに起因するとされる同様の洪水が発生し、400スタディオンにわたって湖水が平野を覆った[16][注釈 3]ストラボンによると、イピクラテスは不成功に終わったステュムパロス包囲戦において、大量の海綿で水の流出口を塞ごうとしたが、ゼウスの予兆が現れたために中止した[10]。ストラボンはまた、以前は湖水の地下の流出口がなかったため、彼の時代に都市から50スタディオン離れた位置にあった湖は、かつては都市の縁辺まで広がっていたと述べている[10][注釈 4]

歴史

ステュムパロスはホメロス叙事詩イリアス』の軍船表で言及され[17]、またピンダロスによってアルカディアの母と呼ばれている[18]。ステュムパロスの都市の名はエラトスの息子で、アルカディアアルカスの孫にあたるステュムパロスに由来している[19]。ただし都市はもともと別の場所にあり、ペラスゴスの息子で女神ヘラの養育者のテメノスが住んでいた。この旧都市はパウサニアスの時代には完全に姿を消しており[20]、彼が知り得たのはその地でヘラが処女、妻、未亡人としての別名を持った3つの異なる神域で尊崇を集めていたということだけだった[21]

ギリシア神話によると、ステュムパロス王はエリス地方の王ペロプスによって謀殺され、その遺体は切り刻まれて大地にばら撒かれた。この残虐行為のために災いがギリシア全土に降りかかったが、アイギナ島の王アイアコスの祈りによって救われたと伝えられている。また都市に隣接するステュムパロス湖は危険な人食い鳥の巣窟として知られる。ヘラクレスによって退治されたステュムパロスの鳥と呼ばれるこれらの鳥について、パウサニアスはツルと同じくらいの大きさで、姿はトキに似ているが、トキよりも強いくちばしはトキほどは曲がっていなかったと述べている[22]。ステュムパロスのいくつかの貨幣はパウサニアスの記述と正確に一致している。

都市について古代の歴史家はあまり言及していないが、アルゴリス地方とコリントスから西方に通じる交通の要所の1つであった点に主な重要性がある。前315年、カッサンドロスの将軍アポロニデス英語版によって占領され[23]、その後アカイア同盟に所属した[24][25]。パウサニアスの時代にはステュムパロスはアルゴリスの一部であった[19]

パウサニアスが言及した都市の唯一の建築物であるアルテミス・ステュムピリア(ステュムパロスに坐すアルテミス)の神殿は、神殿の屋根のそばにステュムパロスの鳥の像があった。神殿の背後には鳥の足と太股を持つ若い乙女たちを表した白い大理石の像が立っていた[26]。アルテミス神殿はローマ時代においてもまだ使用されていたらしい。女神の珍しい側面の1つは、前2世紀初頭の碑文の中で彼女の聖域がアテナイの信仰であるアルテミス・ブラウロニアブラウロン英語版に坐すアルテミス)の名前で呼ばれていることである。エラテイア英語版人に対するステュムパロス人の厚遇を記念する碑文は、エラテイアのアゴラとステュムパロスのアルテミス・ブラウロニアの聖域に設置された。デメテルヘルメスの信仰もまた叙事詩的に証明されている。

人物

  • シュラクサイのハゲシアス(Hagesias)
ステュムパロス出身の母を持つ。第6回オリンピア競技祭ラバ車競走で優勝した。ピンダロスはハゲシアスの勝利を讃え、聴衆にステュムパロスで崇拝された処女としてのヘラを崇拝するよう促している[27]
  • ドロメウス(Dromeus)
ステュムパロス出身の長距離走者。パウサニアスによるとドロメウスはギリシャ四大大会英語版ドリコス走で12回も優勝した。彼はオリンピア競技祭で2回、ピュティア競技祭で2回、イストミア競技祭で3回、ネメア競技祭で5回の優勝をし、オリンピアにはドロメウスの勝利を讃える像があった[28]

考古学

緑に覆われたステュムパロスのアクロポリスの遺跡。城壁と南西門、住宅跡。

ステュムパロスの遺跡は現代のスティムファリア英語版の近くにある[29]アナスタシオス・オルランドスは1924年から1930年にかけてアテネ考古学協会英語版を代表して遺跡の一部を発掘した。1982年以来、ブリティッシュコロンビア大学のヘクター・ウィリアムズ(Hector Williams)の指揮のもと、ステュムパロス湖の北岸にある遺跡の発掘が進められている。これらの考古学的な調査と発掘によって紀元前4世紀に再建された都市が明らかとなった[注釈 5]。都市は30メートルごとに6メートルの道路が南北に走る方格設計に基づいて設計され、100メートル以上ある東西を貫く大通りとここかしこに交差していた。劇場、パライストラ、水浴室、いくつかの神殿と聖域といった建築物も発見されている。1925年にオルランドスによって発見された「POLIAD・・・(アテナ・ポリアスの)」という碑文が見つかった聖域はアテナ・ポリアス(都市を守護するアテナ)が信仰されたことを示していると思われるが、それにもかかわらずこれに関する新たな証拠は見つかっていない。遺跡から発見された陶片で書かれた落書きは出産の女神エイレイテュイアについて言及し、大量に発見された宝飾類(主に銅または青銅)は女性がよく訪れる聖域であったことを示唆している。また欠けた子供の像はその信仰がクロトロポス英語版的なものであったという解釈を裏書きする。神殿の別館から発見された織機工房の数十個の紡錘の重りはアテナの存在を強く示唆している。聖域はおそらく前146年にローマ人によって破壊されたが、その地域で発見された初期から中期のローマン陶器のランプから判断すると少なくとも後で再訪されたようである。

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ ステュムペロス(Στύμφηλος, Stymphelos[1])、ステュムペロン(Στύμφηλον, Stymphelon, Stymphelum[2])、ステュムペルム(Stymphalum[3])、ステュムパラ(Stymphala[4])とも呼ばれる。
  2. ^ ヘロドトスではステュムペリエ湖(ἡ Στυμφηλίη λίμνη[9])、ストラボンではステュムパリス湖(ἡ Στυμφαλὶς λίμνη[10])。
  3. ^ この数字は明らかに誤りであり、おそらく「400」(τετρακοσίους)ではなく「40」(τεσσααράκοντα)と考えられる。
  4. ^ これも誤りである。たとえストラボンが古い都市に言及しているのだとしても、湖全体の幅はせいぜい20スタディオン未満である。
  5. ^ 青銅器時代と初期古典期の都市の位置は正確には特定されていない。

脚注

  1. ^ パウサニアス、2巻3・5。
  2. ^ ピンダロス『オリンピア祝勝歌』第6歌129行への古註。
  3. ^ プリニウス、4巻6・10。
  4. ^ ルクレティウス、5巻31行。
  5. ^ クラウディオス・プトレマイオス地理学3巻16・14。
  6. ^ アレクサンドリアのヘシュキオス
  7. ^ スタティウスシルウァエ英語版』4巻6・100。
  8. ^ ポリュビオス、4巻69・1。
  9. ^ a b ヘロドトス、6巻76。
  10. ^ a b c d ストラボン、8巻8・4。
  11. ^ パウサニアス、2巻3・5。
  12. ^ パウサニアス、2巻24・6。
  13. ^ パウサニアス、8巻22・3。
  14. ^ アイリアノス、2巻33。
  15. ^ カリマコス『ゼウス讃歌』26行。
  16. ^ パウサニアス、8巻22・8。
  17. ^ 『イリアス』2巻608行。
  18. ^ ピンダロス『オリンピア祝勝歌』第6歌169行。
  19. ^ a b パウサニアス、8巻22・1。
  20. ^ パウサニアス、8巻22・3。
  21. ^ パウサニアス、8巻22・2。
  22. ^ パウサニアス、8巻22・5。
  23. ^ シケリアのディオドロス、19巻63。
  24. ^ ポリュビオス、2巻55。
  25. ^ ポリュビオス、4巻68。
  26. ^ パウサニアス、8巻22・7。
  27. ^ ピンダロス『オリンピア祝勝歌』第6歌。
  28. ^ パウサニアス、6巻7・10。
  29. ^ Richard Talbert 2000. p. 58.

参考文献

  • アイリアノス『ギリシャ奇談集』松平千秋中務哲郎訳、岩波文庫(1989年)
  • ホメロスイリアス(上)』松平千秋訳、岩波文庫(1992年)
  • ストラボンギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎(1994年)
  • パウサニアス『ギリシア記』飯尾都人訳、龍溪書舎(1991年)
  • ピンダロス『祝勝歌集/断片選』内田次信訳、京都大学学術出版会(2001年)
  • Richard Talbert英語版, ed. Barrington Atlas of the Greek and Roman World. Princeton University Press (2000)
  •  この記事には現在パブリックドメインである次の出版物からのテキストが含まれている: Smith, William, ed. (1854–1857). "Stymphalus". Dictionary of Greek and Roman Geography. London: John Murray.