「テオポンポス (スパルタ王)」の版間の差分
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テオポンポスは先王[[ニカンドロス (スパルタ王)|ニカンドロス]]の子である<ref>ヘロドトス, VIII, 131</ref>。彼の治世において[[スパルタ]]は[[第一次メッセニア戦争]]で[[メッセニア]]と戦った<ref>パウサニアス, III, 3, 2</ref>。一回目の会戦でも二回目の会戦でも両軍は引き分けた。後者では右翼を率いていたテオポンポスはメッセニアの王[[エウパエス]]によって敗走させられたものの、左翼の[[ポリュドロス]]が優勢に戦ったため、敗北を回避できた<ref>ibid, IV, 7, 5-12</ref>。また、スパルタはテオポンポスの治世において[[テュレア]]地方をめぐり、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]とも争った<ref>ibid, III, 7, 5</ref>。 |
テオポンポスは先王[[ニカンドロス (スパルタ王)|ニカンドロス]]の子である<ref>ヘロドトス, VIII, 131</ref>。彼の治世において[[スパルタ]]は[[第一次メッセニア戦争]]で[[メッセニア]]と戦った<ref>パウサニアス, III, 3, 2</ref>。一回目の会戦でも二回目の会戦でも両軍は引き分けた。後者では右翼を率いていたテオポンポスはメッセニアの王[[エウパエス]]によって敗走させられたものの、左翼の[[ポリュドロス]]が優勢に戦ったため、敗北を回避できた<ref>ibid, IV, 7, 5-12</ref>。また、スパルタはテオポンポスの治世において[[テュレア]]地方をめぐり、[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]とも争った<ref>ibid, III, 7, 5</ref>。 |
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[[プルタルコス]]によれば、テオポンポスの治世にスパルタには[[監督官]]の制度が導入され、テオポンポスは[[レトラ]]に民会への長老会と王の拒否権を加えた<ref>プルタルコス, 「リュクルゴス」, 6-7</ref>。 |
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== 参考文献 == |
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*[[パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年 |
*[[パウサニアス (地理学者)|パウサニアス]]著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、[[龍渓書舎]]、1991年 |
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*[[プルタルコス]]著,、村川堅太郎他訳、『世界古典文学全集 プルタルコス』、[[筑摩書房]]、1966年 |
*[[プルタルコス]]著,、村川堅太郎他訳、『世界古典文学全集 プルタルコス』、[[筑摩書房]]、1966年 |
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*[[ヘロドトス]]著、[[松平千秋]]訳、『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(下)、[[岩波書店]]、1972年 |
*[[ヘロドトス]]著、[[松平千秋]]訳、『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(下)、[[岩波書店]]、1972年 |
2021年11月15日 (月) 10:41時点における最新版
テオポンポス(希: Θεόπομπος、英: Theopompus、在位:紀元前720年-紀元前675年)は、エウリュポン朝のスパルタ王である。
テオポンポスは先王ニカンドロスの子である[1]。彼の治世においてスパルタは第一次メッセニア戦争でメッセニアと戦った[2]。一回目の会戦でも二回目の会戦でも両軍は引き分けた。後者では右翼を率いていたテオポンポスはメッセニアの王エウパエスによって敗走させられたものの、左翼のポリュドロスが優勢に戦ったため、敗北を回避できた[3]。また、スパルタはテオポンポスの治世においてテュレア地方をめぐり、アルゴスとも争った[4]。
パウサニアスによれば、テオポンポスの子アルキダモスが父より先に死んだため、テオポンポスの後は彼の孫ゼウクシデモスかひ孫のアナクシダモスが継いだ[5]。
プルタルコスによれば、テオポンポスの治世にスパルタには監督官の制度が導入され、テオポンポスはレトラに民会への長老会と王の拒否権を加えた[6]。
註
[編集]参考文献
[編集]- パウサニアス著、飯尾都人訳、『ギリシア記』、龍渓書舎、1991年
- プルタルコス著,、村川堅太郎他訳、『世界古典文学全集 プルタルコス』、筑摩書房、1966年
- ヘロドトス著、松平千秋訳、『歴史』(下)、岩波書店、1972年
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