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[[1971年]]4月には初の先発マスクを被り、[[1974年]]シーズン終盤には6試合に先発出場を果たす。しかし、その後は出場機会に恵まれず[[1976年]]限りで現役を引退<ref name=jinmei />。
[[1971年]]4月には初の先発マスクを被り、[[1974年]]シーズン終盤には6試合に先発出場を果たす。しかし、その後は出場機会に恵まれず[[1976年]]限りで現役を引退<ref name=jinmei />。
</br>引退後は会社員となり、後に秋田で初のリトルシニアチームの立ち上げに関わり、その後は能代シニアの監督を務める<ref>[https://ballpark-akita.com/meishou/014.html BALLPARK AKITA 大沢勉]</ref>。
<br />引退後は会社員となり、後に秋田で初のリトルシニアチームの立ち上げに関わり、その後は能代シニアの監督を務める<ref>[https://ballpark-akita.com/meishou/014.html BALLPARK AKITA 大沢勉]</ref>。


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==

2021年11月11日 (木) 01:10時点における版

大沢 勉
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県能代市
生年月日 (1948-05-23) 1948年5月23日(76歳)
身長
体重
176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1970年 ドラフト7位
初出場 1971年4月13日
最終出場 1976年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大沢 勉(おおさわ つとむ、1948年5月23日 - )は、秋田県能代市[1]出身の元プロ野球選手捕手)。

来歴・人物

能代高では山田久志とバッテリーを組むが、甲子園には届かなかった。

高校卒業後は、社会人野球日本鉱業日立に入社、1970年都市対抗野球日立製作所の補強選手として出場[2]

1970年のプロ野球ドラフト会議東映フライヤーズから7位指名を受け入団[1]

1971年4月には初の先発マスクを被り、1974年シーズン終盤には6試合に先発出場を果たす。しかし、その後は出場機会に恵まれず1976年限りで現役を引退[1]
引退後は会社員となり、後に秋田で初のリトルシニアチームの立ち上げに関わり、その後は能代シニアの監督を務める[3]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1971 東映
日本ハム
16 8 8 0 1 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 4 0 .125 .125 .125 .250
1972 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1974 10 17 14 1 4 1 0 0 5 1 0 1 2 0 1 0 0 5 0 .286 .333 .357 .690
1976 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:4年 30 28 25 1 5 1 0 0 6 1 0 2 2 0 1 0 0 10 0 .200 .231 .240 .471
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

年度別守備成績

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1971 16 8 4 .333
1972 1 0 0 -
1974 10 5 3 .375
1976 3 1 0 .000
通算 30 14 7 .333

背番号

  • 25 (1971年 - 1974年)
  • 51 (1975年 - 1976年)

脚注

  1. ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、101ページ
  2. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  3. ^ BALLPARK AKITA 大沢勉

関連項目

外部リンク