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2021年10月2日 (土) 18:21時点における版
ジュリアス・ソーパー | |
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ファイル:青山學院創立者 ジュリアス・ソーパー.jpg 青山学院創立者の一人 | |
他の役職 | 青山学院神学部学部長[1]、米国ノース・グレンデール・メソジスト監督教会牧師 |
個人情報 | |
出生 |
1845年2月15日[2] アメリカ合衆国メリーランド州プールズビル Poolesville[1] |
死去 |
1937年2月5日(91歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市 |
墓所 |
同州グレンデール市フォレストローン(Forest Lawn) 北緯34度07分32秒 西経118度14分27秒 / 北緯34.12556度 西経118.24083度 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
配偶者 | マリー・フランシス・デイヴィソン[1] |
子供 |
長女レナ・イザベル・ソーパー(夭逝) 長男エドモンド・デイヴィソン・ソーパー(宣教師) 二男ジェームス・プレストン・ソーパー(夭逝) 二女エセル・モード・ソーパー(宣教師) 三女ネリー・ウィニフレッド・ソーパー(夭逝) |
職業 | 宣教師、教員 |
出身校 | ジョージタウン大学、ドルー神学校 |
伝道 | 日本、アメリカ合衆国 |
ジュリアス・ソーパー(英: Julius Soper、1845年[2]2月15日 - 1937年[2]2月5日、ジュリアス・ソーパルとも)は、米国メソジスト監督教会宣教師、青山学院神学部の教授[1]。明治から大正期の日本に2期にわたって暮らし、2度目の来日後、1895年から離日までキリスト教の教育に専念した[1]。キリスト教関連の多くの出版物を日本語に訳したと伝わる[1]。
人物
1845年、メリーランド州に生まれ、ドルー神学校卒業。米国メソジスト監督教会で按手礼を受け、1873年J・C・デイヴィソン夫妻と共に来日する。来日の翌年には津田仙の経営する麻布の「学農社」を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始。津田仙をはじめ400人に洗礼を授けている。入信者には慶応義塾初代塾長の古川正雄もいた。
1880年(明治13年)には医師の志田良硯に招かれて、山形県天童市に赴き伝道を始め、天童町大字天童小畑甲(現・天童市)に天童美以教会を、1882年に山形教会を設立した[3]。
築地にあった「耕教学舎」の実質的な設立者でもある[注釈 1]。青山学院の源流でもある同校では、英学と漢学を教授[疑問点 ]していた[要出典]。青山学院神学部の教授(1896年から1911年)、同学部長(1901年から年1908年)を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館連回区などの長老司[要説明]も務めるなど、日本のメソジスト関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物である[9]。
日米のメソジスト監督教会を結び、2度の滞日の後半は日本代表としてアメリカに出張する機会を2回得た[1]。握手を交わしたアメリカ大統領は第15代ジェームズ・ブキャナン、第16代エイブラハム・リンカーン、第18代ユリシーズ・グラント、第22・24代グロバー・クリーブランド、第25代ウィリアム・マッキンリーの5名である[1]。
1937年に母国で死去、91歳没。カリフォルニア州グレンデール市にあるフォレストローン墓地 (wikidata)[10]に埋葬された。
生涯
1845年2月15日、メリーランド州プールズビル生まれ[1]のソーパーはジョージタウン大学(ワシントンD.C.)からドルー神学校に進む[1]。1867年に卒業[要出典]、宣教師として働くと[11]、1873年に米国メソジスト監督教会ボルチモア年会 で按手礼を受けている[要出典]。同年5月20日、神学校で同期のJ・C・デイヴィソンの妹で宣教師のマリー(メアリー)・フランシス・デイヴィソン(Mary Frances Davison)と結婚[1][12]、この時、義兄となるジョンもMary Elizabeth Stout[訳語疑問点]と結婚式を挙げた[13]。
2組の夫妻は同年8月8日、共に来日すると東京で伝道活動につき、ソーパーの妻のメアリーも宣教師として働き始める[12]。明治政府はこの1873年(明治6年)、キリスト教の信仰を許したばかりで[注釈 2]、アメリカ、イギリス、カナダ、ドイツ、ロシアから宣教師が入国し始めていた。この頃、ソーパーと同じ教派の宣教師スクーンメーカー[15]は築地に女子学生のための学校を建てようとしていた[16]。英語ができた津田仙(1837年-1908年)はソーパーに助力を頼まれる。津田は杉田玄瑞と外国奉行通弁役(1861年)として同期だったり[17]、蕃書調所の代表を手伝った経歴を買われ、ウィーン派遣から戻って間もなかった。ごく短期間、一緒に働いた新島㐮[18]を介してプロテスタントに理解もあり[19]、それぞれ外国人の滞在手続きや国籍取得の相談に乗っていた[22]。そこで依頼を引き受けたものの生徒集めに苦心した末、自分の妻初子や娘、妻の友人ら5人だけ女性を揃える。スクーンメーカーは津田宅の部屋を借りて教室を始めると女子の小さな学校(女子小学)[要出典] を開校する(のちの海岸女学校[注釈 3])。
農業改革を目指した津田はその翌1875年、西洋野菜の種苗を育てる圃場と通信販売、知識を伝える出版に取り組もうと「学農社」を麻布に設け、農学校開学の準備を進めた。ソーパーは同社の休業日に施設を借り受けると、説教所「農学舎」として日曜礼拝と日曜学校を開始する。津田本人をはじめ400人に洗礼を授け、入信者には慶応義塾初代塾長でやはりプロテスタントに関心を寄せた古川正雄もいた[24]。1度めの離日の1883年、全国の受洗者総数は6598人とされる[25]。
この間に、ソーパーの家庭では1874年7月7日に娘が生まれレナ・イザベル(Lena Isabel Soper)と名づけるが、1歳を過ぎた翌1875年9月4日に夭逝した[12]。10月2日には築地美以教会が建つ(後の銀座教会)[12]。次の年のやはり7月に長男エドマンド・デイヴィソンが誕生する[注釈 4]。ソーパーは1877年に横浜でアメリカ市民とオランダ市民の結婚式に立ち会っている[31]。
青山学院の源流のひとつ「耕教学舎」を1878年に築地居留地に開くと(校長は西山礼輔[12]・菊地卓平[34])、男子学生を募集して英学と漢学を教授していた[疑問点 ][12]。1879年の初め、東京都心の京橋区から出火した1月26日の火事は隅田川を越えて深川まで延焼、火元の東隣の築地居留地はほとんどの教会堂が火に飲まれ、ソーパーたちのメソジスト監督教会と牧師館、宣教師の寄宿先も焼け落ちた。ソーパー牧師と宣教師(ホワイティング、ホルブルック、スペンサー)、またアメリカから到着し牧師館に寄留していたチャールズ・ビショップ牧師は私物を焼失し、いっさい保険をかけていなかったこと、建物は一部、保険の対象だったことがイギリス系の英字新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』(北華捷報 (wikidata)) の報道で伝わっている[35]。居留地を焼け出されたどの宣教団も、被災者の救護にかかりきりの中[35]、前年6月11日生まれのソーパーの二男ジェームス・プレストン(James Preston Soper)は2月2日に夭逝[12]。ホワイティングやスクーンメーカーらはやがて、学校再建の道を手探りすることになる[32]。
明けて1880年、医師の志田良硯の招きに応じて山形県天童市に移ったソーパーは、高橋雲岱と共に伝道を始める。天道町[疑問点 ]大字天童小畑甲に天童美以教会(現・日本基督教団天童教会)を設け[要出典]、翌年、転任先の横浜[12]で二女エセル・モードを4月15日に授かる[注釈 5]。東京には1882年に戻り、山形教会(現・日本基督教団山形本町教会)の献堂を見届けて[3]、大阪の超教派プロテスタント会議の/予稿集[38]に寄稿し、1883年にソーパーは家族を連れてアメリカに帰国する[12]。アメリカでは1884年8月1日生まれの三女ネリー・ウィニフレッド(Nellie Winifred Soper)[12]が同11月23日に夭逝[12]。
2度目の滞日
1886年、再び東京に赴任したソーパーは[12]、1890年以降、日本の全国禁酒運動と密接に結びついていく[1][39]。おりしも大日本帝国憲法が公布され(1889年2月11日)、奉祝大行列を目撃したり[1]、1905年秋、戦場から帰朝した東郷平八郎と上村彦之丞の凱旋式典では日比谷公園の特設会場に招かれている[1]。
1892年から1895年にわたる北海道赴任を含め、メソジスト監督教会に関連して伝道活動を務めた[1][12]ソーパーは、1896年に東京に戻ると青山学院神学部の教授職に就き[1][12]、しばらく同学部長を務め(1901年–1908年[12])、退官前は教授に専念する。
この期間に1892年と1900年の2回アメリカに出かけると、日本を代表してメソジスト監督教会宣教会年次会議ならびにアメリカ全国総会に参加した[1]。2回目の時は4月にエキュメニカル・ミッション会議に出席した(ニューヨーク)。
後半生
1911年にアメリカに帰国した[12]ソーパーは、カリフォルニア州のグレンデールに赴任し1914年からノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師となり、1919年に引退する[12]。妻メアリーには1927年7月20日に先立たれ[12]、ソーパー自身は1937年2月5日に永眠[1]。メリーランド州ではなく終焉(しゅうえん)の地に埋葬された。
記念碑
青山学院大学青山キャンパスにはソーパーの功績を記念し、石碑が建立されている。後背は登録有形文化財「ベリーホール」がたたずむ。
主な著作
- Soper, Julius (25 July 1871). "Little Falls Mission M.E. Church, under the auspices of the Dumbarton St. M.E. Church, Georgetown" (Document) (英語). D.C.: holograph.
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は無視されます。 (説明) 手稿、アーカイブ資料。ソーパーが記録した説教所開設の芳名録。ジョージタウン市リトルフォールズのメソジスト監督教会宣教師は、伝道の場を間借りの説教所からチェーンブリッジ橋のほとりに建てた自前の礼拝所へ移す。その経緯と、ダンバートン街の支援者の名簿(寄付者、評議員、建設委員会と宣教師)。 - ビンネー※1『天道総論 増補』ソーパル※2、小林謙一郎(共訳)、東京農書館、1882年(明治15年)、マイクロフィッシュ、インターネット公開。国立国会図書館書誌ID:000000467600、doi:10.11501/824892。※1=Binney, Thomas (1798年-1874年)。※2=肩書きは米国牧師。
- 本多庸一 等(訳・編)『メソジスト監督教会教理及び条例(全)』、メソジスト出版舎、1894年(明治27年)。インターネット公開、国立国会図書館書誌ID:000000467868、doi:10.11501/825188。注記:英文標題紙にジュリアス・ソーパル訳と記載あり。
洗礼を受けた著名人
1875年[疑問点 ]に「キリスト教界の三傑」[注釈 6]ともうたわれる津田仙とその妻初子に洗礼を授けている[要出典]。
参考文献
脚注とリンクする典拠、主な執筆者名順。
日本語資料
- 外史(編纂)「五月廿五日 ◯ 第六十八号 邏卒番人同様ノ働ヲナセシ者賞與取計ヒ」『明治七年 太政官布告書 太政官達書』 五、山中市兵衛 ほか、1874年。コマ番号0049.jp2-0050.jp2、doi:10.11501/2938284、インターネット公開。
- ジャン・W・クランメル(編)『来日メソジスト宣教師事典 : 1873-1993年』教文館、1996年2月25日。国立国会図書館書誌ID:000002491852、ISBN 4-7642-4019-X。Krummel, John William。
- 『恩師ソーパル博士』関根要八(編)、関根要八、1938年(昭和13年)。doi:10.11501/1227786。国立国会図書館書誌ID:000000707187。国立国会図書館内/図書館送信。追悼文集[注釈 7]。
- 「一 伝記」 (コマ番号0021.jp2)
- 「略歴」 3頁- (コマ番号0022.jp2-)
- 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (コマ番号0024.jp2-)
- 「二 追憶」頁- (コマ番号0044.jp2-0080.jp2-)
- 「三 書簡」頁- (コマ番号0082.jp2-)
- 東京都都政史料館『東京の英学』東京都都政史料館、東京〈東京都史紀要 ; 第16巻〉、1959年、117-130 (0068.jp-074.jp2)頁。doi:10.11501/9524726、国立国会図書館/図書館送信参加館内公開(謄写版)。第5章「§ミッション関係女子学校」、第8章「外人教師の片影」
- 並松 信久「明治期における津田仙の啓蒙活動 ─ 欧米農業の普及とキリスト教の役割─」『京都産業大学論集. 社会科学系列』第30巻、京都産業大学、2013年3月、85-122頁、ISSN 0287-9719、2021年9月28日閲覧。
- 守部 喜雅『日本宣教の夜明け』マナブックス、いのちのことば社 (発売)、2009年。 NCID BA90109383。ISBN 9784264026389。
- Who's who in the Far East, 1906-7. 香港: en:China mail. (1906-07). p. 316 2021年9月28日閲覧。
洋書
- “Marriage Announcement 1” (英語). Supreme Court & Consular Gazette. 上海: The North-China Herald (1870-1941). (1877年11月8日). p. 413 ProQuest 1320098754。横浜でソーパーがつかさどった結婚式の告知。
- . Supreme Court & Consular Gazette“Great Fire in Tokyo” (英語). The North-China Herald (1870-1941) (上海): pp. 33-34. (1880年1月15日) ProQuest 1321186089。木造の街と言われた東京は耐火性が低いと警鐘を鳴らされながら、1872年、1870年、そしてこの度は1879年初春に大火に見舞われた。
- “Notices of Recent Publications”. The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912) (上海) (1884年3月1日版): 143-144. (1884年3月2日) . ProQuest 1416436960。マイクロフィルム版、1868年-、NCID AA00132834。「新刊案内」の書名はThe Osaka Conference. 超教派の全国プロテスタント宣教師会議の予稿集(1883年4月大阪開催)。横浜:Meiklejohn & Co.、1883年発行。ソーパーは「Sabbath Schools; How to develop and conduct them」(日曜学校を開き、続ける方法)と題して寄稿した。
- Meiklejohn's Japan directory 横浜 : R.Meiklejohn & Co. 1899年版、1902年版。マイクロ、全国書誌番号:41023186。
脚注
注釈
- ^ 並松によると、耕教学舎で学んだ山鹿旗之進はソーパーを創始者と書き留めている[4][5][6][7][8]。
- ^ 太政官布告第68号の発布によりキリスト教の禁教を解く[14]。使府県 輸廓付 邏卒(らそつ)番人賞與規則明治六年十一月第三百九十二号 本年三月 第三十五号ヲ以テ相達候處(そうろうところ)一般人民ト雖モ(いえども)時宜已ムヲ得ス(やむを得ず)同様ノ働ヲナセル者ハ右規則ニ照準シ可取計(取りはからうべく)此旨(このむね)相達候事(引用ここまで)—(外史(編纂) 1874, 五月廿五日 ◯ 第六十八号)『明治七年 太政官布告書 太政官達書』五、山中市兵衛 ほか発刊
- ^ アメリカから帰った津田梅子は短い間、海岸女学校で教壇に立った[23]。
- ^ 長男エドマンド・デイヴィソン・ソーパー(Edmund Davison Soper 1976年7月16日–1961年[26]10月23日[27])も長じて神学を修め、中国と南アメリカで宣教活動を行った[12][28][29]。亡父の追悼文集に手紙を寄せている[30]。
- ^ エセル・モード・ソーパー(Ethel Maud Soper 1881年4月15日–1971年4月13日[36])も宣教師[12]。亡父の追悼文集に手紙を寄せている[37]。
- ^ 三傑とは前出の新島に加えて中村 正直 (東京帝国大学教授 1832-1891)[40]。
- ^ J・ソーパー追悼文集の主な寄稿者。丸カッコ内は電子ファイルのコマ番号を示す。
- 「一 伝記」 (0021.jp2)
- 「略歴」 3頁- (000022.jp2)
- 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (000024.jp2)
- 「二 追憶」頁- (000044.jp2-0080.jp2-)
- 「§ソーパル博士追憶晩餐会の記」48頁- (000045.jp2)
- 関根要八「§恩師ソーパル先生」55頁- (000048.jp2)
- 別所梅之助「§ソーパルさん」61頁- (000051.jp2)
- E・T・アイグルハート「§汝よくなしとげたり」76頁- (000059.jp2)
- 鵜飼猛「§ソーパル博士と禁酒事業」81頁- (000061.jp2)
- 川澄明敏「§ソーパル先生」87頁 (000064.jp2)
- ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」103頁- (000072.jp2)
- 生江孝之「§崇高なる人格者」117頁- (000079.jp2)
- 「三 書簡」 (000082.jp2)
- 「§ソーパル博士の手紙」124頁- (000083.jp2)
- 「§贈物に對するソーパル博士の感謝状」125頁- (000083.jp2)
- 「§ソーパル博士昇天前後」128頁- (000085.jp2)
- エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」136頁- (000089.jp2) 二女Ethel Maud Soper(1880年4月15日生まれ)
- エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」142頁- (000092.jp2) 長男、Edmound Divison Soper(1876年7月生まれ)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Who's who in the Far East, 1906-7 1906, p. 316
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- ^ 『恩師ソーパル博士』 1938, pp. 6- (コマ番号0024.jp2-), 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」
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- ^ 並松 2013, pp. 88–89
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- ^ 並松 2013, pp. 112–113
- ^ 磯辺弥一郎「津田女史の厳父津田仙氏」『英語青年』第62巻3号、1927年、104頁。
- ^ 並松[20]による引用[21]より。
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- ^ 金田道記「緑地帯 明治の教育者 古川正雄」『中国新聞』第6号、2013-07-30, 2013-08-07。
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- ^ 「年表」(pdf)、2021年10月1日閲覧。
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- ^ 『恩師ソーパル博士』 1938, p. 81- (コマ番号0061.jp2-)鵜飼猛「§ソーパル博士と禁酒事業」
- ^ 並松 2013, p. 86, 「1. はじめに」
関連項目
50音順。
関連資料
本文の典拠でないもの、分類内は発行年順。
英語資料
- Foreign Correspondence. "News of Australasia: Surrender of Samoa Arouses Feeling in the Colonies. No Work for Boys and Girls the Bad Effects of Some Labor Laws -- The Servant Girl Problem in New Zealand." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 、1899年12月24日、 ProQuest 95691411。サモアが植民を受け入れ、英連邦植民地に余波が広がる。未成年の労働を禁じる法律施行で失業が増加 -- 未成年女性使用人の問題(ニュージーランド)。
- 1900年のエキュメニカル・ミッション会議
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- "Missions of the World in Review: City Pulpits Filled by Leaders in Church Militant. Work of the Conference Programme of To-day's Great Meetings -- Wonderful Missionary Exhibit -- to be Transferred to the Museum of Natural History." 『ニューヨーク・タイムズ』(1857-1922) 1900年4月23日 p.1、 ProQuest 96036885。
- "Survey of the Mission Fields: Nine Sectional Meetings Held in the Afternoon.-- Reports from Many Lands Workers Tell of Conditions in the Far East, India, Africa, North and South America -- Jewish Christians -- Bishop Hurst on the Phillippines." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月24日、p.5、 ProQuest 95978927。極東、インド、アフリカ、南北アメリカの現場報告。ユダヤ系キリスト教徒。ハースト大司教、フィリピン情勢を語る。
- "Medical Training of Natives.: Speakers at Carnegie Hall Opposed to Bringing Them to America or Europe for Instruction." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月26日、p.6、 ProQuest 95935223。カーネギーホールより。登壇者は植民地の住民に欧米で医療研修を施す件に否定的。
- "Women's Great Conference Day: They Discuss Their Part in Mission Work at Three Meetings. Tears and Enthusiasm Ordinary Sessions of Delegates Attract Large Attendance. No Sectarian Lines Missionaries of All Protestant Denominations, it is said, Co-operate in Foreign Lands -- Higher Education and the Question of Religious Study." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月27日、p.5 ProQuest 96032626。エキュメニカル会議の前夜祭として行われた女性宣教師集会は盛況、3部会に分かれ活発な通常会議。外地では教派の壁を超越して協力していると主催者発表。高等教育と宗教学の問題。
- "Education in Missionary Labor.: Extension of Industrial and Manual Training Urged. Capable Workers Wanted Must be Physically and Mentally Fit -- Danger of Schools Going to Extremes and Becoming Secular or Mere Prayer Meetings."『ニューヨーク・タイムズ』(1857-1922) 1900年4月28日 p.5、 ProQuest 95991034。実務者として宣教師に求められる心身の強健さ -- 精神主義に走る神学校が単なる説教所に陥る恐れ。
- "Thanksgiving Day: "By the President of the United States of American-- A Proclamation." The North-China Herald、Supreme Court & Consular Gazette (1870-1941) ; 上海. 1907年11月29日 p.559、 ProQuest 1369854767。感謝祭にアメリカ大統領より祝辞。主催:American Association of China。会場:上海市、中国YMCAビル(Martyrs 記念ホール)。
- "Reu. Dr. John C. Davidson.: Pioneer Methodologist Missionary to Japan Dies in California at 84." 『ニューヨーク・タイムズ』(1857-1922) 1928年11月23日 p.25、ISSN 0362-4331、 ProQuest 104433630。訃報、ジョン・C・デイビソン牧師、神学博士。
日本語資料
- 別所梅之助『朝のおもひ』東京:創元社、1940年(昭和15年)、国立国会図書館書誌ID:000000705388、doi:10.11501/1684088。NDLデジタルコレクション、国立国会図書館内/図書館送信。
- 「そのかみの神学部」164頁- (コマ番号0091.jp2-)
- 「ソーパルさん」170頁- (コマ番号0094.jp2-)
- 「基督の日本的展開」203頁- (コマ番号0110.jp2)
- 「聖書改訳の当時」294頁- (コマ番号0156.jp2)
- 「讃美歌の事あれこれ」300頁- (コマ番号0159.jp2)
- 澤田 泰紳「明治期における在日本メソヂスト諸派合同運動の研究 (III)」『山梨英和短期大学紀要』第20巻、山梨英和学院 山梨英和大学、1987年、91-108頁、NAID 110001020018、doi:10.24628/yeiwatandai.20.0_91、ISSN 0286-2360。
- 森岡 清美「明治期キリスト教界指導者たちの家族形成」『成城文芸』第186号、成城大学文芸学部、2004年3月、1-23頁、NAID 110004682307、ISSN 0286-5718。
- 神田 健次「基督教教育同盟会の設立とエキュメニカル運動」『神学研究』第55号、関西学院大学、2008年3月、63-80頁、NAID 110007153279、ISSN 0559-8478。
外部リンク
"SOPER, Rev. Julius". Who's Who in the Far East (June) 1906-7