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「ジュリアス・ソーパー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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推敲、出典の追加。top: 主語。記念碑の画像幅200px。生涯: 加筆、東京大火ほか。人物: 同左。記念碑: ジュリアス・ソーパー#人物」の末尾に移動し、レベル3(小見出し)に。参考資料: 追加「日本語資料」「洋書」に分類。関連資料: 追加。TWL利用の資料にアイコン、tl:ProQuest。
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1845|2|15|1937|2|5}}
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|両親 =
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|配偶者 =マリー・フランシス・デイヴィソン<ref name="whowho19067" />
|配偶者 =マリー・フランシス・デイヴィソン<ref name="whowho19067" />
|子供 =長女レナ・イザベル・ソーパー夭逝<br />長男エドモンド・デイヴィソン・ソーパー([[宣教師]])<br />二男ジェームス・プレストン・ソーパー夭逝<br />二女エセル・モード・ソーパー(宣教師)<br />三女ネリー・ウィニフレッド・ソーパー夭逝
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|職業 = 宣教師、教
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'''ジュリアス・ソーパー'''(Julius Soper、[[1845年]]<ref name="wcid" />[[2月15日]] - [[1937年]]<ref name="wcid" />[[2月5日]]、'''ジュリアス・ソーパル'''とも)は、[[米国]][[メソジスト監督教会]][[宣教師]]、[[青山学院]][[神学部]]の[[教授]]<ref name="whowho19067" />。[[明治]]から大正期の日本に2期にわたって暮らし、2度目の来日後、1895年から離日まで[[キリスト教]]の教育に専念した<ref name="whowho19067" />。キリスト教関連の多くの[[ジュリアス・ソーパー#主な著作|出版物]]を日本語に訳したと伝わる<ref name="whowho19067" />。
'''ジュリアス・ソーパー'''({{lang-en-short|Julius Soper}}、[[1845年]]<ref name="wcid" />[[2月15日]] - [[1937年]]<ref name="wcid" />[[2月5日]]、'''ジュリアス・ソーパル'''とも)は、[[米国]][[メソジスト監督教会]][[宣教師]]、[[青山学院]][[神学部]]の[[教授]]<ref name="whowho19067" />。[[明治]]から大正期の日本に2期にわたって暮らし、2度目の来日後、1895年から離日まで[[キリスト教]]の教育に専念した<ref name="whowho19067" />。キリスト教関連の多くの[[ジュリアス・ソーパー#主な著作|出版物]]を日本語に訳したと伝わる<ref name="whowho19067" />。


== 人物 ==<!-- 合意形成後、見出しを「概要」に変更か。記述重複の指摘に応えるため。 -->
== 人物 ==<!-- 合意形成後、見出しを「概要」に変更か。記述重複の指摘に応えるため。 -->
[[File:Monument Julius soper.JPG|thumb|160px|[[青山学院]]の記念碑]]
[[File:Monument Julius soper.JPG|thumb|200px|[[青山学院]]の記念碑]]
1845年、[[メリーランド州]]に生まれ、[[ドルー神学校]]卒業。米国メソジスト監督教会で[[按手|按手礼]]を受け、1873年[[ジョン・デヴィソン|J・C・デイヴィソン]]夫妻と共に来日する。来日の翌年には[[津田仙]]の経営する[[麻布]]の「学農社」を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始。津田仙をはじめ400人に[[洗礼]]を授けている。入信者には[[慶應義塾|慶応義塾]]初代塾長の古川正雄もいた。
1845年、[[メリーランド州]]に生まれ、[[ドルー神学校]]卒業。米国メソジスト監督教会で[[按手|按手礼]]を受け、1873年[[ジョン・デヴィソン|J・C・デイヴィソン]]夫妻と共に来日する。来日の翌年には[[津田仙]]の経営する[[麻布]]の「学農社」を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始。津田仙をはじめ400人に[[洗礼]]を授けている。入信者には[[慶應義塾|慶応義塾]]初代塾長の古川正雄もいた。


1880年(明治13年)には医師の志田良硯に招かれて、[[山形県]][[天童市]]に赴き伝道を始め、天童町大字天童小畑甲(現・[[天童市]])に[[山形本町教会|天童美以教会]]を、1882年に山形教会を設立した<ref name=":0">{{Harvnb|守部|2009|pages=29-30}}</ref>。
1880年(明治13年)には医師の志田良硯に招かれて、[[山形県]][[天童市]]に赴き伝道を始め、天童町大字天童小畑甲(現・[[天童市]])に[[山形本町教会|天童美以教会]]を、1882年に山形教会を設立した<ref name=":0">{{Harvnb|守部|2009|pages=29-30}}</ref>。


[[外国人居留地#築地居留地|築地]]にあった「耕教学舎」の実質的な設立者でもある{{efn|並松によると、耕教学舎で学んだ山鹿旗之進はソーパーを創始者と書き留めている{{sfn|並松|2013|page=112}}<ref>山鹿旗之進「日本メソジストの父ソーパー博士を憶う」『日本メソジスト新聞』、1933年6月2日、216頁。</ref>{{sfn|並松|2013|page=116}}<ref>山鹿旗之進「日本メソヂストの父ソーパー博士を想う」『日本メソヂスト新聞』第2161号、1933年6月11日。</ref><ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|loc={{0}}山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」|pages=6- (コマ番号0024.jp2-)}}</ref>。}}。[[青山学院]]の源流でもある同校では、[[英学]]と{{疑問点範囲|[[漢学]]を教授|title=漢学の素養はどこで身につけたか|date=2021年9月28日}}していた{{要出典|date=2021年9月28日}}。青山学院神学部の教授([[1896年]]から[[1911年]])、同学部長(1901年から年1908年)を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館{{要説明範囲|連回区などの長老司|date=2021年9月}}も務めるなど、日本の[[メソジスト]]関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物である<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|loc={{0}}ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」|pages=103- (000072.jp2-)}}</ref>。
[[外国人居留地#築地居留地|築地]]にあった「耕教学舎」の実質的な設立者でもある{{efn|並松によると、耕教学舎で学んだ山鹿旗之進はソーパーを創始者と書き留めている<ref>{{Harvnb|並松|2013|page=112}}</ref><ref>山鹿旗之進「日本メソジストの父ソーパー博士を憶う」『日本メソジスト新聞』、1933年6月2日、216頁。</ref><ref>{{Harvnb|並松|2013|page=116}}</ref><ref>山鹿旗之進「日本メソヂストの父ソーパー博士を想う」『日本メソヂスト新聞』第2161号、1933年6月11日。</ref><ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|loc={{0}}山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」|pages=6- (コマ番号0024.jp2-)}}</ref>。}}。[[青山学院]]の源流でもある同校では、[[英学]]と{{疑問点範囲|[[漢学]]を教授|title=漢学の素養はどこで身につけたか|date=2021年9月28日}}していた{{要出典|date=2021年9月28日}}。青山学院神学部の教授([[1896年]]から[[1911年]])、同学部長(1901年から年1908年)を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館{{要説明範囲|連回区などの長老司|date=2021年9月}}も務めるなど、日本の[[メソジスト]]関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物である<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|loc={{0}}ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」|pages=103- (000072.jp2-)}}</ref>。


日米のメソジスト監督教会を結び、2度の滞日の後半は日本代表としてアメリカに出張する機会を2回得た<ref name="whowho19067" />。握手を交わしたアメリカ大統領は第15代[[ジェームズ・ブキャナン]]、第16代[[エイブラハム・リンカーン]]、第18代[[ユリシーズ・グラント]]、第22・24代[[グロバー・クリーブランド]]、第25代[[ウィリアム・マッキンリー]]の5名である<ref name="whowho19067" />。
日米のメソジスト監督教会を結び、2度の滞日の後半は日本代表としてアメリカに出張する機会を2回得た<ref name="whowho19067" />。握手を交わしたアメリカ大統領は第15代[[ジェームズ・ブキャナン]]、第16代[[エイブラハム・リンカーン]]、第18代[[ユリシーズ・グラント]]、第22・24代[[グロバー・クリーブランド]]、第25代[[ウィリアム・マッキンリー]]の5名である<ref name="whowho19067" />。
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1845年2月15日、[[メリーランド州]]プールズビル生まれ<ref name="whowho19067" />のソーパーは[[ジョージタウン大学]]([[ワシントンD.C.]])から[[ドルー神学校]]に進む<ref name="whowho19067" />。1867年に卒業{{要出典|date=2021年9月}}、宣教師として働くと<ref>{{Harvnb|Soper|1871|ps={{0}}"Little Falls Mission M.E. Church"}}</ref>、1873年に米国メソジスト監督教会[[ボルチモア]][[:en:Yearly Meeting|年会]]{{en icon}}で按手礼を受けている{{要出典|date=2021年9月}}。同年5月20日、神学校で同期の[[ジョン・デヴィソン|J・C・デイヴィソン]]の妹で宣教師のマリー(メアリー)・フランシス・デイヴィソン(Mary Frances Davison)と結婚<ref name="whowho19067" /><ref name=":1">{{Harvnb|クランメル|1996|pages=242-243}}</ref>、この時、義兄となるジョンも{{訳語疑問点範囲|Mary Elizabeth Stout|title=メアリー・エリザベス・スタウト|date=2021年9月28日}}と結婚式を挙げた<ref name=":2">{{Harvnb|クランメル|1996|page=64}}</ref>。
1845年2月15日、[[メリーランド州]]プールズビル生まれ<ref name="whowho19067" />のソーパーは[[ジョージタウン大学]]([[ワシントンD.C.]])から[[ドルー神学校]]に進む<ref name="whowho19067" />。1867年に卒業{{要出典|date=2021年9月}}、宣教師として働くと<ref>{{Harvnb|Soper|1871|ps={{0}}"Little Falls Mission M.E. Church"}}</ref>、1873年に米国メソジスト監督教会[[ボルチモア]][[:en:Yearly Meeting|年会]]{{en icon}}で按手礼を受けている{{要出典|date=2021年9月}}。同年5月20日、神学校で同期の[[ジョン・デヴィソン|J・C・デイヴィソン]]の妹で宣教師のマリー(メアリー)・フランシス・デイヴィソン(Mary Frances Davison)と結婚<ref name="whowho19067" /><ref name=":1">{{Harvnb|クランメル|1996|pages=242-243}}</ref>、この時、義兄となるジョンも{{訳語疑問点範囲|Mary Elizabeth Stout|title=メアリー・エリザベス・スタウト|date=2021年9月28日}}と結婚式を挙げた<ref name=":2">{{Harvnb|クランメル|1996|page=64}}</ref>。


2組の夫妻は同年8月8日、共に来日すると東京で伝道活動につき、ソーパーの妻のメアリーも宣教師として働き始める<ref name=":1" />。明治政府はこの1873年(明治6年)、キリスト教の信仰を許したばかりで{{efn|太政官布告第68号の発布によりキリスト教の禁教を解く{{sfn|並松|2013|page=96}}。}}、[[イギリス連邦|イギリス]]、アメリカ、[[カナダ]]から宣教師が入国し始めていた。この頃、ソーパーと同じ教派の宣教師[[ドーラ・E・スクーンメーカー|ドーラ・スクーンメーカー]]は[[外国人居留地#築地居留地|築地]]に女性のための学校を建てようとしていた。英語ができた[[津田仙]](1837年-1908年)はソーパーに助力を頼まれる。津田は[[杉田玄瑞]]と外国奉行通弁役(1861年)として同期だったり<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=88-89}}</ref>、[[蕃書調所]]の代表を手伝った経歴を買われ、ウィーン派遣から戻ったばかりであった。ごく短期間、一緒に働いた[[新島襄|新島㐮]]<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=95-96,107-14}}</ref>を介してプロテスタントに理解もあり<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=95-96,107}}</ref>、二人して外国人の滞在手続きや国籍取得の相談に乗っていた{{Refnest|並松<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=112-113}}</ref>による<ref>[[磯辺弥一郎]]「津田女史の厳父津田仙氏」『英語青年』第62巻3号、1927年、104頁。</ref>。}}。そこで依頼を引き受けたものの生徒集めに苦心した末、自分の妻初子や娘、妻の友人ら5人だけ女性を揃える。スクーンメーカーは津田宅の部屋を借りて教室を始めると{{要出典範囲|女子の小さな学校(女子小学)|date=2021年9月}} を開校する(のちの海岸女学校{{efn|アメリカから帰った津田梅子は短い間、海岸女学校で教壇に立った{{sfn|並松|2013|pages=111-112}}。}})。
2組の夫妻は同年8月8日、共に来日すると東京で伝道活動につき、ソーパーの妻のメアリーも宣教師として働き始める<ref name=":1" />。明治政府はこの1873年(明治6年)、キリスト教の信仰を許したばかりで{{efn|太政官布告第68号の発布によりキリスト教の禁教を解く<ref>{{Harvnb|並松|2013|page=96}}</ref>。}}、[[イギリス連邦|イギリス]]、アメリカ、[[カナダ]]から宣教師が入国し始めていた。この頃、ソーパーと同じ教派の宣教師{{anchor|スクーンメーカー}}[[ドーラ・E・スクーンメーカー|ドーラ・スクーンメーカー]]は[[外国人居留地#築地居留地|築地]]に女性のための学校を建てようとしていた。英語ができた[[津田仙]](1837年-1908年)はソーパーに助力を頼まれる。津田は[[杉田玄瑞]]と外国奉行通弁役(1861年)として同期だったり<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=88-89}}</ref>、[[蕃書調所]]の代表を手伝った経歴を買われ、ウィーン派遣から戻ったばかりであった。ごく短期間、一緒に働いた[[新島襄|新島㐮]]<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=95-96,107-14}}</ref>を介してプロテスタントに理解もあり<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=95-96,107}}</ref>、二人して外国人の滞在手続きや国籍取得の相談に乗っていた{{Refnest|並松<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=112-113}}</ref>による<ref>[[磯辺弥一郎]]「津田女史の厳父津田仙氏」『英語青年』第62巻3号、1927年、104頁。</ref>。}}。そこで依頼を引き受けたものの生徒集めに苦心した末、自分の妻初子や娘、妻の友人ら5人だけ女性を揃える。スクーンメーカーは津田宅の部屋を借りて教室を始めると{{要出典範囲|女子の小さな学校(女子小学)|date=2021年9月}} を開校する(のちの海岸女学校{{efn|アメリカから帰った津田梅子は短い間、海岸女学校で教壇に立った<ref>{{Harvnb|並松|2013|pages=111-112}}</ref>。}})。


農業改革を目指した津田はその翌1875年、西洋野菜の種苗を育てる[[農場|圃場]]と[[通信販売]]、知識を伝える[[出版]]に取り組もうと「[[津田仙#学農社|学農社]]」を[[麻布]]に設け、[[農学校]]開学の準備を進めた。ソーパーは同社の休業日に施設を借り受けると、説教所「農学舎」として日曜礼拝と[[教会学校|日曜学校]]を開始する。津田本人をはじめ400人に洗礼を授け、入信者には[[慶應義塾|慶応義塾]]初代塾長でやはりプロテスタントに関心を寄せた古川正雄<!-- 関連項目に挙げるため内部リンクを除去しました。 -->もいた<ref>{{cite journal|和書|author=金田道記|title=緑地帯 明治の教育者 古川正雄|number=6|journal=[[中国新聞]]|date=2013-07-30, 2013-08-07}}</ref>。
農業改革を目指した津田はその翌1875年、西洋野菜の種苗を育てる[[農場|圃場]]と[[通信販売]]、知識を伝える[[出版]]に取り組もうと「[[津田仙#学農社|学農社]]」を[[麻布]]に設け、[[農学校]]開学の準備を進めた。ソーパーは同社の休業日に施設を借り受けると、説教所「農学舎」として日曜礼拝と[[教会学校|日曜学校]]を開始する。津田本人をはじめ400人に洗礼を授け、入信者には[[慶應義塾|慶応義塾]]初代塾長でやはりプロテスタントに関心を寄せた古川正雄<!-- 関連項目に挙げるため内部リンクを除去しました。 -->もいた<ref>{{cite journal|和書|author=金田道記|title=緑地帯 明治の教育者 古川正雄|number=6|journal=[[中国新聞]]|date=2013-07-30, 2013-08-07}}</ref>。1度めの離日(1883年)の全国の受洗者数は6598人とされる<ref>{{Harvnb|The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912)|1884|pages=143-144}}</ref>。


この間に、ソーパーの家庭では1874年7月7日に娘が生まれレナ・イザベル({{lang|en|Lena Isabel Soper}})と名づけるが、1歳を過ぎた翌1875年9月4日に夭逝した<ref name=":1" />。10月2日には築地美以教会が建つ(後の[[銀座教会]])<ref name=":1" />。次の年のやはり7月に長男エドンド・デイヴィソンが誕生する{{efn|長男エドンド・デイヴィソン・ソーパー({{lang|en|Edmound Divison Soper}} 1976年7月16日生まれ)も長じて宣教師となった<ref name=":1" />。亡父の追悼文集に手紙を寄せている<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」|pages=142- (コマ番号0092.jp2-) |}}</ref>。}}。
この間に、ソーパーの家庭では1874年7月7日に娘が生まれレナ・イザベル({{lang|en|Lena Isabel Soper}})と名づけるが、1歳を過ぎた翌1875年9月4日に夭逝した<ref name=":1" />。10月2日には築地美以教会が建つ(後の[[銀座教会]])<ref name=":1" />。次の年のやはり7月に長男エドンド・デイヴィソンが誕生する{{efn|長男エドンド・デイヴィソン・ソーパー({{lang|en|Edmund Davison Soper}} 1976年7月16日&ndash;1961年<ref>{{Cite web|title=Soper, Edmund Davison 1876-1961 |publisher=WorldCat.org|url=https://www.worldcat.org/wcidentities/lccn-no96001049|website=www.worldcat.org|lccn=no96001049|accessdate=2021-10-01}}</ref>10月23日<ref>{{Cite web|title=Dr Edmund Davison Soper (1876-1961) - Find A Grave...|url=https://www.findagrave.com/memorial/173499713/edmund-davison-soper|website=www.findagrave.com|accessdate=2021-10-01|language=en}}</ref>)も長じて神学を修め、中国と南アメリカで宣教活動を行った<ref name=":1" /><ref>Barbosa, Silvano. "[https://www-proquest-com.wikipedialibrary.idm.oclc.org/dissertations-theses/theory-base-mission-sending-model-south-american/docview/2073782206/se-2?accountid=196403. A Theory Base and Mission-Sending Model for the South American Division of the Seventh-Day Adventist Church]." Andrews University, 2017. </ref><ref>"Latest Books [Religion and Philosophy] : ''The Religions of Mankind'' by Edmund Davidson Soper. 12 mo. New York, The Abingdon Press." ''New York Times'' (1857-1922); New York, N.Y. 192104-24: BRM15.</ref>。亡父の追悼文集に手紙を寄せている<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」|pages=142- (コマ番号0092.jp2-) |}}</ref>。}}。1877年に横浜でアメリカ市民とオランダ市民の結婚式に立ち会っている<ref>{{Harvnb|''The North-China Herald''|1877|page=413|loc=「結婚告知」}}</ref>


[[青山学院]]の源流のひとつ「耕教学舎」を[[1878年]]に築地居留地に開くと(校長は西山礼輔<ref name=":1" />・菊地卓平{{refnest|『青山学院女子短期大学六十五年史』<ref name="BB28191110">{{cite book|和書|editor=青山學院女子短期大學|title=青山学院女子短期大学六十五年史|edition=修正版|publisher=青山学院女子短期大学|year=2016|ncid=BB28191110|ref=Harvnb}}{{ISBN2|9784902629569}}。</ref>に掲載の年表による<ref>{{cite document|和書|url=http://www.luce.aoyama.ac.jp/65th/pdf/list11.pdf|format=pdf|title=年表|accessdate=2021-10-01}}</ref>。}})、男子学生を募集して[[英学]]と{{疑問点範囲|[[漢学]]を教授していた|title=漢学の素養はどこで得たか|date=2021年9月}}<ref name=":1" />。同年6月11日生まれの二男ジェームス・プレストン({{lang|en|James Preston Soper}})<ref name=":1" />は8ヵ月齢を待たず翌1879年2月2日に夭逝<ref name=":1" />。その年の初め、東京都心の[[京橋 (東京都中央区)|京橋区]]から出火した1月26日の火事は隅田川を越えて深川まで延焼、火元の東隣の築地居留地はほとんどの教会堂が火に飲まれ、ソーパーたちのメソジスト監督教会と牧師館、宣教師の寄宿先も延焼した。牧師と宣教師(ホワイティング、ホルブルック、スペンサー)、またアメリカから到着したばかりで牧師館に寄留していたチャールズ・ビショップ牧師は私物を焼失し、いっさい保険をかけていなかったこと、建物は一部、保険の対象だったことがイギリス系の英字新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』([[:zh:字林西报|北華捷報]]』{{zh icon}}<small>([[:d:Q844322|wikidata]])</small>の報道でアメリカに伝わっている<ref name="northchina">{{Harvnb|''The North-China Herald''|1880|pages=33-34}}</ref>。居留地を焼け出されたどの宣教団も、被災者の救護にかかりきりであった<ref name="northchina" />。ホワイティングや[[:ジュリアス・ソーパー#スクーンメーカー|スクーンメーカー]]<!-- 内部リンクの上書きはご勘弁ください。この記事内に置いた見えないアンカーへジャンプすると、この人物の記事ページへのリンクが利用できます。 -->らは学校再建の道を手探りすることになる<ref name="BB28191110" />。
[[青山学院]]の源流である「耕教学舎」を[[1878年]]に築地居留地に開くと(校長は西山礼輔)、男子学生を募集して[[英学]]と{{疑問点範囲|[[漢学]]を教授していた|title=漢学の素養はどこで得たか|date=2021年9月}}<ref name=":1" />。同年6月11日生まれの二男ジェームス・プレストン({{lang|en|James Preston Soper}})<ref name=":1" />は8ヵ月齢を待たず翌年2月2日に夭逝<ref name=":1" />。


[[医師]]の志田良硯の招きに応じて1880年、山形県天童市に移ると[[高橋雲岱]]と共に伝道を始める。天道町{{疑問点|date=2021年9月|title=天童町?}}大字天童小畑甲に天童美以教会(現・[[日本基督教団]]天童教会)を設け{{要出典|date=2021年9月}}、翌年、転任先の横浜<ref name=":1" />で二女エセル・モード({{lang|en|Ethel Maud Soper}})を4月15日に授かる{{efn|エセル・モード・ソーパーも宣教師<ref name=":1" />。亡父の追悼文集に手紙を寄せている<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」|pages=136- (コマ番号0089.jp2-) }}</ref>。}}。東京には1882年に移り、山形教会(現・日本基督教団[[山形本町教会]])の献堂を見届けて<ref name=":0" />、1883年にソーパーは家族を連れてアメリカに帰国する<ref name=":1" />。アメリカでは1884年8月1日生まれの三女ネリー・ウィニフレッド({{lang|en|Nellie Winifred Soper}})<ref name=":1" />が同11月23日に夭逝<ref name=":1" />。
明けて1880年、[[医師]]の志田良硯の招きに応じて山形県天童市に移ったソーパーは、[[高橋雲岱]]と共に伝道を始める。天道町{{疑問点|date=2021年9月|title=天童町?}}大字天童小畑甲に天童美以教会(現・[[日本基督教団]]天童教会)を設け{{要出典|date=2021年9月}}、翌年、転任先の横浜<ref name=":1" />で二女エセル・モードを4月15日に授かる{{efn|エセル・モード・ソーパー({{lang|en|Ethel Maud Soper}} 1881年4月15日&ndash;1971年4月13日<ref>{{Cite web|title=Ethel Maud Soper (1881-1971) - Find A Grave...|url=https://www.findagrave.com/memorial/85522217/ethel-maud-soper|website=www.findagrave.com|accessdate=2021-10-01|language=en}}</ref>)も宣教師<ref name=":1" />。亡父の追悼文集に手紙を寄せている<ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」|pages=136- (コマ番号0089.jp2-) </ref>。}}。東京には1882年に移り、山形教会(現・日本基督教団[[山形本町教会]])の献堂を見届けて<ref name=":0" />、大阪の超教派のプロテスタント会議予稿集<ref>{{Harvnb|The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912)|1884|pages=143-144}}</ref>に寄稿し、1883年にソーパーは家族を連れてアメリカに帰国する<ref name=":1" />。アメリカでは1884年8月1日生まれの三女ネリー・ウィニフレッド({{lang|en|Nellie Winifred Soper}})<ref name=":1" />が同11月23日に夭逝<ref name=":1" />。


=== 2度目の滞日 ===
=== 2度目の滞日 ===


1886年、再び東京に赴任したソーパーは<ref name=":1" />、1890年以降、その名を日本の全国[[禁酒運動]]と密接に結びついていく<ref name="whowho19067" /><ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}[[鵜飼猛]]「§ソーパル博士と禁酒事業」|page=81- (コマ番号0061.jp2-)}}</ref>。おりしも[[大日本帝国憲法]]が公布され(1889年2月11日)、奉祝大行列を目撃したり<ref name="whowho19067" />、1905年秋、戦場から帰朝した[[東郷平八郎]]と[[上村彦之丞]]の凱旋式典では[[日比谷公園]]の特設会場に招かれている<ref name="whowho19067" />。
1886年、再び東京に赴任したソーパーは<ref name=":1" />、1890年以降、日本の全国[[禁酒運動]]と密接に結びついていく<ref name="whowho19067" /><ref>{{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps={{0}}[[鵜飼猛]]「§ソーパル博士と禁酒事業」|page=81- (コマ番号0061.jp2-)}}</ref>。おりしも[[大日本帝国憲法]]が公布され(1889年2月11日)、奉祝大行列を目撃したり<ref name="whowho19067" />、1905年秋、戦場から帰朝した[[東郷平八郎]]と[[上村彦之丞]]の凱旋式典では[[日比谷公園]]の特設会場に招かれている<ref name="whowho19067" />。

この期間に1892年と1900年の2回、日本を代表してメソジスト監督教会宣教会年次会議ならびにアメリカ全国総会に参加するめ、アメリカに出かけており<ref name="whowho19067" />2回目の時は4月に[[エキュメニズム|エキュメニカル]]・ミッション会議に出席した([[ニューヨーク州|ニューヨーク]])。


1892年から1895年にわたる北海道赴任を含め、メソジスト監督教会に関連して伝道活動を務めた<ref name="whowho19067" /><ref name=":1" />ソーパーは、1896年に東京に戻ると青山学院神学部の教授職に就き<ref name="whowho19067" /><ref name=":1" />、しばらく同学部長を務め(1901年&ndash;1908年<ref name=":1" />)、退官前は教授に専念する。
1892年から1895年にわたる北海道赴任を含め、メソジスト監督教会に関連して伝道活動を務めた<ref name="whowho19067" /><ref name=":1" />ソーパーは、1896年に東京に戻ると青山学院神学部の教授職に就き<ref name="whowho19067" /><ref name=":1" />、しばらく同学部長を務め(1901年&ndash;1908年<ref name=":1" />)、退官前は教授に専念する。

この期間に1892年と1900年の2回アメリカに出かけると、日本を代表してメソジスト監督教会宣教会年次会議ならびにアメリカ全国総会に参加た<ref name="whowho19067" />2回目の時は4月に[[エキュメニズム|エキュメニカル]]・ミッション会議に出席した([[ニューヨーク州|ニューヨーク]])。


=== 後半生 ===
=== 後半生 ===
1911年にアメリカに帰国した<ref name=":1" />ソーパーは、カリフォルニア州のグレンデールに赴任し1914年からノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師となり、1919年に引退する<ref name=":1" />。妻メアリーには1927年7月20日に先立たれ<ref name=":1" />、ソーパー自身は[[1937年]]2月5日に永眠<ref name="whowho19067" />。メリーランド州ではなく終焉(しゅうえん)の地に埋葬された。
1911年にアメリカに帰国した<ref name=":1" />ソーパーは、カリフォルニア州の[[グレンデール (カリフォルニア州)|グレンデール]]に赴任し1914年からノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師となり、1919年に引退する<ref name=":1" />。妻メアリーには1927年7月20日に先立たれ<ref name=":1" />、ソーパー自身は[[1937年]]2月5日に永眠<ref name="whowho19067" />。メリーランド州ではなく終焉(しゅうえん)の地に埋葬された。

=== 記念碑 ===
[[青山学院大学]]青山キャンパスにはソーパーの功績を記念し、石碑が建立されている。後背は[[登録有形文化財]]「ベリーホール」がたたずむ。


== 主な著作 ==
== 主な著作 ==
* {{cite document|last=Soper|first= Julius|date=1871-07-25|title=Little Falls Mission M.E. Church, under the auspices of the Dumbarton St. M.E. Church, Georgetown.|location= [[ワシントンD.C.|D.C.]] |publisher= holograph|language=en|oclc=51179928|ref={{Harvnb|Soper|1871}}|}}. 手稿、アーカイブ資料。ソーパーが記録した説教所設の芳名録。ジョージタウン市リトルフォールズのメソジスト監督教会宣教師は、伝道の場を間借りの説教所からチェーンブリッジ橋のほとりに建てた自前の建物へ移す。その経緯と、ダンバートン街の支援者の人々、寄付者、評議員、建設委員会と宣教師の名簿
* {{cite document|last=Soper|first= Julius|date=1871-07-25|title=Little Falls Mission M.E. Church, under the auspices of the Dumbarton St. M.E. Church, Georgetown.|location= [[ワシントンD.C.|D.C.]] |publisher= holograph|language=en|oclc=51179928|ref={{Harvnb|Soper|1871}}|}} 手稿、アーカイブ資料。ソーパーが記録した説教所設の芳名録。[[ジョージタウン (ワシントンD.C.)|ジョージタウン市]]リトルフォールズのメソジスト監督教会宣教師は、伝道の場を間借りの説教所からチェーンブリッジ橋のほとりに建てた自前の礼拝所へ移す。その経緯と、ダンバートン街の支援者の名簿(寄付者、評議員、建設委員会と宣教師
* ビンネー『天道総論 増補』ソーパル<sup><small>※1</small></sup>、小林謙一郎(共訳)、東京農書館、1882年(明治15年)、マイクロフィッシュ、インターネット公開。{{国立国会図書館書誌ID|000000467600}}、{{DOI|10.11501/824892}}。[[:wikisource:en:Author:Thomas_Binney|Binney, Thomas]] (1798年-1874年)。※1=肩書きは米国牧師。
* ビンネー<small><sup>※1</sup></small>『天道総論 増補』ソーパル<sup><small>※2</small></sup>、小林謙一郎(共訳)、東京農書館、1882年(明治15年)、マイクロフィッシュ、インターネット公開。{{国立国会図書館書誌ID|000000467600}}、{{DOI|10.11501/824892}}。※1=[[:wikisource:en:Author:Thomas_Binney|Binney, Thomas]] (1798年-1874年)。※2=肩書きは米国牧師。
* [[本多庸一]] 等(訳・編)『メソジスト監督教会教理及び条例(全)』、メソジスト出版舎、1894年(明治27年)。インターネット公開、{{国立国会図書館書誌ID|000000467868}}、{{DOI|10.11501/825188}}。注記:英文標題紙にジュリアス・ソーパル訳と記載あり。
* [[本多庸一]] 等(訳・編)『メソジスト監督教会教理及び条例(全)』、メソジスト出版舎、1894年(明治27年)。インターネット公開、{{国立国会図書館書誌ID|000000467868}}、{{DOI|10.11501/825188}}。注記:英文標題紙にジュリアス・ソーパル訳と記載あり。


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{{疑問点範囲|[[1875年]]|title=前出は1874年では?|date=2021年9月}}に「キリスト教界の三傑」{{efn|三傑とは前出の新島に加えて[[中村正直|中村 正直]] (東京帝国大学教授 1832-1891)<ref>{{Harvnb|並松|2013|page=86|loc=「1. はじめに」}}</ref>。}}ともうたわれる[[津田仙]]とその妻初子に洗礼を授けている{{要出典|date=2021年9月}}。
{{疑問点範囲|[[1875年]]|title=前出は1874年では?|date=2021年9月}}に「キリスト教界の三傑」{{efn|三傑とは前出の新島に加えて[[中村正直|中村 正直]] (東京帝国大学教授 1832-1891)<ref>{{Harvnb|並松|2013|page=86|loc=「1. はじめに」}}</ref>。}}ともうたわれる[[津田仙]]とその妻初子に洗礼を授けている{{要出典|date=2021年9月}}。


== 参考文献 ==<!-- 「参考文献」に脚注を付けるため、便宜上、「脚注」を後置します。 -->
==記念碑==
[[青山学院大学]]青山キャンパスにはソーパーの功績を記念し、石碑が建立されている。後背は[[登録有形文化財]]「ベリーホール」がたたずむ。

== 参考文献 ==
脚注とリンクする典拠、主な執筆者名順。
脚注とリンクする典拠、主な執筆者名順。
=== 日本語資料 ===
* {{cite book|和書|author=ジャン・W・クランメル(編)|title=来日メソジスト宣教師事典 : 1873-1993年|publisher=教文館|date=1996-02-25|ref={{Harvnb|クランメル|1996}}|}}{{国立国会図書館書誌ID|000002491852}}、{{ISBN2|4-7642-4019-X}}。Krummel, John William。
* {{cite book|和書|author=ジャン・W・クランメル(編)|title=来日メソジスト宣教師事典 : 1873-1993年|publisher=教文館|date=1996-02-25|ref={{Harvnb|クランメル|1996}}|}}{{国立国会図書館書誌ID|000002491852}}、{{ISBN2|4-7642-4019-X}}。Krummel, John William。
* {{cite book|和書|others=関根要八(編)|title=恩師ソーパル博士|date=1938年(昭和13年)|publisher=[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00348491 関根要八]|id={{国立国会図書館書誌ID|000000707187}}|doi=10.11501/1227786|ref={{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938}}|}}国立国会図書館内/図書館送信。追悼文集{{efn|J・ソーパー追悼文集の主な寄稿者。丸カッコ内は電子ファイルのコマ番号を示す。
* {{cite book|和書|others=関根要八(編)|title=恩師ソーパル博士|date=1938年(昭和13年)|publisher=[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00348491 関根要八]|id={{国立国会図書館書誌ID|000000707187}}|doi=10.11501/1227786|ref={{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938}}|}}国立国会図書館内/図書館送信。追悼文集{{efn|J・ソーパー追悼文集の主な寄稿者。丸カッコ内は電子ファイルのコマ番号を示す。
{{div col||30em}}
*「一 伝記」 (0021.jp2)
*「一 伝記」 (0021.jp2)
*「略歴」 3頁- (000022.jp2)
*「略歴」 3頁- (000022.jp2)
* [[山鹿旗之進]]「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (000024.jp2)
* 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (000024.jp2)
* 「二 追憶」頁- (000044.jp2-0080.jp2-)
* 「二 追憶」頁- (000044.jp2-0080.jp2-)
**「§ソーパル博士追憶晩餐会の記」48頁- (000045.jp2)
**「§ソーパル博士追憶晩餐会の記」48頁- (000045.jp2)
** [[関根要八|關根要八]]「§恩師ソーパル先生」55頁- (000048.jp2)
** 関根要八「§恩師ソーパル先生」55頁- (000048.jp2)
**[[別所梅之助]]「§ソーパルさん」61頁- (000051.jp2)
**別所梅之助「§ソーパルさん」61頁- (000051.jp2)
**E・T・アイグルハート「§汝よくなしとげたり」76頁- (000059.jp2)
**E・T・アイグルハート「§汝よくなしとげたり」76頁- (000059.jp2)
**[[鵜飼猛]]「§ソーパル博士と禁酒事業」81頁- (000061.jp2)
**鵜飼猛「§ソーパル博士と禁酒事業」81頁- (000061.jp2)
**[[川澄明敏]]「§ソーパル先生」87頁 (000064.jp2)
**川澄明敏「§ソーパル先生」87頁 (000064.jp2)
**[[ギデオン・ドレーパー|ギデオン・ドレーパル]]「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」103頁- (000072.jp2)
**ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」103頁- (000072.jp2)
**[[生江孝之]]「§崇高なる人格者」117頁- (000079.jp2)
**生江孝之「§崇高なる人格者」117頁- (000079.jp2)
* 「三 書簡」 (000082.jp2)
* 「三 書簡」 (000082.jp2)
**「§ソーパル博士の手紙」124頁- (000083.jp2)
**「§ソーパル博士の手紙」124頁- (000083.jp2)
123行目: 123行目:
**「§ソーパル博士昇天前後」128頁- (000085.jp2)
**「§ソーパル博士昇天前後」128頁- (000085.jp2)
**エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」136頁- (000089.jp2) 二女{{lang|en|Ethel Maud Soper}}(1880年4月15日生まれ)
**エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」136頁- (000089.jp2) 二女{{lang|en|Ethel Maud Soper}}(1880年4月15日生まれ)
**エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」142頁- (000092.jp2) 長男、{{lang|en|Edmound Divison Soper}}(1876年7月生まれ)。
**エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」142頁- (000092.jp2) 長男、{{lang|en|Edmound Divison Soper}}(1876年7月生まれ)。}}
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**「一 伝記」 (コマ番号0021.jp2)
**「一 伝記」 (コマ番号0021.jp2)
**「略歴」 3頁- (コマ番号0022.jp2-)
**「略歴」 3頁- (コマ番号0022.jp2-)
130行目: 130行目:
** 「二 追憶」頁- (コマ番号0044.jp2-0080.jp2-)
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** 「三 書簡」頁- (コマ番号0082.jp2-)
** 「三 書簡」頁- (コマ番号0082.jp2-)
{{div col end}}

* {{cite journal|和書|author=並松 信久|date=2013-03|title=明治期における津田仙の啓蒙活動 ─ 欧米農業の普及とキリスト教の役割─|journal=京都産業大学論集. 社会科学系列|volume=30|pages=85-122|url=https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1549&item_no=1&page_id=13&block_id=21|publisher=[[京都産業大学]]|accessdate=2021-09-28|ref={{Harvnb|並松|2013}}|ISSN=0287-9719|}}
* {{cite journal|和書|author=並松 信久|date=2013-03|title=明治期における津田仙の啓蒙活動 ─ 欧米農業の普及とキリスト教の役割─|journal=京都産業大学論集. 社会科学系列|volume=30|pages=85-122|url=https://ksu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1549&item_no=1&page_id=13&block_id=21|publisher=[[京都産業大学]]|accessdate=2021-09-28|ref={{Harvnb|並松|2013}}|ISSN=0287-9719|}}
* {{cite book|和書|authorlink=守部喜雅|author=守部 喜雅|title=日本宣教の夜明け
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|year=2009|publisher=マナブックス、いのちのことば社 (発売)|ref={{Harvnb|守部|2009}}|ncid=BA90109383}}{{ISBN2|9784264026389}}。
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* {{cite book|url=http://books.google.com/books?id=TdA9AAAAIAAJ |title=Who's who in the Far East, 1906-7|date= 1906-07|ref={{Harvnb|Who's who in the Far East, 1906-7|1906}}|page=316|location=香港|publisher=[[:en:China mail]]|accessdate=2021-09-28}}
* {{cite book|url=http://books.google.com/books?id=TdA9AAAAIAAJ |title=Who's who in the Far East, 1906-7|date= 1906-07|ref={{Harvnb|Who's who in the Far East, 1906-7|1906}}|page=316|location=香港|publisher=[[:en:China mail]]|accessdate=2021-09-28}}

=== 洋書 ===

* {{cite news|url=https://www.proquest.com/historical-newspapers/marriage-announcement-1-no-title/docview/1320098754/se-2?accountid=196403|title= Marriage Announcement 1|location=上海|publisher=[[:en:North China Daily News|The North-China Herald]] (1870-1941) |others=Supreme Court & Consular Gazette|date=1877年11月8日|ref={{Harvnb|The North-China Herald|1877}}|page=413|language=en}} [[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|1320098754}}。横浜でソーパーがつかさどった結婚式の告知。
* {{cite news|url=https://www.proquest.com/historical-newspapers/great-fire-tokio/docview/1321186089/se-2?accountid=196403 |title=Great Fire in Tokyo|location= 上海|work=The North-China Herald (1870-1941) |others=Supreme Court & Consular Gazette|date=1880年1月15日|ref={{Harvnb|The North-China Herald|1880}}|pages=33-34|language=en}} [[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|1321186089}}。木造の街と言われた東京は耐火性が低いと警鐘を鳴らされながら、1872年、1870年、そしてこの度は1879年初春に大火に見舞われた。
* {{cite journal|url=https://www.proquest.com/historical-newspapers/notices-recent-publications/docview/1416436960/se-2?accountid=196403 |title=Notices of Recent Publications|location= 上海|journal=The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912)|number=1884年3月1日版|date=1884年3月2日|ref={{Harvnb|The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912)|1884}}|pages=143-144}}[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|1416436960}}。マイクロフィルム版、1868年-、{{NCID|AA00132834}}。「新刊案内」の書名は''The Osaka Conference.'' 超教派の全国プロテスタント宣教師会議の予稿集(1883年4月大阪開催)。横浜:Meiklejohn & Co.、1883年発行。ソーパーは「Sabbath Schools; How to develop and conduct them」(日曜学校を開き、続ける方法)と題して寄稿した。
* ''Meiklejohn's Japan directory'' 横浜 : R.Meiklejohn & Co. 1899年版、1902年版。マイクロ、{{全国書誌番号|41023186}}。


== 脚注 ==<!-- 「参考文献」に脚注を付けるため、便宜上、「脚注」を後置します。 -->
== 脚注 ==<!-- 「参考文献」に脚注を付けるため、便宜上、「脚注」を後置します。 -->
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
{{Reflist|30em}}<!-- 相対段組み、画面幅による。 -->


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
50音順。
* [[古川正雄]]
{{div col ||30em}}<!-- 相対段組み、画面幅による。 -->
* [[石坂正信]]
* [[石坂正信]]
* [[鵜飼猛]]
* [[川澄明敏]]
* [[ギデオン・ドレーパー]](ギデオン・ドレーパル)
* [[関根要八]]
* [[生江孝之]]
* [[古川正雄]]
* [[別所梅之助]]
* [[山鹿旗之進]]
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== 関連資料 ==
== 関連資料 ==


本文の典拠でないもの、発行年順。
本文の典拠でないもの、分類内は発行年順。

* [[別所梅之助]]『朝のおもひ』東京:創元社、1940年(昭和15年)、{{国立国会図書館書誌ID|000000705388}}、{{DOI|10.11501/1684088}}。NDLデジタルコレクション、国立国会図書館内/図書館送信。
'''英語資料'''

* Foreign Correspondence. "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/news-australasia/docview/95691411/se-2?accountid=196403. News of Australasia: Surrender of Samoa Arouses Feeling in the Colonies. No Work for Boys and Girls the Bad Effects of Some Labor Laws -- The Servant Girl Problem in New Zealand]." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 、1899年12月24日、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|95691411}}。サモアが植民を受け入れ、英連邦植民地に余波が広がる。未成年の労働を禁じる法律施行で失業が増加 -- 未成年女性使用人の問題(ニュージーランド)。

; 1900年のエキュメニカル・ミッション会議
:* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/missions-world-review/docview/96036885/se-2?accountid=196403 Missions of the World in Review: City Pulpits Filled by Leaders in Church Militant]. Work of the Conference Programme of To-day's Great Meetings -- Wonderful Missionary Exhibit -- to be Transferred to the Museum of Natural History." 『[[ニューヨーク・タイムズ]]』(1857-1922) 1900年4月23日 p.1、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|96036885}}。

:* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/survey-mission-fields/docview/95978927/se-2?accountid=196403. Survey of the Mission Fields: Nine Sectional Meetings Held in the Afternoon.]-- Reports from Many Lands Workers Tell of Conditions in the Far East, India, Africa, North and South America -- Jewish Christians -- Bishop Hurst on the Phillippines." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月24日、p.5、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|95978927}}。極東、インド、アフリカ、南北アメリカの現場報告。ユダヤ系キリスト教徒。ハースト大司教、フィリピン情勢を語る。

:* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/medical-training-natives/docview/95935223/se-2?accountid=196403. Medical Training of Natives.: Speakers at Carnegie Hall Opposed to Bringing Them to America or Europe for Instruction.]" 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月26日、p.6、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|95935223}}。カーネギーホールより。登壇者は植民地の住民に欧米で医療研修を施す件に否定的。

:* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/womens-great-conference-day/docview/96032626/se-2?accountid=196403. Women's Great Conference Day: They Discuss Their Part in Mission Work at Three Meetings. Tears and Enthusiasm Ordinary Sessions of Delegates Attract Large Attendance. No Sectarian Lines Missionaries of All Protestant Denominations, it is said, Co-operate in Foreign Lands -- Higher Education and the Question of Religious Study.]" 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月27日、p.5 [[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|96032626}}。エキュメニカル会議の前夜祭として行われた女性宣教師集会は盛況、3部会に分かれ活発な通常会議。外地では教派の壁を超越して協力していると主催者発表。高等教育と宗教学の問題。

:* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/education-missionary-labor/docview/95991034/se-2?accountid=196403 Education in Missionary Labor.: Extension of Industrial and Manual Training Urged. Capable Workers Wanted Must be Physically and Mentally Fit -- Danger of Schools Going to Extremes and Becoming Secular or Mere Prayer Meetings.]"『ニューヨーク・タイムズ』(1857-1922) 1900年4月28日 p.5、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|95991034}}。実務者として宣教師に求められる心身の強健さ -- 精神主義に走る神学校が単なる説教所に陥る恐れ。

* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/thanksgiving-day/docview/1369854767/se-2?accountid=196403 Thanksgiving Day: "By the President of the United States of American-- A Proclamation.]" ''The North-China Herald''、''Supreme Court & Consular Gazette'' (1870-1941) ; 上海. 1907年11月29日 p.559、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|1369854767}}。感謝祭にアメリカ大統領より祝辞。主催:American Association of China。会場:上海市、中国YMCAビル(Martyrs 記念ホール)。

* "[https://www.proquest.com/historical-newspapers/reu-dr-john-c-davison/docview/104433630/se-2?accountid=196403 Reu. Dr. John C. Davidson.: Pioneer Methodologist Missionary to Japan Dies in California at 84]." 『ニューヨーク・タイムズ』(1857-1922) 1928年11月23日 p.25、ISSN 0362-4331、[[File:Wikipedia Library owl.svg|15px|<!-- [[:ウィキペディア図書館]] -->]] {{ProQuest|104433630}}。訃報、ジョン・C・デイビソン牧師、神学博士。

'''日本語資料'''

* 別所梅之助『朝のおもひ』東京:創元社、1940年(昭和15年)、{{国立国会図書館書誌ID|000000705388}}、{{DOI|10.11501/1684088}}。NDLデジタルコレクション、国立国会図書館内/図書館送信。
**「そのかみの神学部」164頁- (コマ番号0091.jp2-)
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**「ソーパルさん」170頁- (コマ番号0094.jp2-)
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2021年10月1日 (金) 17:01時点における版

ジュリアス・ソーパー
ファイル:青山學院創立者 ジュリアス・ソーパー.jpg
青山学院創立者の一人
他の役職 青山学院神学部学部長[1]米国ノース・グレンデールメソジスト監督教会牧師
個人情報
出生 (1845-02-15) 1845年2月15日[2]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メリーランド州プールズビル
Poolesville[1]
死去 (1937-02-05) 1937年2月5日(91歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
墓所 同州グレンデール市フォレストローン(Forest Lawn)
北緯34度07分32秒 西経118度14分27秒 / 北緯34.12556度 西経118.24083度 / 34.12556; -118.24083
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 マリー・フランシス・デイヴィソン[1]
子供 長女レナ・イザベル・ソーパー(夭逝)
長男エドモンド・デイヴィソン・ソーパー(宣教師
二男ジェームス・プレストン・ソーパー(夭逝)
二女エセル・モード・ソーパー(宣教師)
三女ネリー・ウィニフレッド・ソーパー(夭逝)
職業 宣教師、教員
出身校 ジョージタウン大学ドルー神学校
伝道 日本アメリカ合衆国
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ジュリアス・ソーパー: Julius Soper1845年[2]2月15日 - 1937年[2]2月5日ジュリアス・ソーパルとも)は、米国メソジスト監督教会宣教師青山学院神学部教授[1]明治から大正期の日本に2期にわたって暮らし、2度目の来日後、1895年から離日までキリスト教の教育に専念した[1]。キリスト教関連の多くの出版物を日本語に訳したと伝わる[1]

人物

青山学院の記念碑

1845年、メリーランド州に生まれ、ドルー神学校卒業。米国メソジスト監督教会で按手礼を受け、1873年J・C・デイヴィソン夫妻と共に来日する。来日の翌年には津田仙の経営する麻布の「学農社」を説教所として日曜礼拝と日曜学校を開始。津田仙をはじめ400人に洗礼を授けている。入信者には慶応義塾初代塾長の古川正雄もいた。

1880年(明治13年)には医師の志田良硯に招かれて、山形県天童市に赴き伝道を始め、天童町大字天童小畑甲(現・天童市)に天童美以教会を、1882年に山形教会を設立した[3]

築地にあった「耕教学舎」の実質的な設立者でもある[注釈 1]青山学院の源流でもある同校では、英学漢学を教授[疑問点]していた[要出典]。青山学院神学部の教授(1896年から1911年)、同学部長(1901年から年1908年)を務めた。また、メソジスト監督教会の東京・横浜・函館連回区などの長老司[要説明]も務めるなど、日本のメソジスト関係の諸機関の基礎作りに大きな貢献を果たした人物である[9]

日米のメソジスト監督教会を結び、2度の滞日の後半は日本代表としてアメリカに出張する機会を2回得た[1]。握手を交わしたアメリカ大統領は第15代ジェームズ・ブキャナン、第16代エイブラハム・リンカーン、第18代ユリシーズ・グラント、第22・24代グロバー・クリーブランド、第25代ウィリアム・マッキンリーの5名である[1]

1937年に母国で死去、91歳没。カリフォルニア州グレンデール市にあるフォレストローン墓地 (wikidata)[10]に埋葬された。

生涯

1845年2月15日、メリーランド州プールズビル生まれ[1]のソーパーはジョージタウン大学ワシントンD.C.)からドルー神学校に進む[1]。1867年に卒業[要出典]、宣教師として働くと[11]、1873年に米国メソジスト監督教会ボルチモア年会(英語)で按手礼を受けている[要出典]。同年5月20日、神学校で同期のJ・C・デイヴィソンの妹で宣教師のマリー(メアリー)・フランシス・デイヴィソン(Mary Frances Davison)と結婚[1][12]、この時、義兄となるジョンもMary Elizabeth Stout[訳語疑問点]と結婚式を挙げた[13]

2組の夫妻は同年8月8日、共に来日すると東京で伝道活動につき、ソーパーの妻のメアリーも宣教師として働き始める[12]。明治政府はこの1873年(明治6年)、キリスト教の信仰を許したばかりで[注釈 2]イギリス、アメリカ、カナダから宣教師が入国し始めていた。この頃、ソーパーと同じ教派の宣教師スクーンメーカードーラ・スクーンメーカー築地に女性のための学校を建てようとしていた。英語ができた津田仙(1837年-1908年)はソーパーに助力を頼まれる。津田は杉田玄瑞と外国奉行通弁役(1861年)として同期だったり[15]蕃書調所の代表を手伝った経歴を買われ、ウィーン派遣から戻ったばかりであった。ごく短期間、一緒に働いた新島㐮[16]を介してプロテスタントに理解もあり[17]、二人して外国人の滞在手続きや国籍取得の相談に乗っていた[20]。そこで依頼を引き受けたものの生徒集めに苦心した末、自分の妻初子や娘、妻の友人ら5人だけ女性を揃える。スクーンメーカーは津田宅の部屋を借りて教室を始めると女子の小さな学校(女子小学)[要出典] を開校する(のちの海岸女学校[注釈 3])。

農業改革を目指した津田はその翌1875年、西洋野菜の種苗を育てる圃場通信販売、知識を伝える出版に取り組もうと「学農社」を麻布に設け、農学校開学の準備を進めた。ソーパーは同社の休業日に施設を借り受けると、説教所「農学舎」として日曜礼拝と日曜学校を開始する。津田本人をはじめ400人に洗礼を授け、入信者には慶応義塾初代塾長でやはりプロテスタントに関心を寄せた古川正雄もいた[22]。1度めの離日(1883年)の全国の受洗者数は6598人とされる[23]

この間に、ソーパーの家庭では1874年7月7日に娘が生まれレナ・イザベル(Lena Isabel Soper)と名づけるが、1歳を過ぎた翌1875年9月4日に夭逝した[12]。10月2日には築地美以教会が建つ(後の銀座教会)[12]。次の年のやはり7月に長男エドマンド・デイヴィソンが誕生する[注釈 4]。1877年に横浜でアメリカ市民とオランダ市民の結婚式に立ち会っている[29]

青山学院の源流のひとつ「耕教学舎」を1878年に築地居留地に開くと(校長は西山礼輔[12]・菊地卓平[32])、男子学生を募集して英学漢学を教授していた[疑問点][12]。同年6月11日生まれの二男ジェームス・プレストン(James Preston Soper)[12]は8ヵ月齢を待たず翌1879年2月2日に夭逝[12]。その年の初め、東京都心の京橋区から出火した1月26日の火事は隅田川を越えて深川まで延焼、火元の東隣の築地居留地はほとんどの教会堂が火に飲まれ、ソーパーたちのメソジスト監督教会と牧師館、宣教師の寄宿先も延焼した。牧師と宣教師(ホワイティング、ホルブルック、スペンサー)、またアメリカから到着したばかりで牧師館に寄留していたチャールズ・ビショップ牧師は私物を焼失し、いっさい保険をかけていなかったこと、建物は一部、保険の対象だったことがイギリス系の英字新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』(北華捷報(中国語)wikidataの報道でアメリカに伝わっている[33]。居留地を焼け出されたどの宣教団も、被災者の救護にかかりきりであった[33]。ホワイティングやスクーンメーカーらは学校再建の道を手探りすることになる[30]

明けて1880年、医師の志田良硯の招きに応じて山形県天童市に移ったソーパーは、高橋雲岱と共に伝道を始める。天道町[疑問点]大字天童小畑甲に天童美以教会(現・日本基督教団天童教会)を設け[要出典]、翌年、転任先の横浜[12]で二女エセル・モードを4月15日に授かる[注釈 5]。東京には1882年に移り、山形教会(現・日本基督教団山形本町教会)の献堂を見届けて[3]、大阪の超教派のプロテスタント会議予稿集[36]に寄稿し、1883年にソーパーは家族を連れてアメリカに帰国する[12]。アメリカでは1884年8月1日生まれの三女ネリー・ウィニフレッド(Nellie Winifred Soper)[12]が同11月23日に夭逝[12]

2度目の滞日

1886年、再び東京に赴任したソーパーは[12]、1890年以降、日本の全国禁酒運動と密接に結びついていく[1][37]。おりしも大日本帝国憲法が公布され(1889年2月11日)、奉祝大行列を目撃したり[1]、1905年秋、戦場から帰朝した東郷平八郎上村彦之丞の凱旋式典では日比谷公園の特設会場に招かれている[1]

1892年から1895年にわたる北海道赴任を含め、メソジスト監督教会に関連して伝道活動を務めた[1][12]ソーパーは、1896年に東京に戻ると青山学院神学部の教授職に就き[1][12]、しばらく同学部長を務め(1901年–1908年[12])、退官前は教授に専念する。

この期間に1892年と1900年の2回アメリカに出かけると、日本を代表してメソジスト監督教会宣教会年次会議ならびにアメリカ全国総会に参加した[1]。2回目の時は4月にエキュメニカル・ミッション会議に出席した(ニューヨーク)。

後半生

1911年にアメリカに帰国した[12]ソーパーは、カリフォルニア州のグレンデールに赴任し1914年からノース・グレンデール・メソジスト監督教会の牧師となり、1919年に引退する[12]。妻メアリーには1927年7月20日に先立たれ[12]、ソーパー自身は1937年2月5日に永眠[1]。メリーランド州ではなく終焉(しゅうえん)の地に埋葬された。

記念碑

青山学院大学青山キャンパスにはソーパーの功績を記念し、石碑が建立されている。後背は登録有形文化財「ベリーホール」がたたずむ。

主な著作

  • Soper, Julius (25 July 1871). "Little Falls Mission M.E. Church, under the auspices of the Dumbarton St. M.E. Church, Georgetown" (Document) (英語). D.C.: holograph. {{cite document}}: 不明な引数|1=が空白で指定されています。 (説明); 不明な引数|oclc=は無視されます。 (説明) 手稿、アーカイブ資料。ソーパーが記録した説教所開設の芳名録。ジョージタウン市リトルフォールズのメソジスト監督教会宣教師は、伝道の場を間借りの説教所からチェーンブリッジ橋のほとりに建てた自前の礼拝所へ移す。その経緯と、ダンバートン街の支援者の名簿(寄付者、評議員、建設委員会と宣教師)。
  • ビンネー※1『天道総論 増補』ソーパル※2、小林謙一郎(共訳)、東京農書館、1882年(明治15年)、マイクロフィッシュ、インターネット公開。国立国会図書館書誌ID:000000467600doi:10.11501/824892。※1=Binney, Thomas (1798年-1874年)。※2=肩書きは米国牧師。
  • 本多庸一 等(訳・編)『メソジスト監督教会教理及び条例(全)』、メソジスト出版舎、1894年(明治27年)。インターネット公開、国立国会図書館書誌ID:000000467868doi:10.11501/825188。注記:英文標題紙にジュリアス・ソーパル訳と記載あり。

洗礼を受けた著名人

1875年[疑問点]に「キリスト教界の三傑」[注釈 6]ともうたわれる津田仙とその妻初子に洗礼を授けている[要出典]

参考文献

脚注とリンクする典拠、主な執筆者名順。

日本語資料

    • 「一 伝記」 (コマ番号0021.jp2)
    • 「略歴」 3頁- (コマ番号0022.jp2-)
    • 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (コマ番号0024.jp2-)
    • 「二 追憶」頁- (コマ番号0044.jp2-0080.jp2-)
    • 「三 書簡」頁- (コマ番号0082.jp2-)

洋書

脚注

注釈

  1. ^ 並松によると、耕教学舎で学んだ山鹿旗之進はソーパーを創始者と書き留めている[4][5][6][7][8]
  2. ^ 太政官布告第68号の発布によりキリスト教の禁教を解く[14]
  3. ^ アメリカから帰った津田梅子は短い間、海岸女学校で教壇に立った[21]
  4. ^ 長男エドマンド・デイヴィソン・ソーパー(Edmund Davison Soper 1976年7月16日–1961年[24]10月23日[25])も長じて神学を修め、中国と南アメリカで宣教活動を行った[12][26][27]。亡父の追悼文集に手紙を寄せている[28]
  5. ^ エセル・モード・ソーパー(Ethel Maud Soper 1881年4月15日–1971年4月13日[34])も宣教師[12]。亡父の追悼文集に手紙を寄せている[35]
  6. ^ 三傑とは前出の新島に加えて中村 正直 (東京帝国大学教授 1832-1891)[38]
  7. ^ J・ソーパー追悼文集の主な寄稿者。丸カッコ内は電子ファイルのコマ番号を示す。
    • 「一 伝記」 (0021.jp2)
    • 「略歴」 3頁- (000022.jp2)
    • 山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」6頁- (000024.jp2)
    • 「二 追憶」頁- (000044.jp2-0080.jp2-)
      • 「§ソーパル博士追憶晩餐会の記」48頁- (000045.jp2)
      • 関根要八「§恩師ソーパル先生」55頁- (000048.jp2)
      • 別所梅之助「§ソーパルさん」61頁- (000051.jp2)
      • E・T・アイグルハート「§汝よくなしとげたり」76頁- (000059.jp2)
      • 鵜飼猛「§ソーパル博士と禁酒事業」81頁- (000061.jp2)
      • 川澄明敏「§ソーパル先生」87頁 (000064.jp2)
      • ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」103頁- (000072.jp2)
      • 生江孝之「§崇高なる人格者」117頁- (000079.jp2)
    • 「三 書簡」 (000082.jp2)
      • 「§ソーパル博士の手紙」124頁- (000083.jp2)
      • 「§贈物に對するソーパル博士の感謝状」125頁- (000083.jp2)
      • 「§ソーパル博士昇天前後」128頁- (000085.jp2)
      • エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」136頁- (000089.jp2) 二女Ethel Maud Soper(1880年4月15日生まれ)
      • エドモンド・デイヴィソン・ソーパー「§エドモンドよりの手紙」142頁- (000092.jp2) 長男、Edmound Divison Soper(1876年7月生まれ)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Who's who in the Far East, 1906-7 1906, p. 316
  2. ^ a b c 生没年の月日を除く典拠。Soper, Julius 1845-1937”. www.worldcat.org. WorldCat.org. 2021年9月30日閲覧。
  3. ^ a b 守部 2009, pp. 29–30
  4. ^ 並松 2013, p. 112
  5. ^ 山鹿旗之進「日本メソジストの父ソーパー博士を憶う」『日本メソジスト新聞』、1933年6月2日、216頁。
  6. ^ 並松 2013, p. 116
  7. ^ 山鹿旗之進「日本メソヂストの父ソーパー博士を想う」『日本メソヂスト新聞』第2161号、1933年6月11日。
  8. ^ 『恩師ソーパル博士』 1938, pp. 6- (コマ番号0024.jp2-), 0山鹿旗之進「ソーパルと日本メソヂスト教会」
  9. ^ 『恩師ソーパル博士』 1938, pp. 103- (000072.jp2-), 0ギデオン・ドレーパル「§ジユリアス・ソーパル師に就いて」
  10. ^ Forest Lawn: 1712 S. Glendale Avenue, Glendale, California. Contact [連絡先]” (英語). Forest Lawn. 2021年9月29日閲覧。
  11. ^ Soper 18710"Little Falls Mission M.E. Church"
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u クランメル 1996, pp. 242–243
  13. ^ クランメル 1996, p. 64
  14. ^ 並松 2013, p. 96
  15. ^ 並松 2013, pp. 88–89
  16. ^ 並松 2013, pp. 95–96, 107–14
  17. ^ 並松 2013, pp. 95–96, 107
  18. ^ 並松 2013, pp. 112–113
  19. ^ 磯辺弥一郎「津田女史の厳父津田仙氏」『英語青年』第62巻3号、1927年、104頁。
  20. ^ 並松[18]による[19]
  21. ^ 並松 2013, pp. 111–112
  22. ^ 金田道記「緑地帯 明治の教育者 古川正雄」『中国新聞』第6号、2013-07-30, 2013-08-07。 
  23. ^ The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912) 1884, pp. 143–144
  24. ^ Soper, Edmund Davison 1876-1961”. www.worldcat.org. WorldCat.org. 2021年10月1日閲覧。
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  26. ^ Barbosa, Silvano. "A Theory Base and Mission-Sending Model for the South American Division of the Seventh-Day Adventist Church." Andrews University, 2017.
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  34. ^ Ethel Maud Soper (1881-1971) - Find A Grave...” (英語). www.findagrave.com. 2021年10月1日閲覧。
  35. ^ {{Harvnb|『恩師ソーパル博士』|1938|ps=0エセル・モード・ソーパー「§モードよりの手紙」|pages=136- (コマ番号0089.jp2-)
  36. ^ The Chinese Recorder and Missionary Journal (1868-1912) 1884, pp. 143–144
  37. ^ 『恩師ソーパル博士』 1938, p. 81- (コマ番号0061.jp2-)0鵜飼猛「§ソーパル博士と禁酒事業」
  38. ^ 並松 2013, p. 86, 「1. はじめに」

関連項目

50音順。

関連資料

本文の典拠でないもの、分類内は発行年順。

英語資料

1900年のエキュメニカル・ミッション会議
  • "Survey of the Mission Fields: Nine Sectional Meetings Held in the Afternoon.-- Reports from Many Lands Workers Tell of Conditions in the Far East, India, Africa, North and South America -- Jewish Christians -- Bishop Hurst on the Phillippines." 『ニューヨーク・タイムズ』 (1857-1922) 1900年4月24日、p.5、 ProQuest 95978927。極東、インド、アフリカ、南北アメリカの現場報告。ユダヤ系キリスト教徒。ハースト大司教、フィリピン情勢を語る。

日本語資料

  • 別所梅之助『朝のおもひ』東京:創元社、1940年(昭和15年)、国立国会図書館書誌ID:000000705388doi:10.11501/1684088。NDLデジタルコレクション、国立国会図書館内/図書館送信。
    • 「そのかみの神学部」164頁- (コマ番号0091.jp2-)
    • 「ソーパルさん」170頁- (コマ番号0094.jp2-)
    • 「基督の日本的展開」203頁- (コマ番号0110.jp2)
    • 「聖書改訳の当時」294頁- (コマ番号0156.jp2)
    • 「讃美歌の事あれこれ」300頁- (コマ番号0159.jp2)

外部リンク

"SOPER, Rev. Julius". Who's Who in the Far East (June) 1906-7