「藤堂高潔」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
子を追記。 |
編集の要約なし |
||
15行目: | 15行目: | ||
| 父母 = 父:[[藤堂高猷]]、母:橋本氏 |
| 父母 = 父:[[藤堂高猷]]、母:橋本氏 |
||
| 兄弟 = '''高潔'''、[[黒田長知]]、[[脇坂安斐]]、[[松平定昭]] |
| 兄弟 = '''高潔'''、[[黒田長知]]、[[脇坂安斐]]、[[松平定昭]] |
||
| 妻 = 正室:[[蜂須賀量子|量子]]([[蜂須賀斉昌]]養女([[蜂須賀昭順]]娘)) |
| 妻 = [[正室]]:'''[[蜂須賀量子|量子]]'''([[蜂須賀斉昌]]養女([[蜂須賀昭順]]娘)) |
||
| 子 = '''[[藤堂高紹|高紹]]'''、銑子(子爵[[高倉永則]]夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵[[牧野忠篤]]室) |
| 子 = '''[[藤堂高紹|高紹]]'''、銑子(子爵[[高倉永則]]夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵[[牧野忠篤]]室) |
||
}} |
}} |
||
'''藤堂 高潔'''(とうどう たかきよ)は、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の第12代(最後)の藩主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家12代。正室は[[蜂須賀斉昌]]養女で蜂須賀昭順の娘・[[蜂須賀量子|量子]]。 |
'''藤堂 高潔'''(とうどう たかきよ)は、[[伊勢国|伊勢]][[津藩]]の第12代(最後)の[[藩主]]。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家12代。正室は[[蜂須賀斉昌]]養女で蜂須賀昭順の娘・[[蜂須賀量子|量子]]。 |
||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
2021年10月1日 (金) 00:41時点における版
藤堂高潔 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保8年9月20日(1837年10月19日) |
死没 | 明治22年(1889年)11月18日 |
改名 | 録千代・大助(幼名)、高潔 |
官位 | 左近衛権少将、従三位、大学頭 |
主君 | 徳川慶喜→明治天皇 |
藩 | 伊勢国津藩主 |
氏族 | 藤堂氏 |
父母 | 父:藤堂高猷、母:橋本氏 |
兄弟 | 高潔、黒田長知、脇坂安斐、松平定昭 |
妻 | 正室:量子(蜂須賀斉昌養女(蜂須賀昭順娘)) |
子 | 高紹、銑子(子爵高倉永則夫人)、鋀子(常磐井尭猷室、子爵牧野忠篤室) |
藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘・量子。
生涯
天保8年(1837年)9月20日に生まれる。嘉永元年12月16日(1849年)、従四位下・侍従・大学頭に叙任する。文久3年(1863年)、父に代わって上京して孝明天皇に拝謁し、御所の警備を務めた。元治元年(1864年)4月18日、左近衛権少将となる。
慶応3年(1867年)12月、朝廷の命令に従い、上洛するものの、ほどなく帰藩する。明治元年(1868年)3月2日、上洛する。同年10月、版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇の伊勢神宮参拝においても守備などで尽力した。明治3年(1870年)10月、藩士を解散したことで監物騒動が発生する。
明治4年(1871年)6月28日、病を理由に父が隠退したため、その跡を継いで藩知事となる。しかし同年7月の廃藩置県で免官となった。明治22年(1889年)11月18日、父に先立って53歳で死去した。
賢明温厚で書画の才にも優れていたと言われている。絵は、渡辺崋山に師事し、花卉図を得意としたという。また謡の腕前も免許皆伝の腕前で、自邸や実弟、黒田長知の赤坂の黒田邸に出入りし、喜多六平太にも稽古を付けた程であった。
栄典
脚注
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
伯爵 (津)藤堂家初代 1884年 - 1889年 |
次代 藤堂高紹 |