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'''藤堂 高嶷'''(とうどう たかさと/たかさど)は、[[伊勢国]][[津藩]]の第9代[[藩主]]。元は[[津藩#久居藩|久居藩]]の第7代[[]]主、[[久居陣屋]]の主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家9代、久居藩藤堂家7代。

'''藤堂 高嶷'''(とうどう たかさと/たかさど)は、[[伊勢国]][[津藩]]9代藩主。元は[[津藩#久居藩|久居藩]]7代藩主、[[久居陣屋]]の主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家9代、久居藩藤堂家7代。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[延享]]3年(1746年)生まれ。幼名は初次郎。本家の[[津藩]]では嗣子が絶えることが多く、[[久居藩]]主が津藩主に転任することも少なくなかったが、この人物もはじめは久居藩主であり、'''高敦'''と名乗っていた。宝暦12年([[1762年]])11月29日、久居藩主藤堂高雅の死去により、家督を相続する。同年12月7日、将軍[[徳川家治]]に[[御目見]]する。同年12月18日、従五位下・佐渡守に叙任する。しかし、[[明和]]7年([[1770年]])閏6月26日、本家を継いでいた弟の[[藤堂高悠|高悠]]が死去したため、高嶷と改名して本家を継いだ。久居藩主は弟の[[藤堂高朶|高朶]]が継いだ。同年9月1日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従四位下に昇進する。安永元年(1772年)12月18日、侍従に任官する。寛政4年(1792年)12月16日、左少将に任官する。
[[延享]]3年(1746年)生まれ。幼名は初次郎。本家の[[津藩]]では嗣子が絶えることが多く、[[久居藩]]主が津藩主に転任することも少なくなかったが、この人物もはじめは久居藩主であり、'''高敦'''と名乗っていた。宝暦12年([[1762年]])11月29日、久居藩主藤堂高雅の死去により、家督を相続する。同年12月7日、将軍[[徳川家治]]に[[御目見]]する。同年12月18日、従五位下・佐渡守に叙任する。しかし、[[明和]]7年([[1770年]])閏6月26日、本家を継いでいた弟の[[藤堂高悠|高悠]]が死去したため、高嶷と改名して本家を継いだ。久居藩主は弟の[[藤堂高朶|高朶]]が継いだ。同年9月1日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従四位下に昇進する。安永元年(1772年)12月18日、侍従に任官する。寛政4年(1792年)12月16日、左少将に任官する。


久居から津への藩主の転任が度重なったことで、当時の津藩は藩政が不安定化し、財政も窮乏化していた。このため高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行なうこととなる。借金棒引きを主とした金融政策、[[殖産興業]]政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では[[均田制]]を導入しようとしたが、多くの土地を所有していた地主たちが猛反対し、[[寛政]]8年([[1796年]])に[[安濃津地割騒動]]と呼ばれる3万人規模の領民[[一揆]]が発生して失敗した。金融政策においても借金を強権的に棒引きにしようとした上、寺社修復のために領民が積み立てていた「祠堂金」を藩財政再建に使おうとしたため、領民や寺社勢力が高嶷に対して「神仏の敵」と非難するほどであった。このため高嶷の藩政改革は失敗に終わった。
久居から津への藩主の転任が度重なったことで、当時の津藩は藩政が不安定化し、財政も窮乏化していた。このため高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行なうこととなる。借金棒引きを主とした金融政策、[[殖産興業]]政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では[[均田制]]を導入しようとしたが、多くの土地を所有していた地主たちが猛反対し、[[寛政]]8年([[1796年]])に[[安濃津地割騒動]]と呼ばれる3万人規模の領民[[一揆]]が発生して失敗した。金融政策においても借金を強権的に棒引きにしようとした上、寺社修復のために領民が積み立てていた「祠堂金」を藩財政再建に使おうとしたため、領民や寺社勢力が高嶷に対して「神仏の敵」と非難するほどであった。このため高嶷の藩政改革は失敗に終わった。

2021年9月29日 (水) 03:36時点における版

 
藤堂高嶷
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 延享3年7月4日1746年8月20日
死没 文化3年8月26日1806年10月7日
改名 初次郎(幼名)、高敦、高嶷
戒名 祐信院清峻高節権大僧都
墓所 三重県津市の寒松院
官位 従五位下大膳亮従四位下和泉守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
伊勢久居藩主→伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 藤堂高朗:中村氏
養父藤堂高雅藤堂高悠
兄弟 高嶷高朶高悠、栄性院、清水谷公美室、高興
正室中川久貞の娘・
側室:智峯院
菊松、甲、高崧、順、高兌、穀、睦、挙、高邁、湧、埴、高允木下利徳高愨高醸高秭、そよ、彩、つれ、絃、延
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藤堂 高嶷(とうどう たかさと/たかさど)は、伊勢国津藩の第9代藩主。元は久居藩の第7代主、久居陣屋の主。藤堂家宗家9代、久居藩藤堂家7代。

生涯

延享3年(1746年)生まれ。幼名は初次郎。本家の津藩では嗣子が絶えることが多く、久居藩主が津藩主に転任することも少なくなかったが、この人物もはじめは久居藩主であり、高敦と名乗っていた。宝暦12年(1762年)11月29日、久居藩主・藤堂高雅の死去により、家督を相続する。同年12月7日、将軍・徳川家治御目見する。同年12月18日、従五位下・佐渡守に叙任する。しかし、明和7年(1770年)閏6月26日、本家を継いでいた弟の高悠が死去したため、高嶷と改名して本家を継いだ。久居藩主は弟の高朶が継いだ。同年9月1日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従四位下に昇進する。安永元年(1772年)12月18日、侍従に任官する。寛政4年(1792年)12月16日、左少将に任官する。

久居から津への藩主の転任が度重なったことで、当時の津藩は藩政が不安定化し、財政も窮乏化していた。このため高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行なうこととなる。借金棒引きを主とした金融政策、殖産興業政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では均田制を導入しようとしたが、多くの土地を所有していた地主たちが猛反対し、寛政8年(1796年)に安濃津地割騒動と呼ばれる3万人規模の領民一揆が発生して失敗した。金融政策においても借金を強権的に棒引きにしようとした上、寺社修復のために領民が積み立てていた「祠堂金」を藩財政再建に使おうとしたため、領民や寺社勢力が高嶷に対して「神仏の敵」と非難するほどであった。このため高嶷の藩政改革は失敗に終わった。

文化3年(1806年)8月26日、高嶷は死去した。長男の高崧は病気のために嫡子の地位を辞退しており、その子の高巽は早世していた。そのため、久居藩主であった次男の高兌が跡を継いだ。そしてこの高兌によって改革は推し進められていくことになった。

系譜