「ゲーベン追跡戦」の版間の差分
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'''ゲーベン追跡戦'''(ゲーベンついせきせん)とは[[第一次世界大戦]]勃発 |
'''ゲーベン追跡戦'''(ゲーベンついせきせん)とは、[[第一次世界大戦]]勃発直後の1914年7月末から8月上旬にかけて、[[地中海]]で生起した[[:en:Naval warfare in the Mediterranean during World War I|軍事行動]]である。[[:de:Mittelmeerdivision|地中海戦隊]]に配備されていた[[ドイツ帝国海軍]]の[[巡洋戦艦]]1隻と[[軽巡洋艦|小型巡洋艦]]1隻が[[イギリス海軍]]の追跡を受け、[[中立国]]であった[[オスマン帝国]]の[[コンスタンティノープル]]に入港した{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152a|ps=トルコ/巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」/ドイツから購入した「ヤウズ・スルタン・セリム」}}。[[ロシア]]の[[南下政策]]に対してオスマン帝国は[[:en:Germanophile|親独傾向]]を強めており{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=70}}、8月2日には[[:tr:Alman-Osmanlı_ittifakı|同盟を締結していた]]{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=146}}。この状況下、[[ダーダネルス海峡]]を通過してトルコ領海に辿り着いたドイツ艦2隻を、オスマン帝国はドイツ帝国から購入し、乗組員ごと[[オスマン帝国海軍]]に編入した{{Sfn|丸、写真集世界の戦艦|1977|pp=152a-153|ps=トルコ/ヤウズ・スルタン・セリス}}。ドイツ艦2隻の追跡劇と編入によりオスマン帝国と[[イギリス帝国|大英帝国]]([[英露協商|ロシア同盟国]])の[[:en:Turkey–United_Kingdom_relations|関係]]は悪化し、同年10月末にオスマン帝国が[[中央同盟国]]側として[[:en:Ottoman_entry_into_World_War_I|参戦する要因]]となった{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}。 |
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== 概要 == |
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[[第一次バルカン戦争]]を受けて1912年11月にドイツ帝国海軍が新編した[[:en:Mediterranean_Division|地中海戦隊]] ([[:de:Mittelmeerdivision|Mittelmeerdivision]]) に、[[モルトケ級巡洋戦艦]]2番艦[[ゲーベン (巡洋戦艦)|ゲーベン]] (''{{lang|de|SMS Goeben}}'') と{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=12}}、[[マクデブルク級小型巡洋艦|マクデブルク級軽巡洋艦]][[ブレスラウ (軽巡洋艦)|ブレスラウ]] (''{{lang|de|SMS Breslau}}'') が配備された{{Sfn|世界の艦船、近代巡洋艦史|2009|p=36a|ps=ドイツ/小型巡洋艦「マクデブルク」級 MAGDEBURG CLASS}}。 |
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1914年7月末に[[第一次世界大戦]]が勃発すると、[[イギリス海軍]]の[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]] ({{lang|en|Mediterranean Fleet}}) はドイツ地中海戦隊の2隻(ゲーベン、ブレスラウ)を捕捉しようとした{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=10-12|ps=独・英海軍の戦力バランス}}{{Efn|文献によってはドイツ地中海艦隊と表記する{{Sfn|丸、写真集世界の戦艦|1977|pp=152b-153}}。}}。ドイツ艦2隻はイギリス地中海艦隊の追跡から逃れ、[[ダーダネルス海峡]]を通過して、8月6日に[[オスマン帝国]]の[[コンスタンティノープル]]に入港する{{Efn|地中海及び黒海に於ける海戰{{Sfn|通俗的世界全史、16巻|1928|p=334|ps=(原本618-619頁)}} 開戰當初、獨逸地中海隊に属するゲーベン及びブレスラウの二艦は、ダーダネル海峡に遁入せしが、英佛兩國の抗議嚴しかりし爲め、土耳古政府は購入の名義を以て右の二艦を其の黒海艦隊の中に加へぬ。此の一事は、明かに土耳古が獨逸の同盟關係に在るを證せり。又[[オーストリア゠ハンガリー帝国|墺]][[ハンガリーの歴史#オーストリア=ハンガリー二重帝国|匈國]]艦隊は、英佛艦隊の爲めに、アドリヤ海に封鎖せられ、英佛側は、墺匈國の領海たる[[ダルマチア|ダルマシヤ海岸]][[ダルマチア諸島|諸島]]間の水道に機械水雷を布設せり。其の後千九百十五年五月下旬に至り、[[イタリア戦線 (第一次世界大戦)|伊國の對墺開戰]]後、墺匈國艦隊は、アドリヤ海より伊國海岸に出動せしにぞ、伊國艦隊及び英艦二隻は之と交戰して敵の小艦三隻を撃沈せり、其の後墺匈國の潜水艦は、地中海に活動するの形勢ありて、[[シチリア島|シヽリー島]]附近に於て、十月六日、希臘の商船を撃沈し、又同月十七日には、佛國汽船一隻を撃沈せり、次ぎに黒海に於ける露國艦隊は、千九百十四年十一月十八日、セバストポール沖に於て、土國が先きに獨逸より購入せりと稱せる巡洋艦ゲーベン及びブレスラウと交戰し、ゲーベンは損傷を受け、火災を起して遁走せり。千九百十五年一月十八日、露艦側は土耳古の商船數隻を撃沈し、更に同廿四日には、飛行機十六臺を載せたる商船數隻を撃沈し、其後又ブルガリヤ沿岸を砲撃せり。されど、此方面に於ては遂に目覺ましき海戰を見ずして終れり。}}。 |
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当時のオスマン帝国では、[[南下政策]]により[[バルカン半島]]に介入する[[ロシア帝国]]に対抗するため、[[3B政策]]を採る[[ドイツ帝国]]に[[:en:Germany–Turkey_relations|接近]]していた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=70}}。[[:en:Ottoman_Army_(1861–1922)|オスマン帝国軍]]はドイツ軍の[[:tr:Alman_Askerî_Misyonu|軍事顧問団]]を受け入れていた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=71}}。これに対し[[オスマン帝国海軍]]は[[:en:British_naval_missions_to_the_Ottoman_Empire|イギリス海軍の影響下]]で海軍力を増強しており、イギリスの民間企業に[[超弩級戦艦]]を発注する{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=162a|ps=ヨーロッパ小国海軍の弩級戦艦}}。ところが世界大戦勃発と共に完成間近の[[戦艦]]を2隻とも接収され{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=12}}、トルコ国内で[[:en:Anti-English_sentiment|反英感情]]が高まっていた{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152b}}{{Efn|name="改名"|トルコ戦艦レシャディエは、英戦艦[[エリン (戦艦)|エリン]] (''{{lang|en|HMS Erin}}'') になった{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=162b|ps=トルコ RESHADVレシャド5世(英戦艦エリン)}}。トルコ戦艦オスマン・スルタン1世は、英戦艦[[エジンコート (戦艦)|エジンコート]] (''{{lang|en|HMS Agincourt}}'') になった{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|p=160a|ps=ブラジル、RIO DE JANEIRO リオデジャネイロ(英戦艦エジンコート)}}。}}。 |
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まさにその時に、ドイツ帝国海軍の有力な軍艦2隻が到着した事になる{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=146}}。仮にゲーベンとブレスラウがイギリス地中海艦隊の追跡から逃げられず、オスマン帝国領土に辿りつかなかったら、トルコ戦艦2隻(エリン、エジンコート)接収事件は忘れられたかもしれなかった{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}。 |
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秘密裏に{{仮リンク|ドイツ帝国とオスマン帝国の同盟|label=軍事同盟|en|German–Ottoman_alliance|de|Deutsche_Militärmissionen_im_Osmanischen_Reich}}を結んでいたオスマン帝国はドイツ艦2隻を退去させたり武装解除せず、[[ドイツ帝国]]から購入して将官や乗組員ごと[[オスマン帝国海軍]]に編入した{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=146}}{{Efn|name="立博士論文357a"|トルコは已に八月一日に於て、[[:en:German–Ottoman_alliance|ドイツとの秘密の同盟條約]]を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オースストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}(以下略)}}。 |
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ゲーベンは{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|pp=126-127|ps=(巡洋戦艦モルトケ)}}、[[セリム1世|ヤウズ・スルタン・セリム]] (''{{lang|tr|Yavuz Sultan Selim}}'') と改名した{{Sfn|ジョーダン、戦艦|1988|pp=112a-113|ps=トルコ/ヤヴース級}}。ブレスラウは、[[レスボス島|ミディッリ]] (''{{lang|tr|Midilli}}'') と改名した{{Sfn|世界の艦船、近代巡洋艦史|2009|p=72|ps=〔戦利・貸供与艦〕トルコ/小型巡洋艦「ミディリ」MIDILI}}。 |
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一連の事件([[:tr:Alman-Osmanlı_ittifak_antlaşması|土獨同盟]]、英国のトルコ戦艦接収、トルコのドイツ艦編入)は、中東の石油利権や[[スエズ運河]]の安定的支配を求めて[[:en:Partition_of_the_Ottoman_Empire|オスマン帝国の分割を狙う]]イギリスと、[[:en:Germanophile|親独傾向]]を強めていたオスマン帝国の関係を悪化させた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=73}}。同年10月31日から11月初旬にかけてオスマン帝国は[[三国協商]]各国(ロシア帝国、イギリス、フランス)に宣戦を布告して国交を断絶、[[中央同盟国]]陣営として[[第一次世界大戦]]に参入した{{Efn|獨逸土耳古を籠絡す{{Sfn|通俗的世界全史、16巻|1928|pp=286-289|ps=(原本522-525頁)}}(中略)故に今次大戰の開始と共に、[[トルコ|土耳古]]に對する[[ドイツ|獨逸]]の勢力は一層加はり、地中海よりダーダネルスに遁入せる二隻の獨逸軍艦は却て土耳古の艦隊を指揮するに至り、[[メフメト5世|土帝]]の大權はコンスタンチノープル駐箚の[[:de:Hans_von_Wangenheim|獨逸大使]]の手に移れり。されば、獨逸と土耳古の關係は、同盟に非ずして、直ちに属國關係に等しく、土耳古政府は一切[[ヴィルヘルム2世_(ドイツ皇帝)|獨帝]]の意を奉戴し、其の臣僚大官らは、人民の膏血を絞りて一身の富を計れり。事情此の如くなれば、今次大戰に際し、英佛露の聯合軍側にては、努めて寛大の處置を爲し、以て土耳古を局外中立の地位に置かんとせしも、何の效もなく、土耳古は、獨逸の形勢不利に陥れる時、突然起つて之に應援する事となれり。即ち其初め、中立を装へる土耳古が、[[:de:Streitkräfte_von_Österreich-Ungarn|墺匈軍]][[東部戦線_(第一次世界大戦)|ガリシヤに大敗し]]、獨墺軍亦[[ポーランド|波蘭]]に敗軍せる際、急に起つて獨逸に加勢せる事情より見て、其の獨逸に臣從せるの事實を知るべきなり。<br/>土耳古が獨墺側に立ちて大戰参加を宣言せるは、開戰後三ヶ月を經過せる十月二十九日なりき。思ふに、土耳古人は、逐年異教徒として白人聯合の排斥を蒙り、歐洲に於ては、僅かに南端關門の一面に足を留むるの窮境に在り。故に獨逸の強力に依賴するに非ざれば、其の存在を保つ事難く、財政亦窮乏せり。依つて今次大戰勃發と共に、獨逸より多額の金錢を受けて其身方となり、千九百十四年十月二十九日、其の軍艦を以てクリミヤ半島を砲撃し、又アゾフ海口及びコーカサス沿岸に於て、露国の商船を撃沈し、之を以て聯合側に對する宣戰の表示となせり。此に於て、コンスタンチノープル駐箚の露國大使は、十月三十一日國旗を捲いて[[大使館|使館]]を退去し、翌十一月一日、英佛兩國の大使も共に使館を撤して歸國の途に就き、茲に國交斷絶せるなりき。}}。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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[[File:Deutsche Kriegszeitung (1914) 01 04 3.png|thumb|left|200px|ゲーベンとブレスラウの写真。]] |
[[File:Deutsche Kriegszeitung (1914) 01 04 3.png|thumb|left|200px|ゲーベンとブレスラウの写真。]] |
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{{seealso|グレート・ゲーム|第一次世界大戦の原因}} |
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巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウからなるドイツの地中海艦隊({{仮リンク|ヴィルヘルム・スション|en|Wilhelm Souchon}}少将)<!-- ユグノー系のためフランス語での発音となる -->は1912年に派遣された。その戦時における役割は[[アルジェリア]]から[[フランス]]への兵員輸送の妨害であった。ゲーベンとブレスラウは共に1912年に竣工したばかりの新鋭艦であった。 |
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[[不凍港]]を求めて[[南下政策]]を採る[[ロシア帝国]]は{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|pp=54-57|ps=クリミア併合で蘇るロシアの「南下政策」}}、[[大日本帝国]]との[[日露戦争]]で[[ロシア帝国海軍|海軍]]の主力艦隊([[バルチック艦隊]]、[[太平洋艦隊_(ロシア海軍)|太平洋艦隊]])を失った{{Sfn|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999|pp=134-135,138-139}}。[[極東]]方面での進出をしばらく断念したロシアの眼は、再び[[中央アジア]]に向けられる{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=7-9|ps=ロシア}}([[ロシアの歴史]]、[[:en:Russia–Turkey_relations|ロシアとトルコの関係]]、[[:en:History_of_the_Russo-Turkish_wars|ロシアとトルコの戦争史]])。その戦略目標は[[コンスタンティノープル]]([[イスタンブール]])の占領と[[ダーダネルス海峡]]および[[ボスポラス海峡]]の掌握である{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|pp=59-62}}。[[:en:Decline_and_modernization_of_the_Ottoman_Empire|衰退著しい]][[オスマン帝国]]に独力で対抗できる力はなく{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|pp=62-63|ps=「東方問題」の発生}}、[[イギリス]]と[[フランス]]はロシアの同盟国なので頼りにならず{{Efn|イギリスは[[3C政策]]を掲げ、[[三国協商]]([[英露協商]]、[[露仏同盟]]、[[英仏協商]])を締結していた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=15-20|ps=対抗同盟}}。オスマン帝国はイギリスやフランスと対ロシア同盟を結ぼうとしたが、拒否された{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=145}}。}}{{Efn|イギリスはオスマン帝国領だった[[エジプト]]を事実上[[植民地]]化していた{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|pp=30-32}}。}}、オスマン帝国は[[ドイツ帝国]]の支援を仰いだ{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=145}}([[:en:History_of_German_foreign_policy#1871–1919|ドイツ外交政策の歴史]])。[[:tr:Osmanlı_ordusu_(modern_dönem)|オスマン帝国軍]]は[[ドイツ帝国陸軍 (Deutsches Heer)|ドイツ帝国陸軍]]の[[:de:Deutsche_Militärmissionen_im_Osmanischen_Reich|協力を得て]]近代化を進めた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=70}}。 |
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これに対し、[[オスマン帝国海軍]]は[[イギリス海軍]]の[[:en:British_naval_missions_to_the_Ottoman_Empire|支援を受け]]、イギリス海軍軍人を艦隊総司令長官に任命していた{{Efn|イギリス海軍から[[:de:Douglas_Gamble|ギャンブル]]提督(1909年2月~1910年3月)、[[:en:Hugh_Pigot_Williams|ウィリアムズ]]提督(1910年4月~1912年4月)、[[:en:Arthur_Limpus|リムパス]]提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、[[:en:List of Fleet Commanders of the Ottoman Navy|オスマン帝国艦隊総司令官]]に任命されていた。}}。オスマン帝国はイギリスの民間軍事企業に{{仮リンク|レシャディエ級戦艦|en|Reşadiye-class_battleship|tr|Reşadiye_sınıfı_zırhlı}}の建造を発注する{{Efn|name="希土軍備02"|○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)<ref name="希土軍備p2">[[#大正3、希土軍備]] pp.1-2</ref>(中略) 二、土國海軍 土國海軍ノ製艦計畫ハ[[ギリシャ|希國]]ノ計畫程ニ大規模ナラサルモ大艦ヲ多ク含ムニ於テ之ニ優レルモノアリ即チ先ツ[[超弩級戦艦|最大級「ドレットノート」型戰闘艦]]三隻ヲ算シ内一隻[[エリン (戦艦)|Reshadieh號]]ハ客年九月進水シテ目下武装中ニ属シ第二ハ即チ[[ブラジル|伯剌西爾]]政府ノタメニ英國ニ於テ建造シタル前記「[[エジンコート (戦艦)|リオ・デジャネロ]]」號ニシテ客年十二月末ヲ以テ購入目下武装中ニシテ第一ト共ニ本年中ニ竣功スヘシ亦第三ハ近ク英國[[ヴィッカース|Vickers會社]]ニ注文セラルヘシ<br/>更ニ製艦計畫ハ輕巡洋艦二隻及水雷驅逐艦十八隻ヲ含ミ内驅逐艦十二隻ヲ佛國[[:fr:Chantiers_et_Ateliers_Augustin_Normand|Normand會社]]ニ注文シタル外他ハ何レモ英國[[ヴィッカース・アームストロング|Armstrong-Vickers]]「シンジケート」ニ建造契約ヲナセリ現在海軍力ハ戰闘艦五隻 甲装巡洋艦二隻 水雷砲艦二隻 水雷驅逐艦八隻 水雷艇八隻ニシテ詳細ヲ表示スルコト次ノ如シ(以下略)}}。 |
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さらに[[ブラジル]]が[[南アメリカの建艦競争|南米建艦競争]]によりイギリスに発注したが、諸事情により売却した[[弩級戦艦]]リオデジャネイロ (''{{lang|pt|Rio de Janeiro}}'') を購入し、スルタン・オスマン1世 (''{{lang|tr|Sultan Osman-ı Evvel}}'') と命名した{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152b}}。 |
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[[第一次バルカン戦争]]([[バルカン戦争]])の勃発により、ドイツ帝国は1912年11月に[[:de:Mittelmeer|地中海]][[:de:Division_(Militär)#Marine|戦隊]] ({{lang|de|Mittelmeerdivision}}) を新編し、巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを地中海に配備した{{Efn|ブレスラウには、のちに[[第二次世界大戦]]で[[ドイツ海軍 (国防軍)|ドイツ海軍]] ({{lang|de|Kriegsmarine}}) を率いた[[カール・デーニッツ]]が中尉として配属されていた{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=12}}。}}。最初の戦隊司令官は{{仮リンク|コンラッド・トラムラー|de|Konrad_Trummler}}少将であった。ゲーベンとブレスラウは共に1912年に竣工したばかりの新鋭艦であった。1913年6月に[[第二次バルカン戦争]]が勃発したあと、10月に新任司令官{{仮リンク|ヴィルヘルム・スション|en|Wilhelm Souchon}}少将<!-- ユグノー系のためフランス語での発音となる -->が着任した。戦時における役割は、[[アルジェリア]]から[[フランス]]への兵員輸送の妨害であった。 |
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一方、イギリスも1914年には[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]を改編、戦艦6隻を本国に戻し、そのかわり巡洋戦艦2隻を編入した。これにより |
一方、イギリスも1914年には[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]を改編、戦艦6隻を本国に戻し、そのかわり巡洋戦艦2隻を編入した。これにより地中海のイギリス巡洋戦艦は3隻([[インドミタブル_(巡洋戦艦)|インドミタブル]]、[[インディファティガブル (巡洋戦艦)|インディファティガブル]]、[[インフレキシブル (巡洋戦艦)|インフレキシブル]])となり、ドイツ地中海戦隊(ゲーベン、ブレスラウ)を牽制した{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|p=11}}。 |
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== 開戦直後 == |
== 開戦直後 == |
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[[1914年]][[7月28日]]に[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]との間で戦争が勃発した |
[[1914年]][[7月28日]]に[[オーストリア・ハンガリー帝国]]と、[[汎スラヴ主義]]を掲げるロシア帝国の影響下にあった[[セルビア王国 (近代)|セルビア]]との間で戦争が勃発した{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=35-42|ps=開戦の決定}}。ゲーベンは[[アドリア海]]の[[プーラ (クロアチア)|ポーラ]]で[[ボイラー]]の修理中であった。[[アドリア海]]に閉じ込められないためにスションは修理を急がせたが、結局修理が完了していない状態で出航した。8月1日にスションは[[イタリア]]の[[ブリンディジ]]に到着したが、イタリアは中立であることを理由にして給炭を行わなかった。ゲーベンは[[タラント]]でブレスラウと合流後[[メッシーナ]]へ向かい、そこでドイツ商船から[[石炭]]を補給した。 |
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一方、7月31日にイギリスの海相[[ウィンストン・チャーチル]]は地中海艦隊の指揮官{{仮リンク|アーチボルド・バークレー・ミルン|en|Archibald Berkeley Milne}}中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、[[マルタ]]を拠点とする地中海艦隊は巡洋戦艦 |
一方、7月31日にイギリスの海相[[ウィンストン・チャーチル]]は地中海艦隊の指揮官{{仮リンク|アーチボルド・バークレー・ミルン|en|Archibald Berkeley Milne}}中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、[[マルタ]]を拠点とする地中海艦隊は[[インヴィンシブル級巡洋戦艦|巡洋戦艦]]3隻([[インフレキシブル (巡洋戦艦)|インフレキシブル]]、[[インディファティガブル (巡洋戦艦)|インディファティガブル]]、[[インドミタブル (巡洋戦艦)|インドミタブル]])、[[装甲巡洋艦]]4隻、[[軽巡洋艦]]4隻および14隻の[[駆逐艦]]からなっていた。 |
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8月1日、ミルンはマルタに艦隊を集結させた。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルを{{仮リンク|アーネスト・トラウブリッジ|en|Ernest Troubridge}}少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦[[チャタム (軽巡洋艦)|チャタム]]を[[メッシーナ海峡]]へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており、ミルンはインドミタブルとインディファティガブルをゲーベン捜索のため西へ向かわせた。 |
8月1日、ミルンはマルタに艦隊を集結させた。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルを{{仮リンク|アーネスト・トラウブリッジ|en|Ernest Troubridge}}少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦[[チャタム (軽巡洋艦)|チャタム]]を[[メッシーナ海峡]]へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており、ミルンはインドミタブルとインディファティガブルをゲーベン捜索のため西へ向かわせた。 |
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== 最初の接触 == |
== 最初の接触 == |
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明確な命令は無く、そのためスションはアフリカ沿岸で戦争開始に備えることにした。スションは[[アルジェリア]]の港ボーヌ(現在の[[アンナバ]])とフィリップヴィル(現在の[[スキクダ]])の攻撃を計画した。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへ向かった。8月3日午後6時、西に向かって航行中にスションはドイツがフランスに宣戦布告したという報告を受けた。4日朝早く、スションは司令長官である[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督から「8月3日トルコと同盟が結ばれた。直ちにコンスタンティノープルへ向かえ」という命令を受けた。目標近くまで来ていたため、スションは夜明けに砲撃を行い、それから給炭のためメッシーナに向かった。 |
明確な命令は無く、そのためスションはアフリカ沿岸で戦争開始に備えることにした。スションは[[アルジェリア]]の港ボーヌ(現在の[[アンナバ]])とフィリップヴィル(現在の[[スキクダ]])の攻撃を計画した。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへ向かった。8月3日午後6時、西に向かって航行中にスションはドイツがフランスに宣戦布告したという報告を受けた。4日朝早く、スションは司令長官である[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督から「8月3日、[[:tr:Alman-Osmanlı_ittifak_antlaşması|トルコと同盟が結ばれた]]。直ちにコンスタンティノープルへ向かえ」という命令を受けた。目標近くまで来ていたため、スションは夜明けに砲撃を行い、それから給炭のためメッシーナに向かった。 |
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戦争前のイギリスとの協定により大西洋沿岸防衛をイギリスに任せていたためフランスは全艦隊を地中海に集中させることができた。フランス艦隊の3つの部隊が輸送船団の護衛に当たっていた。しかし、ゲーベンがさらに西に向かうことも予想されたにもかかわらず、輸送船団の防御を強固とするためにフランスの{{仮リンク|オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール|en|Augustin Boué de Lapeyrère}}中将はゲーベン捜索に1隻の艦艇も派遣しなかった。そのためスションは妨害を受けずに東に向かうことができた。 |
戦争前のイギリスとの協定により大西洋沿岸防衛をイギリスに任せていたためフランスは全艦隊を地中海に集中させることができた。フランス艦隊の3つの部隊が輸送船団の護衛に当たっていた。しかし、ゲーベンがさらに西に向かうことも予想されたにもかかわらず、輸送船団の防御を強固とするためにフランスの{{仮リンク|オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール|en|Augustin Boué de Lapeyrère}}中将はゲーベン捜索に1隻の艦艇も派遣しなかった。そのためスションは妨害を受けずに東に向かうことができた。 |
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8月9日[[デヌーサ島]]沖でスションは石炭を補給。8月10日午後5時、彼はダーダネルスに到着、通過の許可を待った。[[国際信号旗]]で[[水先案内人]]を要求したのに対し、トルコの[[水雷艇]]はこれに応じたため彼らに先導されて二隻はダーダネルス海峡を通過した(この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している)。午後8時30分、近くにいたイギリスの副領事から、二隻がダーダネルスを通過したためダーダネルスを封鎖すべき、とイギリスへ打電されたが、ロンドンへは14時間、さらにミルンへは6時間かかってようやく届いたためもはや手遅れだった。翌11日夕方になってようやくウェイマスがダーダネルスに到着し、通過を要求したがトルコ側から拒絶された。 |
8月9日[[デヌーサ島]]沖でスションは石炭を補給。8月10日午後5時、彼はダーダネルスに到着、通過の許可を待った。[[国際信号旗]]で[[水先案内人]]を要求したのに対し、トルコの[[水雷艇]]はこれに応じたため彼らに先導されて二隻はダーダネルス海峡を通過した(この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している)。午後8時30分、近くにいたイギリスの副領事から、二隻がダーダネルスを通過したためダーダネルスを封鎖すべき、とイギリスへ打電されたが、ロンドンへは14時間、さらにミルンへは6時間かかってようやく届いたためもはや手遅れだった。翌11日夕方になってようやくウェイマスがダーダネルスに到着し、通過を要求したがトルコ側から拒絶された。 |
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ドイツとトルコの間で交渉が行われ、8月16日、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着した。 |
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ドイツとトルコの間で交渉が行われ、8月16日、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着した。到着時にはまだオスマン帝国(トルコ)は中立を維持していたが、武装解除も退去要請もせず、両艦はオスマン政府に買い上げられることとなった。イギリスはこの措置に強く抗議したものの、決定は覆らず両艦は[[オスマン帝国海軍]]所属となり、こうしてゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム、ブレスラウはミディッリと改名された。しかし、乗員はそのままドイツ人であり、スションはオスマン帝国海軍の司令長官に任命され、1917年に帰国するまでトルコに留まった。 |
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1913年7月にオスマン帝国とイギリスは[[:en:Anglo-Ottoman_Convention_of_1913|同盟を締結]]したが、[[:en:International_relations_(1814–1919)|複雑な国際関係]]により批准されなかった。[[:en:July_Crisis|7月危機]]が世界大戦に発展すると、[[ロシア帝国]]はイギリスで建造中のオスマン帝国むけ[[超弩級戦艦]]2隻が[[黒海]]で重大な脅威になることを怖れ、[[セルゲイ・サゾーノフ]]([[外務大臣_(ロシア)|ロシア外務大臣]])が[[アレクサンドル・ベンケンドルフ (外交官)|ベンケンドルフ]]駐英大使を通じてイギリスに対応を要請していた([[:en:Constantinople_Agreement|コンスタンティノープル協定]])。直後の1914年8月2日、オスマン帝国とドイツ帝国間で[[:tr:Alman-Osmanlı_ittifak_antlaşması|土獨軍事同盟]]が結ばれる{{Sfn|トルコ近現代史|2001|p=146}}{{Efn|name="立博士論文357a"}}。 |
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秘密裏に同盟を締結したオスマン帝国政府に対し、イギリスは完成間近の超弩級戦艦を譲渡するよう要請したが断られ、2隻(レシャディエ、スルタン1世)を接収した{{Efn|name="改名"}}{{Efn|○英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)<ref name="英土断絶p1">[[#大正4、英土国交断絶]] p.1</ref> 獨佛露ノ開戰ト共ニ英國政府ハ八月三日駐土代理大使ヲシテ土國カ「アームストロンク」會社ニ注文中ナル「オスマン」一世ヲ英國政府ニ引取ルヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レシメタルニ土國總理大臣ハ土國カ戰爭ニ加ハラサルニ英國政府カ此ノ如キ行動ニ出タルハ友好的ナラストテ不滿ノ意ヲ表シ且ツ今次ノ戰亂ニ際シ土國ハ嚴正中立ヲ守ルヘク動員實行ノコトニ決定シタルトモ右ハ其完成ニ數箇月ノ時日ヲ要シ将來萬一ノ場合ニ備フルノ必要已ヲ得サルニ出タルモノナルコト並ニ獨逸軍事顧問ノ在任ハ何等政治上ノ意味ナキモノナルコトヲ明言セリ 英國政府ハ土國軍艦ノ引取ニ對シテハ不本意トスル所ナルモ右ハ此際ノ危機ニ際シ英國ニ在ル使用シ得ヘキ軍艦ヲ保有スルノ必要ニ迫ラレタルニ因ルモノニシテ土國カ受クル金錢上其他一切ノ損害ニ對シテハ英政府ニ於テ十分ノ考量ヲ加フヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レタルカ土國人民ノ敵愾心ハ本件ノ爲メ頗ル熾盛トナレリ(以下略)}}。これによりオスマン帝国内の[[:en:Anti-English_sentiment|反英感情]]が一挙に高まった<ref name="英土断絶p1" />。 |
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そこにドイツ帝国海軍のゲーベンとブレスラウが到着し、親独感情の高まりと共に[[:en:Anglophile|親英勢力]]の発言権が低下する{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}。 |
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ドイツ艦2隻の到着時、オスマン帝国は中立を宣言していたが武装解除も退去要請もせず{{Sfn|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998|p=152b}}、両艦はオスマン政府に買い上げられることとなった{{Efn|(中略)<ref name="英土断絶p1" /> 八月十一日獨國軍艦「ゲーベン」「ブレスラウ」ガ「ダーダネルス」ニ入ルヤ英國政府ハ直ニ土國政府ニ對シ獨國軍艦ヲシテ海峡ヲ通過セシメサルヘキコト、二十四時間内ニ立去ルカ然ラサレハ武装ヲ解除セシムヘキコトヲ申入ルヘキ旨ヲ駐土代理大使ニ訓令シタルニ之ト行違ニ土國政府ハ英國政府ニ對シ前記二艦ヲ買入タルコト其乗組員ハ總テ獨逸本國ニ歸還セシムヘキコト並ニ右二艦ノ購買ハ英國注文中ノ軍艦ニ代ハルモノニシテ[[エーゲ海諸島|多島海]]問題ニ關シ[[ギリシャ|希臘]]ト折衝上互角ノ地歩ヲ占ムルノ必要ニ出テ敢テ露國ニ對抗スルノ考ニ出テタルニ非ル旨ヲ申入レタリ 而シテ土國海軍大臣ハ英國海軍顧問「[[:en:Arthur Limpus|アドミラル、リムパス]]」ニ右二艦ノ艤装方ヲ依頼シ且之ヲ同提督ノ麾下ニ置クヘキ旨ヲ約束シタルニ拘ラス數日ヲ出テスシテ同提督以下英國海軍将校ノ轉職ヲ命シ土國将校ヲ以シ之ニ代ヘ之レカ説明トシテ八月十六日總理大臣ハ英國代理大使ニ對シ土國ハ中立ヲ嚴守スヘク且「ゲーベン」「ブレスラウ」ハ土國将校ニ於テ之カ操縦ニ不便ヲ感スルヨリ若干獨逸将校ヲ乗組マシメ置クノ必要アリ英國提督ノ下ニ土獨兩國ノ将校ヲ置クハ不便ナルヲ以テ餘儀ナク提督以下ノ轉職ヲ見ルニ至リタル次第ナリト辯解セリ(以下略)}}。 |
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イギリスはこの措置に強く抗議し、種々の提案をして懐柔を試みる{{Efn|name="立博士論文357b"|是等の事件ありたるに拘はらず、聯合諸國はトルコ政府に對して種々の提議を爲せり。聯合諸國は先づ、トルコにして中立を維持し、エジプトが平穏なるときは、エジプトの政治上の地位を變更せざるべきをトルコ政府に説き、次に、若しトルコが中立を嚴守せば、協商側の諸國が總ての攻撃に對してトルコの獨立及び領土保全を指示すべきを説けり。トルコ海軍大臣が領事裁判制度の即時の撤廢を求むるや、イギリス外務大臣は、フランス及びロシヤの承諾することを條件として、現代の状態に適する制度がトルコに行はるるに至る際、イギリスが領事裁判制度に關する其権利を抛棄すべきを約せり。イギリス王も親書をトルコ帝に贈り、曩にイギリスに於てトルコの爲に製造中なりし二隻の軍艦を、止むを得ずして徴發せることにつき、遺憾の情を表し、戰爭終らば之を囘復すべきを約せり。 トルコ帝及びトルコ宰相は、外觀上、聯合諸國に對して慇懃の禮節を失はざりしも、トルコのの態度は已に決し、陸軍大臣[[エンヴェル・パシャ|エンヴェル「パシャ」]]は戰備を整ふるの件に當り、トルコ軍隊の動員が行はれたり。八月二十六日ドイツ海軍軍人が陸路トルコの首都に着せり。トルコの戰備成るや、十月二十八日、ゲーベン號の艦長は、ドイツ船及びトルコ船を率ゐて黒海に入り、セバストポル近海に水雷を浮流せしめ、オデッサ及び其他二港に砲撃を加へたり。是に於てロシヤは十月三十一日トルコに對して宣戰し、十一月三日イギリス及びフランスもトルコに對して宣戰するに至れり。ドイツ帝はトルコ帝をして、普く[[イスラム教|囘々教徒]]に激して、[[ジハード|神聖戰爭]]を宣言せしめ、以てインド、エジプトに於てイギリスを苦め、アルゼリヤ、チェニス、モロッコに於てフランスを苦めんと欲せり。然れども囘々教徒は、ドイツ帝の豫期の如く、トルコ帝の檄に應じて起つに至らざりしなり。{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}(以下略)}}。 |
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接収したトルコ戦艦の代艦の提供を申し出たがオスマン帝国の姿勢は変わらず{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}、両艦(ゲーベン、ブレスラウ)は[[オスマン帝国海軍]]所属となった<ref name="英土断絶p1" />。さらにオスマン帝国海軍に派遣されていた英海軍将校が追放される<ref name="英土断絶p1" />。ゲーベンは[[セリム1世|ヤウズ・スルタン・セリム]] (''{{lang|tr|Yavuz Sultan Selim}}'') {{Sfn|丸、写真集世界の戦艦|1977|pp=152b-153}}、ブレスラウは[[レスボス島|ミディッリ]] (''{{lang|tr|Midilli}}'') と改名された{{Sfn|世界の艦船、近代巡洋艦史|2009|p=72a|ps=〔戦利・貸供与艦〕トルコ/小型巡洋艦「ミディリ」MIDILI}}。乗員はそのままドイツ人であり、[[:de:Mittelmeerdivision|ドイツ地中海戦隊]]司令官のスション提督は[[:en:List of Fleet Commanders of the Ottoman Navy|オスマン帝国海軍の司令長官]]に任命され、1917年9月に帰国するまでトルコに留まった{{Efn|後任の地中海戦隊司令官は{{仮リンク|ハーバート・フォン・リボイル・パシュウィツ|label=パシュウィツ|de|Hubert_von_Rebeur-Paschwitz|en|Hubert_von_Rebeur-Paschwitz}}提督であった。}}。 |
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一方、ミルン、トールブリッジとディフェンスの艦長フォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内で公然と非難され、有罪にこそならなかったものの以後閑職に回されて不遇をかこつ事となった。 |
一方、ミルン、トールブリッジとディフェンスの艦長フォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内で公然と非難され、有罪にこそならなかったものの以後閑職に回されて不遇をかこつ事となった。 |
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なおイギリスにとっても、オスマン帝国が同盟国や中立国であるよりも、敵国として[[:en:Partition_of_the_Ottoman_Empire|分割対象]]である方が都合が良かった{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=72}}。イギリスの[[歴史学者]][[マイケル・ハワード_(歴史学者)|マイケル・ハワード]]は著書で以下のような見解を示している。 |
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{{Quotation|イギリスはこの外交的敗北を嘆くことはなかった。そして、たしかに意図的にそれを自ら招いたのかもしれない。老大国オスマン帝国は従属的な同盟国よりも[[生贄|いけにえ]]としてイギリスにとってより有益であった。[[植民地省|植民庁]]と[[インド省|インド政庁]]はイギリス帝国にとっての妥当な獲物としてオスマン帝国領[[アナトリア半島|小アジア]]を長いあいだ見ていた。当時、[[石炭]]から[[石油]]に動力源をシフトしはじめていたイギリス海軍は、[[ペルシア湾]]の奥にある[[バスラ]]の石油精製施設に注目していた。オスマン帝国が敵になったことで、イギリスは今やエジプトの変則的な占領状態を完全な[[保護国]]に変更することができた。ロンドンは自国の新しい同盟国であるロシアに対して、過去一〇〇年のあいだイギリスの安全保障の「砦」と見なされていた[[:en:Constantinople_Agreement|コンスタンチノープルの提供を約束]]する余裕すらあった。|マイケル・ハワード『第一次世界大戦 {{lang|en|The First World War}}』72-73ページ}} |
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ドイツはゲーベンとブレスラウの譲渡により、トルコを同盟国側に引き込むことに成功した。そして、1915年ロシア支援のため行われた[[ガリポリの戦い]]で[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は大きな損害を出すことになった。 |
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1914年10月下旬、元ドイツ艦2隻(ヤウズ・スルタン・セリム、ミディッリ)は[[:en:Black_Sea_raid|黒海襲撃]]を行い{{Efn|name="立博士論文357b"}}、[[:en:Russian_entry_into_World_War_I|開戦の火蓋]]を切った{{Sfn|通俗的世界全史、16巻|1928|pp=286-289|ps=(原本522-525頁)}}。11月初旬にはイギリスなど連合国もオスマン帝国に[[:en:Ottoman_entry_into_World_War_I|宣戦を布告]]し、[[中東戦域_(第一次世界大戦)|中東戦域]]が形成された{{Sfn|立博士外交史論文集|1946|p=357|ps=原本六九〇-六九一頁}}。[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]は、[[ダーダネルス海峡]]を突破して[[制海権]]を握れば首都[[コンスタンティノープル]]が危うくなり、オスマン帝国は簡単に屈服すると考えていた{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=73}}。[[:en:Sick_man_of_Europe|ヨーロッパの病人]]と侮っていたのだが、その見通しは[[ガリポリの戦い|ガリポリ攻防戦]]で打ち砕かれる{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=76}}。[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]][[海軍本部_(イギリス)#ファースト・ロード(First_Lord_of_the_Admiralty)|海軍大臣]]はダーダネルス海峡上陸を主張していたので{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|p=74}}、作戦失敗の責任をとり[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー|フィッシャー]][[第一海軍卿]]と共に辞任した{{Efn|イギリスの思惑は軌道修正され、[[サイクス・ピコ協定]]{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|p=33|ps=サイクス=ピコ協定によるオスマン帝国領の分割案}}、[[:en:Mandate_for_Mesopotamia|メソポタミア委任]]、[[:en:Mandate_for_Palestine|パレスチナ委任]]([[バルフォア宣言]]、[[イギリス委任統治領パレスチナ]])などで具体化した。[[三枚舌外交|この外交]]によりもたらされた混乱は、現在も続いている{{Sfn|ハワード、第一次世界大戦|2014|pp=150-154|ps=中東}}。}}。 |
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オスマン帝国は[[ムドロス休戦協定]]と[[セーヴル条約]]によって連合国に降伏して[[:en:Partition of the Ottoman Empire|分割されたが]]、不平等条約に反発する[[国民軍_(トルコ独立戦争)|国民軍]]の[[:en:Turkish_National_Movement|激しい抵抗運動]]が起きた。幾度かの[[戦争]]が起きたあと{{Efn|[[アルメニア・トルコ戦争]]、{{仮リンク|フランス・トルコ戦争|en|Franco-Turkish_War|fr|Campagne_de_Cilicie|tr|Türk_Kurtuluş_Savaşı_Güney_Cephesi}}、[[希土戦争 (1919年-1922年)|ギリシャ・トルコ戦争]]など。}}、[[トルコ革命]]の末にオスマン帝国は滅亡した{{Sfn|池内、サイクス=ピコ協定|2016|pp=34-46|ps=セーヴル条約からローザンヌ条約へ}}。[[ローザンヌ条約]]が締結されて列強は[[アンカラ政府]]を承認し、ここに[[トルコ]][[共和制|共和国]]が始まる{{Sfn|トルコ近現代史|2001|pp=180-188|ps=ローザンヌ条約とトルコ共和国の成立}}。イギリス海軍が接収した軍艦の代金を含め、[[第一次世界大戦の賠償|賠償請求問題]]解決した{{Efn|對土協約議定書の調印{{Sfn|通俗的世界全史、17巻|1928|pp=355-357|ps=(原本665-669頁)}}(中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)}}。 |
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オスマン帝国海軍は[[トルコ海軍]]に再編された。ヤウズもトルコ海軍所属となり、竣工時とほとんど変わらない艦容を維持したまま[[第二次世界大戦]]終結後も在籍{{Sfn|丸、写真集世界の戦艦|1977|pp=152b-153}}、[[1971年]]に売却された{{Sfn|ジョーダン、戦艦|1988|pp=112b-113}}。 |
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ゲーベンに乗船していたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後に回想録「孤独な二隻」を著し、英訳もされている。 |
ゲーベンに乗船していたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後に回想録「孤独な二隻」を著し、英訳もされている。 |
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== |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
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<!-- 著者五十音順 --> |
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* <!-- アライマサミ2001-04 -->{{Cite book|和書|author=新井正美|authorlink=新井政美|editor=|date=2001-04|chapter=第六章 第二次立憲政の時代(一九〇八~一九一八年)|title=トルコ近現代史 {{smaller|イスラム国家から国民国家へ}}|publisher=みすず書房|isbn=4-622-03388-7|ref={{SfnRef|トルコ近現代史|2001}}}} |
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* <!-- イケウチサトシ2016 -->{{Cite book|和書|author1=池内恵|authorlink=池内恵|date=2016-06|chapter=第2章 露土戦争と東方問題の時代|title=サイクス=ピコ協定 百年の呪縛 {{smaller|中東大混迷を解く}}|publisher=新潮社|series=新潮選書|isbn=978-4-10-603786-3|ref={{SfnRef|池内、サイクス=ピコ協定|2016}} }} |
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* <!-- ジョーダン1988 -->{{Cite book|和書|author1=ジョン・ジョーダン|others=石橋孝夫(訳)|date=1988-11|chapter=|title=戦艦 {{smaller|AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS}}|publisher=株式会社ホビージャパン|series=イラストレイテッド・ガイド6|isbn=4-938461-35-8|ref={{SfnRef|ジョーダン、戦艦|1988}} }} |
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* <!-- セカイ増刊718 -->{{Cite book|和書|author=編集人 木津徹|author2=発行人 石渡長門|date=2009-12|chapter=|title=世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史|publisher=株式会社海人社|series=2010年1月号増刊(通算第718号)|isbn=|ref={{SfnRef|世界の艦船、近代巡洋艦史|2009}}}} |
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* <!-- タイヘイヨウセンソウ1998-11 -->{{Cite book|和書|author1=太平洋戦争研究会|author2=岡田幸和|auther3=谷井建三(イラストレーション)|coauthors=|date=1998-11|title={{smaller|ビッグマンスペシャル}} 世界の戦艦 〔 大艦巨砲編 〕 {{smaller|THE BATTLESHIPS OF WORLD WAR II}}|publisher=[[世界文化社]]|series=|isbn=4-418-98140-3|ref={{SfnRef|世界の戦艦、大艦巨砲編|1998}}}} |
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* <!-- タイヘイヨウセンソウ1999-03 -->{{Cite book|和書|author1=太平洋戦争研究会|author2=岡田幸和、瀬名堯彦|auther3=谷井建三(イラストレーション)|coauthors=|date=1999-03|title={{smaller|ビッグマンスペシャル}} 世界の戦艦 〔 弩級戦艦編 〕 {{smaller|BATTLESHIPS OF DREADNOUGHTS AGE}}|publisher=[[世界文化社]]|series=|isbn=4-418-99101-8|ref={{SfnRef|世界の戦艦、弩級戦艦編|1999}}}} |
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* <!-- ハワード2014 -->{{Cite book|和書|author=マイケル・ハワード|authorlink=マイケル・ハワード_(歴史学者)|editor=|others=馬場優|date=2014-09|origiyear=|title=第一次世界大戦|chapter=|publisher=法政大学出版部|isbn=978-4-588-36607-9|ref={{SfnRef|ハワード、第一次世界大戦|2014}}}} |
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*<!-- ハンブル1985 -->{{Cite book|和書|author1=リチャード・ハンブル|others=実松譲 訳|date=1985-12|chapter=1 第一次大戦のドイツ艦隊|title=壮烈!ドイツ艦隊 {{smaller|悲劇の戦艦「ビスマルク」}}||publisher=サンケイ出版|series=第二次世界大戦文庫(26)|isbn=4-383-02445-9|ref={{SfnRef|壮烈!ドイツ艦隊|1985}}}} |
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* <!-- マル1977 -->{{Cite book|和書|author=月間雑誌「丸」編集部編|coauthors=|date=1977-07|title=丸季刊 {{smaller|全特集}} 写真集 世界の戦艦 {{smaller|仏伊ソ、ほか10ヶ国の戦艦のすべて}} {{lang|en|THE MARU GRAPHIC SUMMER 1977}}|publisher=株式会社潮書房|series=丸 {{lang|en|Graphic・Quarterly}} 第29号|isbn=|ref={{SfnRef|丸、写真集世界の戦艦|1977}}}} |
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* [https://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)] |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130343500|title=外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ葛藤|ref=大正3、希土葛藤}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130343600|title=外事彙報 大正3年度(政-85)(外務省外交史料館)第四号/○希土両国間ノ軍備現況|ref=大正3、希土軍備}} |
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**{{Cite book|和書|id=Ref.B02130352100|title=外事彙報 大正4年度(政-86)(外務省外交史料館)第一号/○英土国交断絶顛末ニ関スル英国政府白書摘要|ref=大正4、英土国交断絶}} |
|||
**{{Cite book|和書|id=Ref.B07090410500|title=各国ヨリ帝国艦艇譲受方申出関係雑件(5-1-8-0-31)(外務省外交史料館)3.土国|ref=土国譲渡}} |
|||
*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]] |
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**{{Citation |和書|author=獨逸海軍本部 編纂|editor=|date=1928-11|title=地中海戰隊 {{smaller|一九一四年乃至一九一八年海戰史}}|chapter=|series=土耳古方面海戰史 第1巻|publisher=海軍軍令部|url={{NDLDC|1900859}}|ref={{SfnRef|地中海戦隊|1928}}}} |
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**{{Citation |和書|author=世界軍備研究会(編)|editor=|date=1935-06|title=世界海軍大写真帖|chapter=|publisher=帝国軍備研究社|url={{NDLDC|1465596}}|ref={{SfnRef|世界海軍大写真帖|1935}}}} |
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**{{Citation |和書|author1=[[薄田斬雲]]編述|author2=[[坪内逍遥]]、[[煙山専太郎]]監修|editor=|date=1933-03|title=通俗的世界全史 第16巻 二十世紀史(上巻)|chapter=第二十章 獨逸のバルカン對策|publisher=早稲田大学出版部|url={{NDLDC|1175653}}|ref={{SfnRef|通俗的世界全史、16巻|1928}}}} |
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**{{Citation |和書|author1=薄田斬雲編述|author2=坪内逍遥、煙山専太郎監修|editor=|date=1933-04|title=通俗的世界全史 第17巻 二十世紀史(下巻)|chapter=|publisher=早稲田大学出版部|url={{NDLDC|1175675}}|ref={{SfnRef|通俗的世界全史、17巻|1928}}}} |
|||
**{{Citation |和書|author=[[立作太郎]]博士論行委員会|editor=|date=1946-04|title=立博士外交史論文集|chapter=第二章 世界大戰中に於ける外交關係事實|publisher=日本評論社|url={{NDLDC|1459235}}|ref={{SfnRef|立博士外交史論文集|1946}}}} |
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== 関連項目 == |
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{{Commons|Category:SMS Goeben (ship, 1911)|タイトル=巡洋戦艦ゲーベン}} |
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{{Commons|Category:Pursuit of Goeben and Breslau}} |
{{Commons|Category:Pursuit of Goeben and Breslau}} |
||
* [[ドイツ海軍艦艇一覧]] |
|||
* [[オスマン帝国海軍艦艇一覧]] |
|||
* [[トルコ海軍艦艇一覧]] |
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* [[トルコの国際関係]] |
|||
:* [[:en:Turkey–United_Kingdom_relations|トルコとイギリスの関係]] |
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:* [[:en:Germany–Turkey_relations|トルコとドイツの関係]] |
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:* [[:en:Russia–Turkey_relations|トルコとロシアの関係]] |
|||
* [[カール・デーニッツ]] |
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==外部リンク== |
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*{{Wayback|url=http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Goeben1/goeben00.htm |title=ゲーベンが開きし門 |date=20070818011829}} - コップの「孤独な二隻」を基にした解説ページ |
*{{Wayback|url=http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Goeben1/goeben00.htm |title=ゲーベンが開きし門 |date=20070818011829}} - コップの「孤独な二隻」を基にした解説ページ |
||
*[http://www.superiorforce.co.uk/ SUPERIOR FORCE : The Conspiracy Behind the Escape of Goeben and Breslau] |
*[http://www.superiorforce.co.uk/ SUPERIOR FORCE : The Conspiracy Behind the Escape of Goeben and Breslau] |
2022年4月29日 (金) 04:15時点における版
ゲーベン追跡戦 | |
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ゲーベンの逃走を示した図 | |
戦争:第一次世界大戦 | |
年月日:1914年7月28日 - 8月10日 | |
場所:地中海 | |
結果:ゲーベンとブレスラウの逃亡成功 | |
交戦勢力 | |
イギリス フランス |
ドイツ帝国 |
指導者・指揮官 | |
アーチボルド・バークレー・ミルン アーネスト・トラウブリッジ オーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール |
ヴィルヘルム・スション |
戦力 | |
巡洋戦艦3 装甲巡洋艦4 軽巡洋艦4 駆逐艦14 |
巡洋戦艦1 軽巡洋艦1 |
損害 | |
なし | 船員4人 |
ゲーベン追跡戦(ゲーベンついせきせん)とは、第一次世界大戦勃発直後の1914年7月末から8月上旬にかけて、地中海で生起した軍事行動である。地中海戦隊に配備されていたドイツ帝国海軍の巡洋戦艦1隻と小型巡洋艦1隻がイギリス海軍の追跡を受け、中立国であったオスマン帝国のコンスタンティノープルに入港した[1]。ロシアの南下政策に対してオスマン帝国は親独傾向を強めており[2]、8月2日には同盟を締結していた[3]。この状況下、ダーダネルス海峡を通過してトルコ領海に辿り着いたドイツ艦2隻を、オスマン帝国はドイツ帝国から購入し、乗組員ごとオスマン帝国海軍に編入した[4]。ドイツ艦2隻の追跡劇と編入によりオスマン帝国と大英帝国(ロシア同盟国)の関係は悪化し、同年10月末にオスマン帝国が中央同盟国側として参戦する要因となった[5]。
概要
第一次バルカン戦争を受けて1912年11月にドイツ帝国海軍が新編した地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) に、モルトケ級巡洋戦艦2番艦ゲーベン (SMS Goeben) と[6]、マクデブルク級軽巡洋艦ブレスラウ (SMS Breslau) が配備された[7]。 1914年7月末に第一次世界大戦が勃発すると、イギリス海軍の地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) はドイツ地中海戦隊の2隻(ゲーベン、ブレスラウ)を捕捉しようとした[8][注釈 1]。ドイツ艦2隻はイギリス地中海艦隊の追跡から逃れ、ダーダネルス海峡を通過して、8月6日にオスマン帝国のコンスタンティノープルに入港する[注釈 2]。 イギリス側はインヴィンシブル級巡洋戦艦を主力とする優勢な艦隊でドイツ艦2隻を追跡したが、通信の遅れによる情報の錯綜と上層部のあいまいな指示などが災いして混乱し、結局ドイツ艦隊を逃してしまった。
当時のオスマン帝国では、南下政策によりバルカン半島に介入するロシア帝国に対抗するため、3B政策を採るドイツ帝国に接近していた[2]。オスマン帝国軍はドイツ軍の軍事顧問団を受け入れていた[11]。これに対しオスマン帝国海軍はイギリス海軍の影響下で海軍力を増強しており、イギリスの民間企業に超弩級戦艦を発注する[12]。ところが世界大戦勃発と共に完成間近の戦艦を2隻とも接収され[6]、トルコ国内で反英感情が高まっていた[13][注釈 3]。 まさにその時に、ドイツ帝国海軍の有力な軍艦2隻が到着した事になる[3]。仮にゲーベンとブレスラウがイギリス地中海艦隊の追跡から逃げられず、オスマン帝国領土に辿りつかなかったら、トルコ戦艦2隻(エリン、エジンコート)接収事件は忘れられたかもしれなかった[5]。 秘密裏に軍事同盟を結んでいたオスマン帝国はドイツ艦2隻を退去させたり武装解除せず、ドイツ帝国から購入して将官や乗組員ごとオスマン帝国海軍に編入した[3][注釈 4]。 ゲーベンは[17]、ヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) と改名した[18]。ブレスラウは、ミディッリ (Midilli) と改名した[19]。
一連の事件(土獨同盟、英国のトルコ戦艦接収、トルコのドイツ艦編入)は、中東の石油利権やスエズ運河の安定的支配を求めてオスマン帝国の分割を狙うイギリスと、親独傾向を強めていたオスマン帝国の関係を悪化させた[20]。同年10月31日から11月初旬にかけてオスマン帝国は三国協商各国(ロシア帝国、イギリス、フランス)に宣戦を布告して国交を断絶、中央同盟国陣営として第一次世界大戦に参入した[注釈 5]。
背景
不凍港を求めて南下政策を採るロシア帝国は[22]、大日本帝国との日露戦争で海軍の主力艦隊(バルチック艦隊、太平洋艦隊)を失った[23]。極東方面での進出をしばらく断念したロシアの眼は、再び中央アジアに向けられる[24](ロシアの歴史、ロシアとトルコの関係、ロシアとトルコの戦争史)。その戦略目標はコンスタンティノープル(イスタンブール)の占領とダーダネルス海峡およびボスポラス海峡の掌握である[25]。衰退著しいオスマン帝国に独力で対抗できる力はなく[26]、イギリスとフランスはロシアの同盟国なので頼りにならず[注釈 6][注釈 7]、オスマン帝国はドイツ帝国の支援を仰いだ[28](ドイツ外交政策の歴史)。オスマン帝国軍はドイツ帝国陸軍の協力を得て近代化を進めた[2]。
これに対し、オスマン帝国海軍はイギリス海軍の支援を受け、イギリス海軍軍人を艦隊総司令長官に任命していた[注釈 8]。オスマン帝国はイギリスの民間軍事企業にレシャディエ級戦艦の建造を発注する[注釈 9]。 さらにブラジルが南米建艦競争によりイギリスに発注したが、諸事情により売却した弩級戦艦リオデジャネイロ (Rio de Janeiro) を購入し、スルタン・オスマン1世 (Sultan Osman-ı Evvel) と命名した[13]。
第一次バルカン戦争(バルカン戦争)の勃発により、ドイツ帝国は1912年11月に地中海戦隊 (Mittelmeerdivision) を新編し、巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを地中海に配備した[注釈 10]。最初の戦隊司令官はコンラッド・トラムラー少将であった。ゲーベンとブレスラウは共に1912年に竣工したばかりの新鋭艦であった。1913年6月に第二次バルカン戦争が勃発したあと、10月に新任司令官ヴィルヘルム・スション少将が着任した。戦時における役割は、アルジェリアからフランスへの兵員輸送の妨害であった。
一方、イギリスも1914年には地中海艦隊を改編、戦艦6隻を本国に戻し、そのかわり巡洋戦艦2隻を編入した。これにより地中海のイギリス巡洋戦艦は3隻(インドミタブル、インディファティガブル、インフレキシブル)となり、ドイツ地中海戦隊(ゲーベン、ブレスラウ)を牽制した[31]。
開戦直後
1914年7月28日にオーストリア・ハンガリー帝国と、汎スラヴ主義を掲げるロシア帝国の影響下にあったセルビアとの間で戦争が勃発した[32]。ゲーベンはアドリア海のポーラでボイラーの修理中であった。アドリア海に閉じ込められないためにスションは修理を急がせたが、結局修理が完了していない状態で出航した。8月1日にスションはイタリアのブリンディジに到着したが、イタリアは中立であることを理由にして給炭を行わなかった。ゲーベンはタラントでブレスラウと合流後メッシーナへ向かい、そこでドイツ商船から石炭を補給した。
一方、7月31日にイギリスの海相ウィンストン・チャーチルは地中海艦隊の指揮官アーチボルド・バークレー・ミルン中将に対し、地中海を横切ってフランス第19軍団を運んでいるフランスの船団を護衛するよう指示した。この時、マルタを拠点とする地中海艦隊は巡洋戦艦3隻(インフレキシブル、インディファティガブル、インドミタブル)、装甲巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻および14隻の駆逐艦からなっていた。
8月1日、ミルンはマルタに艦隊を集結させた。翌日、ミルンは、オーストリア海軍の出撃に備えてアドリア海の監視を続ける一方、巡洋戦艦2隻でゲーベンを追跡するよう指示を受けた。ミルンはこれに背き、インドミタブル、インディファティガブルをアーネスト・トラウブリッジ少将麾下の巡洋艦戦隊と共にアドリア海に向かわせ、軽巡洋艦チャタムをメッシーナ海峡へゲーベン捜索に向かわせた。しかし、8月3日朝の時点で既にドイツ艦隊はメッシーナを離れて西へ向かっており、ミルンはインドミタブルとインディファティガブルをゲーベン捜索のため西へ向かわせた。
最初の接触
明確な命令は無く、そのためスションはアフリカ沿岸で戦争開始に備えることにした。スションはアルジェリアの港ボーヌ(現在のアンナバ)とフィリップヴィル(現在のスキクダ)の攻撃を計画した。そしてゲーベンがフィリップビルへ、ブレスラウがボーヌへ向かった。8月3日午後6時、西に向かって航行中にスションはドイツがフランスに宣戦布告したという報告を受けた。4日朝早く、スションは司令長官であるアルフレート・フォン・ティルピッツ提督から「8月3日、トルコと同盟が結ばれた。直ちにコンスタンティノープルへ向かえ」という命令を受けた。目標近くまで来ていたため、スションは夜明けに砲撃を行い、それから給炭のためメッシーナに向かった。
戦争前のイギリスとの協定により大西洋沿岸防衛をイギリスに任せていたためフランスは全艦隊を地中海に集中させることができた。フランス艦隊の3つの部隊が輸送船団の護衛に当たっていた。しかし、ゲーベンがさらに西に向かうことも予想されたにもかかわらず、輸送船団の防御を強固とするためにフランスのオーギュスタン・ブエ・ド・ラペレール中将はゲーベン捜索に1隻の艦艇も派遣しなかった。そのためスションは妨害を受けずに東に向かうことができた。
スションの進路にはイギリスの巡洋戦艦インドミタブルとインディファティガブルがおり、8月4日午前9時30分に両者は接触した。フランスと異なり、この時イギリスはまだドイツと戦争状態になっていなかった。そこで、イギリスの巡洋戦艦はゲーベンとブレスラウの追跡を開始した。ミルンはドイツ艦隊と触したこととその位置は報告したが東に向かっていることを伝えるのを怠った。そのため、チャーチルはドイツ艦隊がまだフランスの輸送船団の脅威になると思い、ミルンに輸送部隊が攻撃された場合は交戦することを許可した。この時点では、チャーチルらはゲーベンが西へ向かっていると思い込んでおり、その後の指示に影響を及ぼすこととなる。
追跡
ゲーベンの速力は27ノットであったがボイラーの損傷のため24ノットしか出せなかった。スションにとって幸運なことにイギリスの2隻の巡洋戦艦もボイラーに問題を抱えておりゲーベンの速度についてくることができなかった。ただし、ゲーベンではフル回転でボイラーへの給炭を続けたためボイラー室の船員4人が過労で殉職している(彼らは本戦闘での唯一の犠牲者である)。インドミタブル、インディファティガブルは遅れ、軽巡洋艦ダブリンが接触を続けたが、霧および日没のためシチリア島北岸のサン・ヴィト岬沖でダブリンはドイツ艦隊を見失った。ゲーベンとブレスラウは8月4日深夜にメッシーナに到着した。また、ドイツはイギリスと戦争状態になった。スションは、メッシーナからの出港支援のためにオーストリア軍艦の出動を駐ウィーンドイツ大使館付武官と軍令部に要請した。
一方、イギリス海軍省はミルンに、イタリアの中立を尊重しイタリアの領海内に侵入しないよう命じた。これはメッシーナ海峡の通過が不可能であることを意味した。そのため、ミルンは海峡の出口に部隊を配置した。未だスションが輸送船団攻撃や大西洋に向かうと予想していたため、ミルンは2隻の巡洋戦艦、インフレクシブルとインディファティガブルを海峡の北に配置し、南側は軽巡洋艦グロスター1隻のみであった。その上、ミルンはインドミタブルをチュニジアのビゼルトへ給炭に向かわせた。
スションにとってメッシーナは避難所とはならなかった。イタリアは彼に24時間以内の出港を要求し、石炭の補給は拒絶した。ドイツの汽船から石炭が手作業で集められたが、集まったのは8月6日夕刻までで1500トンであり、コンスタンティノープルに行くのには不十分であった。ティルピッツ提督からの新たなメッセージがさらにスションを窮地に追い込んだ。スションは、オーストリアの海軍は地中海での支援は行わず、またトルコは未だ中立であるため、コンスタンティノープルに向かうべきではない、と知らされた。おそらく戦争の終わりまで閉じ込められるであろうがポーラに避難するという選択もあった。だが、スションはコンスタンティノープルへ向かうことを決めた。スションの意図はトルコとロシアを開戦させるというものであった。
8月6日、ゲーベンとブレスラウは地中海東部に現れた。そこで2隻はグロスターと遭遇した。グロスターはドイツ艦隊追跡を開始した。ミルンは巡洋戦艦は西に残したままにし、ダブリンを派遣してトラウブリッジの巡洋艦戦隊に加えた。ミルンはこれでドイツ艦隊を阻止できると考えた。
トラウブリッジ戦隊は4隻の装甲巡洋艦、ディフェンス、ブラック・プリンス、ウォーリア、デューク・オブ・エジンバラからなっていた。 装甲巡洋艦の9.2インチ砲とゲーベンの11インチ砲ではトラウブリッジ戦隊はアウトレンジ攻撃されるため、トラウブリッジは唯一のチャンスは夜明けにゲーベンが彼の部隊の東に位置している時だと考えた。8月7日午前4時、彼はそのような配置に位置することに失敗し有利な条件で攻撃をかけることが不可能となった。優勢な敵との交戦を避けろというチャーチルのあいまいな命令のため、トラウブリッジは退却した。
ミルンはグロスターに交戦しないよう命じた。ミルンは未だにスションが西へ向かうと考えていた。だが、グロスターの艦長にとってはゲーベンが逃走しているのは明らかであった。ブレスラウはグロスターへの攻撃を試みた。スションはギリシャ沖に石炭船を待機させており、合流するために追跡者を振り切る必要があったためである。グロスターはゲーベンを引き返させようとブレスラウに対し砲火を開いたが戦果はなく、最終的にミルンはマタパン岬で追跡を中止するようグロスターに命じた。
8月8日夜中過ぎ、ミルンは3隻の巡洋戦艦と軽巡洋艦ウェイマスを東に向かわせた。午後2時、海軍省からミルンに、イギリスがオーストリアと戦争になったという誤った情報が届いた。そして、ゲーベン捜索よりアドリア海の警備を選択した。8月9日、ミルンはゲーベンを追跡せよとの明白な命令を受けた。ミルンはこの時点でもスションがダーダネルスを目指しているとは考えておらず、エーゲ海出口の警備を決心した。
8月9日デヌーサ島沖でスションは石炭を補給。8月10日午後5時、彼はダーダネルスに到着、通過の許可を待った。国際信号旗で水先案内人を要求したのに対し、トルコの水雷艇はこれに応じたため彼らに先導されて二隻はダーダネルス海峡を通過した(この他、ゲーベンの通信を補助した客船「ゲネラル」、貨物船「ロドスト」なども通過している)。午後8時30分、近くにいたイギリスの副領事から、二隻がダーダネルスを通過したためダーダネルスを封鎖すべき、とイギリスへ打電されたが、ロンドンへは14時間、さらにミルンへは6時間かかってようやく届いたためもはや手遅れだった。翌11日夕方になってようやくウェイマスがダーダネルスに到着し、通過を要求したがトルコ側から拒絶された。
ドイツとトルコの間で交渉が行われ、8月16日、ゲーベンとブレスラウはコンスタンティノープルに到着した。
その後
1913年7月にオスマン帝国とイギリスは同盟を締結したが、複雑な国際関係により批准されなかった。7月危機が世界大戦に発展すると、ロシア帝国はイギリスで建造中のオスマン帝国むけ超弩級戦艦2隻が黒海で重大な脅威になることを怖れ、セルゲイ・サゾーノフ(ロシア外務大臣)がベンケンドルフ駐英大使を通じてイギリスに対応を要請していた(コンスタンティノープル協定)。直後の1914年8月2日、オスマン帝国とドイツ帝国間で土獨軍事同盟が結ばれる[3][注釈 4]。 秘密裏に同盟を締結したオスマン帝国政府に対し、イギリスは完成間近の超弩級戦艦を譲渡するよう要請したが断られ、2隻(レシャディエ、スルタン1世)を接収した[注釈 3][注釈 11]。これによりオスマン帝国内の反英感情が一挙に高まった[33]。 そこにドイツ帝国海軍のゲーベンとブレスラウが到着し、親独感情の高まりと共に親英勢力の発言権が低下する[5]。 ドイツ艦2隻の到着時、オスマン帝国は中立を宣言していたが武装解除も退去要請もせず[13]、両艦はオスマン政府に買い上げられることとなった[注釈 12]。 イギリスはこの措置に強く抗議し、種々の提案をして懐柔を試みる[注釈 13]。 接収したトルコ戦艦の代艦の提供を申し出たがオスマン帝国の姿勢は変わらず[16]、両艦(ゲーベン、ブレスラウ)はオスマン帝国海軍所属となった[33]。さらにオスマン帝国海軍に派遣されていた英海軍将校が追放される[33]。ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム (Yavuz Sultan Selim) [9]、ブレスラウはミディッリ (Midilli) と改名された[34]。乗員はそのままドイツ人であり、ドイツ地中海戦隊司令官のスション提督はオスマン帝国海軍の司令長官に任命され、1917年9月に帰国するまでトルコに留まった[注釈 14]。
一方、ミルン、トールブリッジとディフェンスの艦長フォーセット・レイ(Fawcett Wray)はイギリス国内で公然と非難され、有罪にこそならなかったものの以後閑職に回されて不遇をかこつ事となった。 なおイギリスにとっても、オスマン帝国が同盟国や中立国であるよりも、敵国として分割対象である方が都合が良かった[5]。イギリスの歴史学者マイケル・ハワードは著書で以下のような見解を示している。
イギリスはこの外交的敗北を嘆くことはなかった。そして、たしかに意図的にそれを自ら招いたのかもしれない。老大国オスマン帝国は従属的な同盟国よりもいけにえとしてイギリスにとってより有益であった。植民庁とインド政庁はイギリス帝国にとっての妥当な獲物としてオスマン帝国領小アジアを長いあいだ見ていた。当時、石炭から石油に動力源をシフトしはじめていたイギリス海軍は、ペルシア湾の奥にあるバスラの石油精製施設に注目していた。オスマン帝国が敵になったことで、イギリスは今やエジプトの変則的な占領状態を完全な保護国に変更することができた。ロンドンは自国の新しい同盟国であるロシアに対して、過去一〇〇年のあいだイギリスの安全保障の「砦」と見なされていたコンスタンチノープルの提供を約束する余裕すらあった。 — マイケル・ハワード『第一次世界大戦 The First World War』72-73ページ
1914年10月下旬、元ドイツ艦2隻(ヤウズ・スルタン・セリム、ミディッリ)は黒海襲撃を行い[注釈 13]、開戦の火蓋を切った[21]。11月初旬にはイギリスなど連合国もオスマン帝国に宣戦を布告し、中東戦域が形成された[16]。連合国は、ダーダネルス海峡を突破して制海権を握れば首都コンスタンティノープルが危うくなり、オスマン帝国は簡単に屈服すると考えていた[20]。ヨーロッパの病人と侮っていたのだが、その見通しはガリポリ攻防戦で打ち砕かれる[35]。チャーチル海軍大臣はダーダネルス海峡上陸を主張していたので[36]、作戦失敗の責任をとりフィッシャー第一海軍卿と共に辞任した[注釈 15]。
オスマン帝国海軍所属となった2隻は黒海でロシア帝国海軍やイギリス海軍を相手に戦った[9]。ミディッリは1918年1月20日、インブロス島攻撃の際にエーゲ海で触雷、沈没した[39](インブロス島沖海戦)。 オスマン帝国はムドロス休戦協定とセーヴル条約によって連合国に降伏して分割されたが、不平等条約に反発する国民軍の激しい抵抗運動が起きた。幾度かの戦争が起きたあと[注釈 16]、トルコ革命の末にオスマン帝国は滅亡した[40]。ローザンヌ条約が締結されて列強はアンカラ政府を承認し、ここにトルコ共和国が始まる[41]。イギリス海軍が接収した軍艦の代金を含め、賠償請求問題解決した[注釈 17]。 オスマン帝国海軍はトルコ海軍に再編された。ヤウズもトルコ海軍所属となり、竣工時とほとんど変わらない艦容を維持したまま第二次世界大戦終結後も在籍[9]、1971年に売却された[43]。
ゲーベンに乗船していたゲオルク・コップ(Georg Kopp)は戦後に回想録「孤独な二隻」を著し、英訳もされている。
脚注
注釈
- ^ 文献によってはドイツ地中海艦隊と表記する[9]。
- ^ 地中海及び黒海に於ける海戰[10] 開戰當初、獨逸地中海隊に属するゲーベン及びブレスラウの二艦は、ダーダネル海峡に遁入せしが、英佛兩國の抗議嚴しかりし爲め、土耳古政府は購入の名義を以て右の二艦を其の黒海艦隊の中に加へぬ。此の一事は、明かに土耳古が獨逸の同盟關係に在るを證せり。又墺匈國艦隊は、英佛艦隊の爲めに、アドリヤ海に封鎖せられ、英佛側は、墺匈國の領海たるダルマシヤ海岸諸島間の水道に機械水雷を布設せり。其の後千九百十五年五月下旬に至り、伊國の對墺開戰後、墺匈國艦隊は、アドリヤ海より伊國海岸に出動せしにぞ、伊國艦隊及び英艦二隻は之と交戰して敵の小艦三隻を撃沈せり、其の後墺匈國の潜水艦は、地中海に活動するの形勢ありて、シヽリー島附近に於て、十月六日、希臘の商船を撃沈し、又同月十七日には、佛國汽船一隻を撃沈せり、次ぎに黒海に於ける露國艦隊は、千九百十四年十一月十八日、セバストポール沖に於て、土國が先きに獨逸より購入せりと稱せる巡洋艦ゲーベン及びブレスラウと交戰し、ゲーベンは損傷を受け、火災を起して遁走せり。千九百十五年一月十八日、露艦側は土耳古の商船數隻を撃沈し、更に同廿四日には、飛行機十六臺を載せたる商船數隻を撃沈し、其後又ブルガリヤ沿岸を砲撃せり。されど、此方面に於ては遂に目覺ましき海戰を見ずして終れり。
- ^ a b トルコ戦艦レシャディエは、英戦艦エリン (HMS Erin) になった[14]。トルコ戦艦オスマン・スルタン1世は、英戦艦エジンコート (HMS Agincourt) になった[15]。
- ^ a b トルコは已に八月一日に於て、ドイツとの秘密の同盟條約を結び、ロシヤが戰爭に参加せば、相互の間に應援義務の發生すべきを定めたり。同日午後ロシヤが戰爭に加はるに至り、同盟條約の實施條件が備はるに至れり。オースストリヤも亦トルコとの同盟條約に加盟せり。該條約は嚴に秘密に付せられ、トルコの参戰の準備成るの日に至る迄、トルコは中立の維持を装ふべきことと爲せり。』聯合軍側に於て、八月一日のドイツ、トルコ間の秘密同盟條約の成立を確知し得ざりしより、トルコに對して種々の提議を爲し、之をして中立を維持せしめんと計れり。』ヨーロッパ大戰開始の頃、八月三日に於て、イギリス内閣は、國内の造船所に於てトルコ政府の爲めに製造中なりし二隻の軍艦の徴發を行ひ、トルコ政府の憤怒を招けり。ドイツ、イギリス間の開戰あるや、ドイツ軍艦ゲーベン號及びプレスラウ號の二隻がボスフォラス海峡に竄入し、トルコは是等のドイツ軍艦を購入せりと稱し、イギリス政府は、國際法違反の故を以て、之に關して抗議を提出せり。[16](以下略)
- ^ 獨逸土耳古を籠絡す[21](中略)故に今次大戰の開始と共に、土耳古に對する獨逸の勢力は一層加はり、地中海よりダーダネルスに遁入せる二隻の獨逸軍艦は却て土耳古の艦隊を指揮するに至り、土帝の大權はコンスタンチノープル駐箚の獨逸大使の手に移れり。されば、獨逸と土耳古の關係は、同盟に非ずして、直ちに属國關係に等しく、土耳古政府は一切獨帝の意を奉戴し、其の臣僚大官らは、人民の膏血を絞りて一身の富を計れり。事情此の如くなれば、今次大戰に際し、英佛露の聯合軍側にては、努めて寛大の處置を爲し、以て土耳古を局外中立の地位に置かんとせしも、何の效もなく、土耳古は、獨逸の形勢不利に陥れる時、突然起つて之に應援する事となれり。即ち其初め、中立を装へる土耳古が、墺匈軍ガリシヤに大敗し、獨墺軍亦波蘭に敗軍せる際、急に起つて獨逸に加勢せる事情より見て、其の獨逸に臣從せるの事實を知るべきなり。
土耳古が獨墺側に立ちて大戰参加を宣言せるは、開戰後三ヶ月を經過せる十月二十九日なりき。思ふに、土耳古人は、逐年異教徒として白人聯合の排斥を蒙り、歐洲に於ては、僅かに南端關門の一面に足を留むるの窮境に在り。故に獨逸の強力に依賴するに非ざれば、其の存在を保つ事難く、財政亦窮乏せり。依つて今次大戰勃發と共に、獨逸より多額の金錢を受けて其身方となり、千九百十四年十月二十九日、其の軍艦を以てクリミヤ半島を砲撃し、又アゾフ海口及びコーカサス沿岸に於て、露国の商船を撃沈し、之を以て聯合側に對する宣戰の表示となせり。此に於て、コンスタンチノープル駐箚の露國大使は、十月三十一日國旗を捲いて使館を退去し、翌十一月一日、英佛兩國の大使も共に使館を撤して歸國の途に就き、茲に國交斷絶せるなりき。 - ^ イギリスは3C政策を掲げ、三国協商(英露協商、露仏同盟、英仏協商)を締結していた[27]。オスマン帝国はイギリスやフランスと対ロシア同盟を結ぼうとしたが、拒否された[28]。
- ^ イギリスはオスマン帝国領だったエジプトを事実上植民地化していた[29]。
- ^ イギリス海軍からギャンブル提督(1909年2月~1910年3月)、ウィリアムズ提督(1910年4月~1912年4月)、リムパス提督(1912年5月~1914年9月)が派遣され、オスマン帝国艦隊総司令官に任命されていた。
- ^ ○希土兩國ノ軍備現況(大正三年六月十九日附報告)[30](中略) 二、土國海軍 土國海軍ノ製艦計畫ハ希國ノ計畫程ニ大規模ナラサルモ大艦ヲ多ク含ムニ於テ之ニ優レルモノアリ即チ先ツ最大級「ドレットノート」型戰闘艦三隻ヲ算シ内一隻Reshadieh號ハ客年九月進水シテ目下武装中ニ属シ第二ハ即チ伯剌西爾政府ノタメニ英國ニ於テ建造シタル前記「リオ・デジャネロ」號ニシテ客年十二月末ヲ以テ購入目下武装中ニシテ第一ト共ニ本年中ニ竣功スヘシ亦第三ハ近ク英國Vickers會社ニ注文セラルヘシ
更ニ製艦計畫ハ輕巡洋艦二隻及水雷驅逐艦十八隻ヲ含ミ内驅逐艦十二隻ヲ佛國Normand會社ニ注文シタル外他ハ何レモ英國Armstrong-Vickers「シンジケート」ニ建造契約ヲナセリ現在海軍力ハ戰闘艦五隻 甲装巡洋艦二隻 水雷砲艦二隻 水雷驅逐艦八隻 水雷艇八隻ニシテ詳細ヲ表示スルコト次ノ如シ(以下略) - ^ ブレスラウには、のちに第二次世界大戦でドイツ海軍 (Kriegsmarine) を率いたカール・デーニッツが中尉として配属されていた[6]。
- ^ ○英土國交斷絶顚末ニ關スル英國政府白書摘要(大正三年十一月二十一日附報告)[33] 獨佛露ノ開戰ト共ニ英國政府ハ八月三日駐土代理大使ヲシテ土國カ「アームストロンク」會社ニ注文中ナル「オスマン」一世ヲ英國政府ニ引取ルヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レシメタルニ土國總理大臣ハ土國カ戰爭ニ加ハラサルニ英國政府カ此ノ如キ行動ニ出タルハ友好的ナラストテ不滿ノ意ヲ表シ且ツ今次ノ戰亂ニ際シ土國ハ嚴正中立ヲ守ルヘク動員實行ノコトニ決定シタルトモ右ハ其完成ニ數箇月ノ時日ヲ要シ将來萬一ノ場合ニ備フルノ必要已ヲ得サルニ出タルモノナルコト並ニ獨逸軍事顧問ノ在任ハ何等政治上ノ意味ナキモノナルコトヲ明言セリ 英國政府ハ土國軍艦ノ引取ニ對シテハ不本意トスル所ナルモ右ハ此際ノ危機ニ際シ英國ニ在ル使用シ得ヘキ軍艦ヲ保有スルノ必要ニ迫ラレタルニ因ルモノニシテ土國カ受クル金錢上其他一切ノ損害ニ對シテハ英政府ニ於テ十分ノ考量ヲ加フヘキ旨ヲ土國政府ニ申入レタルカ土國人民ノ敵愾心ハ本件ノ爲メ頗ル熾盛トナレリ(以下略)
- ^ (中略)[33] 八月十一日獨國軍艦「ゲーベン」「ブレスラウ」ガ「ダーダネルス」ニ入ルヤ英國政府ハ直ニ土國政府ニ對シ獨國軍艦ヲシテ海峡ヲ通過セシメサルヘキコト、二十四時間内ニ立去ルカ然ラサレハ武装ヲ解除セシムヘキコトヲ申入ルヘキ旨ヲ駐土代理大使ニ訓令シタルニ之ト行違ニ土國政府ハ英國政府ニ對シ前記二艦ヲ買入タルコト其乗組員ハ總テ獨逸本國ニ歸還セシムヘキコト並ニ右二艦ノ購買ハ英國注文中ノ軍艦ニ代ハルモノニシテ多島海問題ニ關シ希臘ト折衝上互角ノ地歩ヲ占ムルノ必要ニ出テ敢テ露國ニ對抗スルノ考ニ出テタルニ非ル旨ヲ申入レタリ 而シテ土國海軍大臣ハ英國海軍顧問「アドミラル、リムパス」ニ右二艦ノ艤装方ヲ依頼シ且之ヲ同提督ノ麾下ニ置クヘキ旨ヲ約束シタルニ拘ラス數日ヲ出テスシテ同提督以下英國海軍将校ノ轉職ヲ命シ土國将校ヲ以シ之ニ代ヘ之レカ説明トシテ八月十六日總理大臣ハ英國代理大使ニ對シ土國ハ中立ヲ嚴守スヘク且「ゲーベン」「ブレスラウ」ハ土國将校ニ於テ之カ操縦ニ不便ヲ感スルヨリ若干獨逸将校ヲ乗組マシメ置クノ必要アリ英國提督ノ下ニ土獨兩國ノ将校ヲ置クハ不便ナルヲ以テ餘儀ナク提督以下ノ轉職ヲ見ルニ至リタル次第ナリト辯解セリ(以下略)
- ^ a b 是等の事件ありたるに拘はらず、聯合諸國はトルコ政府に對して種々の提議を爲せり。聯合諸國は先づ、トルコにして中立を維持し、エジプトが平穏なるときは、エジプトの政治上の地位を變更せざるべきをトルコ政府に説き、次に、若しトルコが中立を嚴守せば、協商側の諸國が總ての攻撃に對してトルコの獨立及び領土保全を指示すべきを説けり。トルコ海軍大臣が領事裁判制度の即時の撤廢を求むるや、イギリス外務大臣は、フランス及びロシヤの承諾することを條件として、現代の状態に適する制度がトルコに行はるるに至る際、イギリスが領事裁判制度に關する其権利を抛棄すべきを約せり。イギリス王も親書をトルコ帝に贈り、曩にイギリスに於てトルコの爲に製造中なりし二隻の軍艦を、止むを得ずして徴發せることにつき、遺憾の情を表し、戰爭終らば之を囘復すべきを約せり。 トルコ帝及びトルコ宰相は、外觀上、聯合諸國に對して慇懃の禮節を失はざりしも、トルコのの態度は已に決し、陸軍大臣エンヴェル「パシャ」は戰備を整ふるの件に當り、トルコ軍隊の動員が行はれたり。八月二十六日ドイツ海軍軍人が陸路トルコの首都に着せり。トルコの戰備成るや、十月二十八日、ゲーベン號の艦長は、ドイツ船及びトルコ船を率ゐて黒海に入り、セバストポル近海に水雷を浮流せしめ、オデッサ及び其他二港に砲撃を加へたり。是に於てロシヤは十月三十一日トルコに對して宣戰し、十一月三日イギリス及びフランスもトルコに對して宣戰するに至れり。ドイツ帝はトルコ帝をして、普く囘々教徒に激して、神聖戰爭を宣言せしめ、以てインド、エジプトに於てイギリスを苦め、アルゼリヤ、チェニス、モロッコに於てフランスを苦めんと欲せり。然れども囘々教徒は、ドイツ帝の豫期の如く、トルコ帝の檄に應じて起つに至らざりしなり。[16](以下略)
- ^ 後任の地中海戦隊司令官はパシュウィツ提督であった。
- ^ イギリスの思惑は軌道修正され、サイクス・ピコ協定[37]、メソポタミア委任、パレスチナ委任(バルフォア宣言、イギリス委任統治領パレスチナ)などで具体化した。この外交によりもたらされた混乱は、現在も続いている[38]。
- ^ アルメニア・トルコ戦争、フランス・トルコ戦争、ギリシャ・トルコ戦争など。
- ^ 對土協約議定書の調印[42](中略)次ぎに、賠償問題に就いては、土耳古が獨墺兩國の中央銀行に寄託せる五百萬土耳古磅の金貨と、土耳古が英國に注文せる軍艦手附金五百英磅の金貨とを聯合國に提供し、之にて土國と聯合國間の一切の損害を相殺する事に一旦協定せるを、其の後、英國は、内政上の理由により、右の手附金を聯合國間に分配しがたき事となりし爲め、其の代りとして、軍艦購入資金として英國にて募集せる土耳古の國際證券九十三萬土耳古磅に相當する額の提供を申出て、依つて、更に聯合國間の意見纏まり次第、賠償分配協約が聯合國間に調印せらるべき決せり。其他經濟篇、交通篇等も、別段の難問題なく解決せられたり。(以下略)
出典
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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- 薄田斬雲編述; 坪内逍遥、煙山専太郎監修「第二十章 獨逸のバルカン對策」『通俗的世界全史 第16巻 二十世紀史(上巻)』早稲田大学出版部、1933年3月 。
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- 立作太郎博士論行委員会「第二章 世界大戰中に於ける外交關係事實」『立博士外交史論文集』日本評論社、1946年4月 。
関連項目
外部リンク
- ゲーベンが開きし門 - ウェイバックマシン(2007年8月18日アーカイブ分) - コップの「孤独な二隻」を基にした解説ページ
- SUPERIOR FORCE : The Conspiracy Behind the Escape of Goeben and Breslau