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2021年9月18日 (土) 07:18時点における版

清輝
横須賀での清輝(推定1878年1月)[1]
横須賀での清輝(推定1878年1月)[1]
基本情報
建造所 横須賀造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 砲艦[3]、またはスループ[4]
艦歴
発注 1873年2月10日[5]
起工 1873年11月20日[6]
進水 1875年3月5日[2][7]
竣工 1876年6月21日[2]、または6月20日[8]
最期 1888年12月7日触礁破壊[6]
要目
排水量 897英トン[4]
または898英トン[9]
トン数 489トン[9]
長さ 21186[9](64.200m)
垂線間長 61.150m[4]
30尺756[9](9.320m)
または9.300m[4]
深さ 16尺93[9](5.130m)
吃水 13尺365[9](4.050m[4])
ボイラー 片面戻火(または円缶[2]) 2基[3]
主機 横置2段3気筒還働式レシプロ 1基[3]
推進 青銅製4翼[10] スクリュー・プロペラ[9]
直径:14 ft 10 in (4.521 m)[10]
ピッチ:11 ft 2 in (3.404 m)[10]
出力 720実馬力(180名馬力)[9]
または700実馬力[3]
帆装 3バーク[9]
速力 9.6ノット[3][11]
燃料 炭団:218,400[9](約168.4英トン)
航続距離 燃料消費:31,900斤/日[9]
または28,000斤(21.6英トン)/日[2]
乗員 士官21名 兵員119名 雇人19名 合計159名[11]
1875年:136名[9]
1876年6月時定員:236名[12]
兵装 15cmクルップ砲 1門[2]
12cmクルップ砲 4門[2]
16斤アームストロング砲 1門[2]
短4斤山砲 2門[2]
搭載艇 最終時:5隻[13]
その他 船材:[9]
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清輝(せいき)は、日本海軍軍艦[6]清輝は「輝く清い光」の意味で[14]易経に「輝光日新其徳」とあるという[6]

概要

明治維新後の初めての国産軍艦として横須賀造船所で建造された[14]。 (それまでの建造艦船は何れも運送船や御召船などになる[14])。 設計はフランス人技術者レオンス・ヴェルニー、建造は日本人の職工であった[11]。 また日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征したことでも特筆すべき艦である[14]

1888年に触礁により破壊された[15]

艦型

3バーク[9]砲艦[3]、 またはスループ[4] になる。

機関

日本で製造された機関の中で初めて2段膨張式機械を備えた[3]。 ボイラーは片面戻火(または円缶[2])2基を備えた[3]。 蒸気圧力は45ポンド/平方インチ[16] 。 また触面復水器が設置された[2]

1876年11月29日の試運転届出によると、回転数60rpmで速力8ノット、75rpmで11.2ノットを記録した[2]

1886年頃、新しいボイラーに換装した[3]

要目

船体主要寸法については、文献によって色々な単位で数値が残されている。 右表の寸法は主に『海軍省報告書』の値となる[9]。 他の文献の値も以下に示す。

出典 海軍省報告書[9] 大日本軍艦帖(1894)[4] 帝国海軍機関史(経歴)[17] 帝国海軍機関史(沿革)[18]
長さ 21186(64.200m) 61.150m 60.07m(36間5尺)* 垂線間長:200 ft 7+12 in (61.151 m)
30尺756(9.320m) 9.300m 9.032m(5間7寸)* 30 ft 6 in (9.296 m)
深さ 16尺93(5.130m)
吃水 13尺365(4.050m) 4.050m
排水量 898トン 897噸 897噸
  • 括弧内はmに変換した値。ただし*の値は記載のママを転載。

艦歴

建造

当初は2,600トンの大型艦を予定していたが、資材不足のため計画を改めた[14]。 最終的に本艦(897トン)と天城(926トン)が製造されたと言われる[14]1873年(明治6年) 2月10日、ヴェルニーに対し排水量800英トン、出力180馬力、大砲5門の艦の設計を命じた[5]。 11月20日、横須賀造船所にて起工[6]。 12月4日、新造の180馬力艦は清輝と命名された[19]1875年(明治8年) 3月5日、明治天皇が臨幸の元、清輝は進水した[7]

10月15日付で井上良馨少佐を艦長に任命した[20]。 10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官は中牟田倉之助少将、西部指揮官は伊東祐麿少将が任命され[21]、 10月31日、清輝は東部指揮官所轄(予定[20])となった[21]

1876年(明治9年)6月21日に清輝は竣工した[2]

1876年

1876年(明治9年) この年奥羽巡幸が行われ、清輝(竣工前)は5月25日に横浜港を出港、青森港に回航していた[22]。 6月6日、春日と清輝、高雄丸が奥羽巡幸の護衛として青森を出港した[22]。 6月27日、清輝は常備艦とされた[22]

8月1日入渠し、ボイラーなどを修理した[2]。 10月30日再入渠[23]、 スクリュー翼の折損を修理した[24]。 11月6日出渠し[25]、 11月29日に試運転の結果が報告されている[26]

1877年

1877年(明治10年) 1月12日スクリュー翼1枚を失ったため、横須賀で修理したいと申し出があり[26]、 1月16日横須賀港に入港[27]、 同日入渠した[28]。 1月19日出渠し横浜に回航した[29]

大和行幸

1月、明治天皇の大和行幸の際、供奉艦として同行した[14]。 1月24日午前11時、清輝横浜港を出港[30]、 1月27日午前7時55分、神戸港に到着した[30]

西南戦争

鹿児島の情勢不安(後に西南戦争)のため[14]、 2月13日午後10時、春日と清輝は神戸港を出港、鹿児島に向かった[31]。 3月26日、長崎で機関部の修理の届出があった[26]。 修理は4月4日完了した[26]。 9月1日下関で機関が故障し、同地に午後8時投錨、翌2日に博多港に寄港した[26]。 5日長崎港に回航し、修理と決定した[26]清輝は10月10日午前1時30分に横浜港に帰港した[32][33][34]

修理

10月29日横浜港から横須賀港に回航し[35]、 横須賀で修理を行った[36]。 この当時は各港に常備艦を置き、そのために損傷からの修理が多くなって現用の艦が春日1隻になってしまった[37]。 そのため清輝の修理が急がれ[36]、 12月26日に出渠した[38]

1878-1879年

ヨーロッパ遠征

1878年(明治11年)から翌年 ヨーロッパ遠征を行った[11][39]。 1877年12月14日、欧州回航が命ぜられ[26]、 翌1878年1月12日横浜港に回航し[40]、 1月17日午後2時45分、横浜港を出港した[41][42]。 同日は金田湾に碇泊、翌18日は下田港に停泊、翌19日出港、1月23日長崎港に到着した[40]。 1月26日長崎を出港したが一旦引き返し、1月29日改めて出港した[40]。 2月3日香港着、10日発[40]。 2月17日シンガポール着、21日発[40]。 3月1日コロンボ着、5日発[40]。 3月18日アデン着、21日発[40]。 3月29日スエズ着、翌30日発[40]。 同3月30日イスメリヤ着、翌31日発[40]。 同7月31日ポートサイドに入港、5日間碇泊した[40]。 4月11日マルタ島バレッタに回航、 4月13日からマルタ港の造船所で入渠し、修理を行った[41]。 5月4日同地発、以後は各港に数日間碇泊した[40]。 同日シチリア島シラキュース[40]。 5月7日同島メッシーナ[40]。 5月10日イタリアナポリ[40]。 5月18日同国ラ・スペツィア[40]。 5月20日同国ジェノバ[40]。 5月24日フランスツーロン[40]。 5月29日同国マルセイユ[40]。 6月5日スペインバルセロナ[40]。 6月9日同国カルタヘナ[40]。 6月12日イギリスジブラルタル[40]。 6月15日ポルトガルリスボン[40]。 6月20日スペイン・フェロル[40]。 6月26日イギリス・プリマス着、7日碇泊[40]。 7月4日同国ポートランド[40]。 7月6日同国ポーツマス着、11日碇泊[40]。 7月18日同国グリーンハイス(Greenhithe)着、11日碇泊[40]。 なお『海軍省報告書』によると5月25日、清輝乗組の川村正介少尉はイギリスで退艦し、3年間の自費留学を行った[43]。 7月31日(または7月30日[41])フランス・セルブル(セルフール[41])着、15日碇泊[40]。 8月21日イギリス領ジブラルタル着[40]。 8月26日フランス・ツーロン着[40]、 9月29日より同地で修理を行った[41]。 10月3日イタリア・ジェノバ着[40]。 10月8日同国ナポリ着[40]。 10月14日シチリア島パレルモ[40]。 10月18日同島メッシーナ着[40]。 10月20日マルタ島バレッタ着[40]、 10月23日よりスクリュー翼1枚の交換などの修理を行った[41]。 11月3日トルコ・ベシカベー着[40]。 11月4日同国チャナク[40]。 11月6日同国ガリボリ[40]。 11月7日同国アルタッキ[40]。 11月9日同国コンスタンティノープル着、11日碇泊した[40]。 以後帰国の途につき、チャナク、ポートサイド、グレートビター湖、スエズを経由し12月8日アデン着[40]。 12月26日ボンベイ着[40]

1879年(明治12年) 1月6日より同地で上甲板の修理を行った[41]。 1月11日ボンベイ発、17日コロンボ着[44]。 1月21日コロンボ発、ポイントデガールに回航、23日同地発、31日ベナンに到着した[44]。 2月4日ベナン発、2月6日シンガポール着[44]。 2月23日シンガポール発、3月2日マニラ着[44]。 3月6日マニラ発、9日ランマ島西湾着、翌10日香港に入港した[44]。 3月16日香港発、霧のために香港口テートー島で漂泊、翌17日出港したが北東風の為に18日チノベーに避泊、19日同地発、20日厦門外港に到着、21日厦門に入港した[44]。 3月25日厦門発[44]、 3月29日長崎港に帰国した[41][44]。 4月4日長崎発、大辺浦、神戸、鳥羽に寄港し[44]、 4月18日横浜に帰港した[41][44]。 4月23日品川に帰着した[44]

1879年(明治12年) 5月19日品川から横須賀に回航した[44]。 6月21日横浜に回航、23日に艦隊訓練を行い、横須賀に戻った[44]。 8月26日品海に回航した[44]。 9月18日横須賀に回航した[44]

修理

9月10日(または9月12日[45])清輝は修復艦と定められ[41]、 9月22日より横須賀造船所で修理開始[46][47]、 30日にボイラーを陸揚げした[18]1881年(明治14年)7月7日に修理は完了した[48]

1881年-1882年

朝鮮派遣

1881年(明治14年) 7月1日に造船所所轄修復艦の清輝は東海鎮守府常備艦とされた[49]。 7月28日清輝は横須賀港を出港し、30日兵庫港に入港した[50]。 8月6日兵庫港を出港、翌7日に釜山港に到着した[50]。 以後仁川、豊島と寄港し、9月1日豊島を出港、3日に厳原に到着した[50]。 9月7日、9日と厳原発、同地着を繰り返し、9月12日竹敷に回航した[50]。 9月14日同地発、釜山に入港した[50]。 10月1日同地を出港したが一旦引き返し、翌2日改めて出港し長崎に回航した[50]長崎工作分局で10月9日から10月15日まで修理を行い[48]、 10月24日長崎出港、27日元山津に入港した[50]。 11月20日松田湾、22日内湖湾、25日元山津と回航し、12月1日同地を出港し、3日釜山港に入港した[50]。 12月18日統営、21日絶景島西岸、22日釜山ヘ回航した[50]。 12月24日同港を出港、翌25日に長崎港へ入港した[50]

1882年(明治15年) 1月27日長崎を出港し、翌28日釜山着[50]。 2月22日同港を出港、翌23日に巨文島へ到着した[50]。 2月24日同地発、25日豊島着、26日仁川へ回航した[50]。 3月14日仁川を出港し、16日釜山着[50]。 釜山沖で射撃訓練を行った[50]。 3月24日釜山発、翌25日に長崎港に入港した[50]。 長崎工作分局で4月6日から4月10日まで修理を行い[48]、 4月14日長崎発、彦島、門司、伊予ヲベハトに寄港し、4月27日兵庫港に入港した[50]。 4月29日兵庫発、5月1日午前に横浜港に帰港した[50]

横須賀造船所1882年(明治15年)5月17日から6月9日まで修理を行った[48]

朝鮮派遣

清輝は8月9日横須賀港を出港、10日神戸港に入港した[51]。 8月11日神戸港を出港、12日門司浦に入港[51] 8月14日門司浦発、8月16日仁川港に入港した[51]。 8月22日豊浦、牙山浦、南陽と回航し、仁川港に戻った[51]。 8月31日仁川港から南陽に回航[51]、 9月2日豊浦を経由し、仁川港に戻った[51]。 9月10日豊浦に回航、11日同地発、12日芝罘着[51]。 13日同地発、14日仁川港に戻った[51]。 9月19日仁川港発、門司浦に帰国した[51]。 9月26日門司浦発、9月27日兵庫港着[51] 10月3日兵庫発、10月5日品海に帰着した[51]

修理

清輝は11月17日から横須賀造船所で修理を開始[52]1883年(明治16年)5月21日まで修理を行った[53]。 7月2日に試運転の成績が報告された[54]

1883年

朝鮮派遣

1883年(明治16年) 4月19日、機関学校生徒1名が実地演習のために清輝に乗組[55]、 生徒は12月に退艦した[55]。 7月6日清輝は品川を出港して館山湾に回航、同地で大砲射撃を行った[56]。 翌7日に浦賀に入港、同日同地発、鳥羽港兵庫港厳島湾、門司浦を経由し、8月24日仁川湾に到着した[56]。 9月19日仁川湾発、長崎港、平戸河内湾に回航し、10月16日仁川湾に戻った[56]。 11月16日仁川湾発、長崎に回航し、12月14日釜山浦に到着した[56]。 12月20日仁川を目指して出港したが暴風の為に前に進めず、24日伊万里に到着した[56]。 28日に伊万里から長崎に回航した[56]

最後

1888年(明治21年)12月7日午前2時頃、駿河湾にて触礁[15]。 12月10日午後2時頃、船体が破壊された[15]

艦長

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 井上良馨 少佐:1875年10月15日[21] - 12月15日
  • 井上良馨 少佐:1876年3月22日[57] - 1879年8月19日
  • 磯辺包義 少佐:1880年6月17日 - 1882年8月3日
  • 磯辺包義 中佐:1882年8月6日 - 1883年3月2日
  • 隈崎守約 中佐:不詳 - 1884年6月16日
  • 伊地知弘一 少佐:1884年6月16日 - 1885年6月22日
  • 野村貞 少佐:1885年6月22日 - 1886年4月12日
  • 松岡方祇 少佐:1886年4月12日 - 8月4日
  • 河原要一 少佐:1886年12月28日 - 1887年10月27日
  • 田尻唯一 少佐:1887年10月27日[58] -

脚注

出典

  1. ^ #日本海軍全艦艇史(1994)上巻p.490,No.1241
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n #帝国海軍機関史(1975)上巻p.482
  3. ^ a b c d e f g h i #帝国海軍機関史(1975)上巻p.486
  4. ^ a b c d e f g #大日本帝国軍艦帖(1894)p.17、清輝
  5. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第1巻p.227
  6. ^ a b c d e #艦船名考(1928)pp.39-40、清輝 せいき Seiki.
  7. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像62-63、明治8年3月。
  8. ^ #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.60
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #M1-M9海軍省報告書画像74-75、明治八年艦船総数表
  10. ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)上巻p.491
  11. ^ a b c d 大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』芙蓉書房出版、2019年。ISBN 978-4-8295-0753-7
  12. ^ #M1-M9海軍省報告書画像108-109、艦船表(明治9年6月30日現在)
  13. ^ #M22公文備考3/衝突触礁(3)画像30
  14. ^ a b c d e f g h #銘銘伝(2014)pp.197-198、清輝
  15. ^ a b c 『官報』第1640号、明治21年12月15日。
  16. ^ #帝国海軍機関史(1975)別冊No.4、主機械罐制式発達一覧表
  17. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻p.481
  18. ^ a b #帝国海軍機関史(1975)上巻p.485
  19. ^ #M1-M9海軍省報告書画像45-47、明治6年12月。
  20. ^ a b #横須賀海軍船廠史(1973)第2巻p.28
  21. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
  22. ^ a b c #M1-M9海軍省報告書画像81-82、明治9年6月。
  23. ^ #M9公文類纂12/清輝入渠画像1
  24. ^ #M9公文類纂12/清輝入渠画像5
  25. ^ #M9公文類纂12/清輝入渠画像3
  26. ^ a b c d e f g #帝国海軍機関史(1975)上巻p.483
  27. ^ #M10公文類纂前編12/清輝横須賀入湾画像1
  28. ^ #M10公文類纂前編12/清輝横須賀入湾画像7
  29. ^ #M10公文類纂前編12/清輝横須賀入湾画像9
  30. ^ a b #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像17-20、明治10年1月
  31. ^ #M10公文類纂前11/清輝春日神戸発鹿児島画像1
  32. ^ #M10公文類纂後編14/清輝帰港画像1
  33. ^ #M10公文類纂後編14/春日清輝鳳翔横浜帰港画像1
  34. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像11-14、明治10年10月沿革
  35. ^ #M10公文類纂後編16/清輝横須賀回航画像3
  36. ^ a b #M10公文類纂後編16/清輝至急修復画像3
  37. ^ #M10公文類纂後編16/清輝至急修復画像1
  38. ^ #M10公文類纂後編16/清輝出渠肇敏入渠画像1
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参考文献

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    • 国立公文書館
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    • 「往入3534 清輝艦出渠肇敏丸入渠の件 横須賀造船所届」『公文類纂 明治10年 後編 巻16 本省公文 艦船部』、Ref.C09112534500。 
    • 「往入2673 清輝艦帰港の件 東海鎮守府届」『公文類纂 明治10年 後編 巻14 本省公文 艦船部』、Ref.C09112499100。 
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    • 「往出1557 春日并右2艦横浜帰港の件 太政官へ御届」『公文類纂 明治10年 後編 巻14 本省公文 艦船部』、Ref.C09112499400。 
    • 「衝突触礁(3)」『明治22年 公文備考 演習 艦船 水路 巻3』、Ref.C06090881500。 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』芙蓉書房出版、2019年。ISBN 978-4-8295-0753-7
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 大日本帝国軍艦帖』共益商社書店、1894年。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 横須賀海軍工廠/編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。 
  • 官報

関連項目